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今日は月末。給料日であり、一ヶ月の成果が数字で現れる日でもある。今月はまぁまぁかな?今日で、10月も終わり。来月になれば、一年前、ツヨシが入院した日がやってくる。それからのたった一ヶ月の入院生活を、思い出す日々がやってくる。とてもとても怖い。ツヨシが居なくなった、12月11日までのカウントダウンが始まるのだ。ご存知のかたもいらっしゃるでしょう。私が子供を亡くしたのは、ツヨシが初めてではない。三人目の子供、ツヨシの下に生まれた子が、生まれて二日後に亡くなった。その時は、元気に育っていくはずだった子に「これもあれもしてあげたかった」と思い、悲しくて泣いた。青い空を見れば、この空を一緒に見たかった、と思い、一度も母乳をあげられなかったことを、悔しくも思った。一日だって忘れたことはなかった。昨年、ツヨシが亡くなったとき、正直な気持ち「どうして?わたしばっかり」と思った。私の子供ばかり・・・そう思った。そして・・・。こんなことを言うと、赤ちゃんを亡くされた人に申し訳ないし亡くなった子にも、また、深い悲しみを味わった過去の私に対しても詫びなければならないが、今の悲しみは、あの頃のそれの比ではない。18年間のツヨシとのたくさんの思い出があるぶん、悲しいし辛い。ツヨシが数え切れないほど、私を「ママ」と呼び、私がいろんな場面で、「ツヨシ」と毎日呼んだ。呼べば答えるツヨシがいた18年だったのである。そしてまた、子供をひとり亡くしていた私が、もう二度とあんな思いはしたくない、と思って大事に育ててきたツヨシだったのだ。私が、私の子どもたちが一体なにをしたというのだろう?この一年近く、ずっと頭から離れない思いである。「頑張ってるね」と言われることはイヤじゃない。でも「頑張って」と言われると、何か違う気がする。頑張って生きてきた。誰に恥じることなく。頑張って生きてきた。私と子どもたち。これからどう生きていけばいい?ツヨシがいないのに・・・。
2005/10/31
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今日は、一日中のんびりとして過ごしました。明日は給料日だぁ♪さて、昨日の夜、母と電話で話した。先週の土・日で田舎に行ってきた母。母の両親は、私たちが生まれるずっと前に亡くなっているから、母も田舎の人たちとは疎遠になっていたらしい。「○○ちゃんが」などと言われても、私たちにはよくわからない。ただ、私が20歳代の頃、初めて聞いた話があった。私を養女に欲しいという話があったこと。その話を聞いた時は、もう私も子供がいたし、大した関心もなく「じゃ、私はお金持ちの娘になっていたかもしれないんだね」などと笑った。貧乏をしている三人の年子の娘を持つ母に、養女にくれと言うのならやはり、真ん中の私を、というのは何となく分かる気がする。今回、田舎ではその話も出たと、母は言った。「あの子だけ、他の子と顔が似てなかった」とか「ピアノを買ってあげるから、うちの子になろうよ」とか、そんなことを幼い私は言われたらしい。そして、モノに釣られた私は「うん、帰らないでここにいる」と言ったようだ。今、母はどんな気持ちで、私を連れ帰ったのかと考えると、母が少し可哀想になる。もちろん、母は養女に出すつもりなどなかったはずだ。ただ、多くは話さなかった母だが、きっと少しは悩んだに違いない。それは、自分たちの生活のことでは、もちろんなく、私にとっての幸せを考え悩んだのではないだろうか。でも、その上で、母は私を手放さなかった。きっと。大人になる前にその話を聞いていたら・・・。私は私の父親に可愛がられなかった。例えば、中学や高校の頃に、その話を知っていたら、私はひどい言葉で、母を苦しめたに違いない。「養女に出してくれたら良かったのに」なんて言葉で。大人になるまで、言わずにいてくれた母に心から感謝する。そしてまた、父親はどうでもいいが、母の娘でいさせてくれたことにも。私が、母の娘に生まれたことを、良かったと思うようにツヨシやマッキーやアツシも、私の息子に生まれたことを、ほんの少しでいいから「よかったな」と思って欲しいと願う。もうツヨシに聞くことができないのが、悲しいけれど。
2005/10/30
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今日は、朝から仕事。現場に行くだけなので、アツシも車に乗せて行った。帰って来るとき、家の近くまで来て信号待ちをしていたら、目の前を馬が歩いているではないか!大きな馬で、カウボーイハットを被ったおじさんを乗せている。車で馬を追い越し、駐車場まで来たところで、馬が追いついて来た。アツシと二人で「写真を撮らせてください」と頼むと「そこの駐車場に入るよ」と言って写真を撮らせてくれた。そして何事もなかったかのように「パッカパッカ」と足音を残し、うちの横を歩いて行った。「ここ、横浜だよね?」そんな光景でした(笑)さて、ツヨシにはたくさんの友だちがいた。それを知ったのは、入院してからであり、葬儀を執り行ってからである。葬儀に来てくれたみんなが「すごかった」と言うほど、すごい数の、制服もまちまちで、男女問わず、たくさんの子たちがツヨシとの最後のお別れに来てくれた。たぶん、ものすごい人数だったと思う。ツヨシには、Yくんという親友がいる。中学からの友だちで、うちにも毎日のように遊びにきていた。葬儀の日、Yくんは私に手紙を書いてきてくれた。内容は、Yくんには、いつかカクテルバーをやりたいという夢があっていつもツヨシとその話をしていたという。ツヨシは「Yは頭が悪いから、オレが経営のほうをやってやる」と言っていたらしい。そして、店が終わった後は、二人で居酒屋で飲んで帰ろうな、と。毎日、二人で夢を語り合った。ツヨシが居なくなって、Yくんは「今はどうしていいかわからない」、でもいつか自分が二人の夢を、絶対に叶える。そう手紙には書いてあった。ツヨシの入院中、Yくんは毎日のように病院に来てくれた。ゼリーやアイスを食べられる状態の時、「もっと食べたい」というツヨシに「いっぱい食べちゃダメなんだよ、もうこれでおしまい」と取り上げてくれたりした。主治医の似顔絵を描いて、笑わせてくれたりした。でも、脳梗塞になってしまってからは、驚かせたら可哀想だと思って、Yくんにも会わせなかった。いつかまた元気になったツヨシに会わせるつもりだったのだ。今になって思う。こんなに早く別れがきてしまうなら、会わせていれば良かった。Yくんは、今、夢を叶えるため専門学校に通いながら、バイトをしているという。「ツヨシがいてくれて本当によかった」そう言ってくれた。手紙の最後には「ツヨシはこれからもずっとオレの親友です」と書いてあった。いつか、Yくんの作ったカクテルを飲める日がきっとくると信じている。二人の夢を叶えると信じている。
2005/10/29
