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フラワーロード商店街を歩いてゆきます。名前のとおり歩道沿いに花壇があって花が咲いていました。商店街なので、色んなお店がありますが、MoMo太郎はいつもこの名前のドラッグストアの前を通るとき、この店で売っている花粉症の薬は効き目がありそうと想像してしまいます。商店街にあったコミニュティFMの放送局(→→→こちら)です。小岩箭弓稲荷神社という神社です。商店街って稲荷神社がよく奉られていますね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その2) フラワーロード商店街
Jul 31, 2023
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多分、初めてやって来ました。JR総武線の小岩駅去る6月10日(土)、JR東日本が主催する駅からハイキングの「ぶらり小岩下町情緒と花菖蒲の名所を訪ねる」に参加するためにやってきました。昔の国鉄時代の白い制服を着た駅員さんが案内に立っています。これは地元出身の第44代横綱・栃錦(→→→こちら)の像です。参加を受け付けると地図やこれから訪れる施設のパンフレットなどを頂きました。小岩駅南口からの出発です。初めて歩く小岩の街、どんなところなのか期待しながらの出発です。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その1) 初めての小岩の街
Jul 30, 2023
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土用の丑の日も近いこともあり、新宿の京王百貨店で「ての字」のうなぎ弁当(2,600円税別)をお土産に買ってきました。家庭サービスっていうことです。文政10年(1827)、徳川二の丸御用商として創業した老舗です。、割り箸のほか、ナプキンとタレ、山椒もついていました。容器は紙製でしたが、うな重の重箱の雰囲気を出しています。身の厚い蒲焼きでした。やっぱり、鰻って美味しいですね。これで我が家の夏も安泰ですかね。※この孤独のグルメシリーズ、数えると今回で370回目でした。人気ブログランキング孤独のグルメ(その370) うなぎ弁当
Jul 29, 2023
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鳩の街通り商店街にやって来ました。東京大空襲を免れたため、戦前のままの道幅の狭い商店街。また、長命寺に植樹した木の実ナナさん(→→→こちら)の出身地であり、吉行淳之介の小説「原色の街」(→→→こちら)ともなった特殊飲食店街だったところです。この商店街のほぼ中央部にある寺島保育園です。この保育園から路地を入っていくと、吉川英治旧居跡がありました。吉川英治は大正6年(1917年)、25歳の時、花街で知り合った赤沢やすと寺島村で暮らし始めたそうです。本格的な作家活動は30歳で「親鸞記」の新聞連載です。その後は、「剣難女難」や「鳴門秘帖」で文学作家としての地位を確立しました。しかし、両国、向島といったエリア、文学者たちに縁の深い土地柄なんですね。そして、東武曳舟駅に戻って、ここから帰宅しました。(両国から向島を歩くコース)【了】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その16) 吉川英治旧居跡
Jul 28, 2023
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さて、長命寺から都立本所高校近くまで歩いてきました。こちらにあるのが、「森鴎外住居跡」です。以下、説明板の書き起こしです。所在地向島三丁目三十七番・三十八番 文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外 (本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鷗外が毛筆で写生したという庭は笠松や 梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には 西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島 の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作 『渋江抽斎』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」 の号は近くを流れていた曳舟川 (現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられてい たようです。平成二十六年二月墨田区教育委員会京成タウンバス有01系統亀有~浅草寿町のバス停の名称も「森鴎外住居跡」です。そのほか墨田区コミュニティ バスの北西部ルートにも「森鴎外住居跡」という停留所があります。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その15) 森鴎外住居跡
Jul 27, 2023
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長命寺(→→→こちら)の近くに来たのですから、参拝することにしました。境内に長命寺が経営する言問幼稚園(→→→こちら)が併設されています。このお地蔵様も幼稚園に通う、よい子のために建立されているのでしょうね。こちらが本堂、本尊は阿弥陀如来だそうです。境内には石碑が多くありました。こちらは、隅田区指定有形文化財の松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑です。「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれいるようです。こちらにも変わった石碑がありました。石碑に肖像が彫られています。成島柳北(→→→こちら)の碑というそうです。成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家だったそうで、幕臣として幕政に加わったのち、幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしましたが、東本願寺(旧通称東京本願寺)の法主に従い訪欧、翌年に帰朝。