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今日は、団塊世代にとっては天皇誕生日。今はみどりの日。呼び方に昭和天皇に対する面影を残そうとする試みで、今度名称が変わるということです。それはわれわれ団塊世代以上にとって、ありがたいことです。35年前の天皇誕生日。私は東大の入学式に出ていました。東大紛争で、一年前新入生の募集をやめた東大。二年ぶりの新入生です。残念ながら赤門での入学式はできず、大田区の体育館を借りてのものでした。これから私は自分がなにをできるか探さなければなりませんでした。私は東大入学が目標でしたので、そのごの人生計画ができてませんでした。考えればずいぶんおかしな話です。何をしたいのかもわからず、大学入学自体が目標となるなんて。今もそういう学生が多いのでしょうか。不幸の始まりだと、体験者は思うのですが。でもその考えも飛びました。父が5月3日に、急性心不全で死んだからです。35年かかりました。私の人生で何ができるのかの答えをだすのに。父の死を受け入れ、弟の死を受け入れ、母と向き合うことで、答えが出そうです。前なら遅すぎたということで、この後の人生も、時の流れに身を任せたことでしょう。でも今度は少し前向きに戦ってみたいと思います。私には、心の支えになってくれる母がいます。認知症になり、会話をしても、つい最近のことも覚えていないので、ふくらみません。でもそれでいいのだと思えるようになりました。これから団塊世代の定年退職が始まります。普通なら私も、その仲間です。あえてそういう状況で、仕事を探しています。福祉の仕事しかしません。団塊世代がこれからの高齢者社会を支え、変えていく。私はそう信じます。若い世代に託す今の、福祉。それはそれでいいのですが、そこに魂を吹き込む。若い介護側と、それを受ける高齢者。それらの架け橋は、私たち団塊世代がしなければならないと思うようになりました。きっとできます。私もその中で、少しでも役立ちたいと思います。絶対に仕事を見つけます。そういう気でがんばってみます。そこで今日の天皇誕生日。何かの記念日にできないかと考えてました。35年ぶりの入学式です。考えた末禁煙再開日にしました。昨日医者と相談しました。初めての経験です。五年やめれば、喫煙経験のない人と変わらない、禁煙効果が得られると教えられました。喫煙期間の半分やめなければ効果がないとの考えは、昔のことだそうです。希望がわいてきました。今度は今までの禁煙最長期間、3ヶ月を更新目標にします。今で24時間たちました。今度はニコチン・パッチの手助けを借ります。ニコチンガムは、仕事をしているとき噛むのは、礼儀を逸する場合もあるので。知り合いの方の息子さんが、今日誕生日なのも何か因縁を感じます。365×5-1=1824この日に何が待っているのでしょうか。またタバコを吸っている私でしょうか。いきいきと高齢者を支える仕事をしている私でしょうか。それとも空の上から、皆さんを応援している私でしょうか。いづれにしても楽しんで生きていこうと思います。
2005.04.29
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昨日の続きです。今アルツハイマー病で、効果が見られるガイドラインをご紹介します。薬物医療では、アリセプトしか認めてられません。それをアルツハイマー病と医者から診断されたら投与すべきである。今の医学会ではその効果のほどは一年ぐらいであるといわれてます。だからこれも早期発見が大事なのです。効果が薄くなる、一年後からでも、投与を続けるべきだとの意見が、今は大半です。ビタミンEは、アルツハイマーの進行を遅らせる可能性があり、考慮されるべきである。インターネットで検索されるとわかりますが、マヨネーズ・アーモンドなどが日常採取できる食品です。私は母に、かいわれ大根をマヨネーズであえて与えています。アーモンドは、アーモンドチョコレートで二、三個与えています。女性ホルモン(エストロゲン)補充療法は、やるべきではない。興奮・精神症状・うつ状態は治療すべきである。母は、側頭葉の衰えもありますが、前頭葉の衰えが顕著です。うつ状態・自発性の低下・感情障害が出ています。これは日々の生活中での改善ができます。これだけでも改善されれば、かなりの希望が持てます。介護者は、教育プログラム・支援システムに参加すべきである。これは私の得意分野です。積極的に参加します。行動の変容、排尿障害への適切な介入、機能的自立を改善する手立て、音楽療法、軽度の運動は、すべて根拠に基づいて支持されている。この中で音楽療法は何が良いか考えました。あまり古臭いもの、民謡、昔の唱歌では、私が歌えません。これでは毎日続けることができなくなってしまいます。ここで長淵剛が浮かびました。しかもテレビなど映像を見ることもしなくなっている母。ききなれているCD ではなく、それらが写っているビデオならもっと良いのでは。大正解でした。「かっこいい、かっこいい」を連発し、拍手までしています。笑うことも増えてきました。「私も長渕を、皆と拍手したい」こうまで元気になってくれるとは思いませんでした。何が何でも、彼のライブに連れて行ってやろうと思います。それと良報がひとつ。新しいケアマネージャーも長渕のファンだそうです。人懐こい、お年寄りの気持ちのわかってもらえそうな、看護士さんです。訪問看護婦もしているそうです。これで大体の今後の母のアウトラインが決まったようです。後は、毎日少しづつでも良いから続けることです。
2005.04.28