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きょうの仕事は、クレームの電話がやたらに多かった。そして、明日もその件で仕事になってしまった。まぁ、そんな時もあるさ。さて、昨日に引き続き、ツヨシの従兄弟の話。私の妹の子どもたちは、長女(もうすぐ20歳)、長男(明後日?19歳)、次女(高1)である。上の二人がやはり年子で、マッキー、ツヨシと同じ歳。長男のカズは、ツヨシの二ヶ月後に生まれた。タイプが全く違うのに、すごく仲のいい従兄弟だった。夏休みなどの長い休みになると、ツヨシはいつも「カズんちに行ってくるわ」と言って、一人で電車に乗って泊まりに行く。ツヨシが高校受験のとき。一校しか受けなかった公立高校に、ツヨシは落ちてしまった。発表の日、中学の先生にも、私にも「高校には行かないで働く」と言った。仲の良かった友だちはみんな合格したと聞いて、私はツヨシが不憫になり「かわいそうだったなぁ」と言って、抱きしめて二人で泣いた。ゆっくり決めればいい、と言って、ツヨシをドライブに連れて行った。「どこに行きたい?」と聞くと、ツヨシは「カズんち」と言った。カズは、自分が合格し、ツヨシが不合格だったことが、とても悲しそうだった。私立に行けば、お金がかかる。それがツヨシの心配だったのだろう。「働く」と言って譲らなかった。そんなツヨシの気持ちを変えたのは、カズのメールでの一言だった。「ツヨシと高校の話をしたい」。後日、ツヨシは「あのカズのメールがなかったら、高校には行かなかった」と言った。ずっと同い年だった。カズが1歳の時は、ツヨシも1歳。カズが10歳なら、ツヨシも10歳。カズが19歳になるのに、ツヨシは18歳のまま。カズの悲しみを考えるとき、私はとても切なくなる。本当に仲のいい二人だったのだ。今年の4月。カズは社会人になった。初月給で、私や母を食事に連れて行ってくれた。カズが成人式を迎えても、ツヨシが成人式を迎えることはない。でも、私はこれからもずっと、カズの成長を心から祝ってあげられる人でいたいと思う。入院中、最後にカズに会ったとき、ツヨシは「カズ、かっこよくなったじゃん」なんて言って笑っていた。あまり喋れなかったその日の続きのように、お通夜の日、カズはツヨシのそばにすっとついていてくれた。カズ、辛いことがあったら、カズにも従兄弟たちがいて、きっとチカラになってくれるよ。そうカズに言いたい。カズがツヨシの背中を押してくれたあの日のように。
2005/10/28
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うちの子どもたちには、6人の従兄弟がいる。私の姉の子供が3人(男・男・女)、妹の子供が3人(女・男・女)。今日は、まず、姉の子どもたちとツヨシのことを。上の二人が年子で、うちの子どもたちと2歳ずれているので、小さい頃は「四人の年子の兄弟だね」なんて笑ったりした。みんながまだ小さい頃は、集まるといつもいろんな組み合わせでケンカしていた。小学生のころになると、四人で野球をしたり、サッカーをしたり。兄弟とは違ったつながりがあるし、年上ということもあって、ツヨシの一番身近な憧れの存在だった。従兄弟二人(Dちゃん、Yちゃん)のおそろいの服を、そのままお下がりで貰っていたので、マッキーとツヨシもいつもおそろいの服を着ていた。「Dちゃんたちにもらった服を着る」と、いつも喜んで着ていたものだ。ずっとずっと、ツヨシの憧れの存在だった従兄弟達。テレビを見ていて「この人、Dちゃんに似てるね」と言って好きになったアーティスト。その人がテレビに出るたびに「Dちゃんに似てる」と言った。また、若手俳優がイケメンなどともてはやされてると、ツヨシは必ず「Yちゃんのほうがずっとかっこいい」と言った。母の還暦の祝いで、みんなで旅行に行ったとき。何がそんなに可笑しいのか、ずっと四人でバカ笑いしていた。お腹を抱え、顔を真っ赤にして、みんなでずっと笑っていた。その時、Dちゃんが「いつかオレが大きな車を買って、みんなを乗せて旅行に連れていってやるよ」と言った。ツヨシの入院中、ずっとそれを楽しみにしていた。「退院したら、Dちゃんたちと旅行に行こう」と。何度も何度もそう言った。Dちゃんが買った大きな車に乗って。この夏、一番辛いツヨシの誕生日。Dちゃんは、私たちをバーベキューに誘ってくれた。準備をして、大きな車に私たちを乗せて連れて行ってくれた。Yちゃんは、アルコールと日焼けで真っ赤になりながら、アツシといっぱい遊んでくれた。そして、マッキーやSちゃん(末っ子)、みんなで大笑いしながら遊んだ。みんなが川で遊んでいるのを遠くで見ていたら、そこにツヨシがいる気がした。何もない日だったら、悲しいだけのツヨシの誕生日だったに違いない。だから、本当に嬉しかった。母の還暦祝いの旅行の時、乗ったタクシーの運転手が「みんな従兄弟でしょ?」と聞いた。「わかります?」と答えると「だって似てるもん」と言った。それをツヨシはすごく喜んで、それから「Dちゃんたちに似てるのかなぁ」と度々言っていた。大好きな憧れの従兄弟達だったのだ。そして、私の可愛い甥っ子たちである。
2005/10/27
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今日は午後から埼玉の本社へ。ニュースでやっていた、六本木のド○キ・ホーテの屋上に建設中の絶叫マシーンを高速から見て、「あれかぁ」と、この目で確認。さて、子どもたちが大きくなると、旅行に行ったときぐらいしか写真を撮らせてくれなくなる。ツヨシの遺影の写真を選ぶときも大変だった。ちょうど、ツヨシの財布を探っていたら、学生証が入っていたので、それを遺影にしたのだが、髪型がその頃とだいぶ変わっていた。高校の卒業アルバムを貰ったとき、そこに写っていたのは「あぁ、これがツヨシだ」と思わせるような、本当に穏やかないい笑顔のツヨシだった。それを撮ってくれた写真屋さんに連絡し、データが残っていないか聞いてみた。すると、ツヨシが亡くなったことは、学校から聞いたと言い、「ただ、もうデータの整理を始めていて、ツヨシくんのモノが残っているか分からない」探してみると約束してくれた。その日の夜、興奮した声で「ありました!」と電話をくれ、電話の向こうで泣いてくれたのである。次の日に取りにうかがうと「ツヨシくんのこと、覚えていますよ」と言う。全部で6枚撮って、一番いい顔のを卒業写真に選んだ、と。そのすべてのデータを頂いた。この経緯を、彼女のK子ちゃんに話すと、K子ちゃんは「写真を撮っているあいだ、ツヨシはきっと、ふざけて色々言ったんでしょうね」と言う。そう、だから覚えていてくれたのだ。きっと。ツヨシって、そうだよね、と二人で笑った。その写真は、欲しいと言ってくれるたくさんの友だちにあげた。そうやって、ツヨシは今もいろんな人の前で、笑っている。惚れ惚れするほどの、最高の笑顔だ。
2005/10/26
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今日は、仕事帰りの買い物で、友だちに会って一緒にわが家へ帰ってきてさっきまで飲んでいました。笑って泣いて、久しぶりの彼女とのお喋りは楽しかった。さて、今日もその友だちと話していたのだが。人間の記憶は、とても曖昧で頼りない。いろんなことを覚えているようで、忘れてしまうことがたくさんある。私がこうしてブログで、ツヨシのことを話題にするのもツヨシのことをたくさんの人に知ってもらいたいこともあるのだが私自身がツヨシのことを語って、ツヨシの様々なことを忘れないでいたいという思いがある。以前、書いたように、私は育児日記をつけていた。それによって、記憶にとどめておけなかったことを思い出すことができる。私は、ツヨシが亡くなってから、ずっと思っている。ツヨシのことを、みんなが忘れずにいて欲しい。だから本当に辛いことだけど、ツヨシのことを話していきたい。ツヨシのことを、いくら「愛している」と思ったって、ツヨシとの思い出をツヨシと話したくても、もう、たったひとりのツヨシと話すことも、伝えることもできない。本当に伝えたい相手のツヨシに、である。だから、ツヨシ以外のたくさんのひとに、私は「ツヨシを愛してる」ということを伝えたい。ツヨシの思い出を語りたい。人の記憶は曖昧なのだ。私がツヨシの話をしなければ、いつかツヨシは生きていたことも忘れられてしまうかもしれない。ツヨシが、18年生きたことも、忘れ去られてしまうかもしれない。私が悲しんでいたことは覚えていても、ツヨシがどんなヤツだったか、忘れられてしまうかもしれないのだ。だから、今もそばにいるように、ツヨシのことを話す。みんながツヨシを忘れないために。ツヨシが私たちのそばにいたことを覚えていてくれるように。私がツヨシを愛していたことを知ってもらうために。もうツヨシには伝えられないのだから・・・。
2005/10/25
