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京都は俺も大好きな場所のひとつで、旅行自体は楽しみにしていた。太秦映画村や嵐山などを回って写真を撮ったり・・なかなか楽しかった・・そして京都で泊るか地元に帰るか迷っていた時・・自宅から携帯に電話が鳴った・・内容は、長男がふざけてて家具の角で頭をぶつけて頭を切った・・と言うものであった・・驚いて急いで自宅へ帰ろうとした時・・Aの様子がおかしい。。いきなり泣き出して・・「子供と私と、どっちが大切なの?」と。。予想外の言葉であった・・・その答えは言うまでもないハズなのに。。。急いで帰ろうとした時、国道で信号待ちをした瞬間にAは車から降りてしまった・・・驚いて車を脇に止めてAを宥めようとしたがまったく聞く耳を持たず、「一人で帰る・・」の一点張りだったので俺は段々腹がたってきて・・「なにを訳のわからんこと言ってるんや・・」「お前にも子供がおるやろ~!気持ち分からんのか??」と一喝したが、Aは余計にエキサイトしてきた・・・「私は子供なんかより、きよすけが大切!」まったく嬉しくない言葉であった。俺もキレてしまい京都にAをほって帰ってきた。。帰りの道中、いろんな事を考えた。。子供のことも心配で。。俺はこの時を境に、Aから気持ちが少しづつ冷めた・・そして自宅に帰ってみると、頭に包帯を巻いた長男が。。3針縫ったらしい・・またしても自分を責めまくった・・・そして数日経ったある日・・Aから連絡があった。。つづく (続きは次回)
2005年10月31日
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その後、初めて・・ということもあり脳の検査等をしてもらってその日は無事帰宅できた・・・しかし、その夜は自分を責め続け一睡もできなかた・・そして、クリスマス・・・子供とささやかなパ-ティ-をしてあげプレゼントを渡しそのまま家を出て、またAと過ごした・・最低・・そう思う気持ちと、もうどうでもいい・・そのふたつの気持ちが入り交じり、支離滅裂だった。でも、当時は・・どうでもいい・・という気持ちが勝っていたんやと思う。。罪悪感を起こさすものは、子供の存在だけで、嫁に対しては心ここにあらず。。。であった。そして正月を迎え1月の半ば頃から、俺も日曜ごとに家をあけるようになった。大阪、南港の海遊館や静岡の由比ガ浜・・いろんなとこへ行った・・そして3月のある日京都に旅行に行く事になった・・このあとの出来事で、Aとの関係が大きく揺らぐことになる・・つづく (続きは次回)
2005年10月30日
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手術後・・約一ヶ月でギプスをしたままではあるが娘は退院できた・・。が、俺は・・というと、Aとの関係は相変わらずであった・・・この時も、Aを特別に好き・・っていうわけでもなく・・ただ、家庭への不満を、こういうことで逃がしていたのかもしれない・・・長い入院生活であったため、久々に一家揃っての食事は嬉しいハズであったが、俺の気持ちは・・というと・・心ここにあらず・・であった。仕事が終わり家に帰るものの子供を風呂に入れるとすぐに外に出て行く・・当時は嫁の顔を見るのも嫌だったからである・・・長男と風呂に入ってる時が唯一の憩いでありコミニケ-ションがとれる場であった。何かと用事を作っては外出・・休日前は外泊・・そんな感じの生活であった。Aの部屋に俺のハブラシまで置いてある・・そんな父親として最低の状況だった。ただ。。罪悪感は常に持っていたが、それは嫁に対しては全然なかった・・家に帰り、子供の顔を見る度に・・すごい罪悪感で一杯になった・・むしろ、子供の目をまともに見れない最低な自分であった・・そして10月のある日、Aの家にいると携帯電話が鳴った・・・自宅からである・・出てみると弟が・・すごい声で叫んでいる・・よく聞いてみると、長男が・・白目をむいてひきつけを起こしたらしい・・驚いたのと同時に、また申し訳ない気持ちで一杯になった・・・急いで帰ろうとした時・・・Aが・・帰らないで・・そう縋ってきた・・耳を疑った・・そして泣いている・・・あれほど、家庭には迷惑をかけないから・・・そう言っていたAの言葉・・・帰らないで・・・どういう気持ちで言ってるのか??泣き叫ぶAを言ってきかせ急いで家に帰ると救急車が自宅の前に・・・そして救急車に乗り込み病院へ・・・顔色が真っ青な子供を見て・・もう・・どこまで最低の俺なんや・・・自分でもどうしていいか分からない気持ちだった・・つづく (続きは次回)
2005年10月28日
