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野口体操教室は第五週は休みです。但し、祝祭日のある月は、祝祭日を休みとし、第五週はやります。
Oct 31, 2006
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一つの動きはさまざまな要素から成り立っています。一つの動きの中に野口三千三のからだの捉え方、からだの動きの捉え方が込められています。たとえば「うでまわし」という具体的な動きを通して、動きは地球に働きかけてその反作用で生まれるということ。からだは右半身と左半身に分かれて、足の下から手の先まで繋がっているということ。だから、腕を回すというけれど、正中面まわしと言った方が正しいということ。腕の重さを感じるということ。重さはからだの中を通って地球の中心と繋がっているということ…。そんなことを一つひとつ実感しながらやがて、「からだの動きの実感を手がかりにして、自分とは何か、人間とは何か、自然とは何か、地球とは何かを探検する営みを体操と言う」(野口三千三)に辿り着きます。その動きが出来る・出来ないに関心が行くと、それだけに振り回されてここには辿り着けません。出来たいと思うと、出来ることだけを追い求めます。腕の動きだけに眼を奪われ、外に表れている形だけが気になります。伝え手から出来なくてもいいと言われても、他にもっと大事なことがあると言われても不満げで、聴いてはいない様子です。実はただそれらしく出来ても、しかもそれがどんなに巧みに出来たとしてもほとんど意味はないといっていいのです。本当に「出来なくてもいいと」と思えたとき、初めてからだの内側に関心が向き、からだはまるごと繋がるのでしょう。だからあれこれ全部出来なくても、好きな動き一つ、本当に丁寧にくり返しやっていてもいいのです。「時間が長かろうが短かろうが、運動の種類はたった一つでもいいんです。くり返し何回も練習した動きだとしても、それはやるたびに常に新しいことを教えてくれるわけです。なぜなら、自分のからだの“まるごと全体”をつかってやるからです。 “まるごと全体”だったら、当然大自然の原理が全部含まれていることになります。それを知ることが体操なんだ、と私は思うわけです」(野口三千三)
Oct 30, 2006
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野口体操教室は、第五週は休みです。
Oct 29, 2006
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玄関の塀の上に飾っておいた寄せ植の鉢をそっくり持っていかれました。しばらくは声が出ませんでした。水と太陽と風の手入れを行き届かせ、花たちもそれに答えて咲き誇ってくれていました。この町に越してきすぐに泥棒に入られました。帰宅した時、叩き壊された進入口と、逃げ口のために開け放された戸から風が吹き付けてきて、ある異常さを感じたときは恐怖で足がすくみました。雨上がりで、家中に大きな靴跡があり、箪笥などはすべて開け放されていました。ちょうどその頃、家の裏の塀に花を飾りました。盗まれるという疑惑があって、鉢植えの一つひとつをフェンスに縛り付けました。けれどもお隣さんを見れば勿論そんな策は講じてはおらず、玄関先にいつも美しい鉢植えが置いてあります。町中の玄関先が花でいっぱいでした。どの家もそこに置いてあるだけでした。我が身を振り返って恥ずかしいと感じました。あるいはひょっとして、自分の中にこそ他人のものを羨ましく思う気持ちがあるのではないか、しかも何の苦労も無くそれを手に入れたいのではないか自問しました。そして出した結論が、「誰が持って行ってもいいじゃないか」でした。しかし人の決心というものは実にもろいものです。寄せ植えした花々や、あっちこっちに移動させて太陽の光を求めた手入れが思い起こされ、しばらくは何も手に付かないくらいでした。しかし夫は、「あの鉢植えが見事だったんだよ。素晴らしかったんだよ」と言ってくれました。最初に決めた「誰が持って行ってもいいじゃないか」という気持ちが裏(なか)から揚がってきました。新しい主に大事にしてもらうんだよ、可愛がっておもらい、本当に気に入って連れて行かれたんだからね。しかも、わたしたちは、「今、自分が向かい合っている人や物も、遠い他国に生きる人も、すべて地球の中心とつながっているのであり、お互いが地球の中心で結ばれているはずである」(野口三千三)なんだからね。
Oct 27, 2006
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患者さんが自らスタッフの卵を育てあげます。精神病院には時々研修生や実習生が参加します。それは大学院生だったり、医師だったり、他の病院がデーケアを開設するための研修生だったりします。今日は、精神保健福祉士の資格を取得するための実習生です。彼は現在、収容タイプの高齢者施設の相談員です。働きながら福祉士の資格を取得しようとこの病院に一ヶ月間の実習にきました。三十二歳です。いきなり質問されました。「からだが固いんですけどやれますか?」「体操なんてしたことないんですけど、どんなことやるんですか?」からだとからだの動きに対する世間の認識そのままの質問に彼が彼自身のからだを偏見や差別の眼で捉えていることがわかります。からだが固いってどうして分かるのか、いったい誰が決めたのか、第一そんなこと問題ではありません。そのくせ何の疑いも無く今までのやり方、頭脳で筋肉と関節を支配していこうとします。これもからだとからだの動きに対する世間の認識そのままです。勿論思うようにはなりません。彼にショックを与えたのは患者さんの動きです。仰向けになって、両足と両手を「ぶら上げ」ます。こんどは背中が足の裏です。お風呂のマークのように「ぶら上げ」た両手・両足は、湯気のように揺らめきます。そのまま背中で歩きます。ずっとそうやって生きているとしたらどうだろう、動き回りたくなるよね…。ほんとうに楽しそう…。からだだって、病気と薬でおもうようになりません。指先がほんの少し動いただけでも「バス停まで歩いたつもりです。」えもいわれぬ哀愁があります。一人ずつ喜んで見せっこをしました。笑い転げて、やんやの拍手です。「自分のからだのことも、人のからだのことも、何も知らなかったとが分かりました。」実習生は実に素直な人柄で、見る見る変わっていきました。「こころとからだは一体である。こころとからだは実際は全体であり、渾然一体の総体である」(野口三千三
Oct 26, 2006