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今日、マッキーは現場の職人さんたちと飲み会。このところ、同じ現場にいる大工さんに可愛がられて、よく誘われ出掛けて行く。きっと何を話しているときも、ずっと笑っているんだろうな。自分の気持ちを表に出さない、そういう性格だ。そういうマッキーを、可愛がってくれる人がたくさんいる。とてもありがたいことだ。ツヨシの性格は正反対だった。年上の人を相手にしても、平気で何でも言うヤツだ。バイト先の店長とケンカして、辞めてきてしまったこともあった。それでも、暫くすると「またバイトに来てくれよ」と言われる。自分の気持ちを隠さない。そういう性格だ。そういうツヨシもまた、可愛がってくれる人がたくさんいた。子どもたちが大人に近づくにつれ、性格がすごくはっきりしてくる。例えば、アツシ(小5)の歳だと、私にはまだまだ分からないことがいっぱいあって、「この子はそう思う子なんだぁ」と驚かされることがある。それが、ある程度の歳になると、「こう思うんだろうな」というのが分かって、滅多にハズレない。マッキーは優しいけど「自分は自分、人は人」というところがあって、以外とクール。なのに、買い物に一緒に行くと、ずっと私の後を付いて歩く。本当にずっと付いてくる。狭い通路でも、私の後ろにいる。で、レジでは、私がお金を払っている間に、袋詰めをしてくれる。しかも、お肉などは小さい袋にちゃんと入れてから。几帳面なのだ。お風呂に入ったあとは、イスのところに洗面器が斜めに伏せてある。ツヨシは、友だちが間違っていたり悪いことをしてると、ちゃんと「間違ってるよ」とか「なにやってんの?」と言う。亡くなってから知ったのだが、友だちの相談に乗ってあげることも多かったようだ。ツヨシは、自分のことも大好きだが、私のことも好きでいてくれる気持ちを隠さなかった。18歳になっていても、二人の時は私を「ママ」と呼んでいた(笑)そして、マッキーと正反対だったのは、だらしないところ。ツヨシがお風呂に入ったあとは、すぐにわかる。体を洗うタオルは洗面器に入れっぱなし、シャワーホースはフックに掛けてもいないのだ。そんな性格の違いが面白かった。双子のように育ったのに、考え方も性格もまったく違うふたり。ツヨシは今、淋しがっていないだろうか?入院中も私に「淋しいから早くきて」なんてメールを寄越していたツヨシである。今はまだ、ツヨシの元へ行くことはできないけどいつかツヨシに会えたとき「淋しかったよ~」と言ってやったら大喜びするはずだ。本当は、今すぐに帰ってきて欲しいのだけど。
2005/10/24
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基本的に、土曜・日曜の週休二日。昨日のように配達が入ったりするけど、たいてい土曜日は休息日にしている。当然、日曜日にまとめて掃除や、洗濯をすることになる。家事をするときは、音楽をかけてやることが多い。布袋さんをかけてしまうと、聞き入ってしまうので、こういうときは他の人のを。今日は、たまたま「ゆず」がテレビに出ていたので、MDを探し出してかけた。・・・「さよならバス」が流れ出したとたん、涙が止まらなくなって、切った。ツヨシがカラオケでよく歌っていたのだ。四人で、よくカラオケに行った。異常に盛り上がって楽しかった。ツヨシは、ゆずや浜省、ヒムロックを好んで歌った。たぶん、ゆずはもう聴かないほうがいいだろう。さて、私は皆さんもご存知のように母子家庭である。かっこいい言い方をするなら、シングルマザー。決して「子供のためだけに生きる」なんて思っていない。働く理由だって、生活だけのために・・・だけではない。恋愛だって、それなりにしてきたと思う。今は、別に望まないけど。何年か前の大晦日。「来年の恋愛運」なるものをテレビでやっていた。星座と血液型を細かく分けて、最後に1位と最下位を残すのみとなったとき「魚座」がまだ残っていて、私が気にしているとツヨシが一言。「もう、気にする歳じゃないじゃん」と言ったのだ。私は泣きながら抗議した。確かに、恋愛するつもりがあったわけじゃないし、どうでもいいと言えば、その通りなのだ。だけど、自分で言うのと、人から言われるのとでは違うではないか。「私の人生は母親としてだけの人生なんじゃない!」と泣きながら怒った。でも、今は気付いている。私は、子供に執着して、子供の存在に依存して生きていた、と。子どもたちがいるから生きてこれた。娘とか、妻とか、いろんな立場があったけど、母親という立場が一番居心地が良かった。去年のちょうど今頃、私は親離れしようとするツヨシが悲しかった。「なんで?あんなに可愛かったのに」と言って泣いた。「絶対に子離れなんてしないから!」と言って泣いた。子供が小さい頃は、母親の愛情を存分に与えないといけないと言われ、子供がある程度大きくなったら、ちゃんと子離れしないとおかしい親だと言われる。ツヨシは「困ったなぁ」という顔をしていた。マッキーは「ツヨシ、やっちゃったな」という顔をしていた。恐ろしいぐらいの私の愛を、ツヨシはどう思っていただろうか?今は、それを伝えてよかったと思っている。こんなに早く悲しい別れがきてしまったのだから。
2005/10/23
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今日の夕飯のメニューはカレーライス。それから、モヤシ炒め。カレーマヨネーズ味。・・・作り終えるまで、カレーばっかりだったことに気付かなかった(笑)昔、一緒に働いてた男の人と、お昼にコンビニに買い物に行って、レジの前で「おぉ、カレーうどんとカレーパン買おうとしてたよ」とか「おっと、やきそばと、やきそばパン・・・」と、よく唸っていた(笑)さて、未来について。ツヨシが亡くなってから、これから先のことは考えられなくなった。「未来」「夢」「目標」・・・私の大好きだった言葉だ。子どもたちにも、いつも言っていた。「少し先の目標と、うんと先の夢を持て」。私は離婚するまで、というか、結婚中は何も夢を持たなかった。「どうせ無理なんだから」と諦めグセがついてしまっていたのである。でも、離婚をしたときから、未来がひらけたと思うようになった。目標を持ち、夢をたくさん抱えた。そして、それらを叶えていく喜びも感じていた。高校の頃に「いつか結婚して子供が生まれるとしたら、男の子だけがいい」と夢見ていた。それは、叶った。結婚する相手は、スーツを着て仕事に行く人じゃなくて、作業着やツナギ、ニッカを着て仕事に行くようなガテン系で、毎朝お弁当を持たせて見送りたい。これは、結婚相手じゃなくて、息子であるマッキーで叶ったのかもしれない。専業主婦がいい。これは叶わなかったし、今は専業主婦になりたいとは思わない。今、何も夢見ない。私の心からの夢は二度と叶わないからだ。私はずっと思っていた。いつか、たぶんずっと先の未来。私がいつか死にゆく時、愛する三人の息子達に囲まれて死にたい、と。嫁も孫も居なくていい。ただ、三人の息子達に「あぁ、楽しかった」と言って死にたい。そして、お通夜の後で、三人の息子達がお酒でも飲みながら「自分が一番可愛がられた」と、三人ともが言い、争い、泣きながら笑って欲しい。私という母親について語り合い、思い出話をして欲しい。そう思っていた。絶対に叶わぬ夢となった。これから先、これまでのように子どもたちに「夢を持て」と言い続けてやれるだろうか?自信がない。
2005/10/22