そして、朝野新聞の紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺したそうです。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力した人物だそうです。こちらの石碑は、「出羽三山の碑」だそうです。隅田川を挟む向島・本所北部と浅草に及ぶ広い地域の人々が出羽三山信仰をしていたことを示す石碑で、どういう目的で建立されたのかは不明のようですが、江戸の町でも出羽三山(山形県にある月山・羽黒山・湯殿山)の修験道が信仰されていたようですね。これは「木の実ナナ植樹記念碑」というそうです。 「風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる 木の実ナナと刻まれていて、また裏面には、「隅田川のほとり 向島に生まれ長命寺さんでバレエを習った子供時代、大好きな私のふるさとに感謝をこめて 平成15年2月吉日 植樹」刻まれていました。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その14) 宝寿山遍照院 長命寺
Jul 26, 2023
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墨堤通りに出て、首都高速の向島ランが見えてきたところで、享保2年(1717)創業の有名な長命寺桜もち(→→→こちら)のお店があります。こちらの説明板「正岡子規仮寓の地」によると、近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在して歌を詠んだそうです。こちらの説明板も長命寺桜もちのお店の横にありました。「三浦乾也旧居・窯跡」です。三浦 乾也(みうら けんや)(→→→こちら)という人、江戸幕府の御用人の家に生まれ、ckb@ 陶業を始めたのですが、長崎で造船術、金属加工技術などを学び、安政3年には仙台に招聘されて総棟梁として帆船「開成丸」の建造に携わった人物です。明治に入って居を東京に移し、明治8年(1875)年54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、68歳でなくなったそうです。特に簪(かんざし)の珠は「乾也玉」の名で流行したそうです。また、明治時代に言問団子で使用されていた皿は、乾也が焼いたものだそうです。墨堤通りを歩いて長命寺の方に向かいます。そうすると、こんな石碑を発見。「墨堤植桜の碑」というそうです。墨堤の桜は享保2年、八代将軍吉宗による植樹がその始まりだそうです。文字は全く読めませんが、明治20年建立のこの碑にはその桜の由来が書かれていて。てん額は榎本武揚の書だそうです。こちらにも石碑が建立されていました。文字がかすれて読みにくい説明板。苦労して読んでみました、野口雨情文学碑都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見るここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年1933)、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。 昭和63年(1988)10月9日 墨田区ということで、達筆すぎて文字が読めなかった石碑には「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」という歌が刻まれているんですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その13) 長命寺桜もちと正岡子規仮寓の地
Jul 25, 2023
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見番通りです。「見番」というのは芸者に口がかかった時の取次や玉代(ぎょくだい)の計算、芸者屋の取締りなどをする事務所のことです。ということで、この道を行くと、見番の「向嶋墨堤組合」(→→→こちら)があります。戦前には見番も複数あったそうですが、昭和61年(1986)にそれまでの芸妓屋組合・料亭組合・料理屋組合の三業に分かれていた組織を合体して「向嶋塁堤組合」として一本化されて現在に至っているそうです。今のご時世、芸者さん呼んで料亭で宴会というのも流行らないですが、まだ花街としてここには生き残っているんですね。水商売ということでしょうか、龍神と刻まれた石碑が建物の前に建てられていました。この提灯は、組合に所属している料亭のものですね。こういう小さな社もあって、商売繁盛などを祈願しているのでしょうね。墨堤組合の並びにあり、交差点の角にある喫茶店。よくテレビのグルメ番組でも紹介されている喫茶店「カド」(→→→こちら)生ジュースと手作りくるみパンのお店だそうです。昭和33年創業。手掛けたのは作家志賀直哉の弟で建築家の志賀直三ということで、昭和レトロ感が濃く漂っていますね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その12) 向嶋墨堤組合
Jul 24, 2023
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さらに隅田川を遡って言問橋(→→→こちら)にやって来ました。3径間ゲルバー鈑桁橋の言問橋、直線的なデザインで力強さを感じます。ちなみに言問橋は水戸街道(国道6号線)が通る橋なので、国土交通省が管理しているそうです。この言問橋から、向島の町の中に入って、この建物の方へやって来ました。「すみだ郷土文化資料館」(→→→こちら)です。名前の通り、墨田区の歴史、文化、伝統を紹介する地域博物館です。毎年3月と8月には東京大空襲に関連するイベントを開催し、空襲体験者による体験画を年間を通じて展示しています。そして、ここは作家の佐多稲子旧居跡でもあります。説明板には以下のように書かれていました。小学生の頃から利発な文学少女であったが、1歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町52番地(現在、隅田公園内) の家に身を寄せることになる。牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小說や短歌を投稿。 これらの経験が、後に『キャラメル工場から』 という作品にまとめられ、出世作となった。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりとしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは其角の家だ、と子ども心にも知っていた」(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その11) すみだ郷土文化資料館
