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さて、大学の1年生の時から4年生になるまで箱根駅伝一区を任されてきたMoMo太郎にとって見覚えのある、忘れない歩道橋が見えてきました(→当然ウソですよ)。箱根駅伝往路の1区→2区の鶴見中継所がこの歩道橋の下になります。また、道路の反対側が復路の9区→10区の鶴見中継所になります。テレビでは余り写ったことはありませんが、ここにたすきリレーの銅像が建立されてます。「明日へ走る」と題されたこの銅像、平成9年(1997)に鶴見区制70周年の記念として作られたそうです。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その9) 鶴見中継所
Aug 31, 2023
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八丁畷駅から鶴見駅に向かって駅間歩きは続きます。JR南武線の跨道橋をくぐると、第一京浜(国道15号)に出ました。写真は第一京浜をまたぐ南武線と貨物専用の東海道本線支線の跨道橋です。第一京浜は、国道15号の新橋 - 横浜間の別名になります。ちなみに明治時代にはこの道が国道1号でしたが、バイパスとして建設された第二京浜(東京都品川区西五反田から神奈川県横浜市神奈川区青木町まで区間)が昭和27年(1952)に国道1号に指定され、この区間は国道15号に指定されたそうです。また、この第一京浜(国道15号)は、毎年1月開催の東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースにもなっているので、テレビ中継などで見たことがある人も多いでしょうね。道沿いにボクシングジムがありました。そして、このボクシングジムのすぐ近くからここから横浜市に入ります。いよいよ横浜市鶴見区です。第一京浜から分岐するこの道は、ゴム通り(→→→こちら)という道路です。昭和4年(1929)に横浜ゴムの工場がみにこの沿道に出来たことに由来する名将名称だそうですが、昭和20年(1945)に空襲で壊滅してからは、再建されることもなく、今では分譲マンションになっているようですが、名前だけは残っているというわけですね。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その8) 第一京浜
Aug 30, 2023
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さて、京浜急行電鉄の八丁畷駅にやって来ました。今回の駅間歩き、東海道線の駅間歩きなので、京浜急行の駅間歩きではありませんが、ちょっと立ち寄りました。八丁畷駅前には広場がありました。この広場、地域交流拠点「Park Line 870」(パークラインはっちょう)というそうです。道路を公園のように活用する取り組み「Park Line」と、「870」は「八丁畷(はっちょうなわて)」の駅名の由来である「八丁(870m)の畷道(田の間の道)」が由来となるそうです。しかし、この広場、最近できたみたいですね。引かれている白いラインは線路をイメージしているんでしょうか。川崎駅方面に向かって撮影した、京浜急行の線路です。ところで、この八丁畷駅はJR東日本の南武線の駅でもあります。でも駅の雰囲気からはJRとの乗り換え駅というのがわかりませんね。八丁畷駅の横の踏切を渡ります。駅舎の上に架かるところが、JR南武線のホームなるのでしょうか。つまり、南武線ホーム部を跨線橋として共同使用しているのでしょう。南武線と京浜急行の改札は共用となっていて、乗り換えの時はI簡易ICカード改札機にカードをタッチする仕組みのようです。こちらは八丁畷駅西口にある旧東海道と記された記念碑です。また「東海道川崎宿史跡めぐり」の説明板も設置されていました。駅の横には無縁塚慰霊塔がありました。この古びた石碑には、慰霊塔と刻まれています。八丁畷の由来と無縁塚に関する説明板がありました。この付近では江戸時代以降多くの人骨が発見されており、戦後の道路工事などでも度々掘り出され10数体にも及んだという。東京大学による鑑定の結果から江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明し、当時の震災、大火、洪水、飢饉や疫病などの災害で亡くなった身元不明の人々を宿場のはずれの八丁畷の並木の下に埋葬したのではないかといわれているそうです。無縁塚は1934年、八丁畷駅付近で発見された江戸時代の人骨を供養するため、市と下並木町会が建立したもので、建立以来80年以上の間、地域住民らが毎年5月に供養祭を行い見守り続けてきたそうです。その隣には、「百年前 昭和初期の八丁畷駅」と題されたタイル画が設置されていました。駅近くの市立川崎中学校の中学生が卒業制作として制作し、2021年に寄贈したものだそうです。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その7) 八丁畷の無縁塚
Aug 29, 2023