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今日は一日社長と一緒でした。せっかく来たので、目一杯働いてもらおうかなぁ、と思って(笑)お昼もご馳走になり、段取りよく動くこともできたので、いい一日だった。さて、そのお昼に入ったファミレス。1時過ぎに入ったのだが、まだお客さんがいっぱいだった。ウエイトレスの機嫌が悪いのである。日替わりランチが何なのかも言わず、愛想は悪い。社長も「まったく感じがわるいなぁ」と言っている。もともと営業だった社長は、誰とでも気さくに話し笑える生粋の営業マンだ。多少のことは「まぁ、そう言うなよ」と私たちが窘められるくらい気持ちの大きな人である。その人がそう感じるぐらいなのである。きっと、私一人だったり、社長が一人で来ていたら、どちらも文句のひとつも言うところだ。しかし、二人でいるから言わないで居られたりする。仕事が忙しいと機嫌が悪くなるひとは結構いる。一緒に働いている人に当たったり、ひどいときは、このファミレスのウエイトレスのように、お客さんに機嫌の悪さをみせたりする。私には、それがわからない。忙しいということは、有り難いことなのだ。私たちの仕事だって「頼むよ、今日配達してくれよ」と言われ、あたふたすることもある。また、すごく少量の注文で「現場に持って来て」と言われたりすると「そんなの断っちゃえよ」と会長から言われることもある。明日もそんな配達が一件あって、一応休みの日だが、お届けに行く。でも、私の基本は「職人さんが仕事をしやすいようにする」という思いだ。明日の仕事に困ったことが起きたら、可哀想だ。「どうせ働くなら機嫌良く」が私のモットーなのである。子供じゃないんだから。そう。子どもたちが小学生の頃の話。梅雨時だったのか、何日か雨が降りつづいたある日。子どもたちの機嫌が悪く、そのうち兄弟ゲンカになった。取っ組み合いのケンカだ。「なんでそうやって機嫌が悪くてケンカしてるの?」と私が怒ったらツヨシが言った。「だって!雨が降ってるんだもん!」雨が降って、外で遊ぶことも出来ずに、体力が有り余ってしまうんだな、と素直に感心してしまった。男の子ってすごいなぁ・・・と。「じゃあ、どっちかが血を見るまでやれ!」と言ってやったら、ケンカは終わった。
2005/10/21
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明日は社長が来る。一緒に取引先に行くのだが、せっかくなので一日連れ歩くことにした。もちろん、現場にも。さて、新番組のドラマ「ブラザービート」。三人兄弟の話だ。なんとなく切なく感じる。兄弟ゲンカの場面など、かつてのマッキーとツヨシのようだ。大きくなった息子達のケンカは、迫力が違う。昨日、前を走っていた車に「だんご三兄弟」のぬいぐるみが乗っていた。「長男・次男・三男」と団子のひとつひとつに書いてある。あの歌が流行っていた時、なんとなく嬉しかったことを思い出した。私は三姉妹だ。それも年子である。姉はひとつ上、妹はひとつ下。子供の頃は「お母さん頑張ったね~」なんて言われ笑われることがイヤだった。高校の頃はバイト先のおばさんに、「三姉妹の真ん中なんて可哀想」と言われたこともあった。でも、きっといつでも最高の相談相手だったのだと思う。友だちに言えないことも話せる。今、誰のことが好きなのか、それはいつも知っていた。私がバレンタインデーにチョコをあげるつもりの相手に、姉はわざわざ「妹がチョコをあげるから、もらってやって」と言ったり妹が手紙を渡した私の同級生が、友だちにその手紙を見せていると言って妹が泣いた時には、私が文句を言ってやったり。あんなにイヤだった年子が、今は本当にありがたい。きっと、マッキーとツヨシだっていつかは、年子で良かったな、と思ってくれると思っていた。大人になったとき、一番の相談相手になると信じていた。もう、それも叶わない。「ブラザービート」。三兄弟の三男役の中尾クン、笑い方がツヨシによく似ている。
2005/10/20
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早速ですが・・・売れました!やっと、今日。「ここでバンザイしたいくらいです」と言うと、その社長は笑った。まずは、よかった。さて、インターネット。私がこうして皆さんと出会えたのも、インターネットのおかげだ。私がツヨシを亡くして失意の中にいたとき、ふと「同じ思いをされてる人がいるかもしれない」と思って、検索した。この悲しみを共有してくれる人を求めたのだった。「あぁ、私だけじゃなかった」・・・私と同じ思いの人たちがいた!インターネットを通じて知り合った相手が、とても近くに感じる。それは、私はずいぶん前から経験していたことだった。掲示板などで話し、それがメールになり、電話で話し、実際に会う。そして、もしかしたら一生の友だちになれる。インターネットが無かったら、出会うこともなかった相手とである。そうして私はたくさんの仲間と知り合えて、今も仲良くさせてもらっている。最初に会った時から、すでにお互いのことをある程度知っていて、もう昨日の話の続きができるのだ。それは、本当に凄いことだと思う。今日、仕事中にそれを考えていたら涙が出てきた。三年前、事故で亡くなってしまった友を思い、涙がでちゃったのだ。何でも話せる相手だった。何でも話してくれた。知り合うまでの自分たちのこと、仕事のこと、家族のこと、別れた恋人のこと、どんなに話しても、話は尽きなかった。夜中までメールをし、それから電話で朝方まで喋った。彼のお母さんから、次の日「昨日の夜、ラジオを付けっぱなしで寝たの?」と言われてしまうほど。楽しかった。涙を流しながら笑った。信じられないほど、真面目な話もたくさんした。「なにされとる?」そんなメールが今にも来そうな気がする。インターネットを通じて知り合い、かけがえのない人になったのに。もう話すことができない現実。ツヨシはもう彼に会っただろうか?そんなことを考えたりする。彼らにいつか会うときに、「頑張ったよ!」と言えるようになりたいと思う。誰にも負けないで、自分らしく生きて、笑顔で空に帰れるように・・・。同じ痛みを分かち合える仲間たちに、来月お会いする。そうした時間がもてるのも、インターネットのおかげである。
2005/10/19
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仕事をしているにしては、ひとりの時間が多い。営業所にひとりなので、朝、「お早うございます」という相手もいない。もちろん本社からの電話は頻繁に掛かってくるが、基本的には何でもひとり。自分のスケジュールの管理から、ゴミ捨て、買い物、銀行、すべて自分でやる。気楽だけど、キツイ。キツイけど気楽。基本的に、ひとりが平気なのだ。仕事だけじゃなく。もちろん、友だちとワイワイやるのも大好きだし、そうした時間は大事にしている。要するに、ひとりの時間を楽しめるということだ。ランチも「ひとりでお店に入れない」という人は結構いる。誰かと一緒でないと行動できない人は、いつも子供と一緒だったりする。さすがにラーメン屋さんには、一人で入らないが、だいたい何処でも一人で平気で、高速のサービスエリアで、おそばを食べたりしている。本を読むのが大好きなのも、ひとりの時間を楽しめる要因だと思う。本は場所を選ばない。その場で、物語の世界に入っていける。「ひとりの時間を楽しめない人は、誰といても楽しめない」何かの本に書いてあった言葉だ。私の周りにも「つまらない」「退屈だ」と、いつも言っている人がいた。「つまらない、と言っている人の所へは、人は集まって来ませんよ」と言ってあげたことがある。ひとりの時間にたくさん泣いて、ひとりで居たくないときに、誰かにちゃんと「助けて」と言えるようにいたいと思う。言葉に出して「助けて」と言わなくても、きっと分かってくれるはず。目の前で笑っている私を見て、目の前に居ないときに、たくさん泣いていることをきっと分かってくれていると思っている。ひとりの時間を大切にして、誰かと一緒の時間をもっと大切にできる人でいたい。
2005/10/18