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今リハビリというと、理学療法・作業療法・言語療法の三つがあります。いずれも何らかの機能障害を起こされた方のものとしてスタートしています。私も何年か前に、大腿部骨折したときに、理学療法を受けました。母も日に日に衰える自分の足を気にして、整形外科にリハビリを頼みましたが、効果が見込めないの一点で、受けられませんでした。今度痴呆の疑いで、国立長寿医療センターに入院中、このリハビリをしていただきました。とりあえず理学療法と作業療法の二本柱でスタートしました。理学療法は、何でこんなことするのかという顔をして母は、平行棒で歩行訓練をしていました。担当の理学療法士が出産を機に三月で退任するのが決まっていたので、残念ながら効果のほどを確かめられないうちに、理学療法は打ち切られました。歩行訓練も作業療法士に、引き継がれました。松重さんといって、国立でのキャリアは10年。若い方が多い中でこの人なら何か良いアドバイスがもらえると感じ、毎日彼のすることを眺める日々が続きます。母の知能は小学校二年生程度。図形の意味がよく理解できず、三角形を小さい棒を使って形作ることもできませんでした。そして歩行の際の致命的欠陥。左足の変形性関節炎。これをかばううちに、歩き方を忘れたようになっていたのです。パーキンソン病患者のような歩き方。頭が前に出てつんのめるように、よちよち歩きです。だからいつも「こわい。こわい」の連発です。だから歩くとき誰かにしがみつきます。その恐怖心を取り除かなければ歩く意志が生まれません。その作業療法士さんの、やり方を見ていて、感じるものがありました。結果が出ても出なくても、相手(母)を否定しない。目線を相手に合わせる。新しいことに挑戦させない。新しいことに挑戦させないというのは、認知症患者の多くは記憶障害にかかっています。だから新しいことをさせようとすると、できません。これならできるはずだという思い込みの元させると、利用者から拒否の態度をされます。つまり心の通じた会話をしなくなるのです。「私はあのひと嫌いだから無視したのよ」家族からは「あなたはプロなんだから、何とかしてよ!」と悲痛を込めた言葉が投げかけられます。私も過去の母と決別するのに時間がかかりました。母がこんなにもできなくなっていたのを知らず、無理強いした後悔で涙が出ました。でも今は主治医・作業療法士とのいい出会いで救われました。母も「私この一年の記憶がないの。馬鹿になったんだね」「そんなことないさ。それに気づくだけでも進歩だよ」「そういってもらえるとうれしいわ」こんな会話ができるようになりました。ここまでこれたことに感謝します。これもいろんな人のアドバイスに心を傾けるようになったからだと思います。いろんな方のアドバイスから、自分にあったもの、できそうなことからやり始めるといろんなことが見えてきます。その中から試行錯誤しながら、進めていけば良いと思えるようになりました。どれが母に効くか、それはやって見なければわからないのですから。でも私がやってみて、作業療法士のやり方を見て、多くの人が陥りやすい過ちだけは避けてもらいたい。こんな思いで明日からできるだけわかりやすく、書いていこうと思います。認知症で悩まれる家族の方の、参考になればと思っています。
2005.04.27
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トレンドマイクロの、事件に憤慨しているころ。いつも行く喫茶店で、お年寄りと話していた。「こうも、大阪・神戸でいろいろいやな事件がおきる」「やはり地震の影響かな?」「まだなにかあるかな」お年寄りの素直な感想です。家に帰ると、母が興奮している。「お兄ちゃん、あんたの住んでいたとこでしょう。伊丹って」「私の大好きな、田辺聖子さんも住んでるよね」テレビを見ると信じられない光景が。一瞬テロかも、と思った。でも次第にこれが脱線事故だとわかる。10年前に、おきた地震で復興に協力させてもらった土地である。しかも伊丹は私たちが、常宿した宿屋のある思い出の土地。尼崎はよく遊んだ、ダウンタウンの生まれ故郷。23人の死者とのそのときの発表。地震のときと同じように、死者数の増加が予想される。私が深い悲しみに襲われたのは、それだけではない。地震を生き延びた方で、その傷がいえないまま、今回の事件で、尊い命を落とされた方がいるのだろうとの思いだ。私が神の存在を疑う、瞬間だ。母には、列車脱線事故での原体験がある。高等女学校に通っているころの話。母が通学で使っていた私鉄。当時も今も単線です。違うのは当時は、最高でも二両編成だったことです。母の通っていた女学校の近くには、男子の通う高等学校がありました。二両編成の先頭には、女学生。後ろには男子学生。非常時には女子が身を挺して、男子を守る。当時の社会制度を垣間見る、配慮です。ある日母の学校帰りの電車。母の故郷の駅に近づいたとき、ポイント切り替えが行われました。新米の駅員がしたため、ポイントの切り替えのタイミングを間違えました。「ボン・ボン・ボンと体が浮いて、そのうち列車が傾いたのよ」そのとき偶然地方巡業に来ていた、お相撲さんが母のそばに何人かいました。「夢中でお相撲さんの浴衣にしがみついたのよ」当時は女学生が男子の体に触れる。ご法度の世界でした。でもそのお相撲さんはいやな顔もせず、母のするがままにしてくれたそうです。列車は、脱線し傾きました。皆が次々と飛び降りました。母も飛び降りようとしました。でも思ったより窓が高い場所にある。自転車にも、乗れなかった運動音痴の母。「足がすくんで飛び降りれなかったのよ」同級生が励まします。「○○さん、かばんをほかって。そうして思いっきり飛んで」「もうじき列車が倒れるから、早くして」それからの母は、どうなったか覚えていないそうです。ただ無事だったのは確かです。私がこうして生まれたのだから。
2005.04.26
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昨日デジカメを取り込んでいるとき、また転送不能となり、パソコンの調子が悪くなった。去年にもなった。そのときはパソコンの初期化を余儀なくされた。一生の思い出となる、大事な写真も消えてしまった。今回はそうならないよう、デジカメの会社に電話した。電話での応対で、パソコン本体の問題であるよういわれた。パソコンのメーカーに電話してみる。私のパソコンの環境によるもので、パソコン本体の故障ではないよう言われた。これもいろいろ教えていただいた。あれこれやってもよくならない。そこで私がトレンドマイクロの話をした。「多分それが原因でしょう。便利な反面強制的に、パソコンに入り込むので、パソコンの調子が悪くなる可能性があります」「それと使わなくなった、軽いソフトでもなるべく削除したほうがいいですよ」本当に丁寧な対応していただいた。そして早速トレンドマイクロに、アクセスした。なんと去年配布されたソフトにも不具合の可能性があるという。それでは去年、デジカメを取り込んでいたのも、犯人はこいつだったのだ。そこで早速、インターネットによるトレンドマイクロの、ソフト廃止をした。なんとパソコンが、調子いい。早く立ち上がるし、フリーズもしなくなった。高い買い物をしたが、いい経験にもなった。わけもわからず便利だということで飛びつくと、大事なものを失うことがあるということ。去年失った大事な写真は、私の頭に取り込んでおこう。忘れないよう、何回も思い出すようにしよう。
