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2024.10.29
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カテゴリ: 光る君へ
【光る君へ】「何をやっているのですか!」“破天荒キャラ”演じる俳優のSNSに「平安ギャル代表」「肉食系女子」と視聴者沸く
(手前)藤原妍子(倉沢杏菜)、敦明親王(阿佐辰美)、(奥中央)藤原娍子(朝倉あき)(C)NHK
大河ドラマ「光る君へ」第41回ありがとうございました🙇‍♀️✨妍子の「ス・キ・♡」何をやっているのですか!と声を大にして言いたくなります😂破天荒具合も楽しんでいただけていれば幸いです!笑

妍子(きよ子)は、道長と嫡妻・倫子の次女で、キラキラした贅沢な衣装や道具が大好き。
東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の妃となりますが、東宮がはるかに年長であることに不満を抱く。

「父上の御ために我慢して年寄りの后になったのです。
これ以上、我慢はできませぬ。あ~あ…どうせなら(皇子の)敦明様がようごいました」

御簾(みす)越しに敦明と「ウサギ狩り」について会話をしていた妍子が、話に夢中になっている敦明の背後に御簾を抜け出し、どストレートに「好き」とアプローチを仕掛ける。

敦明「おやめください」
妍子「だって敦明様も、(妃の)延子様より私の方がお好きだもの」

敦明の母で帝の1人目の女御・藤原娍子
「そこまで」



あくまでも息子敦明の失態という形で事態で事を納めようと
「ご内聞に!」と妍子に釘をさす。

『光る君へ』妍子役・倉沢杏菜、三条天皇への思いを語る【君かたり】
――藤原妍子について
一見すごく派手好きで浪費に走ったりとか、火遊びをしたりとか。すごく華やかなように楽しく人生を生きていそうに見えるんですけど、本人も すごく実は寂しさだったり孤独感だったり、誰かに気づいてほしいっていうすごく人間らしい感情を抱えながら、もがいて生きている人物だなというふうに思っています。 それこそお父さんと三条天皇の関係を知ったうえで 三条天皇が振り向いてくれない っていう。 一番振り向いて欲しい人に振り向いてもらえない、それこそ満たされないっていう。他の人からしてみたら「そんなことか」って思うようなことが一個ずつ積み重なって、こういうふうに成長していったんじゃないかなと思っています

――敦明親王について
年が近いこともあるので自分のことを理解してくれるかもしれないとか、この環境から救い出してくれるかもしれないっていうような期待も込めつつ、でもちょっかいをかけることで「かわいいな」じゃないけど、振り向いてくれている存在なので、すごくおもしろい関係性だなと思っています。



*藤原妍子
藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、994年4月- 1027年10月16日)は、日本の第67代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。別名枇杷殿皇太后。


同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子がある。子は禎子内親王。

和歌に優れ、『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集した。
文学サロンを形成し、部下に宣旨で勅撰歌人の大和宣旨がいる。

寛弘元年(1004年)11月正四位下、尚侍に任官。同年12月従三位。同7年(1010年)1月従二位、2月皇太子居貞親王(のちの三条天皇)に入内。同8年(1011年)三条天皇が即位し、女御宣下を受ける。同9年(1012年)、中宮に冊立。長和5年(1016年)三条天皇譲位、寛仁元年(1017年)三条天皇崩御。同2年(1018年)、皇太后。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家、同日崩御。享年34。

居貞親王(のちの三条天皇)より18才も年下で親子ほども年が離れていた。

妍子は東宮妃として入内した時、姉の一条天皇中宮・彰子には、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)が生まれており、順調にいけば道長がいずれ天皇の外祖父・摂政となる可能性が濃厚であった。
しかし、その前にこれまで結びつきの弱かった東宮・居貞親王に、道長は第二の布石として妍子を入内させた。
翌年一条天皇の崩御により三条天皇が即位すると、その翌年2月妍子は中宮に冊立され、4月娍子は皇后に冊立された。
長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。
妍子に皇子が誕生することで、道長と三条天皇の間の関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという。
結局その後も皇子は生まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られ譲位、ほどなく崩御した。
妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また皇后娍子所生の敦明親王が三条天皇の没後皇太子を辞退してしまったこともあって、冷泉天皇系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった(ただし女系は禎子内親王を経て後三条天皇へと受け継がれた)。

妍子は道長の娘達の中でも特に美しく、また妍子に仕える女房達の衣装が贅沢すぎることで兄頼通が叱責したとの逸話もあり、やや派手好きな性格であったらしい。
しかし皇太后とはいえ、皇子の出産なく終わった彼女は、もはや表舞台に立つ存在ではなくなっていた。その後妍子は一人娘禎子内親王と共に三条天皇から伝領した枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)3月に禎子内親王が東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内するのを見届けて、その半年後に病で崩じた。
華美を好むあまりに身内の眉をひそめさせることもあった妍子だが、亡くなる間際に身を清め、正式な受戒を済ませての潔い臨終であり、道長は末娘嬉子に続く次女の死に「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられる。





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最終更新日  2024.10.29 02:26:26


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