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6月のある日、娘の入院先の医師から話があるから・・・と呼ばれた。嫁と二人で行ってみると、その話とは・・娘の股関節脱臼がこのままでは治る見込みは全くないので手術しか方法がない・・とのことであった。その言葉に、俺はショックで言葉がでなかった。嫁もただ泣くだけであった。病室に帰ると、ベットの上で足に錘をつけて固定され、それでも笑いながらおもちゃをもって遊んでいる娘を見て、いろんな思いが込み上げた・・・娘がこうなったのも俺のせいや・・娘に申し訳ない気持ちでいっぱいになった・・・まだ幼い娘に全身麻酔をかけることはあまり好ましくないが、手術にはどうしても仕方なく同意書を書かされた・・あまりに辛いサインであった。そして、手術当日・・・娘を抱いて手術室の前に行き医師に娘を手渡した時の気持ちは今でも忘れない・・・娘の身体にメスを入れるのに何もしてあげられない・・約4時間の手術を待ってるのはホンマに長く感じた。そして・・手術室の赤いランプが消えベットに酸素マスクをされて、足は石膏ギブスで固められた娘がでてきた・・・また眠っていたが、その姿を見て胸がいっぱいになった。手術はおかげさまで、問題なく成功であったが娘の左足の付け根には一生傷が残った・・・つづく (続きは次回)
2005年10月27日
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当時、会話のまったくない嫁とは正反対にAは、異常なまでに尽くしてくれた・・・そのことが俺には最高の居心地だったのかもしれない・・・気持ちは・・と言うと、まだ恋愛感情までには至ってなかった。ある日、またJから殴られたと連絡があった。そしてAは、とうとうJの家をでることを決意した。それからというもの、JのAに対するスト-カ-の行動が始った。一日に無数の無言電話は当たり前・・家の前で待ち伏せしてはAにすがって、寄りを戻してほしいと時には泣いたり、時には大声で叫んだり・・・その事をAは毎日俺に相談してきた。Aもノイロ-ゼ気味になっていたので、これはなんとかしてあげよう・・そう思って何度もJに言うが、ほとんど2.3日で効果もなく同じ事の繰り返しやったあまり必要以上には怪しまれるので言えないし・・我慢して無視し続けるようにAに言った。そんなんが、二ヶ月くらい続いたと思う・・・次第にJも、毎日が二日に一回とか一週間に一回とか回数が減り、とうとう来なくなりAとJは自然に別れた。そして、6月に入ったある日、また悲しい出来事を経験することになる。つづく (続きは次回)
2005年10月26日
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Aからの電話は、ほとんど毎日で当時俺も正直迷惑だった。そしてこれは電話ではあかんから一度逢ってゆっくり話しを聞くから・・ってことになり、日時を決め逢う事になった。居酒屋で待ち合わせをして、そこでいろんな話しを聞いたが内容は前に聞いたのと同じで話しの進展は全くなかった。俺はAに結論から聞いた・・・ようはJと別れたいのかどうなのか?と。答えは寂しいから別れたくない・・・これではどうしようもなかった・・・3時間くらい飲みながら話していただろうか?Aはかなり酔っていた。このままJの家に連れて行けばまた暴力だと思い、Aの家に連れて帰ろうとした時なんとAの家の前にJの車が止まっていた。俺は変に勘違いされるのが嫌だったので、すかさずAの家を通り過ぎた・・そしてどこに行くわけにも行かずそのままホテルへ行ってしまった。今に思えばこれが一番悪かったと後悔した。そして明け方・・Aの家に再度送り届けたらJの姿はなかった。帰り道・・無性に罪悪感に襲われたのをよく憶えている・・・が、しかし、俺もちょうどこのころ嫁に対して不満だらけで家庭もおもしろくなかったのでこの後自然にAと頻繁に逢うようになっていた。Aは、タイプで言えばまったく俺のタイプでもなく好きでもなかった。しかしこの時は、自分自身の心にブレ-キをかけるものは何もなかった。この後、崖から崩れ落ちるようにズルズルとAにのめり込んでしまった。子供も入院中やのにまったく無責任な自分であった。そしてこれからますます関係はエスカレ-トをしていった。つづく (続きは次回)
2005年10月25日
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その電話の内容とは。。Jが他の女とのツ-ショットをわざと分かる所へ置いてあって、それを見つけたAがJに問い詰めると逆ギレして殴る・・とか、Aも仕事をしてて帰りがいつもより10分でも遅くなると殴る・・まだまだいろいろあるのだが、ここへは書けない内容ばかりのものであった・・・余談やが、Aには当時・・離婚協議中の旦那がいて小学校5年の子供もいた。別居中ではあるが、Aにはかなりのハンディ-があった。その弱みに付け込んだかのように、Jの行動は好き放題であった。そして今回の異常な暴力の原因は、会社の新人歓迎会での乾杯の酒を一杯だけ飲んだ・・ってことであった。当たり前の事をしてここまでの暴力に俺は後輩のJにかなり腹をたてた。その場で電話をしょうと思ったが、きっとJは俺にチクったAを必ずまた、暴力をふるう・・そう思ったので後日にJと二人で話しをすることにした。このお節介が裏目に出ることもこの時は気がつかなかった・・・一方自分の家庭は暗かった・・相変わらず会話のない俺と嫁・・・それだけならまだしも・・仕事中・・ひっきりなしに電話で、「あれ買ってこい・・これ買ってこい・・」と俺を呼び付ける。。。