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青春というものは何と切なく悩み深いものであるか、舞台芸術学院の学生から、先週、今日と課外に話しを聴きました。「胃に穴があきました。将来のことを考えると夜眠れません。追い詰められると過呼吸になります。」解決することの無い、抱えきれない問題でした。問題を整理しようと切り込んでいきました。「先生には自分のような人間の気持ちはわかりません。」と言われました。そうです。そのあとは黙ってただ聴いていることしかできませんでした。「叔母もだんなさんに女ができて離婚しました。お父さんも女ができて両親は別居しています。私が高校生の時、突然です。姉も義兄に女ができて別れています。そして私の彼も他の女の人のところに行ってしまいました。」と彼女は言いました。心のうちを正直に、迷っているままに話してくれました。話しを聴きながら自分にとっても決して消えることの無い遠い青春の日々がよみがえりました。「ごめんなさいね、何の力にもなれなくて…。」「いいえ。ありがとうございました。」深々と頭を下げ、暗くなった街の中に消えていきました。今まで何人の学生たちの話しを聴いてきたことでしょう。その中で卒業までこぎつけられた学生は何人もいません。けれども求められれば聴くことの繰り返しです。今も昔も変わることのない悩み、かつては絶対に無かったであろう悩み…、彼、彼女と一緒に考え、悩み、迷い、そこに寄り添って居ることしかできません。「何かある問題が取り上げられた場合、たとえその問題がどんな内容のものであったにしろ、一つの理屈でかたづけようとするのは間違いじゃなかろうか、と私は思います。そういう意味では、私の考えなんか、およそ統一的ではなく、いつも分裂しているわけです。けれども私は、そのほうが本当だと思っているんです。その時自分はどう感じたかでいいじゃないか、その時の本当の自分でありたいと思うわけです。私は二重人格どころか多重人格であることが、人間の実体であって、もしいつも同じ固定された人格があるとすれば、それこそ異常人格の人間だと思います」(野口三千三)
Oct 25, 2006
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Nさんが「一日体験」で京都から来てくださいました。でも本当はNさんは実はニューヨークに住んでおいでです。ニューヨークでは「アレクサンダーテクニック」の伝え手となり、ダンスも踊っておいでです。一時帰国で京都に帰っておいでの間の参加です。彼女は、アメリカ人をアレクサンダーテクニックの師としています。そのアレクサンダーテクニックは、大胆に言い切れば、分析的で論理的なものです。「自分のルーツをはっきりさせたくなりました。日本で生まれた野口体操が気になります。」そう言って思わす涙ぐむNさんの感覚に共感を覚えました。「いろいろやってきました。力が抜けないんです。特に脚の中に力が入っているんです。自分のからだを見つめなおしたいのです。」見つめるんじゃなくてからだの中に潜り込んでみましょうか…。クラスの授業の進行はあっても、お客様は大切な存在です。彼女のたった一回の体験どんな経験となってくれるか、やっぱり「原初生命体」の感覚をからだの動きで実感して貰いたいと思いました。「からだは生きた水袋」の感覚は、「からだはまるごと全体」の感覚です。からだの一部分だけ動かす、特殊化した眼でしか見て取れない、脳でしか考えられない、どこでも足の下にすることができない、そして、からだの中が繋がらない、これらは事実と違います。Nさんは見事にからだの中に潜り込んでゆきました。「私のための授業を組んでくださって、ありがとうございました。」と言って頂きました。とんでもありません。おかげ様で、ていねいに「原初生命体」の感覚の中にからだを置くことができました。「自分自身で納得できる行動ができたときには、この原初生命体と一体になっている、あるいは、それが基盤・母体・背景・根源になっているという実感がある」(野口三千三)
Oct 24, 2006
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若い人たちのクラスではありません。しかしこのクラスの強みは働き続けている女性たちが中心の集まりだということです。個人的な事情もあるかも知れません。けれども見ていて働くことが好きだとしか思えません。好きなこと、得意なこと、大切だと思っていることを自分の中から見つけ出し、育て上げ、ここまでは働き続けてきました。男性は七十代位の人が一人だけです。彼は創立メンバーのひとりです。「戦争の時代に失った青春を取り戻したい」あの時代、自分のからだの裏(なか)の実感なぞ問題にすることは許されませんでした。まして日本の男性として生まれ育ちました。本当の自分自身はどこにあるのか、今からだの中にどんな変化が起きているのか、「それは 楽しいばかりじゃぁありませんが、続けていきたい」けれどもなかなか飛躍できませんでした。年を重ねてきて、その分だけ垢もたまっています。そうだ、野口三千三の「原初生命体としての人間」をひも解こうという事になりました。今日、最初の「はしがき」から始めました。「しかし、私は生きるということの中で自分自身の『まるごと全体』が、オパーリンの生命の起源における『コアセルベート』の未分化・全体性のあり方そっくりそのまま、かさなりあい融合ってしまうのを実感するのである。私は、この状態を原初生命体と呼んでいる」(野口三千三)「はしがき」から最初に選び取ったことばです。野口三千三のことばがどれだけ彼女たちの中に落ちてくれるか、からだの動きと繋がってくれるか分かりません。しかしこのクラスの強みは何といっても働き続けている女性たちが中心の集まりです。社会と直接向き合ってきて、自らを客体化することもできます。率直なことばも通じます。そんな女たちと男一人のグループはなかなかな味わいを出してきました。先が楽しみなクラスです。
Oct 23, 2006
