仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.04.08
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カテゴリ: 宮城




亀井文平(1883-1937)は、明治16年岩手県江刺郡伊手村に生まれる。父の四郎治は亀井家7代目で、祖父の6代目勘右衛門も存命だった。亀井家は釜屋の屋号で濁酒の製造販売を行っていたが、冬期間婦女子の労働力で漁網生産などをしていた。家印は〔おだずま注、漢字の介の両脇に点を振ったような印〕ヤマキタと読まれ、最近まで株式会社亀井商店の社章とされた。

明治30年頃には家運も傾き、文平は13歳で仙台市大町で髪油や蝋燭を扱う高野商店に徒弟奉公した。商才を磨いて明治36年(1903)に20歳で年季奉公を終えている。

文平は塩釜町本町の市川屋の貸家を借り受け居を構えた。港湾都市の将来を見込んでのことだった。団平船を着けることのできる祓川に面した塩釜町門前52番地(現塩竈市宮町3番15号)に間口5間の瓦葺木造2階建ての家を求め、明治36年7月、亀井商店の暖簾を掲げる。開業後まもなくヤスと結婚。ヤスは明治22年岩谷堂町生まれ、年端のいかない花嫁であったが、文平をよく助け、記帳や店番のほか、蝋燭製造や針仕事に夜遅くまで励んだ。初期の亀井商店を知ることができるのはヤスの手記が残るからといわれる。

創業時の取扱品目は、砂糖、洋粉(メリケン粉=小麦粉)、食用油、石鹸、醤油、灯油、蝋燭など様々な雑貨であった。軌道に乗ってくると、横浜に出ていた父四郎治と母マサ、妹を呼び寄せた。四郎治が営んだ木材業(亀井木材店)も盛んになると、郷里の親類縁者から職人を徒弟として受け入れた。

明治41年宮城紡績電燈株式会社により塩釜町に電灯がともる。亀井商店はそれまで、家庭用灯油や蝋燭、漁船の灯火用カーバイトなどを扱っていたが、文平は先を見越して、燃料としての石油の需要と漁船の動力化に期待をかける。このころ、内藤久寛の日本石油株式会社が新潟の地場資本から成長し、塩釜港にも販売拠点を設けようとして、明治40年に薬種商の遊佐一貫堂に代理店契約を申し入れたが、臭気が強く危険物視された石油の取り扱いを断る。これを知った文平は、最初は相手にされなかったがたびたび新潟を訪問するなどして、熱意に動かされた日本石油から明治41年に三陸沿岸代理販売店の資格を得た。これは亀井商店の基礎を固めるのに大いに資した。

この頃まだ塩釜港に動力化された漁船はなかったが、汽船の寄港はあった。すでに明治18年に日本郵船会社が開設した東京ー北海道定期航路の汽船が寄港していたが、明治24年日本鉄道の東京青森間鉄道開業で乗客と貨物を奪われて、明治30年に不定期航路となっている。しかし、三陸沿岸は鉄道の便がないので、あとを承けて東京湾汽船株式会社が塩釜港に進出し、金華山、気仙沼、宮古、山田、大槌への定期航路を開設した。また明治41年には塩釜町に本社を置く三陸汽船株式会社が設立され、東京湾汽船との間で激しい競争が展開された。ただし、当時の亀井商店が両社に燃料石油を供給したかどうかは明らかでない。

漁船動力化は、明治36年静岡県の丸屋文七の千鳥丸が最初とされ(失敗)、成功例は静岡県水産試験場が明治39年建造した富士丸と言われる。明治40年には和歌山県で小型漁船用焼玉エンジンを装備した第一紀州丸が進水した。塩釜港に属する漁船動力化は不明だが、岩手県下閉伊郡鍬ケ崎町(現宮古市)の山根三郎が稲荷丸を進水させた明治45年までには、塩釜港でも動力化漁船があっただろう。それに、金華山沖漁場には静岡、和歌山、三重、高知など各県から動力化漁船が進出して塩釜に寄港するようになる。金華山沖が世界三大漁場に数えられるのは漁船動力化の結果なのである。こうして、動力化漁船の寄港は亀井商店にとって、そのまま顧客の増大につながった。