仕事中は無理と言っても そんなんおかまいなしであった・・おまけに子供も一向によくならない・・・コルセットを付け、笑ってる子供を見るのが辛かった。2月に入り親父も無事退院したのだが、その入れ替わりみたいに子供を入院させることになった。違う治療法を試みてみようと言うことであった。両足をおもりで吊り固定をするものであった。大人でも苦痛のハズやのに、泣かずにニコニコしてる子供・・・代われるものやったら代わってやりたかった・・家は自営なので長男を嫁の実家に預けることになり、家族バラバラの生活が始まった。話しを戻し、Jを呼びいろんな世間話しから徐々に本題へ。。。Jの顔つきが変わったが俺も怯まず話しを続けた・・・そしてその場は、できるだけ暴力を振るわない・・って事で納得した。が、所詮、先輩の俺に逆らえないその場限りの返事であったことは後にすぐに結果として現れた。それから数日後・・またAから電話があり逢ってみると前と同じ状態であった・・・そしてそれからと言うもの毎日のように俺に電話がかかってくるようになった・・・つづく (続きは次回)
2005年10月24日
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あの電話がなかったら・・・・後に、どれほど後悔したかわからない・・・その電話の内容は、後輩友達(今後Jと呼ぶ)に彼女である(今後Aと呼ぶ)が、ここんとこ毎日ケンカをしては殴られる・・というものだった。それで俺から殴るのはやめてやれ・・と言ってほしいとのことやった。二人の事に部外者の俺が口出しをするのは、筋違いやから・・と一度は断った。何故Aは俺にこの事を頼んできたのかと言うとJは、割と俺の言う事は以前から聞いてくれたからである。そして数日が経ち、また連絡があった。今回はかなり深刻みたいで、電話越しの声は悲鳴に似た感じであった。「ほんなら、一度こっちおいでや・・話、ちゃんと聞くから・・」そう言ってあげたら、その足ですぐに来た・・そして待ち合わせの公園に行ってみると、目を疑うような光景が・・Aの服はビリビリに破かれ、髪は振り乱れ、顔や腕もキズだらけであった。「なんやの??!その格好とキズは~??」そう聞くとAは、座込んで泣き出した。Jに、殴られ蹴られまくったらしい。俺はともかく自分の着てたジャケットをAに着させ車に乗り、話を聞いてあげた。その内容は、聞いてて腹が煮え繰り返る程の内容であった・・・つづく (続きは次回)
2005年10月22日
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長女を三ヶ月検診に連れて行った時のことである・・医師より、「この子股関節脱臼の疑いがありますよ」との診断を受けた。そしてレントゲンを撮ってみたらやはりそうであった・・はじめは、ほとんど軽い気持ちでいた俺達であったが、全身にコルセットを付けられた我が子を見ると、なんとも悲しい気持ちになった。このコルセットをつけて約一月間様子を見よう・・ってことになった。しかし、一ヶ月経ってもなんの兆候も見られずこのままあと二ヶ月をコルセットを付けて様子を見ることにしょう・・と言うことになった。風呂に入る時もコルセットは外せない・・・けど、嫌な顔ひとつせず笑っている子供を見るとホンマにつらかった。そんな、状況が続き嫁さんもかなり精神的に参っていた。長男も、ちょうど手のかかる時期やったので、追い討ちをかけられたようであった。そんな状態であったので、嫁は俺の事にはほとんど何もしてくれなくなった。Yシャツのボタンが取れていても直してくれない・・買い物は、仕事が終わった後に俺が行く・・・夕食も俺が作る事がしばしあって・・朝、仕事に行く時間にも起きてこない・・・もちろん、夫婦の会話はゼロ・・・こんな状況が続いた。ワガママなのかも知れないが俺もかなり嫁に対して嫌気がさしていた。そんなある日、以前から可愛がっていた後輩友達の彼女から相談がある・・・との連絡が入った。この電話が後に、最悪の状況を招く事になるとは夢にも思わなかった。また、長女のことも最悪の結果になってしまった・・・つづく (続きは次回)
2005年10月21日
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カテ-テル室から出てきた医師は、俺達家族に少し安堵感の表情で、話し掛けてきた。「今回は前回の時より症状は重くかなり厳しい状況でしたが本人の生きたい!と言う強い意志と家族の強い思いが勝ったんだと思います」と。嬉し涙が次から次へと出たのをよく憶えている。長女の誕生を喜び浸る間もなく親父の今回の2回目の出来事であった。そして約一ヶ月が経ち、親父も短時間の外出許可が出て長女にとっても初めての正月を家族全員で祝った。そして、1月も終わりに近づいたある日親父も無事・・退院できた。親父も2回目の心筋梗塞・・と言うことで精神的にもかなり参っていたが、それでも無事に生還出来た嬉しさのあの表情は今でもしっかり憶えている。俺もホンマに嬉しかったし幸せを感じていた。しかし、数日後・・またもショックな事を聞かなければならないとはこの時・・夢にも思わなかった。つづく (続きは次回)