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野口三千三は処女作「原初生命体としての人間」の最後の章に、「ことばと動き」という章を設けました。(この後の「いろいろな問題」はノートの抜書きからの問題提起の章です)そこで野口は、「現在至り得た結論的なものは『からだの感覚の不毛・貧困は、からだの中身の変化の感覚についての言語化への努力の怠慢からくる、ことばの貧困にある』ということである」(野口三千三)と言い切っています。そして、「今からでもおそくはない。からだの中身の感覚を大切にして、どんなかすかなものであったとしても、どんなに難しくとも、なんとかして言語化しようとする、大胆な試みを熱意を持って執拗に努力をしなければならない。そのことによって自分自身の感覚が発達し、確かな実感による存在感と認識能力が生まれ、生きがいにつながる重要なものとなるのではなかろうか」(野口三千三)と、「からだの中身の変化の感覚についての言語化への努力」を喚起し訴えています。映画を観る、音楽を聴く、本を読む、人と合う・話す…、それらの外からの情報はすべて自分のからだの中に収められます。その時からだの中に変化が起こっています。意識としての自分が自覚していようが、いなかろうがです。その変化をことばにする努力は、その時起こったことが何であったかを認識させます。認識しなければ通り過ぎていくだけ、いわば無かったも同然なのです。出来るだけその時の変化を実感ピッタリのことばで言い表したい、だから自分のからだの中に分け入ります。他の誰のものでもない「自分自身の感覚」を、自分自身のことばで言い表すためにです。Mさんの正直な告白です。「中学の頃は話せなくなりましたピッタリのことばはなかなか見つかりません。バットの真芯にピタッっと当たるようなそんなことばです。日記も途中で止めたくなります。」それをキッカケに、「話すことはあまり得意でない」という人たちの気持ちも伝えられました。からだの動きがからだの中身の変化だと、本気に感じられるようになるまでにいくつもの関門がありました。関門ではいくつもの思い込みや、既存の概念を捨ててきました。自分自身の実感だけを頼りに、しかしそれも捨て続けてきました。自分自身の感覚が発達し、実感が変化していくからです。からだの中身の変化の感覚を言語化することが極上の楽しみになったとき、確かな実感による存在感が生まれます。
Oct 22, 2006
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今日の「ものに貞(き)く」は骸骨のキーホルダーの動きです。キーホルダーの飾りとしてぶら下がっているあの骸骨です。かつて教室の生徒が野口先生にプレゼントした「もの」です。首、腕と肘、脚と膝だけはぶらぶらするようになっているのですが、胴体のほうは一つになったまま売られています。野口三千三はそんな「もの」に手を加えて「こと」にしてしまう天才でした。手に取り骸骨の動きを楽しみ遊んでおいでの先生の姿が眼に浮かびます。そのうち、骸骨の動きの不自然さに気がつく、「なんだ、この胴体の固さは…、からだに実態と違うじゃないか」居ても立ってもいられなくなって、肋骨と腰を切り離す。わたし達の前には、「もの」としての骸骨と、手が加えられて「こと」となった骸骨が提出されます。その時の驚きは忘れません。二つの動きの違いの事実にも胸を衝かれましたが、野口三千三の洞察と、腰を胴体から切り離してしまう発想に多くを学んだのでした。先週始めて参加されたKさんにもその違いを分かって貰いたいと二つの骸骨を用意しました。Kさんはご自分でも薦骨・背骨がゆるみにくいと感じておいででした。外からもはっきり見えました。骸骨を床に寝かせて、足の方から、あるいは手の方から引きます。骨盤の傾き、末端までのつたわり…二つの骸骨の動きは全く違います。実際のからだの動きでも確かめます。「寝にょろ」です。寝ている人の重さと、働き掛ける人の重が繋がって「ゆすり・ふり・引き・ひねり・まわし」ます。Kさん、ゆすられているうちにだんだん解けてきて「わあ、気持ちいい!」と声も出ました。重さに任せる気持ちよさ、これは立っても同じです。「しゃがんで立つ動き」です。立った足の裏から、からだの中身が地球の中心に引き寄せられてしゃがんで行きます。その反作用で立ってくるときも、重さは地球の中心と繋がっています。立った動きこそ、薦骨の中身が細かく分けられていなければ重さは地球の中心と繋がってくれない、 Kさんはつくづく分かってくれたようでした。「骸骨は自然から預けられたもの『いのち・血・肉・脳・内臓』などを次々にお返しして最後に残ったもの・・それは清らかですがすがしくお洒落で神々しい。骸骨の動きは自然の原理を具体的に明確に示してくれる」(野口三千三)
Oct 20, 2006
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お隣の柿に「古代柿]と命名しました。どこにも売られていない柿です。皮の下は黄色く渋さに覆われていて、渋さの下に強烈なまでの甘い実が隠れています。黒い斑点が美味しさを象徴しています。この柿は進化していない柿に違いありません。屋根を越える大木に育ち、毎年たわわに大きな実をつけます。それを目掛けて鳥たちが集まってきます。実際あまりに高い所に実をつけているので、枝を落とすのは困難なのですが、一定の量までとると残りはそのままにしてあります。「もったいないから全部落としましょう」と言ったら、「鳥たちのために置いておくの」とお隣さんから当たり前のように言われました。実はこの一・二年はカラス以外小鳥たちはやって来なくてどうしたのかと心配しました。今年はチィーチィーさえずる声に目覚ましは入りません。ところでお隣さんはカラスにも差別無く優しい目を向けます。柿は人間の食べるものだと欲深いことを考えていたり、自分はほとんど黒い服を着ているのに、カラスが真っ黒いと言うだけで毛嫌いしたり…、そんな眼をさりげなく覚まさせてくれるのはお隣さんです。お隣さんは植木や花の手入れの先生でもあります。太陽と水と風とそして季節ごとの適切な助言もやっぱりさりげなく教えてくれます。犬に二度も噛まれて、それがトラウマとなって怖くて犬に近づけなかったのを、ミントの性格をさりげなく伝えてミントと大の仲良しになれるようにしてくれたのも、犬を飼っていない我家の前に散歩中の犬とその飼い主たちが集ようになったのもミントの飼い主であるお隣さんのおかげです。なにしろいつも、さりげないのです。一番感心しありがたかったのは、和服をほどいて洋服に仕立て直すことを教わったときです。夏の服が一年越しになろうが途中で頓挫しようが、黙って放っといてくれたことです。忘れて聞けば又さりげなく教えてもらえます。おかげで和服を洋服に仕立て直すことは、自由に楽しむことができています。このさりげなさは何処から来ているのか引っ越してきて十年経って分かることは、人に対する安定的な信頼感をお隣さん自身が持っていることです。「信とは、空間的には、間を空けることであり、時間的には、間を待つことである」(野口三千三)
Oct 19, 2006