2005.04.25
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母の一ヶ月に及ぶ入院中、毎日見舞いに行っていた。母の顔を見たいこともあったが、地元大府での同級生のその後、生まれた土地の変遷を見たかったからだ。閉鎖病棟を一日に何回も出入りしているうちに、入院患者からは病院職員と勘違いされてしまった。否定するのもなんなので、患者さんの好きにしておいた。あるときずいぶん早く起きてしまった。二度寝はできないタイプなので、そのまま病院にいった。病室に行くと母が見当たらない。「朝早くからご苦労様です。そのお方は今リハビリに行っていますよ」担当の看護士は何にも言ってこないのに、入院患者さんから教えられるとは。憤慨した気持ちを抑えながら、担当の看護士に母のいるところを聞いた。理学療法にいっているという。私は驚いた。母は変形性関節炎をわずらわっていて、今までの病院で整形外科にかかり、何度もリハビリをさせてくれと頼んでいた。でもその度医者は高齢なので効果があまりないだろうとのことで、リハビリはさせてもらえないとの返事でした。それが痴呆に関しての、糖尿病とのかかわりを調べるための入院でさせてもらえるとは。私の主治医に対する信頼は、これでいっそう増した。続きはまた明日から書いていきます。
2005.04.24
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母の主治医からの、糖尿病食事療法の指示。E・N20=1600カロリーEは、エネルギー。Nはナトリウム。つまりカロリーの制限と、塩分の制限。母の好きな嗜好品。コーヒー・オロナミンCに関しては、少しならいいとのこと。あまり好きなものを取り上げると、生きる意欲をそぐので、その辺の加減をしてほしいとのこと。母は、食わず嫌いが多い。とろみのあるもの。生野菜。脂っこいもの。ここ何年か母は、食事の支度ができなくなっている。身体的に両手の握力が落ちている。生きる元気を失ってきた。認知症の問題。いろいろ重なってしなくなった。今までは、出来合いのもの・冷凍食品などを利用してしのいできた。今度の入院から私が全部作ろうと決心した。自分で作らないと、なかなか減塩ができないからだ。あれこれ考えてこうメニューを決めた。ご飯を減らすため、炊き込みご飯にする。野菜をたっぷり入れる。それと鶏肉・こんにゃく。味噌汁を必ずつける。豆腐・あぶらげ・わかめ・小松菜・なめこ。ほうれん草のおひたしを、添える。醤油の代わりに、そうめんのたれをかける。甘くておいしいと喜んでくれる。ビタミンEが認知症の進行を遅らせる可能性があり考慮すべきとの、今の最先端医療での考え。早速インターネットで検索。その中から、マヨネーズを発見。これで一日に採る油脂も決まった。後はどう食べさすかである。いろいろ考え、かいわれ大根とあえて、毎食食べさすことにした。かいわれ大根の葉が緑黄色野菜であることを知ったからだ。白い部分は、淡色野菜。このメニューは一粒で、四度おいしい。今のところまずい、まずいの連発ですが、何とか食べさしていこうと思います。それとおなかが減ったときのおやつ。アーモンドに決めました。これもビタミンEが多い食品です。
2005.04.23
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母は、糖尿病を患っている。ご飯が大好きで、しかも副食は味噌汁。しかもだしをとらず、豆腐・あぶらげを、味噌で仕上げただけのものである。栄養の偏りで糖尿病になったものでしょう。この食生活は、母の生い立ちに大いに関係があります。母は戦前は、かなり手広くやっていた商家の出です。丁稚もかなり多くいました。まかないは家長である、女性が取り仕切っていました。働いてもらう人間には、ご飯と味噌汁。しかもかなりの食事を作るので、味噌汁は大なべで作っていました。肉などは使うことはなく、畑で取れた野菜を入れるだけです。しかも母と同じように、作っていました。栄養の偏りもそうですが、塩分の取りすぎとなります。だしをとっていないのだから、当然味噌を多く入れることになります。漬物も自家製でした。だから母の家系は、脳梗塞でなくなるものが多かったのです。母の父親だけが、がんで亡くなりました。それ以外は、脳梗塞が原因です。母は、糖尿病になったときから塩分を控えめにしていました。何か自分で感じることがあったのでしょう。母の弟で今年68になる、叔父さんがいます。定年間じかのころ手足の痺れを訴えました。それを聞いた私は、それは脳梗塞の疑いがあるから、すぐ病院にいくよう言いました。でも叔父は、父親の死んだ原因である癌しか頭にありませんでした。不思議なことです。身内に脳梗塞が多いのですぐに疑い、病院にいっているものだと思った私が浅はかでした。叔父さんはその後5年もほかって置いて、三年前に発作を起こしました。幸い一命は取り留めたものの、再発の恐れにおびえています。母のすぐしたの妹も、去年脳梗塞を起こしました。幸い叔父さんが経験していたので、大事に至る前に病院に連れて行きました。今病気の多くが生活習慣から来ていることがわかっています。私など禁煙しなければ、父親のように死ぬ恐れがあります。でもここで大きな問題があります。生活習慣がかかわっているので、なかなか改善できないことです。食生活は普段からの努力である程度改められるでしょう。でもタバコは、ニコチン依存症になっています。今母は、私の作る料理で食生活改善に挑戦しています。母だけ新しいことに挑戦させるのはかわいそうなので、私も禁煙に挑戦しています。母は成功できそうですが、私はかなりがんばらないといけません。ここで今の小さい子供達の生活習慣病について。今の子供の危険因子について。まずファーストフードの普及による、コレステロールの増加。慢性的運動不足。つまり肥満による、心血管疾患が増えるということです。心筋梗塞・心房細動が増えることです。小学校・中学校のお子さんをお持ちの方で、肥満で悩みのお方。生活習慣として、固定される前に、何とか食生活の改善を!習慣として固定されると、なかなか改善できません。当の本人が、やろうという意思が生まれないからです。好きのものを、やめてまで将来に備えようとは、思わないからです。
