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そして、隅田川に架かる清洲橋(→→→こちら)にやって来ました。「清州橋」という名前は、深川・清澄町と、日本橋・中州町を結ぶ橋であることから、それぞれの町名から1文字ずつとってつけられたそうです。2007年6月18日、清州橋は隅田川にかかる永代橋、勝鬨橋(かちどきばし)と共に、国の重要文化財に指定されています。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋であり、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、上に凸なるアーチ形状の永代橋に対して、放物線が上に開いて凹となる優美なデザインの吊り橋です。橋の下流側を見ると、首都高速の通る隅田川大橋にさえぎられて、永代橋のアーチがキレイに見えません。上流側を見れば、東京スカイツリーをほぼ正面に見ることができます。橋の細部を見ると、優美な景観と異なり、リベットが打ち込まれた武骨な主塔。橋桁を支えるメカニカルな雰囲気をのハンガーロープなどが、いかにも土木構造物という主張をしているみたいです。ちなみに、橋の呼び名は「きよすはし」と濁らずに読んで下さい。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その11) 清洲橋
Jun 30, 2023
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浜町緑道を南東方面に歩き清洲橋近くに来ました。ここには、道路下を横断する地下道がありした。地下道の壁面には、タイルで花菖蒲が描かれていました。「あやめ橋地下道」という名称にふさわしいですね。この地下道は、地上部が首都高速の浜町インターチェンジの出入口にあたるため、歩行者用に設置されたようです。ちなみに、高速道路の真下には、東京オリンピック前まで箱崎川が流れていて、地下道のある位置に同川を渡る「菖蒲橋」が架かっていた歴史の名残ですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その10) あやめ橋地下道
Jun 29, 2023
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水天宮から人形町に向かって歩いていくと、ありました。人形町 からくり櫓。平成21年(2009)11月に完成した、人形町通りを挟んで建つ2基のシンボル時計台です。そして、甘酒横丁です。明治初期に、通りの入り口近くに「尾張屋」という甘酒屋があったことから名づけられたと言われています。甘酒横丁は、西向きの一方通行。商店や飲食店が建ち並ぶ通りです。このお店の二階、ちょっと変わった看板が。「久松料理飲食業組合書道教室」とありました。久松料理飲食業組合(→→→こちら)とは飲食業を営む方々の組合ですが、この組合の事務所を書道教室に貸しているんでしょうか。甘酒横丁が旧浜町川である浜町緑道と交差するところにある歌舞伎の演目『勧進帳』の弁慶像があります。このあたり人形町界隈には、中村座や市村座がかつて所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つとされていたことに由来して設置されているそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その9) 人形町「甘酒横丁」
Jun 28, 2023
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日本橋小網町から新大橋通りを歩いて、人形町通りと交差する水天宮前交差点にやってきました。名前の通り水天宮が見えてきました。せっかく来たのですからお参りをさせてもらいました。安産子授けの神様ですから、赤ちゃんを連れた参拝客の方も多いです。しかも最近は出張カメラマンを同行して写真撮影を行う方が多いみたいですね。やっぱりSNSのインスタ映えを狙っているご夫婦も多いんでしょうか。こちらが本殿です。3年間の建て替え工事が行われ、平成28年に竣工し、免震構造を備えた安全な神社へと生まれ変わったそうです。この近辺にお住まいの方は、もし大地震の際はこちらに避難できるので安心かも。御存じの方も多いとおもいますが、水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)です。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、文政元年(1818)、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮の始まりです。そして、久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶ちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情けありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となったそうです。ということで、こちらが久留米にある水天宮の本殿です。ちなみに、中央競馬の一年を締めくくるレース馬の「有馬記念」(→→→こちら)は、日本中央競馬会理事長で旧久留米藩主・有馬家の第15代当主で伯爵あった有馬頼寧氏を記念して開催されるものですが、有馬記念にも「情けありまの水天宮」として競馬ファンに情けをかけて年末のビッグプレゼントを出していただけるといいのですが。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その8) 情けありまの水天宮
Jun 27, 2023
