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ここ一ヶ月ほど、頭痛が続き風邪だと思っていました。内科にも行って風邪薬をもらいましたが、あまり芳しくなかった。春に引いた風邪は長引くと聞いていたし、年もとったから回復するのが遅くなったもんだと考えていました。ここ一週間特に頭痛が激しく、母の服用していた頓服を飲んでしのいでいました。それもだんだん効き目がすくなり、おかしいなと感じていました。二、三日前から物を噛んだとき、痛みが激しくなりました。前に治した歯がやられたのかなと思い、触ってみました。でも歯の痛みではないことに気付きました。どうも歯茎から痛むのです。少し静養すれば直ると思い、昨日から寝ていました。母がデイから帰って、食事の支度をしようと思い立ち上がったところ。なんと痛みで思わずうずくまりました。母の前で痛がると心配するので、何とか取り繕いました。でも目が回るほど痛い。頭の周りに環ができ、それが収縮するように痛みました。母が心配するといけないので、買い物に行くといって、歯医者に行ってきました。診断の結果。歯茎が膿んでいて、その圧力が神経を圧迫しているとのことでした。一時間ほど処置してもらい、何とか膿を取り出してもらいました。その歯医者は、ここに引っ越してからかかるようになたばかりです。母のことも承知しているので「お母さんの介護をするとき、歯を食いしばることが多いのでしょう。その圧力が、歯茎を痛めたのでしょう」「先生それより、介護のストレスのほうが多いと思いますよ」「間違いないですね。病気の諸悪の根源はストレスですね」楽しく介護しているから、ストレスはないと思っていました。でもそれは、思い過ごしだと知らされました。やはりストレスは確実にたまっていたのです。これからは、何とかストレスを少なくすることを考えなければなりません。母の介護自体はこのままでいいから、何かを考えなければ。やはりショートステイを利用して、二、三日自由な時間を作ったほうがよさそうです。思いっきり、若いオネーチャンのいるところ行って、酒を飲んでこなければ。もう一年近く行っていない。ストレスもたまるはずだ。
2005.06.29
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母の入院以来、部屋の整理をしている。病院でのリハビリ室を模倣して、一部屋リハビリ室にしている。痴呆になった母は、新しいことが覚えられない。リハビリには、母の思い出の詰まったもので行う。この精神で、母の思い出の詰まったものを一室に集めた。兄弟の学校で作った作品。母の女学校時代の思い出の品。母が寮母勤めをしていたときの寮生のお土産。楽しい母の思い出を集めて、日常目に触れるようにする。すると何かのときに記憶がよみがえるらしく、楽しそうに話をする。わたしの小さいころの記憶にない話を、うれしそうにする事もある。「あんたは手のかからない、いい子だった」「この品はおじいさんが苦労してお前に買ってくれたものだよ」わたしが母と話をする、至福のときである。母の介護をして得られる、密度の濃い時間である。「ず~と、お金には恵まれなかったけれど、それなりに幸せだったよね」「そう言ってくれるとうれしいよ」「母さん、これからもできるだけいい思い出を作ろうね」「うん、お父さん・弟にはもう少し待ってもらって、楽しく過ごそうね」今までなかった光景です。ひたすら金を稼ぐことに終始し、幸せを見失っていた気がします。笑いのある家庭。家庭が憩いの場でならなくて、何の幸せでしょうか。ずいぶん遠回りした気がしますが、気付かないまま母を看取る不幸だけは避けられた気がします。リハビリ室が完成したので、その他の整理をしています。最大の問題は、母の衣服です。こんなにもあるかと思うほどあります。うんざりします。どんなときに着ていたのか、母も私もわからない。母は記憶を失っているし、男のわたしに婦人ものはわからない。だから最近の母は、ほとんど同じものを着ている。こんなとき女手があれば、母に季節に合ったものを着せてあげられるのにと思う。悲しくなるときです。少しずつ整理しながら、母のお出かけに着せるものをみつくろうと思います。とにかく暑くなったから、夏物の発見とコーデイネイトです。今日のデイにはとにかく、それらしきものを着せました。「今日はいつもの服と違うね。涼しくて、おしゃれでいいね」楽しそうに笑って、出かけた母です。
2005.06.28