2005.04.22
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私が中学生のころ、近所に真新しい消防署ができた。そのころは田舎だったので、出動もすくなく隊員の方も暇そうでした。学校帰りに遠くから眺めていると、いつも整備点検をしているようでした。私は消防車隊員が、機敏に走り回る姿が見たかったので残念でした。あるとき走らないままの消防車を、期待を込めて眺めていました。いつかっこよく走るのだろうと。「おい坊主、暇ならそばに来て眺めていいぞ」「邪魔にならない」「かまわないさ」憧れの隊員と消防車を比べながら見ていました。何回か見させてもらったころ、「坊主、心臓マッサージを知っているか?」「テレビでよくやっているやつ?」「見ただけではよくわからんぞ。きちんと教えてやろう」消防車を見させてもらっているてまえ、いやいや教えてもらいました。あるときてんかん症状を持つ友人と、山へ自然薯取りに出かけました。彼は、芋の自生している場所をよく知っていたからです。奥深い山に入っていたとき、発作がおきました。前に見たものよりひどかった。見る間に彼の顔が青ざめ、体が硬直していきました。パニックに陥った私は、人工呼吸と心臓マッサージをしようと思いました。彼の胸に手を当てて、体ごと押しました。「ボキ!」にぶい音がしました。肋骨を折ってしまったのです。私は、あわてて山を降り、大人に助けを求めました。幸いにも一命を取り戻したものの、彼は肋骨の骨折で入院しました。母に説得され、一人で謝りに行きました。彼のお母さんに会うのがいやだったので、あわないように祈っていました。でもあってしまいました。逃げ出したいのを必死でこらえ、「ごめんなさい」やっとのことで言いました。「気にしなくていいのよ。これからも○○と仲良くしてね」彼のお母さんさんの、明るい笑顔が今でも忘れません。生兵法は怪我の元。父を心筋梗塞で失った私。母は、それだけは避けたいと思い、今回講習を受けました。今までにも何回か講習は受けました。でもパニックに陥ったとき、冷静でいられるか自信がありません。消防署でも、半年に一回は、再講習を受けてくださいとのこと。今回ご指導をいただいた女性隊員の皆さん。皆さん素敵な笑顔でした。こういった笑顔に出会うと、救われます。
2005.04.21
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もう彼がこの世を去り13年たとうとしています。彼のこの世で過ごした時間はあまりにも短いが、その影響力は今でもすごいと思います。15のよる。この歌は、前に紹介したフィリッピンバーのマスターが大好きでした。今ではかなりの財産を残しています。でもこの歌の強烈なメッセージに引かれ酔うとこの歌を口ずさみます。ある日のこと。家に帰ると彼とその歌を歌う母がいました。初対面なのにかれは、「母さん」と呼んでいました。その後何年かは、家に母を訪れ楽しそうにしていました。母も私と違って、あちこち連れて行ってくれる彼が大好きでした。彼が若いお嫁さんをもらったことが、母との別れでした。店が忙しくなったからと、母にはいって置きました。最近記憶を取り戻しつつある母。二、三日前に彼のことを急に語り始めました。私の知らない彼の一面もしゃべってくれました。幼いころ母をなくし、尾崎豊を好きになったわけも知りました。「ねえ、尾崎豊のビデオある?」「死んじゃったから、もうないのかな?」「じゃ、尾崎豊も頼んでおくよ」「パソコンで?」「そう」「じゃ、今日留守番して待ってるわ」今日は消防署で「救命講習」を受けてきます。母を父と同じ死に方をさせないためです。
2005.04.19
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死んだ弟が生きていれば、47才。昭和32年生まれは、戦後の日本の教育が曲がった年です。弟が小学校に入った年から、教科書の無償配布が始まりました。私はその後、教科書の検定制度問題に対する裁判。家永裁判を知るようになります。教科書の無償配布の問題点を取り上げた裁判です。この問題は賛否両論分かれていて、決着がつかず、いつの間にか風化してしまいました。いい面はだれでも、教科書が手に入る。悪い面は、教科書を意図的に・都合のいいように誰かができること。そしてこの問題は、もう後戻りできないことです。自民党が政治をとり続ける限り変わらないでしょう。だからこの問題についての議論は、無駄なことなのです。議論とはお互いの立場を尊重し、理解し、未来の選択をすることです。マスコミでの意見討論会。あれはかなり偏りがあります。そしてその偏りは誰かの意図が働いているとしか思えないのです。昔の左翼青年が、一方的に街宣しているようなものです。そして誰か強敵な論客が出てくると、意見を引っ込めます。それでは議論にならないのです。日本人は、議論が苦手です。黙るか、高飛車に出るかです。それはみんな自分だけが正しいと思うからではないでしょうか。みんなそれぞれ正しいと思うことをしています。でもそれを全部救い上げることは難しいと思います。意見を交わしながら、接点を探す。膿は徹底的にだす。だした後は、お互いを尊重して協力する。これができない日本。未来は明るいのでしょうか。救いは今の子供たちの目です。まだ死んでいません。その輝きを消さないよう、われわれが見守り、知恵を出す。それをしないと、本当に未来は暗いと思います。
2005.04.18