Jul 23, 2023
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隅田川といえば、やっぱりこういう屋形船で繰り出すのもいいですね。「あみ清」というのがこの屋形船を運航している船宿の名前ですね。こちらの舟も「あみ清」所属。でも屋形船とはちょっと違いますね。多分、釣船ですね。そして、赤い吾妻橋(→→→こちら)が見えてきました。もう浅草ですね。吾妻橋はアーチが道路の下にある上路式鋼橋ヒンジアーチになっていて、橋の上に遮る物がなくて見晴らしはいいですね。吾妻橋の名所の由来は諸説あるそうですが、東岸にある吾嬬(あづま)神社への道筋にあたることから吾妻橋となったという説が有力といわれています。謎の金色のオブジェのあるアサヒビール株式会社本社ビルです。下町でビール飲むなら、アサヒビールというのが、MoMo太郎の家の掟になっています。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その10) 吾妻橋までやってきました。
Jul 22, 2023
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隅田川でカヌーを楽しむ人がいました。なんか大変そうですね。この黄色い上路式のアーチ橋は蔵前橋です。稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されているそうです。隅田川テラスに木杭が沢山打ち込まれています。この説明板によると、これは「両国の百本杭」呼ばれるものを復元したもので、昭和五5年(1930)に荒川放水路(今の荒川)が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していたころから、水量が多く、今の両国橋あたりは湾曲もして水流が大変強く当たるため、水流を弱める目的で、おびただしい数の杭が打たれていたそうです。そして、さらに浅草方面に向かって歩いていくと、3つアーチが連続する3径間下路式タイドアーチ橋の厩橋が見えてきました。西岸の浅草に幕府の馬小屋があったことから厩橋になったようです。また、タイドアーチ橋とは、アーチ橋の支点部に働く水平力に対抗するために支点部同士を引張部材(タイ)で結び、水平力を伝達させる形式にしたものです。このため支点部に水平力は発生しない構造になっています。さらに、今度見えてきた橋は駒形橋です。駒形の名称は、この橋の西詰にある、浅草寺の飛地境内にある馬頭観音を祀る駒形堂に由来します。またこの橋は、中央径間が下路式ソリッドリブタイドアーチ橋で、両岸の側径間が上路式ソリッドリブアーチ橋の゜組み合わせとなっているのが特徴です。こちらが駒形橋の中央径間を近くで撮影したものです。しかし、こうやってみると、江戸の八百八町に対して、大坂は八百八橋(→→→こちら)というそうですが、江戸にもなかなか橋が多いですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その9) 隅田川に架かる橋梁群
Jul 21, 2023
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これからは隅田川に沿って向島に向かって歩きます。隅田川です。小さな船が走っていました。国道14号線、京葉道路が通る両国橋です。1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは<武蔵国と下総国の国境にあったことから、両国橋と呼ばれるそうです。ということは、今の墨田区、江東区は千葉県だったんですね。両国橋は完成当時は言問橋・天満橋と共に「三大ゲルバー橋」(→→→こちら)よばれ、技術的にも当時の最先端であったそうです。ちなみにゲルバー橋というのは、大雑把に言えば、橋脚と橋脚の間がヒンジによって結合されている橋で、このヒンジは、ピンなどを用いて、上下左右には動かないが回転は自由にできるようにした接合形式です。この形式にしたのは、コンピューターの発達していない時代には、橋梁の構造計算が簡単だったということらしいです。しかし、このヒンジ部が、構造上・車両走行上の弱点になっているため、最近はあまりこの形式の橋は計画されないようです。次に見えてきた橋は、総武本線の隅田川橋梁です。この橋も3径間ゲルバー下路式ランガー桁という形式で、ゲルバー橋になっています。また中央径間は桁とアーチの双方で荷重を支えるランカー桁になっています。隅田川沿いは隅田川テラスとして、河川の高水敷にあたる部分をテラス化した親水公園のようになっています。さらに、堤防のコンクリート壁には、むかしの隅田川の様子を伝える写真や絵がシートに写されて展示されています。これは隅田川で行われていた昔のボート競走の写真です。こちらは、両国で行われていた勧進大相撲の様子を描いた浮世絵です。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その8) 両国橋と隅田川テラス
Jul 20, 2023
