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ラストにBack numberを入れました。
7月28日(土)の予定だった平成30年(第41回)隅田川花火大会の開催は、台風12号の影響で29日(日)に順延。
今年も無事に終了したようですが、今年は2020年東京オリンピック・パラリンピックを意識した警備体勢でのぞんだそうです。
最近、人を巻き添えにする異常凶悪犯が増えていますからね。平和な日本とも言えなくなったし・・。警備の強化は市民の安全の為にも仕方ない事だと思います。
隅田川での花火大会は、もともとは江戸時代、 1732年(享保17年)の大飢餓と疫病で多くの死者を出した事から当時の8代将軍徳川吉宗が翌1733年(享保18年)5月に犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を行ったのが発端
だったと言います。
この時に、両国橋周辺の料理屋が公許により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来だとか。
※ この両国の花火が歴史的記録の残る最古の花火大会だそうです。
1961年まで打上場所は両国橋上流。1978年に「隅田川花火大会」と名称変更。隅田川で復活し、打上場所もさらに上流へ移動。
今年の打上場所は第一会場 桜橋下流~言問橋上流 。第二会場 駒形橋下流~厩橋上流 となっている。
第一会場では 約 9370発(コンクール玉200発含む)。第二会場 約10650発の計 約20020発が打ち上げられる盛大なものです。
隅田川リバーサイドのマンションからの眺めは格別でしょうね。
東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで
隅田川の花火大会のルーツ
永代橋(えいたいばし)
夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇
豊海橋(とよみばし)
隅田川大橋(すみだがわおおはし)
清澄排水機場
江東区清澄の水門管理センター
平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地
清洲橋(きよすばし)
萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門
新大橋(しんおおはし)
永代橋(えいたいばし)
永代橋(えいたいばし)
中央径間: 下路式スチールアーチ橋
ニューマチックケーソン工法
橋長 184.7 m 幅員 25.0 m
着工 1923年(大正13年)12月 竣工 1926年ゅ大正15年)12月
1698年(元禄11年)8月、江 戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目
と、案外古い。
徳川5代将軍綱吉の生誕50年を祝う記念イベントの一つとして架橋されたと言う歴史を持つ。
当時としては最大規模の大橋
。
橋脚は満潮時でも水面から3 m以上。長さ110間(約200 m)、幅3間余(約6 m)。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所だったと言う。
永代橋の向こうに横切る高速とその下が隅田川大橋。
「永代橋」という名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲「永代島」に因むと言われるが、江戸幕府が末永く代々続くようにという意味もあったとか?
しかし、不幸な事故も起きている。
夢の憂橋(ゆめのうきはし)&永代橋の悲劇
架橋から20年。財政難から維持管理が出来なくなり、橋の管理は町民の手にゆだねられる。
町民管理になってから、おそよ90年の1807年(文化4年)、 深川富岡八幡宮の12年ぶりの深川祭が行われた時
に悲劇が起きた。
江戸市中から多くの民衆が祭礼に来た為に詰め掛けた群衆の重みで橋が崩落。死傷者・行方不明者を合わせ1400人を超える大惨事となったそうだ。
川上から月島方面を見た永代橋。バックのビル群は月島、佃エリアの高層マンション。
大正期までに隅田川に5つの鉄橋が架橋。
しかし、そのほとんどは橋底に木材が使用されていたのでの 関東大震災1923年(大正12年)
では、再び悲劇が起きている。 避難する市民が橋とともに焼け落ち、焼死者や溺死者が多数
出たそうだ。
1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり現在の橋梁が再架橋。
震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした、現存最古のタイドアーチ橋らしい。
永代橋を過ぎると、川上に向かって左サイドに日本橋川が合流する。日本橋川は、文字通「日本橋」まで続く川。
豊海橋(とよみばし)
日本橋川の河口にかかる橋が豊海橋(とよみばし)である。(日本橋川の第一橋梁)
つまりこここから川を遡れば茅場町を通り日本橋や神田のほうまでたどり着けるのである。
橋の北側(写真右)は箱崎である。
こちらも関東大震災の復興橋として1927年(昭和2年)架設されたそうだ。
永代橋との景観とバランスを考慮して設計。
橋長 46.13m
幅員 8 m
着工 1926年(大正15年) 竣工 1927年(昭和2年)
フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法を仕様したフィーレンディール橋(Vierendeel bridge)である。
※ フィーレンディールトラス( Vierendeel truss)工法とは、はしごのような形と言う事らしい。
重量感のある鉄骨橋梁はとても目立つ。中央区民有形文化財だそうだ。
豊海橋(とよみばし)を過ぎるとじきに隅田川大橋。ちょうど写真バックが、元の永代橋西詰があった場所。
写真の都合上川上側 から川下に見た隅田川大橋(すみだがわおおはし)になってしまいました。
写真右が箱崎。
隅田川大橋(すみだがわおおはし)
隅田川唯一の二層式の橋
。
東京 都道475号永代葛西橋線支線と首都高速9号深川線の高架橋と一体化された単純合成桁橋。
橋長 385.3m
幅員 30.0m(4車線)
竣工 1979年(昭和54年)10月
首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が完成。翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通。
二層式の橋と言ったが、実 はこの川底の地下には東京メトロ半蔵門線が通っている
のである意味三層ですね。
隅田川大橋左岸。上段の高速、この先が箱崎ジャンクション。