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旧東海道沿いにあるこの大きな建物は、神奈川県警の川崎警察署です。川崎駅周辺の繁華街を管轄することに加えて、管内には指定暴力団稲川会傘下の複数の組事務所が点在するという大変重要な警察署です。川崎警察署を過ぎて、ひっそりと佇むなにやら立派な石碑がありました。「芭蕉の句碑」(→→→こちら)です。こちらが「芭蕉の句碑」です。刻まれているのは「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という俳句です。元禄7年(1694)5月、江戸に住んでいた松尾芭蕉が郷里の伊賀へ旅立つ時に、芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、岱水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわした時に詠んだ句だそうです。意味は「風にも揺れる頼りない麦の穂を頼って歩く旅立ちの別れであるよ」といったところでしょうか。川崎市教育委員会による説明板がありました。この近くには、京浜急行電鉄の「八丁畷」駅があります。八丁畷とは、江戸時代、川崎宿から隣の市場村(いちばむら)まで、畷道と呼ばれる田んぼ道がまっすぐ八丁(870m)ほど続いていたので八丁畷と呼ばれていたことから駅名になったそうです。今では住宅街となったこのあたりですが、松尾芭蕉が生きていた時代には、一面に麦が植えられた田んぼに挟まれた細い道を歩いて行くことになったのでしょう。「麦の穂をたよりに・・・」の句は、正保元年(1644)生まれの俳聖、松尾芭蕉も、この時50歳になり、この心細い田んぼ道を旅して故郷の伊賀上野へ旅立つ心情が読み取れる一句だと思いました。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その6) 芭蕉の句碑「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
Aug 28, 2023
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更に旧東海道沿いに進んでいくと、「ビバース日進町」という民間病院(医療法人社団恒春会馬嶋病院)と高齢者向け優良賃貸住宅を合築した施設があります。馬嶋病院は、老人ホーム恒春園を設立した馬嶋正雄氏(故人)の経営していた病院なんでしょうか。この「ビバース日進町」の一角にあるのが、この「芭蕉ポケットパーク」(→→→こちら)です。川崎宿の「京口」(京都側の入り口)と呼ばれたこのあたりで、元禄7年(1694)に芭蕉が弟子達と別れを惜しみ句を詠み交わした所だそうです。そして、その年の秋に芭蕉は大阪で帰らぬ人となったので、弟子たちにとっては本当に最後の別れとなった場所になるそうです。また、椅子が7脚あるのは、この時に見送りに来た7人の弟子たちが詠んだ句が彫られているためでしょう。「一休み樗(あふち)の花や昼の辻 杏村」(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その5) 芭蕉ポケットパーク
Aug 27, 2023
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旧東海道沿いにある、社会福祉法人 馬島福祉会が運営する特別養護老人ホーム恒春園です。この建物の入口に敷地の一角に石碑があります。「ここに幸あり」という石碑です。同施設の開設10年を記念して1989年に建てられたものだそうです。1979年、川崎駅に近い小川町で病院経営していた馬嶋正雄氏(故人)が東奔西走の末、福祉と医療が一体化した悲願の都市型老人ホーム恒春園を完成させたそうです。恒春園は川崎市で初めての民設民営の施設になります。こちらの黒御影石の石碑には、その経緯が記されていました。さらに旧東海道を歩いていくと大きな通りに出ました。この道は1969年まで川崎市電が走っていた道だそうです。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その4) ここに幸あり
Aug 26, 2023
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さて、こちらの道を歩いて行きます。この道は、かっての東海道にあたる道になります。この電柱には、「川崎宿京入口」と表示されていました。もう少し立派な看板みたいなものでも設置しておけばいいのにな。また、こちらには東海道川崎宿という旗が吊るされていました。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その3) 東海道川崎宿
Aug 25, 2023
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新川通りを進んでいくと、こんな石碑のようなものがありました。小土呂橋の親柱(→→→こちら)です。小土呂橋は東海道が新川掘という排水路を横断するところにかかっていた橋で、昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられたため、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されているそうです。小土呂橋から南西方向に延びる路地に入ってゆきます。このあたりは川崎南町(→→→こちら)という地域で、明治末期から始まる川崎の工業化により歓楽街として発展してきたそうです。戦後には政府公認の特殊飲食店街となり、その後の売春防止法が施行後は、ソープランド(特殊浴場)が数多くあったエリアです。そんな場所で営業する公衆浴場「政之湯」(→→→こちら)です。ソープランドで身体についた汚れを落とすのには、丁度いいお風呂屋さんだったんでしょうか。ちなみに、この先に「川崎ロック座」(→→→こちら)というきれいなお姉さんたちがセクシーに踊る劇場があったのですが、開場前でもうすでに沢山のオジサンたちが並んでいたので、ちょっと撮影は諦めました。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その2) 小土呂橋親柱と政之湯