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営業という仕事をしている。営業は、その時に会社が一番チカラを入れている「コレ」と言うモノを売らなければいけない。今は、まさにその時で、新商品が出たばかりの我が社は、営業の鼻息が違う。・・・私だけ、売れてないのである(泣)今日は朝から「絶対売ってから事務所に帰る!」と思い、現場を回ったのだが即決はしてもらえず、社長に泣きを入れた(笑)でも、今日一日だけを振り返ってみれば「頑張ったよ!私」なのだ。職人さんとたくさん話したし、明日の約束もとれている。18階まで歩いて登って、ちゃんと話を聞いてもらえたし、マッキーの働く姿も見てこれた。売れなくても、気持ちは爽やかなのである。私は、今、自分自身への信頼を必死に取り戻そうとしている。仕事だけじゃなく、すべてにおいて、私はこれまで自分自身を信頼してきた。どんなに大変な状況でも「絶対大丈夫」と思って来たしわざと自分を崖っぷちに立たせてみたりした。気持ちが萎えそうになった時でも、最後の最後には底力を出せると信じてきた。ところが最近、私自身を「可哀想だなぁ」と思うようになっていたのである。周りからも、自分からも「強い人」と思われて、本当は、こんなに悲しいことがいっぱいだったのに・・・。それでも明るく生きてきた自分が可哀想になっちゃったのだ。ツヨシが亡くなって、初めて、私の人生を客観的に見てしまったのだ。このまま泣き暮らしていいのなら、そうするだろう。狂ってしまえるなら、楽かもしれない。でも、私には、今も私を信頼している子どもたちが居る。狂ってしまって、可愛かったツヨシを忘れてしまうわけにはいかない。もう一度、ちゃんと自分を信頼できる自分になりたいと願う。ツヨシを亡くした悲しみを抱えたまま、胸を張れる自分になりたいと思う。それはきっとすごく大変なことだと思うけど。
2005/10/17
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今日は、バリカンでアツシの髪を刈った。丸坊主だ。生え際は、かみそりで剃って、とても上手に出来た。床屋さんに行ったみたい♪最近ずっと丸坊主にしているマッキーは、一昨日、自分で刈って、後ろのほうは手伝ってあげた。うちの子どもたちは3人とも、頭の形がいいので、丸坊主がよく似合う。マッキーとツヨシが小さい頃、ずっと私が髪を切ってあげていた。髪が伸びて、だらしないのが嫌いなのと、二人分の床屋代がもったいないというふたつの理由で、1~2ヶ月に1度、切っていた。回数を重ねるごとに上手になっていった。仕事を終え、保育園に子どもたちを迎えに行って、髪が気になり出すと家に帰ってから二人の髪を切ることもあった。一人切っては、お風呂に直行させ、もう一人切って、お風呂へ。二人が床屋さんで切るようになったのは、小学校の中学年になってからだ。アツシは、ずっと床屋さんでスポーツ刈りにしていた。ツヨシがいつだったか「お前はスポーツもしてないのに、スポーツ刈りなんておかしいだろ」とアツシに言って、みんなで笑った。ツヨシが最後に髪を切ったのは、病院の中だった。抗ガン剤で髪が抜けはじめて、ツヨシが自分から「丸坊主にする」と言ったのである。院内の理容室の人にベッドに来てもらい、切った。胸に水が溜まって、呼吸をするのが苦しい時だった。顔を剃ってもらいたい、と言っていて、だけど別料金なのか、と気にしていた。「顔をそってもらうと、お金、高くなりますか?」そう聞いていた。そんな時まで、お金の心配をさせてしまっている、と私はすごく切なくなり「お金のことなんか心配しなくていいよ」とツヨシに言った。でも、結局ツヨシは顔を剃らなかった。ツヨシも丸坊主がよく似合っていた。アツシもとても似合っている。そして、ツヨシに似ている。
2005/10/16
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今日はさすがにお酒を飲む気にもなれませんでした・・・。さて昨日。友だちが次男(23歳)の悩みを話していた。仕事が長続きせず、最近は家からほとんど出ずにいる、と。私も何度も会ったことがあるが、明るくていい子なのだ。そこで話していたみんなが言った。「もっと厳しくしたほうがいいよ」。それはそうだろう。いつかは親に頼らず、自立した大人にならなければいけない。自分で稼ぐ楽しさを知って欲しい。稼いだお金を使う喜びを知って欲しい。いずれ家庭を持ち、人並みの幸せを掴んでほしい。そのためには、厳しくすることも親の愛情のひとつだ。ツヨシが亡くなって、初めて思った。生きてさえいてくれたら、それだけでよかった、と。どんなに困らせられても、生きていて欲しかった。ただ生きていてくれるだけでよかった。でも、それは、亡くなったから思うこと。「亡くなってしまうぐらいなら」・・・ということ。ツヨシが今も元気でいたなら、やっぱり違っていただろう。生きていたなら、そしてまた、その先も生きていくとするなら働く喜びを知り、自立した大人になって欲しいと願うだろう。そういう姿を夢見て、親は子供を育てていくのだから。厳しいことを言い、その時は子供にうるさがられたとしてもいつかは子供が親の言いたかったことを理解する日がくるはずなのだ。親子の時間が続いていくなら・・・。今は、次男の心配をし、辛い思いの彼女だって、いつかは、親として感謝される日がくるだろう。その時に私は心から「よかったね」と言ってあげられるだろうか?冷たい風が吹くようになって、ツヨシが亡くなった「あの日」の一年後へと確実に近づいているのだと感じる。今年は、うちから見える富士山のキレイな姿を見るのが辛いかもしれない。
2005/10/15
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飲んできました~ぁ。子どもたちと夕飯を食べてから、飲みに出掛けました。あたたかく迎えてくれる店がある。ツヨシのことも知っていてくれて、私一人でも安心して行けるお店だ。きっと私のことを心配してくれているのだろうな・・・と思いながらしばらく行ってなかった。私を心配してくれている人たち・・・ありがたかった。私は本当にたくさんのひとに支えられているのだと、改めて感じる。みんな、みんな、ありがとう!みんな、みんな、ありがとう!酔いました~!もう寝ます。また明日!おやすみなさい。
2005/10/14
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今日は午後から埼玉の本社へ。家に着いたのは、9時すぎでした。明日は車検が終わって、車が戻ってくる。ちょっと嬉しい♪さて、離婚。私は9年前に離婚した。18歳で結婚し、30歳で離婚。それが長かったのか短かったのかは、よくわからない。確かなことは、この離婚によって私と子どもたちは幸せになった、ということ。この離婚に際し、私は元夫に大きな嘘をついた。離婚はするが、いずれ生活を立て直しやり直す。私たちはそう約束した。一時期、離れて暮らすけれど、またみんなで暮らそうと約束したのだった。元夫は住み込みの仕事を見つけ、家を出た。「今度こそ頑張るから」と言った。私は、私と子どもたちの生活を守りたい、それだけしか考えていなかった。だから、私は彼から逃げることを選んだ。住民票を移さず、内緒で市外へ引っ越しをしたのだ。引っ越しの日も決まり、家の中には大量のダンボールがあったその日、仕事が休みだから、と元夫が最寄りの駅まで会いにやって来た。「子どもたちに会って帰りたい」という彼を、ダンボールの沢山ある家に連れて帰るわけにはいかない。いろいろ理由を並べて、そのまま帰ることを納得させた。今でも忘れられない光景。駅の改札を通って、見えなくなるまで、いつまでもいつまでも笑顔で手を振っていた彼の姿。彼はまた会えると信じ、私だけがもう二度と会わないことを知っていた。それから何年か経って、私たちの住所が知られ、電話で二度ほど話したことはある。ただ、私は元夫を許せない。今も。あの日から私は、私だけの子どもたちだと思って、生きてきた。子どもたちには、あんな男にはなって欲しくない、それだけを思って。ツヨシが亡くなったことも、知らせてはいない。この悲しみを抱えているだけで精一杯なのに、これ以上イヤな思いをしたくない。それと同時に、私はずっと思っていることがあるからだ。ツヨシの代わりに死んでくれれば良かったのに・・・。
2005/10/13