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世の中DVDに移行するため、VHSが生産されなくなります。20年前に長渕剛が、好きになった母。九州に温泉旅行にいったついでに、桜島での、ライブに行きたいといった母。今あるビデオでは、長渕の映像が見れなくなるのです。母に、DVDが見れる機械を買って、見れるようにしようかと聞くと「私にこれからどれだけお金がかかるか、わからない。 だから新しいものを買わないでね」でも母は、見たいのだ。長渕剛が歌っているのを。死んだ弟の結婚式で、乾杯を好きになり、私にそのCDをせがんだ。母のことを考えて、買い求めた。ある日家に帰ってみると、一人さびしく大声を上げて泣きながら聞いている母を見た。乾杯を聞くたび、弟のことを思い出すのだろう。「母ちゃん、つらいことを思い出すならなるべく聞かないほうがいいよ?」「うん、泣かないから、聞いていい?」「それならいいよ」その後何年か過ぎたころ、ラジカセが壊れたのを幸いに、ほかって置いた。聞かなくなれば、母もつらい思いをすることはないだろうと考えたのだ。10年前くらいのころ。「CDが聞けないなら、ビデオで見れるようにしてくれない?」普段ものを買ってくれとせがまない母。よほどのこと買おうかと思った。でもまた毎日一人で、泣き暮らす母を想像するとできなかった。「今あまりお金がないから、そのうち買うね」「ビデオたかいの?」「うん、1万円ぐらいするのもあるよ」「そんなに高いなら、いいわ」今回がVHSを、買うチャンスだと思った。新品はもう買えないので、中古を安く買い求めた。残念ながら、母の好きな乾杯を歌っているVHSはない。でもよく聞いている、東芝時代のものを買い求めた。昨日ついたので、母に見せてやった。「わー。かっこいい。長渕は最高。高い声がすき」「よかったね」「私もあんなふうに、拍手しながら聞きたい」
2005.04.17
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退院に当たっての主治医の話。左側頭葉に萎縮あり。それよりも前頭葉の働きが鈍っている。人間の感情をつかさどるところなので、意欲低下が激しい。母は生きることに疲れたのでしょう。それでいろいろ思い当たることがありました。詳しくは、これからの日記に書きます。前頭葉で思い出したことがあります。私の人生での暗い部分です。もう30年位前になります。今で言う精神障害にかかっていた私は、東京郊外の病院に入院していました。俗に言うキチガイ病院でした。病院というには、程遠い施設でした。医者は、精神科医が一人。それもアルバイトの若い医者で、まわしていました。患者を見る目が冷たくとても心を開けるものではありませんでした。極めつけは、看護婦です。元患者を、採用していました。しかもまだかなりの重症患者でした。入院患者からも「あいつの目は怖い。男日照りが長いから、まだ治っていない」若い患者だった私などは、彼女から薬をもらうたび、股間を触られていました。その彼女も25、6才くらいでしたでしょうか。男の患者の多くは、アルコール依存症。そのころはアル中と呼んでいました。女の患者の多くは、女性特有のものに起因したものが多かったです。本当に社会から隔離された、暗い世界でした。母との、格闘で母子がはじめて向き合えるようになりました。わたしも自分を見直しています。そのころのことも、これから書いていこうと思います。前頭葉の話に戻ります。私が入院していたころ、額の真ん中に外科手術の痕がある患者が何人かいました。ロボトミーといって、前頭葉を削除された患者です。キチガイの多くは感情の起伏が激しい症状を呈します。それでその感情をつかさどる前頭葉の一部を削除するという、暴挙がなされたのです。昔の医学書にロボトミーなる項目が載っていたので、かなりのキチガイ病院で、その手術がなされたものだと思います。いつの世にも、差別が存在します。結核患者・知的障害者・身体障害者・精神障害・薬害問題・民族問題・・数え上げたらきりがありません。日本の一番いけないところは、くさいものにはふたをする精神です。マスコミの目に留まったときだけ騒ぎます。時が過ぎれば、何もなかったように、振舞われます。だから私はマスコミを信用できないのです。最近では、神戸の地震・サリン事件も風化しようとしています。問題が起こったとき徹底的に解決していないので、また同じような事件が起こるのです。今児童の虐待・女性の虐待が、大きく取り上げられています。これは最近起こった目新しい事件ではなく、昔からあることなのです。それに核家族の問題などが複雑に絡み合っているから、新しいように感じるのです。最近の事件で心を痛めたことがひとつ。児童が、火をつけて、二酸化炭素中毒でなくなわれた事件です。これは近くに防空壕があるとか、学校の対応が悪いとかの問題ではないと思うのです。火を使うことの危険性を、児童に教えれない今の社会構造が問題だと思うのです。私が小さいころ、火を使うことは、木造建築の多い当時では、火災の危険が大きかったのです。それでかなりの人から、子供たちだけで、火遊びをする危険を、注意されたものです。ではこれらの事件を防ぐ手立ては何かと問われると、これしかないように感じます。困っている人・危険に陥る可能性のあることを見聞きした人は、そのつど声かけをすることです。困っている人には、何かできることはありません。危険に陥りそうな人には、そんなことをするとこうこうで、危ないよ。勇気の要る行為ですが、この小さな一歩からはじめることで、少しずつですが、いい方向に社会が向かえると思うのですが。私たち母子の、最近始めた声かけです。「おはよう」「ありがとう」「今日もいい一日だったね」「明日も何か、いいことがありそうだね」「おやすみ」「うん、みんなに感謝して寝るわ」
2005.04.16