上流に向かって左岸、橋の向こうのビルがDaiwa リバーゲート。建物が凱旋門のよう。
Daiwa リバーゲート
そのすく真向かいにあるのが清澄排水機場。(上流に向かって右岸)
清澄排水機場
ポンプ口径:2600mm×3台
48b/s
昭和61年度竣工
エンジンはディーゼル
江東区清澄の水門管理センター
この 清澄排水機場の道路隔てたすぐ後ろに東京都江東治水事務所の水門管理センターがある
。
住所は江東区清澄一丁目。
そこでは 東京都の、東部低地帯における水害対策として整備した、防潮堤や水門等などの監視・制御を24時間体制で行っている事務所である
。
※ 10水門及び1樋門の遠隔監視制御、3水門、1樋門及び5排水機場の遠隔監視と共に水門操作時には、複数のカメラ映像による安全の確認を行っている。
平賀源内(ひらが げんない)電気実験の地
余談であるが・・。
同じく 清澄排水機場の左裏に「平賀源内電気実験の地」と言うのが地図に載っている。
平賀源内(ひらが げんない)(1728年~1780年)と言えばエレキテル。その エレキテルを長崎より持ち帰り、この地で修復して公開実験したのがここ
なのだそうだ。
かつてここには 武田長春院という幕医の下屋敷があり、源内は武田長春院の塾生にまじり居候させてもらっていたのだろう。つまりそこが源内の江戸の住まいだった所だ
。
※ 幕医・武田長春院とは、江戸時代中期の医師で武田杏仙の家をつぎ,幕府の医師となった武田叔安 (たけだ しゅくあん)(1700年~1774年)こと武田長春院、が開いていた塾。つまり医師の卵達が全国から教えを請いにきていた所。
平賀源内(ひらが げんない)は
1770年(明和3年)長崎より持ち帰ったエレキテルを修復して実験
。
1776年(安永5年)エレキテルをオリジナルで復元。
「エレキテル」とは単なる静電気発生装置だっらしいが、高額な見物料をとって公開したにもかからわず大盛況。大名屋敷などへも持ち込んで見世物にしたらしい。
清洲橋(きよすばし)
構造形式 自碇式鋼鉄製吊り橋橋長 186.3m
幅員 22m
着工 1925年(大正14年) 竣工 1928年(昭和3年)
関東大震災の震災復興事業として 、。「帝都東京の門」となる永代橋と共に計画された為にデザインに気がくばられた。
モデルとなったのは、ケルンにあった「The Deutz Suspension Bridge (ドゥーツ・サスペンション橋)」の方。
「The Deutz Suspension Bridge」 は、アイバーチェーンを使った自立型の吊り橋でしたが、 1945年2月28日に修理工事中に倒壊。
※ 1948年世界初の鋼製ボックス桁橋に置き換えられた。
1935年、ドイツの第2代大統領が死去した後、ヒンデンブルク橋と呼称されるようになった事から、同じく
当時ドイツにあったライン川にかかる鉄道橋、ヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)と混同されたのではないか?
※ 当のヒンデンブルグ橋(Hindenburg Bridge)は第二次大戦の空爆対象となり 1945年1月13日橋梁の全域が破壊。 ヒンデンブルク橋の最終的な破壊は1945年3月。こちらは再建されなかった。
2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。
川下に向かっての清洲橋(きよすばし)
清洲橋を過ぎてすぐに右岸より小名木川が合流。
萬年橋(まんねんばし)と小名木川(おなぎがわ)と新小名木川水門
萬年橋(まんねんばし)は小名木川にかかる橋で第一橋梁ここで隅田川に合流。
小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河。
それ故、船の運航に支障が無いよう橋はいずれも橋脚を高くしていたが、 萬年橋は特に大きく高く虹型に架けられた太鼓橋。
その優美な姿から北斎や広重が浮世絵に描いている。
萬年橋(まんねんばし)
構造形式 1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑
橋長 56.25m
幅員 17.2m
竣工 1930年(昭和5年)
萬年橋の後方に見えるのが新小名木川水門
この先は深川
新小名木川水門(しんおなぎがわすいもん)
形式 鋼製単葉ローラーゲート
径間 11m×3連
門扉高さ 7.8m
竣工 1961年(昭和36年度)
葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」 初刷1830年頃
ここからも富士山が見えたようですね。
歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」 初刷1857年
放し亀を描いた作品。食べる為の亀ではありませんよ。万年生きる亀と萬年橋がかかっているらしい
新大橋(しんおおはし)に向かって隅田川は左カーブ
新大橋(しんおおはし)左岸手前の中洲公園前には日本橋消防署の水難消防艇「きよす」と
「はまかぜ」が停泊。
水難消防艇「きよす」と「はまかぜ」は共に型式は 軽合金船、V型全長は13.0mと13.34mと微妙に違うが、総トン数 9.7t 定員 10人 最高速度 30ノット以上 (約54km/h以上) 放水銃 流量可変型×2基 は一緒。
遊覧船ホタルナ
新大橋(しんおおはし)
構造形式 2径間連続斜張橋
橋長 170.0m
幅員 24.0m
着工1976年( 昭和51年)
竣工 1977年(昭和52年)
川の地下には都営地下鉄新宿線が横断。
新大橋を過ぎると次の橋は両国橋なのであるが、実は隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)をくぐるのである。
隅田川道路橋(すみだがわどうろきょう)とは、首都高速が上空を交差している場所なのである。
首都高速6号線向島線と首都高速7号線小松川線が通っている。
次回両国から つづく
Back number
リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港
リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場
リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史
東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで
リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)
リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
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