2005年10月20日
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いつもと変わらない朝を迎え、いつもと変わらない日課を送りその日の夜・・・子供と遊んでいると、外出していた親父が帰宅してきて居間に入ってきた。が、表情は険しく顔色が悪く脂汗が額から流れていた。どうした?と理由を聞くと「苦しい・・」と言って倒れだした。ビックリして親父の傍に行くと、蚊の泣くような声で、「痛い・・」と訴えている。俺はとっさに、あの結納の日の事を思いだした。そうである・・・心筋梗塞の再発である。急いで家族を居間に呼び、車のエンジンを付け親父を乗せた。そして、市立病院へ・・時刻は、10時前であった。処置室に入ったが、一気に夥しくなり、タンカ-ベッドに寝かされた親父をレントゲン室に連れて行かれ、そのままカテ-テル室に・・・出入りする医師や看護婦の表情が険しい・・・そのうち、一人の医師が出てきて俺達に説明をしだした。「前回より危険な状態です・・かなり厳しい・・」と。ショックで言葉が出なかった。待ち合いのソファ-に座込み、うな垂れてしまった。けど、お袋が「あんた、何ヘコんでんの!?しっかりしなっ!!お父さんは絶対大丈夫!!信じよう!」この言葉に我に返った。それから、約1時間後・・医師がカテ-テル室から出てきた・・つづく (続きは次回)
2005年10月19日
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Hの結婚式に、俺ら夫婦で招待を受けたが嫁は欠席した。と言うのも、二人目の妊娠をしていたからだ。悪阻が酷くホンマ可哀相なくらいであった。が、嫁のたっての希望で、H達の新婚旅行の見送りをしてあげた。そして、夏には悪阻も治まり安定したのだがそんなにハ-ドな事も出来ず長男と二人で遊びに行くことが多かった。そして、10月19日の朝方・・陣痛が起こったらしく急いで病院へ連れて行った。そして朝7時28分・・・元気な女の子を授かった・・長男の時とは全然違い、ホンマに早く出産出来た。もちろん立合いをしたのだが、ほとんど緊張はなく冷静でいる事が出来たがやはり感動的で、顔はサルみたいやがそれでも可愛かった(笑)そして出生届を長男の誕生日に合わせ11/1にした。これで、入籍記念日と長男の誕生日と長女の出生が11月1となり一人で満足してたのをよく憶えている。その晩、その3つの記念日を祝って4人でささやかなパ-ティ-をした。それから暫くは 幸せな時間を過ごす事ができた・・今に思えば、大袈裟かもしれんが、きっとこの時が一番幸せな時期やったのかもしれない・・そして12月2日いつもと変わらない一日を過ごした夜・・・またしてもショックな出来事が起こった・・続く (続きは次回)
2005年10月17日
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結婚式当日・・SとTは集合時間より早く式場に来ていた。そして何やら式場側の人と話しをしていた・・この時はそんなに気にもとめなかった。そして式が始まった。俺は友人代表スピ-チが控えていたので、緊張しまくっていた。そして、スピ-チの順番が来た・・ドキドキしながらマイクの方へ向かうと司会者から「ここで、スピ-チを頂戴する前に友人の方よりプレゼントがありますのでご紹介させていただきます・・」と。Hも知らなかったみたいで、??の顔をしていた。会場が暗くなり、スクリ-ンに映像が・・・なんと、俺達のチ-ムが結成してからいんなとこへツ-リングに行った時の写真である・・しかも、Hと嫁さんがそして俺達全員が写ってるものばかり・・BGMも、後で聞いた話しやが、H達のふたりの想い出の曲ばかりを流して・・内容も素人がよくここまで作ったな~と思うような上出来の物であった・・ふたりの成り染めが一目でわかる物であった。前祝いの席で、SとTが無茶をしたお詫びの気持ちであった・・前祝いから一週間・・よくここまで出来る時間があったな?と思っていたらどうやら、SとTは一週間徹夜をして作ったみたいであった・・俺らはもちろん・・H達も大喜びで感動した・・二人からのプレゼントも終わりいよいよスピ-チが・・・俺は一応、原稿を用意してきたが、さっきのプレゼントを見て原稿を見るのをやめた・・Hの幼少期からの事を話し、さっき見たプレゼントに出てきた仲間の事を話し、とにかく・・幸せになってほしい・・との事をHに話しかけるように言った。Hが泣いた・・会場の人も泣いていた。話してる俺までウルウル来た(笑)余談やが Hは家庭環境が複雑で 小学校の時、入学した学校と卒業した学校が同じではあるがその間 母親の蒸発等、転校を十数回を数え そんな環境がトラウマになり 口癖が「普通の家庭を築きたい・・」であった・・「普通・・」俺らには 理解しえない Hしかわからない苦労なんだと思った・・そしてスピ-チを終え、誰からともなく皆が高砂に向かいHを皆の前で胴上げをした・・拍手の渦であった。式も終わり二人が新婚旅行に行く直前・・・Hが俺のとこへ来て「ありがとう・・・」感動的な一日は終わった・・つづく (続きは次回)
