わたしのこだわりブログ(仮)

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2018年08月14日
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​​​​​ラストにBack numberを入れました。

前回紹介した新大橋。その橋から今回冒頭紹介している隅田川を横断する首都高の橋桁手前の西岸がちょうど浜町公園になる。
※ 残念ながら写真が無い。上を高速が走り防潮堤の壁が連なり船からは公園は見えなかった。その 浜町公園界隈は江戸期には各大名屋敷が連なっていた所。
※ 明暦の大火(1657年3月)後には吉原は浅草に移転。新吉原となる。

江戸幕府に長らく陳情に出ていた遊郭の主人達。やっと 遊郭の許可が降りたのは1617年(元和3年)だったとされる
※ 豊臣家との結着がついた大阪夏の陣が1615年。大阪が直轄地になるのも1619年と世がまだごたごたしていた頃だ。
幕府としては、風紀上の問題もあり管理も楽。一方市場の独占を狙う遊女屋の主達との利害が一致しての取り決めだったのだろう
以降、江戸では公式の遊郭は吉原だけとなり、遊女は吉原の外には出られず(出張も無し)など厳しい吉原の規則ができる事になる。
星
 最初の吉原は、葺町屋(ふきやちょう)にできたらしい。そこは葭(よし)の生えた原っぱ「葭原(よしはら)」で、そこから「吉原(よしわら)」の名に転じたらしい。「吉」の字で商売繁盛を願ったのかな?

吉原は公認された遊女屋が一ヶ所に集まった場所 。(遊女の質は特Aランクから普通まで様々。)​
​人の行き来を制限して内部の治安を維持、安全性をうたって男性の集客をした 男性の為のテーマパークのような所 だったと言える。
とは言え、吉原以外に実際のところ遊女がいなかったわけでは無い。違法は常の世にある。​

ついでに最初の吉原の場所を特定しようとしたのだが、「現在の日本橋人形町あたりにあった」とされているだけ。意外にネットでは書いている人がいない。(浅草の方はあるが・・。)
もう少し調べてみようと古地図とニラメッコしながら ​現​在の日本橋富沢町と人形町2丁目あたりと絞ってみた​​ 。​

明暦の大火後に吉原の跡地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町に分かれたらしい。

新和泉町、住吉町は(現 日本橋人形町)
高砂町は(現 日本橋富沢町)浪花町は(現 日本橋人形町と日本橋富沢町)
※  現 富沢町は、町名の無い単独の町名。その南側が、現 人形町2丁目である。

江戸初期にできて、39年程で消えた吉原の場所の特定は難しい。(資料が不十分なのかもしれないが・・。)吉原の南の端に水天宮があったとされるのだが、水天宮の場所も移動しているかもしれないし、規模も小さくなっているだろう。また明暦の大火、関東大震災。第二次大戦と、都会の土地はずいぶんと変わってしまったし・・。

古地図には各藩主の屋敷がある中、不思議な一角が見つかった。
「松島町」なる誰の屋敷でもない何も表記の無い謎の四角い土地が・・。ここに何か関連が?
※ 旧名の松島町は現日本橋人形町になっている。吉原に隣接していたか? もしくはここも吉原の名残かもしれない。この謎は宿題ですね。


東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)

​旧 吉原の場所​
竪川(たてかわ)水門
両国橋(りょうごくばし)
江戸の大火で掛けられた両国橋(りょうごくばし)
神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)​
​柳橋と花柳界
JR総武線の鉄道橋
​蔵前橋(くらまえばし)​
​蔵前のルーツは幕府のお米蔵
厩橋(うまやばし)
駒形橋(こまがたばし)

船がまさに浜町公園の横を航行。
首都高の右の橋桁の向こう、調度、竪川(たてかわ)からの合流点になる。もちろんそこには水門があります。隅田川との合流地点は、ちょうど首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクションである。
大阪もそうであったが、東京も、 土地買収の関係から高速道路は川の上などに設置された ​のだ​ 。​

​ところで、 首都高及び首都高速の名称は、首都高速道路株式会社の登録商標だそうだ 。​
首都高の本来の名称は、都市高速道路 (としこうそくどうろ)とされる。
それは都市内の道路交通を円滑にする目的で建設された自動車専用道路であり、 ​昭和43年の都市計画法に基づいた施設として「通行が自動車に限定された道路」として誕生した。​​
※ 都市高速道路は6つの都市内に誕生。「首都高速道路」、「阪神高速道路」、「名古屋高速道路」、「福岡高速道路」、「北九州高速道路」、「広島高速道路」。