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東京証券取引所のある日本橋兜町と日本橋小網町をつなぐ橋です。兜だけでは、昔の武士も戦えないので、やっぱり必要なのは鎧です。ということで、橋の名前が鎧橋(→→→こちら)です。この鎧橋、やっぱり「よろいはし」と濁音は使わないようですね。中央区が設置した説明板によると、どうやら、橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいたようですね。説明板の最後にある和朝亭国盛の狂歌(社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ短歌)、「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」の意味は、近くの縁日で買った「おもだか(澤瀉・面高)」(クワイに似た水草ですが、おそらくここでは漢方薬の利尿剤にする薬草のオモダカだと思われます)が水面に写り、鎧の威(おどし)の沢瀉糸威(→→→こちら)のようだったという意味なのでしょうか。そして、こちらの鎧橋を渡ります。高速道路の高架下を流れる日本橋川です。日本橋小網町にあったトレーニングジム(→→→こちら)。手軽にトレーニングできるらしいので、日本橋で働く忙しいビジネスマンやOLの方には人気なのかな。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その7) 鎧(よろい)橋
Jun 26, 2023
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こちらの兜神社は、1878年(明治11年)に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として造営されたそうです。こちらが拝殿となっています。御祭神は、主が商業の守護神の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)です。境内に兜岩と呼ばれる岩があります。この岩には次のような幾つかの由来があるのですが、いずれも確たる裏付けがあるわけではないようです。後三年の役(西暦1080年代)にて、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定の祈願を兼ねて記念のため、兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作ったそうです。これを当時の人達は兜塚と呼んだのですが、いつしか兜岩となったとのことです。前九年の役(西暦1050年代)にて、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩と呼びようになったとのことです。承平の乱(西暦935~940年)にて、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、その平将門の打首に兜を沿えていたのですが、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したそうです。この塚を当時は兜山と呼んだそうですが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残ったとのことです。ちなみに、兜岩手前の「兜岩」と文字が刻まれた岩か、それとも奥の大きな岩かどちらかはよくわかりませんでした。この兜神社の近くにあるのはこの東京証券取引所(→→→こちら)です。東京証券取引所の前のこの通り。明治通り、昭和通りに比べると馴染みがないでしょうが「平成通り」という名称です。平成元年(1989)に中央区が愛称を定めたそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その6) 兜神社と平成通り
Jun 25, 2023
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日本橋から昭和通りまで歩いてきました。右折したかったら側道の方を通らないといけないので、慣れないとこの昭和通り自動車では走りにくいです。この昭和通りに面して二つのビルがあります。右側が日本橋郵便局。そして左側が日本橋ダイヤビルディングです。日本橋郵便局の前にある郵便ポストです。多分、地球を意味していると思われる球体を多くの人が支えている装飾があって、なかなか面白いですね。この日本橋郵便局には、「郵便発祥の地」のプレートが埋め込まれていました。郵便発祥の地ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅通司と東京の郵便役所が置かれたところですこちらのビルは、地上5階までの、石造りでいかにもクラシカルなデザインの部分の古いビルの中に新しい18階建ての高層ビルが建っているちょっと変わったビルです。このビルの重厚な鋼鉄製ドアの横には、銘板が埋め込まれています。日本橋ダイヤビルディング(→→→こちら)という三菱倉庫の持ち物です。こちらのビルは、日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋ビル)として東京都選定歴史的建造物(→→→こちら)であると同時に経済産業省の近代化産業遺産にも選ばれています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その5)日本橋郵便局と日本橋ダイヤビルディング
Jun 24, 2023
