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2026.03.29
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カテゴリ: 報徳記を読む
☆草野正辰、先生に謁し、国家の政体を問う。

先生の大徳によって、民を救済する事業が行われることすでに多年であった。
そのことがついに幕府に達して、天保13年の冬、幕府は先生を登用した。
先生は、大久保候の邸に寓居(ぐうきょ:仮の住い)していた。
相馬藩の家老である草野はこの事を聞いて言った。
「私は、先生にお目にかかって道を尋ねたいと長いこと念願していた。
しかし、遠路を隔てた上に、主君の用務が忙しく野州におもむくことができなかった。
今、先生は江戸にいらっしゃるという。
絶好の機会である。」
そこで、人をつかわして面会を求めた。
先生は、幕府の仕事で面会する暇がないと断られた。
草野はしきりに面会を求めて止まなかった。
先生は富田から草野正辰の徳のある行いや誠忠のほどを聞いており、その人となりを大変賞嘆されていた。
そこで8月4日面会する事ができたのである。

 草野正辰は、先生にこう言った。
「不肖(ふしょう)私は先生のご高名を聞き、教えを受けたいと久しく念願しておりました。
今、私の愚誠を察して、面会を許されました。

私の主家(相馬藩)の領村は旧来の艱難がことにはなはだしく、中古元禄年間(1688~1703)にくらべると、人員の減ずること5万人余り、収納の減ずること10万俵余りに及び、領中の大半は荒地となり、借債は山のようで実に亡国になりかねないところです。
 先君の世に当たって文化年中(1804~1817)に大いに節倹を行って、旧弊を改め除きました。

以来既に30年力を尽くしていますが、費用は多くかかり事業は半分にも至っておりません。
私は既に極老に及んで、存命中に志願を達することができないことだけを嘆息しております。
これはみな凡庸であって国家再復の道に明らかでないからです。
しかるに先生は、多年廃亡の地を挙げて、百姓を恵んで、これを安撫することは意のままです。
さらにその余沢は遠近に及んでいます。
誠に不世出の高徳でなければ、どうしてこの大業を成すことができましょう。
願わくば先生の至教を得て、わが相馬藩の衰国再興の志願を達することができれば、誠に上下の大幸はこれに過ぎることはありません。」

先生は言われた。
「私は、もと農村に生まれ、極貧に成長し、艱苦を尽くし、祖先の一家を再復せんことに勤めてきました。
しかるに先君(大久保忠真候)が野州宇津家(うつけ)の領村を再復するように命じました。
私は三年もの間、辞退しましたが君は許しません。
やむを得ずかの地に至って、数十年を経て、ようやく旧復の道が立ちました。
しかし、言うに足るようなものではありません。
しかるに隣国の諸侯が仕法を懇望してやみません。
私は固辞しましたが、なお再三求めるため、ついに少しばかり再復の事を告げました。
今、またあなたが来て一言を求められる。
どうして、その望みに応ずることができましょう。
しかし往年一條氏が、尋ねられるにあたって、やむを得ず一言告げました。
このゆえに今黙っているわけにいきません。



盛衰安危もこの二つによります。
存亡禍福もまた同じです。
しかし世上一般に国の盛衰する原因がここにあることを知りません。
これでどうしてその衰廃を挙げることができましょうか。
なぜならば、取ることを先にすれば国が衰え、民は困窮し怨みの声が起こり、衰弱は極まります。
はなはだしいときには国家が傾覆・滅亡するという大患に至ります。
これに反して施すことを先にするときは、国は盛んになり民も豊かになります。
民はこれになついて、上下ともに富んで豊かになり百世を経ても、国家はますます平穏です。
聖人の政(まつりごと)は仁沢を施す事をもって先務とし、あえて取ることに心を用いません。
暗君は取ることを先として施すことをきらいます。
治平も動乱もその起こる原因は、皆ここにあります。
今、相馬の政(まつりごと)は、施すをもって先とするか、取るをもって先とするか。
取ることをもって先とすすならば、千万の労を積み、百年の辛苦を尽くしても、決して復興し再復するときはないでしょう。
施すことを先とすれば、どうして国を興すことが困難だと憂慮することがありましょう。
およそ天下の生物は無量ですが、血の通っているもので、手厚く与えて喜んで服さないものはありません。
血の通っているものだけではありません。
草木もこれに糞培を与える時は喜び服する色が顕われます。
反対にこれを傷つけたり、切る時はどうしてそれを快くはしません。
鳥獣虫魚が人を恐れて逃るのは、こちらに取ろうとする心があるからです。
もし、これを愛し、食を与えればたちまち喜んで服します。
ましてや人間も同じです。