竪川(たてかわ)水門
竪川(たてかわ)は、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河。その全区間の上を首都高速7号小松川線が走っている。
※ 竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で、かつては、物資輸送のみならず、成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても利用された重要路。
竪川(たてかわ)水門
形式 鋼製:単葉ローラーゲート
径間 11m×2連
扉高さ 7.5m
竣工 1959年(昭和34年)度

​両国橋(りょうごくばし)​

江戸の大火で掛けられた両国橋
前にも触れましたが、 防衛の面から、幕府は隅田川への架橋を制限していたそうです。(橋は千住大橋しかなかったらしい。)
※ 千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。 ​​

しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火では、逃げ場を失った江戸市民が多数焼死。その被害は死傷者含み10万人とも・・。
さすがに幕府の方も今後の対策を検討。防火と防災と江戸の街の復興の為に新たな架橋をする事になった。
​両国橋(りょうごくばし)は、千住大橋に次いで、隅田川に2番目に掛けられた橋なのだそうだ。​

歌川広重 名所江戸百景から  両国橋大川ばた 1856年
両国橋の東岸がかつての本所(ほんじょ)。江戸市中の川向こうであった本所は、元禄年間に宅地化が進む。深川と並んで、拡大する大都市江戸の新興居住区域となった場所。

歌川広重 名所江戸百景から  両国花火​
前回、「東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで」の冒頭隅田川の花火大会の事に触れましたが・・。
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで

その発祥は隅田川での水神祭。そして季節は秋祭りだったようです。​
上の浮世絵は、歌川広重 名所江戸百景の中、秋の部に含まれていました。

下の写真は「両国花火」現代の刷りの物の一部です。橋の周辺に活気があった事がわかります。

​当時の人達が、今の隅田川の現状を見たら絶対腰を抜かすでしょうね。
と、同時に逆に設備もない時代によくこんな立派な橋が架けられたものだと感心します。素材は全て木製ですしね。びっくり

神田川(かんだがわ)と柳橋(やなぎばし)​
柳橋(やなぎばし)手前は隅田川(すみだがわ)。 柳橋から向こうが神田川(かんだがわ)。
そして中央区と台東区の区境に位置する。
最初の橋は幕府の命により、町年寄御三家の1つ樽屋(たるや)の当主 樽屋藤左衛門により掛けられたと言う。
※ 1~10代まで、当主は 樽屋藤左衛門を名乗っているので何代目の時かは不明。​

現在の橋は1929年(昭和4年)に架橋。震災復興計画で耐震構造に配慮した鋼鉄橋で、永代橋のデザインをモデルに建設された、区内に残る数少ない復興橋梁で、中央区、区民有形文化財 建造物に指定されているらしい。

歌にも歌われる神田川はこれでも一級河川。
この源は三鷹の「井の頭公園」 だと言うのだからちょっと驚き。しかも都心を流れる川であるにもかかわらず、地下を潜る事もなく、全線、開渠(かいきょ)だそうだ。
※ 開渠(かいきょ)・・地上の水路で、特にオープンでふたが無い水路。

​柳橋と花柳界​
​この界隈は江戸時代以降、花柳界(かりゅうかい)として発展した所。両岸には料理茶屋が多く洗練された江戸市中の商人や文化人の奥座敷となったと言う。​

柳がある花街だから花柳界か? と思われがちだが、花柳界があるからこそ柳の木が植えられたのではないかとも思う。
唐代の詩人、李白(りはく)(701年~762年)の詩に花柳の語がすでにあるからだ。

出典は「夜郎(やろう)に流されて辛判官(しんはんがん)に贈る」
758年、李白が反乱に手を貸したかどで夜郎(貴州省西北部)に島流しされた時に、友であった判官の職にある辛さんに当てた手紙(漢詩)の一文。
「昔在長安醉花柳 ( 昔 長安に在りて花柳(かりゅう)に酔(よ)ふ)」

​「昔、長安にいた頃は、二人で歓楽街で酔ったものだね」​

はるか昔、「花柳(かりゅう)」のワードが歓楽街の意味として使われていた事は明白だ、最も李白の時代、「花街に柳の木があった」からなのかもしれないが・・。

両国橋を川上から見た所。神田川合流は写真右の方

総武線と遊覧船・卑弥呼(ひみこ)

「銀河鉄道999」の作者 松本零士 氏のデザインだそうだ。卑弥呼(ひみこ)の写真はお台場にて撮影していますが、いずれどこかで紹介。

JR総武線の鉄道橋
鉄道橋なので橋に名前は無い?