2005年10月15日
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親子3人で2回目の正月を迎えることが出来た。そして2月、Hが結婚することになったので恒例の前祝いをすることになった。Hは俺の友達の中でも一番苦労してた奴なのでホンマ幸せになってほしかったし友達の結婚式の中でもひときわ嬉しかった。そして2月のある日某居酒屋での前祝いの日。この日はいつもより盛り上がった。当然皆、酒の量も多かった・・が、度を過ぎた為、TとSが悪酔いをした。その場に居た他の客の女の子を口説いたり、必要以上に騒いだり・・で。俺とKもかなり酔っていたが、それでもこの騒ぎ方はマズい・・と思える程であった。そしてとうとう、他の男の客が怒りだしこっちに文句を言ってきた。俺とKで謝ったが当の本人達は逆に絡んで行ったので相手がマジで怒り出し、店の中でケンカが始まってしまった。ケンカをしてるものを皆で力ずくで引き離して相手に謝りとりあえずその場を納めた。俺はSとTにマジで腹が立っていた。そして二人に言おうと思った瞬間・・Kがもの凄い勢いで怒りだした。「お前等二人最低やな!二人共、自分の時Hに祝ってもらったんちゃうんかいっ!」まさにその通りである・・この言葉を聞いて周りも「ホンマその通りやわ」と言い出した。この言葉に二人共我に返ったように黙ってしまった。そして一気に場がしらけてしまい、そのままお開きになった。俺はHが可哀相やったので、飲みに誘った。そこへはK夫妻も来て6人で飲み直した。そして結婚式当日。すごい感動的な結婚式となった。つづく (続きは次回)
2005年10月14日
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公園に入った二人は、人気のない場所まで歩きそこにあるベンチに座わりいきなり辺りも気にせず抱き合った。俺もHも驚きまくった。そして次の瞬間、チュ~をしだした・・Hは怒りだし抱き合う二人のところへ行きかけた。俺はそれを引き止めた。するとHは、矛先を俺に向けてきた。「なんで止めるんや!お前あんなん許せるんか?!」と。俺もHと同じ気持ちであったが、今ここで俺達が出て行くと話しがややこしくなると思い止めた。そして俺もHも無言のままその場を離れた。飲みに行くつもりでおったが一気にシラケてしまいHの家に行くことにした。そして、きょう見たことをKに話すかどうかHと相談した。まさに、究極の選択やった。Hは、「そんなん言うのが当然やろ!」と剣幕やったが俺は反対であった。物には、言っていい結果がでることと、そうでないことがあると思ったからだ。たしかに、Kの嫁のしてる事は最低やと思う・・けど、その事をKに伝えることで夫婦の仲が悪くなることを懸念した。Hとの話し合いで、Kに言う前に嫁にカマをかけてみよう・・ってことになり数日後、Kが居ない事を確かめKの家に行った。そして世間話を少しした後にHが、話しを切り出した。内容は忘れたが、上手なカマの掛け方やった。それに気付いたのか・・嫁は顔色が変わり泣きだした。そこへKが帰ってきたので嫁は急いで顔を洗いに行ったのをよく憶えている・・結果は、俺らは今回の事は見なかったことにするから二度とするなよ・・って事で嫁もかなり反省してたみたいなので、それ以上の言葉を言わなかった。が、この事は後にバレることになる。そのことはまた後で書こうと思う。つづく (続きは次回)
2005年10月13日
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あれはたしか、10月の終わりに、1歳の誕生日をまもなく迎える子供の為にプレゼントと写真屋へ記念撮影に出向いた時のことだった。車の中でこの1年を振り返っていろんな話しをMとしていてふと、信号待ちで隣りの車を見るとカップルが仲良くしていた。よく見ると、なんとKの嫁であった。しかも 相手の男は 俺の知らん奴であった・・Kは 俺達の中でも一番最初に結婚をした奴だがまだ子供は居なかった。ビックリしたが、Mに気付かれないように話しを逸らしその場は何事もなかったかのように、やり過ごした。見間違いなのか??いや・・絶対いまのはKの嫁である・・でもなぜ??一瞬、訳がわからなくなった。K夫婦は、ほんま仲がよく皆に羨ましがられる程なのに・・・そして数日経ったある日、Kの家に用事があり行くことになった。そこには、いつものメンバ-のTとSとHも来ていた。用事とは、恒例のチ-ムでの旅行の件であった。Kの嫁さんもそこにいてて、別段変わった様子はないしきっと俺の見間違い・・って思っていた。そしてたしか、11月の終わり・・旅行の日が来た。この旅行も、めちゃめちゃ盛り上がった旅行となった。そして師走のある日・・・Hと二人で飲みに行った時のことである。車を駐車場に入れようとした時、Hが「おい・・あれって○○とちゃうか?」Kの嫁の名前を言った。暗くてよく見えない・・車を急いで止めて、Hは先に後を追い、たしかめると今度こそ間違いなかった。やっぱりあの時も・・・そして、二人は段々と人気のない場所に歩いて行き、公園に入って行った。気付かれないように、そっと見ていたら・・・なんと、最悪の場面を見てしまった。つづく (続きは次回)
