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「こんなウマイお豆腐、何十年振りだろう・・・」と以前紹介したことのあるお豆腐屋さんは、初代のおじいさんの後を継いでいるのは孫です。彼は研究熱心で、お豆腐の素である大豆やにがりは勿論のこと、それに火、水なども加わって、その組み合わせ、タイミングの妙で決まる製造方法にも研究の手を緩めようとはしません。研究の成果は店内の手書きのポスターで知らせ、お豆腐それぞれにも小さな説明が付いています。時にはチラシも発行します。素性のはっきりした責任あるお豆腐なのです。これではお客様も巻き込んで、買い続けることで応援し、見守る体制になってしまいます。作業場で、店頭で働く裏方の女性が居ます。おじいさんの代には嫁として、今は、母として。彼が配達に行っている時も、地域や豆腐作り仲間と活動している時も彼女は必ず居て、息子の留守の理由を遠慮がちに話してくれます。その女性の働く姿をみるたびに、亡くなった母の姿が重なります。八十四歳で亡くなった母は、五十台の頃には腰が曲がっていました。きっと、もっと早くから腰の状態が悪かったのかもしれません。母が腰痛の訴えをした記憶はありません。「かあちゃん。真っすぐ立たれ。真っすぐ立とう。真っすぐ立たんにゃダメやげね・・・。」と言うことしか出来ない娘に、一回は立って見せるだけでした。どんなにゆっくり歩いても母は後ろになりました。いつも屈んで、よく働いていました。心の裏(なか)を語るように、からだの裏(なか)を語って下さいました。「真っすぐ立つと痛いんです、腰を曲げている方がラクなんですよ。伸ばして立つことができるんだから、そのまま真っすぐにしていれば、って言われてそうしてみるんですけど、気が付いた時は曲がっているんですよ。作業場を高く改善してはということを言ってくれる人もいますけれど、豆腐やの水仕事は低いところでするものですよ。主人もマッサージをやってくれますし、ありとあらゆる治療をしました。何の役にも立っていません。そのうち曲がったままになっちゃって・・・。おばあさんも腰が曲がっていました、遺伝かなぁって思って・・・。歩くのが嫌いになりました。ちっとも外になんか出たくありません。どうしてこんな腰になってしまったのか、悔しくってなりません。」母の口から語られることがなかったことを、初めて聴いたおもいです。二人の女性に伝えたいことは山ほどあっても、何も言うことはできません。「外見が常識的に立っていたとしても、からだの中身が休んでいなければ、本質的には立っているとはいえないことになる」(野口三千三)
May 31, 2006
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Kさんの報告に教室がわきました。「母が腰を痛めました。いわゆるギックリ腰です。立ってしまえばいいのですが、立つ座るの途中が痛いのです。特に寝た姿勢から起きることが痛くて大変なのです。私はこの教室でやったことを帰宅後母に話し、二人で体操をするのですが、重さを流して動くのよ、とやってきたことが役に立って、腰を痛めてからは、重さの方向にしか動けません。母も、野口体操がなかったらもう動けないわね、と言って重さを頼りにしています。」お母様は間もなく具合が良くおなりでしょう。普段も「重さの流れ」を感じながら暮しをされれば、ギックリ腰を避けることもできましょう。Kさんとお母様との関係に驚きました。ああこれだったのだ、と膝を叩きました。野口体操を伝える時、ほとんどの場合、伝え手は野口体操以前を伝えるのに何年も掛かります。頑張らなくてもいいのよ、憶える必要はないのよ、何もしなくていいのよ、受け取る側も、本気で自分のやり方を見直す気になるまでに何年も掛かります。どちら側にとってもこれは苦労な作業で、いつまでもここに留まって頑としている人や、この段階で止めていく人も少なくありません。しかしKさんは、最初から受け取り上手と断言していい生徒でした。伝え手は何もしていません。彼女が自分で持ち込んできた受け取り上手なのです。どうしたらこれだけ素直に、伝え手の伝えたいことをそのままに受け止めることが出来るのだろうか・・・。Kさんのお母様は、茶道の師範でいらっしゃいます。Kさんはお弟子さんを持ち、同時にお母様の弟子でもあり、助手も務めています。彼女はこの師弟関係の中で、学習することの基本的姿勢を身につけてきたのでした。世界は野口体操とは違った方向に価値を見出しています。野口体操を信じ任せ、からだの動きで実感していくKさんのこの先を思うと、わくわくします。Kさんはこの先どんな動きを見せてくれるのでしょうか・・・。伝える側と受け取る側の本当の関係が生まれるという予感です。「乗りとは、測り知れない巨大な霊力をもった何か(もの・こと)を信じて、それにまるごと全体の自分のすべてを任せ切り、それと一体となることによって、今はまだ分からない大きな力を持った新しい自分が生まれ出ることである」(野口三千三)
May 30, 2006
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現代の最後の巨匠と言われるスイスの画家バルテユスの妻であり、画家でもある節子の「節子の暮しー和の心展」をみてきました。会場にはバルテユスの絵、ジュエリー作家である娘の作品も彩りを添え、節子の絵はもちろんのこと、暮しの中でも和服で過ごしているその和服と・・・、多彩に展示されていました。中でもこちらに迫ってきたのは、節子が夫バルテユスと娘のために、また、毎日の暮しのために手作りした品々です。スイスで育った娘のための日本の物語の絵本、人形劇を娘や娘の友達のために演じ、やがては夫婦の楽しみとなった人形劇の人形、祭りのための仮面・・・。手作りした品々から、暮しを丁寧に大切にしていることが、そして、そのことが楽しく、うれしく、歓びと共にあることが伝わってきました。決して上手なものを目指してはおらず、平凡な袋や、ブックカバー等に描かれた絵や刺繍の、デザインの発想・着眼の素晴らしさ、作品を仕上げていく素人っぽいまでの大胆さがある高まりにまで達していました。それを毎日の暮しで使っているのも、何とも、ときめきます。たばこの焦げ痕や、擦り切れたり、繕ったりしてあることが、品々をなを美しく輝かせています。スイスで一番大きな木造の家に住んでいるとの解説を読んだご婦人の連れが、「誰が掃除をしてるのよ、結構な暮しよねえ」とブツクサと囁いていましたが、そんな話でもなかろうに、受け止め方の違いを感じたのでした。節子と、節子の手作業から生まれてくる品々との関係は、その人と、からだの動きとの関係と同じだと捉えて見れば、節子に辿り着くことができます。一刺し一刺し、一筆一筆、思いを綯う、イメージを綯うのです。そしてその営みを楽しむのです。その結果として作品が出来上がるのです。この営みはまさにからだの動きが生まれ出る過程です。「からだの動きにおいて、自分自身のからだの重さと、自分自身の思ひ(イメージ)とが、主な動力源であるということをからだの動きの実感として分かることを重んじなければならない」(野口三千三)
May 29, 2006
