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2026.03.26
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カテゴリ: 坐禅
「永平家訓抄話」澤木興道 1-6

「闇を息(や)めて明に帰す」暗がプロなら明はブルである。まるで羊羹でも切るように、世の中のつくり替えができるように思っておる。自分だけやっておけばいい。嘘をつかんように、怠けずに、皆が当り前にやったら世の中は住みよいものになる。汽車に乗って見てもわかるじゃないか。四人が四分の一だけで行儀よくしておったら汽車は結構なものじゃけれども、一人で三人前くらい占領している者がある。この間も汽車へ乗ったら片方の足を窓へやって、片方の足を前の席へやって三人前占領して寝ころんでいるのじゃからたまらん。汽車に乗っても社会問題はよくわかる。無理をしようと思うから、世の中が面倒になる。「闇を息(や)めて明に帰す」そうしたらどこからどこまでが苦悩で、どこからどこまでで安楽なのか。『信心銘』に「二は一に由って在り、一も亦守ること莫れ」とある。二というのが明なら暗というのが一。そこに一と二とが躍動しておる。二ぎりの二もないし、一ぎりの一もない。

 「因果歴然」といえば、常見の外道になるわけだし、「刹那生滅」といえば断見の外道になるわけである。おめでたい顔をして「因果歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る」と、見て来たように、ただ憶えたまま『因果経』を丸呑みにしておるなら常見の外道である。「刹那生滅して諸行無常」と涙を流して無常をいうておるなら、それは断見の外道になるわけである。だから同じ因果というても、同じ無常というても、仏法を呑み込んで、これをよく睨みつけて見んと、とんでもない間違いになる。
 だから「是の如く道(い)わば」以上の善悪一心明闇一相、「皆是れ外道の見なり」外道というのは、仏教以外の教えである。ところが仏教者の中に、仏教でない説教をしておるのが多いのじゃからあきれる。それぐらいならいいけれども、このごろは新興宗教よりももっと念の入ったやつも仏教の中にはあるから困ったものだ。
「若し外道の見を認めて仏祖の道と為れば、石を握って玉とする者よりも愚かなり」道化者で山師でやっておるような者は外道までも行かぬ。これは山師だけれども、本当にまじめで涙を流して念仏を申したり歯ぎしり噛んで坐禅したり、氷の中で南無妙法蓮華経というて外道になったり、「オンアボキャーベイロシャノー」といっても外道になったりしている。この外道をまじめでやっておる者があるから、用心しなければならんわけである。そういうことを『宝鏡三昧』には「銀盌(ぎんわん)に雪を盛り、明月に鷺(さき)を蔵(かく)す」と、白いものと白いもの。白いと白い。白う見えるけれども同じことじゃない。
「類して斉(ひと)しからず、混ずれども則ち処を知る」銀の盌は雪でないし、明月は鷺でないし、類して斉しからず。いくらごっちゃにしても間違わない。差別は差別、平等は平等。あるだけある、ないだけない。できることはできる。できんことはできん。せんならんことはせんならん。してはならんことはしてはならん。差別は差別、平等は平等である。しかもその平等ながら差別。ざっと物を見たりざっと考えてはならぬ。(「永平家訓抄話」p.227-229)





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最終更新日  2026.03.26 02:00:12


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