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連休に行かれる方もいると思うので早めに続きを・・
西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 2
大和国・長谷寺
長谷寺詣 源氏物語 二本の杉(ふたもとのすぎ)
小初瀬山中腹の 断崖絶壁に打ち出した舞台は懸造り(かけづくり)or懸崖造り(けんがいづくり)
と言うらしい。
要するに土地の少ない日本で山間に寺が造られる事が増えた平安時代以降にこのような形が増えたようです。
実は何度も火災により焼失しているそうで 現在の本堂は1650年(慶安3年)三代将軍(徳川家光)により再建されたもの。(平成16年12月に国宝に指定)
入母屋造りの正堂と礼堂からなる2堂を接続した双堂(ならびどう)形式の建築であり、外は懸造り(かけづくり)の舞台となっている。
本堂内舞台
「大悲閣」と外看板があげられていた。慈悲深い観音菩薩を祀る本堂を表した名前のようだ。
写真左の方に人が居るところが大観音様のお顔を拝むところである。
本堂から西側を臨む。下方に見えるのは開山堂
嵐の坂
写真は4月の中旬です。
開山堂前の桜
本長谷寺(もとはせでら)
前回紹介したように、686年(朱鳥元年)天武天皇の勅願により、 道明上人はここに最初に精舎を建立。
本尊として 「銅板法華説相図」(千仏多方宝仏塔)を鋳造して安置した場所
。(現在は宗宝蔵にあるらしい)
道幅がなく正面の全景が撮影できませんでした。下は堂の正面。
五重の塔
本堂の舞台から僅かに見えていた五重の塔は戦後(昭和29年)に初めて建立された五重の塔だそうだ。
実はその前の空き地に三重の塔の礎石が残っている。
慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)に豊臣秀頼(1593年~1615年)によって再建されていた三重の塔が1876年(明治9年)までそこに建っていたのだそうだ。
立て看板には「祝融(しゅくゆう)の災いにかかって今は礎石だけになっている・・」と書かれている。
祝融(しゅくゆう)??? つまりは火災により焼失したと言う事らしいが、なぜそんな言葉を使っているのか??
石楠花(シャクナゲ) ツツジ科ツツジ属
ちょうど今が見頃の美しいシャクナゲだが、なんと毒性があるらしい。
弘法大師御堂(こうぼうだいしみえどう)
この建物自体は1984年に建てられた真新しいものである。
その弘法大師御堂(こうぼうだいしみえどう)の右横にある休憩所で御抹茶を戴く。
景色をながめながらちょっと落ち着く。
店の名前がまた禅語の「喫茶去(きっさこ)」からきている。
直訳は「どうぞお茶でも召し上がれ」らしいが、その意味はもっと深く、貧富いとわず無心にもてなす心がこめられているそうだ。
御抹茶は美味しい落雁(らくがん)付きで一服500円。(落雁はそれのみ土産として売られていました。)
長谷寺詣 源氏物語 二本の杉(ふたもとのすぎ)
現在の正道とは別に東の駐車場の方から本堂に登り付く山道が存在する。
おそらくそこは 平安時代からの参拝者が利用していた道らしい
。
道の途中に 二本の杉(ふたもとのすぎ
二本(にほん)でなく二本(ふたもと)なのはその根元を見てもらえばわかる。
実はこの根元のひっついた杉の木は平安の時代から存在しているらしい。
なぜなら 源氏物語第22帖 玉鬘(たまかずら)にこの木が登場してくるのである
。
玉鬘(たまかずら)は、第4帖 夕顔(ゆうがお)の遺児
である。夕顔は六条御息所の嫉妬に合い呪い殺された女性である。
が、それを知らないで不遇に育った 玉鬘は上京するおり長谷寺に詣でかつての母の侍女で現、光源氏に使えている右近に再会。
「ふたもとの杉のたちどを尋ねずはふる川野辺に君をみましや(右近)」
玉鬘(たまかずら)の運命はこれから好転するのである
。
長谷寺は平安時代から女官に人気の寺
だったようで 紫式部だけでなく多くの女官が願掛けに来ていたのであろう。
玉鬘(たまかずら)の運
命を好転させた長谷寺の威力を源氏物語の中に書き記した紫式部。
それを読んだ宮中の女性はさぞ心が踊った事だろう。
当然だが彼女達は徒歩でなく、牛車で登ったのでしょうね。
近鉄大阪線長谷寺駅
おまけ 駅にあった案内図です。(若干書き込みました)
駅から1km徒歩15分とありましたが、駅も長谷寺も山の中腹。
1度谷に降りて街の中を通過して寺に向かうので寺を散々歩くいた後に帰りは結構きつかったです。
(室生寺と2件はしごしていたせいか?)
長谷寺 今が実に良いシーズンです。 おわり
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