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毎日ほんとに暑い。季節の中で、僕は、夏が一番好きである。色々な思い出が一番起こる季節、そして色々なことを感じ、成長してきた季節だからだろう。岩田屋のコミュニティカレッジの「声のレッスン」で、スピーチの組み立てについて、お話することがある。「事実の描写」と「気持ちの説明」を組み合わせて話すと、どんなことでも組み立てられる。”今日朝からこの時間までに自分に起こった事実を思い出してください。その中で、一番印象の残っている事実は何ですか?それを、一つ、選択してください。「今日、○○がありました。」、ですね。そして、その○○に、自分が「どうしたのか?」、あるいは「どう思ったのか?」、さらに「どうこれからするのか?」などということを付け加えれば例え15秒で立派なミニスピーチができるはずなのです。テレビのコマーシャルも15秒。人は15秒あれば、言いたいことを、伝えることができるのです”と申し上げる。さて、「夏」というテーマで僕も「キーワード」を書き出してみた。昆虫採集、種子島、初めてあった従兄弟や親戚、家族旅行、白熊、軽井沢、中学生、作曲、林間学校、大人扱い、母校、同窓会活動、出会い、沖縄、ハワイ、長いことしていない家族旅行、そろそろ最後の家族旅行の機会か、初めての海、伊豆の伊東、小学1年生の夏、母親の水着姿、写真アルバム、ミンミンゼミとクマゼミ、一人で栃木の知り合いへお泊り、カブトムシ取り、葡萄の房でハチに刺された、夏の思い出つくりは親の配慮だったのかも、新潟へも行った、親元を離れる機会だった、主体性、一人旅、大学卒業して就職決定後の九州旅行、親戚に対し家を代表している意識、高校の修学旅行は北海道の8泊9日だったなあ、アイヌコタンの店の少女の青い瞳、摩周湖の青空と白い雲、バスガイドさん、オホーツクの海の色、就職試験の北海道、飛行機登場初体験の北海道行き、札幌グランドホテルのウエートレス、レストランのライラック、…いやー、止め処も無く、いくらでも、思い出のキーワードが、糸引くように湧きでてくる。さて、これを、どれを選んで、紡ごうかがつぎのステップになる。「19歳、ぼくが大学1年の夏のことだ。軽井沢にある学校の山荘で母校の中学の林間学校がおこなわれた。付き添いを頼まれ参加した。その年の中学2年生が、かわるがわるやってきて滞在し、都会の喧騒や暑さから逃れ一瞬の集団生活を味わう企画だった。その中の一人に、とてつもない美少女がいたのだ。さて、で、そのときの思い出は…共に参加した友人が作詩し、それに僕が曲をつけて「君の姿、ぼくの姿」という一つの曲となって今も僕の宝物になっている。……」15秒には収まらなかった!あなたの、「夏のキーワード」は何ですか?
2008.07.29
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暑中お見舞い申し上げます。日本は、熱帯になったかのような毎日、何とか生き延びています。東京の母が、6月20日にリビングで転んで、大腿骨骨折東京世田谷の大学病院に入院し手術いまリハビリ入院中である。81歳に5月になった母だが、我が家の世の老齢社会の問題が現実のものとして弟、妹の3人のわが兄弟にも迫ってきている。母の骨折当日の騒動対応などとその後のことは、私と17歳はなれて生まれた妹が、6歳と、8歳の子供たちの世話をこなしつつほぼ毎日顔を出して、看護に精を出してあたってくれている。また埼玉にすむ弟一家も、毎週のように顔をだしてくれているとのこと。弟の息子の今高校生の甥っ子兄弟もサポートでよくフォローして、かいがいしく面倒をみてくれている。長男の自分ばかりが福岡にこのままいていいのか忸怩たる思いもあり…上京機会をみて6月下旬と7月18から、それぞれ4日間ほど上京して、母を見舞ってきた。本人に色々聞くと骨折部位の痛いことはまったくないと言う。むしろ、骨折していることもあまり明確に自覚していない様子。手術したこと自体も、はっきり分かっていない。この2年ほど、物忘れが始まっておりボケがまだらである。転んだときのことも忘れて、どうして今、自分が入院しているのかどのくらい入院しているのかも分からない。その分、むしろ、いろいろなつらさが軽減されてもいて天の配慮なのかとも感じる。もし、外出先でとか別な状態でころんで頭をうったり火を使っている時だったりしたらもっと大変な事態もあった可能性もあるとおもうとむしろラッキーなことともいえるだろうか。骨折したときの状況は、本人の話ではどうもおぼつかなくて部屋の中でか、庭でなのかはっきりせず、たまたま、うずくまって耐えているところ30分ほど後に、いつも顔を出してくれる、世田谷の婦人大学仲間の知人が訪れ大事に至らなかった様子。この方も、80歳でお訪ねしても状況はやや不明で、つかめていない。上京し、病院へ母をたずねるとどうして自分はここにいるんだろうか?何もできなくてごめんなさいね。と言う。話をしても、ほとんど正確ではないこともあり昔の話に題材をさがそうかなとする。いくつかははっきり覚えていることもあって昔の思い出話をきりだしながら、そばにいるようにした。それでも、中々話は長くは弾まない。同じことを繰り返し口にする。母にとっては、それは印象の深いことだったのかななどと。母は、18で、結婚し、翌年私を19歳で産んでいる。幼稚園では、母は最年少の母親だったという。その母が、幼稚園の母の会で、委員長をすることになりお仲間の母親たちがずいぶん心配したが、園長先生は若いけどしっかりしていてあの人は頭が良いから大丈夫と周囲の方に言ってくれていたというと話す。母にとっては、園長先生にそういっていただけたことが当時の母には大きな承認と自信とつけてくれたエピソードだったのだろう。兄弟が集まる。今後のことを正面から話しあうべきだができることをみなが、思い思いにまずは準備しだしているという感じでもある。世田谷の家に、今後、母一人ではもう住めないとの判断もあり弟の一家が移り住む準備をスタートする。何しろ、大正8年に、世田谷で初めてのコンクリートの一般住居建築で、80年たっている。改装にせよ、改築にせよまず、積み重なっている大荷物の片付けからしなくてはならず次回上京は見舞いだけでなく部屋のガラクタ処理からになりそうである。久しぶりの日記が母の骨折入院顛末になってしまったがまた、日々を書いていきたいと思っている。
2008.07.28
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