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┌─────────────────────────────────┐│○o○ ││o○ ムッチー看護婦の ││○ ○││ ~ 徒 然 な る ま ま に ~ ○o││ ○o○│└─────────────────────────────────┘ 2005.4.6 。o○最終回号○o。 ――――――――――体の悲鳴がすぐにわかる人、そうでない人、いろいろな人がいる。多くの人は、体の悲鳴をわからず、その時々に流されているにちがいない。そういう私も明らかに後者のタイプだった。からだの悲鳴が聞こえず、いつも(がんばろう!大丈夫!!)と気持ちが優先し、いろいろなことを行い、生きてきた。結果、病気になり、初めて自分と対面し、体の不可逆的変化、疾患の前で、私は患者という立場になった。キュープラーロスの「死の瞬間」という本にも書かれているように、病気を前にしたとき、人は心の葛藤を経験する。最初「私が・・・!?」と衝撃を受け、「そんなはずはない!」と否認する。そして間違いでないことがわかると「そんなバカな!」と怒り、次に「もしあの時、ああしてたら・・ああ、しなかったから」と、心のうちで取引きをする。「なぜ私が・・」と悲嘆し、こうした取引きをした後に、「受け入れるしかない」のだと受容する。そして、「こうして行こう」と、やがて希望を持つのだ。こういった心の葛藤を通過していくのだが、私も少なからずそのことは、経験することが出来た。病気は、患者に気づきをもたらすためのサインともいう。サインを見逃さず、病気が治ればそれが一番だと思う。私は、自分の生活を振り返り、食事を振り返り、休養を振り返り、何一つ体に思いやりの気持ちを持っていなかったこと、行動していなかったことに気がついた。患者となった私は、私なりにどうすればよいかを考え、今までの生活を改めることにした。病気を自分を見直す機会と捉えることにしたのだ。厳しい環境下の救急センターでの仕事は、ある意味やり甲斐のある仕事ではあったが、体を酷使した。三交代勤務の「日勤深夜入り」などは、日中働いたその夜中に、また次の勤務として出て行き、クタクタになって働き、体に相当負担をかけていた。だから、三交代勤務のない職場に配置換えを希望し、夜眠る生活に切り替えた。食事は、インスタント食品を含む食品添加物のものをなるべく避け、手作りの栄養価の高いもの、野菜をきちんと採り、体を温める食品を採るように心がけた。睡眠を考えて、コーヒー好きの私だったが、飲む回数を減らし、夕方以降のカフェインは断つようにした。心と体はつながっているという。体が病むということは、私の心はどうなのだろう。救急で仕事をする中で、責任の重圧で押し殺してきた私の思いを、開放してあげることが必要だった。私はさまざまに生活を変えた。病気は、悪者ではない。病気になった原因が必ずあり、病気は、医者や薬が治すものではない。「病気を治す」という自分の「意思」が強く必要であり(=諦めないこと)、それは自分自身が治すものである。医者や薬はその手助けにしか過ぎない。その甲斐あって体は少しずつ良くなっていったのだが、いつしか体をいたわることを忘れ始めた頃、今まで出なかった症状が新たに出現した。・・・・・。こんなに一所懸命してきたつもりなのに、いったいどうして私の体はまた悪くなるのか。小さい頃、私は学校を休むのが大嫌いだった。もともと病気はしない方だったが、ある時、朝40度の熱が出た。しかし、翌日の学芸会での小さな自分の役があるかと思うと、母の反対を押して学校に行き、帰ってくるとそのまま倒れ込み、結局、次の日起きられず休むこととなった。その小さな頃の性格が、今も大して変わらないように思う。その性格にも起因していると思う。目立つことを嫌う自分、波風を起こすことを嫌う自分、勇気のない自分、頑張りすぎて無理をして、無理をした結果、自分すらわからなくなる。病気であるということも意味があるというのなら、心と体が切り離せないというのなら、またその意味を考えていかなければならない。私は、また再び前を向いて進んで(変えて)いこうと思う。一人ではない、人に支えられてこうしているのだから・・・感謝して・・。 ムッチー さ┃い┃ご┃に┃…┃ ━┛━┛━┛━┛━┛ 休み休みのメールマガジンではありましたが愛読していただき、 時に励ましのメールや感謝のメールを送ってくださり、 本当に勇気付けられました。 つたない文章でご迷惑もかけたとおもいますがお付き合いくださいまして ありがとうございました。 私のわがままで少し充電期間をとりたいと思っています。 「ムッチーの徒然なるままに」は今回で終了という形をとらせていただきますが またしばらくして違う形でお目にかかれたらと切に思います。 メールマガジンを発行するにあたり多くの方に支えていただき 感謝いたしております。本当にありがとうございました。ここに私が昔から敬愛する看護士さんの無念がかかれています。理想家は、早死にしやすいとも言います。でも今の社会は、多くの理想家に支えられてここまで来ました。戦場で家族を守るため、敵を倒したのも理想家の行動だと思っています。自分だけがかわいい人は理想家に、成れません。他人のためにも生きようとする多くの理想家が、未来の社会を切り開いてくれているのです。遅まきながら私も、理想家の一人として生きていこうと思います。ムッチーさん、早くよくなられて、またすばらしい文章を読ませてください。ここで彼女からもらったメールの一部を紹介します。『介護を楽しくするには・・・とふと考えました。会話をすること、笑うこと、愛すること。現実に看護の厳しさを知っていますが介護を楽しく出来ることが理想です。おじいちゃんやおばあちゃんのかわいらしさを楽しむように』これからの私の理想となるお言葉です。どうもありがとうございました。
2005.04.15
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今世の中は情報があふれています。昔なら考えられなかったことまで、公開されています。そこで問題となるのが、どれが正しいのか、どれが良質な情報なのかです。私は昔から、日本のマスコミを信用していません。日本のマスコミは、新聞から発展してきました。新聞の報道は中立という立場をとっています。どこの国でも中立の立場で報道する新聞はありません。それほど中立という立場が難しいのです。国が右よりの体制ならば、左よりの立場に立つのが中立でしょう。だから日本の新聞は左寄りに沿って、発展してきました。そこへラジオ・テレビなどが登場します。だからそれらのマスコミも左よりの立場に立てば、問題ないのです。でもそれらにはそうすることができません。スポンサーなるものがいるからです。だからNHKは、中立の立場に立つために、国民からお金を徴収して、報道しているのです。