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熱田神宮の近くの図書館に行ってきた。図書館で本を借りることなどなかったので、一度経験しようと思ったからです。医療関係の本をのぞいていると「リウマチとプール療法」福原須万子が目に付いた。人間の体は、動かさなくなると血液が流れなくなり、栄養状態が悪くなる。寝たきりになると、体重の負荷がかからないので、すごい速度でカルシウムが抜けていく。こんなことが書いてあった。そこでプール療法となるわけである。これは何もリウマチ患者だけでなく、高齢者にも当てはまることだと思った。水の浮力を利用して、動きにくくなった体を動かすことで、寝たきりからの脱出を図るのです。そしてここにも書かれているのですが、何事も先手必勝だということです。下降線をたどった体力を、引き上げるにはリハビリは早ければ早いほどいいと言うことです。母は四ヶ月ほど前には、ベットに座ることもできませんでした。最初の入院で誤飲しかけていたのでその防止策がとられました。食後の30分は、座ることを心がけたのです。でもずいぶん寝たきりとなっていた体では、それができませんでした。だから座椅子などを利用して、倒れないようにしてすごさせました。それと平行して作業療法を始め、リハビリにも取り組みました。頭のリハビリも大事でしたが、体のリハビリが予想を上回る効果があることがわかりました。退院してからほぼ二ヶ月。目覚しいほど母は、回復しています。トイレもいまでは自分でできます。失禁したことなど、私も忘れてしまったほどです。車椅子も自分で乗り降りできるまで回復しました。あと少しで、杖を使っての歩行もできるでしょう。そこまで回復すれば、母が悪くなる前までの回復になります。そこでリハビリでの目覚しい回復は、止まるでしょう。後はまた元に戻らないよう、日常での母の努力が必要となるでしょう。これからの母の、治療計画が大体決まってきました。月・水・金とデイサービスに行く。火曜日はデイケア(主にリハビリをしてくれる)に行く。月・木・土の三回鍼灸マッサージを頼む。木・土曜日は私が、温水プールに連れて行く。この温水プールをどこにしようかといろいろあたりました。身体障害者が無料で利用できるものもありました。でも身障がリハビリするには、不向きな施設でした。近くに少し料金はかかりますが、身障向きに作り変えられたプールができました。先週行ってきました。これなら通える設備だと思いました。今週は木曜日と、昨日今日と行ってきました。見事に母も私も筋肉痛になりました。プールで小学生の弾んだ笑い声、力強い生命力。それらを感じながら、元気をもらい、楽しくなった母子でした。
2005.06.26
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ガイドヘルパーの資格を取ろうとしていている。そして知れば知るほど、障害福祉と高齢者福祉がかなりの部分で重なり合っているのを知ります。たとえば重度視覚障害者の方たちです。いま名古屋に視覚障害者1、二級の方が5000人ほどいます。そのうち半分以上の方が65歳以上です。身体障害者でありながら、介護保険対象者でもあります。今日本の福祉は、曲がり角です。いままで身体障害者の方たちに向けられていた目が、高齢者に向かざるを得なくなっています。言い換えれば身体障害者の権利が脅かされているということです。国民の税金で福祉をしなければならないのに、介護保険でまかなおうというのです。つまり日本は貧乏なので、福祉も国民の負担で賄おうというものです。介護保険は、国民年金と違って先取りなので、とりっぱぐれがない、安定した財源なのです。将来月付き8000円ほどの負担になります。そして増税の問題。昔からいい時代は50年と続かないといわれています。日本が戦後未曾有の発展を遂げて、60年ほど。今日本は悪い時代になっているのでしょう。だからこそ皆で知恵を出し合い、未来に備えなければならないのに。相変わらず既存の頭の黒い連中には、反吐が出ます。自分たちの既得権だけを守り、自分の財産だけは守ろうとしている。どんどん悪い連中は、法であぶり出し葬り去らねばなりません。JR・談合・収賄・脱税・・・談合で思い出しました。経団連の会長、いまをときめくトヨタ自動車の出身です。その人が「談合は無くならないだろう・・・」世界のトップにもなろうという人が、こんな考えです。日本の精神構造は、大変遅れていると思うのは、私だけなのでしょうか。
2005.06.23