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今日のレッスンはキツかっただろうなあ、と思う時があります。殊に助言が、個人に対して行なわれ、その人を中心に稽古が進められていった場合です。それが功を奏さなかった場合はなおさらです。その助言が空回りして、当人が成果が上がらなかったと認識していると感じた場合は、です。こんな場合、幾つかの原因があります。伝え手の側の原因を挙げれば、未熟さです。からだに現れている相手の状態・現実が正確につかめない、その人の状態・現実が開かれるような明快なことばを手渡していない、だからことばで繋がれない、そこで助言が空回りしてしまうのです。伝えられる人にはどのように聴こえているのだろうかと悩みます。実に明快な答えがあります。それは、からだが変わることです。ほんの少しでもその変化は見落としません。本人が気づくことが出来ない変化でさえも、です。それほどからだは繊細微妙に変化するのです。問題はからだが変らない人の場合です。子供や学生ではない、大人。それなりの社会的地位があり、成功を収めておいでならばなおさらです。そんな人であれば「もう言ってくれる人はいない」という立場なのかもしれません。けれども、今がチャンスです。野口三千三もさまざまな表現で働き掛けてきました。時には声を荒げたことも、激しく怒ったこともあります。それで退めていく人も何人もいました。わたしたちは残りました。この教室のスタッフです。年月を経て、伝え手の側になった今、思います。野口三千三のことばの明快さ、正確さ、そして考察の深さを。朝も、昼も、夜も、何年も、何十年も飽きるどころか思いを寄せて新しいコトを受け止め、「慌てふためき、ハッとして」学び続けて出てきたことばなのです。生涯、からだとことばの探索は終わりませんでした。野口三千三は言っています。「イメージによるからだの秩序変革」と。「体操による人間変革」と。
May 28, 2006
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------------------------野口体操入門ワークショップ------------------------野口体操を体験してみたい。でも、日程等が合わなくて、いままでチャンスがなかった。そんなあなたに、おすすめの入門ワークショップです。------------------------------------------------------ 日時/2006年6月27日(火)18時30分~20時45分 会場/都内施設(最寄駅・新小岩徒歩5分) ※お申し込みいただいた方に、直接お知らせします。 参加費/5500円(前納4500円) ※メルマガ「野口体操教室通信」読者は各500円引き 定員/20名(定員になり次第締め切りとさせていただきます) 申し込み/http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P37502313------------------------------------------------------お申し込みいただいたかたには、会場地図、振込口座番号等をお知らせさせていただきますが、諸事情のため、返信が遅れる場合がございます。3日経っても連絡がない場合、未着となっている可能性もありますのでその場合はお手数ですが、このブログに返信する形で、ご連絡ください。
May 27, 2006
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日常の生活の中でつい乱暴にものをあつかって自分のからだを痛めてしまうことがあります。例えば台所の仕事中、ステンレスの重いなべを取ろうとして、うっかり手の力だけで持ってしまい、角度が悪く手首を痛めてしまったり、家の中の狭い空間を通りぬける際に、腰骨をイヤというほどぶっつけてしまったりすることがあります。また他人と話をしていても相手のことばが聞こえてこないこともあります。こんな失敗は誰にでもよく起こることです。あとで振り返ってみると、心ここになかったり、先を急いでなげやりにコトを行ったりしています。こんな時、からだが突っ張って中身が変化していません。殊に対象との関係が粗雑になった時、失敗をしていることに気づかされます。疑いもなく、当たり前のこととして今までのやり方を日常の生活でくりかえしているのです。そこには新鮮な感覚も気づきもありません。その「気づき」が自覚化されていないと、同じ失敗が繰り返されます。今日のレッスンでは掌を通して、相手のからだに自分の重さと思いで働きかける動き、「対話の動き」を行いました。「対話の動き」は関係の動きです。「対象を大切に感じる感覚をからだで実感したい」がテーマです。相手を変えて働きかけてみました。人が違う分だけ関係が変わり、感覚が変わります。その実感をお互いにことばで伝えあいます。三年から十年、野口体操を続けた年月は違っても「対話の動き」の後はことばも弾みます。「毎日犬の散歩で歩くときに、足の裏の感覚を確かめているのよ」「私は腿の付け根が縮んでいるの。ぶら下げの動きで起きて立った時、開いた感じがするの」「やっぱり丁寧に対象に働きかけたときは新しい発見があるね」実感をことばで伝えあうことで「気づき」の自覚化がされます。毎日の生活の中で確かめられているから、長年続けていられるのでしょう。だから次次と新たな気づきがあるのです。新たな気づきがある、これほど嬉しいことはありません。「すべてのことにおいて絶対的な基準は存在しない。すべての基準は、関係によって、相対的に、その都度、今ここで、新しく、自分の中に生まれるのだ。」(野口三千三)
May 26, 2006
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私立のこの精神病院のデイケアーに関わったのはもう十五年以上前になります。その時のスタッフは今は誰もいません。しかし当初からデイケアーに通っているメンバーは今もいます。当時、閉鎖病棟を開放病棟するにあたってデイケアーを設けた時、野口体操が導入されたのでした。閉鎖病棟から開放病棟へ。具体的な一つとして、病院から出て家族の元へ、あるいは地域の中で暮らしをしていこう、という動きがあります。生涯、病院の塀の中だけで終えることは、人として大変不自然なことです。安定して落ち着いている人が対象です。家族がおり、その中でそれなりの役割を担って家族と共に生活をしている人もいます。定期的に診察に来るだけで十分なまでになっているのです。又、家からデイケアーに毎日通っているメンバーもいます。そうやって生活のリズムをつくることで安定しているのです。けれども、入院生活も長く、親も亡くなっている人は受け入れてくれる家庭もないまま、一人あるいはグループでアパート生活を余儀なくされています。そんな人たちにとってもデイケアーの場は大切です。しかし、彼らにも老いはやってきます。この病院では病院の周辺にアパートを借りているメンバーも多く、スタッフはこのところ訪問看護の数が増えました。今日、この病院に関わった時に参加していた最初のメンバーが顔を出しました。最初の二年ほど、退院を目指して実に熱心に参加されました。精神の病気の何たるかの「実際」を何も知らない者にとって、熱心でひたむきな彼女の姿勢はどんなにか励みになりました。そして退院、アパート生活が始まったのでした。この間何度か参加することはあったのですが、続けることはありませんでした。まだまだゆとりがあったのです。もう七十を超えられたのでした。「目まいと吐き気で、もうすっかりダメになってしまって。何とかしなければと思って・・・。」からだの動きを見て、その衰退に驚きました。すべての機能がどんよりと低下して、からだの中がねっとりとしているようでした。途中目まいと吐き気を訴えて何度も助けを求めてきました。しかしからだが覚えていました、ゆっくり、ていねいに、土台から末端へ息と共につたわり・つながっていく動きを。これだけからだが覚えていれば、理由の分かる日常的な目まいや吐き気を怖がらなくてりいい。十分力を蓄えていたのです。あの時助けてもらって、今老いた姿をみせた彼女ともう一度、からだを自然の動きに任せてみましょう。「自分という自然が、大自然と一体のものとなったとき、それを強いといい、柔らかいともいう。なぜ、強いと柔らかいを別のものとして分けなければならないのか」(野口三千三)
May 25, 2006