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私がいつも乗っている車が車検のため、軽ワゴンを代車で借りました。車高が高いので、視界が違っていて面白い。でも、AMラジオしか聴けないの・・・もうすでに禁断症状が・・・(笑)う~っ!車で布袋さんが聴けないなんて!しかもFMすら聴けないなんて!さて、私はなぜかお年寄りに好かれる。買い物中や、銀行の中、ありとあらゆる所で、お年寄りに話しかけられる。それはさておき、私はお年寄りの涙がダメだ。テレビなどで、あばあちゃんやおじいちゃんの涙を見ると、うれし涙であれ、悲し涙であれ、見ている私が、ガーッと涙がでてしまう。ずっと忘れられないおばあちゃんがいる。私が以前、葬儀関係の仕事をしていた時の話だ。亡くなったのは、体の大きなおじいちゃんだった。それに引き替え、おばあちゃんは小さなおばあちゃんだった。「おじいちゃん、大きな人ですね」と言うと「そうなんですよ」と言ったおばあちゃんは、長年ずっと苦労させられてきたのだ、と話した。気にくわないと暴力を振るい、おばあちゃんはいつも顔色をうかがって暮らしてきたという。最後におじいちゃんの顔を拭いてあげながら、おばあちゃんは泣きながら「じいちゃん、許せよ」と言った。何を許せと言っているかというと、おばあちゃんは、これからおじいちゃんのいない幸せな生活を送ることができる。その「幸せ」を許せよ、と言い泣いているのだ。あとどのくらい残りの人生があるか分からないが、長い時間でないことだけは、確かなのである。息子さんたちも「幸せになろうな」と泣いていた。おばあちゃんは何度も何度も「あんたが居なくなって、私は幸せになる」と泣きながら言っていた。その涙は、おじいちゃんのためではなく、苦労してきた自分自身への涙だと私は思った。私はその時、母の未来の姿を見たような気がした。このまま父親と一緒にいたら、いつか年老いた母が同じ涙を流す日がくる。そう思った。体が震えるほど怖くなった。今、母は誰の顔色を伺うこともなく暮らしている。時々、アツシを遊びに連れて行ってくれる。それを「おばあちゃんとデートしてきたんだよね?」と私がいうと「デートじゃない!」とアツシは怒るのだが・・・(笑)あのおばあちゃんは、まだお元気でいるだろうか?年齢のことだけを考えると、きっともうおじいちゃんのいる所へ行っただろう。でも、きっと最後は笑顔だったと、信じている。
2005/10/12
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連休明けの仕事は、やはりノリが悪いです。昨日、友だちがマッキーに「ランチジャー」をプレゼントしてくれたので今日からマッキーのお弁当は、ホカホカで美味しかったらしい♪さて、私たち家族は以前も書いたとおり、離婚するまで極貧生活を送っていた。近所に住んでいた友だちが、今も「大変だったよね」と言うほど。ただ、私たち家族は、まわりの沢山の人たちに助けられた。それは、まぎれもなく私たちの財産であり、忘れてはいけない恩である。ツヨシが産まれたのは、当時、私の実家近くにあった助産院だ。珍しい名前の助産院で、私が子供の頃からあり、その名前は印象深かった。その助産院に初めて行ったのは、住んでいた東京の住居を引き払い、元姑の家に家族で身を寄せた直後で、その時にはすでに「いつ生まれてもおかしくないよ」と先生に言われる状態だった。でも、お金が無かった。助産院では、とうとう言えなかったことを、私は帰って来てからどうしても言わなければ、と思い先生に電話をした。「出産費用がないので・・・分割にしてもらえませんか?」そう私が言うと、先生は即答した。「いいわよ!」たった一言、そう言っただけだった。まるで、「お水を一杯ください」とか「トイレを貸してください」と私が頼んだみたいに、「いいわよ!」と言ってくれたのだ。入院中も私を「○○ちゃん」と名前で呼んで、至れり尽くせりの待遇だった。その後、毎月少しずつお金を持って伺う私に「○○ちゃんはエライね、ちゃんと毎月お金を持ってきてくれる」と言う。そして、先生自身が苦労した夫の話を聞かせてくれるのだ。離婚したことを、先生に伝えたときには「そうか、よかったね~」と言ってくれた。先生に最後に会ったのは、いつだっただろう。昨年末の、ツヨシが亡くなったことを知らせる喪中ハガキを、先生はどんな思いでご覧になったのだろう。近いうちに、先生に会いに行こうと思う。私の大事な大事な恩人である。
2005/10/11
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今日で連休も終わり。今日は友だちが遊びに来ました。わが家のネコ・タイガーくんを拾ってくれた友だちです。しかし、タイガーくんは命の恩人をすっかり忘れ、とても他人行儀(笑)。最近、成長して人見知りをするようになったタイガーくん。さて、一昨日、自治会の会長が訪ねてきた。「おたくで、息子さん亡くなりましたよね」と聞く。用件は、その時に自治会として香典を出してないのではないか?という内容。香典袋を見せながら「もらいました?」と聞く。ツヨシが亡くなって、もう10ヶ月も経つ。しかも、自治会から香典をもらったかどうか、なんてすぐに返答できる話ではない。「一応、調べてみる」と約束したが、会長が帰ったあと腹が立ってきた。調べるのは、そっちだろう。まして、こっちはお年寄りが亡くなったわけじゃないんだ!少しは心情を察してくれよ!その夜、電話が掛かって来たとき「もう結構です」と言った。そして、今日「これ、じゃ、一応渡します」と香典袋を差し出す。もう何も言う気になれなかった。「じゃ、一応」ってなに?ツヨシが亡くなって、明日で10ヶ月。その間、無神経な人の言動に、何度か驚かされたツヨシと同い年の娘を持つ人が見せた、大学に入学した娘の写真。ツヨシのことを「宇宙旅行してると思えばいいじゃない?」と言った。また「娘がツヨシの写真を欲しいって」という友だちに「じゃ、大きく引き延ばしたら?」と言うと、一言。「こわ~い」・・・。ある人が、私に言ってくれた。「怒っていいんですよ」と。「あなたに私の気持ちなんて分からない!と、怒っていいんです」そう言ってくれた。気持ちがとてもとても楽になった。その人は、一緒に泣いてくれ「ツヨシくんはね、お母さんのここに生きている」とご自分の胸をたたいた。「泣いていいんですよ、元気になれなくてもいい。いっぱい泣いていいんです」私は、本当に救われた。無神経な人はいる。でも「怒ってもいいんだ」と思うと、怒らなくてもいられるようになる。その人は、私の心に花束をくれた。とてもステキな人に、私は出会えたのだ。
2005/10/10
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今日は、連休2日め。お天気も悪いので、一日寝てばかりいました。今年は国勢調査がありました。家族の人数を書くところ。つい「4人」と書いてしまうのだ。「あぁ・・・3人だった」と消しゴムで消し、書き直す。もう何年も「4人」と書いてきた。家族の人数は「4人」だった。ずっと。年末が近づくにつれ、広告には年賀状の印刷が多くなる。毎年、年賀状は自分で作っていた。パソコンがないときは、手書きで子どもたちの似顔絵を描きパソコンが来てからは、デザインを考え、子どもたち全員を連名にして。そう「4人」が家族だったのだ。私と3人の子どもたち。夕飯のおかずの量。私の一番嫌いな言葉は「もう少し食べたかった」で、私の一番好きな言葉は「腹一杯」。だから以前から、たくさん作る。質より量だ。焼きそば、チャーハンは、一度では作りきれないので、二回に分けた。男の子三人のお腹を満足させること、それは大変だったけど楽しかった。今、量が分からないのである。たくさん作りすぎて、たくさん残ってしまう。「明日の弁当にとっておけば?」とマッキーに言われ、「もう、とってあるんだ」と答え、苦笑されることもしばしば。アツシが言う。「ツヨシがいれば、ね」4人が3人になった。それを感じるときは、日常の中にたくさんある。その度に、悲しみを感じる。ただ、いくら悲しくても辛くても、私はツヨシのことをいろんなひとに話していきたい。ツヨシがいたことを、ツヨシが18年生きたことをたくさんの人に忘れないで欲しいし、知って欲しい。納豆とラーメンとハヤシライスと豚の生姜焼きが大好きだったツヨシのことを。