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母が三月の上旬に入院して、三ヶ月経ちました。90日中入院がほぼ50日。その間毎日面会。家にいた40日間、デイのない日は母と外出。デイにいっているときは、用事のための外出。何が疲れるかといって、自分の時間の取れないことが大きい。飲みにいけない、ギャンブルできない、仕事できない。こんなわけでストレスもたまるのだろう。少しずつ、やる気がうせてきました。まず一番にいやなことは、食事作りです。母にはきちんと食べさせようと努力するが、自分の飯を作るのが面倒になりました。母がデイにいっているときは、食べずに過ごします。人間関係でもそうですが、毎日こつこつと続ける事が苦手な私です。そろそろ手抜きで、惣菜を買ってきてまかなおうかとも考えてます。こんなところでへこたれていては、だめなことはわかるのですが。少しゆっくりしながらやらなければ、持たない気がします。子育て・家事・介護に毎日追われる主婦の皆さん。本当に頭が下がります。
2005.06.19
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先日の同級生との再会。三人とも医者なので私の過去の医療ミスについて話した。私が30年前にある、精神病院というより、キチガイ病院に入院していたときのことです。看護婦の投薬ミスで、三日間ほど生死の間をさまよいました。そのほかにもいろいろ、あってはならないことを見聞きしてしまいました。このことはもう時効みたいなものなので、そのうちに書こうと思っています。ノンフィクションとしてですが。そのうち病院側の防衛に話が及びました。いまは内部告発などで、医療ミスも身内の恥としてなかなか秘密を保持するのが難しい。だからいざというときのために保険をかけている病院が多いそうです。同級生の整形外科医もかけているそうです。月ずきいくらかかるのか、今度聞いてみたいものです。内部告発といえば、ウオーター・ゲート事件。した人も最近わかりましたね。日本は今大きな膿を出そうとしています。どんどんだしましょう。そうでなければ、22世紀の日本明るくないと思います。
2005.06.15
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三月以来の外来に行ってきました。その間二回も入院したので、外来に来る暇がなかったのです。リハビリも久しぶりでした。「○○さんずいぶんよくなっていますね。進んでいますよ」認知症の主治医にも久しぶりに、外来で診察してもらいました。「はじめまして、これからよろしく願いますね」母がまじめに、頭を下げる。「今日が初めてなのですか?」「いえきたことがあると息子が言うのでそうかなと思いますが、 先生はお初にお目にかかるという意味です」こちらも順調に進んでますね。
2005.06.14
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暖簾をくぐると懐かしい顔に出会った。「○○君かい。面影があるな~」育ちのいい人懐こい彼は屈託なく笑う。久しぶりに会う気まずさを、感じさせない。たくさんの人の愛情を受けて育ったお坊ちゃんなやつだ。そこへもう二人の同級生。「やあ元気かい」「どこへトンずらしてたんだ」「結構近くに居たんだ」私の音信不通にしたわけも聞かず楽しい時間が流れる。「俺は医療関係者に大変な不信感が今でもある。でも君たちが、いい医者になっていることがわかって安心した」「どこでわかるんだい」「君たちの目が、やさしいからさ」偉くなった友を見ながら、考えていた。父の死から35年。ずいぶん遠回りして、友に会ったことを。「これからどうするんだい」「じっくり考えてみる。君たちと違ってまだ俺に何ができるか考えているところだ」「お前は天下の○高、天下の東大に入った頭があるんじゃないか」「そうかまだ頭ががいいやつだとまだ思ってくれるのか。いやなやつではなくて」団塊の世代が、定年退職していくときになってきた。そんな時これからの残された人生で何ができるのか考えている。ずいぶん馬鹿げたものだが、仕方ない。絶対に何かできるはずなのだ。そうでなければ、空しい。何もできないまま死んでいくのは忍びない。
2005.06.13