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さらに国道14号線に近づくと、また3枚の高札がありました。「片葉の葦」は、本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の一つだそうです。江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。という話だそうです。ということで、片端の葦の惨劇の舞台となった「駒留橋跡」。両国橋北側の入り堀にあった小さな石の橋のことだそうですが、被害者の女性が「お駒」、犯人の男性が「留蔵」とはよく出来たお話ですね。多分、ここに乗ってきた馬をつないでおく場所だったから「駒留橋」なんでしょうけど。また、片方の葉しか茂らぬ葦というのも、地勢や水流など自然環境が原因なんでしょうね。というわけで、こういう怪談話ができたのかな?で昔はこの辺りは「藤代町」という町名だったそうです。町名の由来は、毛利藤左衛門という人が自費で猿江村を開墾しましたが、幕府の貯木場として残らず召し上げられ、その代わりにこの地を賜ったそうで、藤左衛門が代わりに賜ったことから、「藤代町」と呼ばれるようになったんだとか。しかし、この藤代町、回向院や向島へ向かう人でにぎわっていた繁華街だったみたいですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その7) 片葉の葦と駒留橋跡
Jul 19, 2023
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やはり両国と言えば、このマンション。いえ、ここは春日野部屋。土地価格高騰のため税金対策として、1階は稽古場、2階は大部屋、3階は11代春日野の自宅、4階以上は分譲マンションになっているそうです。春日野部屋は、大正時代に「はず押し」一本の押し相撲に徹して、幕内取組数201のうち167勝を誇る大横綱・栃木山が起こした部屋で、横綱・栃錦、さらには、横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌など、有力な力士が出ている名門ですが、やっぱりみんな「栃(とち)」がつくだけに土地には悩まされていたんですね。隅田川近くにやってくる駐車場のフェンスには三枚の高札が掲げられていました。まず「石尊垢離場跡」。石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。そこへお参りに行く「大山詣」が江戸時代に流行していたそうです。その出発前に水垢離を取り、体を清めるための場所が旧両国橋の南際にあったそうです。「赤穂義士休息の地」というのもありました。赤穂義士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所だと伝わっています。赤穂義士の一行は、ここで休息後、無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げたそうです。でもここから高輪の泉岳寺までは結構な距離ありそうですね。「旧両国橋・広小路跡」でもあったんですね。旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの所に架かっていたそうで、橋の東側(墨田区側)は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋や食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街だったというそうです。ということは、ここで休憩していた赤穂義士のみなさんも、お団子なんか食べていたのかな。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その6) 相撲部屋と諸々高札ありました
Jul 18, 2023
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両国小学校から少し西に行った所にあるのが、吉良邸跡です。ここは先日7月9日のブログで紹介しましたので、今回はスルーしました。吉良邸跡から、また一区画ほど西に行くと集合住宅の横に高札がありました。ここが吉良邸裏門跡だそうです。ということは表門は東側の両国小学校に面した通りあたりですかね。今度確認しておきます。当時約2500坪の広大な敷地だった吉良邸。赤穂浪士討ち入りの際に、大石主税以下24名が侵入した裏門の場所がここだったんですね。その吉良邸裏門跡の傍にある赤提灯のお店の横にも高札があります。江東義塾跡という高札です。説明書きには、 文豪夏目漱石が明治十九年(一八八六)から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。 当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。 漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の談話の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰ってきて教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。」とありました。つまり、夏目漱石先生はここでアルバイトしながら一高(東京大学の前身)に通っていたわけですか。この江東義塾、この後どうなったかわかりませんが、明治時代には「義塾」と名乗る私立学校が多かったようです。福沢諭吉の慶応義塾大学は有名ですが、そのほかにも、東京都内の中高一貫の進学校として実績のある攻玉社も攻玉義塾が始まりだったようです(→→→こちら)。また、高校野球で青森県代表で出場したこともある東奥義塾(→→→こちら)。落語家の桂文珍師匠の卒業した兵庫県丹波篠山市にある兵庫県立篠山鳳鳴高等学校も明治時代に始まる鳳鳴義塾(→→→こちら)が前身だそうです。さらにこの近くで、馬車道に面したところで、高札を発見しました。前原伊助宅跡です。ここは、赤穂四十七士の1人、前原伊助が米屋に扮して潜伏していた場所のようです。吉良邸の裏門とは眼と鼻の先にあるので、討入り当日は赤穂義士たちの集合場所になったそうです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その5) 吉良邸跡と江東義塾跡
Jul 17, 2023