2005年10月12日
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そして秋、予てからどうしても行きたかった場所であるシンガポ-ルへの旅行の計画をたてたしかし、子供も小さいのでこれも無理があるのでは?と周りに言われたが万全の体制で行くことを決意無け無しの金を叩いて、おそらく最初で最後であろう飛行機をファ-ストクラスで航空会社は、シンガポ-ル航空そしてスッチ-の衣装は最高であった!(笑)初めて乗るファ-ストクラス・・ワクワクである搭乗手続きを済ませて、ファ-スト・クラス専用の待ち合いラウンジへ案内されまさにVIP対応であった周りは金持ちそうな人ばかりであきらかに小市民と分かる者は俺らだけであるそして時間になり機内へ搭乗これも、ファ-スト・客が優先に乗り込むのだもう優越感の何者でもなかった(笑)そして機内2F席へ・・シ-トの広さと間隔の大きさに驚いたそして席に座るなり、いきなりワイングラスが置かれ注がれるもっとビックリしたのは、スッチ-が俺らを呼ぶのに○○様と名字で呼んで来たことだったなんで知ってるんや?と思ったがここはひとまず冷静に(笑)そして6時間のフライトが始まった子供用のベットまで用意をしてもらい、俺らもゆっくり満喫出来た余談やが、スッチ-は日本人で女優の南果歩にそっくりの美人で応対も凄い親切であった。 中でも驚いたのは、飛行中になんと!コクピット(操縦室)に入れてくれた 初めて見るコクピット内・・無数の計器が所狭しとあって感動もんであったほんまは、入室さえあかんのにカメラの撮影まで許可してくれて 親子3人で記念におさまった操縦席から見るパノラマは今も忘れることは出来ない そして、チャンギ空港に到着。空港のあまりの広さとゴミひとつないキレイさに驚いた。憧れのマ-ライオン・セント-サ・ナイトサファリ・人力タクシ-での市内観光観光バスにて、マレ-シアへ・・今なき、ニュ-トンサ-カスでの食事。 子供連れやったので、ラッフルズホテルでの食事は残念にも出来なかったがどれもこれも最高のものとなった。そして楽しい旅行も無事に終え帰国した。つづく・・・ (続きは次回)
2005年10月11日
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そして夏。子供にとって初めての夏である祖父母の墓前に子供が産まれた報告をしたくて親父の田舎に出向いた車で行ったため、退屈したのか泣きまくっていたが墓について参りをすると不思議と泣きやんでおとなしく膝に抱かれていたきっと祖父母も喜んでくれていると思ったそして俺が幼少の頃から遊んでいた海に行き波打ち際で少し遊んであげたまったく怖がらず泣かなかった。両親に聞くところ俺もそうだったらしいそして子供を例の俺の一番好きな場所へ連れて行ってあげたここは以前も言ったが、ほんまに好きなところでこうして子供と来れることがとても幸せだったつづく・・・ (続きは次回)
2005年10月08日
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そして3月、また嬉しい知らせが届いた。従妹のAのことである。話しを溯ることこの日記の当時から約9年前・・・高校在学中にアルバイト先の関係で知り合った彼がいた。が、従妹の両親をはじめ周りはこの交際に大反対であった。理由は、背中に般若の絵が書いてある人だからだ。しかし、俺だけがAの交際に賛成はしないまでも理解を示してあげた。なので、相談はいつも俺のとこに来て、俺の事を「兄ちゃん」と呼び慕ってくれた。Aには「ただ好きってだけでは付いて行けない世界やし苦労は絶対にさけられないこともよく覚悟しておくように・・」「なにがあってもこの付き合いに後悔しない自信があるなら付いて行け」「それから、親や周りが何故反対するのかもきちんと分かっておくように」と言ってあげた。そして卒業と同時に、また俺のとこへAから連絡があり「彼と別な場所で暮らすから兄ちゃんにだけ居場所を言ってく。」「その代わり誰にも言わないで」と言ってその世界に行ってしまった。Aがいなくなり、叔父も叔母も当然、俺に居場所を知らんか?との問い合わせがきたが、約束なので知らんと答えた。はじめのうちは定期的に「元気でやってるから」との連絡があったがそれもやがて途切れ途切れになり終いにはまったくなくなった。それから約2年くらいしたある日、いきなり連絡があり「女つくって逃げた・・・」とのことであった。Aは泣いていた・・しかし俺は慰めの言葉も同情もしなかった。「自分で決めた道やし、後悔はしない・・って決めて出たんやろ?」Aは大きく肯いた。そうは言ったものの内心は俺もかなり心配だったので定期的に連絡をして元気づけてあげた。そして3月・・Aは今度こそほんまに好きになった人と出会って結婚する・・との報告であった。式で、親族代表のスピ-チを頼まれたが、それは筋が違う・・と断った。関東某所での披露宴であった。周りから今度こそほんまの祝福を受け、幸せそうなAを見てとても嬉しかった。つづく (続きは次回)