Aug 24, 2023
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久しぶりに「駅間歩き」のスタートです。鉄道沿線沿いに駅から駅の間を歩いて、嫌になったら、駅から列車に乗って家に帰るという気ままな散歩が駅間歩きです。また、多少線路から離れても、面白そうなものがあれば、そちらに立ち寄るという気ままに成り行き任せで歩くのがMoMo太郎的駅間歩きです。今回はJR東海道線川崎駅から始めます。川崎駅の中央改札前の自由通路です。この日は8月11日の「山の日」だったせいか、やっぱり多くの人が行き交っていました。川崎駅からいよいよ出発です。駅前の仲見世通り(→→→こちら)を通りました。戦災復興の促進と合わせて造成される道路に併せてできた商店街で、この通りの先に観行院・大徳寺というお寺があることから、東京浅草にちなんで「仲見世通り」という名前になったのだとか。仲見世通りを歩くとすぐにアーケード街に出ます。このアーケード街は「花とステンドグラスのある街」というキャッチ―フレーズの銀柳街(→→→こちら)です。銀柳街を出ると通りを挟んでチネチッタ通りがつながっています。チネチッタ(CINECITTA')(→→→こちら)とは、映画館、レストラン、ショップなどが集まった施設だそうです。調べてわかりましたが、「チネチッタ」というのは、イタリアの首都・ローマにある同名の映画撮影所から命名だそうで、イタリア語の原義は映画都市だというそうです。そして、この新川通りを第一京浜(国道15号)の方向に向かって歩きます。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その1) 新川通り
Aug 23, 2023
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「JR東日本駅のジューススタンド「ハニーズバー」全店閉店へ」新宿駅や東京駅など、首都圏のJR東日本の駅構内に出店しているジューススタンドチェーン「ハニーズバー」が8月末をもって全店閉店になるというニュースを聞いたので、信濃町駅にあるハニーズバーで初めてジュースを買いました。飲んだのは、このバナナジュースSサイズ(270円税込み)です。今までハニーズバーを利用したことはありませんでしたが、最後となると話のタネに一度は飲んでおこうということです。目の前でミキサーにかけたものを渡してくれるスタイルで、多分砂糖や添加物などを使っていない、果実だけのジュースでした。駅の中で慌ただしく飲むのではなく、ゆっくり味わいたい上質な飲み物でした。MoMo太郎的には、やっぱり、急いでいる通勤途中にグッと飲みたいのは、瓶牛乳、白かな。人気ブログランキング孤独のグルメ HONEY'S BAR 全店閉店だって
Aug 22, 2023
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室内を一通り見学した後、坂野家住宅の庭を散策してみました。主屋(右側)と書院(左側)です。訪れたのは5月末でしたので、ツツジが咲いていました。こちらが書院です。こちらは主屋の入り口になります。裏庭に回ってみると、井戸がありました。こちらは農機具小屋なんでしょう。このような足踏み式水車も置いてありました。用水路から水田に水を汲み上げるために使われていたんでしょうね。住宅の中に結構な稲荷社が祀られてました。この坂野家、映画やドラマのロケ地としてよく登場しているそうです(→→→こちら)。アクセスは自家用車があると便利ですが、公共交通機関を使う場合は、関東鉄道常総線水海道駅(もしくは三妻駅からタクシー利用になりますが、一度、訪れてみてはいかがでしょうか。【了】人気ブログランキング坂野家住宅(その5) 坂野家住宅の庭
Aug 21, 2023
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坂野家住宅の離れとして造られ「月波楼(げっぱろう)の名がある書院に入ってみました。1階、2階ともに座敷が2部屋づつ設けられていました。坂野家は多くの文人や画家との交流があったことから、こちらの書院には、それら文人や画家が訪れ、創作活動の場にもなったと言われています。こちらは、書院1階奥の座敷になります。床の間の掛軸。こちらを揮毫されたのは山岡鉄舟(→→→こちら)。幕末の幕臣、剣術家、であり、明治期の官僚、政治家でもあった方で剣・禅・書の達人だったそうです。床の間の床、きれいに磨かれた板材でできていました。結構お金が掛かっていそうですね。こちらは大正時代のガラス窓、今のガラスと違って、ちょっと分厚い感じです。書院の窓からの眺め、緑が多くていいですね。こちらは二階の座敷に掲げられていた「月波楼」と書かれた書。明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家として活躍された中村不折(→→→こちら)の書だそうです。二階座敷にあった窓の棚。木目が綺麗だったの撮影してしまいました。二階のまどから見た敷地内にあった蔵。深い山のようにも見える庭。二階の窓にあった帆布の日除け。結構モダンな物も取り入れられていますね。これは金庫。やっぱり坂野家ってお金持ちだったんですね。今でも動いているゼンマイ式の柱時計。毎日ゼンマイを巻くのでしょうね。こちらはお客様用の浴室。お湯は土間で沸かしてここまで運んできたそうです。洗面台もありました。ちょっと、こんなところに泊まって、文人気取りで過ごしてみたいですね。【つづく】人気ブログランキング坂野家住宅(その4) 書院「月波楼(げっぱろう)」
Aug 20, 2023
