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2010年06月16日
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涙が出るとき




 何の前触れもなく、つ…と落ちた涙を藤姫は拭わなかった。
 なぜ落ちてきたのかもわからない、しかし、落ちてきたときに何を想っていたかは覚えていた。

(私……どうしたのでしょう。)

 薄暗い殿舎の片隅にひっそりといけられた空木の花を見ていたのだ。

(「紫陽花?」と。)

 神子様の世界にある花とよく似ていたという。花には花に託された言葉があって、紫陽花の花言葉は「移り気」というのだと、そして、この花をどなたかに贈りたい、贈るべきだと二人で笑い合っていたとき、いきなり御簾をくぐって……

(待ってなどいません。)

 神子様がいらした頃は、八葉のおつとめのために足繁くいらしていたのです。それも時折は気がもめるほど間遠になったときもあるほどなのに、おつとめがなくなった今はもう……。

(私は……)


 などと考えて、藤姫ははっとかぶりを振った。

(友雅殿なんて!)

 どの女房とも真剣につきあったことなどない。ああ見えて実のある方と思ってはいるが、どうも、仕事と向き合う友雅と、恋と向き合う友雅はまるで別人であるらしい。

(友雅ぁ? あんなのまともに相手にするんじゃねえ。)

 神子様に天真殿がしょっちゅう言っていた。妹の蘭殿の恋にも真剣に反対していた。あの頼久でさえ、露骨に嫌な顔をするときがある。鷹通殿からは嘆息しか聞こえない……。

(どうしてあの方がこんなに気になるのでしょう。)

 激しい雷雨の夜に、一人怯えていたところを助けてくれた。それからも折に触れて訪ねてきてくれた。年端もゆかない自分の話を真剣に聞いてくれて、八葉の勤めもそれなりに果たしてくれて……。

 思いあぐねた顔をふと上げると。


 藤姫はかあっと紅くなった。どうしてその姿がそこにあるのかと慌てた。
 風向きが反対だったから、近づく薫りにもまったく気づかなかった。その薫りは潜め忍んで本当にけぢかく……藤姫の目の前にあったのだ。
 大胆な広袖が軽々と藤姫を抱き上げる。



 抱きすくめられた腕の中でいやいやと体を揺すっても、すっぽり抱き込まれた腕の中で何ができるわけでもなく。しかし、実は待ちこがれていたその膝の上に収まってしまえば、待たされていた間のとりとめもない悩み事はみるみるうちに消えてしまって、こうして訪ねてくれたうれしさだけが胸をいっぱいにする。

「私に会えなくて、寂しくはありませんでしたか?」

 思い切り首を振って返事する。

「寂しくなんかありませんわ。」

 強がってはみても、友雅にはすぐに見破られる。ついさっき、拭わずおいた涙の跡を見つかってしまうから。


 ささくれていた心がすいと潤んで、新たな涙がじわり瞼をぬらした。
 友雅の唇が吸い取る。わき出る物を一滴も逃すまいと。

「寂しかった……。」

 どうしてそういう言葉が出るのかわからない。でも、伝えずにはいられない。

「待たせてしまいましたね……。」

 友雅にも、どうしてこの小さな姫が気にかかるのかわからない。土御門にお気に入りの女房が多いわけでもないのに、つい、この館に足が向いてしまう。そして、この姫を訪ねてしまう。もう、龍神の神子はなく、八葉の任も解かれたというのに。

 小さな体を直衣の胸に抱き込んで、友雅はほうっと息を吐いた。

(まるで己の姫を得たような。)

 こんな年頃の姫があったとておかしくない年齢だった。しかし、この感情は父性とは違うと思った。恋ではない。もちろん欲情などではない。もっと慕わしい、しかし穏やかな、落ち着いた感情……これをいったいなんと呼んだものか。

 真木の柱に凭れて、夜空を見上げた。
 星が一つ、流れて消えた。 





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最終更新日  2010年06月16日 07時20分08秒
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