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舞台芸術学院の二年生は、八月に「基礎発表会」を終えて、「秋のエチュード」と題された発表会に向けて準備中です。既存の戯曲から選んでもよし、自分たちで書いてもよし、沢山の戯曲を読んで、一つの作品のどこを切り取るかを決めます。短くとも作品としてまとめ上げられたものを舞台に乗せます。演出家のオーケーを貰って初めて本格的な稽古になります。そのために夏休みを返上して自主練習をやってオーケーを貰う関門に臨みます。しかし「これでは舞台に乗せられない」と落とされてしまいます。理由や問題点はきちんと言って貰えます。面白くない、劇の構造が見えない、戯曲と表現がかみ合っていない、人間が描かれていない、…あらゆることを言われ、そしてそれは今まで考えたことも無いことも多いのです。それですっかり嫌になる学生。言われたことを練り直して再挑戦しようとする学生。一人芝居ではないのでクラスの人間関係もざわざわして来ます。決まったチームを横目に焦ります。組んだ相手が悪いのだと思い、そんなふうにしか考えられない自分もサイテーと思う…、ここにきて体調が悪いと休みが目立ち始めました。出てきた学生のからだも機嫌が悪く、それを受け止めて立っているのに精一杯です。ひたすら、からだを頼りにします。「重さと思い」を地球に預け、地球と一体となり、地球から新しいエネルギーを貰います。少しずつからだの表情が変わり始めます。「透明な重さの流れ」(野口三千三)が、からだの中に流れはじめたとき、からだが初めて想像力を取り戻します。新しいイメージの中で新しい自分を発見していくことができるようになりました。授業が終わった後、教室で、廊下で、玄関で、呼び止められます。「聴いてもらいたいことがあります。」「私は必要とされているのでしょうか?」時にはこちらから声をかけることもあります。少しずつ追い詰められてどこに向かって行ったらいいのか、本気で問題にし始めているからです。
Oct 18, 2006
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十四日に水俣での発表を終えて、昨日帰ってきたばかりの伝え手のからだは疲労困憊です。「ぶら下げの動き」はこんな時にこそしたくなります。今日は徹底的に「ぶら下げ」にこだわってみました。静かで穏やかな「ぶら下げ」やさしい「ぶら下げ」荒々しい「ぶら下げ」野放図な「ぶら下げ」次々と挑発するように出されるイメージは、「自由に、さらに自由に」を求められます。それはやがて、まるごとそんな生き物になって生息している「ぶら下げ」のイメージへと繋がってゆきます。六十兆の細胞の一つひとつが変化しなければなりません。えもいわれぬ楽しい、仕合せな時間は、からだがどんな変化をしていくのでしょうか。骨格やからだの条件が消えてなくなって「原初生命体」になったとき、「重さという生き物」になったとき、自由で創造力のあるからだになります。からだの中身の中心からふつふつと動きが始まります。そこには集中と開放が同時に存在します。ほんとうの個人的なからだの動きは、社会性をもって外に開かれてゆきます。不自由にさせているのは何故か、自意識だったり、既存の概念だったり、形を追いかけたり、外側が気になったり…、そもそもからだと、からだの動きが自分自身と関係の無い人だったりもします。一つずつ捨てて楽になりたいものです。捨てながら自分だけの自由になる飛び方を探っていくのです。「野口体操は既存の固定した枠を破り捨て、自由な大地に生きることだ。それは大自然の原理という巨大な枠を発見することでもある。この枠は束縛するものではなく、存在すること、生きることを成り立たせ、真の自由とは何かを示す枠である。極めてきびしく、はげしいおきて(掟)である」(野口三千三)
Oct 17, 2006
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先週末メールが入りました。Kさんからです。「父親が危篤になりました。来週の体操は休ませてください。」 Kさんの父上には一度だけお会いしたことがあります。お父さんにマッサージを受けさせてあげたい、という娘の配慮から依頼されて、ご自宅に伺ったのでした。ほんの三時間ほどご一緒しただけでしたが、ご自分の人生を大切に歩いて来られた男っぽい匂いが伝わってきました。これからお会いできることになるのが楽しみになる素敵なお父上でした。今年九十九歳になられました。この月曜クラスはKさんの野口体操への熱意がつくらせたと言って過言ではありません。今創立メンバーは二人しかいらっしゃいません。Kさんは最近大きく体調を崩されました。薬の副作用にも苦しまれ悩まされおいでですが、残念なぐらい何の力にもなることができません。しかしKさんの仕事への情熱は衰えるどころか、むしろ強くなったとさえ感じます。何度か仕事を縮小するように勧めて、その度に失礼で余計なお節介を申し上げたと、恥ずかしい思いで謝りたくなりました。Kさんの仕事に向かう姿勢、病気に向き合う姿から希望と勇気を貰っています。Kさんの野口体操に向かう姿勢もまた同じです。実はKさんの関節の固さは、何かと話題にさせてもらっているぐらいです。にもかかわらず、野口体操の大切にしているところ、伝え手の意図するところを理解しからだに伝える力は確かです。関節の固さはいい動きとは直接には繋がらないこと、さらに、意識や脳はからだの一部だということをKさんによって証明されます。「よりよい筋肉や意識とは、それが必要な時に、その時最適なあり方で即時に出現し、必要がなくなった時には、その瞬間にもとの体液・非意識の状態に戻ってしまうことの出来るものである」(野口三千三)体調の悪い時に、お父上の最後の介護が重なって、どんなに歯がゆい思いをされているか、そして歩くのも大変なKさんのおからだが心配です。どうか本当にお大事になさって下さいますように、祈ることしか出来ません。
Oct 16, 2006
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今日の「ものに貞く(きく)」は、風船でした。ゴム風船と紙風船です。ゴム風船に空気を入れて膨らませ、片方の指で穴を塞ぎます。張り膨らんだ状態からだんだんに空気を抜いてゆきます。穴を塞いでいない指と、もう片方の掌はそっと風船に触れ、空気が少しずつ抜けだんだん柔らかく小さくなって行く感触を楽しみます。どの段階もそれぞれ気持ちよく、柔らかさも一色ではありません。「ぶら下げの動き」で確かめます。胴体が本当にぶら下がったときは、力を抜いて張りを緩めてやらなければなりません。もう一つ。ゴム風船に空気を入れて膨らませ、口を縛って空気を閉じ込めてしまいます。張り膨らんだ風船は弾力があります。両手で風船に重さをかけて手を離します。どれぐらい重さをかけるのか…、どんな重さのかけ方をするのか…、どんな手の離し方をするのか…、どのタイミングで手を離すのか…それらはそこにイメージがあれば、からだが自動的に機能し決まります。何度も繰り返してからだに覚えさせます。今度はそれを「対話の動き」でやります。風船になって聴く人も、重さをかけて遊ぶ人も、ゴム風船に触れてからだに覚えさせたことが生きます。紙風船の事情も変わりました。紙からビニールに変わったのです。だからといって丈夫になったかといえばすぐ破れます。哀しいのは、折りたたんだまま息を吹き込むと、花が開くように開いて膨らんでくれないことです。紙風船ならではの不思議、叩いているのに風船が膨らんで再生されて行く力がなくなったことです。紙風船の絶妙な空気の出し入れは、動きと呼吸の絶妙な関係に似ています。本来はその動きによって自然に繰り返される呼く息・吸う息のリズムがあります。それが又その動きを生き生きとさせてくれます。穴が空いていなければそれは成立しません。手に取り遊び、からだの動きで確かめた二時間でした。「『おもちゃ』は自分の手に持って『あそび・なぐさみ・たのしみ』の対象となる道具のことである。…おもしろい、をかしい、気持いい…幸(仕合)せ…」(野口三千三)