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こちらは、東京の日本橋の南側西方の袂にある日本橋の由来が記された「日本橋由来の碑」です。こちらは、中央区教育委員会の設置した国の重要文化財「日本橋」に関する説明板です。日本橋由来の碑には、かっての日本橋の風景が描かれた広重の絵、その下に由来が刻まれています。こちらはカタカナと漢字で日本橋の由来が記されています(→→→こちら)。日本橋については、Microsoft BingのAIに解説してもらいました。日本橋は、東京都中央区にある橋梁で、日本の国道1号の起点となっています。江戸時代には、五街道の起点として栄えた歴史ある橋で、現在の橋は1911年に完成した石造りのアーチ橋です。しかし、1964年に首都高速道路が上を通るようになり、その景観は大きく変わりました。現在では、首都高速道路の撤去や日本橋の再生などが議論されています。確かにAIの説明通り、石造りのアーチ橋になっています。主に使われているのは、地下深部で形成された深成岩の中の一種である花崗岩(→→→こちら)です。花崗岩は産地によって、色や材質が微妙に違うため、全国の花崗岩を橋のそれぞれの部分ごとに使い分けています。橋脚と橋台は山口県周南市にある黒髪島の花崗岩。橋の側面は茨城県桜川市にある加波山で採掘された真壁石。アーチ部分と道路の表面は同じ茨城県笠間市の稲田で産出された稲田石。高欄部は、岡山県笠岡市の北木島の花崗岩が使われています。また、内部は、最も荷重の掛かる両端がコンクリートで、さほど荷重の掛からない中央部分が煉瓦を中詰めに使用しています。また、戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていました。東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標として、橋の中央部に「日本国道路元標」が埋めこまれています。現行の道路法では道路元標に関する規定はありませんが、今も日本橋の中央帯には「道路元標」が埋め込まれています。下の写真が、「日本国道路元標」です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その4)日本橋
Jun 23, 2023
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日本橋川に沿って、日本橋に向かって歩いて行きました。日本橋川には多くの橋が架かっていて、こちらは外堀通りと交差する日本橋川に架けられている一石橋です。一石橋の名前の由来としては、「北橋詰め近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けた」という話が伝わっているそうです。橋の袂に、一石橋の歴史についての説明板がありました。かいつまんで言うと、「この橋は、寛永年間(1624~1647)、又は、それ以前から存在したといわれているようです。また、木造だった一石橋は、大正11年(1922)に鉄骨コンクリート造(花崗岩張り)のモダンな橋に改架され、親柱四基をすえた白亜の橋へ。その後、関東大震災にも落橋せず、交通上の重要な橋として使われていました。さらに、一石橋の上流側の半分は昭和48年(1973)にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年(1999)には下流側の半分の架け替えが行われ、現在に至っているそうです。」下流に向かって歩いて行くと、さらにもう一本の橋がありました。鋼製の橋桁で、結構、新しい感じです。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから”西河岸橋”と名付けられたものです。橋の袂に設置された説明板では、着工が大正13年(1924年)12月、竣工が大正14年(1925年)8月となっていて、平成2年度に一度修復されたようですが、結構ベテランの橋なんですね。西河岸橋から川沿いの路地を歩いて日本橋に向かう途中、訪れた時期がちょぅど神田祭の頃だったせいでしょうか、祭礼用の提灯を飾ったお店がありました。そして、日本(二ホン)橋に到着です。大阪にあるのは日本(ニッポン)橋と呼ぶんだそうですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その3)日本橋川に架かる橋結構
Jun 22, 2023
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「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」ということで、こちらの常盤橋門跡にやって来ました。常盤橋門跡は寛永6年(1629)に奥羽の大名によって築かれた江戸城外郭門で、石垣を方形にめぐらせた「枡形門」と呼ばれる江戸城防御のための門の一つです。この門は奥州道へと通じており、田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)などと共に江戸城と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。将軍家や水戸徳川家も利用する重要な門だったそうです。こちらが常磐(ときわ)橋になります。この橋は、東日本大震災で大きな被害を受け、長い間、修復工事を行っていましたが、令和3年(2021)5月から通行できるようになりました。復元に当たっては、世絵、古写真、資料などを参考にしたそうです。ということで、八角形の大理石の親柱と、唐草意匠の手すり柵は往時のままということです。そして、路面には当時いち早く取り入れられた「歩車分離」(人は端、馬車と人力車は中央)が再現されているそうです。ちなみにこちらは橋を渡って行くと、日本橋川の下流にも常盤(ときわ)橋があります。こちらの常盤橋は、関東大震災後の復興計画で建設された道路橋になります。磐と盤の使い分け要注意ですね。常磐橋を渡ると見えてくるこの古い西洋式の建築物が、日本銀行(→→→こちら)本店です。江戸時代にはここに金貨を製造する「金座」があったそうです。こちらが常盤橋です。ちゃんと「常盤橋」と書かれていますが、反対側の親柱には「ときわはし」と記されていて、日本橋川の水は濁って見えるけど、橋の名前は濁らないようですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その2)常盤橋門跡と常盤橋