2005年10月07日
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平成7年1月17日・・退院の日約2週間ぶりにまた親子3人で生活できる・・・大袈裟かもしれんが嬉しかった。そして朝方ようやくウトウトしかけた頃、早朝5:46分。地響きがして次の瞬間、かなりの揺れとなった地震があった。電気スタンドはコケて、本棚にある本が落ちる揺れであった。震度が気になり、テレビをつけるとまだ事の事態を把握できてないマスコミの呑気な報道が記憶に残っている。どうやら、一番激しく揺れたのは神戸みたいであった。しかしテレビの映像を見るかぎり被害もほとんどなく真っ暗な神戸の街だけが映っていた。そして、この地震で完全に目が覚めてしまった俺はまだ暗いうちに病院へ向かった。やはり病院もかなり揺れたらしい・・しばらく病院で、時間を潰し定刻になったので退院の手続きを済ませ家に無事帰った。なんか久々に3人がここで居れる幸せ感に満足だった。そして夕方・・ふたたびテレビをつけると、そこに映った光景は悲惨な神戸であった・・ほんまに目を疑った。これが後に言う阪神大震災であった。 あの地震がこんな状態に・・そして次の瞬間、頭を過ぎったのはRのことであった。急いで電話を取りかけてみたが、まったく繋がらない・・「ただいま大変混み合ってかかりにくくなっております・・」この応答のみである。不安になった俺は電報を打とうと思った。しかし念押しされたのは「いつ届くか保証できませんがそれでもよろしいですか?」それでも、なんとかRと連絡をつけたかったので了承した。2.3日しても連絡がない。俺は、Rの家へ行く決意をした。次の日、朝一番の電車に乗った。しかし、神戸はもちろん大阪にすら入ることが難しかった。しかたなしに京都経由でのかなりの遠回りの手段であったが仕方ない。電車が運行可能な路線で最寄りの駅まで行ったが、最寄りと言ってもRの家まで70km離れた場所である。そこからタクシ-に乗ったが、あと30kmのとこまで来たが、今度は渋滞で車が動かない。最後の手段の徒歩を決意。地図を片手に歩いたり走ったり・・余談やが、この時もしやと思い救援物資の缶詰、飲料水やラジオなどをリュックに背負っていたので、かなりの負担があった。途中、青いビニ-ルシ-トで屋根を仮復旧してある家や倒壊した家が何軒もあり、今回の地震の凄まじさを物語っていた。 そしてRの家に着いた時は、夜9時をまわっていた。いつもは車で2時間半のところを16時間もかけてやっと辿り着いた。足にはマメができほんま限界に近かったのも今となってはええ想い出である。そしてRは驚いた表情で、「どうしたんや?」と尋ねてきたので事情を話すとほんま喜んでくれた。Rの家も倒れた家具により付いた壁のキズと窓ガラスが数枚割れた程度で、怪我もなかったようでほんま安心した。このことは、今でもRは感謝の思いを伝えてくれている。これも余談やが、例の電報は俺が帰った3日後に着いたそうだ。クソ~もったいないことした(笑)Rは、なにもなく無事で何よりであったが、この震災で多くの人が犠牲になり今尚、街は復旧されているものの心のキズを深く負ってしまった人達の事を思うと心が痛い。大阪在住や出身の友達も同じ事を語っていた。俺にとってもこの日を忘れることはないと思う。つづく (続きは次回)
2005年10月05日
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Mの産後は、前にも言ったが貧血が酷く退院まで丸2週間かかった。入院中は、朝会社へ出勤する前と夜仕事を終えてから病院へ行くことが日課であった。毎日が幸せで楽しくて仕方がなかった。余談やが、俺とMが籍を入れたのも11/1でこの子も11/1・・なんとも不思議な気がした。名前も二人でよく考え俺の一字を取り、将来の夢を託した。そして退院の日 雲ひとつない晴天で11月半ばやと言うのに暑いくらいであった。義父に命名軸に名前を書いてもらい、病院から一度我が家へ立ち寄った。「ここが君の家だから・・」そう子供に言ってあげた。そして、約1ケ月間、Mと子供は里帰りをした。きょうから暫く独身である!(笑)この間、友達が頻繁に誘いに来たのは言うまでもない。このへんの詳細は、ノーコメントということで・・(笑)里帰り中・・一日も欠かすことなく子供を見に行く事も日課のひとつとなってきた。そして里帰りも終え、我が家へ帰ってきた。毎晩、寝顔を見てはニヤケたんをよく憶えている。そして三人で初めて迎える正月。仲人さんを初め、心当たりの人に新年の挨拶に三人で出掛けた。最高の新年を迎えられたと思う・・・しかし・・2.3日経ったある日子供の様子がおかしい・・どうやら風邪をひいたみたいなのである。そして1/5に大きな病院へ診せに行った。診断は、RSウィルス・・気管支の風邪であった。医師は、「もっと大きい子供ならええけど生後2ケ月のこの子では自分でタンを切ることもできないから窒息死する可能性もあるんで入院してください」と。なんとも、ビビらす医者であった(苦笑)そして即日入院であった・・予想外の展開に少し戸惑った。こんな小さい体に点滴の針を刺した・・代われるものなら代わってあげたかった。この入院も約2週間であった。また、日課が始まったが、この見舞いはほんまに気が重かったのを憶えている。同じ部屋に入院している子供がいて、この子は3歳であったが喘息持ちの子でほんまに可哀相であった。子供の病気は、ほんま聞くに堪えられない思いである。そして平成7年1月17日・・退院の日が来た。前日は嬉しくてあまり寝れなかった。そして朝方、ようやく眠りに就いたころ悲劇がおこった・・・きっとこのことは一生忘れ得ぬ出来事であった。つづく (続きは次回)