Oct 15, 2006
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先週とはうってかわった秋晴れの爽やかな日よりです。これも自然の摂理の中に組み込まれているのでしょうか、たとえ体調が悪くとも、からだの裏(なか)からはずみたくなる健康を感じ取ります。今日は「はずみ」をテーマとしました。「どのような姿勢や動きにおいても、からだの中身に『ゆり・ふり・はずみ』がなければならない。ここで『はずみ』と呼ぶことは作用に対する反作用だけでなくからだの中身の分子密度の変化、組織を構成する細胞の膨らみの変化、からだの中身の分子間の距離の変化、からだの中身の管の太さの変化などなど・・・」(野口三千三)「立つ」、「胴体から新しい腰・胸が…」「立ち波の動き」「ぶら下げの動き」「しゃがんで立つ」…等の動きで「ゆり・ふり・はずみ」を確かめました。野口体操には、専門家の勧めで門を叩く人が多くいらっしゃいます教えを受けている先生からの勧めが大半です。専門ジァンル以前のからだの状態が大切だからです。今日初めて参加されたKさんも、以前にこの教室に参加されていたMサンからの紹介です。Mさんはニュージーランドの方で来日中ヨガを教えながら野口体操をしていらっしゃいました。その頃の彼女の悩みは背中が解けないことでした。かつての教え子Kさんにも「是非野口体操をやりなさい。」と薦めて下さっていたのでした。Kさんは現在、舞踏をやっておいでです。「ヨガを習っていたときから先生に背中の固さを指摘され、自分でも感じていました。今舞踏をやり始めてもう我慢が出来なくなって…、野口体操に助けを求めてきました。」たしかに薦骨をはじめ背中の固さが目立ちます。肝心要の腰の中身がゆるまない、腰の中が変化しないのです。だから、重さを足の裏から地球へ働きかけられない、重さが働きかけられないから「はずみ」を貰えない、貰ってもからだ全体に伝わらないのです。腰の中身がゆるまない、変化しないからです。背中の固さは腰の固さから来ているようです。 5年10年やって来た人たちの動きを見てもらいました。それぞれ個性は異なりますが、腰の中身のゆるみ・変化は透けて見えます。それぞれの軽やかな「はずみ」が胴体に伝わっていきます。それぞれの違いは分かってもらえたようです。それで充分です。自分のからだは一回ではどうなるものではなく、これからです。「からだの動きを表現としてやってきたので、かえって素になるのは難しく、時間がかります。ほぐし続けてゆきたい。」と入会されました。
Oct 13, 2006
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ことばの力はときに予想や期待を超えています。「ことばはからだの動きでありからだはことばである」(野口三千三)だからです。ことばは「行動」します。いつも稽古場の隅でひっそりとやっているSさんが、今日は部屋の中央に出てきました。「腕立てはずみあがり」の動きが、人が変わったかのように、軽やかでつたわがいいのです。野口体操は、いつかは必ず自分のものにできることは約束されていると言っていいのですが、それにしてもからだが重くてあんなに困り果てていたのに…。Sさんの中で何が起こったのか、「掌のつきかたが変わったんです」「腕立てはずみあがり」の前、呪文のように働きかけることばがあります。しぁがんで足の裏に自分の重さをすべて乗せ切って、次の動きを待ちます。新しくからだをゆるめ足の下から重さで話しかけます。そして呪文です、「話かけたお重さが、地球の中心からエネルギーとなってからだの中に入ってきます。足の下から脚の中から膝へ、…腰を通って背中を通って肩から新しい腕が…掌がついた、掌から新しい脚が出た、トウ、イーチ、ニィ、ほわぁん」この長いことばを聴きながら動き、動きながらからだをイメージ化していきます。ことばが「行動」したのです。「トウ、イーチ、ニィ、ほわぁん」は野口先生が掛けておいでになった独自の号令です。前についていることばは、そこから出発するまでのからだの中身を考察して出てきたものです。「トウ、イーチ、ニィ、ほわぁん」にはすでにその動きに必要なからだの中身のイメージが込められているのです。「腕立てはずみあがり」はキライ、難しい、出来ない…という人は沢山います。こんなに気持ちいいのに、と一番最初に「腕立て弾み]を始める人も沢山います。やがて自然の原理が分かってくると、重くて身動きできなかったからだが軽やかに宙に舞います。それまでです、この呪文は。もうしばらくすればSさんにはこの呪文はむしろ邪魔になってくることでしょう。「足の下から新しい腕が…、掌から新しい脚が…、トウ、イーチ、ニィ、ほわぁん」と、飛び出せSさん!「正しいからだの使い方はその動きにとって最も自然で合理的・効率的であることである。このとき初めて自分の能力を発揮でき、しかも一種の快感が伴う」(野口三千三)
Oct 12, 2006
