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Q それはエライ事です。
クラークはそのキリスト教を実際にどのようにして教えたのですか。
A クラークは聖書を読むことを教えました。
彼は「イエスを信ずる者の誓約」の冒頭に
われらは、聖書は神が人に与えたまえる、言語をもってする唯一直接の啓示にして、かつ輝く未来への、唯一にして完全無謬なる指導者であることを信ずる。
と記していますが、まず英語聖書を生徒各自に与えて、聖書そのものを直接に読ませると同時に、自分でも教室の授業の初めに、音吐朗々と読み上げました。
生徒らも必死に聖書そのものを読み、学びました。
クラークの伝道は、実は聖書伝道だったのです。
札幌バンドのキリスト教は、こうして聖書中心の、いえ聖書唯一の、聖書キリスト教となったのです。
聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければわから
らない、聖書を単に道徳の書と見てそのことばは意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は 約束附き
の奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとてもまた来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。
「心の貧しき者はさいわいなり」、是れ奨励である又教訓である、
「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。
かなしむ者はさいわいなり、その故如何? まさに現われんとする天国に於てその人はなぐさめを得べければ也とのことである。
柔和なる者はさいわいなり、その人はキリストが再び世にきたり給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神のものである、是れ今日の如くに永久に神の敵にゆだ
ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類をさばき給う時に地を不信者の手よりとりかえして之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うることば
である。
うえかわく如く義を慕う者はさいわいなり、その故如何?
其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れこの世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単におのれ にのみ之をえんとするのではない、万人のひとしく之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而してかかる国のこの世 に於て無きことは言わずして明かである、 義の国は義の君が再び世にきたり 給う時に現わる 、
「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望みまてり 義その中に在り 」とある(ペテロ 後書三章十三節)、而してかかる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
あわれみある者はさいわいなり、その故如何?
其人はあわれみを得べければ也、いつ ?
神イエスキリストをもて人のかくれたることをさばき給わん日に於てである、その日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、その日に於てあわれみある者はあわれみを以てさばかれ、残酷無慈悲なる者は容赦なくさばかるるのである、
「我等においめある者を我等がゆる
す如く我等のおいめを免し給え」、恐るべきさばきの日に於てあわれみ
ある者はあわれみを以てさばかるべしとの事である。
心の清き者はさいわいなり、何故なればと云えばその人は神を見ることを得べければなりとある、どこでかと云うに、勿論この世
ではない、
「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如くおぼろなり、然れど彼の時(キリストの国のあらわれん時)にはかおをあわせて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(コリント 前書十三の十二)、
清き人はその時に神を見ることが出来るのである、多分万物のつくりぬしなる霊の神を見るのではあるまい、其の栄のかがやきその質のかたなる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者はちち
を見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くにまた地にきたり給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。
やわらぎ
を求むる者はさいわい
なり、その故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、
「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、
「其の名を信ぜし者にはちからを賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(ヨハネ伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而してこの事たる現世に於てなさるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、与論に反して之を唱道するのむくいはかくも遠大無窮である。
ただしき事のために責めらるる者はさいわいなり、その故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人のものなれば也、この世に在りては義のために責められ、つぎの世に在りては義のために誉めらる、ただ
に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで 天国と其義
のために責めらる、即ちキリストの福音のためにこの世と教会とに せめ
らる、栄光この上なしである、我等もし 彼
と共に死なば 彼
と共に生くべし、我等もし 彼
と共に忍ばば 彼
と共に王たるべし(テモテ
後書二章十一、十二節)、キリストと共にいばらのかんむり
をかむら
しめられて信者は彼と共に義のかんむりを戴くの特権に与かるのである。
「我がために人汝等をののしり又せめ偽わりて様々のあしきこと
を言わんその時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等のむくい多ければ也、そは汝等よりさき
の予言者をもかくせめたれば也」と教えられた、天国は万事に於てこの世の正反対である、この世に於て崇めらるる者はかの世に於てはずかしめらる、この世に於て迫害らるる者はかの世に於てほめらる、「ある人はあざけり
をうけ、鞭打れ、なわめ
とひとやの苦を受け、石にてうたれ、鋸にてひかれ、火にてやかれ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、ともしくしてなやみくる
しめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等はあらのと山と地の洞と穴とにさまよ
いたり」とある(ヘブライ
書十一章三十六-三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白にあかしして、今日と雖もやや之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたるよろこびに因りてその恥をも厭わず十字架のくるしみを忍び給うた(同十二章二節)、信者はのぞみなくして苦しむのではない、彼も亦「その前に置かれたるよろこびに因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善きみやこ
を備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとてめあてに向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。
かくのごと
くに来世を背景として読みて主イエスの是等のことばに深き貴き意味が露われて来るのである、()主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ「我れ未だ生を知らずいずくんぞ死を知らん」と言う人の言ではない、よく死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、はじめであり又おわりである、今あり昔あり後ある全能者である(黙示録一章八節)、故によみと死とのかぎ(秘密)を握り今ある所の事(今世の事)と後ある所の事(来世の事)とを知り給う(同十八、十九節)、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者(ふみつけらるる者の意)は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、ことば
は至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。
其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)さばきにあずかり、又其兄弟を愚者よという者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又しれものよという者は地獄の火に干るべしとある(マタイ伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言はさばきの日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪におとさばぬきいだして之をすてよ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又ほどこしは隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるにみたまう神は天使と天の万軍との前にあらわに報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、つつみみて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(ルカ
伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとのおしえである。
殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
(略)
主イエスは単に来世を説き給う者ではない、 彼れ御自身が来世の開始者である
、彼はただにおわりの審判を伝え給う者ではない、 彼れ御自身が終末の審判者である
山上の垂訓は単に最高道徳の垂示ではない人の永遠の運命に関わる大警告である、天国のかがやきと地獄の火とを背景として読むにあらざれば福音書のはじめに掲げられたるイエスの此最初のみおしえをすら能く解することが出来ないのである。
(以下略)
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