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2026.02.27
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カテゴリ: 坐禅
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)

煩悩のまま その3

「仏心の生活」

p.110-114

 南岳が、六祖のところへ参禅に行ったらば、六祖は、
「おまえは、どこから来たか」
 という。
「はい、衡岳(こうがく)からまいりました」
 と南岳が答えると、六祖は、重ねて問われた。
「そこへ、そうやって来たものは、いったい何か」
 さあ、わからない。言いかければ、おまえ自身はどういうものか、という問いなのだが、その問いの意味さえわからない。したがって、答えの出しようがない。禅というものは、これなんだなあ。衡岳というところから、はるばる杖をついてきた自分ではない。いま現に、だ。いま現に六祖と対面しているおまえー南岳とはなにか、というのだ。
 禅は、いつもそうなのだ。いまわしがこうして君と話をしている。きみは、話を聞いている。わしがこうやって、とん、と机を叩く。いま、この部屋にはきみだけだが、たとえほかに何人居ようが、何十人いようが、「とん」と机を叩けば「とん」と聞いている。わしがこうやって、とん、と机を叩く。いま、この部屋にはきみだけだが、たとえほかに何人いようが、「とん」と机を叩けば「とん」と聞いている。おもしろいじゃないか。何人、何十人となれば、男もいるだろう。女もいるはずだ。学問的にすぐれた人もいるだろうし、それほどでもないものもいる。人さまざまなんだな。ところが、その誰もが「とん」と叩けば「とん」と聞いている。
 この「とん」と聞いているものがわかればしめたものなのだが、そこがそれ「煩悩障眼」なのだ。南岳についていえば、衡岳からやっとの思いでやってきた自分というものにこだわっているから、わからない。結局、わかるまでに8年間かかったという。8年間も、この問題と取り組んで、苦しまれたのだ。
 だから、わかったときは嬉しかっただろうな。早速、師の六祖のもとにとんでいって、
「説いて一物に似たれば即ちあたらず」
 と答えた。ああとか、こうとか、ひとくちでも説いたら、もう真実とは違っている、という意味だな。すると師の六祖がただちにいった。
「かえって修証をかるやいなや」
 その素晴らしい境地は、修行し、苦しみ、その結果、悟りを得てそうなったのか、と斬り込んだのだ。
 南岳はいった。
「修証は無きにあらず、染汚(ぜんま)することを得ず」
 と。修行して得た境地には違いないが、「仏心」そのものは、もともと絶対なもの、超絶的なものだから、修行したからきれいになったとか、修行しないからよごれたということはあり得ない、とこうだ。これはまさに「大悲無倦」といった親鸞さんの心境と同じなのだなあ。南岳はその答えによって、六祖から印可を得、六祖の法脈を継ぐことになった。達磨さん以来の、禅の正統をあずかることになった。あくまでも、自分の修行にかかわってはいけないのだなあ。
 それほどのやりとりの指すものは何か。
自分が悟ろうが悟らまいがわれわれはお釈迦さまがお悟りになったとまったく同じ「仏心」はいつも清らかであり、いつも安らかであり、いつも静かなのだ。この「仏心」は時間的には生きどおしであり、空間的には宇宙いっぱいだ。すべての人は、この尊い「仏心」の中に生まれ、「仏心」の中に住み、「仏心」の中に生き、「仏心」の中で息をひきとる。生まれる前も「仏心」、生きている間も「仏心」、死んでからも「仏心」、仏心とは一秒時も離れてはいない。これがわれわれの心のおおもとなのだ。
 白隠禅師が『坐禅和讃』の冒頭に、
「衆生本来仏なり」
 と高らかにうたわれたのも、ここのことなのだ。





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最終更新日  2026.02.27 07:00:08


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