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坂野家住宅の座敷というのは、幕府の役人など武家の要人が逗留するためにしつらえられた部屋になります。写真手前が二の間、奥が一の間になります。こちらが一の間、こちらに宿泊するのは、かなりの上級役人になる最も格式の高い座敷になるそうです。一の間と二の間の間にある欄間です。欄間の彫刻、皇室の菊紋のようですね。こちらは菊紋を隠すようにカバーが付けられているのでしょうか?こちらは菊紋を隠すために付けられたカバー、はずされて展示されています。座敷から見える庭です。こちらは居室部にあたる仏間です。こちらは居室部になる広間です。普通のお客さんはこちらに通されたんでしょうね。隣の板の間は囲炉裏があって、家に住む人たちが通常使っていた茶の間になります。昔の豪農と呼ばれる人たちの暮らしの一端が伺えました。ちなみに、坂野家住宅、今は常総市のものですが、それまではおばあちゃんが一人でここで暮らしていたそうです。こういう豪農の家を守ってきた女主人、一体どんな人だったのか気になります。【つづく】人気ブログランキング坂野家住宅(その3) 座敷について
Aug 19, 2023
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坂野家住宅の土間です。茅葺屋根のため、一日に一度、この土間にあるかまどで火を使っているそうです。茅葺屋根が燻製されて耐久性が増すというのことらしいのと、煙を出すことで、屋根裏にイタチやタヌキが住み着くのを防ぎ、スズメバチが巣をかけることを防ぐことになるのではないでしょうか。風呂場もありました。こちらは馬屋だったそうです。しかし、家の中に馬がいるのもなんか臭いがすごいかも。茅葺屋根しっかりと作られていますね。格子から明かりがとられているのも昔の家屋の作り方なんでしょうね。こういう窓の作りを蔀戸(しとみど)無双窓(むそうまど)というそうです。「蔀」の意味は「ひよけ」、「おおい」で、板を表裏から格子ではさんだものを蔀戸といい、無双窓とは、小幅の縦板(連子)が二重構造になっている建具のことで、連子は左右に可動するので、夏場は採光・通風・眺望に優れた格子戸として、冬場は気密性を高めた板戸としても使用できるそうです。【つづく】人気ブログランキング坂野家住宅(その2) 土間について
Aug 18, 2023
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茨城県常総市にある水海道風土博物館 坂野家住宅(→→→こちら)に行ってきました。国指定の重要文化財だそうです。まず建物の敷地に行くのに、こんな広い林を抜けていかないといけません。この林も坂野家の土地だったそうです。こちらの竹林も坂野家のものでした。さらにこの庭園も。こちらが坂野家住宅の南面にある。武家の格式を持つ薬医門形式の表門。切妻造、茅葺。江戸時代後期のものだそうです。重要文化財というこの坂野家住宅。そもそも、坂野家とはどういう家なのかというと、この地方の惣名主的存在だった豪農だったのです。元武士で約500年前この地に土着したようで、江戸時代中期、この地域で行われた飯沼の新田開発で当主の伊左衛門は幕府から事業の責任者である「頭取」の 一人に任じられ、米の生産拡大に尽力し成功させたそうです。現在に残る屋敷の原型もこの頃造られたと考えられている。 1933(昭和8)年の記録では農業規模は米が小作米を合わせ1300俵、小麦600俵の収量があり7人の使用人を抱える豪農だったと伝わっています。坂野家が拓いたといわれる飯沼の新田です。飯沼と呼ばれように元は沼沢地(しょうたくち)だったものを干拓して水田したのでしょう。ということで、豪農の坂野家住宅の敷地の中には大八車に載せられた米俵なども展示されていました。こちらが、坂野家住宅の主屋です。総茅葺平屋建て、建築面積は395.8平方メートル(約120坪)で、「座敷部」「居室部」「土間部」からなるそうです。こちらが、茅葺屋根、なんか重厚ですね。【つづく】人気ブログランキング坂野家住宅(その1) こんな実家に帰省してみたい
Aug 17, 2023
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若い頃、よく聞いていたチェッカーズのデビュー曲、「ギザギサハートの子守歌」です。こんな尖った歌詞なのに、可愛いビジュアルなバンド。すごい人気でしたね。当時の男の子はみんなフミやみたいな髪型にしていたかも。音楽面では、普通ロックやっているバンドって、ギターソロを聞かせどころにすると思っていたけど、チェッカーズはサックスを上手く使っていたのが、MoMo太郎には新鮮でした。YouTubeを見ていると、デビュー前のアマチュア時代の演奏のビデオがありました。アマチュアの頃から、相当な腕前のバンドですね。チェッカーズ、福岡県久留米市出身のバンドですが、福岡って、チェッカーズに限らず、鮎川誠さんのシーナ&ロケットとか、財津和夫のチューリップとか、レベルの高いアマチュアが多かったんですね。これだけ人気のあったバンドだと、解散してもメンバーの誰かがお金に困っていたりすると、再結成してCDの一枚でも出して、コンサートツアーもしてお金に困っているメンバーを助けたりするものですが、再結成コンサートとかやっていないですね。メンバーの一人がもう亡くなっていることもあるようですが、解散した時にメンバーの仲もすごく悪くなっていたんですかね。再結成がないのは、ちょっと残念な気もしますね。人気ブログランキングチェッカーズの思い出
Aug 16, 2023
