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2026.07.29
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カテゴリ: 遠州報徳
福山瀧助翁 

第四章 翁二宮先生に教を受く

 翁は二宮先生の高弟の一人である。しかし何としても徳川時代の末期で、現代の如き教育の方法によって教を受けたのではない。前後数回にわたり江戸に出ては二宮先生を、小田原藩邸に訪問し教えを乞うたのみである。
本居宣長はその師賀茂真淵に直接教を受けたのは松坂の一夜のみで終生再びその機会を得る事は出来なかったがその国学研究の本流を真淵より立派に受け継ぎ、遂に国学を大成している。
 福山翁も江戸の小田原藩邸において親しく教を受けた事は数度に過ぎなかったが、その間に立派に二宮先生の報徳の真髄を体得しこれを実践している。またこれにより身をおさめたのみでなく、社会教化に全力をそそぎ、小田原、遠江、三河等に偉大なる足跡を残し、今もなおその偉大なる精神がその土地の人口に伝承されている事を思うと今更ながら、翁の偉大なる人格に感歎せざるを得ないのである。
 始めて翁が二宮先生にまみえる事が出来たのは、天保十四年八月の事である。この頃、小田原社の人々は商用等で江戸に出た時には必ず小田原藩邸に二宮先生を訪問し教を請うのが例であった。二宮先生も喜んでこの郷土の人々に面会をされた。福山翁も一度二宮先生に親しく面会の機を得て教えを乞わんとしたが、なかなかその良き折がなかった。天保十四年小田原社の世話人小島忠次郎はるばる江戸の二宮先生を訪ねんとするのを聞き、無理に依頼して、共に小田原藩邸に二宮先生に逢い、教えを受ける事が出来たのである。
 この時、門人およそ十四、五人机を並べて座っていたが、その首席は相馬中村藩の家臣富田高慶で、次席は戸田侯の家臣波多八郎であった。湯元の福住正兄もこの中にいた。二宮先生はちょうどこの時、鏡に向ってしきりに髪をくしけずっていたが、その終るのを待って、接見した。
 すると二宮先生は初対面の挨拶もしない中に「一体そなたの家業は何であるか」と問うた。翁が「菓子職です」と答えると二宮先生は門人達に「菓子の菓と因果の果と違いがあるか」問うた。すると福住正兄が答えて、「草冠の有ると無いの違いがあります」と答えた。するとまた重ねて「しかし音は同じで形も似ているではないか」問うれたのに対し、福住正兄は「その通りです」と答えた。
そこで二宮先生は翁を顧みて「何事でも第一に肝要な事は形である。形が似ていなかったならば、精神の同じ事を表す事が出来ない。この故に人もし我が道を修めんとするならば、先ず形よりは入らなくてはならぬ」と、菓と果の二字は、音は同じでも草冠の有無によって、その意味が変って来る。人も形によって精神が変って来る。身を端正に保てば精神も端正になる。服装乱れれば、心も乱れる。報徳を行わんとするならば、先ず形より始めよという、報徳実践の方向を明示したのであろう。この教えこそ報徳実践の根本理念であり、大きく考えれば、東洋風の学の行き方である。翁はこの教えをよく守り、難しい理論は先ず置き、形を示し、その通り実行せしめこれを実施している間に、その原理を得しめるという方法を取っている。その後も翁は小田原の社の世話人等の先輩に伴われて数度二宮先生の教を受けている。
ある時こんな事があった。これは竹本屋幸右衛門と共に先生に面会した時の事であった。幸衛門は小田原の世話人であったので、小田原社の現量鏡、土台帳を持参して近況を報告したところ、二宮先生つまびらかに現量鏡を見て「金二分入用」と記入しているのを見て「これは何の入用であるか」と問うた。幸右衛門「世話人の入用であります」と答えると、先生顔色を変え、声を励まして「その方どもの身分として、彰道院様(大久保忠真侯の法名)の御仕法を勤めるだけでももったいない事ではないか。その方どもの家がこれがためにたとえ潰れても仕方がないではないか」と言う。幸右衛門は返す言葉もなく、ただ黙々として退去したということである。





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最終更新日  2026.07.29 04:00:05


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