Jun 21, 2023
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JR東日本の駅からハイキング「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」のコースを5月20日に歩いてきた報告です。出発はここ東京駅の丸の内側からスタートです。永代橋通りを通って八重洲側に出ました。このあたりも高層ビルが新しく建っていますね。こんな大きなビルが必要と言うのは、東京ってオフィスが不足しているんですね。常盤橋(→→→こちら)と常盤橋公園の方へ回ってみました。ここにあるのは新一万円札の肖像になる渋沢栄一氏(→→→こちら)の銅像です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その1)永代橋通り
Jun 20, 2023
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イオンモール東久留米のフードコートで食べた、中野に本店のある「青葉」中華そば(830円税込み)です。具はシンプルに、なると巻、メンマ、焼き海苔、そして、豚肉を煮ているだけで焼いていないのに、焼き豚と呼んでいるチャーシューだけ。スープは、東京ラーメンと九州ラーメンをブレンドした「ダブルスープ」と呼ばれている。魚系(かつお節、さば節、煮干し)和風スープと、動物系(豚骨、トリガラ)スープから脂を分離したものをあわせた醤油味のスープだそうですが、なんとなく魚系のエグ味みたいなものが残っていて、最初の一口はちょっと・・・、慣れないです。麺はかん水使い過ぎで固いんじゃないですか。と思いました。あくまで個人の感想ですし、フードコートのお店と本店とはやっぱり調理のレベルが違うかもしれません。しかし、手軽に買い物ついでに食べる分には不満はありません。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 青葉の中華そば
Jun 19, 2023
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明治通り沿いを走る都電荒川線(東京さくらトラム)です。明治通りと交差する神田川です。橋の名前は高戸橋、名前の由来は、おそらく旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名を合成したものでしょうね。この橋の上流で、左側に見える井の頭池から流れてくる神田川とその神田川が新宿区下落合一丁目の新堀橋付近で分流されている高田馬場分水路が合流しています。神田川高田馬場分水路には東京都杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池から流れてくる妙正寺が合流しています。合流地点に架かる橋は新目白通りの高田橋です。また、神田川高田馬場分水路は新目白通り地下を流れています。明治通りを南の新宿方面に歩いて、早稲田通りとの交差点を右折して、早稲田通りを歩いて西に向かうと、高田馬場駅に到着しました。ここから電車に乗って帰りました。いいでいったん、文京区散策は中断させてもらい、また時期をみて文京区の紹介をさせてもらいます。【とりあえず、了】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その3) 高田馬場に到着です
Jun 18, 2023
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神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いています。都電の早稲田停留所の次の面影橋停留所のところで、神田川に架かる橋です。その名の通り「面影橋」(→→→こちら)です。面影橋といロマンチックの名前の由来をMicrosoft BingのAIに尋ねてみると、面影橋は、東京都を流れる神田川に架かる橋で、面影橋停留場のそばにあります。この橋は、古くから「於戸姫(おとひめ)」という美女の伝説で知られています。伝説によると、於戸姫は戦国時代に落ち武者と暮らしていたが、ある男に誘拐されて失神し、通りがかった杉山三郎左衛門という男に助けられました。しかし、杉山三郎左衛門の友人が於戸姫の美しさに惚れて杉山三郎左衛門を殺害しようとしたため、於戸姫はその友人を刺し殺しました。そして、自分の美しさを恨んで髪を切り落とし、神田川に身を投げたというのです2。村人たちはその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたと言われています。ということでした。なんか悲しい物語がある橋ですね。その面影橋のそばあった、「山吹之里」(→→→こちら)という石碑です。この石碑は1686年に建立された供養塔を転用したもので、半跏思惟像(はんかしみぞう)と呼ばれる仏像が彫られています。半跏思惟像とは、片足を曲げて座り、右手で頬杖をつきながら思索する姿の仏像で、太田道灌が学問に励む姿を表していると言われてい.るそうです。豊島区教育委員会の山吹の里の碑についての解説もありました。解説文の引用です。 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は「山吹の里」といわれています。 これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。 「山吹の里」の場所については、ここ以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町、などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988年)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1636年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。豊島区教育委員会【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その2) 面影橋と山吹の里