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昨日母が、らい病患者について話をしていた。「昔子供の肝が、病気に効くと聞いて、子供を殺した人がいるのよ」悲しい殺人事件です。人を殺すことは決して許されませんが、動機が自分が助かることですから複雑な思いです。でももっと悲しいことは、らい病に子供の肝が効くという、俗説が広がっていたということです。いま社会は、いろんなところでバリアフリーを目指しています。障害者の方が、社会に出やすくするため、建物・道路などのバリヤフリーが目指されました。でもいろんなことをしているうちに気付きます。バリヤフリーとは障害者のためだけではなく、すべての人にも当てはまるユニバーサルなものだと。いまでは障害は、健常者にも当てはまり、人間と環境の相互作用によって生まれるという考えになりつつあります。街づくりから出発した、バリアフリーがいまいろんなところに及んでいます。情報公開もそのひとつです。そのためにいつの世にもいる「頭の黒い輩」が、あぶりだされています。どんどんあぶりだされて、将来のバリアフリーの社会に向けて、膿が出されるのはいいことだと思います。そしていつの世にもある、迷信・偏見が少しでもなくなればいいと思います。そうすれば冒頭のような事件はなくなり、悲しい事件が少しでも減っていきます。アーサー・キング牧師の言葉をもじって、私は言います。私には今はっきりと見えます。世の中に虐げられた人は、ほんとうはいない。造りだすのは、人間の心だと。私には今はっきりと見えます。いろんな人が同じテーブルにつき、楽しく食事をし会話しているのが。相手に尊敬と愛を注げば、何事も簡単にいくことを。
2005.06.12
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いま私は、年寄りの母を子育てしているようなものです。子育てと違うのは、年寄りの介護には進歩がないことです。子供は日に日に進歩・独立していきます。年寄りの子育ては、日に日に負担が増えることです。では喜びがないかというとそうではないことに気付き始めています。「垢で死んだ人はいない」そううそぶいて、デイ以外の風呂を拒否します。デイでも最近は、喜んで入ってますが、最初は大変でした。今日は大変天気がよいので、シャワーを浴びないかと聞きました。「汗かいて気持ちが悪いから、入るわ」「うわ~、気持ちいい。もっと頭を掻いて!」母のうれしような顔を見て、疲れも飛びました。いまガイドヘルパーの資格を取ろうとして、勉強しています。その中で先天性障害者の親離れについて書かれたものがあります。子育てに悩まれている方も、参考になると思いますので、抜粋します。子供が大人になるための重要な課題は「自立」です。特に思春期の特徴とも言える反抗期は「親離れ」のためのステップであり、親の干渉を排除し、同年齢の仲間との親密な関係の中で切磋琢磨し、親とは異なる自分の価値観を形成していく過程です。わたたしは小さいころから教師に「親に反抗するな。親に逆らうのは最大の親不幸である」こんな考えを教えられ、そのとおりだと思い成長してしまいました。親から見れば反抗しないおとなしい、聞き分けのよい子でした。でもその代わりいまだに、乳離れのできないマザコンになってしまいました。いまからでも遅くはないと思い、自立を目指す、50男です。
2005.06.09
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私の日記の常連さんに、すみれ姫さんがいる。二、三日前に彼女の日記を読んでいたら、友達について書いてあった。失礼な言い方かもしれませんが、女性でもこんな友達関係があると気付かされました。興味ある方はトラックバックしましたので読まれてください。最近結婚された新婚さんなのですが、感性が鋭いです。文章を一度読まれるとわかりますが、人間としての大きさも感じます。スミレ姫さんの日記で、現実で会うことがほとんどなくても、友達であることができることが書かれていました。生きることを真剣考え行動されている方には、こんなことが現実にあるのだと思いました。そんな考えに浸っていたときうれしい知らせがありました。私たち母子が短い間でしたけれど、幸せに包まれていた、大府での生活。私はそこで、10年も住んでいません。しかもいまだに会いたい友達の多くは、小学校時代の同級生です。それも転校して来たため、小学校の五、六年の二年だけです。中学校はその当時の大府では、一校しかありませんでした。だからなんと、四つの小学校から児童が通ってきました。ただでさえ団塊世代で児童が多いのに、すごいマンモス学校でした。