2005/10/09
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子どもたちが小さいころ、私はそれぞれの育児日記をつけていた。だいたい一ヶ月に1、2回、その時の子供の様子や、言った言葉などを書き、残している。(’88年10月7日・ツヨシ2歳)よく喋る。何かイタズラをして「誰がやった?」と聞くと「○○くん(マッキー)やったの」と言う。ツヨシがしたってことがわかっている時もそう。それから「これ買ったの」がお得意。昼ご飯の時「さぁ、ご飯たべようか」というと、朝ご飯を食べたことを「しゃっき(さっき)ご飯食べたでしょ」と言う。台所で、ママがスリッパを履いていないと「オチュッパ(スリッパ)はいて、ママ」と揃えて前に置いてくれる。あの頃のことが鮮明によみがえる。可愛い、という言葉が日記に何度も何度も書いてある。時には、似顔絵を描いたり、子供たちにイタズラ書きされていたり。あの頃・・・例えば、↑の日記のツヨシが2歳だった17年前、ツヨシがいつか居なくなってしまうなんて考えもしなかった。(’91年9月25日・ツヨシ5歳)この前のツヨシの言葉。「ぼくが大きくなって、ママがおばあちゃんになって、ぼくのバブちゃん(赤ちゃん)が生まれたら、ママに「可愛い」って言って欲しい」だって。大笑いしてしまいました。「運命だった」とか「寿命だった」なんて思うことは出来るはずもない。子供が親に虐待される事件が、年間に何件あるだろう。また、親がパチンコなどで遊んでいる間に、子供が亡くなる事件は毎年のように繰り返される。そうしたニュースを聞くたびに、憤りを覚えてきた。親の都合で亡くなっていく子供。その親は、子供の未来を夢見たことは無かったのか。私はいつだって夢見てきた。ツヨシのバブちゃんを「可愛い」と言ってやりたかった。
2005/10/08
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自分では当たり前のように、日常やっていることでも改めて考えたり、ひとに指摘されると「変だったんだ」と思うことがある。私の変なクセ。毎晩、寝るときに目覚まし時計をセットするのだがその時、必ず裏側の電池が入るところのフタを開けて、電池がちゃんとした位置に納まっているか、浮いてないか見る。で、一応電池を、一回指で押してフタを閉め、目覚ましをセットする。毎晩毎晩、セットするときには必ずやる。たぶん。昔、電池がずれていて、目覚ましが鳴らなかったことがあるのかもしれない。覚えていないのだが・・・(笑)さて、変な趣味。私の変な趣味は、耳掃除だ。自分の耳ではなく、ひとの耳。大好きなのだ。今、耳掃除をさせてくれるのは、アツシだけという淋しい状況。驚かれるかもしれないが、ツヨシは高校生になってからも時々、耳掃除をさせてくれていた。マッキーは中学のころまでだっただろうか。小学校を卒業するぐらいまでは、爪切りもしてあげていた。耳掃除の楽しさを覚えたのは、子供が生まれてからではない。子供の頃、妹の耳掃除をして、その虜になった(笑)よく父親から「お前達は、サルの子供が毛繕いしてるみたいだなぁ」と言われた。お金をかけずに、それだけの達成感を味わえるモノは、他にないと思う(笑)元夫に言われたことがある。「お前は、子どもたちの耳掃除をしたり、爪を切ってやったり、本当にエライと思うけど・・・泣かせてまでやることじゃないだろう」と(笑)夢中になっちゃうのだ。だって面白いんだもん(笑)
2005/10/07
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私の仕事は、内装工事の職人さん相手の営業である。会社に営業や配達に行くこともあるが、ほとんどはマンションの工事現場に行くことが多い。当然、こうした仕事で女性の営業は他にいない。たぶん業界では初めてなのでは?と思う。女性だから現場の中にいれば目立つ。「どこ行くの?」と引き留められ、あれこれ小言を言われることもある。逆に「そっちは危ないから、こっち歩きな」などと優しい人もいっぱいいる。この仕事が大好きだ。もちろん仕事だから、楽しいことばかりじゃない。でも、落ち込んだときに元気をくれるのは、やっぱりお客さんである職人さんだ。「何か注文をもらえないかなぁ、と思って押し売りの電話をしてみたんですが」そんな電話を掛けてみると「そろそろ声を聞きたいなぁって思ってたんだよ」なんて言う。家庭のこと、離婚したこと、子供のこと、いろんな話をしてくれる。時には、ネコや犬の話まで(笑)私のことを名字でなく、名前で呼ぶ人も何人かいる。この仕事があってよかった。そう心から思う。いつか、他の会社の営業から「あの会社の女の営業、うぜえよな」そう言われることを夢見ている(笑)もしかして、もう言ってくれているだろうか?
2005/10/06
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今日、10月5日は、ツヨシの彼女K子ちゃんの誕生日。すでに日曜日にプレゼントは買っており、今日まで待って、仕事の帰りに届けようと目論んでいた。会社の事務所近くに住んでいるので、朝からプレゼントを携え仕事へ。で、夕方メールしてみる。バイトで居ないならお母さんに預ければよい。今日はK子ちゃんの19歳の誕生日。の、ハズだった。メールの返事は「誕生日は、3日でした」・・・あちゃ~ぁ!やっちゃったよ(笑)3日だったのかぁ。かくして、二日遅れの誕生日プレゼントになってしまった。それでも、K子ちゃんは「スッゴク嬉しいです」と喜んでくれた。K子ちゃんがバイトで居ないとの事なので、お母さんに預ける。お母さんは、訪ねて行った私の顔をみるなり、喜んでくれ、すぐに目に涙を溜めた。「ついさっきもね、ツヨシくんのこと思い出してたの」そう言って「悔しいよね」と涙を拭う。「これから先のことは何も分からないけど、一生のお付き合いをお願いします」と仰ってくれた。ツヨシとK子ちゃんが付き合ったのは、たった3ヶ月半である。そして、最後の1ヶ月は病院の中だ。それでも、つきあい始めた26日になると、「うちらが付き合いだして○ヶ月だね」と、今でもツヨシの携帯にメールを送ってくる。可哀想になっちゃうのだ。けなげで、可愛くて、切なくなる。入院中は、本当に献身的にツヨシの面倒をみてくれた。脳梗塞になってからも、変わらずツヨシのそばで笑ってくれていた。プレゼントにつけた手紙には「今までも何度も言ったし、これからも何度も言うと思うけど、K子ちゃんに言う言葉は、これしかない。K子ちゃん、ありがとう」と書いた。伝えたい思いはいっぱいある。でも、それをどんなふうに伝えていいか、言葉が見つからないのだ。ツヨシに出会ってくれてありがとう。ツヨシに優しくしてくれてありがとう。ツヨシを好きになってくれてありがとう。・・・最後まで一緒にいてくれてありがとう。19年前の10月3日、K子ちゃんが生まれてきてくれたことに、ありがとう。
2005/10/05