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舞台芸術学院(以下舞・芸)の学生が退学しようとしています。ことここに至ってです。これから卒業公演に至るまでの稽古の中で、今までやってきたことが具体的にからだに落ちていくのです。話し合いました。彼の不満、迷い、欲望は実に時代を現していて、このまま舞・芸で卒業公演まで終えようとしている他の学生の悩みに比べて、彼の悩みははるかに現実的で大人のものでした。やりたいことを思いっきりやったらいい。しかし、舞・芸の本質を大切にする姿勢も、舞・芸に残るクラスメートの青臭さも、捨てたものではありません。一方で同じクラスの女子の学生が、彼とは反対の道を選択しました。「先生。私、変わります、変わったんです。今日初めて本気で集中してやったんです。感じることに集中したんです。感じました。感じながらやったら楽しいしおもしろい・・・。」「野口体操なんて何でやるんだろう、野口体操なんて大嫌い。」な彼女でした。大切な話をすると眠くなるのです、眠くなれば誰はばかることなく眠ってしまうのでした。事実、今日の彼女のからだの動きはハッとするほど違いました。「先生にもっと繊細でなければ、っていろいろ言われました。」めげずに何度も声を掛けてきたのです。でも本当は、彼女の大好きな殺陣の先生の「あれじゃあ、突撃隊だよ。あんなやり方をしていれば怪我をするよ、ハラハラする。」ということばがショックだったのです。野口体操と正反対なはずの殺陣でした。型は決まっているし、理屈を言われていろいろ悩まなくていいし、なによりカッコイイ。頑張って、汗を流して・・・でも、いまいち上手くいかないのです。気がついたのです。対極にあると思い込んでいた野口体操と殺陣は同じかもしれない・・・。少なくとも、今のままのやり方では殺陣は上手くなれない。どうも、野口体操を習得することが、解決の道に繋がるようだ・・・。「多様きわまりない人間の動きを、好ましいのぞましいものとするためには、中身の状態や、その構造もまた、その時動きに最適なものとする多様性が要求され、その最適な状態を感じ取り、そのように中身を変えることのできる振幅の広い能力が大切だということになる』(野口三千三)
May 24, 2006
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「野口体操・おもさに貞く」野口三千三の三冊目の著書です。今日、「すべての動きは『いのり』である」の項に入りました。うん、いよいよ来たな、という気持ちです。この項は、「『のり(法令)』の原理は、からだの裏(なか)にある」の中に収められています。漢語の「のり」、和語の「のり」に託された、人間にとってきわめて重要な意味を味わい尽くそうと、様々な角度から時間を掛けて丁寧に読み取っていく野口三千三の求道は、弟子たちの次の仕事は何か、と、一人ひとり身に染みています。その中で、「體」という漢字も「のり」と読むのだと知りました。「大意・体得・体系・体法・体制・具体・実体・主体」などのことばを上げて、次のように言っています。「『からだ』各部分が一定の秩序によって、正確・精妙な統一性を持つ一つのまとまりとなり、驚くべき機能を発揮する事実を直感して、秩序・規範の意を示すこれらのコトバとなったのであろう。又、人類最初の計測器が、自分の體であったことは『寸・尺・丈・尋・歩』などのコトバから明らかなことである」(野口三千三)まさに、「『のり(法令)』の原理は、からだの裏(なか)にある」(野口三千三)の具体的な例です。なんとわたしたちのからだは見事なのだろうか・・・。はたしてこの「正確・精妙な統一性を持つ一つのまとまり」として、わたしたちは機能させているのだろうか・・・。自分の思い込みとも言える既成概念や頑固さで、本来与えられている機能を摘み取ってしまうことはしたくありません。からだの動きでも確かめました。「腰」と「胸」との関係で成り立っている動きを選びました。「正確・精妙な統一性を持つ一つのまとまり」としてのからだでなければできない動きです。このことを「体得」した人と、「体得」できなかった人にはっきり分かれました。
May 23, 2006
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継続して報告されている、Tさんの介護記録です。「舅と姑は、昼間は民間のデイサービスにお願いしているのですが、施設で、舅が頭がくらくらすると訴えて、嘔吐も伴う状態なので救急車で近くの病院に運ばれました。その時血圧は百八十近くまで上昇していましたが、入院後変動はありませんでした。検査のためのMRIで分かったことは、脳の萎縮が著しく、認知度は一番低いレベルまで進んでいると告げられました。舅は救急車で入院したことも、何度も訪れる家族のこともその直後には忘れました。病院に慣れてくると、終いにはベットを抜けて徘徊をするようになり、止めようとする看護士に暴力を振るいました病院の要請で家族が説得のために駆けつけた時は、車椅子に縛られていました。そんな訳で、まだ検査は終わっていません、と説明を受けていたにもかかわらず、次の日には、先生の許可が出ましたよ、と退院を勧められてしまいました。今日、退院してきました。もちろん舅は退院してきたことも忘れています。その瞬間のやり取りは成立するのですが、それだけに常に厭味とけんか腰で、意気揚々とご機嫌の毒舌家とも違って、感情的です。姑の方は三十六歳から耳が全く聞こえない上に、二十年前の脳梗塞の発病以来、頭はしっかりしているのにからだは全く不自由なこともあって、思いと欲求が大変強く、欲求が強い分だけ不満につながり、いつも不満を抱えています。舅と姑を見ていると、ああ、ずうっとそうだったなあ、と思います。そしてその本姓がより鮮明になってきているのです。こうなるように生きてきたんだなあ、と思います。他の生き方はして来なかったのですから、これが本人にとって当たり前のことなのなのでしようが、決して幸せには感じられません。周りの幸せな表情もみません。短気と陰気、怒りの感情と不満の感情を基本にして暮らしてきて、今ここに年老いて残っているのはそれだけなのですから・・・。一般論ではなく、これからどう生き行くかが私の終盤を決定するのだと気持ちの引き締まる思いです。私だってどんな自分が老いによって炙り出されてくるか分からないのですから。」父の、母の、弟の、兄のそして野口先生の生涯とその終わりを思い、想いました。「現実に存在している『自然の分身である自分』は、意識が自分と思いこんでいる『意識でとらえることのできた自分』と、『意識がまだとらえることのできない自分』と、『人間が絶滅するまでの未来を含めて、人間の意識では永久にとらえるこのできない自分』と・・・。自分とはこのような多重構造なのである。」(野口三千三)
May 22, 2006
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「理屈は理屈にして理屈にあらず・・・ね。」スタッフの一人が驚嘆の声をあげました。理屈とは、からだの動きが生まれ出る理屈です。自然の原理と一致したからだの動きの理屈です。まさに理屈どうりに動いてみたのです。大正解。本当に「つたはり・つながり・とほり・ながれ」だけで、力に頼らないで、手にした三尺帯をたなびかせることができたのです。答えは思いを切ることでした。「思い切って」、と言います。その意味を、今日からだの動きで実感しました。なかなか切れないのです。自分のやり方を切りかえることができないのです。このままではもうダメだとわかっていても、です。自分のやり方には思いがこもっているからです。三尺帯を手にしてそれを動かそうとすれば、手の先にある三尺帯に気を取られてしまいます。手首だけで、いや、せいぜい腕で振り下ろしたくなるのです「動きは重さを地球に働きかけてその反作用で生まれる」だから、動きが生まれる以前の、重さの働きかけ方が肝心なのです。「丹田・子宮から新しいからだが・・・」だから、胴体も三尺帯なのです。「動きは土台から末端に。」だから、手の先の三尺帯はからだの末端です。そして、「動きは、重さのつたはり・つながり・とほり・ながれそのもの・・・」だから、「力を抜けば抜くほど力が出る」(野口三千三)のです。この中の一つでも「思い切って」、無垢なからだで動いてみれば、まさに理屈どうりに野口理論を体感することが可能なのです。
