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2026.03.31
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カテゴリ: 坐禅
「永平家訓抄話」澤木興道 1-11

「曩祖又道う、明暗おのおの相対して比するに前後の歩の如し」と。これはおもしろい。前足と後足と。前足は右足ともきめられん。後足は左足ともきめられん。瞬間瞬間に動いておる。だから、前足を前足ともいわれん。後足を後足ともいわれん。どちらが前足とも左足ともきめられん。それならきまりがないかというと、きまりがないことはない。

 それで「大衆前後の歩を知らんと要すや」『華厳経』の中に「因は果を知らず、果は因を知らず」ということがある。前足が妄想分別であるわけじゃない。後足がおれは後足じゃと思っておるのじゃない。前後ともに、前足も非思量、後足も非思量。目は横、鼻は縦。臍が腹のまん中にあって、おれは中央に控えておるとも何ともいわん。足は、おれは馬鹿らしい、一生労働者で、手が遊んでおるときでも、おれの遊んでおるときはないじゃないかとも何ともいうておらん。黙っておる。頭も非思量、足も非思量、臍も非思量。だから比するに前後の歩の如し。大衆前後の歩を知らんと要すや。そこで「卓拄杖両下、曰く、前後を喚(よ)んで後歩と作すことは即ち得ず。後歩を喚んで前歩と作すことは即ち得ず」
これはその通り。因が一定、果が一定。前足を後足とはいわれん、後足を前足とはいわれん。しかし前足が前足じゃと思っておるのでもない。
 また葛城の慈雲尊者の法語の中に「業は報を知らず、報は業を知らず、この知らざるところに道存して滞らず、この中に楽しみあり、間断なく欠出なし」と。それはそうである。世の中には人に物をやって、あれだけやっておいたら・・・・・と、まるで釣りでもするように、これだけのよいエビの餌なら、よほど大きい鯛がつれるじゃろう。初めからこれだけやっておいたら、これが倍になってもどって来るじゃろうと考えるやつがいるからやり切れぬ。そこでよく人に物をもろうて「こんなものもろうてどうしよう、ほっとけん、何とかせんならん、どうしたらよいだろう」と心配するようなへちゃなやつがある。だいたい物をもらうと頭痛を病むなんて、めんどうな話だ。また物をやって他人に頭痛を病ますようなめんどうなやり方をするものもあるもろうたときには、ただ黙ってもろうておいたらよいじゃないか。やるものなら、ただやったらよいじゃないか。もろうためにやる、だから世の中がけたくそ悪くなってしまう。(「永平家訓抄話」p.237-239)





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最終更新日  2026.03.31 02:00:05


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