今世の中は大きく変わっています。20世紀での最大の社会運動。共産主義が曲がり角に来ているからです。というより終焉でしょう。いまはキューバ・中国・北朝鮮などが共産主義を取っています。共産主義国家は、かってはアメリカを中心とした西側国家の敵対国でした。それらの多くは今は、西側国家と歩み寄ろうとしています。当分はジレンマが続くでしょう。それらの国家のジレンマと同じように、今の日本のマスコミもジレンマにさらされています。自分たちの存続を考えれば、スポンサーの意向を汲み取らなければならないということです。今私の知る限り、金というものでコネが効く唯一の世界が、マスコミだと思うのです。それもテレビ。言い換えればテレビで流される報道はすべて、スポンサーの意向で流されるということです。そんな偏った報道が真実とみなされ、多くの人が信じてしまう。恐ろしいことです。災害が起きるたびに思います。人気取りだけで、政治家は被災地訪問をするなということです。そして災害が起きるたびにいやな記事を目にします。災害が起きたとき、多くの政治家が、自分の用事を優先することです。海外視察・親睦ゴルフを優先して、被災地訪問を伸ばした例は、数多くあります。後でマスコミ操作をした例など最近でも多いです。そんな時私の怒りは爆発します。いい加減にしろと。今真実の報道・良質な情報をどのようにして手に入れるかです。これがこれからの、大きな問題です。私がしていることはこうです。金が動く情報はあまり信用しないということです。今私の信用している情報はすべて無料です。インターネットは、さいしょはボランティアでした。無料でした。だから無料を装い、後で金が要るようになる、今のインターネットビジネスは信用できなくなりました。だからアフィリエイトもやめました。今の日本でのアフィリエイトでは、利害関係が複雑に絡みすぎて、どれが良質なものか見極めるのに苦労するからです。私に残された時間は多くはないです。それを今のアフィリエイトに費やして、悪戦苦闘することはできなくなったからです。私の楽天日記は、その意味で金が動かないことをコンセプトにします。そして良質な情報とは、心から心へ伝わるものだと思っています。その心とは、自分を大切にし、他人を尊敬できる、人間本来の持つ仏さまのような、純粋な心だと思うのです。
2005.04.14
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一ヶ月に及ぶ入院でした。今回の入院でこれからの希望がわいてきました。それもこれも、病院での年寄りに対する、尊敬の念で医療にあたる。このコンセプトが隅々までいきわたっているからでしょう。この二週間母を見舞った後で、温泉に入っていました。早い時間平日は、お年寄り・そのお孫さんがほとんどです。みんな笑顔が素敵です。若い子供たちから元気をもらい、お年寄りから知恵をもらう。本当にありがたい、二週間でした。「坊や、またあおうね」「おじいさん、いろいろありがとう」「またどこか出会いましょう」「こちらこそ、おげんきで」こんな会話があちこちで飛び交います。夢のような時間でした。今までの人生が走馬灯のように、駆け巡りました。私のこれからの人生の道が見えたようです。若い世代から元気をもらい、お年寄りから知恵を授かる。その橋渡しが私のこれからの、人生での役割でしょう。何とか、福祉施設での仕事を見つけたいと思います。職安にいっても、年齢の問題もあって、なかなか難しいです。でも何とか見つけます。それと今回の温泉でうれしい話をひとつ。私は、アメリカが攻撃されたとき、骨折で入院していました。もう五年くらいたちました。その間に足をかばい、びっこを引くようになっていました。それが温泉につかっているうちに、元気になり、うまく歩けるようになりました。宝くじに当たったようなものです。この宝くじにあったような幸運を大事にして、これから生きていこうと思います。
2005.04.12
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母の退院が決まりました。4月11日の大安です。今の病院では、看護士長が、入院患者の退院を決めます。国立では入院を心待ちにしている人が多い中、ご無理を言って、少し延ばしてもらいました。今まで母は、仏滅も気にしたことなく退院していました。今回の入院は、母子の新しい旅立ちです。大安を狙って退院を決めたので少し伸びました。大府というのは、わたしたち親子四人がつつましくも楽しく暮らした土地です。母はまえから大府の病院に来るのを嫌がりました。わたしの同級生に会う恐れがあるからです。世間に背を向けたような、息子を恥じていたからでしょう。今回この病院に連れてくるとき聞きました。「誰かに会うことを恐れるより、病気のことを考えようよ」「うん、○○ちゃん、頭が馬鹿になったからね」「それは俺にもわからない。先生に聞いてみよう」「うん、それがいいね」そしてこうも聞きました。「おれの同級生で誰に会いたい?」「○○君と、××君と、○×君」みんな医者の息子で、親のあとをついで、医者になっているものばかりです。わたしが小学校のころ彼らと仲良く、将来は医者になろうといっていたのを覚えていたのです。でもわたしの学力では、国立の医学部に受かるのは難しく、彼らが親の金で医者になっていくのをみながら、疎遠になりました。○○君の父親も医者です。わたしの父が急性心不全で亡くなったとき、看取ってくれて、死亡診断書も書いてくれました。彼は親の残した土地ではなく、25年前に違う土地で開業していました。近所の年寄りに聞くと、「あんな良い先生はいなさらんよ」それを聞いて、うれしくなりました。わたしは彼に手紙を書きました。35年に及ぶ音信不通を素直にわびました。しかも郵便ポストに投函したのではなく、玄関のポストに自分で入れました。返事がなければ、許してくれないものと思い、会うのをあきらめようと思いました。でも彼から返事が来ました。そして今年の末に同窓会をやるから来ないかとの誘いでした。彼の友達から聞いた話があります。彼が親の金で、医者になることを悩んでいたときのことです。「丸まる君、おれ医者になるのをあきらめるわ。君みたいに頭がよくないし、どうせ医者になっても、親の金でなったといわれるのがつらいし」「何を言っているのだ。親の金でなっても医者は医者だ。そんなことで後ろめたさを感じることはない。将来お年寄りに慕われる医者になれば、誰も何にも言わなくなるよ」彼は心が軽くなり、医者を目指したという。この話は、わたしは忘れてしまっています。彼の作り話かもしれません。でもわたしは、大変うれしいです。俺もずいぶんかっこいいやつだったんだな、と思えるからです。