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茨城県常総市にやってきました。「弘経寺」(ぐきょうじ)という標識がありました。ここが弘経寺(→→→こちら)立派な寺号碑によると、「大本山増上寺別院寿亀山天樹院弘経寺」とあり、あの東京都芝にある徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の別院というのは、なかなか格式がありそうですね。こちらには弘経寺の歴史が説明されていました。もともとは関東浄土宗の中心寺院として栄えていましたが、戦乱に巻き込まれ、衰退しました。しかし、第十世照誉了学上人の時に徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され特に家康公の孫にあたる千姫は上人に帰依し、弘経寺を菩提所を定め、再建に多大な寄進をしまたそうです。そのため、江戸時代には紫衣壇林(江戸時代の寺格の一つ。住職が永代紫衣を着用することを許可された寺院のこと)として十八壇林の中でも上位に置かれる寺院になりました。そんな格式と歴史のあるお寺なので、お宝も沢山あるようです。徳川家康の孫である「千姫」は、豊臣秀頼との幼くしての結婚、再縁となる本多忠刻との桑名での出会い、姫路城で過ごした幸せな日々など,その半生は非常にドラマチックなものであったそうですが、江戸に戻ってからは、常総市にある弘経寺で弔われるまで徳川家を支えていたそうです。その千姫とゆかりの深い弘経寺にお参りします。こちらは開山堂。最近建て替えられたようですね。この杉の大木は、天然記念物の「来迎杉(らいごうすぎ)」と呼ばれているものです。こちらは薬師堂です。そしてこちらが本堂になります。そして、折角行ったのに千姫の墓所を撮影し忘れるというドジを踏んだMoMo太郎でした。人気ブログランキング茨城県常総市 千姫が眠るお寺
Aug 15, 2023
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総武本線の高架に沿ってJR小岩駅の方へ向かいます。柴又街道と呼ばれる道を渡ります。この道、名前通り、この道を北に向かうと柴又の帝釈天の参道につながっています。そして、ちょっと怪しい雰囲気の漂う通りに入って来ました。小岩地蔵通中央通り会です。この界隈の飲んべえのみなさんにはお馴染みの飲食店街でしょうか。小岩駅南口に向かっていろんな商店街が集まってきています。こちらはサンロード商店街。サン「Sun」というだけあってアーチのてっぺんには太陽をイメージするマークがありました。こちらは昭和通り商店街。やはり昭和の歴史を刻んだ商店街なんでしょうか。出発地点のJR小岩駅南口に戻ってきました。ここから黄色い総武線の電車に乗って帰りました。(ぶらり小岩のコース)【了】人気ブログランキングぶらり小岩(その14) 歓楽街と商店街
Aug 14, 2023
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夏になるとやっぱりかき氷ですね。コメダ珈琲で宇治抹茶にソフト・練乳・小倉あんをトッピングしました。ミニで920円ですが、100円プラスで普通サイズになりますが、まあ、お腹を壊してもいけないので、ミニにしましたが、結構食べ応えありました。また、小倉あんで冷たくなった舌の感覚を取り戻して食べられるのもいいですね。人気ブログランキング孤独のグルメ 夏はかき氷ですね
Aug 13, 2023
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上小岩親水緑道は、京成本線と交差するあたりで終わり、京成本線沿いを形成小岩駅方面に向かっすこし北西の方へ歩きました。京成本線を横切るこの踏切を渡ります。少し古い形の3700形が走ってきました。踏切で漫然と待っている時にやってきたので、うまく撮影できなかったです。京成本線の線路。2010年の成田スカイアクセスの開業まではここを成田空港行きのスカイライナーが走っていたんですね。北小岩の住宅街の中を歩いて行きます。ここで広い道と交差します。この道は御徒町から延びる蔵前橋通りです。蔵前橋通りを超えるとやがて総武本線の高架が見えてきました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その13) 京成本線と蔵前橋通りかな
Aug 12, 2023
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江戸川区内に18路線、17,680メートルにわたって整備されている親水緑道のひとつ上小岩親水緑道を歩いて行きます。この親水緑道は、平成3年(1991)3月に完成した延べ長さ950メートルの親水緑道です。途中にはこのような親水広場も整備されています。残念ながらこの日は右側の池に水は入っていませんでした。四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した緑道。途中にはベンチがあって休むことができます。MoMo太郎が中学生か高校生くらいなら、友達とこのベンチに座って、気になる女子の噂話をしていかも。こちらに変わった石碑がありました。上小岩遺跡についての碑文がありました。上小岩遺跡は、上小岩小学校あたりを中心に、北小岩六・七丁目付近に広がっています。昭和二十七年に、小岩第三中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村進教諭に知らせたことから、その存在が知られるようになりました。その後、多くの人びとにより発掘調査が進められ、古墳時代の前期(今から約1600年前)を中心とする遺跡であることがわかりました。出土品は、弥生中期から古墳時代前期の土器類が主で、東海地方との交流のあったことを示す土器も出土しています。