Jun 17, 2023
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神田川沿いを歩いて高田馬場の方へ向かって歩くと、大きなお屋敷の門の横に看板がありました。東京染ものがたり博物館(→→→こちら)という施設でした。ここでは、着物の染物体験(有料)や着物文化の案内をしていまるそうです。また、着物の染色で作った小物雑貨(ストール・ネクタイ・バック等)をミュージアムショップで販売しているそうです。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その1) 東京染ものがたり博物館
Jun 16, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。水神社から神田川沿いに上流を目指して歩くと、ここ文京区立肥後細川庭園(→→→こちら)に着きました。MoMo太郎日記では既に、2023年2月4日(→→→こちら)にこちらを訪れた時の紹介をしていますので、今回が2度目の訪問になります。細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にしているので、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来きます。ということで、肥後熊本54万石の細川家の殿様になった気分で園内を散策してみました。しかし、これだけの庭園を持っていたとすれば、54万石の大名って結構なお金持ちだったんですね。肥後細川庭園を後にして神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いてゆきます。歩いた時期は2月中ごろ、まだまだ桜には早い時期でした。そして、文京区から新宿区に入ってきました。とりあえず、ここで文京区散策ではなくなるのですが、高田馬場までに見つけたものの紹介は続ける予定です。【つづく】文京区散策(その23) 肥後細川庭園
Jun 15, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。胸突坂の下りきると神田川になります。このあたり桜の並木になっていて、季節には華やかな感じになります。二本の大きな銀杏の木がある水神社(→→→こちら)がありました。石造りの鳥居は新しい感じです。鳥居の横のこの看板によると、平成16年12月5日に東京地方を襲った風速40.2mの大風により、銀杏の枝が折れ、鳥居の笠木を破損したことから、地元の人たちが鳥居を再建し、令和2年に完成したそうです。石段を登って社殿にお参りしました。創建の年代は明かでないそうですが、祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇日本最古の神田上水の取水口がこのあたりにあったことから、その守り神として奉られているそうです。水神さまが江戸、そして東京の町の安泰を守っておられるのですね。【つづく】文京区散策(その22) 水神社
Jun 14, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。永青文庫からこの急な胸突坂と呼ばれる坂道を下って神田川に向かいます。この坂の途中にあるのが、関口芭蕉庵(→→→こちら)です。MoMo太郎の大好きな無料で見学ができる施設でした。中に入ると関口芭蕉庵の案内図があります。関口芭蕉庵は、江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいた住居跡になるそうです。池などもあって、なかなか趣のあるところに住んでいたんですかね。もともと、芭蕉の旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているそうで、後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てらたのが現在の芭蕉庵につながそうです。ということで、最初から、こんな広い庭付き一戸建てに住んでいたのではないんでしょうね。それにしても、芭蕉、本業は工事監督で、俳諧は趣味だったんですかね。確かに俳句で食べていくのは大変だったかも。中に入ってみると、木々が多くて都会の中とは思えない雰囲気です。こちらが瓢箪池と呼ばれる園内にある池です。さすが「名月や池をめぐりて夜もすがら」と詠んだ芭蕉の住まいですから池は必須アイテムというところでしょうか。入園無料でしたが、この庭園の維持費は誰が負担しているんでしょうか。夏井いつきさんのような俳句を職業としている人達の「日本俳人協会」みたいな団体があって、その団体が負担しているのかな。瓢箪池の畔に建つ石碑。「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑だそうです。こちらの大きな石碑は、范石湖の詩碑だそうです。板に書かれた説明板には、「范石湖の詩碑 范石湖の碑を石摺により再刻せるもの。田中光顕氏之を建つ。明治22年(1889) 」とありました。范石湖とは、范 成大という中国南宋の政治家・詩人だそうで、石湖居士と号したことから范石湖とも呼ばれているのだとか(→→→こちら)。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その21) 関口芭蕉庵