当時の漁船の中心は焼玉エンジンで、軽油かA重油が用いられた。これらは秋田などの日本石油の製油所から鉄道で塩釜駅(現在の塩釜駅ではなく廃止された塩釜港駅)に運ばれ、団平船に積みかえて祓川をさかのぼり、亀井商店門前倉庫に運ばれた。



ところで、大正12年には塩釜町生まれで仙台市立商業学校を卒業した土井運蔵が22歳で入社。運蔵はまもなく文平の娘タマと結婚し、亀井姓を名乗り若主人と呼ばれる。大正13年には、塩釜神社裏坂際に新築した自宅に、文平以下一家は移転する。

亀井商店はいよいよ本格的発展期に入り、大正14年下閉伊郡宮古町沢田に宮古出張所、昭和2年七ヶ浜村代ケ崎に代ケ崎油槽所、昭和3年青森県三戸郡鮫村持越浜に八戸油槽所と八戸事業所を開設した。同年宮古町鍬ケ崎第二地割に宮古油槽所が開設、宮古出張所をそこに移転。昭和4年には塩釜町台に塩釜油槽所が開設、翌年増設。昭和5年10月には女川町鷺(ママ)の神浜に女川油槽所と女川事業所。昭和6年本吉郡鹿折村大浦に気仙沼油槽所と気仙沼事業所、牡鹿郡石巻町仲瀬に石巻油槽所、上閉伊郡釜石町第一地割に釜石油槽所と釜石事業所、八戸市小中野に八戸揮発油油槽所と八戸揮発油事業所が開設されている。

折からの金融恐慌と昭和恐慌にも、亀井商店が着々と事業を拡張できたのは、文平の経営方針が奏功したからとされる。それは、次の5点に要約されるという。
(1)金融機関は一切利用せず、自己資本の充実を図る。
(2)商品仕入れは現金主義を建前とし、できるだけ安い値段で有利に仕入れる
(3)輸送の合理化のため、三陸の主要港に油槽所を建設。輸送費は価格の一割と言われ、その削減はコストダウンとなり経営改善につながった。石油とともに重要な収入源だった魚油についても、各地の油槽所の魚油タンクに集荷しタンカーで油脂会社に送ったので(一斗缶やドラム缶を使わない)、一般業者の3分の1の輸送費で済んだ。
(4)販売シェア目標50%を厳守。そのためコスト圧縮と新しい地域で突撃精神の販売戦を展開。
(5)販売の合理化。三陸主要港に油槽所、主要都市に事業所を設置し、逐次需要者に直販することで、流通の簡素化と経費節減。

この間、取扱商品も増えた。大正11年、合併で誕生した日本麦酒鉱泉株式会社(ユニオン印ビール、カブト印ビール、三ツ矢サイダーなど)の商品取り扱いを始める。なお、金線飲料株式会社の金線サイダーも同時に取り扱っている。当時、麒麟麦酒株式会社の三陸沿岸一帯特約店は塩釜町の遊佐一貫堂だったから、ビール販売をめぐっては新興の亀井商店が老舗の遊佐一貫堂と競合したことになる。

次に、食用油脂類は創業当時から取り扱っていたが、大正12年頃には、関製油所の白絞油(一般に天ぷら油)、種市覚治の白絞油、さらには豊年白絞油を鈴木商店等を通じて仕入れている。亀井商店では、一般家庭用をはるかに超える量を取扱い、塩釜町や石巻町における水産加工業務への供給を目指していた。昭和2年以降は、鈴木商店倒産もあって、豊年白絞油は主として飯野商店を通じて行われたが年間3千缶程度とみられる。

さらに、当時珍しかった自動車にも手を染める。大正13年米国フォード自動車の日本全国販売権を持つ帝国興業株式会社の仙台支店が設立。同年日本フォード自動車株式会社が設立され、昭和2年に帝国興業仙台支店は独立し、仙台モーター株式会社となる。しかし、フォードのT型からA型へモデルチェンジでの行き違いから仙台モーターの経営が悪化、日本フォードが特約店契約を解除すると、文平は東北地方でのフォード特約店を目指して、昭和3年に奥羽自動車販売株式会社が設立されたとき主要株主となっている。しかし、昭和恐慌で赤字経営が続き、結局亀井商店が買収せざるを得なくなる。