また、漁労に用いた土錘も少なくないことから、半農半漁の生活をしていたこともうかがえます。この地の黎明期の様子を伝える遺跡です。平成三年春 江戸川区古くからこのあたりには大きな集落があった歴史ある住宅街だったんですね。こちらの説明板は、古墳時代にこのあたりに住んでいた人たちの暮らしの様子を説明したものですが、雑草に覆われてどのようなものかわかりませんでした。近所の上岩井小学校の良い子のために何とかしてほしいですね。所々にこのような小さな滝もあって夏は涼しげでいいですね。でも一晩中、水の音がしていると少し気になるかも。夜は止めるのかもね。明治11年に農業用水路として開削された水路の跡地を利用した上小岩緑道。みんなの憩いの散歩道なんでしょうね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その12) 上小岩親水緑道と上小岩遺跡
Aug 11, 2023
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江戸川の堤防をさらに歩いてゆきます。江戸川とつながっている堤防の樋管を発見しました。占用目的が「排水樋管の存置(善兵衛樋管)」と示されていました。堤防を降りてすぐのところに、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっている滝のような仕掛けがありました。これが善兵衛樋を今に伝えるもので、かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11年(1878)に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されたそうです。しかし、都市化された今では用水路の役割はなく排水路として利用されているようで、この滝は親水施設という位置づけだと思われます。この善兵衛樋の近くにあるこの祠は、「慈恩寺道の石造道標」と呼ばれるもので、正徳3年(1713)に建立された地蔵菩薩像の供養塔です。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場十二番の札所です。平安初期、慈覚大師(円仁)の開基と伝えられ、千手観音菩薩を本尊としています。この地蔵菩薩は慈恩寺への道(慈恩寺道)の道標として岩槻街道の辻に建てられというそうですが、ここから岩槻までは遠いですよね。地蔵堂の横に、慈恩寺参道の石像道標と善兵衛樋に関する説明板がありました。次は、こちらの善兵衛樋を復元した上小岩親水緑道に沿って歩いて行きます。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その11) 善兵衛樋と慈恩寺参道の石像道標
Aug 10, 2023
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NHKの朝のドラマ「らんまん」でも7月の終わりごろにやっていましたが、明治23年(1890)、植物学者・牧野富太郎博士によって、日本で初めて小岩菖蒲園付近で「ムジナモ」(→→→こちら)を発見されたことを記念する石碑がありました。ところで、牧野富太郎さん、このムジナモに関する論文で教授の怒りを買って大学への出入り禁止になったのは、本当のことのようですね。この石碑は、ムジナモ発見百周年を記念して平成2年(1990)に建立されたものだとか。石碑建立の趣旨が記載されています。大正10年(1921)に、ムジナモ自生地として国の天然記念物に指定されましたが、ムジナモが絶滅したことから大正15年(1921)に解除されました。国内各地でムジナモは発見されたようですが、、魚やアメリカザリガニなどによる食害、農薬や生活廃水の流入による水質汚染により、各地で絶滅。最後に残った宝蔵寺沼(埼玉県羽生市)も1966年に国の天然記念物に指定されましたが、同年台風による利根川の水害でほとんど流されてしまい、残った個体も流入した農薬の影響を受け、1967年に絶滅しています。しかしながら、栽培に成功していた個体が残っていたため、種としての絶滅は免れており。宝蔵寺沼ではムジナモが放流されて増殖が試みられているところです。また、最近では石川県内でも発見されたようです(→→→こちら)。会場では江戸川区ムジナモ保存会の皆さんが、ムジナモの復活に取り組んでいる活動を紹介していました。今、NHKの朝のドラマで牧野富太郎博士の伝記を放送していますが、このムジナモに関することが放送されたのを機に小岩で復活するといいですね。ムジナモに関する説明板がありました。ムジナモは水草で光合成もしますが、ミジンコなどを栄養にする食虫植物で世界的に見ても例の少ない植物のようです。多年草で根は無く、水に漂っています。花は1日花で、夏の正午頃、たった2~3時間しか開花しないため、滅多に見ることのできない幻の花なんだとか。こちらがムジナモの写真です。保存会の人たちが栽培しているものを撮影させてもらいました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その10) 小岩菖蒲園のムジナモ
Aug 9, 2023
