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「鈴木藤三郎伝」189~196ページ
話し終わって井上は席に帰った。一同は、熱狂的な拍手で、これに答えた。
近くロシアとの開戦を覚悟していた井上は、大蔵大臣としての最近の体験からも、当時、わが国の輸入超過の激増によって正貨が海外に流出して、万一に備える資力が薄弱になることを心の底から憂えていた。その唯一の救済策として、わが国の産業の発達に、彼の全精力を集中していた。その中でも新領土の新興事業としての台湾製糖会社に、彼が、どんな大きな期待をかけていたか、この演説でも十分に知ることができる。
この台湾製糖会社の株主は、僅かに95名であったけれども、国策会社としての性質をもっていたので、皇室をはじめあまねく財界の一流の人々が集まっていた。それだから、この大株主会には一流中の一流人が出席していたのであるが、それに向かっての井上の説話が噛んで含めるように、まるで子どもにでも訓すように懇切丁寧をきわめているということは、一面、彼の世話好きな性格をよく示しているものであるが、他面には、当時の財界人の知識が、どんなに幼稚であったかを証するものである。また、これは、明治時代のわが国の産業の発達が、全く政府の指導と援助に依存していたという事実を端的に示すものとしても、興味深いものがある。
しかし、最近まで大蔵大臣であって、現に財界の最高指導者である井上から、これほどの期待と庇護をかけられては、藤三郎をはじめ台湾製糖の関係者達が、身を粉にしても、この待望にそおうと奮起したことは、想像にかたくない。
心のうちの感激で、血色のいい顔をいっそう輝かしながら、藤三郎が立って、
「ただ今は、井上伯閣下からありがたいお話を承りまして、感激に堪えません。粉骨、必ずこの御期待にそう覚悟でございますことを、固くお誓い申し上げます。
次には後藤民政長官閣下のお話を承りたいと存じます。」
こういって、藤三郎は、井上の隣に掛けている後藤に向かって。
「どうぞ・・・・・。」
と、頭を下げた。
短い顎鬚を奇麗に刈りこんだ赤ら顔に、当時としては珍しい鼻眼鏡をかけた後藤新平は、サッソウと立ち上がって演壇に進むと、活達な調子で話しはじめた。
「私は製糖業については、まことに無経験でありますけれども、台湾での砂糖製造業は、実に有利なものと確信している者であります。それに児玉総督閣下からも、この事業についてはできるだけの保護と便宜を与えよという御命令もありましたから、私は、この糖業の発達には、十分に尽力をする覚悟でおります。
従来、台湾においての事業としては、金山とか樟脳、製塩事業など、いろいろと着手した者もありましたが、これらの多くは失敗してしまって、ほとんど台湾の事業というものは、すべて望みないかのように内地人から見捨てられ、せっかく、小資本でも台湾に向かって投資して、何か事業を起こそうと思っている者も、みな手を引いてしまうという有様でありました。
この時に当りまして、私は現職に就任いたしまして、それらの事柄を調査して見ましたところ、全くこれとは反対で、決して望みがないどころではありません。砂糖、鉱山、製塩、樟脳など、みな有利の事業であります。それでは、なぜに、こんな有利な事業が沢山ありながら、このように失敗するかと申しますと、今まで台湾で事業を計画した者はすこぶる多かったのですが、その企画が当を得ていなかったり、あるいは、当局者に適当の人物がなかったからで、目下成功しているのは、ただわずかに藤田、田中両氏の鉱山事業があるだけであります。
それであるから、台湾の事情に通じない人々は、台湾という所が、事業に適しない土地かのような感を抱いておる者があります。これは台湾が、濡れ衣を着せられている訳であって、前に申したような失敗事業家のために、汚名をこうむっているのであります。実に残念至極のことであるばかりでなく、今まで台湾へは、確実な事業家の来たことはないので、したがって本島人の信用を害したことも非常なものでありました。
そうしたところへ、今回、有力な株主を持ち、老練な当局者をいただいている当社のような会社が、台湾の諸事業中でも、もっとも有望な製糖業を企画せられたということは、私のまことに喜びに堪えないことであります。この事業が、非常な勢いで発達するであろうことは、もちろんでありますが、なおこの発達の成功によって、従来こうむっておりました汚名を、必ずそそぐことができると信じまして、諸君に感謝すると同時に、今後、ますます御奮発して事業にお当たり下さるように希望して、この事業の着手されたことを心から歓迎するものであります」
新領土の開発に40歳半ばの情熱を打ち込んでいる後藤は、豪放なうちにも、元は医者だけに人の気をそらさない如才ない口調でこういってから、いよいよ本題に入った。
「土地の買収は、決して困難なことではありません。穏当な方法で簡単に授受させることは、容易なことであります。これは、台湾第一の生産事業の発達に関することでありますから、若し万一にも困難な場合があったとしても、十分尽力致す覚悟であります。今までに台湾で、砂糖の生産を文明的の方法でするのは、当社が最初でありまして、私どものもっとも熱望していたことが実現するのでありますから、これは当然であります。
