MM2022のブログ

PR

×

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2026.05.29
XML
カテゴリ: 内村鑑三
37

「宮部金吾」抜粋 自叙伝


P88-87
藤田九三郎君 も広井君と同じような境遇に置かれ、少年時代から青年時代にかけ苦学しておった。また等しく工学に志して工部大学予科の入学試験を3回も受けたが、ことごとく失敗してしまったので、東京英語学校に入学、その二級の時、札幌農学校官費生に応募したのである。在学中の成績からみると、数学、力学、地形測量図、簿記学、兵式体操等で優良な成績を挙げている。卒業の時の希望は第一が土木工学、第二が農用工学であったので、開拓使では君に工業局土木課詰を命じた。
 君は札幌根室間の中央道路予定線の選択と、その道路線に沿い殖民地として適当な土地の調査及びその他重要なる事項の命令を帯びて、明治15年第一期卒業の田内捨六君と共に札幌を出発し、実に言語に絶する苦難をなめ、その任を全うして、同年秋に至りつつがなく帰札することを得た。この旅行中釧路の雌阿寒岳に登りナデシコ科に属する一小草本を採集、土産として持ち帰られた。これは学界に新しき種類であって、メアカンフスマ Arenaria merckioides MAXIMOWICZ と命名された。
 今でも覚えているが、藤田君が卒業少し前、ドクトル・カッターに身体検査をしてもらった時、肺部に少し故障があるから、よく気をつけるようにと申し渡され心配しておったが、その後前記の大探検旅行に無理をした結果、肺患の徴候が漸次進行して来たため、終に明治22年7月職を辞し、茨戸太に未開地38町歩余を出願した。家族と共にそこへ移り、鋭意その開発に従事し、数年を出でずして全部開墾に成就したが、明治27年1月21日安らかに最後の息を引き取られた。享年35歳。君は丈高く少しく前に屈み、筋骨逞しく、在校中はすこぶる強健で、雪中の山登り等を最も得意としておった。また第1回遊戯会の時に三段飛(ホップ・ステップ・エンド・ジャンプ)、半英里競争及び袋競争(サック・レース)等にてことごとく一等賞を獲得した。君は好んで頭を五分刈りにしておったため、大入道のように見えたので、級友は君を「入道」または「ニュー君」と呼んでいた。
 君の性質は体格とは正反対で、どちらかといえば内気であり、言葉数が少なかったが、内に信実がこもっておった。君は口先よりは実践窮行をもって処世の主義としておった。
 君の特性として書き落とすことのできないのは、君の消化器のすこぶる強健であったことである。寄宿舎の食堂の机には4人が一組となっていて、私の組には藤田君と内村君とがいた。朝夕の洋食は盛り切りでどうにも致し方がなかったが、昼飯の和食の時は4人に一つの飯びつと1週間に一度汁物が大鍋に一杯配置されてあったため、君は思う存分に食欲を満足させることができた。
 ある年の暮に賄い方が餅を馳走するというので、舎生一同食堂に集まった。その時君は最も多量を平らげた者の一人であった。その食べ方を見ておったが、決して餅を噛まないで、ただそれを食い切っては鵜呑みにするのには驚いた。この胃腸の強健であったことが、君の生命を少なくも両三年は永らえさせた。数度の大喀血で医者がサジを投げてから3年持ちこたえたのは栄養物を大量にとることができたためだと思う。

岩崎行親君

君は資性剛直、純真着実で熱誠なる人格者であった。ことに憂国の精神に充ちた人であった。前にも述べたように我々入校許可当時、芝口植木屋に合宿中に立行社なる修養団体を組織したが、その発会者並びに社則立案者は実に岩崎君であった。

しかし永遠に君の遺志として記念さるべきものは、恐らく大正10年夫妻相携えて伊勢の神宮に参拝し、君が日本の国体に対して平素抱懐せる赤誠を七言の古詩に作り、これを国体詩と称して敬天塾の学生に与えたものである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.05.29 11:00:05


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: