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2026.03.31
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
人は 若い頃に 身体の芯から燃え上がるというような あるいは、自分にスイッチが入るというような、一種の感動、感激が必要なようである。
そして、
その感動が大きければ大きいほど、継続して専念する体験が必要なようだ。


豊田佐吉は、営繕大工の父の手伝いで小学校の窓から聞えてきた「西国立志伝」の話に強い感動を覚えた。

鈴木藤三郎は、22歳のとき、実家で二宮尊徳の教えを書いた本を読んで感動し、報徳思想に生きた。

「王国の履歴書」池田政次郎著 抜粋

 トヨタグループの歴史は「社祖」こと豊田佐吉の手によって開幕した。

 静岡県の片田舎に生まれ、小学校しか出ていない豊田佐吉が、艱難辛苦の末、世界に類のない自動織機を発明、その努力の結晶が今日のトヨタグループの礎(いしずえ)を築くことになる。

 あまり知られていない話だが、豊田佐吉は若い頃から「報徳教」の熱心な信奉者であった。

 佐吉は慶応3年(1867年)の生まれで、当時は江戸末期に当たり、従って生誕地は「遠江国敷知郡山口村」となっている。

 遠江(とうとうみ)は今でいう遠州であり、敷知郡は「ふちのごおり」と読み、現在の静岡県湖西市である。同市は名のとおり浜名湖の西側にあり、静岡県といっても、むしろ愛知県の三河地方に近い。

 「報徳教」の祖は二宮尊徳である。
 「報徳教」はなぜか遠州において、多くの『信者』を獲得した。
 一種の『地付き信仰』となって広まり、佐吉の父・伊吉も熱心な信奉者であったらしい。

 豊田佐吉は父親たちから報徳教の話を聞くたび、子ども心に、
「いつの日か尊徳先生のようになってみせよう」
 と思ったに違いない。

 父の伊吉は農林業のかたわら、『便利大工』をしていて、在所の家や村の小学校からよくお呼びがかかった。

 その父親の血を引いたのだから、佐吉が生来の機械好き、そして天才的な『からくり屋』に成長していったのもうなづける。

 尋常小学校を出た佐吉は、13歳になった頃「強烈な体験」をする。その頃には父の助手のようなことをしていて、ある日、村の小学校にくっついて行った折のことである。

 伊吉は校舎の屋根に上がって雨漏りの修理工事、そして佐吉は、下で父が要求する工具を投げ上げたり、ハシゴを登って手渡したりする役目。そんな佐吉の耳に窓越しに先生の授業が聞える。なんとはなしに聞いているうち、知らぬまに、
「身体の芯から燃え上がってくるものを感じた」
のである。

 豊田佐吉は昭和5年10月30日に65歳で没したが、その発明研究人生の発端はこの時の原体験がバネになったといってよい。

 佐吉が、晩年著した『発明私記』の中でこう書いている。

『子供の頃、父に連れられてよく村の学校へ行った。父は営繕大工で高等小学校へ進めなかった私は、いつも窓の外から教室での授業を聞いていた。

 あるとき先生が 「西国立志編」の話をしていて、その内容に強い感動を覚えた。

 15~16の頃、あらためて本を読み、ますます心を魅かれ、 自分の生きる道は物づくり以外にないと悟った 。』




「余の理想の人物」(抜粋)鈴木藤三郎(「実業の日本」明治40年1月1日号)

 22歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳翁の御説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、それは単に金をケチに貯めるとこととか、朝は早く起きるとかいうに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみると、すこぶる面白い。その大体は、こうである。
 人は何故にこの世に生まれてきたのであるか。いかにして生くるのであるか。金銭も名誉もその目的とするものではない。人は国家社会のために、その利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを、今人は更に増殖してこれを後世子孫に伝えもって国家社会の利益を増進する。云い換えれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだ外に更に増して子孫に伝える。何事もせずして先人の事を後人に伝えるのは、恩義の賊である。されば人間は個々としては生まれたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人にてはできぬ、また一代二代にてできるものでない。すべての人間が、この目的に向って勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務となる。されば職務は人の賢愚不肖によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比ぶれば同一で、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾なく尽くして明らかならしむべきである。いわゆる天地の秘を発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣と異なる所謂(しょい)である。
 この人生の大目的の一分を達するために各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益栄達を主としなくても、これらはその職務の遂行に伴うて自ら発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間に自(おのず)から自己も発達せられるという意味であった。

○神のごとき二宮先生
 この書を読んで、 私は豁然(かつぜん)として悟った 今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りである ことを発見し、 報徳主義の甚だ大切なことを知る ことができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。
 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時は僅かに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。
 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などを漁(あさ)り読み、23歳の時には夜学に通うて勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。


