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2024.11.29
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カテゴリ: 報徳記を読む
「安居院庄七 50歳からの大冒険」クラウドファンディング中

1人、地図、テキストの画像のようです

「二宮翁夜話」巻の1
【8】尊徳先生はおっしゃった。
世の中に誠の大道はただ一筋だ。
神といい、儒といい、仏という。皆同じく大道に入るべき入口の名だ。
あるいは天台といい、真言といい、法華といい、禅というのも、同じく入口の小道の名だ。
何の教え、何の宗旨といようなものは、たとえばここに清水(せいすい)があり、この水で藍をといて染めるのを、紺屋といい、この水で紫をといて染めるのを、 紫屋というようなものだ。
その元は一つの清水だ。
紫屋で私の紫の妙なる事は、天下の反物を染めるもので、紫ほど尊いものはないとほこり、紺屋ではわが藍の徳たる、広大無辺である、だから一度この瓶に入れば、物として紺でないものはないというようなものだ。

これは皆いわゆる三界城内を、躊躇して出る事ができない者だ。
紫も藍も、大地に打ちこぼす時は、また元のように紫も藍もみな脱して、本然の清水に帰る。
そのように神儒仏を初め、心学・性学など枚挙にいとまがないが、みな大道の入口の名だ。
この入口がいくつあっても至るところは、必ず一の誠の道だ。
これを別々に道があると思うのは迷いだ。
別々であると教えるは邪説だ。
たとえば富士山に登るようなものだ。
先達によって吉田口から登るものがあり、須走口より登るものがあり、須山口より登るものがあるとっても、その登るところの絶頂に至れば一つである、このようでなければ真の大道とはいえない。しかし誠の道に導くといって、誠の道に至らないで、無益の枝道に引き入れる、これ邪教という。
誠の道に入ろうとして、邪説にだまされて枝道に入って、また自ら迷って邪路に陥いるもの世の中に少くない。
慎まなければならない。





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最終更新日  2024.11.29 07:00:12


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