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その両国公園と道路を隔てて向かい側にあるのが、墨田区立両国小学校です。この両国小学校は、芥川龍之介の出身校で、龍之介が通っていた当時は江東尋常小学校と呼ばれていたそうです。この敷地の北西角にあるのが、芥川龍之介文学碑です。この文学碑は、両国小学校の創立百十五周年を記念して平成2年(1990)に建てられたそうです。碑面に刻まれているのは小学校ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれていました。「杜子春」、拙も小学生の時、国語で習った記憶があります。さて、その文学碑の隣には、船の錨が展示されています。この錨は、日露戦争で活躍した駆逐艦「不知火」のもので、解体作業を行った鉄鋼業者が昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものだそうです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その4) 芥川龍之介文学碑と軍艦の錨
Jul 16, 2023
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住宅街の中にある墨田区立両国公園です。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる勝海舟は、文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸本所亀沢町、旗本小普請組(41石)の父・勝小吉(かつこきち)の実家である男谷家で生誕しました。ということで、今年は生誕200年ですね。その男谷家があったのがこの公園ということです。勝海舟は7歳までここで過ごしたそうです。そんなことから、勝海舟生誕の地という石碑が建立されています。勝海舟の功績についての碑文もありました。この椅子に座って、勝海舟になった気分を味わってみて下さいということでしょうか。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その3) 勝海舟生誕の地
Jul 15, 2023
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最近の気になったニュース。最初は、「経産省トイレ利用制限訴訟 性同一性障害の原告逆転勝訴 最高裁」戸籍上は男性で、女性として生きる50代の性同一性障害の経済産業省職員が、女性トイレの利用を不当に制限されたとして国に処遇改善を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(今崎幸彦裁判長)は11日、経産省の利用制限を認めない判決を言い渡した。これについては、異例となる裁判官5人全員の補足意見が付され、それぞれ持論を展開しているそうです。なんだかんだ法律的なことを持ち出されても、この職場で働く女性の皆さんが、このような性的少数者の方とトイレを共同で利用することを容認できるかどうかでしょうね。それはそれとして、新幹線や飛行機のトイレって男性用、女性用と分かれていないけど、それは女性の方は気にしてないのかな。それともう一点、まあ経済産業省だと、オフィスワークだから気にならないかもしれませんが、MoMo太郎の働く職場だと、男性も女性も作業服に着替えるので、更衣室なんかの問題もありますね。次は、「タレントryuchellさん死亡 東京・渋谷区の事務所で」12日午後5時35分ごろ、タレントのryuchell(りゅうちぇる)さん(27)が東京都渋谷区笹塚1の所属事務所で死亡しているのを、マネジャーが見つけた。捜査関係者によると、現場の状況から自殺を図ったとみられる。警視庁が詳しい状況を調べている。ネットによる誹謗中傷が自殺の原因とか言われてるみたいですが、でも、自分の考えを貫いた生き方を選択した以上、ryuchell(りゅうちぇる)さんも批判、誹謗中傷の類は覚悟していたと思います。しかし、真実や真相はわかりませんが、残されたお子さんや人生のパートナーのpecoさんにとって、経済的な面や、精神的な面で禍根があるのは事実でしょうね。でも、pecoさんの実家は、「建築関係トントントン」で裕福らしいので、経済的な憂いはなかったのかも。ということで、ryuchell(りゅうちぇる)さんといえば、MoMo太郎にとっては、これですね。最後は、「不同意性交罪」施行=性犯罪の要件具体化―改正刑法」不同意性交等罪は、「同意しない意思を形成し、表明し、もしくは全うすること」を困難にして性交などをした場合に成立。これって、夫婦の間でも成立する罪なんでしょうね。注意しておかないと。人気ブログランキング最近のニュースについて思うこと
Jul 14, 2023
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京葉道路に面して「お江戸両国亭」(→→→こちら)という演芸場があります。ここは不動産会社の永谷というところが経営する演芸場で円楽一門会を中心にしている演芸場です。こういう場所で落語の芸を磨くというのが、いい噺家になるためには大切なんでしょうね。清澄通りを南に向かって竪川のあたりまでやって来ました。川の上の首都高速小松川線はリニューアル工事中でした。清澄通りが竪川と交わる二之橋のたもとに墨田区教育委員会が設置した小林一茶居住の地の説明板があります。江戸時代後期の俳人小林一茶は、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の出身で、十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみ、そして、各地を巡歴しながら俳人として頭角を現します。文化元年(1804)10月にはこの地に居を構えて5年ほどこの地を拠点に活動しましたが、旅に出ている間に借家であったこの家が他人に貸し出されていたため、以降弟子や後援者の家を転々とし、文化10年に故郷に戻ったそうです。再び北へ歩いて馬車通りという道にでます。昔、乗り合い馬車が走っていたのが馬車通りで、旧千葉街道です。明治18年(1885)に、菊川に馬車会社ができて、この道を走って営業をしたのがその名の由来だそうです。この道を歩いて両国小学校の方へ行きます。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その2) 小林一茶居住の地
Jul 13, 2023