Jun 13, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文京区目白台に行けば、一度は訪れてみたいところはここ永青文庫(→→→こちら)です。旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵展示研究している施設です。細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりまる家柄ですね。「永青」とは、初代の細川藤孝の養家の始祖細川頼有以後8代の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって16代目細川護立公が名付けたものです。文京区教育委員会の設置した説明板もありました。これによると、江戸時代の熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡にこの施設があるんですね。この建物が展示館になっているんですね。入場料は大人1,000円ということなので入場は遠慮させてもらいました。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その20) 永青文庫
Jun 12, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。椿山荘から目白通り目白の方へ向かって歩くと、この建物がありました。講談社野間記念館(→→→こちら)です。今のところ建て替えのため休館中ですが、講談社初代社長野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に展示しているほか、講談社の出版事業にかかわる貴重な出版文化遺産も数多く展示されているそうです。文京区の関口と音羽のあたりは、講談社を中心としたグループ各社の光文社、キングレコード、講談社ビーシー等が立ち並んでいるんですね。目白通りから神田川に向かって下っていく坂を歩いて行くと、この建物があります。こちらは、以前このブログ(→→→こちら)でも紹介した男子の大学生・大学院生のための学生寮「和敬塾」(→→→こちら)の東門になります。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その19) 野間記念館と和敬塾
Jun 11, 2023
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最近のニュースでは、「同性同士の結婚が認められないのは憲法に違反する」という判決が出たそうです。「自分の生きづらさは間違っていなかった」同性婚集団訴訟“最後の判決”は違憲状態(→→→こちら)法律の世界では、ニュートンの第1法則(慣性の法則)、ニュートンの第2法則(ニュートンの運動方程式)、そしてニュートンの第3法則(作用・反作用の法則)に従って、世の中の物体は動くという物理学の世界と同じで、法則である憲法に反するようなことがあってはいけないらしい。確かに、ある法律では、県知事のことを「地方長官」と呼んで、警察のことを「政府公認暴力団」と呼んでいると、法律同士が矛盾してはやりにくいのでしょう。また、世の中も変わってきて、ニュートン力学では説明できないことも増えてきて、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学など形成されたように、これからも、違憲状態と裁判所が判断する事案も増えてきそうですね。。その中でも、国会なんて言うのも、いずれ違憲状態になるのかも。「ありえない」怒号の中強行採決 改正入管法あす成立へ(→→→こちら)しかし、理由はともかく、母国で犯罪者になっていた外国人が、難民として、この「一見さんお断り」の藁苞(わらづと)納豆みたいな日本に沢山やってきて、美味しい納豆社会日本は守れるんですかね。人気ブログランキング違憲状態なのは
Jun 10, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京カテドラル聖マリア大聖堂と目白通りを挟んで向かい合わせの場所にあるこの門は椿山荘(ちんざんそう)(→→→こちら)。MoMo太郎は子供の頃は、椿山荘といえば、結婚式場や宴会場というイメージだったんですが、平成の初め頃から「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」ということで、高級感のあるホテルになったようです。今は「ホテル椿山荘東京」という名前で、いつのまにかフォーシーズンズ」は消えていますね。この椿山荘のある台地では、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があったそうです。明治時代になると、元勲の山縣有朋がその屋敷を購入して「椿山荘」と命名したそうです。さらに大正になって、藤田財閥の藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸としました。戦後は藤田財閥を引き継いだ藤田興業の所有となり、そののち宴会場、結婚式場として利用されるようになって現在に至っているそうです。【つづく】文京区散策(その18) 椿山荘
Jun 9, 2023