May 21, 2006
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初めて野口体操を体験する人のための2006.6月●野口体操入門ワークショップを開きます。一度一緒にからだを動かしてみませんか------------------------------------------日時/2006年6月27日(火)18時30分~20時45分会場/都内施設(最寄駅・新小岩) ※詳細はお申しこみいただいた方にお知らせします。参加費/5500円(前納4500円) ※メルマガ「野口体操教室通信」読者は各500円引き定員/30名(定員になり次第締め切りとさせていただきます)申し込み/http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P37502313------------------------------------------
May 20, 2006
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モノを使うとき、モノの特徴や性質などをよく熟知していなければなりません。そして、モノと使う人との関係がそのモノを生かすか殺すかを決定します。鞭を用意しました。鞭は筋肉もなければ骨もない。しかし、音速を超えるスピードを出します。その伝わりのよさは見る者を圧倒します。ピシッっと聞こえる激しくもセクシーな音は衝撃波です。鞭の先端が音速を超えたからです。その衝撃波を聞きたくて、みんな鞭を振ることに夢中です。鞭が思うようにならない人もいます。鞭が鳴いてくれないのは、人と鞭との関係が悪いのです。人と鞭との「つたはり・つながり・とほり・ながれ」が悪いのです。肩、腕、手首に力が入っているとエネルギーが鞭まで伝わっていきません。見れば、胴体にも脚にも力が入っています。これでは地球に働きかけて地球から貰う反作用としてのエネルギーが、足の下から鞭へとつたわってくれないのも当然です。力を抜かなければモノと人との関係はとれないのです。モノと人とが一つのからだとなって通い合い、同じ方向性を持つのです。そうしてモノにやりたいことを託すのです。おのずから生まれる[張り]を、力を入れることだと勘違いしている人もいますが、それは誤解です。人と鞭の関係は、人と人でも同じことがいえます。「ぶら下げの対話の動き」でも触れて働きかける人と、触れられて聴く人との「つたはり・つながり・とほり・ながれ」が大切です。力を抜いていなければ何も伝わってきません。対象との「張り」がなければ、関係そのものがなくなります。野口三千三は二つのことばを並列しています。「力を抜けば抜くほど力が出る」「力を抜く練習は力を入れる練習であり、力を入れる練習は力を抜く練習である。」(野口三千三)
May 19, 2006
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俳優が演出を手がけると演じて見せる、歌手が指導すると歌って聞かせる、ということはよくあることです。しかもその役・歌に感情移入されていると、他の表現を認めにくくなります。ソックリそのままに物真似を強いるという結果になるのです。それは決して良い指導者とは言えません。これは受け取る側にも言えます。真似たくなるのです。ことばで伝える、どんなことばで伝えていくか。ことばで伝えられる、ことばをどう聴き取るか。ことばをからだと一致させて、初めて観念的なからだから脱皮できます。「骨は精密・高度な巨大化学工場としての内臓である」をテーマに一つの動きを二つのイメージのことばで動いて確かめました。「からだの中から内臓としての脚が出てくる」「内臓としての骨そのものが変化して、骨格が変わっていく」関節と筋肉を使って脚の曲げ伸ばしをする従来の体操ではありません。骨が内臓になって、出てきたり、姿を変えたりするのです。Sさんは「からだが何も変わりません」と言うのです。「でも、頭では解ります」と言うのです。Sさんだけではありません、同じ訴えの人が他にもいます。野口三千三のことばも、伝え手の経験から来ることばも、ことばで伝えられるイメージは何も伝わらないのです。「からだの中に何も起こらない」と言うのです。Fさんに聞いてみました。「からだの中から内臓としての脚が出てくる時は、重さが流れる感じ、内臓としての骨そのものが変化して骨格が変わっていく時は、重さを引張って来る感じ、それぞれ重さが違います。」からだの実感があるのです。Sさんがうなり声を上げました。「うーん・・・。わたし、重さはありませんでした・・・。」重さがなければからだが無いのです。からだから離れているのです。頭でことばを理解することだけをしているのです。「最も重要な働きをもつイメージは観念的なものではなく、からだの実感によるものであるから、前もって綿密につくリ上げておいて、その後で動くということではなく、何回も動くことの中で、累次創造されていくより他はない、というところに難しさがある」(野口三千三)
May 18, 2006
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ワークショップの感想が寄せられ続けています。ワークショップの後もからだに残っている感覚を大切にされている様子が、どなたの感想からも伝わってきます。当日、何人もの方から質問を受けました。「ビデオを持っているのですが、家でどれを練習をしたらいいのでしょうか?」と。「やり方にもよりますが、いわゆる練習はしなくてもいいのでは・・・」とお答えしました。「やるなら今日やったような気持ちのいい方へ流れておいでになっては」とも。殊にビデオを見て真似てやるやり方は、形を真似ることだけに終始しがちです。自分で動く時も他人からどう見えるか、外から見た自分の姿に引きずられて行きがちです。他の人の動きを見る時もやはり眼に映るものを見てしまいます。「動きとはからだの中身の変化としての創造である」(野口三千三)からだの認識、からだの動きの認識が新しい方向に向かって動き出すまではお手伝いさせていただきたいと願っています。「力を抜く、力を入れる」という重要な問題もその中で解決されていくことでしょう。「先日のワークショップに楽しく参加させていただきました。終始和やかな雰囲気の中でリラックスした気持ちで取り組むことができました。ありがとうございました。どのようにでも力むことなく姿を変えることの出来る水袋になったつもりで、動きを味わおうとするもののイメージはできても、からだが言うことを聞いてくれないという状況を思い知らされました。これまで様々なスポーツを行ってきました。多くのスポーツ動作には、力を抜く事と共に「力を入れる」という局面が存在します。おそらく野口体操には力を入れるという概念は存在しないのではないかと思いますが、力を使わずに自然に動きを作り出すということの難しさをあらためて実感しました。イメージと実際の身体が重なってくるように、もう少し実技をとおして体験したいと思っています。ビデオなども見させていただき、自分でもやってみるつもりですが、機会があればまたワークショップに参加させていただきたいと思います。ありがとうございました。」
May 17, 2006