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6月17日(土)、JR東日本の駅からハイキング「両国~向島 文学散歩」に参加してきました。出発はJR総武線の両国駅です。駅からは、国技館通りを南に向かいます。国技館通り沿いには、土俵入りするお相撲さんの銅像がありました。これは両手を広げる不知火型(→→→こちら)ですね。こちらは右手のみを伸ばしている雲竜型の土俵入り。こちらの力士さんは人気があるのか、みんなに撫でられて、お腹の上の地金が見えていました。国技館通りが国道14号線(京葉道路)と交わるちころは丁字路になっていて、そこには回向院(→→→こちら)があります。京葉道路を東に少し歩くと、横綱横丁という飲食店などが立ち並ぶ通りがあります。その入口に「芥川龍之介成育の地」の地の説明板があります。芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8-1(今の中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれたそうです。辰年辰の日辰の刻の生まれたのでにより龍之介と命名されたと言います。しかし、生後7ヶ月で生母ふくの病のため、当時本所区小泉町15番地(今の墨田区両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となったということで、まさにこの地で芥川龍之介は育ったということです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その1)芥川龍之介成育の地
Jul 12, 2023
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平日はいつも乗っている通勤電車。色んな人に巡り合いますね。【クルクル回る小学生】新入生が多い4月になると、電車通学に不慣れな小学生も満員の電車に乗っています。よく見かけるのは、ドアの前に立っていて、乗降客の多い駅で、電車のドアが開くと、電車から出ないようにと乗降客の流れの中で右に行ったり、左に行ったり、降りる人の流れに押されて、クルっと回転させられたりしている小学生の女の子。こういう時は、いったん降りて、降りる人の邪魔にならないように、並んで待っている人の列の前で控えて、降りる乗客が済んでからまた乗った方が、いいんですよ。でも、その女の子、ひょっとしたらバレエを習っていて、ここでピルエットやフェッテという回転の練習も兼ねているのかも。【タックルされた】それほど混雑はしていない通勤電車の中で吊革につかまっていると、目の前の座席の若い女性が降りたので、席がひとつ空きました。MoMo太郎は次の駅で降りるので、席へ座らずそのままにしていると。背後からすごい勢いで人がぶつかってきた、ちょっとその勢いでちょっとよろけると、その隙に目の前の座席に人が座りました。「なんだ」と思いながら座った人を見ると、白髪頭の年配の男性でした。年をとって電車の中で立っているのは辛いのでしょうけど、人を押しのけることができる強い足腰をお持ちなら、座って楽するよりも、立ったままで、足腰を鍛えておいた方が健康寿命が延びるのに。【タトゥーあり】新型コロナの流行も落ち着いたと思われているせいか、インバウンドというのか外国人観光客も増えてきて、電車の中でもそういう人をよく目にするようになりました。そういう中で、やっぱり外国人ってどうなのと思うのが、「入れ墨」、タトゥーをしている人が多く、それも腕など目に見える場所に入れていることが多くて、この人、温泉とかでは入湯を断られるんじゃないのと思ったりしています。しかし、まあ観光地の温泉は無理かもしれませんが、都内の銭湯なら大丈夫ですよ。そして、そのタトゥー、日本で入れてもらってるのか、漢字のタトゥーがあったりするのですが、この間見たのは「猫」という漢字を足に彫っている女性でした。「猫」が好きな方なのかもしれませんが、ちょっと迫力がないかも。人気ブログランキング通勤沿線、気になるあの人(その4)
Jul 11, 2023
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都心から下町へ歩いていますが、そろそろゴールの両国駅に近づいてきました。両国駅の近くにあるここ両国回向院(→→→こちら)です。両国と言えば相撲。明和5年(1768)以降、境内で勧進相撲が興行されるようになり、これが今日の大相撲の起源となっているそうです。この「力塚」は、昭和11年(1936)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立したものです。回向院は浄土宗の寺院で、明暦3年(1657)の「振袖火事」と呼ばれる「明暦の大火」で亡くなった無縁の人々を供養する「万人塚」がこの地に築かれたのが起源です。この建物は2013年に建てられた念仏堂で2016年のグッドデザイン賞を受賞したそうです。その起源ゆえに「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」を理念とする寺院になりました。こちらの施設は馬頭観音堂。徳川家綱の愛馬を供養したことに由来する馬頭観世音菩薩像が祀られています。こちらは、「小鳥供養塔」こちらには多くの人が集まっていますが、有名な鼠小僧次郎吉の墓でした。鼠小僧次郎吉が長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習があり、墓石がどんどん傷つけられるため、墓石の前の白いお前立ちの石を削って石を削りとるようなっています。現在も特に合格祈願に来る受験生方があとを絶たないそうです。鼠小僧治郎吉、俗名は中村治郎吉というみたいですね。また戒名は教覚速善居士となっていました。そして、ようやくゴールの両国駅に到着しました。(東京から両国へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング都心から下町へ(その20) 両国回向院
Jul 10, 2023