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業した関口フランスパンのある目白坂を登って行くと、この変わった斬新な意匠の建物があります。これが東京カテドラル聖マリア大聖堂(→→→こちら)です。天に向かって延びるこの塔、なんの目的なんでしょうか。こちらの案内図でも説明はありませんでした。しかし、東京カテドラル聖マリア大聖堂、教会というよりもSF映画に出てくる建物ですね。世界的にも有名な日本の建築家・丹下健三氏(→→→こちら)の設計によるものだそうです。カテドラルとは、「カテドラ」のある教会のこと。「カテドラ」というのは大司教という教会の支店長みたいな人が座る椅子の事で、司教の座る椅子がある教会を「カテドラル」ということです。つまりここは東京支店長のいる教会ですね。近所にある営業所みたいな教会よりは格上ということでしょうか。そして、こちにあるのは「ルルドの洞窟」。ルルドの洞窟は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもとにある洞窟で聖母マリアが出現されたとされる場所だそうです。ここで祈りをささげる方も多く見かけました。教会なので、ここで結婚式も挙げらるんでしょうね。今度、結婚するチャンスがあればここで式を挙げてもいいかな。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その17) 東京カテドラル聖マリア大聖堂
Jun 8, 2023
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1ヶ月以上の中断でしたが、文化の京(みやこ)、文京区を散策した報告を再開します。江戸川公園から目白通りの坂道を登って行きます。このあたりの住所は文京区関口。地形では関口台(→→→こちら)とも呼ばれています。関口と呼ばれるようなったのは、神田川の水を取水して神田上水に流すため、この地点でせき止めた堰の口という意味があるそうです。この坂道の登り始まりのところにあるオシャレなパン屋さん。関口フランスパン(→→→こちら)。店の名前に「フランスパン」と入れているだけあって、日本における本格派フランスパンを誕生させた120年の歴史を誇る老舗のパン屋さんだそうです。5もともとは、明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業したのがはじまりだそうです。やっぱり、キリスト教にはパンは欠かせないということですかね。【つづく】文京区散策(その16) 目白通りの関口フランスパン
Jun 7, 2023
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「アメリカンドック」、こんな油で揚げたものを食べていいのかと思いつつも時間がないと、コンビニでこれを買ってお昼ご飯として食べていることが多いです。よく食べている割には、ケチャップとマスタードが両方入っていて、折り曲げるとそれぞれが出てくる名称不明の容器の使い方が下手で、ケチャップとマスタードがきれいに揃って絞り出せないのが悩みです。人気ブログランキング孤独のグルメ アメリカンドッグ
Jun 6, 2023
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この吉見百穴に隣接して、「吉見町埋蔵文化財センター」というものがありました。休憩所や、 資料館があり、出土品などの関連資料が展示されているほか、「埴輪づくり」や「勾玉づくり」などの体験学習メニューもやっていました。また、崖面に無数の穴が開いている異様な光景が、昔よりミステリアスな場所として有名だったのでしょうね、ここを訪れた正岡子規の句碑がありました。「神の代は かくやありけん 冬籠」という句を詠まれたようです。子の句碑は、平成16年(2004)に、町の記念行事として造られたと記されていました。さらに、この資料館の裏に行ってみると、屋根がかけられた発掘物がありました。横穴墓の玄室の壁の一部が展示されていました。横穴墓玄室の加工痕が残った岩だそうです。よく見ると、確かにノミのようなもので掘った痕跡が残っていました。こちらは同じ吉見町にあるかぶと塚古墳(→→→こちら)にあった石室の石が展示されていました。しかし、このかぶと塚古墳は昭和48年(1973)の調査の後に破壊されたそうです。この吉見百穴、埼玉にある観光スポットの穴場でした。(吉見百穴の周辺)【了】人気ブログランキング吉見百穴(その8) 吉見百穴は観光スポットの穴場でした
Jun 5, 2023
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こちらの横穴は、入り口が支保工で補強されていました。「この洞窟は地下軍需工場跡地です」の表示がありました。中にいることはできませんが、格子の間から内部を撮影してみました。こちらも、工場の入口だそうです。工場の名前は「中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場」といったそうです。この入口にあった説明板には、昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。通称の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。といったようなことが書かれていました。こちらも中を撮影してみました。かなり大きなトンネルを掘っていたんですね。ここの岩盤は凝灰質砂岩というそうです。吉見百穴に併設されている「吉見町埋蔵文化財センター」にあった軍需工場の模式図です。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのですね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その7) 戦争の痕跡「軍需工場跡」
Jun 4, 2023
