わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2017年06月01日
XML


何しろレンガのアーチはとても絵になるからだ。
でも、それが何なのか京都の人はさておき、知っている人は少ないだろう。

以前「ローマ水道」(1~10)を特集した事があるが、南禅寺に見られる水路閣(すいろかく)は、まさに京都の水道橋(すいどうきょう)なのである。
※ 水道橋(すいどうきょう)とは、高低差を利用して、山や河や谷を超えて水を運ぶ水路の事。(今なら水道管がそれにあたる。)

江戸では、上水(じょうすい)と言う人口的な水路が早くから確立されていて、遠くの河や池から水をひいて江戸市民の飲料をまかなっていた。
人口が増えた都市の大量の水の需用。大火の時の水の必要性。江戸の井戸水は塩分濃度が高かった。などの問題があったからだ。 (水道橋(すいどうばし)は神田上水の通る橋から由来。)

京都ではそれが遅れる事、明治維新。やはりきっかけは京都大火。そして東京奠都(てんと)であった。
※ 東京奠都(てんと)については後から説明。

琵琶湖の大津より取水して京都まで水をひくと言う疎水(そすい)事業は1885年になってやっと行われた。
豊臣秀吉以来の待望であったと言われる疎水(そすい)事業は、山を越えると言う技術的な問題で、なかなか難しかったのだ。

だが琵琶湖疎水が優れていたのは、その水路が飲料や潅漑(かんがい)だけでなく、物流や、発電にまで利用された事だ。
そしてその発電により京都では日本初の民間による路面電車(京都電気鉄道)まで走ったのである。
※ 後に京都市により買収されて公営に。

今回は、その琵琶湖疎水(びわこそすい)にかかわる所を紹介するのですが、どこから入るのかで右往左往。まずは解りやすく南禅寺の水路閣(すいろかく)から入る事にしました。

琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)

琵琶湖疏水(びわこそすい)とは?
琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割
京都三大事 業(第2 琵琶湖疎)
南禅寺水路閣(なんぜんじすいろかく)
奠都(てんと)と遷都(せんと)


南禅寺の中にある水路閣(すいろかく)
pict-南禅寺水路閣 1.jpg
名前は水路閣(すいろかく)となっているが、これは水の水路。水道橋(すいどうきょう)です。

言われてみれば気が付く、京都には小さな堀や河がたくさん見られます。
それはほぼほぼ人口の堀だったのです。
例えば垂直に南北に延びた 堀川は、琵琶湖疏水第二疏水分線でできた川 。確かに垂直は不自然。

また 銀閣寺西の「哲学の道」と言われる遊歩道もまた琵琶湖疏水に沿ってできた管理用道路 として設置された道。(疎水は一級河川である白川と合流もしている。)

参考に哲学の道の横の疎水(そすい)です。銀閣寺西橋から撮影。
pict-哲学の道.jpg

琵琶湖疎水(びわこそすい)とは?
琵琶湖を水源にした 潅漑(かんがい)用の運河 の事である。
京都市では琵琶湖疎水(びわこそすい)を Lake Biwa Canal と訳している。

琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割
第1 琵琶湖疎水 1885年(明治18年)~1890年(明治23年)完成
1. 農地の為の潅漑(かんがい)用水。
2. 水運 琵琶湖から京都を通り大阪に至る運搬ルートの確立。
  ※ 1893年(明治26年)鴨川運河竣工。
  ※  大津―(疎水)―蹴上―(鴨東運河・鴨川運河)―伏見―(宇治川・淀川)―大阪 水運ルート開通
3. 飲料としての上水道。
4. 精米や、粉物など水車の動力としての利用
  ※ 当初の第一目的であったが縮小。水力発電にシフト。
5.  水力発電
  ※ 1891年(明治24年) 第一期 蹴上発電所(けあげはつでんしょ)送電開始。
営業用としては日本最初の水力発電所 となる。
  ※ 1895年(明治28年)これもまた日本発の営業鉄道。京都電気鉄道(伏見線)開通。

上に紹介したのは第1期の 琵琶湖疎水事業によるもの。
この後、京都市は、もっと多くの電力を得る為、また都市の基盤を整備する為の事業計画として京都三大事業を立ち上げる。それは第2 琵琶湖疎を中心に展開される都市機能の拡充である。

京都三大事 業(第2 琵琶湖疎)
第2 琵琶湖疎水 1908年(明治41年)~1912年(明治45年)完成

1. 第2 琵琶湖疎水
  ※ 蹴上発電所の限界。より多くの電力により産業の発展。
2. 上下水道整備
  ※ 都市人口の増加。井戸水の汚染。飲料になるので全線トンネルになっている。
  ※ 1912年(明治45年)第2疎水を利用して日本初の急速ろ過方式の浄水場完成。
3. 道路拡張と市電の施設。
  ※ 都市の発展の為の道路計画と市電網の拡張。

琵琶湖疎水略図から 一部
pict-琵琶湖疎水図 2.jpg
黄色の円が蹴上(けあげ)。南禅寺の水路閣もそこに含まれる。

蹴上(けあげ)
蹴上(けあげ)は山科疎水(やましなそすい)からトンネルを経由して京都側に出た場所。
高低差を利用した疎水路により 大文字(如意岳)の山に沿って南禅寺、若王子、吉田山の北東を通り、高野、下鴨、堀川と南から北へ。その後西に向かって市内へ水が配水 される。