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墨田区両国のエリアに入ってきました。このあたりにあるのが本所松坂町公園(吉良邸跡)(→→→こちら)です。ここは「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の邸宅があったところで、赤穂浪士、47名の押し込みにあって、高家肝煎の吉良上野介が殺害された場所になります。ちなみに、「高家」というのは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で、肝煎ともなれば有職故実や礼儀作法に特に精通していた江戸幕府のマナー講師ということですね。往時の吉良邸を偲ぶなまこ壁に囲まれています。三河国・吉良家(4200石)、駿河国・今川家(1000石)は、徳川家康が高家旗本として幕臣に列した名門中の名門ですから、討ち入り当時の吉良邸は、東西733間(134m)、南北は34間(63m)、2550坪(8400平方)という広大なものでした。現在の公園の面積は、97.56平方なので、86分の1の規模ということになりますね。こちらが吉良上野介義央の座像です。さすがは高家なので、この服装にも礼儀が表れていますね。従四位上の上野介の位に合わせて、束帯は黒(→→→こちら)になっていますね。また、表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持っています。しかし、マナーやエチケットについてちょっと厳しく指導して恨まれるとは、職場の新人教育係なんてやりたくないですね。また、吉良家が浅野家の製塩技術が欲したことが背景にあったという説もありますが、吉良の塩田の歴史は戦国時代まで遡り、江戸時代には干拓地に大規模な入浜式塩田が営まれていたそうですから、技術的にはどちらが優れていたんでしょうか。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その19) 本所松坂町公園(吉良邸跡)
Jul 9, 2023
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前回紹介した深川神明宮は、江戸時代のはじめに、このあたりを開拓した歴史を示すものでしたが、江戸に入府した家康は、土地の確保のため、今の深川あたりをはじめとした低湿地の埋め立てを進めていますが、その過程でただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で開拓を進めていました。江東区を縦断する小名木川やその北側の東京都墨田区と江東区を流れる竪川もそうですが、その幹線となる運河をつなぐ支線の運河も建設されています。その痕跡がこのあたりにも残っています。この区画、道路挟まれた間隔が狭くなっていますね。これはその運河を埋め立てられた上を宅地として利用されている痕跡です。近くの公園にあった「六間堀跡」の説明板です。これによると、「六間堀」とは、現・墨田区千歳二・三丁目境と南方の現・江東区常盤一・二丁目境との間に通じ、竪川と小名木川を結んでいた運河のことで、川幅が六間あるため「六間堀」との名がついたそうです。しかしながら、第二次世界大戦に分流の五間堀とともに埋め立てられて消滅したそうです。新大橋通りに出ても、この幅の狭い区画が続いています。こちらの案内地図でも、道と道の間隔が狭い区画がつながっていることがわかりますね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その18) 六間堀跡
Jul 8, 2023
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深川神明宮(→→→こちら)にやって来ました。深川神明宮は、慶長年間(1596年 - 1615年)に当地を開拓した深川八郎右衛門が伊勢神宮より分霊を勧請し創建されたそうです。社号碑も立派なものです。開拓したばかりで、まだ地名がなかったため、徳川家康より八郎右衛門の姓である「深川」を地名にせよと命じられた。これが地名の深川の由来になっているそうです。ちなみに、ここは日本画家の伊東深水(→→→こちら)生誕の地でもあるそうです。伊東深水の娘は、女優の朝丘雪路(→→→こちら)ですが、朝丘雪路さんは料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子と深水との間にできた、いわゆる妾腹の子になるそうですが、深水は朝丘雪路を溺愛していたそうです。境内には、神明宮の例大祭に使われる神輿の倉庫があります。ちなみに、深川神明宮の例大祭には、3年に一度の「本祭り」と、その間の年の「蔭祭り」があります。「本祭り」では、神幸祭(宮神輿巡幸)、町神輿連合渡御(勢揃い)、稚児行列祭などの盛大な祭礼行事があります。「蔭祭り」では、8月17日に近い日曜日にありますが、宮神輿巡幸はなく、町によって、町神輿の町内巡幸、子ども神輿や山車の巡幸などの祭礼行事が行われます。こちらが社殿となっています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その17) 深川神明宮
Jul 7, 2023
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隅田川を遡って行きます。ここは隅田川テラスと呼ばれる、堤防を整備した水辺の散策道になっています。周辺に住む人たちの憩いの場にもなっています。そして、アオサギにも憩いの場になっているようです。また、このあたりは、松尾芭蕉が居を構えた場所でもあって、このように道沿いには松尾芭蕉の句碑も整備されています。芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この黄色い塔が印象的な斜張橋は新大橋(→→→こちら)です。隅田川の堤防を越えてこの緑の濃い庭の中に入って行きました。これが建物の玄関です。ここはどこかというと、江東区芭蕉記念館(→→→こちら)です。大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981年)4月19日に芭蕉記念館を建設しました。ここでは、芭蕉及び俳文学関係の資料を展示するとともに、子供俳句教室など文学活動の場も提供しています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その16) 隅田川テラスと江東区芭蕉記念館
Jul 6, 2023