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「骨をからだの支持・保護・運動器としてだけ考えることは誤りである。生きている精密・高度な巨大科学工場としての内臓である、ということを忘れてはならない」(野口三千三)骨を内臓として感じる・・・これこそ新しい発想です。いや、感じる、とか、発想、とかいうことではやはり距離があります。現実として、事実として捉えた上で、「忘れてはならない」と言っているのです。これこそ、生命の起源・コアセルベートまで立ち返らなければなりません。「わたしのからだは生きた水袋」(野口三千三)です。からだまるごと全部で感じ、考え、そして行動する生き物。機能もその位置も決まってしまう以前の状態。だから、どこでも足の裏になったり、腕になったり、まるごと脳になったり・・・。そんな「原初生命体」から骨ができ、骨格になり、立ち上がって歩き出したのです。「原初生命体」感覚が、現代の、今生きて動いているこのからだを素直に、「わたしのからだは生きている精密・高度な巨大科学工場としての内臓である。」まで誘ってくれました。からだの中に上から下へ、下から上へと「重さ」を通して見ました。「なみの動き」です。からだの中心軸から一回り、前正面から、ななめから、横から、後ななめから、後ろ正面から・・・。今までで感じたことの無い、初めての感覚でした。骨格を忘れていました。作為はまったく持つ必要がありませんでした。意識を働かせることもありませんでした。ゆったりと重さの流れに身を委ねているだけでした。他の人の動きも見せてもらいました。やっぱり、今までと違う。「原初生命体の発想」を共有しているから共に変わっていけるのでした。
May 16, 2006
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「対話の動き」は、相手のからだに手で語りかける動きです。相手に伝えたいことが伝わらないのです。曖昧なことば、舌っ足らずなことば、遠慮がちに見えて強すぎることば、優しそうで乱暴なことば、結局何を伝えたいのか分からないのです。「怖いのです・・・。」涙が溢れ出てきます。堪えてもこらえても、涙が滲んできます。そんなに泣けてくるのは何故なのでしょうか・・・。聴く側となって組んでいたパートナーが助け舟を出しました。「人にさわるのは誰だって好きじゃあないよなあ。」「さわるのではありません。」と伝え手であるわたし。「いいじゃないですか、さわるで。さわっているのですから。」もう十年以上野口体操をやってきた熱心なメンバーです。人間関係の仕事をやっておいでです。こんな初歩的なことが伝わっていなかったのかと、考えさせられました。さわるのではありません、そんなことをされたら気持ち悪いだけです。独り言をつぶやいているのでもありません、独り言なら相手は要りません。相手に働き掛けるのです。行動を起こすのです。解ってもらいたい、伝えたい、変えようとしているのです。すべて相手に変わってもらいたいとして起こす行動なのです。その決意もなく、曖昧に、舌っ足らずに、遠慮がちに、優しそうにしているから、だから怖いのです。「人に触れるのが怖い」などという一般的なことではありません。伝えたいことは何か、どんなことばで伝えれば伝わるのか、それが確かになれば、手で働きかけることばも、その強弱も、リズムも自ずと決まってきます。具体的で実感を伴う行動でなければ何も伝わらない、つまり相手は変わってくれないのです。あとは、自然の法則と一致したからだの動きの法則をただただ素直に身につければ、無闇に怖がることはありません。ここで、すべて、何もかも出し切って世界に向かっていってくれることを願ってやみません。「大事に触れるということは、自分の中身全体が変化し外側の壁がなくなって、中身そのものが対象の中に入り込もうとすることである。そのことによって対象の中にも新しく変化が起こり、外側の壁がなくなり、中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになるのである」(野口三千三)
May 15, 2006
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野口体操教室は野口三千三亡き後すぐ再開されました。野口三千三が主宰した唯一の教室、創立当初から続けてきた古巣、下落合の「俳・協」に戻っての再開でした。先生も承知されておいででした。野口三千三には三冊の著書があります。「原初生命体としての人間」「野口体操・からだに貞く」「野口体操・おもさに貞く」師亡き後、この三冊を順にゆっくり丁寧に読み解き、からだの動きで確かめていこう、そのことを何度でも何度でも繰り返そう、「検証と継承の授業」と名付て、そのようにしてきました。火曜日の教室はこの八年掛けて「おもさに貞く」の後半に入りました。日曜教室は遅れて再開しましたが、二年でやっと「原初生命体としての人間」の後半に入りました。今日はここからです。「丹田・子宮から新しいからだが生まれる―イメージによるからだの秩序変革」(野口三千三)何と大胆な発想でしょう。そして、何と壮大な挑戦でしょう。本当に本気で、わたし達は生命の起源・コアセルベートまで遡ってみました。胴体は生命の起源、コアセルベートです。その真ん中に丹田・子宮があります。そこから新しいからだが出てくるのです。先ず腕、次に脚・・・。今ある腕は当然当たり前にあるものとして脳の配下に置いて、道具として機能させてきました。「子供の頃から培ってきたことがこびり付いていて、イメージと言われても・・・」と言うメンバーに向けて、同じくメンバーの助産婦さんが言いました。「生まれて五ヶ月ぐらいまでの赤ちゃんは、腕だとは思っていないのよ。そこまで遡れば・・・。」わくわくするような歓びをもって、今、新しく、始めて腕が・脚が生まれてくる経験ができる、しかも、実感しながら、こんなに鮮明に、新しく生まれ出てくる経験ができるのです。「人間の動きは、もともとイメージによってしかうごくことのできないもので常識的な合理の世界における意識の指令によってうごかされるものではない」(野口三千三)があります。
May 14, 2006
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毎週土曜日は休刊日とします。
May 13, 2006
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連休明けから晴天に恵まれず、5月の爽やかな風はどこへやらです。今日はやっと青空がみえました。家中の窓を開けて風を招き入れました。澱んでいた家の中に爽やかな風が通りました。つぎつぎと通りぬける風に、生き返ります。教室に集まってきたメンバーも爽やかな表情です。「からだが風になる」今日のテーマです。「風」は直接眼で見ることは出来ません。 風を受けてそよぐ植物や鯉幟・吹流し、肌に当たる感覚などではじめて「風」の存在を認識することができます。布と三尺帯を使って、布の動きのイメージから「風」を感じ取ります。そして、からだと布の繋がりから「からだが風になる」感覚を掴みます。布は薄く軽く柔らかです。しかしこんなに軽い布でも、腕だけで動かそうとすると布は空気を受け入れてくれず、たっぷりとひるがえってくれません。布が風を受けてふんわりとひるがえるには、自分のからだの重さがエネルギーとなり、エネルギーが「風」となって、土台から末端へ「次々・順々・繋がり・伝わり・流れ」て行かなくてはなりません。その繋がり、余韻として布の見事な動きがあるのです。野口体操を始めて三年ほど経つ歌手のSさん。「今日は頭が痛くてあまり動けません」と言って少し遅れて参加されました。足の裏から腰・胴体・腕へと、からだの中に「風」を通しているうちに、少しづつからだが布となり、やがて「風」になろうとしています。次第に顔色もよくなりスッキリとしてきました。力が入っていた肩、閉じがちだった胸でした。「わあ!初めてです、こんなに気持ちよくからだの中が通り抜けたのは。あー来てよかった。」とても嬉しそうでした。Sさんのからだが納得しはじめたのでした。「どんなにささやかなことであっても、自分が新しく未知の感覚を味わったとき、うれしさが湧き上がり、嬉しくて、うれしくてたまらない・・・それを素直に喜ぶことができる。そのような能力こそ最も大切なものである。」(野口三千三)