義のために命を軽んじ、万苦を厭わないのは何のためでしょう。
君主が食を与えるためです。
だから与える時は君臣となり、取る時は仇敵となります。
ひとり百姓だけどうして与えないで服する理はありません。
与える時は尭(ぎょう:古代中国の聖王)の民となり、取る時は紂(ちゅう:古代中国の暴君)の民となります。
これをよくよく考えなければなりません。
しかるに世の為政者は、貢税を取ることを先とし、与えることを後とします。
まず与えなければ、民はその生活の安定ができません。
民が貧しい時は放僻邪肆(ほうへきじゃし:勝手気まま・いかがわしい迷信)となります。
ついに貢税は減少し、土地は荒れ、上下の大患となるのです。
与えることを先とすれば、民は生活を楽しみ、家業を楽しんで、土地は毎年に開け、生財は窮まりなく国の衰廃を求めようとしても得ることはできません。
このため、取ると与えるの先後を明らかにして、その後に政事を行うものがまつりごとを知るものとすることができましょう。
私は廃亡を開き、百姓を撫育し、余沢は他邦(たほう)に及ぶのは他に原因があるわけではなく、ただ与えることを先務としたためです。
あなたの国は衰貧しているといっても大いに仁沢を施し、下民を撫育する時はどうして再復しないということがありましょう。
 」

草野は言った。
「誠に先生の教えは、古今の仁道です。
政を行うにこの本源を失わなければ、国家の永安は疑いありません。
領中数千町歩の荒地を開く方法はどのようにすればよいでしょうか。」

先生曰く
「およそ細を積んで大をなし、微を積んで広大に至るのが自然の道です。
たとえば天下の耕田のようなものです。
幾億万町とあっても、春は耕し、秋は収穫し、一畝(うね)の余すことがないのはなぜでしょう。
他でもありません。
一鍬(しゅう:くわ)を重ねて、もって耕し、一鎌(けん:かま)を重ねてもって刈り怠らないからです。
いわんや荒地を一鍬(しゅう)を積んで、怠らなければ幾万の廃地であっても挙げるのに何の困難なことがありましょうか。
廃地を開くのに廃地をもってする。
これが開田の道です。」

草野が言った。
「廃地をもって廃地を起こすとはどういうことでしょうか」

先生は言われた。
「一反(たん)の廃田を開いて、その実りを来年の開田料とします。
年ごとにこのようにする時には、用財を別に費消することなく何万の廃田であっても開きつくすことができるでしょう。」

家老(草野)は大いに感動して、先生の教示のかたじけなさを感謝して帰った。

大夫退きて歎じて曰く。
「我、壮年より極老に至るまで国家を再興し、百姓を安んぜんとし、身命をなげうち、肺肝を尽くすといえども、志の達せずして終らんことをのみ歎きたり。
思わざりき、野州にかくのごとく傑出の仁者あらんとは。
この人を知らずして数十年空しく心力を老せる事遺憾(いかん)の至りというべし。
然れども晩年この人に逢うこと我赤心空しからざるところなり。
我先生の道を国家に開き、その規則を立つる時は、国の再復永安の道疑いなし。
然る時は、我たおるるとも始めて安んずることを得んと心中快然たり。
時に年既に70有4、実に世に希な忠臣なりと人々これを感じたり。
先生もまた一面して曰く。
「我、草野の忠臣たることをかってこれを聞けり。
今、その人となりを見るに、内誠直にして外温和なり。
しかのみならず、度量抜出、識見はなはだ高し。
我が言、水をもって水に投ずるがごとく貫通すること元より知るもののごとし。卓見あるにあらずんば、何ぞよくかくのごとくならんや。
この人ありて国政を執り、加うるに我が道をもってせば、相馬の興復せんこと難きにあらず」と歎賞せり。

☆草野正辰(まさとき)は、1772年(安永元年)、中村藩士の子として生まれ、名を孫四郎、主計(かずえ)、後に半右衛門と改めた。正辰は、いろいろな役職を経て、家老、江戸家老となった。当時、相馬藩の急務は藩財政の建て直しで、富田高慶から二宮尊徳のことを聞いた正辰は、江戸にいた尊徳に会いに行き、一回の出会いで尊徳及び報徳仕法に心服した。藩財政の建て直しにはこの報徳仕法しかないという思いで、すぐ藩主をはじめ重臣達の説得にあたった。反対の多かった藩内の同意、また尊徳の了解を得て相馬仕法は1845年に開始された。
 その2年後、1847年(弘化4年)、75歳の生涯を終えたのであった。
http://www.city.haramachi.fukushima.jp/kouhou/2003/1215/121512.pdf

☆相馬藩家老 草野正辰の逸話はその人となりが伺われてとても面白い。
草野正辰が14,15歳の頃、母の言いつけで原釜浜に魚を買わせるため、お金を少し渡した。
草野正辰は、すぐに出て数時間後に帰ってきた。
母が「今日の魚の取れ具合はどうでしたか」と聞くと、「たくさん取れていました」と答えた。
母は「魚は買ってきましたか」と問うと、
正辰は「銭(ぜに)がなくて一匹も飼いませんでした」と答える。
「お前が出かけるとき、少しあげたではありませんか。銭なしとはどういうことですか。」
「さきほど浜辺に至ったとき、村の童らが遊びまわっていた。私が子供らに銭を散布すると童らが喜んで競ってこれを拾います。拾い尽くせばまた散じて、ついに一銭をも余さず散布して、魚を買うことができませんでした。お言いつけに背いたのは悪いことですが、村の童らが競って拾うのは大変愉快でした。」
母は黙りこんでしまったという。





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最終更新日  2026.03.29 17:54:57


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