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今度は深川萬年橋(→→→こちら)の方にやって来ました。こちらの橋はよくドラマのロケなどにも使われているので、御存知の方も多いかと思います。東京都江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ運河である小名木川に架かる橋で、江戸時代から、この場所に萬年橋か架かっていたそうで、、葛飾北斎の浮世絵、富嶽三十六景でも「深川萬年橋下」として描かれています。関東大震災の直前には木橋で、震災時も被害はうけたものの耐え切ったが、老朽化とあわせて震災復興計画により、昭和5(1930)年に、タイドアーチ型の現在の橋に架け替えられたそうです。もう90歳近い長老の橋ですね。隅田川のすぐ南側にある清洲橋は萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれているそうです。ということで、ケルンの眺めです。ドイツに行った気持ちになりますかね。隅田川のに建て込まれた杭の上にたたずむカワウも「ケルンの眺め」を味わっているようでした。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その15) 萬年橋とケルンの眺め
Jul 5, 2023
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清澄通りからこちらの深川資料館通りと呼ばれる道に入ります。こちらの建物が、通りの名前の由来になった江東区深川江戸資料館(→→→こちら)です。資料館は江戸時代末期(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した資料館です。そのほかにも劇場、ホールを備えた文化施設が併設されています。これで観覧料金、大人400円はお手頃かな? ついでに同じ江東区内にある芭蕉記念館、中川船番所資料館の3館共通の入館券大人500円がもっとお得です。またこの3館共通入館券は最初の入館日から6ヶ月有効なので、それぞれの施設をじっくり見て回るのにいいかもしれません。そして、清洲橋通りに戻り隅田川に向かって戻って行きました。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その14) 深川江戸資料館
Jul 4, 2023
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本邦セメント工業発祥の地からこちらの清澄公園にやって来ました。清澄公園は都立清澄庭園に隣接する開放公園で、明治時代までは庭園の一部だった場所そうですが、現在は無料で利用できる都民の公園になっています。公園の中には、森林公園かのように緑の木々が多く植えられているエリアもあって、ちょっとしたキャンプぽい時間を楽しめます。公園の東側の入口にある和風の時計塔が公園のシンボルみたいですね。清澄公園の東隣にあるのが清澄庭園(→→→こちら)です。入場料は大人150円となっています。清澄庭園は、文化財保護法(第2条)により芸術上又は観賞上価値の高い日本庭園として、都指定名勝に指定されており、適切な文化財保護の観点からペット連れの入園はできません。そして、清澄庭園の東側、清澄通り沿いに並ぶ壁状の店舗兼住宅が立ち並びます。「旧東京市営 清澄店舗向住宅」(→→→こちら)と呼ばれる建物らしく、関東大震災直後の昭和3(1928)年に竣工したそうです。大震災で木造家屋が次々と延焼したことを教訓に壁状の長屋とすることで、防火壁の役割を果たすことを期待していたそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その13) 清澄公園と清澄庭園
Jul 3, 2023
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清洲橋を渡り江東区清澄に来ると、某新聞社の関連施設の前に、石碑がありました。「平賀源内電気実験の地」(→→→こちら)です。江戸時代、多芸多才の人として知られる平賀源内は、安永5年(1776年)、この地で、長崎で手に入れたオランダ製の静電気発生装置エレキテルの構造を解明し、たびたび実験していたそうです。ただ、平賀源内がオームの法則を理解し、ホイートストンブリッジのような電気回路の問題が解けたかどうかはわかりません。更にその某新聞社関連施設の隣には生コンクリート工場がありました。工場の前には、ちょっと小太りのオジサンの銅像がありました。このオジサン、スーツ姿ですが足には長靴を履いています。とてもオシャレな装いです。浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者 浅野総一郎氏(→→→こちら)です。その傍らには、太平洋セメント株式会社が設置した、江東区史跡セメント工業発祥の地の碑が建立されていました。さらにこちらの石碑は、本邦セメント工業発祥の地の石碑ではなくコンクリート碑がありました。明治5年(1872)、官営の深川セメント工場が建てられ、その後、明治16年(1883)に創業者の一人である浅野総一郎が払い下げを受け、民間初のセメント工場として発展してきたそうです。そのような経緯が創業者の浅野総一郎自身によってしたためられ、碑文として示されていました。しかも、このセメント工場の払い下げにも渋沢栄一さんも絡んでいたようですね。今や、道路、港湾、建物など私たちの生活に欠かせないコンクリートとその原料のセメント。ここが始まりの場所だったんですね。こちらのコンクリートの塊も置いてありました。表面のモルタルが剥がれて中の骨材の砂利も見えていますし、ひび割れから石灰分が溶出して白い筋となっており、かなりの古いコンクリートだと思われます。これは、明治27年(1889)の横浜築港工事で使用されたコンクリートブロックのようで、引き上げられてここに展示されているようです。確かにこのコンクリートブロックの表面に明治27年に製造されたと文字が刻まれていました。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その12) 本邦セメント工業発祥の地
Jul 2, 2023
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夏になると一度は食べたくなるのが冷やし中華ですね。お昼に、急に冷やし中華を食べたくなったので、近くで見つけた日高屋に入って、黒酢しょうゆ冷やし麺と半チャーハンセット(880円税込み)をいただきました。人気ブログランキング孤独のグルメ 夏はやっぱり冷やし中華
Jul 1, 2023
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