このほか、昭和5年に魚油、魚粕の販売免許を受け、豊漁時に買い集め相場変動を捉えて販売し、相当の利益をあげた。また、昭和6年から塩釜町築港埋立地内の倉庫に精米機を設置して米穀販売を始め、年に10万俵前後を取り扱った。

亀井商店の事業が伸張する中で、年季奉公の経験をもつ文平は、店員への利益の還元を考えた。はじめは販売奨励金などの形で行ったが、大正12年に亀井組合を設立して利益にスライドして分配した。資本金50万円を1万株に分け、亀井家9千株、15年以上勤続の店員が1千株を引き受けることとした。現金配当は昭和3年から行われ、配当率年1割8分で、亀井商店法人化を前に昭和7年の解散まで続けられた。

昭和7年は亀井商店創業30周年を迎えたが、すでに個人商店の域を大きく超えていたことから、株式会社に改めた。発起人会には、亀井文平、亀井運蔵、亀井ヤス、亀井タマ、亀井四郎治、亀井文之助、小沢久三郎が出席。本店を塩釜町字門前52番地。資本金は100万円、2万株に分け、1万9千株を発起人が引き受け、1千株を公募とした。12月創立総会が開催され、取締役社長に亀井文平、常務取締役に亀井運蔵を選任。株式は、亀井文平17,020株、亀井ヤス1,500株、亀井運蔵1,000株、亀井四郎治100株、亀井タマ100株、石川惣吉100株、亀井文之助50株、以下15株6人、10株4人。

発足間もない昭和8年1月には、麒麟麦酒株式会社の三陸沿岸一帯特約店となり、ユニオンとカブトにかわってキリンビールを取り扱ことになった。条件は麒麟麦酒仙台工場が年間生産する1000ダース10万箱の一割を販売することで、この銘柄切り替えは亀井商店の業績向上に大きく寄与した。

また、昭和8年から、最有力株主であった奥羽自動車販売の全株式を引き受けたが、まだ需要が少なく経営を好転させるには至らなかった。昭和9年には神奈川県三浦郡三崎町花暮仲町に三崎油槽所と三崎出張所を開設し、関東での営業の基盤とした。



昭和9年11月には、本社を新築なった塩釜町港の社屋に移している。

ところで文平は、昭和9年頃から健康を損ね、昭和10年11月に社長を辞任し(運蔵が常務のまま会社代表者に)、買い求めていた静岡県田安郡熱海町の別邸で静養する日が多くなった。

運蔵が代表者となってから、昭和11年には米国スタンダード・ヴァキューム石油会社と輸入販売の特約契約を行った。従来の日本石油からの供給では需要を賄えなくなったからだが、戦時体制で十分に成果を出せなかった。昭和11年にすでに全株式を支配していた奥羽自動車販売を買収、亀井商店仙台営業所として、自動車部品の販売及び修理を開始した。昭和11年11月には福島県石城郡小名浜町古湊に小名浜出張所を開設している。

運蔵の手で着々と体制がととのうのを見守りながら、文平は昭和12年3月18日に熱海の別荘で亡くなる。53歳。葬儀は塩釜町の雲上寺で3月24日営まれた。4月に運蔵が2代目社長になる。9月には東北セメント(のち小野田セメントに合併)と特約店契約。10月に運蔵は応召し中国に赴く。

昭和13年2月、文平と苦楽を共にした妻ヤスが49歳で辞世。昭和15年1月には、息子夫婦をみとった父四郎治も生涯を終えている。

自らおこした個人商店を、総合商社へと方向づけした文平の業績は特筆さるべきである。亡くなる前から統制経済の時代に入ったが、文平は以前の自由経済の段階で思う存分能力を発揮したのである。そして、新しい世代に移行していく過程で、亀井商店は統制経済の不自由さを否応なしに味合わされることとなる。

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最終更新日  2025.04.08 00:44:10
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