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もともと2万年の間に噴火は4回と少なくこの火山に対する傾向や情報が少なかったようですが、近年(1979年)の爆発以降は小規模な噴気活動が続いていて監視、観測の対象になっていたそうです。
(計器もいろいろ設置されていたらしい。)
しかも、最近は火山性地震の予兆はかなりあったようで今月11日には80回もの地震が観測されていたとか・・。それなのに警告程度で入山規制は出されていなかった![]()
1日に80回の地震なんて尋常ではない。「ちょっとヤバくね?」と気付きそうなものだが、登山者も気象庁も何を優先したのか?
結果、噴火の時に信じられない数の登山者が火口に近い尾根で逃げ惑う・・なんて驚きの事態になったようです。
みなさん無事に下山できる事を願っています。
さて、そろそろウイーンに行きたい所ですが、ミラノで紹介しておかなければならない教会がもう1つありました。ミラノの教会3部作の 最後はミラノ最古の教会です。
逆に言えばキリスト教が公認されて初に建てられた教会
・・と言う訳なのですが、それ故? 今まで紹介してきたカテドラルとは全く異質の装飾に驚いた
のです。
サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)
アトリウム(atrium)
エトルリア(Etruria)
遡る事ローマ時代。まだキリスト教徒が迫害されていた時代、そこには宮殿があり、異教の神殿の遺構があった場所と言われています。(初期の教会は異教の礼拝所が転用される事が多かったようです。)
紀元313年コンスタンティヌス帝によ信教の自由が認めらると(ミラノ勅令)、そこにミラノの最初の教会が建設されました。
創設は379年。現在の建物は11~12世紀に再建されたロマネスク様式。
建設された時は街外れだったと言うが今はミラノ中心からほど近い。
教会前庭には回廊式のアトリウムが付属している。
ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)
学校で習ったのは ディオクレティアヌス帝のキリスト教徒大迫害(紀元303年)の後 、紀元313年に
西のコンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令した「信仰の自由を保障する」と言う勅令(ちょくれい)です
。
しかし、実際に二人は確かにミラノで会談した経緯はあるものの、ここで共同声明を出したわけではなさそうなのです。
だからこれは勅令ではない・・と言うのが最近の見解だそうです。
因みに ミラノ勅令は全ての信仰を認める・・と言う内容で、キリスト教に限ったものではありませんでした。
キリスト教がローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代
ですが、いつを持って・・と年代を出すのが難しい。
一応381年にコンスタンティノポリスで開かれた第2回キリスト教公会議の主催者がローマ皇帝テオドシウス1世だったので、その頃から・・としておきます。
この教会はミラノの守護聖人サンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)を祀った教会堂(バシリカ)です
。
そもそも、この聖堂は司教アンブロージョ (Ambrogio)(340年? ~397年) が創設した教会でしたが、彼が亡くなった後に聖人認定され聖アンブロージョ(サンタンブロージョ・Sant'Ambrogio)と呼ばれるようになりました。
当初は彼の兄弟(Satirus)が亡くなり、その墓を考えた時に殉教者の遺物と共に小さな礼拝所をもうけたものを造ったのが始まりだったようです。
因みに、ガイドブックによればこの土地はマッシミーノ(Massimino)皇帝の宮殿の一部だったようで コンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談が行われた場所がまさにこの場所。
しかも10世紀にもまだ皇帝の宮殿が残っていて中世、神聖ローマ皇帝が戴冠に訪れた由緒ある教会でもあるそうです。
教会堂の前に中庭がある光景は私は初めてでした。
現在の教会堂は8世紀と11~12世紀の改築の姿が濃く出ているようです。ロンバルディア・ロマネスク様式の模範例だそうです。
アトリウム(atrium)
この バシリカ前の回廊(アトリウム)は初期キリスト教の教会にみられた構造
で、現在現存しているのは僅かのようです。
そもそもは洗礼志願者の為の空間であった とされていて、ここは9世紀に拡張されているそうです
。
ミラノ勅令後にできた初期の教会は、もともと秘密だった個人宅の集会所やカタコンベに礼拝堂が建てられできたものもあるそうです
。

右が3つあるうちの中央の入り口。
中央には羊が彫り込まれているのだが、そのまわりの装飾はちょっと独特。。
隣の入り口の柄にいたっては、キリスト教とは思えない絵柄(グリフォンとヒョウ?)です。
中央入り口の柱にはなぜか牛の彫り物が・・。ミトラ教の装飾か?
すでにあった異教のパーツなども建築資材に混ぜられたのか?
それとも石細工師が持っている技がこれだったのか?
中央祭壇左にある石の箱物に注目
ちょっと変わった説教壇とスティリコの石棺
ロマネスク・ビザンチン様式で12世紀の作品らしいが、実は1196年に天井が崩れ崩壊したのを以前のように復元したもの。裏側に彫りのない部分が・・。
下のはなぜか 石棺で389年~390年頃のもの
であるが、これも当初からここにあったものらしい。
後年テオドシウス1世のお気に入りの軍人で義理の息子となったフラウィウス・スティリコ (Flavius Stilicho)(365年~408年)の名が付けられて呼ばれるようになった。
実際誰が入っていたかは解らないらしいが、絵柄に夫婦のレリーフがあるのでどこかの貴族夫婦の石棺だったかも・
・。
スティリコの石棺(sarcophagus of Stilicone)
説教壇もスティリコの石棺も、その彫刻が面白いのだ。
写真正面の柱にはトラ? ライオン? キメラ? らしき獣が威嚇している。デザインはヘレニズム的。
一応装飾はキリスト教のモチーフがメインになっているようだが、ここも異教のテイストである。
使徒の集会とおぼしきローマの衣装を着た集団。中央の聖人らしき人はヘビを握りしめている。
この教会には他にもヘビのオブジェが乗った柱があるのだがヘビはキリスト教でこそ原罪のシンボルとして嫌われているが、ローマでは薬草を発見してくれる貴重な動物でもあり、幸福のシンボルとしてとしても扱われてきたそうだ。
融合美術? キリスト教が国教化された初期の頃は従来のいろいろな信仰のすり合わせがあって、異教の信仰がミツクスされていたのかもしれない
。
それにしてもどこかで見たような・・と、 気が付いたのは、このデザインのテイストの元はエトルリア美術ではないか? と言う事だ
。
エトルリア(Etruria)
エトルリア(Etruria)は BC8世紀~BC3世紀頃に現在のイタリア中北部にあった都市国家であるが、非常に高い文明を誇った伝説の王国
であり、ローマの開祖にもエトルリア人が入っている。
エトルリア自体はローマに吸収されて消えてしまった。
ルーブルやサンカントネールの美術館にまとまったエトルリアの美術品がある。ギリシャともオリエントとも違う独特なスタイルがあり、しかもその1つ1つのクオリティーが高いのが目にと留まる。
このあたりの装飾はバビロニア風な気もするけど明らかにエトルリア系の融合ですね![]()
ちょっと彫りはゆるいけど・・。
次回主祭壇 とサンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)聖櫃です。
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
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