蹴上 第2疎水合流水路とナイアガラフォール   この右手に山からのトンネルがある。
pict-琵琶湖疎水 2.jpg

蹴上発電所への取水設備と発電所への送水鉄管  斜面を利用した水力発電だそうだ。
pict-琵琶湖疎水 1.jpg
蹴上はまさに京都の心臓部にあたる場所。(浄水場や発電所も集合している。)

南禅寺は蹴上の少し北に位置し、疎水の合流点に割と近い。
第1疎水の分線の他に南禅寺の裏の山には南禅寺トンネルと言う導水トンネルが通っていて、それは先ほどの哲学の道の疎水までつながっている。
pict-南禅寺 1.jpg

南禅寺 三門
pict-南禅寺 2.jpg
近いうちに南禅寺を紹介する時に詳しくはとっておきますが、
石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」は南禅寺三門から、満開の桜の景色を愛でたセリフ だそうです。
実は前日の防風雨で桜がほぼ散ってしまい本当に残念。号泣

三門の上から 後方の山にパイプラインが通り、疎水分水が走っている。
pict-南禅寺 3.jpg
ピンクの矢印の所に疎水分線の水路閣がある。

南禅寺水路閣((なんぜんじすいろかく)

pict-南禅寺水路閣 2.jpg
位置的に水路閣は東西にかかっている。裏の山が南
pict-南禅寺水路閣 3.jpg
1888(明治21)年に疎水事業の一環として建設された水道橋はローマ水道の橋を想い起こすと評判に。・・と言う事から「水路閣(すいろかく)」と呼ばれるようになったらしい。

全長93.17m、幅4.06m。高い所で9m。水路幅2.42m。レンガ造りのアーチ工法。
建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあったらしいが、当初山を掘る予定が予定地に皇室の稜があり断念。かくして突出した水道橋はお洒落な西欧風のレンガの橋となった。

※ 設計 デザイナーが不明。琵琶湖疎水の責任者である土木技師 田辺 朔郎(たなべ さくろう)(1861年~1944)と書いている人もいるが、確証がとれていない。彼が全ての設計をおこなったとも思えないし・・。
水路閣の看板にも設計者の名前は書かれていなかった。


奧に見えるのが南禅院
pict-南禅寺水路閣 10.jpg
1983年(昭和58年) 「南禅寺水路閣・蹴上インクライン」京都市の史跡に指定。
1996年(平成8年) 第1疏水関連施設12箇所が「日本を代表する近大遺産」として国の史跡に指定。
※ 南禅寺水路閣・蹴上インクラインの他、疎水のトンネル出口や竪坑などが入っている。
今や京都を代表する観光名所の1つです スマイル

山側から
pict-南禅寺水路閣 11.jpg

pict-南禅寺水路閣 4.jpg

山側から、東の高徳庵方面
pict-南禅寺水路閣 5.jpg

奧の方が水路閣
pict-南禅寺水路閣 6.jpg
この後方は南禅寺方丈の庭園裏山を回り込み山のトンネルに。
pict-南禅寺水路閣 9.jpg

山側、南禅院前から南禅寺法堂方面
pict-南禅寺水路閣 7.jpg

疎水工事については次回触れるが、日本初の技術がたくさん盛り込まれた画期的な工事。しかし完成できるか危ぶまれた難工事だったそうだ。
何しろ琵琶湖からここまで山の中を最長のところで2436m(第1トンネル)もあったそうだ。そこで竪坑工法により掘削が始まったそうだが、当時は重機もなく、ほぼ人海戦術。無理な悪条件で死者も多数でたそうだ。
もちろん木材も、レンガさえも時前で調達。水路閣に使用されているのは国産レンガらしい。
pict-南禅寺水路閣 8.jpg
通常西側の上から水路が見えるのだが、今回工事中? 塀で閉ざされてのぞけませんでした。残念 しょんぼり

橋脚の下のアーチを覗く。西から東方面(南 右の山側)
pict-南禅寺水路閣 12.jpg
みんなが撮影したがるのでこんな写真を取るのは結構至難。

東から西方面(山は左側)
pict-南禅寺水路閣 13.jpg
反対東側から撮影して気付いた事がある。
橋脚のアーチの大きさは、東に行くほどに小さかった。

奠都(てんと)と遷都(せんと)
ところで、なぜ京都市は琵琶湖から疎水する事に踏み切ったのか?
冒頭に書きましたが、大きく言えば明治維新がきっかけです。

1867年、第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に奏上(そうじょう)。大政奉還
1868年、江戸城の無傷開城を1つに明治天皇は東の京都に都を定めた。東京奠都(とうきょうてんと)
1869年、明治政府も京都から東京に移動。

京都から人口の減少や産業の流出がおこり京都がこのまま衰退してしまうのを恐れた第三代京都府知事であった北垣国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)が構想した京都の勧業政策であった。

それにしても不思議なのは、都は京都から東京に遷都(せんと)されたのではないそうだ。
天皇陛下の住まいも、政治中枢も確かに移ったのだから遷都で良いはずなのだが、京都に気を使ったのか?
奠都(てんと)と言う言葉が使用されている。

奠都(てんと)では、都は京都のままであるが、新たに東にも都を造った。と言う事になるらしい。
つまり京都も東京も並立して帝都と言う解釈のようだ。


次回  引き続き琵琶湖疏水でインクライン紹介です。
リンク ​ 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)
リンク ​ 琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020年09月15日 14時09分49秒
コメント(0) | コメントを書く
[建造物・教会・墓地・墓石・遺物] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: