全22件 (22件中 1-22件目)
1
野口体操をやりながらいつも涙ぐんでいることの多いIさんが、青春18切符の旅から帰ってきました。彼女は人間関係を気にしすぎることが自分の問題である、と悩んでいました。他者とちょうどいい関係が持てませんでした。からだの動きも、二人以上で組んでやる「対話の動き」が不得意で、相手を気にするあまり、却って繊細で優しい気持ちを表すことができません。遠慮し過ぎて伝わらなかったり、それではと強くなり過ぎたりで、気持ちの良い関係が持てないのです。「対話の動き」で組んだ仲間が、「他者と関係を持てば否応なく相手を傷つけることを、彼女は覚悟できない。」と話してくれたことがあります。いつかその時が来て、彼女に力がついたらそのことを話し合いたいと期待しています。経営者が代わったことを機に仕事を一旦止めました。そして、教室の誰かの助言で旅に出たのでした。佐渡に渡りました。北海道まで行きました。青春18切符は鈍行です。「いつもは新幹線や飛行機なのでこんなに時間が掛かるとは思いませんでした。日本は広かったです。予定よりずっと長い旅になりました。」アイヌのおじいさんに、日本人は何処から来たのか、を問われ、話し、自然村の造成地で、木について熱い思いを語られ、三本も植林させてもらい、「自然の中に身をおく気持ちよさを実感してきました。環境問題にも目覚めた感じです、身近なことからやって行きたいです。」か細いからだが、少し地球と繋がったように見えました。「『自分』というのは無い。と気づいた。あるのは『関係』である。野口三千三という独立したものはない。あってもそれだけではない。『関係』を全部断ち切ったら、存在はなくなる」(野口三千三)
Aug 31, 2006
コメント(2)
誰でも親のことは心配です。野口体操教室の参加者も、自分の親・つれあいの親のことを折にふれ話しをされます。親の問題が自分の人生の中の大きな位置を占める年齢に差し掛かっている人たちです。親の話は、即、年齢を重ねた方々の「老い」のことでもあります。それは又、やがて老いる自分が、「どう老いを生きるか」でもあります。Fさんの父上は九十歳でいらっしゃいます。「九年前、母が亡くなりました。母はリュウマチでしたので父が母の面倒を見て看取りました。それから父は、大分の一軒家に一人で暮らしています。ご飯だけ炊き、おかずは出来合いのものを買って食べているようです。出前弁当でも頼んだら、と助言しても聞き入れません。人への対応が煩わしいらしいのです。なんでも酢をかけて食べているのが、元気に長生きできているのかなとは思っています。父は外出や散歩、老人たちの集まりにも一切出ません。手首を振る末端運動と、上下半身を捻ってゆする金魚体操で十分だと言うのです。ともかく、人に会うのが煩わしいのです。父の趣味は、新聞や雑誌のことば使いや字の間違いを発見することです。中でも、辞書の間違いを発見し出版社に通告することが生きがいです。一日中それに没頭しています。新聞は垂れ流しのように発刊されるので切りもなく、苦労も実りが無いと感じているようです。辞書は父の指摘によって訂正され、次回はその指摘は生かされて発行されます。私と妹とは二人姉妹で、父の社会的な手続きや処理は妹がしてくれています。たまに遊びに来たり、家に来てもらって一緒に暮らすのは私の家族がすることになっています。しかしいくら頼んでも、父は来てくれません。訪ねていくこともうっとうしがる様子なのではばかられます。耳が遠くて電話にも出てくれません。父は母が亡くなってからは、「誰にも煩わされないで、自分の自由にしたい」を貫いているのです。父は、死ぬ時が来たら、庭に穴を掘って横になって死ぬから、お前たちはそれに土を被せることだけやってくれ」と言います。それは出来ないと諦めた今、「最後はお前たちの家に身を寄せるから、その時期は自分で決めさせてくれ」と言います。心配でなりません。父に自由にしてもらって、後は全部引き受ける。今のところ、そこまで達観は出来ません。」「体操の動きは『祈り』である」(野口三千三)
Aug 30, 2006
コメント(0)
精神病院のデイケアでスタッフの仕事をしているKさんから電話がありました。いくつかのクラスを経験した後、参加するクラスを決めるためです。いろいろな性質をもつクラスがあります。そのクラスの質は、そのクラスの参加者によって決定されます。その力は強く、伝え手がいくらこうしたいと思い、努力してもなかなかそうはいきません。譲れないことはギリギリ踏ん張っても、根っこにある色合いというものは簡単には消せません。それは参加者一人ひとりが生きて今在るところと大きく関係しているといえます。だから参加グループの選択は重要な視点になります。たまたま家に近いからとソコを選んだとしても、自分を含んだ参加者によってやりたいことが違ってくることもあり得る、と思った方がいいぐらいです。クラス全体で熟していくからです。野口体操教室は日曜日と火曜日の教室を本来の教室としています。それ以外の教室の成り立ちにもそれぞれ理由があるのですが、そこにどうしても参加することのできない人のために、それ以外の曜日を用意しています。本教室では、野口三千三の遺した著書・ノート・板書・モノなどが毎回提出され、それに添って検証され、からだの動きで確かめられて行きます。従って、毎回テーマは明確に存在し、収斂されて行くのです。本質的で基本的なことが大切にされます。その点、他のクラスでは一貫性に乏しく、その分融通性もあります。Kさんは「先生の考え方が好きです。」というのが野口体操をやりたい動機でした。「病院での先生は本当に優しくて癒されます」と言うのです。「私は甘えん坊で、今の精神状況状態からすると、本教室よりは、他のアットホームな教室の方が合っている。」と悩みました。「先生に押してもらって、ストレートに自分と向き合う勇気を持ちたい」とも考えるのです。Kさんはこの悩みを、すでに日曜日の体験参加の場で露にしました。その時の参加者のことばは、「本教室はアットホームだからこそ言うべきことを言って来れたんですよ。」Тさんの助言です。「アットホームな場で気の済むまで癒されてからここにきては…」と言うスタッフもいれば、「アットホームが私のイライラの種です」と言ってはばからないスタッフもいました。皆、Kさんの状態の中でどの教室を選ぶのが良いか、Kさんの力になるのかを考えています。Kさんの野口体操をやりたいという気持ちだけは確かだったからです。優しさと厳しさ、それは一人の人間の多面性ばかりではなく、一人の人間から発せられた同根のものです。優しさのない厳しさ、厳しさのない優しさはありません。「自分自身の能力(ちから)の小さいことを思い、いまここで触れることのできる「もの・こと・ことば」そのすべて助けを受けて、今ここにおける自分のよりよい在り方を、探り検す営みを体操という」(野口三千三)
Aug 29, 2006
コメント(0)
熱中症・血液の濃さからくる脳血管障害などが言われ始めてから、体操をしながら、ペットボトルの水を定期的に飲む人が増えています。今までにはなかったことです。今日は喉が渇いている、とか、水を継続して摂取すべき持病があるということでもなさそうです。そんな方は前もって断ってくださいます。「喉が渇いたときにはもう遅い」という情報と、それも一口ずつが良いという情報と、どんなに良くても、現実にそんなには先ずは飲めないのと、それで前々にちょびちょびと飲んでいると思われます。結果、途中必ず手洗いに行くため中座されます。稽古が始まる前に、「水を飲む・手洗いに行く」、人によっては顔を洗う・・・、までを含んだ準備を整え、さあ、この二時間を、この道場に、野口体操に、からだを預けます。と始める求道と、それに伴う作法はどこにいったのでしようか?健康効能体操ではないのです。そんな人たちを見ていると、水を飲むことがいつも意識下にあるようで、ほんとうには集中されていない、集中力が持続しない感と共に、いまひとつ馴染めない作法と感じてしまいます。しかし、何の断りもないからといって、「水を飲むな」とは言えるはずもなく、かと言って、水飲みの時間を決めるのはなお意に添わないので、思い切っていつもペットボトルを片手にしている人たちと話し合ってみました。Tさんの公平さには、いつも頭が下がります。彼がいることで問題が問題として机上に乗り、さまざまな角度から光を当てることができます。ペットボトルを親友のようにしていた彼にとっても嫌なことも、問題にすることができます。観念の処理ではなく、感情も実感も言語に換えて客体化・概念化できる素晴らしさです。こんなことが話し合われました。「確かに学校で、或は道場のような場では飲まなかった。時期はペットボトルが自販されるようになった頃から、当たり前のようになった。健康予防情報は勿論あるが、自分で確かめたわけではない。それより、みんながやっているから安心して、既存の上に載ってやってきた。それでも初めは、水をからだに入れると新鮮だったが、今では惰性になっている・・・。水が必要と情報を与えられ、現実に口から水を飲むことを熱心にやっていることと、「からだは生きた水袋(野口三千三)」のからだの動きの実感は、何故離れてしまっているのだろうか。」いい機会を与えてもらったと感謝されました。こちらこそ、ありがとうございました。「『うたがひ』は『打ち叩き交ひ』で、物を打つように叩くように、自分の思いを生の裸のままで相手にぶっつけて、そこに起こる新しい反応によって、本当の在り方を探し出すことをいう、などとも考えてみる」(野口三千三)
Aug 28, 2006
コメント(0)
日曜クラスでは、今日からやっとと言うべきか、いよいよと言うべきか、「ことばと動き」に入ります。野口三千三著「原初生命体としての人間 第五章」です。「原初生命体の発想」(体液主体説,大気主体説,非意識主体説,生体DNA構造・機能説,不快現象説, 人間進化第三段階説,唯情報論)で、野口体操の思想とからだの動きを、「息と生」で、呼吸とからだの動きを、「原初生命体の動き」で、「原初生命体の発想」に基づいた野口体操そのものを、学び、習ってきました。「第五章 ことばと動き」で今までやってきた全てが華開きます。ここまできて初めて、 「第一章 体操による人間変革」も実感的に分かるというものです。それにしても驚きました。「ことばはからだの動きであり、からだの動きはことばである」(野口三千三)難解と思われるこのことばを実にすんなり、「そのとおりです。」と言い切ったのはMさんです。始めた頃は、「そんなことあるわけないじゃあないか。何と怪しげな人間の集まりなんだ。」と疑っていたMさん。お金を払ったから、まあ、しばらくやってみるか、と続けただけのMさん。「からだの中は確実に流れています、変化しています。」まで着実に変化してきました。けれども今回は、少年時代の経験がこのことばと一致したと話してくださいました。中学時代ことばを発することが出来なくなってしまったMさんは「何かを選ぶということは、それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、捨ててしまものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。その姿勢があるとき、それが選ばれたことばを発するときのからだの中身のあり方を決定し、その中身のあり方によってからだの動きが生まれ、捨てられたものをもふくむよう呼吸・発声・せりふとなり、そのことばの微妙なニュアンスをふくませたものとなるのだと言えよう」(野口三千三)このことばがピッタリ今の実感と一致するというのです。時間をかけて、あらゆる可能性から検証し、からだの動きでさらに確かめることをやって来て良かった、参加者と共に歩んでいる楽しさを感じています。
Aug 27, 2006
コメント(0)
精神病院のデイケアーは、えもいわれぬ味わい深い雰囲気があります。メンバーの一人ひとりは、遠慮や配慮・気遣いを誰よりしているのですが、なかなかバランスよくもいきません。逆にそれで一人ひとりの個性が色濃く表れます。長い付き合いになると、グループのメンバーどうしは勿論のこと、毎日顔を見せないスタッフに対しても気をゆるしてくれます。それでまた一人ひとりの個性が色濃く表れます。彼らの人を見る眼は、一定の基準を持っています。世間と同じ眼で自分たちを攻撃して来ないか、気を許していいのか、受容されているのか・・・、そんな繊細で厳しい基準さえ揃えば逆に彼らの受容力には目を見張ります。人柄までひっくるめて、まるごと受容してくれるのです。遅刻をしようが、忘れようが、結構な失敗も笑って受け入れてもらえます。ただし、真っ正直な理由を告白をすれば、です。病院の患者さん同士の結婚もままあることですが、そんな二人の、 パトカーで運ばれるような夫婦喧嘩もグループのなかで事細かに話してくれました。不思議なのですが、それが却ってグループの場を解けさせます。勿論、伝え手も同じレベルまで正直にしていると直感されているからです。そこで今日は、「顔の百面相の動き」をやりました。病気と投薬で、彼らはからだ全体が無表情です。「顔の百面相の動き」を思いっきり楽しんでいるように見受けられるのに、かおの表情の変化はほとんど表には現れません。「でも、やっているのではないかと思いますよ、精一杯。」経験の長い看護士さんの助言です。伝え手のエネルギーに巻き込んでいるだけではないか、本質的な働きかけができていないのでは…、精神科医は答えます、「彼らが楽しくて幸せな時間をもつことができたら、たとえその日だけでも…」と。精神病院のデイケアーの仕事はいつも迷い悩みます。「私は、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、今ここで直接、体験するからだの中身の変化の実感によって、人間(=自分)とは何かを探検するいとなみを、体操と読んでいる」(野口三千三)
Aug 25, 2006
コメント(0)
スタッフの一人が夏風邪を引いてしまいました。「この夏の猛烈な暑さでぐっしょりと汗をかき、その後冷房の効いた電車に乗ったり降りたり、その繰り返しで、体温調節がうまくいきません。決定打は、暑さに負けて、その日だけ魔が差したようにクーラーを入れて寝てしまったこと。からだにとってはひどいいじめでした。自然の神様は、体調を崩すことで今の自分はこれでいいのかと考える機会をくれました。今までの自分を疑って見ました。「今ここで、この多くの思いの中のどれをとったらいいのか、どれがほんとうにいいのかを、自分自身の中身を空(クウ)にして、ひたすら神に貞(きく)姿勢である」(野口三千三)毎日の生活の中で、物事の計画を立ててそのことに向かいます。時間内にそのことを処理しようとする為か、一つ一つへの向かい方が大雑把でおざなりになってしまいます。乱暴になっているときもあります。早く自分の自由な時間を得ようと、先を急いでいるのですが、いざその時間に身を置いたとき、野口体操をしても、「やすらぎの動き」をやっている時でさえも、本当にそこから何かが新しく生まれてくるような時間・空間になっていないし、創れない。一事が万事、先を急ぎその場にたっぷり根を下ろして物事や人とも向き合っていない。したがって、ちゃんと事物を見ていない、聞いてない、触れていない、感じていない。何か通り一遍、しなければならないということに縛られて、間に合わせになっている。長い間野口体操を続けてきて、おかげで心身ともに健康でいられます。有難いことです。しかし、長年やることで動きや考え方がパターン化してくることは最も恐ろしいことです。自分ではそのつもりがなくても、その人の在りようはからだに正直に現れます。それを一番最初に、正確に感じ取ってくれるのが、長年共に野口体操をやってきた仲間です。それは、野口体操「自然直伝」(全三巻)のビデオ製作で獲得したゆるぎない信頼関係から生まれています。「私たちは長い時間をかけ、徹底的に話し合い、自分たちの動きを検証し直し、作品を練り上げる作業を続けた。心の深い襞にまで触れざるを得ない作業は、互いに窮地に追い込まれることにもなった。」(ビデオ製作に当たってー野口体操ホームページ収録―富永 由美)私も落ち着いて自分を振り返ってみました。少しずつでいい、具体的に、もっと丁寧に、もの、こと、ひとに向き合うことから始めなさい。そして、そこからつかんだことを、言語化して確認していきなさい誕生日を前にして、不調なからだが優しく言ってくれました。」「健康とは自分自身を素直にみつめみきわめることができること、そして自分自身を優しくみまもることができる生き方の実感をいう」(野口三千三)
Aug 24, 2006
コメント(0)
Тさんの介護記録です。Тさんはこのお盆休み間、おつれ合いと共に休みを取り、両親の介護に当たりました。「生き方は死に方」ということばがからだに入ったのは中学の頃でした。ずっとそのことばを大事にして来ました。胸の痛む、人間の宿命的な課題を話してくださいました。「日ごろ何もやっていない私たち夫婦にとって、お盆休みを介護に当てることは当然でした。レントゲンの結果、脳は最小限まで縮んでいます、と宣告された認知症の舅。三十六歳から耳が聞えず、二十年前から脳梗塞でさらに重度の姑。ケアーマネージャーから、もう在宅介護は無理ですから入院を、と勧められるほどの両親です。姑は施設からお腹を壊して帰ってきました。そればかりではないのでしょうが、見違えるほど痩せていました。日を追って機能の衰える両親をまるごと二十四時間支え続けて、食べたのか、寝たのか分からない毎日でした。朝の身支度、三度の食事、二回のおやつ、風呂、寝る準備・・・、の毎日の暮らしの維持の他に、「寝かせて」「椅子に座らせて」、「お便所」の要求が間段なくに告げられます。気持ちも欲求も激しい姑は性急で、しかしその欲求は何もかも全て、他者の手で達成するしかありません。けれども、今回さまざまな思いに駆られたのはそんなことではありませんでした。姑はほとんど一日中泣いていました。不満げでした。常に私たちを呼び、不自由なことばで訴え続けました。筆談でようやったと辿り着いたのは「どうしていいかわからないの」ということばでした。姑はその日から私たちを呼んではこのことばを訴え続けました。何を解決したいのですか?何かやっておきたいことがあるのですか?手伝いますから話して。お金のこと?娘のこと?息子のこと?お父さんのこと?私のこと?なんでしょう・・・?また何日間も時間を掛けてやっと辿り着いたのは「ただ、しんぱいなの」ということばでした。「本質的な不安だよ…」夫が呟きました。「ただ、しんぱいなの」、姑は私たちを呼んではこのことばを訴え続けました。私もそうです、みんなそうです、人間だからです、こんな慰めは姑の安心にはつながりません。やがて、世界中の不幸を書いて、お姑さんは幸せな方です、と言って姑は一とき安堵します。けれども、手を握っても、抱きしめても、姑の不安は解決できるものではありません。解決できるものではないのです。以前は「さみしい」と訴え続けていました。「ただ、しんぱいなの」、どれも痛いほど分かります。ほんとうに、私もそうなのです。しかし、そうやって訴え続け独りで立とうとしない姿は受容することはできませんでした。施設に戻った時、まあ、見違えるように穏やかな表情になられましたね、と何人にも言われました。」「私の体操は、すべてのものに大自然の神を感じて、それに貞(き)き、すべてのものを愛し恋し信じ、すべてのものを疑って乱れ、いつも新しく変わって流れていくことのようである」(野口三千三)
Aug 23, 2006
コメント(0)
野口三千三が口では冗談まじりに、実は本気で言っていたことばがあります。「野口体操に合わない人は真面目な人間。頭がいい人間。美人。と、自分で思っている人」「と、自分で思っている人」というところがミソなのです。しかし、どんなに真面目だと思っている人でも、頭がいいと思っている人でも、はたまた、自分は美人だと思い込んでいる人も、本心は、乱れることは好き、イヤ、嫌いではないと推察します。乱れることは変わることなのです野口三千三は体操の基本姿勢をこんなことばで言い表しています。「愛とは疑うこと、恋とは変わること乱れることである」(野口三千三)先週は「愛とは疑うこと、」で時間切れになりました。今日は続いて「恋とは変わること乱れることである」を学び、からだの動きで確かめました。「私が『恋とは変わること乱れることである』というのは、人間が生きる姿の象徴で、いつも何かを乞い求めて、絶えずもつれ、みだれ、渦を巻き、波うち、その都度新しい道をなんとか探し出し、大きな循環・流転・輪廻の流れに流されて行く。私には、からだの中の血液の流れも、琳派液の流れも、神経の伝わりの流れも、筋肉の緊張の伝わりの流れも、・・・すべて同じ原理のように思われるのである」(野口三千三)ここで言われている、「絶えずもつれ、みだれ、渦を巻き、波うち、その都度新しい道をなんとか探し出し、大きな循環・流転・輪廻の流れに流されて行く」を具体的にからだの動きで確かめてみるのです。大成功です。野口体操を始めて間もない人も、そのダイナミズムの中にからだを投げ出してゆきました。「今日が一番気持ち良かった…」と言ってもらいました。やっぱり、みんな乱れることが好きなんだ…、一人ひとりのからだが愛おしく感じられました。最初は動き終わった後の恥じらい、次に動いた後は虚脱感、もう一度新しい動きで満感・・・。からだは正直にその表情を変えてゆきます。解けなければ乱れることは出来ません。乱れに乱れて、解けに解けて・・・そのからだで、「脳点一点逆立ち」を最後にやりました。対極にある「動」と「静」です。しかし、二つは同じです。初めて脳点一点に乗ることができた人、今までで一番頑張らないで出来た人・・・嬉しそうです。
Aug 22, 2006
コメント(0)
スタッフもそれぞれのお盆休みを過ごしました。しかし、事実としての休みを取れたのは、孫のいる幸せ者のスタッフ一人だけでした。「一泊の旅をしました。おなじ県内でもほんの少し郊外まで脚を伸ばすと、都会を脱した気分に浸れます。目指すは日本武尊が山の神、火の神をお祀りしたという宝登山神社。しかしその道中が又楽しいのです。電車からの風景は、山々が連なり濃淡の緑が自然の絵画となって楽しませてくれます。平地にも森があります。ひょっとしたら、森のように見えるあの中に家があり、人が暮らしをしているのかもしれません。広々とした畑も都会では見ることができません。夏草までも伸び伸びとしています。それらの緑が日頃の目の疲れを優しく癒してくれます。沿線には表情の違う谷あいが沢山あり、そこには川の流れができています。窓を開けると流れの音が驚くほど大きな音で聞こえてきました。からだの中に通り道をつくってくれました。都会のなんとも嫌な汗を洗い流してくれました。宝登山神社にお参りをしてから小高い山の上にある温泉旅館に一泊しました。早朝、旅館の窓から朝靄のかかった山村風景を眺めながら、気がついたらなんと、「ぶら下げの動き」をたっぷりとしていました。「ぶら下げの動き」が、さらに地球の温暖化で汗だくになった乾き切ったからだに、潤いの道を創ります。「ぶら下げの動き」と自然・・・。何の違和感もありませんでした。地球を身近に感じました。」旅は、都会の車の騒音に麻痺している日常から、静けさと、抜け道を創り出してくれる。からだの動きも、からだの中に穴をあけ、風通しをよくする。そのきっかけは旅も、からだの動きも同じです。「自分自身のからだの裏に『大自然のエネルギーのよりよい通り道(管)』」をつくる能力を求める営みを体操という。」(野口三千三)
Aug 21, 2006
コメント(0)
野口体操教室のお盆休みは終わりました。(金曜日の教室だけが会員の総意で八月いっぱいは夏休みとしています)今日、日曜日が休み明けの最初のレッスンです。最初のレッスンは、「ものに貞く」からのスタートです。「もの」は語るべきことばを、そのからだの中に隠し持ってじっとしています。けれども触れたとたん、「もの」は饒舌に語り始めます。触れること、それは聴くことです。どう聴くかは、どう触れるか、です。まるで無口で恥ずかしがり屋の子供のこころを開くように、聴く側のイメージを必要とします。「もの」の言いたいことを自由に、十分に語ってもらうためには、その「もの」の個性・持ち味を知り尽くして、なお、本当に言いたいことはもっと他にある、わたしの知らない処にあると思い知るべきです。今日の「もの」は「トムボーイ」です。「トムボーイ」は「やんちゃ坊主」というニックネームを持っています。黙りこくっていても、いったん関係を持とうとするとどんな要求にも答えてくれます。「もっと聴いてよオ。」、「もっと遊んでよォ。ねえ、ねえ…」とせがんできます。「トムボーイ」を初めて手に取ったのは、もう三十年も前のことになります。野口先生が教室にお持ちになりました。先生は最初のその時から、こんなやんちゃな「トムボーイ」を手中に収めておいででした。左掌と右掌交互に乗せ換えて「階段下り」といったような高度な技術を要する遊びでした。「トムボーイ」も満足気におとなしくされるがままになっていました。「もの」と「人」、「もの」と「ことば」、「もの」と「ことがら」、そして、「もの」と「からだの動き」、その関係はどれも一つのものです。生き生きと「トムボーイ」に触れ、「トムボーイ」を生かし切り、「トムボーイ」と自由に遊ぶスタッフがいます。彼女の「腕立て弾みの動き」は絶賛に値します。彼女のからだは、「トムボーイ」そのものになってしまったのでした。「もの」か「人」か、「人」か「もの」か・・・、お互いの関係が「ことがら」にまで発展させていったのでいた。「『こと』とは『事・言・異・殊』であり、ものの在り方(働き・作用・所作・状態・様相・性質・関係等)を指示する語である。一言でいえば『関係及びその変化』といえよう」(野口三千三)
Aug 20, 2006
コメント(0)
「なみの動き」とは、どうゆう意味のある動きなのでしようか。「なみの動き」は、その人にとってどんな意味があるのでしょうか。「なみの動き」は自然の動きです。自然に任せること意外、何もしなくていいのです。人という種だけが持っているからだの条件、例えば人の筋肉も、関節も、「自然の神」のはたらきの中にあります。その全てを任せて、あとは、ただただ、からだの「つたわり・つながり・とほり・ながれ」を感じていればいいだけなのです。このことが、「一つの系として統一的に捉えることの大切さ](野口三千三)に繋がるのです。からだの中身が総合的に統合して捉えることができたとき、自分の外の世界も「一つの系として統一的に捉えること」ができるようになりましょう。もう一つ、おまけがあります。自然に任せ切った時の「なみの動き」は、なんとも、気持ちがいいのです。きっと、今まで感じたことのない気持ちよさです。気持ち良さは一つの目安にして間違いありませんし、気持ち良くなければ、何か違っていると断言していいのです。しかし、信頼すべき人たちも、「なみの動き」で苦労しています。いいなぁ…、と好感の持てる俳優の卵も、ああ、誠実なんだなぁ…、とからだの動きから伝わってくる人、他の動きは、気持ちよさそうにやっているとしか思えない人、そんな好もしい人たちも、伝え手、受け手ともに、「なみの動き」に苦労しています。これは何を表しているのだろう・・・、決定的な答えはありません。記憶したことは、意識が憶えています。きっと彼らは、誠実で素直に育ってきたのでしょう。からだで習ったことは実感が残ります。もう一度その素直さと誠実さで、今度は実感に任せてもらいたい。彼らは、「なみの動き」は気持ちが良くない、と感じているのですから・・・。「大自然の原理のままに動いたとき、自然としてのからだは、最高の能力を発揮するだけでなく、特有の快感を味わうことができる、そのように人間は創られているのである」(野口三千三)
Aug 13, 2006
コメント(0)
木曜日から舞台芸術学院二年生の基礎発表会が行われています。舞台を観ていて胸が痛くなります。学生たちは、一生懸命、真剣そのものです。でもどう表していいのかわからからないのです。自信がないとからだに力が入ります。声に頼ります。ほとんど内容の分からないぐらい声も嗄れきって、それでも、それだからこそ、彼らは大声を張り上げます。身振りも大げさで、それらしいフリをします。抱き締めたいほどの幼さです。ここに来るまでに出し切ってこなかったのです。子供の頃から、と言い切っていい、いつも本気ではなかったのです。本番の、観客に見守られる緊張の中で、彼らは多分、初めて、本気になります。沢山の教師たちが彼らに関わっています。教師たちは現役の表現者たちです。この緊張、つまり声が嗄れるほどのことは必要な過程だという教師もいます。ほんとうにそうか…、育て方・追い込み方が他にあるのでは…、と、悩む教師もいます。どちらもそのとおり、ジレンマで具合が悪くなりながら、答えを持てない誠実な教師もいます。自信、それは実感と同義語といってもいいのです。学生にはからだの実感がないのです。自分の生きている世界にも実感が持てないのに、舞台で展開される世界に自分の実感を重ねることはできないのです。だからその世界に生きる「役」にも実感なぞ持てないのです。からだの中身の実感だけを問題にしてきました。からだの中身の実感がことばに連れ添っていないまま、ことばだけが分離して発せられます。大声で怒鳴りまくり、大げさな身振りをすることでは、不安や自信のなさ…、空疎さからはぬけだせません。「すべてのことばは必ずからだの動きを内にふくみ、それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚を持っているのである](野口三千三)
Aug 11, 2006
コメント(0)
教室に精神病院のスタッフとして働いている人がおいでになりました。「Т先生の考え方が好きだから…」と言って頂きました。イヤ、これは野口体操です、野口三千三の哲学です、と言い返しても、彼女は、「Т先生の考え方…」を止めません。そのことばは、おまえは野口体操・野口三千三の陰に身を隠してはいないか、と自らを問い直させました。曝すは、「野口体操・野口三千三」と「私」との「関係」なのですから、その「関係」を、正直につぶさに公開するしかありません。伝え手という存在は、わたしという個人をまるごと曝して立っている、隠していれば隠していると、誤魔化していれば誤魔化していると、甘く見ていれば甘く見ていると・・・、とどのつまりは、何もかも見て取られているのです。個人的な理由もキッカケとなっているのでしょうが、ともあれ彼女は、「野口体操」を続けたいと思い、そう決断して訪ねてきてくれました。彼女の参加を記念して、念願の動きをやりました。病院のデイケアではどうしても取り組み切れない動き、何度も働きかけ、そうしては「ここまでにしましょう」と、引いてきた動き、「なみの動き」をやりました。「なみの動き」に苦労しました。「なみの動き」こそ、デイケアに通ってきているメンバーに伝えたい動きです。「なみの動き」は、彼らの現実と程遠いのです。世界を「まるごと全体」、統合して捉えることが不得意な彼らにはこのからだ全部が同時に反応して、関連を持ちながら変化していく動きは、最も困難なのです。しかし、彼女にとっても「なみの動き」は苦労でした。よかった、と思いました。自分にも患者さんと同じ、つたわりの悪さ、つながりの無さ、ながれが詰まった感覚・・・、があるということが。実は彼女だけではありません。「なみの動き」で苦労している人は沢山います。そしてそのほとんどは、背中が固いと決め込んでいます。からだ全部が同時に反応して、関連を持ちながら変化していくことが困難だということに於いて、同じなのです。そして自分がそうしていることにまだ気が付いていません。「一つの系として統一的に捉えることの大切さ」(野口三千三)
Aug 10, 2006
コメント(0)
一時、「夢日記」をつけていたことがあります。朝起きたらすぐつけるのです。初めはなかなか思い出すことは出来なくとも、そのうち不思議なぐらい鮮やかに出てきます。こんなに夢を見ていたのかと驚かされます。夢の内容に悩んだり考え込んだりすることもあり、やがて、記憶しなくてはと思うあまり夢の最中に意識が働くようになりました。夢に支配されているのです。止めました。 今朝、目が覚めたら頭痛がしました。夜中に、何か寝言を言ってうなされていたと、夫が心配をしてくれました。自分では覚えていません。昨夜寝る前にいつもより少しワインを飲みすぎたせいかもしれません。アルコールは、風呂上りのビール、あるいは食事をより美味しくより楽しむには素敵です。又「酒は百薬の長」ともいいます。百歳を超える長寿の方々が、毎日お酒を召し上がる習慣をお持ちと耳にします。ただし、飲み過ぎは決してなさいません。ほどよい加減がいいのです。二日酔いでは、あの時の楽しさも気持ち良さも、台無しになってしまうのですから…。朝の目覚めは、その日の空気を新鮮に感じるところから始めたい。こんな時は頭痛の中に潜り込んで行かないで、自然の力をもらうことです。 おもむろに起き出して、いつもよりゆっくり・ゆったりとからだの動きをやります。体調の悪い時ほど、からだは動きに注文をつけてきます。もっとゆっくり、次はここ、アッ、そんなことしないで…。最後に、「胎児の動き」が、頭痛解決の決定版です。一回目はもっと頭痛がするように感ずるのですが、ここで止めないで続けます。三回やり終わる頃には酸欠だった頭に気が通りました。そして、庭の手入れをしました。思いもしなかったのですが、大好きなみょうがが二つ顔を出していました。冷奴のつまにしましょう。虫に刺されながら、掃き清め、水をまき、顔を洗っていないことに初めて気がつきました。脳天逆立ちをしました。自然のからだの動きと、庭の手入れと・・・、 頭痛はいつの間にか抜けてきていました。「自然は何かの原因で今、不安定な状態にあるものに対しては、次の安定状態に移るためのエネルギー与えているといってもよい。」(野口三千三)
Aug 9, 2006
コメント(0)
台風七号がのろのろと停滞する中、教室の後、野口先生のお墓参りに行ってきました。14日(月)~19日(土)、すべての教室をお盆休みとするため、少し早目のお墓参りです。墓前で、いつものように、先生に野口体操を捧げました。「腰まわし」「胸回し」「腕回し」「しゃがんで立つ」「立ったままの波の動き」、「前波」、「後ろ波」「ぶら下げの動き」「逆立ち」そして、「丹田・子宮から新しくお尻が『もね』が・・・」の動きです。先生。自慢したくなりました。みんないい動きになったでしょ。先生が逝かれてから八年かかりました。「野口体操・おもさに貞く」がそろそろ終わろうとしています。これで先生の著書三冊、やり終わることになります。この後又、この、「原初生命体としての人間」「野口体操・からだに貞く」「野口体操・おもさに貞く」の三冊を、一からやり直します。何度でもやり直したいのですが、このスピードではそう何度も出来ません。まだやることが沢山残っているのです。新しい発見もあります。今日、先生のことばの板書は、[真実なるものは何か、ほんとうの在り方・生き方は何かと何回も何回も、繰り返し繰り返し立ち止まって確かめ、それを求め続ける人間の行為を『愛』といい『疑』という。それは『貞』といっても『操』といっても『信』といっても良いであろう](野口三千三)としました。又参ります。
Aug 8, 2006
コメント(0)
「野口体操の皆様へ拝啓先日は野口体操を体験させていただきありがとうございました。自由に何でも言える雰囲気・自由に動ける空間に、まず、びっくりしました。実際に動いてみたら気持ちが良く、とくに逆立ちの快さはたとえようがありませんでした。動きを助けていただいた方(お名前を覚えずすみません)はじめ、皆様のつくりだす“気”のようなもので気持ちよく動かせていただきました。家に帰り一人で動いてみたらぎこちなくなっていました。初体験できた8月1日は私にとって記念すべき日となりました。また次の機会にどうぞ参加させてください。よろしくおねがいします。」遠く福島県合図若松から「一回体験学習」として参加してくださった方が、その時の感想を寄せてくださいました。どんな後味だったろうかと気にしていました。とくに「一回体験学習」の方には気を使います。野口体操の必要にして十分なことを、一回で伝えることは、大変難しいことです。からだの動きは実感と共にあります。けれども、頭脳で分かろうとする人が多く、そんな人ほど誤解のまま帰って行かれます。「自由に何でも言える雰囲気・自由に動ける空間に、まず、びっくりしました。」の感想は何より嬉しいことばです。スタッフ間の意見の違いをできる限り公開することも大切な授業の一つです。意見を出し合い、練られ、深め・・・という作業は体操の一つでもあります。その日。伝えてのテーマとして提出された「真っ暗闇の中で食べる実験」をどう評価し位置付けるか、スタッフ間で率直に意見が戦わされました。そのことを、初めて参加された人がそのまま素直に率直に聴き取ってもらえたのでした。「よくよく考えてみると『いいとか悪いとか言えないのではないか』という世界がある。人間の認識・思考判断の能力に限界があるということだ。この世界では憎むだとか恨むとか蔑むとか・・・の気持ちは起きてこない」(野口三千三)
Aug 7, 2006
コメント(0)
日曜クラスは、野口三千三の処女作「原初生命体としての人間」をひも解いています。二年近くかけて、ようやっと、「原初生命体の発想」を終え、その発想に基ずいた「原初生命体の動き」に入っています。新しく体験したいという方が参加されました。そんな時は、「にょろ転」や「寝にょろ」を楽しんでいただくのですが、この所それが続いたので、学習の流れに沿って、「尻歩き―機械の動きと生きものの動き」「脚の裏筋伸ばし―大事にやることの大事さ」に入りました。そこに野口三千三のこんなことばがあり、板書されました。「この本に挙げてあるすべての運動を通じて、動きの過程のどの瞬間においても、どんな姿勢になったときでも、からだのどの部分でも、ゆすろうと思えばゆすることができなければならない。そしてそのゆすり方は、左半身と右半身の『左右対称的な部分の、同じ時、同じ量、同じ質』のゆすりでないことを原則にする、ということになる」(野口三千三)「今日来て、一番得をしたことは、このコトバに出逢えたことです。」いつも正直で、実感をことばにしてくれるMさんが切り出しました。「今まで誰も、そんなこと言ってくれた人はいません。だって、いつもじっとしていろと…。一生懸命、じっとしていましたよ。僕はじっとしているのが得意になったんです。…でも、ゆすっていいんですね。」「そんな、ゆすってなんかいたら、多動児というレッテルを貼られてしまいますよ」若いM君のことばは笑い事ではありません。Mさんのことばを受け止めてくれたのは、一番年長のTさんでした。「××分間じっとしていろ、なんて言われて、ちょっとでも動こうものなら、往復ビンタですよ…」Mさんはあと半年戦争が続いていたら召集されたのでした。こんな体操が在るなんて…、その体操を自分がやっているなんて…。戦争で失われた青春を取り戻すために、週三回体操に通ってきています。自由なからだ・自由な精神で自分の生を生き切りたい。六十一年前の今日、八月六日、広島に原子爆弾が投下された日です。
Aug 6, 2006
コメント(0)
日本一の渓谷美といわれる昇仙峡を訪れました。新緑や紅葉の季節が特に美しい観光地です。季節外れのため観光客も少なく、その分観光地の騒々しさにも巻き込まれることはありません。今更ながら、ああ、観光地は季節外れに来るものなんだなあ…、と思ったのでした。からだの動きもまた同じなのですが、空いていることで自由に動き回ることができました。遊歩道を歩くのも、都会の騒音の中の散歩とは全く違っていました。それはいつの間にか、ごく自然に、深い呼吸をしていることで気づかされたのでした。遊歩道の片側は、花崗岩の山の絶壁が聳え立ち迎えてくれました。その奇岩・怪岩が自然の中に温存されていました。歩いているうちに絶壁に抱かれたような骨太い安心感で深い呼吸をすると、「自分という『自然の分身』は、いったいどうなっているのであろうか」(野口三千三)という声が聴こえてきました。遊歩道を上り詰めていくと仙峨滝という高さ30メートルの壮麗な滝に突き当たりました。息を呑むほどのエネルギッシュな滝が白い煙を上げていました。滝の水の流れが作り出した数々の岩や石の形に、亀石、オットセイ岩、松茸石、登竜岩・・・等、およそ二十ほどの名前がつけられています。それぞれ個性を持った独特の姿・顔を持ち、なんともふくよかです。動きを感じました。今にも動き出してこちらにやって来そうなのです。これも大自然が作り出した楽しさ、美しさです。遊歩道からみた奇岩・怪岩も、この滝の水の流れが岩を削り創り出した作品だったのでした。水の力・エネルギーに説得させられたのでした。ミネラルフェアーで買い求めた岩石・鉱物を手元に置いていつも触れ合っているのですが、自然の中の石たちは、自由でゆったたりとして、それとは違った雄大さがありました。石に包まれて、わたしのからだの動きはこれでいいのか、と問い返しました。ほんとうに「自然の分身」として生きているのか・・・、なにか嘘臭い動きになっていないか・・・、わたしはわたしの自然の力を生かし切っているのか・・・、「自分の中にある、大自然から分け与えられた自然の力により、自分の中にある、大自然から分け与えられた自然の材料によって、自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、そのようないとなみを体操と呼ぶ」(野口三千三)
Aug 4, 2006
コメント(0)
話し合うことも体操です。このクラスは夜のレッスンなので、終わるとそろそろ九時になり、皆夫々足早に帰ります。明日の仕事もあります。二時間掛けて帰る人もいます。何よりもこのクラスならではの個性は、安心して晒すことができることです。長い年月を掛けて創り上げてきたのです。自分にも他者にも正直で、ほんとうに正直なことが愛情だと感じられるほどです。からだの動きをしない体操、が成り立つ所以でもあります。このクラスには、野口体操の伝え手になりたいと願っている人たちがいます。「からだの動きが上手くできなくては伝え手にはなれないのではないか…、それにはからだの条件が悪すぎる…。」彼女たちの問題意識です。そんなことが問題なのではありません。良い動きができることも勿論大切なのですが、一般的な良い動きなどというものはありません。「その人の良い動き」しかないのです。その良い動きとはどんな動きなのか、をもう一度考察した時、彼女たちの言語能力が問われます。口下手だの、分かってくれても…、だの、怠けているのはなぜですか?先ずは、自分のからだの中に起こっていることをことばに換えることの重要性です。饒舌である必要などありません。美辞麗句も装飾語もいりません。ことばに換えた時、そのことばが実際にからだの中に起こっていることと一致しているかどうかです。誰かのことばをそのまま自分のことばとして摩り替えたり、実感のないことば、つまり嘘を言ったりしないことです。ことばが、からだの実感とともにあるとき、今まで無自覚に、記号のように使われていたそのことばを、変革させることができます。ことばだけを転がさないことです。それがいい動きに繋がります。「家族が一番、仕事が二番、野口体操は三番ね」と言われてしまいました。体操はその為の練習をこそやっているのですが・・・。「すべて野ことば(抽象概念をふくむ)は、その発声をたどると、必ずからだの直接体験にたどり着く。この直接体験の実感を探り出すことによって、そのことばの意味を変革するいとなみを体操という」(野口三千三)
Aug 3, 2006
コメント(0)
野口体操教室で生まれて初めて「逆立ち」をした人は何人もいます。「逆立ち」は重要な位置付けで、最後は「逆立ち」で締めくくります。野口体操ならではの頑張らない逆立ちは、「脳天一点逆立ち」が基礎にあります。出来ない人はいますが、やらない人はいません。でも、やっているその姿の中に、さまざまな気持ちが込められています。そんな時、八十歳を超えたMさんの「逆立ち」が、何よりやる気を与えているようです。やり続けることで、からだの動きは今よりもっと深まってゆきます。それと共にからだはもっと楽になり、その分深い気づきが訪れます。「 ―脳天一点逆立ちで感じたこと―昨日の教室で、他の生徒さんに「体型の似ている二人が出来るのだから」と紹介して下さいましたが、私は「脳天一点逆立ち」を何年もやろうとしなかった一人です。人それぞれの理由があると思いますが、出来そうもないことは初めからしない、という気持ちがありました。全てにおいて「出来ない」自分を、人前にさらすのがいやなのです。そんな私がなぜ、やることにしたのでしょうか?様々な自分の行く先に、行き詰まりを感じていた時に、Mさんの立ち姿に誰にでも出来るという可能性を、強く感じたのが、きっかけだったと思います。人前にさらす恐怖と、実際の恐怖と、二重の緊張でした。なかなか一点に体重をのせていくという実感が、つかめなかったのですが、ふっと身体が軽くなる瞬間が来ることがつかめたようです。それはまた、自分を変えることの出来る魔法の役目をしてくれています。」「天地自然の原理に任せる立ち方がよくわかると、十分間でも二十分間でもそっと静かに安らかに澄みきって、地球と一体になり、宇宙に溶け込んだ、まさに逆立ち禅、からだの中での静寂の体験することができるのである」(野口三千三)
Aug 2, 2006
コメント(0)
人間はいつからそんなに退化してしまったのか・・・、話を聞いていて思いました。今日のレッスンのテーマの前提として、ある美・大でやられた実験の報告がされました。「真っ暗闇で食事をする実験」です。真っ暗闇では手にのせても、アンパンとおむすびの区別がつかないと言うのです。口に入れても分からない、勿論味もしない、食欲もなくなった・・・。さらに、暗くて不安でいられない、とも訴えるのだそうです。報告を克明に聞きながら、不快になりました。何故、視覚だけに頼るのか。最初に「これは〇〇デス。」と教えて貰わなければ分からないのか、教えられれば、そのように脳に刷り込まれれば、信じてしまうのか。手の触覚、舌の触覚は何処に行ったのか。暗ければ暗いように、からだまるごとが新しく働き始め機能する、この「原初生命体」の能力は失われたのか。ヨーロッパが五百年掛けて進歩させた歴史を、日本は戦後五十年で達成したと言われます。十八歳まで祖母や父母、兄夫婦と同じ屋根の下で暮らしてきて、明治・大正・昭和を生きた彼らの感覚と共に、当たり前のように暮らしてきました。祖母は掃除機を知りません。大変きれい好きでした。祖母の陣頭指揮で、朝夕掃除をするのが当たり前と思っていました。釜でご飯を炊き上げていましたから、それでも、煤で真っ黒になった釜を必ず毎回ピカピカになるまで磨き上げていました。父は漁獲探知機が出来ても、潮の流れで漁場を決めることを止めませんでした。海辺に立って決める父の天気は予報より確かでした。子供たちは運動会や遠足には晴れるようにして欲しいとねだって父を困らせました。母も兄も義姉も本当に働き者で逞しく、からだの感覚だけを頼りにしていました。彼らは自分の五感どころか六感までもからだの中から引きずり出していました。身の回りで採れる野菜、漁で獲る魚以外食べたことはなく、電気なんかなくったって、ヘッチャラでした。何だかしょっちゅう電気が切れていた気さえします。こうして書き上げていくと、いつの時代だと思われるぐらい原始的な気がするのですが、ついこの間のことのように感じられます。しかし、何よりも大事なことは、そこで育った者のからだの中にその原始的とも思える感覚が残っていることです。そして、その感覚こそ遺産相続であり力なのです。「現在の人間である私が、原初生命体を求めるいとなみは、結果として原初に戻ろうとすることではなく、これからの人類の在り方を求めるいとなみなのである。このような原初生命体の考え方は、原初生命体感覚でなければとらえることができないのかも知れない」(野口三千三)
Aug 1, 2006
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1


