仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.07.21
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カテゴリ: 仙台



(この記事シリーズは全10回になります。記事の末尾のリストを参照下さい。)

■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年

1 評定所格式帳について

幕府は、キリシタン禁止令のように全国的に発布した法もあり、また、各大名にできるだけ幕府法にならうよう要求したが、決して大名領で適用を強制することはなかった。従って、外様大藩の大名には、 かなり独自性の強い刑法を制定したケースがあり、仙台藩もそうであった

仙台藩は元禄16年(1703)11月28日付で『 評定所格式帳 』という藩の根本法典を制定。その多くは刑罰の条項で、以後藩の終末まで大枠が維持された。

(評定所格式帳制定の経緯)
をとり、しかも中級家臣にまで与えており、侍総数2047人中1700人が地方知行だったとの記録がある(寛文10年=1670)。俸禄制と異なり、自身が領民を罰する意識を持つのも当然だが、江戸時代の大名は中央集権体制の一環として刑罰権を大名に集中させようとする。仙台藩は幕末まで地方知行制を維持したが、家臣に年貢徴収などは認めても、刑罰権については早い段階から藩主に集中しようと努めた。

政宗時代にはまだ家臣の刑罰権を否定する動きは少ないが、二代忠宗(寛永13年ー)になると、寛永14年に奉行(他藩の家老にあたる)連名の通達で、藩主の許可なく家臣が百姓町人を成敗してはならないと命じる。しかしおそらく上級家臣に無視されただろう。

三代綱宗(万治1年ー)が隠居させられ四代亀千代(綱村)が跡を継ぐと、後見役の家臣たちに権力争いが生じた(寛文事件、伊達騒動)結果、仙台藩は幕府の強力な監視下に置かれ、成長した綱村は元禄7年(1694)、寛永14年の法令をよく守れと命令を発する。この命令の中には、他国には家臣が勝手に仕置きを申し付けるところはないと述べている。家臣、特に一門衆は反発したようだが、元禄13年(1700)に至って一門衆から藩に伺いが提出される。
(1.寛永14年令は一門に伝えられなかった、2.百姓が領主のいうことを守らなくなる、3.死罪以外は自分たちで申しつけたい)
これに対して、藩は元禄14年奉行連名で回答している。
(1)藩の裁判所である評定所の機能が充実しつつある
(2)裁判が不統一では他国に聞こえが悪い
(3)元禄10年(1697)幕府「自分仕置き令」などの幕府法を強く意識し、刑罰権は国主のみに認められている

ここで(3)は、大名が自分の領分限りで処理できる事件は幕府に伺うことなく死刑まで科してよいと現状を追認したもの(他領と関係する事件は幕府の月当番老中に伺いを出すよう命じた)。そして、家臣たちがバラバラに裁判をするのでなく藩が一元的基準で刑罰を統一するのに必要だったのが、先例集であり、そのために『評定所格式帳』が作られた。

(評定所格式帳の意義)
幕府の八代将軍吉宗により寛保2年(1742)に制定された『 公事方御定書

もっとも、仙台藩の評定所格式帳の制定直前に、綱村は幕府に隠居願を出す羽目に追い込まれ、その具体的運用は五代吉村に任されることになる。

2 刑罰体系 ー 侍と凡下

武士に対する刑罰と凡下(庶民)に対する刑罰では、体系に違いがある。犯罪の内容によって、侍の身分を剝奪して凡下の刑を科する事例がみられる。その最初の例が、享保15年(1730)の2件の評定所判決。放火に対する凡下の刑罰である火罪に処するために、盗みのため放火した武士に対して下したものなど。また、享保17年判決では、凡下の死刑の一種である磔にした判決。

有名なのが日塔喜右衛門の事件。宝暦2年(1752)、桃生郡女川村に在郷屋敷を持つ飯田(はんだ)能登(450石)の家来の喜右衛門が能登の妻と密通の上、能登を殺害し、盛岡領まで逃亡したとされる。喜右衛門は凡下に落とされたうえ、芭蕉の辻で3日間さらし、竹鋸で挽いて、士丁市中を引きさらしてから、七北田処刑場で磔という凡下で最も重い死刑に処している。なお、喜右衛門の父は凡下として田代浜に流罪(士分にも流罪はあるが島での扱いが異なる)、母も凡下のみの刑である奴の刑。

以上のような重大犯罪でなくても、 士分に不似合いの振る舞い

明治元年(1868)にも凡下に落とす制度が適用されている。仙台藩の判例集をみると、士(住持職、肝入、沙門)に不似合い、という言葉がよく登場する。江戸時代が身分制社会である以上、 身分や分際にふさわしい行動規範が想定され 、それから逸脱されると加重された処罰を覚悟しなければならなかったといえる。

3 侍身分と凡下身分の違い

身分 侍身分 凡下身分 (農民)
* * 竹鋸にて挽き磔
* * 火罪(かざい) *
* * *
* * 獄門 *
* 牢前において斬罪 切り捨て *
* 牢前において切腹 * *
* その身屋敷にて切腹 * *
* 遠流(江島) 遠流(江島) *
* * 島奴 *
* 近流(田代島、網地浜、長渡浜) 近流(田代島、網地浜、長渡浜) *
* * 島奴 *
* 他国追放 * *
* 遠き川切り追放 遠き川切り追放 *
* * *
* 他人預け * *
* 三郡追放 三郡追放 *
* 二郡追放 二郡追放 *
* 一郡追放 一郡追放 *
* * 一村追放 *
* 城下追放 城下追放 *
* 親類預け * *
* 改易 扶持召し放し(半分の場合あり) *
* 半地(知行の半分)召し上げ * *
* 逼塞 日数牢舎 *
* 閉門 戸結(とゆい) *
* * * 縄懸け(なわかけ)
* 蟄居 押し込め *
* 慎み 親類預け *
* * 過料(かりょう) *
* しかり * *
※農民に対しては、戸結と押し込めの間に縄懸けという拘禁刑が採用されていた。

仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)に続く。なお、死刑の種類、執行方法、処刑場などについては、 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑) (2025年08月03日)に記しております。

■関連する過去の記事
 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑) (2025年08月10日)
仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑) (2025年08月08日)
仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰) (2025年08月05日)
仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛) (2025年07月24日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)
芦東山記念館を訪れる (2013年5月7日)
仙台藩の刑制と流刑地 (10年2月10日)
芦東山と江戸期の司法制度 (08年10月2日)
仙台藩の刑場 (07年9月3日)
仙台藩の牢屋 (07年8月19日)
仙台藩の法治体制 (06年11月20日)
岩手の生んだ大学者の芦東山 (06年3月29日)





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最終更新日  2025.08.19 22:27:18
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