鈴木氏の調査されたところによりますと、総督府で調査したものよりも、よほど多くの採取を得られる見込みのようであって、将来、台湾でもっとも大きな事業となるものは砂糖業ですから、総督府でも、十分この事業のためには尽力するつもりでおります。
また、建築材料その他の必要のために、山林払下げの件については、総督も十分承知されておられるようであります。これについても、できるだけ便宜を与えて、成功してもらいたいと思っておられるようであります。これについても、できる限りの便宜を与えて、成功してもらいたいと思っております。
前に申したように、従来事業を起こした者は、多く俗に壮士と呼ばれるような虚業家ばかりであって、台湾で営利事業はとうてい成功しないとか、官省が不親切であるとか、徒らに不平を鳴らして、台湾の生産事業をそしっておりますが、ただ一笑に付しているのであります。彼らの失敗は、理の当然でありますが、諸君は、これと違うばかりではなく、母国者としての義務を持たれ、かつ永遠の営利的事業の先導者であるからから、官においてもできる限りの尽力をして、保護と便宜を与えようと存じております」(台湾製糖株式会社・特別株主協議会議事録)
後藤は、こう力強い口調で、話を終った。
一同はまた熱狂的な拍手を送った。財界最高の指導者である井上と、事業地で最大の実権を握っている民政長官の後藤とから、これだけの支持と援護を保証されたのだから、この事業の前途には、まばゆいほどの希望の光をみとめないわけにはいかない。しかも、それが単に個人の利益ばかりでなく、国家にも大きな貢献をすることになるのだと聞かされては、そうした事業の大株主となっている光栄に、この日清戦後の産業革命期の新興資本家達は、歓喜し興奮せずにはいられなかった。
それにつけても、この後藤の話でも、わが国に領有されたばかりの台湾が、どんなに、ひと旗組の虚業家に悩まされていたかが推察される。これは、その後の朝鮮、満州、中国でも、同じようなことが繰り返して行われたことを思い合わせると、わが国民性というものについて、深く考えずにはいられないことである。
後藤民政長官の演説に次いで、益田孝が、台湾に耕地としての土地買入れの提案をした。もちろん一同は異議なく、これを承認した。すると、次には大蔵や内務や各省大臣を、たびたび勤めるようになった山本達雄が立って、勢いよく増資希望の演説をした。
機を見るに便な益田は、すぐこれを受けて、次のように述べた。
「ここに、諸君にお断りしておかなければならないことがあります。それは、当社は最初50万円の払込みで第一期の事業をいたす計画でありましたが、ただ今、山本氏の御発議もありました通り、今後は、それを百万円として事業を拡張する計画に改めなければなりません。なお、土地も、先には一千町歩を買入れる計画でありましたが、さらに三千町歩位は買入れておきたいという希望であります。工場ができて、開業の後に好結果を得ましたならば、またまた百万円の資本金を二百万円として、第二工場を起こしても宜しかろうと思います。」
会社が創立されて、まだ1か月にもならないうちに、第2次、第3次までの増資を提案したことは、随分突飛なようであったが、時の勢いというものは偉いもので、満場一致で、これを承認した。
これで、大株主会協議会は午後4時30分に散会した。
当日の出席者は、
井上馨 民政長官後藤新平の2来賓のほかに、陳中和(代)周端立、原六郎、武智直道、長尾三十郎、益田孝、アルウィン、熊谷良三、今村清之助、吉川長三郎、相馬順胤(代)大浦倫清、鍋島喜八郎、山本達雄、小栗富次郎(代)原田勘七郎、安部幸兵衛、志賀直温、田中銀之助、増田増蔵、磯村音介、岡本貞烋、岡村竹四郎、根津嘉一郎、三島通良と藤三郎の25名であった。
この大株主協議会の様子を見ても、井上が、この会社のために、いかに尽力したかということが分る。彼のこの懇切な指導と後援は、生涯変らなかった。しかし、これは、わが国の産業発達のため、ことに輸入超過を防ぐためという、国家経済上の見地からなされたものであって、決して一片の私情からではなかった。井上の持論としては、株式会社は社会的意義の上からいって、株主にばかり多額の配当をしたらいいというものではない。当時の金融状態から考えて、内地ならば1割、植民地ならば1割2分位を穏当とする。そして、それ以上の利益は、積立や償却に当て、会社の内容を堅実にし、社員や工員を優遇しなければいけないという意見であった。
台湾製糖会社も、創立2年目から5分、6分、8分と年々配当を増していって、5年目からは1割の配当を続けていたが、その後、利益も大いに増したので、9年目についに1割4分に増した。すると、たちまち井上から非常な御小言が出て、将来、増配はまかりならぬとの申渡しがあった。これには、重役一同も恐縮した。それで、次期には、前年よりはるかに利益が上がっていたのに、配当は1割2分に引き下げることになって、会社は一般株主に、この減配の理由を説明するのに、大いに閉口をしたと伝えられている。しかし、このおかげで、利益をドシドシ償却や積立てに当てたので、会社の内容はすこぶる堅実なものになった。
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