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2026.01.31
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カテゴリ: 坐禅
永平初祖学道用心集 5-9

道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)


「皆是れ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ず」師匠が責任をもって弟子を養育せんととんでもない間違いが起こる。人生を誤らしてしまう。

  生きながら死人となりてなり果てて心のままになすわざぞよき
 というのがある。自分で考えれば間違えることはきまっておる。仏さまの教えのまま、正師の教えそのままー。むかしはそうじゃないけれども、いまどきの世の中は・・・・・とよくいうが、むかしでも外道は外道、邪見は邪見、そんなに違いはしない。だから「本を捨てて末を逐わしむるの然らしむるなり」と。
 「自解(じげ)未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専にして、濫りに他人をして邪境に堕つることを招かしむ。哀むべし、師たる者、未だ是の邪惑を知らず、弟子何為(なんすれ)ぞ是非を覚了せんや」この本というのは一体何だといえば、『法華経』の信解品に長者窮子(きうじ)の喩ということがある。孤児のルンペン、これを一切衆生に喩え、長者というのは仏さまに喩えてある。仏さまが一切衆生を追っかけ、探し歩かれる。ところが窮子は逃げ歩く。そうしてお前はおれの子じゃというても、そんなことをいうて、おれを殺して生肝をとるんじゃないかとひがむ。それを方便でだまし、汚い着物を着せて裏門から入れ、掃除夫に雇って、ぽつぽつ仕込んだ。とうとう番頭にまで仕上げた。番頭というのは仏教では菩薩修行である。そうして総支配人というところまできても、窮子にはまだ雇われ根性があった。しかし、もうよかろうというのでお客を呼び、「皆さまよ、わたしに一人の子どもがある。実はわたしの子であるということを忘れてルンペンで逃げ歩いていたのを、ようよう見つけたところが、ひがんでしようがない。だましてここへ連れてきて、掃除夫にし、番頭にまでなりました。これがわたしの子でございますから、どうぞ私同様にお願い申します」といった。それであっと驚いた。これは何も窮子が努力して長者になったのではない。ルンペンでひがんでおる者をひっ捕まえて、だましてとうとう跡継ぎにした。これが正法である。だからわれわれは何も自分で努力するんじゃない。仏の教えに疑いの晴れたのが悟りである。
 『法華経』の譬喩品でもそうである。化物屋敷の三方から火がついた。子供が中でたわむれておるので、早く出ろというけれども、こんなおもしろいのに出られるかといって出ない。そこでそれよりおもしろいものを作らんならん。羊の車、鹿の車、牛の車、その飾りから何から立派なものを作って、好きなものに乗せてやるから出ろというと、それはおもしろそうだと思って出てきた。出てきてみたら、声聞もなく縁覚もなく菩薩もなく、唯有一仏乗で、一乗よりなかった。だまして一切衆生を引っ張り出して仏にするのが仏法である。だから仏法では仏になる道よりない。発心して仏の教えに従ったら成仏する。しかるに「自解(じげ)未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専にして、濫りに他人をして邪境に堕つることを招かしむ」これだけ覚えればいいとか、坐禅をこれだけするといいとか、・・・・そんなことは何もいらん。仏の教えに疑いが晴れたときが成仏である。だから、「哀むべし、師たる者、未だ是の邪惑を知らず、弟子何為(なんすれ)ぞ是非を覚了せんや」
(「沢木興道全集」第2巻p.117-120)





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最終更新日  2026.01.31 02:00:06


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