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小岩を訪れたのは6月10日(土)でした。ということて小岩菖蒲園(→→→こちら)では、菖蒲園まつりが開催されていました。,江戸川河川敷に広がる「小岩菖蒲園」は、地元の方から寄贈されたハナショウブをもとに、江戸川区が回遊式の庭園風に歩整備したものです。入園料は無料です。時地面積は19,251平方メートル。栽培されている品種・花の数は100種類、50,000本だそうです。ちなみに、ハナショウブは植物分類学でいう分類とは異なり、利用する側から見た分類が用いられ、これを「園芸的分類」と学問上呼ばれているそうです。牧野富太郎先生のように既知の記載されている種と異なることを論文として発表し、標本を作成します。しかし、栽培植物では、人が育成し選抜した個体には品種名が付けられます。さらに、花き類では、種間雑種や種内交雑によって成立してきた一連の品種群や、特定の共有できる特性を持つ品種群については系統とし、英名ではGroupと表記する決まりになっているそうです。小岩菖蒲園にある系統としては、江戸系、伊勢系、肥後系の三系統が栽培されているようです。紫・白系統の花が多い印象のハナショウブですが。こちらの黄色いハナショウブは、外国の系統なんでしょうか。手入れ方法について説明板がありました。ハナショウブだけでは、見に来る人も飽きるでしょうという配慮でしょうか。スイレンも栽培されていました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その9) 小岩菖蒲園
Aug 8, 2023
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江戸川を渡る総武線の鉄橋です。総武本線江戸川橋梁(→→→こちら)だそうです。下から橋を見てみるのも面白いです。江戸川グランド施設案内図です。たくさんのグランドがありますね。こちらは、国道14号線が江戸川を渡る市川橋(→→→こちら)です。こちらも下から見ると、こんな構造なんですね。こちらは京成電鉄江戸川橋梁です(→→→こちら)。丁度、京成電鉄の車両が橋を渡っています。こちらも下から見てみました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その8) 橋の下
Aug 7, 2023
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善養寺のすぐ横には江戸川が流れています。その江戸川沿いの堤防の道を歩いてゆきます。堤防の道から影向の松が看板見えました。江戸川の向こうは千葉県市川市になります。また河川敷の高水敷にはサイクリングロードになっています。広い河川敷、野球場にも利用されていました。川の上には広い空が広がっています。向こうに見えるのは、総武線の鉄橋です。鉄橋の下をくぐるために河川敷に降りていきます。江戸川の広い河川敷、学校の運動場にも使われているんですね。こちらの広場は、二輪車訓練場に使われているんですね。色々と使われているんですね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その7)江戸川河川敷を歩く
Aug 6, 2023
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善養寺、影向の松だけではなく、その他にも色々見るべきものがありますよ。善養寺は「小岩不動尊」の別名でも知られているそうです。ということで、こちらにあるのが不動堂です。不動明王立像が祀られています。普段は秘仏ですが、正月三が日のみご開帳なんだそうです。こちらが本堂。弘化2年(1845)に再建されたそうです。本尊の延命地蔵菩薩像は、徳川第五代将軍綱吉公の帰依を受けた筑波山知足院の隆光大僧正が請来したものと伝えられます。こちらの額にある「金剛場」の額の揮毫は仁和寺真乗院の源証僧正だそうです。わざわざ京都の高名なお寺のお坊さんに書いてもらったというのが、このお寺の格を示しているのでしょうね。この本堂入り口左側にある「びんずる尊者」像です。びんずる(賓頭盧)というのはお釈迦様のの弟子である十六羅漢の一人だそうで大変神通力が強いそうです。江戸時代から「善養寺のなでぼとけ」とか「おびんずるさま」として親しまれていて、患部を撫でると病気が良くなり、鼻を撫でると美人になる、手を撫でると器用になるというご利益があるそうです。MoMo太郎は、一応、全身を撫でておきました。一通りお参りを終えて、こちらの朱塗りの仁王門から外に出ました。また、こちらにある「星住山」の額は本堂と同じく仁和寺源証大僧正の筆だそうです。山号は「星住山」です。山号の由来となったのは、善養寺九世住職の賢融和尚が「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という修行を何日も続け、ついに終わるというその時、天から星が降ってきて境内のひときわ高い松の上で留まり、辺り一面を照らして輝きました。これが「星住山」の名前の由来だそうです。また、この光景を見た村人たちがその松を「星降りの松」と呼ぶようになったということです。残念ながらこの松は昭和15年の台風によって枯れてしまいましたが、現在は二代目が松が仁王門に向かって右奥に育っているそうです。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その6)善養寺 おびんずるさま
Aug 5, 2023