May 12, 2006
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苦手のパソコンが、やっと少し落ち着いてやれるようになりました。勿論未だに何が何だか分からないことだらけなのです。教室のメンバーのブログに辿り着けなくて、うろうろしています。今朝もメールを出そうとして発信できず、諦め切れなくて何度もパソコンを開いています。そんな中で、練習用ソフト「特打」に挑戦したのでした。今まで用意はされていたのですが、なかなかやる気が起きなかったのです。人差し指打法で何とか間に合っていたし、それだってそれなりに上達して行ったのです。しかし、「それだってそれなりに上達して行く」のがいけないのだということは分かっていました。法則に則った基本があり、基本の上に全てはあるのです。大変でも基本をマスターするしかありません。基本の前に自己流の便利さを手に入れてしまうと、本当にレベルの高いものには行けません。自己流を手放す機会がやって来ました。手元がもたつくと、ことばが逃げて行ってしまうのです。「特打」のタイプは挑戦的で怒鳴りまくって上達させようとするものですが、「うるせえ」とか言い返しながら一番初歩を十回ほど繰り返し練習しました。たった十回ほど繰り返しただけなのに、次にキーボードに指を置いた時、指はほとんど正確にキーボードの上に置かれていました。そして落ち着きました。自己流を覚悟して手放し、基本を手に入れる決意をしたからです。基本を自分のものにした時、自己流の内容も再編されるのです。からだが変わるのです。その上での自己流は個性にも繋がります。あとは変幻自在、自分のやり方を見つけていけばいいのです。そしてすごく嬉しいおまけが付いてきたのです。指の先がとても新鮮で繊細なのです。指の感触がいつまでも残るのです。人差し指打法では感じなかったセクシーな感覚なのです。もう人差し指打法に戻ることはないでしょう。野口体操の動きも、動いている時の感覚は、気持ちが良かったりセクシーだったりします。それもただ気分だけでやっていたのでは得られる感覚ではありません。自然の法則に則ったからだの法則があります。それがからだを自由にしてくれるのです。「球・円は、存在し運動するものの基本の形となり線となる。しかし、事実としての存在する物の形は、重さや動きの関係から水平面に扁平なものや、鉛直に細長いものや、水平面進行方向に細長いものも多くなる。人間のからだはこのすべての在り方を含んだ多重構造である。(野口三千三)
May 11, 2006
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寄せていただく感想の感覚のよさに驚かされたり、励まされたりしています。そして何より嬉しいのは、その正直さです。経験されたことがそのままことばに上ってくる、安心させられます、信頼できます。経験と言語の間には沢山の難所があって、人は知らず知らず巧みに嘘をついています。実はからだの中身と動きの関係も同じなのです。こんなに素直に語れるのだから、からだの動きも素直に動けるはず、からだの動きだけダメなんてないはずです。野口体操教室 ご担当者様先日、入門編に参加をさせていただきました。当日はありがとうございました。野口体操はまったくの初めて。メルマガを読んでもまずは1回でもいいから参加してみないと感覚がつかめないなぁということで参加させていただきました。当日も今も、「分からなかった」ことには変わりありませんが、分からないことが決して苦痛ではなく、だからこそワクワクするというか。分からないって私には怖いことです。底が見えないような気がして。でも、野口体操教室の「分からない」は穏やかな「分からない」なんですね。それが不思議でした。短い間でしたが、ふっと気づいたことを書かせていただきますね。ホワイトボードが用意されていたこともあり、きっとあれこれレクチャーされてその上で体を作る(形というか)と思い込んでいたので、いきなり水袋を出された時はとてもとまどいました。理屈から入ってからカタチを作る、そんな体の使い方をしてきたので、体は水袋ですといわれて本当に困りました。にょろにょろしていても、「おかしくないかな?」「私だけ浮いていないかな」ばかり気にして薄目を開けて周りを伺ったり・・・でもなぜか途中でふと、私、「ちゃんとしてる」ためにここに来たんだっけ?ということを考えました。みんなと同じ動きをして似たような方向へ動き・・それなら(ちょっと違いますけど)スポーツジムでエアロビしても同じなわけです。それじゃつまんないなぁと思い、「考える」ことをやめてみました。体の声を聞いてからだの行きたい方向へ。水が流れる方向へ。最後のにょろにょろは、だからとても不思議な感じでした。ぶつかられても、嫌じゃない。ぶつかっても気にしすぎない。ただ、ぼんやりと流れに任せる。それがすごく気持ちよかったです。またぜひ参加させていただきたいと思っております。貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
May 10, 2006
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一体わたしたちのからだの中はどんな状態なのでしょうか?からだの弱い友人は、「私、自分のからだの中、見てみたい・・・」と何度か言いました。テレビで放映される画像などで、血管の流れや、心臓の波打つ鼓動をはじめて見た時の感動は忘れられません。自分のからだの中なのに見たことが無かったのですから。なんとも理不尽な思いでした。しかし一つだけ、直接実感できることがありました。そう、あの、「大便」です。そんな他人行儀名な呼び方では実感とは言えません。「うんこ」です。きっと、多分、からだの中はあの「うんこ」のように「つるつるぬるぬる」しているに違いない、と子供の頃から直感していました。野口三千三の興味の赴くところが、わたしの子供の頃からの関心と一致していることを知った時、しかも、大人になるまでその興味・関心を持ち続け、野口体操として結実していると知った時、野口三千三にもっとも子供に近い大人として全幅の信頼を寄せることができました。からだの中身が「つるつるぬるぬるぐにゃぐにゃ」なのに、からだの動きが「つんつんごつごつがつがつ」しているはずがない、容易に了解納得できることでした。野口三千三の「原初生命体の発想」の中に「不快現象説」があります。「体液主体説」を基盤にした野口体操ならではの発想です。「お前たち人間どもは、俺たちを下等な動物と、さげすみ差別して、理由もなしに殺そうとするが、一体お前たち人間は、自分の脳の形が、色が、動きが、どんなだか知っているのか。お前の筋肉や内臓の形や色や動きはどうなんだ・・・。俺たちと同じじゃないか。あんまり威張るな。ざまあみろ・・・」この呪いのことばを聞いたとき、今まで最下等な生きものとして、何の疑いもなく蔑視していたナメクジによって、高級な自分が突如ナメクジと同列にこき下ろされてしまった。しかも、それを否定することの出来ないもどかしさ、くやしさ。自分のからだの中がすみずみまであばき出され、それをナメクジとして現実に突きつけられたのだ。(野口三千三)
May 9, 2006