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子供たちの体力低下が言われ出してから久しくなります。ここ舞台芸術学院の学生も年々体力が落ち、この二三年は会議で問題になるぐらいです。ということは、もう二十年も前から子供たちの体力低下が問題になっていたのでしょうか。体力の無さはさまざまな問題を引き起こすと、その度に演出家はぼやきます。そしてその度に体操の担当者としてこちらを振り返ります。もっと鍛えなくてはだめだと。鍛えるって?体力をつけることだというのです。どうやって?飛ぶ・走るの基本が出来ていないというのです。狂言・日舞・バレー・殺陣等など、みんなからだの仕事です。朗読だって、歌だって同じようにからだの仕事です。そのことをやることでとうぜん体力はついていきます。いわば専門家が寄って集って体力をつけているのです。ただ体力をつけんがために体力をつけるよりは、 その目的の中で具体的な体力がつくのです。勿論演出家にもそんなことはわかっているのです。野口体操には野口体操のやるべきことがあります。時間が無くて困っているのです。それも演出家には分かっているのです。よほど若い世代でもなければ、野口体操をやっていない演劇人はいないのですから。それにしても、たしかに、体力が落ちたのは本当です。生物が持っている生きるための自然の力が落ちているのです。基本のリズム感、反射神経、作用反作用、バランス、コントロール、タイミング…などです。体力と付いて回るように言われている根気もありません。体力をつけるための飛ぶ・走るはそのための人を用意して別にやるか、学生たち自身で自主的にやらせては?ところが、自分たちだけではやらない、やっても長続きしないというのです。低い姿勢で、足の裏をつぎつぎ変えながら這うように休むことなく移動していく動きは、胴体の中から新しい腕、新しい脚が出てくるイメージです。胴体の中が解れていなければ新しい腕・脚は出てきません。そして下半身のつたわりが滑らかでなければ、足の裏をつぎつぎ変えることはできません。結構根気もいるし、条件が揃わなければなかなか苦しいのです。丹念にやりました。「腕立て弾み」は授業の最後に必ずやることにしています。胴体が解きほぐされ、下半身のつたわりが滑らかになったからだは「腕立て弾み」をダイナミックにしてくれました。分断されたからだをばらばらに訓練することがからだを鍛えることだと教えられてきた彼等が、まるごとからだが機能していくことに価値を見出していくことは、大変な価値の転換です。「体操の目的は本来自分自身の中に持っている可能性を発見し発展させ、それがいつでも、どこでも、最高度に発揮できるような状態を準備することである](野口三千三)
Oct 11, 2006
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野口三千三の処女作「原初生命体としての人間」の第一章は、「体操による人間変革」です。その冒頭で、「体操の目的」と「体操の特質」について書いています。体操の「目的・特質」を、表題をつけて明記されていることはあまりないことです。しかし何故、非常に分かりやすいことばで目的を言い切るのか、野口三千三の「体操」への思いが伝わって来て、からだの熱くなる共感を覚えます。「体操が皮相的な技術に終わったり、知識としてだけの理解に終わるものであるならば、それが人間にとってどれだけの意味をもちうるか、きわめて疑問である」(野口三千三)そうです。長い間「体操」は、身体を鍛えることを目的として軍隊やスポーツの下に置かれていました。やがて、からだを鍛えることにはうるさく反対する人でも、痩せるため、老化を防ぐため、病気予防のため…、と、体操が「~のため」にやられることには寛容です。「~のため」にやられることにおいては、剛弱こそ違えどちらも同じなのです。体操がそれ自体として存在することはありませんでした。野口三千三と「野口体操」は、殉教徒のごとく石を投げられてきたといって過言ではありません。他の何者でもない、体操そのものを唱えてそこに立ちつくしていたのです。かつて、わたし達が最初に手渡されたわら半紙の薄いパンフレットは手作りのものでした。 そこで初めて眼に飛び込んできたことばが、処女作「原初生命体としての人間」の体操の定義にも一番最初に書かれています。「体操とは自分自身のからだの動きの実感を手がかりにして、人間とは何かを探検するいとなみである」(野口三千三)このことばはやがて野口体操を言い表すのに最適のことばとして育て上げられてゆきます。野口三千三の考察の深まりと共に、「人間とは何か…」の後につづくことばが加えられていったのです。体操がそれ自体として存在することが出来た時、はじめて 自由な応用が可能になります。 目的は個人に任せられ、その時その時で目的が違ってくることはあるからです。「今日は誡められる思いだった、からだに染み込みました。」終わった後そう言って、「すぐ忘れるから…」と笑いながらも真剣に言ってきたのはスタッフの一人です。伝え手の役割をしているとさまざまな流れに持って行かれそうになります。本質的で基本的なところに立ちつくしていられなくなりそうになります。先ずはスタッフのためにこそ、もう一度ひも解き直さなければならなかったのでした。
Oct 10, 2006
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「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」(野口三千三)このことば、あなたにどう落ちているのか…。問うてみたくなりました。勿論自分自身にも、そして教室に参加している一人ひとりにも。立ってからだの動きを始めたとたん、「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」からだではなくなってしまうのです。既存のからだ、からだを固めたまま関節と筋肉とで意識で命令して動くのです。長い間の野口体操をやりつづけていても、です。意識で命令すれば、からだは固くなります。からだが持っている自然の原理よりは、意識が支配してゴリ押しするからです。関節と筋肉は意識の支配下に置かれます。関節も筋肉も放っておいても働いてくれる頼もしくて信じることができる存在なのです。信じていないのはあなたであって、関節でも筋肉でもありません。もう一度、いや何度でも自然のからだを信じなおしてほしいと祈ります。立っているからだの基本は、右半身左半身の二本の管です。地球の中心と重さで繋がった管です。右半身だけでも左半身だけでも充分に仕事は出来ます。二本の管は寄り添い、交換することで、より複雑で繊細な動きが可能になります。いずれにしても土台から末端に抜ける管です。「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」のです。動きも、地球上に存在するすべては土台から末端への動きが基本です。土台から末端への、「から」は「空いている管」でなくてはなりません。それが滑らかな動きを生み出しているのです。「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」のです。「地球上存在するすべてのものは、そのもの自体の重さで地球と繋がることによるしか在りようが無い。特に立って移動することを特徴とする人間には…」(野口三千三)この驚くほど当たり前の真実を、野口三千三は真正面からからだの動きの原理を示すことばにしました。そしてこのことばを、野口三千三はこう言うしか言い表せない独自のことばで言い表しました。「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」と。野口三千三のどの理論、からだの動きをもってきても、「わたしのからだは地球の中心からぶら上がっている」に置き換えることができます。