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小岩を散策した報告の続きです。やがてお寺の門が見えてきました。真言宗豊山派の善養寺(→→→こちら)です。門前には3基の石碑がありました。真ん中の大きな板碑は、「傘の碑」この碑は昭和5年(1930年)に和傘業界の発展に尽力した川野竹松の功績を称えて建立されたものだそうです。下小岩村入谷(現在の東小岩2・4丁目)付近で和傘作りが盛んに行われていたそうです。江戸時代から傘作りが広まり、明治末期から大正末期が最盛期だったようです。ちなみに、小岩駅に銅像のあった横綱栃錦の実家も蛇の目傘を作っていたそうです。こちらの石碑は、「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」天明3年(1783)7月6日から8日にかけて起きた浅間山の大爆発で犠牲になった人馬の遺体がたくさん江戸川を流れ下り漂着してきたので、下小岩村の人びとはこれを手厚く葬ったそうです、寛政7年(1795)の13回忌にこの碑が建立されたそうです。東京都指定有形文化財「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」と国指定天然記念物「善養寺影向のマツ」(→→→こちら)を示す石碑です。こちらの門は不動門と呼ばれる門です。こちらから境内に入りました。境内の中に入ると大きく枝を広げた樹木がありました。この松の木が「影向(ようごう)の松」です。「影向」という言葉は、神仏がこの世に仮の姿をとって現れることを意味で、この松の姿が神仏のように荘厳であることから名づけられたのでしょうか。四方に枝を広げた黒松です。自然の神様が作った盆栽のようですね。樹齢は600年以上、枝は東西28m、南北32mに広がり繁茂面積は日本一といわれているそうです。平成23年(2011)に国の天然記念物の指定を受けたそうです。ちなみに正式指定名称は「善養寺影向のマツ」です。昭和54年頃から昭和55年にかけて起こった「日本一のマツ争い」があったそうです。この「影向のマツ」と香川県大川郡志度町(現在は、さぬき市)の真覚寺境内に生育していた「岡野マツ」は、双方とも「わがマツこそ日本一の名木」と譲らず、1年余りにわたって論争が続いていたそうです。その争いを見かねた大相撲立行司の木村庄之助が仲裁に入り、「どちらも日本一につき、双方引き分け」と裁き、地元小岩の出身で、当時日本相撲協会の理事長を務めていた春日野親方(横綱の栃錦)も「双方を東西の横綱に推挙する」と庄之助の裁きを後押しし、二人の計らいによって「日本一のマツ争い」は無事に引き分けで決着がついたそうです。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その5)善養寺 影向(ようごう)の松
Aug 4, 2023
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最近、近所のパチンコ屋さんで見かけたポスターです。このモデルの女性、昭和世代のおじさん達ならすぐわかる。アグネス・ラム(→→→こちら)さん。可愛い顔に不釣り合いな大きい胸をしたハワイ出身のモデルさんでした。このCM、今から47年前の1976年に放映されていたものですが、未だにパチンコのキャラクターに使われているアグネス・ラムさん、まさに永遠のアイドルといってもいいですね。人気ブログランキングアグネス・ラム
Aug 3, 2023
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MoMo太郎のイメージにある小岩の街って、「スナックや風俗店が多そうな街で。なんとなく治安が悪そう……」という感じでしたが、商店街もあり親水緑道もあり、住んでみると、港区や渋谷区とは違って、なんか庶民的で親しみやすいいい街みたいな感じがしました。昭和通り商店街というネーミングからして、人が住んでいる匂いがする堅実な街なのかも。こちらはスイミングスクール。子供たちを育てるには必要な施設ですね。人が大勢、歩いていますが、これはMoMo太郎と同じ「駅からハイキング」のイベントに参加している中高年の皆さんです。閑静とは言わないですが、気取らないで歩ける住宅街。東京駅に近いというのもベッドタウンとしては魅力かも。東京郊外のベッドタウンだけに貸しふとん店がありました。まあ、商売としては、福祉施設や企業の研修施設向けに寝具を貸し出しているんでしょうね。保育園なんかの園児のお昼寝用の布団なんかも扱っているのかも。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その4) 小岩はベットタウンです
Aug 2, 2023
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次はこの下小岩親水緑道を歩きます。訪れたのは6月10日でしたので、アジサイの花も沢山咲いていました。緑道の中には公園も整備されていて、子供たちが遊んだりできて、生活するにも潤いがあっていい街ですね。下小岩親水緑道という石碑もありました。こちらは、石の彫刻もあって、ちょっと歩いていても楽しいかも。江戸川区にはこのような5つの親水公園と18の親水緑道があり、水と気軽に触れ合えるスポットがあちこちにあるため、買い物へ行くついでに水遊びをしたり、涼を感じたり、日常生活の中で水を間近に感じることができます。ちなみに下小岩親水緑道は区内最初の親水緑道です。江戸川区は江戸川と荒川に挟まれ、中央を新中川が流れる、水とは切っても切り離せないエリアということてせすね。このあたりは明治の初めごろまで下小岩村と呼ばれて、農業が盛んに行われ、小川には魚が泳ぎ、鳥の遊ぶのどかな田園風景が広がっていたそうです。やがて、村は町になり、都市化が進み、かつての用水路は地域の排水路として利用されてきていたそうです。その後、下水道の整備によって、不要となった水路跡地を利用して、水とのふれあいを大切にする願いをこめて、緑とせせらぎの小径を再現しているのだとか。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その3) 下小岩親水緑道
Aug 1, 2023
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