2005年10月04日
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激しい苦痛な顔をしながら分娩室へ行った。予てから立合い出産を希望していたので同室した。これから起きる事は二人にとって未知の世界であり不安と希望が入り交じった心境の中、時間が過ぎた。約2分間隔で起こる陣痛・・Mはかなり辛そうであった・・が、俺はなにもしてあげられない・・自分の無力さを感じた。ただ、枕元でMの手を握り、額の汗を拭ってあげるのが精一杯であった。医師が「あと少しやからがんばれ!」の言葉に緊張が高まる。分娩室に入り1時間経ったころ、医師が「はい、旦那さん・・こっち来て・・」言われるままに従うと、なんと・・わが子が見えた!感動の余り涙が止まらなかった・・・Mの最後の奇声とともに、元気な男の子が誕生した。11月1日PM9:33・・2874gあの感動と感激は生涯忘れることはない。そして、医師が「はい・・旦那さん、ここを切って」と母親と子の大切な命の源である「へその緒」を父親である俺に切るように・・と言うのだ。ハサミを持つ手が振るえる・・そして一気に切った・・周りから・・「おめでとうございます・・」の声が耳に聞こえたが感動で声がでなかった。産湯で綺麗に洗ってもらった子供を初めて抱かせてもらった。その姿をMが見守る。「ありがとう・・おつかれさま・・」この言葉をMに言った。Mは疲れきった表情で笑顔で肯いてくれた。産後は順調であったが、出血が多かったため貧血がひどかった。2時間程して個室に移った。二人共寝てなかったため、部屋で吸い込まれる様に眠りについた。俺は朝早く目を覚まし、我に返るとゆうべの現実に幸せ一杯になりひとりニヤケたのをよく憶えている。そして新生児室に行き子供を見る・・他のどの子よりもかわいく見える・・まさに親バカであったが・・なんて言われようとかまわない・・そして子供に心の中で「よく産まれてきたね・・これからよろしく!」と親子の会話をした。つづく (続きは次回)
2005年10月03日
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忘れもしない10月30日、昼前に携帯が鳴った。Mからである。内容は、お腹の子供が予定より大きく育ってる為陣痛促進剤で、予定より早く産ますので今から入院する・・との事だった。まだ先のことやと思ってたので、驚きと嬉しさが入り交じった。そして、会社を早退して夕方に病院へ。陣痛室でお産の準備を一通り済ませ点滴にて促進剤をした。しかし微弱陣痛で、お産には程遠い状況であった。Mは体制を一定にしてるため、腰が痛いと言い出した。背中に手を入れ擦ってあげた。深夜になっても兆候がない。けど、いつ起こるか分からない陣痛に眠る訳にもいかずとうとう次の朝を迎えた。しかし・・状態は何も変らなかった。昼になり、夕方になっても何も変らない・・一睡もしてないし苛立ちも出てきたが、俺よりもMと産まれてくる子供は、もっと頑張ってるんや・・そう思うと苛立ちを表情には出せなかった。夜になりMも腰の痛みとの戦いであった。俺は背中を擦ったり、元気づけることしかできないのがなんとも歯がゆかった。そして、またとうとう次の朝を迎えた。11月1日・・昼になり心身共に疲労はピ-クに達していた。二人とも一睡もしてないのだ。夕方・・・医師の判断で破水をさせることになった。しかし・・破水をしたのに陣痛は来ない。そして医師は、「このままやと子供も危険やから帝王切開しょう」と言い出した。仕方ないとは言え、どうしてもMの身体に傷をつけるのは嫌だった。看護婦たちにより手術の用意がなされた・・俺は心底祈った・・次の瞬間・・Mの表情が悲痛に変わった。どうやら、本物の陣痛が起こったらしい・・慌てて婦長を呼びに行ったが、婦長は、「破水してこれだけ時間が経ってからの陣痛は考えにくい、もうすぐ手術するから待ってて」と立ち会ってくれない・・陣痛室に戻るとMはさっきより悲痛な顔をしていた。これは・・と思い、再度、婦長を呼びに行った。婦長も半信半疑で部屋に来てくれ、見てみると・・「あっ、これはこのまま産めるから今すぐ分娩台に行って!」と。婦長も医師も首を捻っていた。「こんなことってあるんやな~」。「旦那さん・・君の想いがそうさせたのかも・・」と言ってくれた。緊張の瞬間・・我が子との対面の時は近い・・つづく (続きは次回)
2005年10月01日
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