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今日は、本社(埼玉)での月1の会議のため、職人のマッキーよりも早く家を出た。仕事のことで、弱音を吐くのは大嫌いだが、今日はあえて言う。クタクタだ。あぁ、週末まで長いな。さて、マッキー(20歳)。わが家の長男である。この9月で、今の仕事を始めてから一年になった。以前勤めていたガソリンスタンドの時から、仕事は休まない。今は、私のお客さんである親方の下で、内装工事の職人をしている。余計なことを喋らない男だ。それでいて、外ではニコニコ笑顔を絶やさない。・・・というより、笑っていることで自分の気持ちを安定させているように思う。優しい男である。苦労を共にしてきた同志である。ツヨシが自由奔放だったぶん、マッキーは小さい頃から聞き分けのいい子でいるようだった。年子でいつでも一緒だったから、すごく仲のいい兄弟だった。ケンカをしながらも、いつの間にか仲直りし遊んでいる。そんな二人が、ツヨシの入院する少し前から、口をきかないほど険悪になった。お互いのことは、私を通して知り、たまに顔を合わせると罵りあった。「そのうちに仲良くなるだろう」と私は、知らん顔を決め込んでいた。ツヨシが入院し、手術後「危険な状態です」と言われたときマッキーは、どんな気持ちだっただろう。それから少しツヨシが元気になったとき、マッキーは仕事のあと毎日病院にやってきた。一緒に笑い、ふざけ合い、マッキーが来るのをツヨシは楽しみにしていた。「明日休みなら朝から来てよ、兄ちゃん」なんて言い「オレ、最近兄ちゃんのこと好きなんだ」なんて照れずに言った。「心配かけてごめんね」とマッキーに泣いて言ったツヨシ。「退院したら、オレのおごりでみんなで飯を食いに行こう。K子ちゃんも一緒に」とツヨシに約束した。お喋りだったツヨシが居なくなって、マッキーは少しだけお喋りになった。それは、ツヨシが居ない淋しさを、私たちになるべく感じさせないように頑張っているのだと思う。たくさんのことを我慢してきた息子である。どうか、どうか、彼が幸せに生きていけるよう、心から願うばかりだ。
2005/10/04
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今日は夕方、会社に友達が来て一時間余りお喋りした。同じように働き、子供を育てる彼女との話は、いつも楽しい。さて、ツヨシが入院したとき、周囲の人は皆「事故?」と聞いた。それはそうだろう。私ですらツヨシがまさか病気になるなんて考えたこともなかった。まして、命に関わる病気をである。だから、私は常々、ケガをさせない事だけに心を砕いてきた。子どもたちに何かあるとしたら、それは事故によるケガだと思っていたからだ。口を酸っぱくして言ってきた。どれだけ酸っぱいかというと、梅干しにレモンを掛け、酢を混ぜたぐらい酸っぱいのだ(笑)まず、私と一緒に公園に行っても、子どもたちは楽しくないのである。滑り台は階段を上ったら「危ないからすぐに滑れ」と言いブランコは大きく漕いだら「危ない」と騒ぐ。もし目の前で立ち漕ぎなどしようものなら、失神してしまうだろう。エスカレーターでは必ず手を繋ぎ、階段の「二段飛ばし」など論外だ。学校の階段で、友達とふざけていて転がり落ちたらどうしよう?と夜考えて、眠れなくなることもあった。また、ツヨシが原チャリで2ケツしていると友だちから通報があった時は「そこに居るように行って。すぐ行くから」と飛んで行きその家の玄関から胸ぐらを掴んで引きずり出し、パンチをくれてやった。あとから友だちから「ママが来るまでの間、ツヨシ青くなって震えてたよ」「怖かった」と言われた。私は「当たり前だ!子供を守るのは私しか居ないんだから」と言った。そうして守ってきた大切な命なのだ。ツヨシの容態が悪くなった日、買い物してまた病院に戻るところだった。スーパーの駐車場で、私の車の前に子供が飛び出してきた。遅れて母親が「すいませ~ん」なんて呑気な声と顔。その刹那、私に殺意が芽生えた。もしもここで、この子供を轢き罪に問われたとしても、それでツヨシの命が助かるなら、それでも構わないと思った。なぜだ。手を繋がない母親の子供はケガもせず、異常なほどに気を付けていた私の大切な子供が病気になるのだ。これを理不尽と呼ばなくて、なにを理不尽というのか?
2005/10/03
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今日は子どもたちと買い物に出掛けた。最近、三人で出掛ける時は、マッキーの運転だ。あぁ、そんな歳になったんだな・・・と感慨深い。車の運転は好きだ。そうでなければ困る仕事なのだが。私が運転免許を取得したのは、34歳の時だから、5年前。当時勤めていた会社で取らせてもらったのだ。それから今日に至るまで、自分で車を持たなくても乗り回す車を会社が与えてくれるという、有り難い環境にいる。ガソリン代を初め、車にかかるお金はすべて会社持ちだ。休みの日に遊びに出掛けようが、咎められることはない。さて、運転中、渋滞に巻き込まれてもイライラすることはない。ただひとつだけ許せないことがある。それは前の車が、その前にいる車との間にすご~く車間距離を開けている時。意味もなく、そう例えばスピードを出しすぎているわけでもないのに車間距離を開けていると「均等にしてくれ」と思う。車の運転は好きだ。しつこいようだが(笑)毎日ゴーカートに乗っているようで楽しい。地図さえあれば何処にでも行ける自信がある。だから、近所のお年寄りや車のない友達には「何かあったら車出すからね」と言ってある。極貧生活が長く、子供のケガなどでタクシーを使ったり誰かに気を使いながら乗せてもらったことが忘れられないのだ。なので、いつでも言って、会社持ちなんだから・・・と言う。ツヨシの友達も皆、車を乗り回すようになった。時々思う。今頃、ツヨシも運転していたかもしれないなぁ、と。入院中、ツヨシは、私の会社の社長に、退院したら私の会社で働きたいと言った。社長は「おぉ、待ってるからな!」と言い、「早く治して退院してくれよ!」と言ってくれた。今頃・・・一緒に仕事をしていたかもしれない。車に乗って。
2005/10/02
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野球の話。私は野球に詳しくはない。プロ野球の優勝が決まる前の「マジックいくつ」というのも元夫に最低5回は説明してもらったと思うのだが、みなも聞かずに「やっぱりわからないや」と聞いているフリだけしてやり過ごした。マッキーとツヨシは、小学校の頃から野球をやっていた。ある日突然、二人ともユニホームを着て帰って来たのである。著しく勤労意欲の欠如した元夫のせいで、私たち家族は貧乏であった。野球をやりたいと訴える子どもたちに、心で詫びながらその話を先延ばしにしていた結果、二人は強行突破したのだ。グローブやバットの道具類は、先輩たちのお下がりを貰うし夏休みの合宿など、余分にお金がかかるものには不参加で構わない、と。野球をやりたいと言ったその言葉に嘘はなく、毎週土・日の練習は休むことなく通った。さて、このところプロ野球は話題が豊富だ。楽天イーグルスの田尾監督が、3年契約だったのにも拘わらず1年で解任されることとなった。たった1年でどうしろというのだ。田尾さんは好きでも嫌いでもないが1年で結果を期待するほうがおかしいではないか。生まれてたった1ヶ月の赤ん坊に「歩け」と言っているようなものである。後任に、野村克也氏を狙っているらしい。野村さんは昔から大好きだ。だからこそ、辞退して欲しいと思うのは勝手だろうか。それから、ヤクルトスワローズの古田捕手が、監督を兼任するかもしれないという。これは、いい!古田クンの大ファンの私である。アツシが生まれた時だって本当は「敦也」という名前にしたかったのを、もう一人の親に反対されラグビーの神戸製鋼・大八木淳史のファンでもあったため「淳史」にしたのだ。古田クンは、野村氏の愛弟子のようなものだ。すると、もしかしてセ・パ交流試合で、野村vs古田なんていうのも夢じゃないのか?野村さん、ここはやっぱり引き受けてもらうとしようじゃないか(笑)さて、ツヨシは野村克也氏を尊敬していた。小学校の卒業文集に「尊敬するひと」という題で、野村さんのことを書いていた。世界中の誰よりも尊敬している、と書いてある。ツヨシが今回のことを知ったら、なんというだろうか?昨年のプロ野球新規参入のときには、ライブドアを応援していたツヨシだ。今回の楽天の監督解任など、ツヨシの一番嫌うことに違いない。それでも、やっぱり野村さんの再びの胴上げを見たいと思っただろうか。聞きたい。聞いてみたい。ツヨシ、どう思うよ?そう聞きたいのだ。ツヨシのいない現実は、いつもこうして私に突きつけられる。
2005/10/01
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