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2026.05.28
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カテゴリ: 内村鑑三
「宮部金吾」抜粋 自叙伝

7 卒業式

 私達の卒業式に関しては幸に志賀重たか氏の札幌在学日記(志賀全集第7巻1~3頁)があるので、これを左に紹介しよう。

 在札幌農学校第二年期中日記

 二千五百四十一年 明治辛巳十四年七月九日 土曜 曇

 此日本校四年生の修業全く終り即ち卒業式の典を挙げらる。午前より色々の用意あり校門には国旗、緑門及び球灯等を掛け演武場の内外も亦同様の飾り付けあり。午後一時十五分卒業の式典始まる、号鐘一点全校本科生徒四十五人武装して校前の草原に出で数百名の賓客の前にて練兵運動をなす事十五分、此時や平時練修の如く錯雑せず大に衆客の喝采を得たり、中にも工部大学校地質学教師「ブラウン」氏の如きは拍手して止まざりき、演武終りて生徒少時休息。

 一時四十五分号鐘衆生徒演武場の式場に列す、二時衆賓皆列座す、督学課三好笑吾氏接待委員たり、式場東端中央に本庁長官(代理)従五位調所広丈氏西郷に坐し其の右には新校長森源三氏尋で教頭「ブルックス」氏以下「カッター」「ピーボデー」「サンマルス」及び本校事務員数十名、其の左には督学課三好笑吾氏次に「ブラウン」氏「ドン」氏(「ボーマン」氏欠席)以下諸奏任官なり、前面には卒業生内村鑑三、宮部金吾、池田鷹次郎、高木玉太郎、足立元太郎、太田稲造、広井勇、岩崎行親及び町村金弥の十名列す。これに尋で、三年生十五名、一年生二十名、予科生数十名、其他賓客凡そ三四百名あり。

 占坐漸く終りて卒業生の演説を始む教頭一人毎に名を呼び其人名及び題目は左の如し。

Sweetness after Pleasure(快哉苦後の楽)         足立元太郎

 北海農民もは宜しく道徳を奨励すべし(最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり)広井勇

 Principle and Importance of Agriculture(農業は開明を賛く) 太田稲造

 農学と植物学との関係(植物学と農学との関係)        宮部金吾

 Relation of Agriculture and Chemistry(化学と農業との関係) 高木玉太郎

 大洋の農耕〔即ち漁猟の事〕(漁業も亦学術の一なり)     内村鑑三

右の六氏邦語或は英語を以て演説し卓々たる議論と滔々たる雄弁を奮はれしは聴客もいと本意ありげに見受けたり、演説終りて班賞を施行せらる。先年迄は一等賞七円、二等賞四円なりしが、本年は班賞すべき学課の夥多なると予科生の賞を増加したるが為めに一等四円、二等二円迄に減少したり、班賞各差あり。班賞終りて従五位調所君祝文を朗読せらる。次に校長本校の沿革を演述せらる。次に祝詞を読まれ卒業生を奨励するの語あり。

終りて教頭「ウィリヤム・ビー・ブルークス」氏卒業すべき生徒の名を呼ばる。衆進みて校長森源三君の前に揖す、校長即ち卒業証書を授与し農学士の学位を与ふ、其式殊に厳然たり。新農学士の将さに校長の前を退かんとするや喝采の声と拍手の音は満場を閙して凡そ五分間鳴動して殆ど人をして聾せしむ。嗚呼何んぞ其栄誉の大なる哉、余復たこゝに多言するを要せざるなり。

終りて内村氏卒業生に代りて校長に多年教育の厚きを奉謝せらる。

尋で御雇教師に奉謝せらる。

言、活発覚えず人をして動揺せしむ。

尋で三年生及び吾輩を奨励するの語あり、嗚呼氏は耶蘇教の徒なり、故に常に吾輩と仇敵なりしが今日其慷慨悲憤の言辞を以て吾輩を奨励したりしは仇ながらも至誠の到り然らしむる処覚えず感涙を滞ふしたり。

次に同級生に向ひ 今吾輩は本校の学課を卒業したりと雖も決して温袍に安んずる者に非らず、これより艱難の道に入りぬべし、今日は其艱難の途の門戸なり、諸君よ請ふ安逸に甘ぜず其屍を北海の浜に曝らすの素志を棄つる勿れ

8 同級生の思い出

前に述べたように我が二期生の組は、最初18名から成り立っていたのであるが、その後私費生が2人加わったので一時20名になった。その私費生は奥田直張という華族の令息とその付添人の川口宗晴君であった。しかし2人共中途退学をした。川口君とは明治5年1月横浜の高嶋学校の火災の節同室におったことが判り、深く奇遇を感じた。川口君はその時避難するためいち早く窓より飛びおりて暫く入院したとのことである。

西村規矩君も中退退学し、又後に永井於莵彦、毛受駒次郎、伊藤英太郎、伊藤鰹太郎の四君が退学した。佐久間信恭君は心臓病のため四級時の時一箇年休学をした。なお同級生の2人は卒業試験の結果が思わしくなかったので元級に留まることとなり、一時20名であった第二期生の組が卒業の時はそのその半数に減った。