Oct 8, 2006
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東京では今年一番の雨だと言います。発達した低気圧と台風が重なり、今日は早朝からの風雨が猛烈に吹き荒れました。明朝まで夜中いっぱいこの雨風は続くと報じています。自然の理と理解していても、気象現象のほとんどは不思議な感じでいっぱいです。稽古場への行き帰り、吹き飛ばされないようにと傘にしがみついていたので、からだが固まってしまいました。めずらしく肩のこりさえ感じました。それでも雨の中をなんとか稽古場に来ることができた人たちも、へとへとでした。立っているだけでも肩のこりが起きるのです。こんな風雨の中、傘をさして来たのですから…。こんなからだの時は、地に落ち着き、安心して地球に身をゆだねたいと、「這う動き」を主としました。「背這い・腹這い・側這い」「尻あるき・しゃがみ歩き」雑誌「風の旅人」(ユーラシア旅行社)の世界を旅して撮った様々な珍しい虫や魚や動物たちの写真がイメージの手助けになります。日常では出会えない生きものの世界は、「原初生命体」まで遡るイメージと重なります。自由に這い歩いてみました。地に落ち着き、安心して地球に身をゆだねたい、床に重さをじゅんじゅんにゆだねて行きたい、そう願って這い歩くうち、思わぬからだの変化がありました。地球に指圧されるように感じました。地球にマッサージされているのです。いつのまにか固まったからだは解ぐされているのでした。「『はひ(這・延)』というコトバと動き。柔らかくやや重い流動的な無数の微細なものの集まりが地面などに触れながら、舐めるように、しゃぶるように測り知れないエネルギーを秘めて伸び拡がっていく動きである。」(野口三千三)
Oct 6, 2006
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「又、又、残念なのですが、八日の体操、休ませていただきます。友人の散骨の日なのです。土・日と『羊蹄山』の嶺の山小屋に行き久しぶり満天の星をみました。ダイヤモンドがバラバラと降ってきそうでした。そこで、“ぶら下がり”を一回たっぷりとしました。」こんな絵ハガキを頂きました。東京芸術座の女優・岡田 恵さんからです。岡田さんはお休みの時は必ず知らせて下さいます。存在感と華のある、さすが女優さんで、おいでになると岡田 恵さんならでは華やぎがあります。「逆立ち」は不得意で彼女にはちょっとコワイのに、辛抱強くけっして諦めません。伝え手からのイメージをからだじゅうで受け止めていくことも子供のように素直です。そうやって真っ逆さまになれた時の喜びようったらありません。「なみの動き」は捉えるまでの関所が誰にもあります。いつまでもその先に関所があって、新しい発見の宝庫です。形だけをなぞったものではない、ほんとうにからだの中身の「伝わり・ながれ」が外にあらわれているだけの動きなるには、からだと、からだの動きの認識を変えなくてはなりません。岡田さんにとっても「なみの動き」はなかなか難しかったのです。降りて行く時は勿論、立って来る時も重さは下へ、の感覚がつかめず苦労されました。でもどんなに上手くいかなくとも、いつも楽しそうでした。からだの実感で習得して行くことの楽しみを見せてくださいました。やがて突然のように「重さ」が地球と繋がりました。働きかけた重さは、その反作用で自分でかえってくることができると実感とともに認識されたのでした。できないことをこんなに楽しむ人はいません。だから、できた時の確かさが教室の人たちにも分け与えられるのです。満天の星の下、そこで、“ぶら下がり”を、一回だけ、たっぷりとやっておいでの岡田さんを思います。先に逝ってしまわれた親友と繋がってお出でだと…。「上手くいかないのを大切にする。上手くいったときが鮮やかに浮かび上がる](野口三千三)
Oct 5, 2006
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舞台芸術学院の二期が始まります。二年生は一期の終わりに、いわゆる期末テストに当たるものがあります。ここは演劇学校ですから、公演です。いつも八月に行われるので学生たちは「8公」と呼んでいます。「8公」は基礎科目最後の発表です。この後、もう一度公演があり、そして卒業公演体制に入ります。一回ごとの公演から何を経験し、捉え、学んでいくかはこの学校にいたことの証でもあります。そのために公演後、合評会と言われている話し合いが行われます。その合評会も試行錯誤が繰り返され、一つの形式に決められないまま今に至っています。いろいろの事情があって合評会をやらないまま、今期はいきなり夏休みに入りました。二ヶ月近く経ちましたが、野口体操としてはやるしかありません。何故なら野口体操はすべての公演に舞台に立つ形では参加していないからです。野口体操は舞台でやられているすべての基礎だからです。問題の中心は、本来作品の内容に関わるのが当たり前なのですが、クラスの公演体制への取り組み方が一番の問題になりました。もう次の「秋のエチュード]と名付けられた公演体制に入っています。「8公」から「秋のエチュード]までのずるずる感はまぬがれない…、こんなことで、卒業公演をむかえることができるのか…、このまま卒業して行っていいのだろうか…、という不安です。一年生は来春初めて「第一回 基礎発表会」が行われます。先輩たちの舞台はやがて通過する道として、叩き台とも言えます。だから先輩たちの舞台をどう観たかは一年生にとっても重要です。しかしここでも毎日の授業態度が問題になりました。今まで抱えていたクラスの仲間たちへの疑問、不満、要求は、一年生はストレートに、二年生はあきらめムードに、出してきます。地図が変わっていました。今までナナメにしか見ていなかった学生が、くたびれて諦め始めた学生を説得しています。感情を泣くことでしか表せなかった学生が、自分の頭や頬を叩きながら意見を言い切りました。発破をかけるだけでかえって仲間が引き気味だった学生が、繊細な立場になりました。彼等の幼さも気になリ,歯痒くも感じますが、クラスが新しく動き出しました。この変貌は、経験を積み重ね、「8公」を乗り切ったからです。変化の可能性はからだがすでに持っているのです。人は変化していく、生長していくのです。「体操の目的は本来自分自身の中にもっている可能性を発見し発展させ、それがいつでも、どこでも、最高度に発揮できるような状態を準備することである](野口三千三)
Oct 4, 2006