先には蔵前橋(くらまえばし)が見えている。
このJRの鉄道橋を越えると右側に両国国技館の屋根が見えてくる。
建物で見えにくいけど、ピンクの矢印の当たりに国技館の屋根が見える。

スカイツリーからの写真です。
両国橋を過ぎ、神田川合流を左に見ながら、総武線の鉄道橋をくぐると右に国技館なのですが、ごらんの通り、手前の高速道路とビルによって船からでは垣間見られる程度なのです。

​蔵前橋(くらまえばし)​
鋼・コンクリート道路橋
形式 - 3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ、および上路式コンクリート固定アーチ
橋長 173.2m  幅員 22.0m
支間 50.902m(鋼アーチ最大支間)/ 12.192m(コンクリートアーチ支間)   活荷重 一等橋
着工 1924年(大正13年)9月
竣工 1927年(昭和2年)11月

蔵前のルーツは幕府のお米蔵
蔵前とは、両岸共にもともとお米倉の倉庫が並んでいた所。
現在の国技館とその後ろの江戸東京博物館も引き込み式の造りのお米蔵があった所。

当初、和田倉や北の丸、鉄砲洲、竹橋などにあった幕府のお米蔵は、 幕府の命により浅草蔵前に移され、先に紹介した江戸の町年寄 2代樽屋藤左衛門元次により、1620年(元和6年)に蔵前に移転設計された そうだ。​
隅田川西岸、蔵前の御米蔵の面積は3万6650坪(約99ヘクタール)。一番堀から八番堀まで埠頭のように8つの堀が並んだ造りになっていた。

​蔵前橋(くらまえばし)​を越したところから川下方面​
橋を越えてすぐ西岸にあるのが蔵前ポンプ場

厩橋(うまやばし)

構造形式 3径間下路式タイドアーチ橋
橋長 151.4m 幅員 22.0m着工 1926年(大正15年)
竣工 1929年(昭和4年)

元禄年間からもともと「御厩の渡し」のあった場所であるが、先に紹介した ​蔵前の米倉の荷を運ぶ為の厩(うまや)のあった場所「御厩河岸」から由来している。​

実はここの渡しはよく転覆事故を起こしていたそうだ。「三途の渡し」と皮肉られる事も・・。​
それで1874年(明治7年)、橋の架橋は最初民間の手により、長さ150m(511尺)、幅約6m(20尺)の木橋が架けられたと言う。

蔵前橋の袂は一部、屋形船の乗船場
江戸風数奇屋造りの和風座敷の屋形船は最近では通信カラオケ装置・冷暖房装置・水洗トイレも完備されているらしい。スマイル

川上からの厩橋(うまやばし)。橋の向こうには蔵前橋が見える。

厩橋(うまやばし)の橋下からの駒形橋(こまがたばし)
白いアーチは改装中だからです。
スカイツリーからの修復中、駒形橋の写真

駒形橋に向かう頃、スカイツリーが右手(東側)にハッキリ見え始めて来る。
吾妻橋のたもとにあるアサヒビールの金の巨大看板も視界に・・。
両国橋あたりから隅田川は右に30度ほどカーブ。

駒形橋(こまがたばし)
改装中だった事と、吾妻橋と近接している為にちゃんとした写真がありませんでした。
そんな訳でウィキメディアでパブリックドメインになっていた改装前の駒形橋の写真を借りてきました。
構造形式
中央径間 (中路式ソリッドリブタイドアーチ橋)  

側径間(上路式ソリッドリブアーチ橋)
橋長 149.6m  幅員 22.0m
着工 1924年(大正13年)
竣工 1927年(昭和2年)

​駒形橋(こまがたばし)の由来は橋の西詰にある駒形堂(こまがたどう)に因んでいる。​
駒形堂(こまがたどう)は、浅草寺の飛び地となっている堂である。
因みに 本尊は馬頭観音立像(秘仏) だそうだ。​
先に紹介した蔵前(くらまえ)と厩(うまや)にやはり関係しているのか?
馬の供養を目的として堂が建てられたのは、ほぼ間違いない。

かつては隅田川に向いて建ち、ここで船を降りて、浅草寺の観音堂に向かう前に参詣して行く場所であったらしいが、今は水上タクシー乗り場の裏手になり見えなかった。

次にやっと吾妻橋です。
今回も終わりませんでした f^^*) ポリポリ
次回吾妻橋とその界隈。言問橋とその先をスカイツリーからの写真を交えて紹介して終わらせる予定です。
全2回予定のはずが、細かくやり過ぎて長ーくなってしまいましたが、今回もちょっと収穫がありました。
江戸時代、案外面白いです。ウィンク

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Back number
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場
​リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで
    東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)​





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Last updated  2022年02月07日 15時35分24秒
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