仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.11
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カテゴリ: 仙台




1 縁坐奴について

江戸時代には犯罪者の妻子なども罰する縁坐(えんざ)が行われた。重大犯罪では、妻子も死刑や追放にしたが、そこまでしなくても、妻子を没収し奴隷として使役することがよくあり、仙台藩でも、それを奴(やっこ)と称して行っていた。

江戸時代の奴刑全体に触れると、対馬藩の事例が知られる。九州の諸藩ではだいたい縁坐奴があったようだが、東北でも、例えば秋田藩では犯罪所の妻子を欠所(けっしょ)として没収し、盛岡藩では妻子を「御台所(おだいどころ)」に収容した。これらは藩自体が労働力として利用したのだろう。

幕府でも縁坐奴の制度を持っていて、頻繁に妻子を没収して、書記役人である右筆に与えて使役させている。ところが、5代将軍綱吉の頃から次第に縁坐を少なくして、新井白石(正徳の治)、8代吉宗と制限が進んだ。これらの改革によって、百姓・町人の縁坐としては、主殺し親殺しに限って子も軽く罰せられる程度になり、獄門以下の刑では縁坐がなくなった。武士では、父が死罪なら子は遠島、父が遠島なら子は中追放、などと縁坐が残ったが、以前よりは軽くなった。

こうした縁坐の緩和は、父兄の罪を子弟に及ぼすのは仁政にもとるとする学者の意見も出てきていたし、幕府としても太平の世で縁坐は不条理と考えたのではないか。こうした一環として、縁坐奴は姿を消していったが、まったくなくなったわけではない。『公事方御定書』下巻第20条「関所をよけ山越えいたし候もの、ならびに関所を忍び通り候お仕置きの事」には、男に誘われ関所を通らず山越えした女、及び関所を忍び通った女、の2例を奴にするとし、希望する幕臣や町人に奴を渡した。希望する者が出るまでは、その奴を牢屋敷の洗濯などに使用した。幕府がなぜ奴刑を関所破り関係に限定したか理由はわからないが、奴とされた人数はかなり減っただろう。

なお、『公事方御定書』下巻第47条「隠し売女お仕置きの事」で、隠し売女は3年間吉原町に与えて遊女として働かせる刑を科した。隠し売女は、公認遊郭の吉原や黙認された品川などの宿場(旅籠屋が飯盛り女の名で雇う)の営業妨害となるので、町奉行所がときどき取り締まりして刑を科したもの。奴刑の一種とも考えられるが、一般の労働とは異なるので、奴刑とは区別しておく。

2 仙台藩前期の奴刑

妻子を没収して奴隷とする奴刑は、仙台藩でも大変よく利用されたが、犯罪者が凡下の場合だけで武士の妻子が奴になることはなかった。早くから奴と呼ばれたのではなく、17世紀前半は「妻子・家財闕所(けっしょ)」などと判決文に記載される場合が多い。妻子は家財と同列に物として扱われたようだが、17世紀終わりころには「妻子奴、家財闕所」と変化する。妻子と家財が分離され、妻子は奴刑となったわけだ。



奴とされた妻子は、町奉行、郡奉行、目付、用番の武頭、評定所役人、評定所勤務役人、歩目付、奉行の物書、出入司の物書、に与えられることになっていた。これらは裁判機関である評定所に関係する役人であると『評定所格式帳』には説明がある。これは、仙台藩が幕府に倣ったという見解があるが明らかに誤解で、近世前期の幕府の奴の付与先は書記役人である右筆であった。

なお、藩が奴を直接使役する事例はまったくなく、すべて家臣に与えられたと思われる。

その後、幕府が縁坐を緩和するにつれて、おそらくそれに倣って仙台藩も縁坐を少なくしていく。正徳1年(1711)父が家禄没収された際に、子には出仕を許した事例がある。近世中期には縁坐奴は姿を消す。

しかし、仙台藩は別な形の奴刑を創出する。

3 仙台藩中期以降の奴刑

それまで縁坐奴を与えられた家臣にとっては、奉公人を雇うことが次第に困難になって、また奉公人の給金も上昇していた事情があるため、奴の消滅はいささか困ることだった。この対策として、仙台藩は、享保9年(1724)に、それまで江戸詰め家臣は奉公人を(国許から連れて行くのでなく)江戸で他所者を雇い入れることを許可し、享保19年には国許でも他領者の召し抱えを許し、さらに、延享3年(1746)には他領者を斡旋して保証人となる人本屋(ひともとや)を設置するなどの奉公人確保を図る。

このような事情のもと、藩は、縁坐奴に代わるものとして、追放刑に処された犯罪者本人を奴にすることを考える。8代将軍吉宗が享保7年(1722)に諸大名がみだりに追放刑を利用することを戒める命令を出したが、この方針に従うのなら本来拘禁施設を作るのが望ましいが、仙台藩では、とうていその財政負担に耐えられないと考えたのであろうが、幕府の手前もあり、本来ならば追放刑に処すべき者のうち奉公人として使用可能なものを奴とする方策をとった。

延享1年(1744)藩の通達では、まず、遠き川切り追放の男女のうち奉公人として使えそうな者は、5,6年の間、遠い郡の大肝入、肝入、検断(これらは凡下身分の村役人)に与えられた。翌年には、遠き川切り追放相当の女はすべて奴として、遠方の大肝入のほか、城下の検断にも与えられることになった。他方、男は、奉公人として使えるか考慮して、遠郡の大肝入の奴とするか、そのまま遠き川切り追放にするかを決めることとなった。また、この延享1年通達では、三郡追放、二郡追放、一郡追放相当の男女は、それぞれ3年、2年、1年の年季で藩の諸役人に付与するとした。このように、縁坐奴が永代奴だったのに対して、(本人の)奴は年季奴となった。

4 奴身代金・代人制の登場

このような追放刑と結合した年季奴は、奉公人確保の利点があった一方で、付与された奴(犯罪者本人)が必ずしも従順とは限らなかっただろう。こうした負の側面を改善するため、藩は、宝暦5年(1755)、主人(家臣)と奴が交渉して相応の身代金をとって奴を解放する、あるいは代人(だいにん)としても良いとの通達を出す(奴身代金・代人制)。

注目されるのは、奴から支払われた身代金は藩庫ではなく主人に入ることで、罰金や過料と根本的に異なる。奴刑も藩による科刑だから、身代金も藩の会計に入るべきとも思えるのだが、これは、幕府や他藩にない仙台藩独特の制度であろう。しかも、主人と奴の交渉次第だから、強欲な主人は多額の身代金をとろうと頑張ったようだ。一例として、文久2-3年(1862-63)の仙台藩医学所に出入りした城下薬問屋8人が収賄事件で奴刑に処された件では、二ヶ年奴1人が身代金45両、他の奴7人(一ヶ年)は、65両、30両、25両(2人)、20両、10両、7両とバラバラ。



幕末期史料に『仙台風談』がある。いずこかの藩の密使が仙台藩の形勢を探索して提出した報告書とされる。密使にとって仙台藩の奴刑や興味深いものだったようで、2ヶ所の記述がある。一つは、博奕との関係で触れられているが、身代金を出せば心がけが直ったと主人が藩に報告するが、金持ちの奴をもらえば大金をとる者がいる、など。もう一つは、米や塩の藩専売品を密輸出した商人が奴になると、主人によっては大金を出さないと非道の扱いを受けるが、藩は一向に構わないようだと。

賭博犯や密輸商人が奴刑にされた事例が掲げられているのが注目される。いかにも奴刑から解放させるために大金を出すことができそうな犯罪者である。

6 奴刑の対象となる犯罪

では、奴刑が科される犯罪はどういうものがあったか。幕末期の仙台藩刑事法の状況を示す『刑法局格例調』では、多彩な犯罪に適用されたことがわかる。木に登った子をゆすり落して死亡させた者、盗み、酒密造、芝居興行主、法外の高値で売った商人、など。明確な規定があったわけでなく、町奉行と評定所役人がどんどん対象を広げた。奴を与えられるのは評定所役人だから、自分たちの利益に直結した。

しかも、いかにも金を持っている商人などが狙い撃ちにされている感じがする。元治1年(1864)に、長町、原町、堤町、八幡町の4か所に、領民の些細な間違いを裁判沙汰にし、奴にして大金を取り上げる家臣を非難する張り紙がされた。裕福な町人はみな災難を被っているとまでいわれた。



7 奴の管理

奴に処された者の多くは身代金で解放されたと思われるが、身代金も払えず使役された者もいただろう。労働条件などはどうだったか。

まず、奴の管理は、人足方(にんそくがた)という、土木工事や雑用に使役するために村々から徴発した人足を管理す役所が行った。他藩でも同様だが、各村は一定の基準で年間何人と人足を提供する義務を負っている。しかし、これら普通の農民と異なり奴は犯罪者である。評定所、町奉行所、郡奉行所などの裁判機関でなく、人足方が扱った点をとっても、奴はどうも犯罪者というより一般の人足と同様に扱われたと想像される。

実際に、労働のあり方を見ても、奴が病気になると療養のため村に返し、奴の父母が病気になったときは看護のために暇が許され、それらの日数分年季を延長する措置がとられた。また、付与された役人は親類縁者に奴を貸すことができたようで、その家臣が江戸詰めの際に奴を召し連れることもできた。おそらく江戸では監視もほとんどなく、江戸見物などの行動の自由もあったのでないか。

このように、奴は犯罪者というより奉公人として取り扱われたといえる。もちろん、給金はないが、食事や衣類などはそれなりに主人から保証されただろう。

8 熊本藩の徒刑制度との比較

熊本藩は宝暦5年(1755)に中国法に倣って前年制定した藩の法典『御刑法草書』を施行した。その中で、追放刑に代えて「眉なし」と呼ばれる徒刑制度を採用。これは、眉を剃って紺色の目立つ上着を着せ、牢内に拘禁し労働に従事させ、その賃金のいくぶんかを貯えて出所時に生業の元手とさせるもので、現在の懲役制度とほとんど同じといってよく、我が国の近代的自由刑の誕生と高く評価される。刑期は、1年から3年の5等級。

比較すると仙台藩の奴刑は、名前からして前近代的な感じがする。熊本藩の徒刑囚が藩の設置した施設に収容されたのに対して、仙台藩の奴は家臣や役人個人に与えられた犯罪奴隷ということになる。

しかし、奴の管理は一応役所(人足方)が行って完全に個人任せにしたわけではなく、むしろ奉公人として扱われて、いわば社会内処遇的状態とも言え、熊本藩の徒刑より自由だったとも言えよう。また、熊本藩が眉を剃り紺色の着物を着せたのに対し、仙台藩では通常の奉公人のように扱われ、異形にすることはなかった。

仙台藩では熊本藩のように出所(解放)時に資金を与えた形跡はないが、奴には保証人が付けられて逃亡や取り逃げの場合の保証をするとともに、奴の解放の際にはどうも保証人に預けたようである。つまり、どこへでも行けと放っておかれたのではなく、保証人が面倒をみることが期待されたのであり、解放後の生活にもそれなりに手が打たれていたと言えるのでないか。

9 おわりに

いずこかの藩の密使の関心を引いた仙台藩の奴刑は、確かに、身代金が主人の懐に入るなどユニークではあるが、意外と犯罪奴隷という印象はないことが理解できる。

なお、幕末期に東蝦夷地の警備に動員された仙台藩の13代藩主伊達慶邦は、奴受刑者を当地に派遣して使役する重奴(じゅうやっこ)構想を打ち出すが、実現した形跡はない。また、明治3年頃には、新政府の『新律綱領』に採用された徒刑制度と併存して、また重要な変化もしていく。

■関連する過去の記事
 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
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仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
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最終更新日  2025.08.19 22:24:12
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