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また正直で、新鮮なワークショップの感想を寄せていただきました。初めての「野口体操経験」はお聴きする方もわくわくしてしまいます。初めてこの世に出てきた時のことを憶えていないように、初めて立った時のことを忘れてしまったように、からだはすぐにマンネリ化してしまいます。又、教育者でいらっしゃることも聞き捨てならない、というか、放っておけません。どんなに沢山の「未来」に影響を与えていることか・・・。あなたの????????に協力させてほしい。先生にこそ変わってもらいたい。わたしたちの切なる願いです。「ずいぶんゆっくりな感想になってしまってすみません。野口体操に対しては、興味100%、予備知識10%いや、ほとんど何にも知らずに行っちゃったんだなあと、少し申し訳なく思っています。中学校に勤めて丸20年。最初は演劇部でした。それもまったくの素人からの出発。そこで6年。やっとおもしろさがわかってきた矢先の転勤。「演劇部、持たせてください。」そう言ったら「ア、演劇部はやってる人いるから…。」空いていたのはダンス部だけでした。ダンス部ってな、な、何?そこから初めて、ヒップホップを習い、クラシックバレエを習い、ジャズダンスを習い、モダンダンスを習い…。今数えてみたら、2校、14年ダンスやってます。本業(?)は国語の先生です。(オマケに生活指導主任やってます。)からだっていうものにものすごく興味あるんです。でも、野口体操、まったく違いました。何が、って、何もかも。普段、ダンスの指導をしている私の口癖は「頑張りなさい」「120パーセントの力を出し続けて!」「もっと伸びる、あと10センチ背は高い、あと10センチ手は長い!」嘘じゃないんです。そういう風に生徒たちを叱咤激励しているのです。もちろん私も頑張るのが大好きで、姿勢良く、しゃっきりとてきぱきと…いや、できないこともあるのですが…。「頑張っちゃだめ。」…だめ?「無理しちゃだめ。」…なんで?「ああああ、そんなことしちゃあ、むりでしょう?」…何でいけないの?????????????????いやあああ、ほんとに未だにまったくわかりませーん。いいのかな、わかんなくても。わかんないよう。でも、ほんとに気持ちよかった。何だかぽかぽかしてさ。それでいいのかな。からだありがとうって言う気持ちになっちゃいました。初めての感覚です。その晩はぐっすり眠れました。目を開いたら朝、という感じでした。飲み会(?)に行かなかったのだけが後悔の種です。またそのうちお邪魔すると思います。その節はよろしくお願いします。また笑いを取ります!!?」ありがとうございました。
May 8, 2006
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大型連休に入って、Tさんは夫の両親を預かっていますj。Tさんの介護記録です。「姑の存在は実に様々なことを教えてくれます。姑は通信教育で美容師の資格を取得し、美容院を経営しました。教育熱心で四人の子供は全員大学を卒業させています。美容院の経営はやはり大変で、「朝起きるのが本当に辛そうだった」と夫は振り返ります。姑は三十六歳でメニエルシ病になり、発病しても休むことなく働き続け、その後遺症で耳が全く聞こえません。自分の声が聞こえないため、発声も不自由です。今に治るとの思いから病気を受容できず、手話も覚えませんでした。筆談です。追い討ちを掛けるように、六十歳で脳梗塞を発病します。右麻痺です。姑は病気には異常なまでに関心がありましたが、それは神仏へとつながり、からだの動きには全く関心がありませんでした。リハビリは私が担当しましたが、困難を極めました。リハビリは今動いているからだに向けて助言されるのですが、筆談ではからだの動きが止まってしまうからです。事実リハビリも嫌いました。加齢と共にからだは固まり、八十歳を過ぎた今、寝返りも打てません。完全介護です。しかし寝たきりではありません。ベットと椅子の生活です。姑は気持ちもあり、意思も持ち、欲求も強く持っています。その全ては、介護者の手で達成されます。見事なのは、何一つ遠慮することなく要求し続けることです。」からだに障害を抱えている人たちの「自立支援」が言われています。重度の障害を持つ人が少しづつ感情を持ち、意思を持ち、欲求してきた時、それを実現するのは介護者です。例えば、口の中の気持ち良さや、からだを動かすことの心地よさをからだが知りそれが欲しくなった時、常に介護者の手を借りなければなりません。手を借りるどころか、全てやってもらわなければならない人もいます。それも、立派な「自立」です。Tさんは長年野口体操をやっています。「勿論、発病しないようにする。でも、もし、重度の障害を持ってしまったら、私だったらどうするだろうか・・・。先生はどんな状態になっても必ず可能性は残されていると言われますが、その残されたからだの可能性のためにも、からだの動きのこともっと知っておきたい。原初生命体に遡っておきたい。リハビリだってもっと工夫されていいはずだ」Tさんの悩みはすぐに自分の問題になり、日本中の問題になることでしょう。「不快現象にひそむ『何か』の正体・・・そこから『計測不能・推測不能・予測不能』という『はかり知れない』ということが、浮かび上がってくる・・・不快現象にひそむ『何か』は、そのlまま、『関係』の変化によって、魅力現象にひそむ『何か』となる可能性をもつ、と考えるのである。ーー原初生命体の発想より」(野口三千三)
May 7, 2006
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毎週土曜日は休刊日です。
May 6, 2006
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スタッフの一人に孫を持つ者がいます。 5月5日、こどもの日です。お天気にも恵まれました。次男一家が飯能の山が一望できる造成された高台に家を建てました。次男には5歳の女の子と1歳の男の子がいます。すくすくと育ってくれますように祈りを込めて、孫たちに鯉のぼりをプレゼントしました。招かれて、夫と共に出かけました。二階のベランダに立てられた鯉のぼりは、五月の爽やかな風を受けて気持ちよさそうです。吹流しと共に親子の鯉は悠々と泳いでいました。誘われて子供達も一緒に揺らぎながら、はしゃぎ、走り出しました。楽しそうです。ほんとうに、子供は遊びの天才です。見ている者まで幸せにしてくれるのでした。それにしても、ゴールデンウイークとあって、飯能の山もその道のりも人人人、車車車・・・どこも混雑しています。「旅」や「遊」という字の字源をたどってみると、「遊」の初文は「旅」。「旅」は旗をもつ人の形。住む地を離れて他に赴くときには、人々はその氏族霊の宿る旗をおし立てて進んだ。それを遊と呼ぶのは、遊ぶものはみな神霊であるとする観念があったからである。(常用字解・白川静)よりとあります。風に吹かれて大空に吹流しを靡かせながら、悠々と練り歩いたたことでしょう。この字源をたどると、子供が遊びの天才なのも納得です。しかし、旅も遊びもこの混雑です。空間が失われれば台無しです。秩父羊山公園に芝桜を楽しみに行こうという計画も、すっかり気が失せてしまいました。息苦しくなって、思わず深呼吸をしてしまったのでした。からだの中に空間をつくりたい、そこに心地よい風を取り入れたい、と猛烈に思いました。「からだの外のもの(道具・自然現象)が生きものとなるとき、それは、からだの実感と共感できたときである。」(野口三千三)
May 5, 2006
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野口体操入門ワークショップに参加した方から、今日も感想を頂きました。スタッフだけで読むには勿体無い、皆さんにも読んでもらいたいという気持ちで御紹介します。ここでは、いくつかの大切なことを指摘されています。ほとんど直感にも近い最初の感覚は、スタートラインに立った時の今の自分そのものを現しています。ここから先、どんな変化をしていくのか、楽しみですね。「最初は”体が固い自分が許せない”、”固いところを緩ませるんだ”という気持ちでやっていましたが、高岸先生の「みなさんの体は固くないんです。固いと思い込んでいるだけ。」「体がいきたくないところにはいかなくていい。」という言葉を聞いて、すーっと楽になりました。”固い自分が許せない”という思いから”さようなら”をしたら、ゆっくりと緩んでいったように思えます。また、実際に体を動かしてみて感じたことは、野口体操の”にょろ転”というのは完全な脱力ではないこと。”立っている”状態を保ちながら、かつ”上から下へ流れるように動く”こと。完全な”緊張”でもなく、完全な”弛緩”でもないこと。”緩む”ということは、この相反する矛盾した状態の中に生じるのだろうと感じました。最後に、ワークショップの感想でも述べましたが、「私たちは原初生命体になれる」という話を聞いて、”目から鱗”の状態になりました。人類には長い進化の過程がありますが、その進化を体験できるということは、私たちが”何にでもなれる”ということ。その秘められた可能性に気づけたことが何よりも嬉しかったです。」