55×15。このくらい児童がいたと思います。だからどうしても、私が今でもあって旧交を深めたい同級生は、小学校時代の友になるのです。しかもたった二年間の。いまから思えば、不思議でした。いつの世も転校生は、馴染めずいじめの対象になったものです。でも私にはそんな記憶はまったくないのです。だから今でもその二年間は、そこだけ特別に切り取られた大切な時間になっています。それ以前の小学校の思い出はほとんどなく、中学校の思いでも小学校での同級生を中心としたものです。私が人生でつらいとき、苦しいときいつもそこに立ち戻ることが多かったものです。いろんなことがあり、大府を去りました。私には確信めいたものがありました。何かわたしにとって助けが必要になったとき、助けてくれるのは彼らだろうと。でもこうも思いました。生きているうちに彼らに出会えることはないままになるかもしれない。そうなったら私の人生は、何事も挑戦をすることもなく終わるのだろうと。20年前にチャンスはありました。私が一大決心をして、看護士になろうと看護学校に通おうとしたときです。親しい同級生の多くは、医者になっていました。彼らのアドバイスをもらいながら、遅まきながら人生を歩もうとしました。でも弟が不幸な死に方をしたので、やめました。大学に入ったときには父の死。もう一回勇気を奮って、人生にチャレンジしようとしたときは、弟の死。この二つの出来事で私の神経は参ってしまいました。もう心から人生を前向きに生きることなど考えられなくなりました。この三十年大いなる、ウツであったように思います。母が認知症になり、どこの病院にかかるか決めかねていました。でも私には、わかっていました。心の命ずるままにするならば、大府の病院しかないと。そして大府に行き、同級生に会って助けを求めろと。でもここで母の抵抗にあいました。「お前の同級生の○○君たちに会うのいやだよ」「大府の病院に行けばお前のことを知っている人に会う」「お前が大学を卒業できず、いま何をしているのか聞かれたら、答えようがない」まだ母は、私のことを許してくれていないのです。「あんなに一生懸命がんばって、大学に入ったのに。何でやめたの?」最近いろいろ話し合うようになった私たち。この件についても話し合う必要があると思うのですが、それはやめようと思います。母にはこういいました。「もう昔のことは許してくれないか。「こうすればよかったとか、ああすればよかったとか、反省するのはやめよう」「そうだね、過ぎたことはどうしようもないものね。それより二人でしっかり生きて行こうね」すこしずつ前向きになっていく母子です。わき道にそれましたが、大変うれしいことというのは。母の会話にある、○○君から返事がもらえたことです。彼はいま大府で、整形外科医として開業しています。もう20年開業医として、地元のお年寄りからも尊敬されています。その彼から今度の日曜日の夕方から会おうというのです。どんなメンバーになるか、教えてくれてません。驚かそうとの魂胆もあるかもしれません。私も彼らに会って、助けを請おうという考えは捨てました。たった二年間の付き合いだけで、30年にもわたる不信状態で、「会おうや」。その気持ちが大変うれしいのです。でも実際会えるとなると心が揺れます。皆暖かく迎えてくれるだろうかなど考えてしまいます。でも何にも考えずにあってこようと思います。あえば何かが動くのはわかっているのですから。
2005.06.07
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ガイドヘルパーの講座を、開催している名身会。熱田神宮の中にあります。私も弟もここで七五三の行事をしました。実に50年ぶりにたずねたことになります。母も60年近く前に、ここで結婚式を挙げました。終戦直後のことです。米軍の配慮か、名古屋大空襲でも焼けずに残りました。敗戦後日本も60年。人間で言えば還暦です。長いようで、短かった戦後60年。早いテンポで日本は復興しました。神様の宿る熱田神宮。ここでは時が止まっていなければならないのに、復興の傷跡があちこちに見られます。古い樹木などは人間の手が加えられています。強い風にも倒れないよう、ワイヤーなどで支える。これなどはまだ許せる程度なのですが、私が疑問に思うことがあります。境内を歩く人のために、コンクリートで固めた道。古い木でできた建物の横にある、鉄筋コンクリートの建物。あまりに異様です。古い歴史の残る場所を訪れた時に感じる、自然への感嘆。これがここには感じられないのです。あまりにも自然をいじりすぎているのです。それも不自然な形で。現代文明の中に囲まれた、取り残されたような空間。こんな感じでしょうか。熱田神宮を訪れて、自然の長い営み、ゆったりとした時間に触れる。こういったことに期待すると裏切られる。そんな感じを持つのは私だけでしょうか。いま国際化の中。万博が名古屋でも開かれています。その関係でしょうか、外国の方も数多く参拝しておられます。中国・韓国の方も団体で訪れています。彼らの目にこの古い文化であるはずの、熱田神宮どう写っているのでしょうか。そんなことを考えながら、熱田神宮を後にします。外に出ると、アーケードで囲まれた参拝客目当ての店が立ち並んでいます。でもその多くは、廃業寸前。ところどころもう廃業しているところもあります。でもその中できらきらしている店があります。風俗関係の店です。複雑な思いをして、50年ぶりの熱田神宮参拝を終えました。
2005.06.05
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何とか福祉の仕事をしたいと思っていた。でも現実にはなかなか見つからない。その上福祉関係の施設を、面接するたびに感じることがある。現実には女性の職場であるにもかかわらず、面接するのはほとんど男だ。確かに言葉遣いは、反感をもたれないようにしている。でもほとんどの施設関係者から、気持ちのこもった言葉が聴かれない。面接してやるといった態度が表に出ているようで気に入らない。ひがみ根性のなせる業といえばそれまでだが。福祉の世界でも女性が出世するのには、限界がまだあるのだろう。近くの障害者の方と、20年近くスクラムを組んでいる福祉関係の女性がいる。目の透き通った、私が好きになるタイプの女性です。その障害者の方の家にいったとき彼女がいました。その疑問を彼女に聞きました。「福祉の世界でも、天下りがあるのよ。うちの所長も35歳。県の福祉関係から天下ったのよ。○○さんの言うとおり、いやな男が多いのよ」私も昔はそういういやなタイプだったから、彼女の言葉が胸に刺さりました。そのとき彼女と、その障害者の方から、ガイドヘルパーを目指したらと、アドバイスを受けました。早速名古屋市身体障害者福祉連合会の主催する、ガイドヘルパー養成講座に申し込みました。今日で二回目の講座でした。でもまたまた気付きました。参加者30名のうち、男は私一人だ。今度こそ反感をもたれないよう、隅っこでおとなしくしていようと思います。ココア様からいただいたアドバイス。何も知らない顔をして、隅っこでおとなしくしていよう。とにかく後八回の講座。誰にもいじられないよう、知らん顔していよう。とにかく、福祉の仕事をしたいから・・・
2005.06.03
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昨日れもんさんの日記を読んで考えさせられました。彼女の息子さんが「何でこの世に生まれてきたか」この質問を母親の彼女にぶつけたそうです。息子さんは小学校の五年生。難しい時期に来ていると思います。脳生理学的には、人間の知能はこの年頃に完成されます。つまりその人間としての知能は、この年ごろに完成されその後はそれに味付けするだけということです。でも世間から見ればまだ子供。親から見てもまだ手のかかる時期です。そしていままで遊んでいた友達と自分の違いに気付くのもこのころ。能力差・家庭の経済力差・男女差・・・今まで何の苦悩もなく生きて来れれたのに、これからはそうはいかなくなる。漠然とですが、感じるころだと思います。私も最近自分のことを振り返る時間が多くなりました。私も彼女の息子さんと同様「何で自分は生まれてきたのか」いまだに考え続けています。それが無意味なこととわかっていても考えてしまうのです。男たるもの何か世の中に足跡を残して死ぬ。こんな命題がついて回るせいでしょうか。また彼女の日記を見たコメントでこんなものがありました。スミレ姫さんのものです。私はそんなこと考えなかった。どうやって楽しく生きるかを、考えていた。過去を生きるのではなく、今を楽しく生きる。それが未来を生きることになる。こんな考えをして生きていったほうが、断然楽しい。いまからでも少しずつそういった考えをして、楽しく生きていこうと思いました。久しぶりにほかの方の日記を読んで、考えそして楽しくなった日でした。
2005.06.02
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