4年間の学業成績を通算して得た成績のよる卒業の順位は左の通りである。

内村鑑三 宮部金吾 高木玉太郎 南鷹次郎 足立元太郎

太田稲造 廣井勇実 藤田九三郎 岩崎行親 町村金弥

これら10名が札幌入学当初の数え年を記してみると、高木・新渡戸・廣井の3君が16歳、内村君が17歳、私が18歳、南、足立の2君が19歳、町村、藤田の2君が20歳、岩崎君が21歳であった。不思議に思われることは、年少者の方が、年長者に比べ、英語がはるかに上達していたことである。これは当時政府の方針が定まらない過渡時代に遭遇し、米国式の教育を受けたからである。第二期生の一大特徴は在校中からそれぞれ一つの学科を選んで、学業の余暇に、これを専修し、これにより国に尽くそうという考えであった。そしてこのクラスのモットーは、わが札幌をしてスコットランドのエジンバラのごとく学芸の淵源地たらしめねばならぬ、この地を"Athens of the North"〔北のアテネ〕たらしむるのが、我らのねがいであると常に論じあった。

P76
内村鑑三君  内村君は確かに日本の生んだ天才の一人であった 。その70年の長き生涯中に我が宗教界、思想界に遺された偉大な感化は、今さらここに、あらためてのべる必要もないと思う。
 私は幸い同君の青年時代(17歳より20歳まで)に札幌農学校の寄宿舎で、4年間同室で暮らすことができたので、同君の性格については、よく知り尽くしておった。
 同君は武士の家に生まれ、厳格な訓育の中に成長されたので、廉恥を重んぜられ、正直であり、かつ約束は堅く守られた。神仏に対する敬虔の念は確かに厚かった。君はまた友誼の徳の讃美者であり、したがって友情に富み、友人の忠告をよく受けいれる賀量をも持っていた。しかし一方にははなはだ烈しい性質があって、多くの人と衝突喧嘩をしたが、不思議なことには、同室におったにもかかわらず、私とは4年間一度も喧嘩をしたことがなかった。
ある時のごときは誰かと喧嘩をして癇癪を起し、ふうふういって室に入るや否や、「宮部、土瓶を割るぞ」と断り、それを床にたたきつけ粉みじんにこわし、ああこれで気が清々したといい、後をよく掃除して、それで満足した様子であった。この癇癪も信仰生活が進むに従い段々と薄らいだ。
内村君は頭脳がすこぶる明晰であり、その記憶力の強大なる事は、実に驚くべきものがあった。勉強は規則正しく、その努力も人一倍であったが、試験の成績を見るに、ほとんど各学科にわたり最高点を取らないものはなかったほどで、おそらく札幌農学校開始以来、内村君ほど最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思う。ある時、植物学の試験があった際、今度こそは僕が最高点を取らねばならぬと一生懸命に勉強したが、試験の成績が発表になったのをみると、僕は93.6点で内村君は100点ではないか、実に驚かざるを得ないのである。
内村君は僕らのように試験間際になって、急に勉強をするというようなことは決してなく、試験の丸一週間前には、すべて準備ができていて、授業が済むと一人で散歩に出かけ、歩きながら頭の中で、答案を練って置き、不審なところがあれば、帰ってからノートや本を見るというふうで、大体の準備は平素学期の半ば頃より、始終前の方からの復習を怠らなかった。それであるから試験場に入り、教師が黒板に第一の問題を書くと、後の問題などかえりみることなく、直ちに筆をとり、大きな字で非常な速度をもって、答案を書き始め、いつもその紙数は我々のものの、ほとんど倍はあった。この習慣、すなわち「規則正しい勉強」と「予め準備をして置く」ということは、内村君の一生を通じて常に変らずに保たれた。これは確かに同君の偉業の基をなした要素の一つであったと思う。
明治7年に外国語学校に入学された時は4級であった。佐藤昌介君より2組上であり、私よりは6組も上であったのを見ると、当時英語の力が相当にあったのが判るが、内村君の話によるとその頃柔道の稽古をしておったので、ある日強い相手に「締め」の手を掛けられ、ひどく胸部をしめられたために肋膜炎に罹り、一年以上も休学しておったとの事で、明治10年に我々と同級になった訳である。また開拓使の官費生を志願した時、身体検査で引掛ったのは内村君一人である。医者が胸部に何か故障を認めたので、頻りに調べておったが、大したことではなかったと見え、注意だけで無事に通過したので、友人共も安心をした次第である。
私どもの級では在学中に各自それぞれある特別の学科を選んで学業の余暇にその研究に努めておった。内村君は動物学を選び、特に水産に興味を持っており、卒業式の演説には邦語で、「漁業も亦学術の一なり」との演題のもとに滔々とその識見を述べられた。漁業に対する水産学はちょうど農業に対する農学の如く一つの科学として発達せねばならぬ。日本の如く水産物に富める国ではその研究をおろそかにすべきではないと力説された。当時我が国は勿論欧米でも未だ頗る幼稚であった水産界の趨勢に対し、実に時勢に先んじた卓見というべきであろう。
寄宿舎内では親しい者の間ではよくあだ名で呼び合っておった。内村君のあだ名は「ロン」といっており、卒業後同君より寄せられた多くの手紙に必ずLonと署名してあった。これは Long shank 長脛(ながすね)の省略である。ある人の著書に内村君の「ロン」というあだ名は論客であったからそう付けられたのであると書いてあったが、その当て推量には驚き入る外はない。また同君は世事慣れないところがあり、一見粗野なところもあったので、「不意気」というあだ名も付けられていた。






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最終更新日  2026.05.28 17:00:05


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