May 4, 2006
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参加させていただき感謝しています。高校生の時(19年前くらいです・笑)、先輩から初めて『野口体操』というものを聞きました。実はその頃 演劇部内で些細な事から仲違いが起き、うまくコミュニケーションが取れない時期がありました。そんな時に部長だった先輩が教えてくださったのが 野口体操でした。高校3年生の先輩だったので毎回部活に出てくることはありませんでしたが、「寝にょろ」という不思議な言葉と一緒に不調和を起こしていた部員が広い床に寝そべり、何とも言えない感覚と共に体をほぐしていき、そして 数ヵ月後には劇上演をできるまでになっていました。意思疎通 というと やはり頭と頭、心と心のさぐり合いみたいな所がありどんなやりとりを通してもお互い近付く事は難しかったのですが、「体をほぐしていく」「自分のからだを感じる」「体にきく」という中でお互いの距離が近くなり、同じ台本を手にしながら稽古を始める事ができました。昨晩はそれ以来の「にょろ」でした。短い時間の中で本当にたくさんのことを感じることができました。これは本やビデオだけでは味わえないものでした。「体験」するということの大切さを改めて感じました。ひとつ「これだ!」と思ったことがあります。私は6年生と3年生の子どもがいて、また、幼児~小学生相手に表現遊びのWSもしているのですが、「もう少し相手の事を感じて欲しいのにな」と思うことが多々あります。それは言葉使いだったり、行動だったりといろいろですが、自分がこうだと思っていても 相手にはそうではない、と言う事を小さい子はなかなか理解できず大人である私たちは「相手の事も考えて」と言葉で制してしまったりします。昨日の「コップの水」のお話を聞いて そういうことなんだ、とやっとわかりました。同じコップの水を飲んでも冷たい ぬるい おいしい まずい など感じ方は様々でそれはどれが正解でどれが間違っているということはない。つまり、今までの経験によって感じ方が違うんだ、ということ。小さい子どもたちは 大人に比べて経験が少ない。ましてや 今兄弟が少ない中で 親は必要以上に手をかけてしまい「経験」することを削って 「親が良いと思うもの」を与える事が多いのです。自分が今までしてきた事があたりまえで、他の人が自分と違った事やものを与えられてきた事もわからない訳で知らないがゆえに 簡単に言葉で「それおかしいよ」「それ違うよ」と出てしまうんだ、と。原初生命体を体で感じる(思い出す?)時間は自分がどれだけ目で見えること・耳で聞こえる事・手で触れるもの などに頼っていたかを気付く事ができました。みんなもとは同じ。それにたくさんの経験がくっついていく。その経験をよい意味でたくさんしていく事でさらにまわりの人を理解し、やさしくなれるのだと思いました。そして基本は自分の体にきいていくこと。自分の体が欲していることを無視して 体裁だとか頭で考えて行動していくから体に不調が起きるのも当然なんだな と思いました。逆に言えば、そういう不調のシグナルを感じた時は原初生命体に戻るのがいいのですね♪感想になっていない感想ですが、感じたことを素直に書かせて頂きました。本当にありがとうございました。---------------------------嬉しくって、そのまま全文載せさせて頂きました。励みにして、深みにはまってゆきます。
May 3, 2006
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ほんとうに楽しみにしていました。初めての野口体操入門ワークショップです。朝からの雷雨の中、二十一名の方が参加してくださいました。伝え手の側は思ってしまいます、たった一回で、しかも、二時間こっきりでは何もお伝えすることは出来ないと。しかし参加して下さった方達ははるかに優れていて、みるみるからだが変わって行くのでした。予備知識のないまっさらなからだがいいのです。このままではいられないという不全感・渇望感が後押しをしてくれます。用意したのは「水袋」です。「からだは生きた水袋」(野口三千三)この感覚を経験するためです。野口体操の、からだのイメージを決定する重要な「体液主体説」です。それは筋肉や関節、そして脳もまるごと溶け合って、まだ機能も部位も固定化される以前の、「まるごと全体」で感じ、考え、行動する生き物、「原初生命体としての人間」(野口三千三)です。失われてしまった「原初生命体」の感覚を取り戻すことから出発したいのです。「あなたは、原初生命体として生きていますか」野口三千三は生涯自分自身にも、わたしたちにも問い続けました。
May 2, 2006
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大型連休の真っ只中でも、病院の中は患者で溢れています。聞けば、それでもこの病院の精神科の患者は、大型連休には遠出する人が多いようです。それだけ家族の中で居場所があり、大切にされているということでしょう。今日は又五月になったばかりというのに、三十度を超える暑さで、頭もぼんやりしており、こんな日はからだの中を爽やかな風が通り過ぎてくれないものかと願わずにはいられません。一人ひとり違うのですが、基本的には、いつも緊張しているのです。中には幻聴や幻覚のある人もいて、いつも不安な思いで居るのです。精神の病気といえば、まず「統合失調症」を思い浮かべる人が多いのですが、「統合失調症」の発症率だけで全人口の一パーセントと言われています。「統合失調症」以外のこころの病気を加えればパーセンテージはさらに高くなります。発病の誘因となる環境的な条件が重なれば、誰でもかかりうる病気だとも考えられています。実際に、「統合失調症」を発病した患者の中には、幼児期の虐待、学童期の深刻ないじめ、思春期から青年期に掛けての深刻な挫折など悲惨な体験が重なっている人が少なくないのです。(精神看護学・宮本真紀編集代表より) 「結論を先にいうならば、『完璧という意味での健康は幻想に過ぎず、事実としては存在しない』ということである。・・・本人が『私は健康である』と思っていたとしても、必ず何らかの疾病がある。また、逆に『あなたはこのような疾病がある』と医師にいわれたとしても、生きている限り、その人の生き方によっては健康と呼ぶことも出来るのである」(野口三千三)本人の苦労を度外視していうならば、精神の病気ほど人間的な病気はありません。毎日の息苦しさも、生きづらさも世間の価値観と比較しなければ、又違って感じられるはずです。そんな応用や、腹の据わり方が出来れば、自分流の爽やかな風がからだの中を通り過ぎるかもしれない・・・。Cさんは体操の途中に睡魔が訪れました。嬉しそうに担当のスタッフに報告がありました。「良かったわねえ、みんなと居る時に眠くなるなんて。初めて緊張が取れたのね。今日の感覚忘れないでね」スタッフの励ましがCさんの力になります。
May 1, 2006
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