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斜面を下っると大きな横穴がありましたが、中に入れないように格子がはめられていました。この横穴の前には、「横穴に葬られた人々」という説明板が柵の隙間から中を撮影してみました。確かに、岩盤質で、人力で掘るのは大変だっただろうなと想像できます。こちらの横穴は、天然記念物「ヒカリゴケ」の自生地だそうです。「ヒカリゴケ」とは、ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物である。その名が示すように、洞窟のような暗所においては、わずかな光をよく反射するため金緑色(エメラルド色)に光るように見えるものだそうです。しかし、自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため反射光は金緑色(エメラルド色)になるそうです。こちらの横穴の中にヒカリゴケが自生しているそうです。すき間から中を撮影してみると、奥の方にエメラルド色に輝くものがありました。これがヒカリゴケなんですね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その6) 天然記念物 ヒカリゴケ自生地
Jun 3, 2023
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斜面を登っていくと、穴に入って、横穴墓の構造が見れる個所がありました。「棺座の工夫」と書いた説明板のある横穴です。元々は、穴墓の入口には石の蓋が立て掛けられていました。蓋を外せば再び石室内に入れる構造だったので、一般的な古墳と違い追葬が可能でした。というようなことが記されていました。中を覗いてみるとこんな感じで、横穴の中には「棺座(かんざ)」が二つ並んでいました。棺座というのは、遺体を埋葬する為の仕切りのことです。しかし、ここに葬られていた遺体はどこへ行ったんでしょうかね。しかし、宇宙人の基地だったという痕跡は、みつけられませんでした。こうやってみると、穴の並びは一見不規則のようで、よく見るとなんとなく規則的に並んでいるように思えますね。しかし、この岩の斜面に穴を掘ってお墓にするのはかなりの重労働だったのではと思われます。斜面を登り切って、吉見百穴の頂上からの眺望です。秩父の武甲山あたりまで見えています。天気が良ければ、富士山まで見えるようです。写真前方左手に見える森は、国指定の史跡「武州松山城跡」になります。頂上にはお店があるようで、「やさい直売所」の幟もありましたが、営業している雰囲気はなかったです。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その5) 横穴の中をのぞいてみました。
Jun 2, 2023
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いよいよ目的地の吉見百穴です。駐車場は無料ですが、入場料は中学生以上300円、小学生200円、小学生未満は無料となっています。営利目的の入場料というより、自然環境保護のための協力金ということでしょうね。この建物が入り口となっています。吉見百穴についての説明板がありました。以下はMicrosoft BingのAIによる説明です。吉見百穴は、埼玉県比企郡吉見町にある横穴墓群です。古墳時代後期(6世紀から7世紀)に作られたもので、国の史跡に指定されています。岩山の斜面に219基もの横穴が掘られており、その中には台座状の構造や緑色の石で作られた蓋が見られます。これらは墓として使われたことを示しています。また、一部の横穴にはヒカリゴケという珍しい苔が自生しており、国の天然記念物にもなっています。太平洋戦争中には、岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場が建設されましたが、その際に横穴が破壊されたものもあります。吉見百穴は、歴史的・文化的・自然的な価値が高い遺跡です。なかなかよくまとまった、わかりやすい説明ですね。また吉見町観光案内もありました。吉見百穴以外にもなかなか面白そうな観光地があるみたいです。ちなみにタレントの若槻千夏(→→→こちら)は、この町の出身だそうです。全体の雰囲気はこんな感じで、山の斜面に直径1メートル程度の穴が無数に空いていて異様な感じですね。何も知らなければ、宇宙人の秘密基地かもと想像しそう。実際、仮面ライダーやウルトラマンシリーズのロケ地にも使われていたようです。この吉見百穴を最初に発掘したのは、弥生土器発見者の一人でもある東京大学の学生、坪井正五郎氏で、発掘調査の後、坪井氏は「横穴をコビトのような日本の先住民族、コロポックルの住居とする説」を唱えたそうです。しかし、坪井正五郎の同志であった白井光太郎氏は、「横穴は最初から墓として作られた集合墳墓という説」で反論し、論争となったそうですが、今のところ墳墓説が定説となっているそうです。そして、1923年(大正12年)には、国の史跡に指定されています。MoMo太郎としては、地球外生命体による地球侵略の前線基地として造られたものであったが、流行した新型コロナウィルスによる感染症で多くの死者が出たため、地球外生命体は地球侵略をあきらめて帰って行った説を唱えたいです。このように、新型コロナウィルスは地球が危機の時に流行し、その原因となる生物を退治するウィルスとして地球が生み出したものであって、現在では気候変動などの地球の危機の原因を作っている人類を退治しようとしたが、現在は人類はワクチンを開発しウィルスの脅威と戦っているところなのでしょう。ということで、この説を補強する証拠を集めるため、この階段を登り吉見百穴について詳細に調査したいと思います。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その4) 史跡「吉見百穴」は宇宙人の基地だったかも説
Jun 1, 2023
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