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それにしても今年の春は雨が多くて、せっかくの桜の季節が台無しでした。
大阪造幣局の桜並木は、桜の木に名前や品種の札がついていて、全部撮ったら桜の花の図鑑になりそうなほど品種がありましたが、灰色の空の下の桜では絵にならない。
今年の写真では載せられませんでした o(*≧O≦)ゝ < ザンネ-ンッ!!
そんなわけであれこれ迷走した結果ザルツブルグに 戻ってきました。 おまたせいたしました m(_ _ )m
ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)
ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)
大司教の結婚
大司教ヴォルフ・ディートリヒの失脚と宮殿の改名
バロックの巨匠の宮殿と庭園
ホーエンザルツブルグ城からのミラベル宮殿と庭園(赤い円)
ユネスコ世界文化遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」ザルツァッハ川右岸地域
ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten) 1996年認定
現在、ザルツブルク市庁の建物となっている宮殿は、 1606年にザルツブルグ大司教である ヴォルフ・ディートリヒ(Wolf Dietrich )が愛人サロメ・アルト(Salome Alt)(1568年~1633年)と暮らす為に造らせた邸宅が最初
だそうです。( 最初の邸宅はもっと小さかった)
南門からの庭と宮殿
宮殿の方は公営の結婚式場にも利用されていますし、美しい庭園の方は公園として市民に開放されています。
当時は人もほとんど寄りつかないザルツァッハ川の向こう岸ですが、現在は有名ホテルが固まっています。
地図では駅が上方右方面。旧市街は左下の方面。
地図のAはシェラトンホテル。Bはホテル・ブリストル。Cはホテル・ザッハ
南門
もともとザルツブルグは独立した大司教区で、ここでは大司教がまるで世俗の王侯のような暮らし
をしていた・・と言う話は前にもしていますが、実際歴代の大司教達は公認されたかのように派手な生活をしていたよ うです。
特に突出して目立つ大司教が2人。
今回紹介する
ミラベル宮殿を建築させたヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教と、ヘルブルン宮殿を建築させたマルクス・ズィティークス・ホーエネムス大司教 です。
大司教の結婚
大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ
(Wolf Dietrich von Raitenau)
(1559年~1617年)(在位1587年~1612年)
サロメ・アルト
(Salome Alt) アルト・フォン・アルテナウ(Alt von Altenau)(1568年~1633年)
もともと高貴な家系 のヴォルフ・ディートリヒはローマで勉強した高い教養と、芸術の素養を持った才子(さいし)。王室厩舎、カプチン派修道院、参事会会場、新レジデンツの建設。また火災で焼けた大聖堂建築計画などザルツブルグを美しい街にすべくいろいろ尽力した功績はあったようです。
本来カトリックの聖職者は結婚はできないのだが、ヴォルフ・ディートリヒは「司祭に叙階される前にサロメと結婚の契約を締結した」と報告。
結婚を公式に認めさせたかったようだが、失敗?
結果、世間的にはアウトでも、地元では半ば公認の関係で、2人の間には15人の子供が誕生。
(やはり完全な妻であり、愛人と言う方が不適切な気がします。)
サロメももともとザルツブルグの名門商家出身。しかもザルツブルグいちの美女。
彼は妻サロメの為に? 子供達の為に? 爵位をとり地位と財産を確保させたかったようです。
1600年に爵位の称号をもらいアルト・フォン・アルテナウ(Alt von Altenau)に改名。
それ故1606年に建てられた家族の住まいはアルテナウ宮殿と呼ばれたそうです
。
大司教ヴォルフ・ディートリヒの失脚と宮殿の改名
バイエルン選帝侯のヴィルヘルム5世(Wilhelm V)との間で塩山の領有権問題で紛争が勃発。
1611年バイエルンの侵攻により破れて捕えられ、宗教界からも見放されて1612年に失脚。
身分を取り上げられた上にホーエンザルツブルグ城に幽閉。牢獄の中で5年後(1617年)に亡くなったそうだ。享年57歳。
次の大司教
マルクス・ズィティークス・ホーエネムス(Markus Sittikus Graf von Hohenems)
(1574年~1619年)(在位1612年~1619年)
彼は大司教になると、失脚した前任者任の影を払拭するべく?
アルテナウ宮殿をサロメから取り上げ追放して、宮殿の名をミラベル(Mirabell)宮殿に改名。
※ イタリア語で「mirabile(立派な)」+「bella(美しい)」=「Mirabell」すばらしく美しい?
女性の名前に使われる名称だそうだ。
しかし、大司教マルクス・ズィティークス・ホーエネムスはここに来る事はほとんどなかったらしい
。
彼の興味は別の宮殿に向いていたからだろう。(それこそがヘルブルン宮殿である。)
この宮殿に興味を示し好んで住みついたのがその次の大司教パリス・ロドロン伯である。
大司教パリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)
(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)
欧州では30年戦争(1618年~1648年)が勃発。カトリックvsプロテスタントの戦い・・と言える欧州中を戦乱に引き込んださなかでも、なぜかザルツブルグ大司教区は巻き込まれる事がなかったと言う。
その為に ミラベル宮殿の増改築と庭園の拡大に費用が捻出できたようだ
。
そして好んでここで暮らし、ここで亡くなったらしい。
バロックの巨匠の宮殿と庭園
フランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )
の時に有名な バロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) をウィーンより招聘。バロックの宮殿が完成。
しかし1818年火災でバロック宮殿は崩れ、後にネオクラシック様式で再建。
それが現在の宮殿の姿である。
庭園はそれより前1690年に ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)により設計
。その後1730年にアントン・ダンレイター(Anton Danreiter)により変更。
しかし基本はヨハン・ベルンハルトのバロックの庭園だそうだ。
この庭はシンメトリーになっていないのだ。
ミラベル宮殿の庭師?
早朝の庭の手入れをしている若者が・・。
夏場は暑いからね・・。
日本製だ
つづく
リンク ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)
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