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いつまでも若々しくありたいと願う人はたくさんいます。いや年相応が美しい、と言う人もいます。けれども実年齢よりも老け込んでいる方が嬉しいといったことばは聞いた覚えがありません。年相応・実年齢派でも、その中にも若々しさは大切にしておいでのようです。それでは何を指して若々しいと言うのか…、今日の伝え手は「若い」ということをまず字の力を借りて探ってみました。和語でみてみると、わかし[若]は、1. 弱の字音2. ヤワラカの略、行末ワカラヌの下略、3. ワツカ(僅)の中略、4. ワは輪で形を定めた状態を表し、カは日を表す。日が出て漸く形を定めること。5.動詞のワク(分)の派生形。同根語に稚・愚(を貸し)・長無し(おさなし)など・・・。漢語でみてみると、[若]は、巫女が髪をなびかせ、両手をあげて舞いながら神に祈り神託を求めている形。後に口を加え、祝辞を唱え祈ることを示す。祈る巫女に神が乗り移って「うっとり」している姿。野口三千三のことばは野口体操教室の九月二十七日のブログ、「自分の存在がまるごと繋がった安心感」からもって来ました。「からだの動きにおける『若々しさ』の条件は右半身と左半身があっさり、はっきり分かれていること…同時に滑らかに細やかに触れ合い繋がりあっている…この二つのことが矛盾なく満たされていることである。別の言い方をすれば、土台から末端へのエネルギーのつながり、つたはり、つぎつぎじゅんじゅん、とほり、まわりが滑らかであること」(野口三千三)これだけ集め揃えて話し合われると、一人ひとりのからだの中に自ずから「若い」というイメージが沸き起ってきます。「丹田・子宮から新しい腕が生まれる動き」で自分の中の若さと出会っていったとき、このところ体調の悪かったからだが独自の動きを生み出してくれました。それはテンポ・スピードのあるいわゆる若々しいリズムではない、しかしからだを気遣ってゆっくり、丁寧にやられたのとはちがう「若い」感覚でした。たとえ体調の悪いからだであったとしても、自分のからだを好きになることが新しい動きの可能性をみつけだしてきます。それは自分自身を受容していく過程でもあります。
Oct 3, 2006
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教室にはさまざまな方たちがおいでです。ご高齢の方、もう定年退職された方、専業主婦…、いつまでもからだの動きから新しい発見をしたい、変わり続けていきたいという思いに定年はありません。仕事をされ、活躍されておいでの方たちもいらっしゃいます。どんな仕事もその人のからだから発せられ、否応無くその人自身を表現します。自分のからだを知っておきたいは、自分を知っておきたいであり、それはさらに積極的に自分のからだを知りたい、自分を知りたいになり、深まり発展します。それを抜きにして仕事は出来ないと、野口体操を求めてお出でになったのです。秋は芸術・表現の季節です。今回は教室においでの三人の仕事をご紹介します。吉田美保子さんは和布を織っておいでです。教室で一度作品をみせていただきました。いつも持っておいでの風呂敷と共にしっとりとして素晴らしいものでした。こんど展示会に出品されます。10月6日~10月9日於 ギャラリー陶花(練馬区豊玉上1-19-14) 03-3992-1197 西武池袋線・江古田駅南出口。地下鉄大江戸線・新江古田駅A2出口。) 分かりづらいらしく、ネット検索をすすめられました。黒田耕平さんが、荻野目洋子・ダンカンと舞台に立ちます。10月24日~11月5日於 シアター1010(北千住駅西口マルイ11階)チケットぴあ・楽天チケット・足立区民割引あり「幻灯記 kukAI 」(作/演出 加藤 直)生身の俳優と結城座の糸あやつり人形が出くわす。音楽と言葉が、ソングと声明が、空海の様々な断片の中で邂逅する。(制作ノートから)田辺知美さんはお産婆さんです。なんと舞踏も彼女のもう一つの大切な仕事です。大学時代から、一人でいろいろな企画に参加して来ました。今度も一人、作・演出・ 舞踏 田辺知美でやります。11月11日 7時から1回のみ於 テルプシコール(中野駅南出口)03-3383-3719インフォメーション 042-361-3754「田辺知美 舞踏公演―霜月金魚鉢」「感覚とは自分の『外側にむかっているもの』という強い先入観ができている。私は感覚の本質とするものは、むしろ自分の内側に向かうもの、すなわち内界の情報を受容することにあると思う」(野口三千三)
Oct 2, 2006
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和紙と人と繋げるもの、それは「ことば」です。「ことば」が和紙と人を繋げくれて、はじめて動きが生まれるのです。さまざまな和紙が用意されました。大きいの小さいの、長い短いもさまざま、紙の質もずっしり重いのからふんわり軽いのまで、おまけに使い古されて破れた紙、ちぎれた紙まで…。手にとって、一つひとつその感触を確かめて、手から解き放ってみます。和紙にもその数だけ個性があり、存外わがままです。どうしても譲れない主張は優しく受け入れてやることです。そうすれば思ったより簡単に素直に身をゆだねてくれます。和紙をからだからどう解き放つか、そこに「ことば」が必要となります。その「ことば」によってからだが変わり、和紙とからだが繋がります。ただ和紙を放り投げていても、そしてそれがどんなに巧みであっても、それは和紙の性質や投げ方の研究以上でしかなく、せいぜい和紙を支配する満足だけに終わってしまうでしょう。からだなのか和紙なのか…その堺がなくなったとき、和紙がからだになり、からだが和紙になります。手から解き放たれた和紙は、自分のからだの化身となって舞い降りてきます。そうなれば逆に、からだの中に気があふれ和紙の化身となることもできます。からだが和紙となって舞うことも可能です。重さはしっかりと足から地球へと流してやれば、からだの力は不思議なほど抜けます。あるいはひょっとして、和紙よりも柔らかくて軽いからだになることもできます。からだが気体になってくれたのです。気体となったからだは、いつまでも舞い続けています。「『唯気論』とか『体気主体説』を日常用語でいうならば『本気でその気になる』それはイメージということばに託した中身でもあり、それが自然の原理にあっているときは、気持ちがいいという快感によって証明される。但し、快感は関係条件によって変容して現われることが多いので繰り返し確かめることが大切である」(野口三千三)
Oct 1, 2006
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