「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」鈴木五郎著

フト近くで子どもが読本のおさらいをする声が高々と秋の空に響くように聞えてきた。それはなんだか、自分の思い切りの悪い態度を叱責する天の声のようにさえ思われる。
自分が22歳になるまで、人生の目的は金儲けにあるもののように思いこんで平気でいたのは。小さい時から家業に没頭して、少しも読書するとか修養するとかいう機会がなかったからのことだ。現に最近まで同町内に報徳社があるということは薄々知りながら、報徳などというものは、朝早く起きたり、金をケチに溜めることだくらいに考えて、こんなに手近にありながら深く研究しようという気さえ起こさなかったのは、みんな文字の道から遠ざかってしまったからだ。このごろは文明開化の世の中になって来て、あんな子どもさえ一生懸命で勉強している。このままでいたならば自分は全くこれから先の長い生涯を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまうのだ。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。 時は命だ。命は金では買えないのだ。 そう考え出したら例の気性で、もう一刻もジッとしてはいられなくなった。
 立ち上がって単衣(ひとえ)の帯をしめ直すなり、父は表へ飛び出した。そして、取引先の問屋へ一直線に入っていった。父の勢いこんだ様子に、帳場机によりかかりながら鼻毛を抜いていた問屋の番頭さんは先ず驚いたが、今即座に持荷全部を買ってもらいたいう申出を聞いて、再び驚かれた。
「それは、お引取りせぬこともありませぬが、せっかく今までご辛抱なさったのですから、もう少しお待ちになってはいかがですか。そのうち外国船が入港しましたら、きっと値が出るにきまっておりますから・・・」
と親切にいってくれたが、そんな忠告は、もう父の耳には入らなかった。

と無理に頼んで仕切ってもらった。
 その金を懐にするなり宿をたった。鉄道は明治5年に東京横浜間が、同じく7年に大坂神戸間がようやく開通したばかりで、東海道は膝栗毛に鞭打つより外に仕方がなかった時代なので、もう9月とはいいながら残りの暑さに照りつけられて油汗を流しながら箱根八里の峠を越えて、松並木の長い長い東海道を一向に歩いたのであった。自分の1時間は、子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。そう思うと、汗をふく暇さえ惜しまれた。

「お父さん」
と改まった調子で呼びかけた。家の者は、養母も妻も、やはり何かあったのだなと体中を耳にせずにはいられなかった。養父はタバコをすいながら、何をまた気まぐれ息子が言い出すかというような顔をしている。
「お父さん、私は製茶貿易は昨日限りやめました。今日から、また家業の方を手伝わせてもらいます。」
これには生来のんきな養父も、そうタバコばかりを吹かしてはいられなかった。
「ほう、それは結構なことじゃ。わしはお前にそうしてもらいたいと思えばこそ、3年も前に隠居した訳なのだから・・・。」
「それについて、たった一つお願いがあります。」
「何かな、それは?」
「私が、学問をすることを許して頂きたいのです。」
「ほう、製茶貿易をやめて、今度は学問か?」
相変わらず気まぐれだと思いながら、
「それで、家業の方はどうするつもりかな?」
「昼間は家業に精を出します。それで晩だけ学問させてください。」
これを聞いて、養母も妻もホッとした。養父は、もともと菓子商に学問はいらぬという持説であったが、夜だけというのなら大して仕事の障りにもならないし、それに何よりそれで危険の多い製茶貿易をやめるというならおやすいことだと考えたので、
「夜だけということなら差支えはなかろう」と許した。
父はその許しを得ると、近くに住んでいる町の小学校の訓導の青木露生という先生がまことに篤実の人柄のように前から思っていたので、知人から父のために夜学の個人教授をしてくれるように頼んでもらった。(略)
青木先生といろいろ研究した結果、まず9ヶ月でどうにかやれようという見込みがたったので、夜学の期間をこの10月から来年の6月までということにして、その間にできるだけ能率をあげるように細かいプランを立てて始めた。
 この 9ヶ月の間というものは、一日の家業を終ると夜学に行って、それから帰るとまた復習をし習字をして、一晩もかかしたことなく、毎晩12時前には寝たこともなかった。 青木先生も父の熱心に心から感動して、実に親身になって教えてくれたので、この短い期間としては驚くほどの進歩が見られた。
 翌10年の6月、予定以上の成績で課業を終ったので、父は形を改めて青木先生の所へ行って心から礼を述べた。先生も世話のし甲斐のあったことを真底から喜んでくれた。





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最終更新日  2026.03.31 05:11:48


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