2005.04.09
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昨日のことがなければ、もっと楽しい甲子園いきになるはずでした。病院で母を見舞ったあと、温泉で疲れを取ります。昨日は外出許可をもらって、母と二人で、はいるつもりでした。車椅子を押しながら、温泉前を歩いています。「○○君では?」懐かしい顔が笑っています。小学校の同級生です。彼とは高校時代にあって以来です。もう40年近くの年月が流れました。母の様子をみて彼が、ささやきます。「お母さんどこか悪いの?」「今ドコドコ病院に入院している」「ここであったのは何かの因縁だ。 今日名電が勝ったら、あす甲子園に行かないか」「いいのかいっても」彼は、名電OBで、野球部の後援会をしているといった。今年の春の甲子園の、キーワードは「万博」です。大阪万博対名古屋万博そしてその予感どうり、名古屋対大阪の戦いになりました。わたしにとってどちらも思い出深い万博になります。30年前に月の石を見た大阪万博か、それとも母子の新しい出発となる、名古屋万博か。どちらにも勝ってほしいのが本音です。でも明日はとりあえず名電側につきます。両校がんばれ。悔いのないように。精一杯戦って、負けたら素直に相手をたたえましょう。勝っても、おごらずに相手を認めましょう。久しぶりにどちらが勝っても、楽しい思い出となる、甲子園です。
2005.04.04
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今日は、このテーマで書くつもりでした。明日、優勝でも、準優勝でもこのことに触れます。わたしの予想では、また準優勝か、それとも、歓喜の雄たけびを上げるか。予想を交えながら書くつもりでしたが辞めます。その理由を今から書きます。母の入院している病院は、国立です。今全国の国立を普通の病院をしていくなか、二年前に、国立としてスタートしました。病院の入り口には、これからの高齢者社会を支えるべくの理念が書かれています。涙が出るほどの言葉が書かれています。医者・看護士・作業療法士・・・などの医療経験者が、利用者を支え、その家族を支えようとの理念です。母の入院している痴呆病棟は、電子ロックがかかります。閉ざされた社会です。でもそのなかで、退院したあとも、なるべく利用者がそのひとなりの普通の生活ができるよう、試みがなされています。わたしは母の入院する病院に毎日通っています。もうそろそろ一ヶ月になろうとしています。病院は、24時間動いています。入院患者がいるからです。土曜日も、日曜日も、夜間も動いています。国立なので、基本的に、土日は休みです。少ない人数でやりくりしています。だから病院での、土日・夜間は大変です。言い換えればそのときが手薄なのです。土日に出てくる介護士は、若い人か・定年まじかの人しかいません。若い人はよくやってくれています。年寄りがだめです。太っていて、根が生えたようです。今日母と、名電の勝ちが決まった瞬間、万歳をしました。根の生えた・太った・根性悪そうな看護士が言います。「ほかの利用者さんがいますので、静かにしてください!」鬼のような顔をしていました。それならあなたは、自分のよく知っている、利用者と毎日大きな声で雑談しているのは何だ。切れかけたわたしを、母がそっと手を握りました。やめました。でもわたしは、明日匿名で、病院の意見箱に、そのことは、要望として書きます。苦情ではなく。その看護士は前に、母と同室の人にこんな話をしていました。「○○さん、どこの歯医者にかかっているの?」「××です」「あそこは、やぶでしょう、行かないほうがいいよ」○○さんは、あとでこんなことを言っていました。「あすこに、行けといったのは、嫁だ!やはり嫁が悪かったのだ!」こんな馬鹿看護士は、早くやめてしまえ。前のわたしならそういうでしょう。でもその人もかわいそうな人だと考えるようにします。でも要望だけは、病院に伝えます。母に利害が及ばない程度に。
2005.04.03
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高校野球で、名古屋電気高校が、勝ちました。悲願の優勝まであと二つ。夢の愛知県同士の、決勝まで、あと三つ。今日東邦高校も、戦います。がんばれ。愛知県では、新空港もでき、万博も開催されています。痴呆に関してのスタートは、京都からでした。早川一光(はやかわかずてる)先生が、「わらじ医者京日記」を出版され、それがNHKで、ドラマ化されたことがきっかけでした。母が「わたしは、こんなには、ならんわ」と笑っていました。もう20年前くらいのことです。恍惚の人という言葉がはやっていました。昨日のことのように思い出します。その早川先生のご尽力で、呆け老人をかかえる家族の会がスタートしました。今わたしもその愛知県支部の会員です。早川先生も愛知県の横須賀生まれの方です。母の通っている、国立長寿医療センターの近くのお生まれです。運命的なものを感じます。その病院を中心として、高齢者の医療が始まろうとしています。病院はもと中部病院といい、今の名前に変わってまだ二年です。若いスタッフに力をもらいながら、先達の知恵、利用者その介護者を、絡ませながら、動き始めました。まだ認知症の世間での理解は、ひくいです。国立長寿医療センターは、戦前は、結核の治療をしていました。当時は不治の病として恐れられていました。世間からの偏見のもと、かなりの人が自ら命を立ちました。そういった歴史のもと、その病院はこれからの高齢者問題に挑戦していきます。呆けの問題です。わたしはむかしからいつも考えていました。わたしは何ができるのだろう。何をして世間に恩返しできるのだろう。やっと答えが出たようです。わたしは今から挑戦します。老人医療専門のケアマネージャーになることです。早くて8年ぐらいかかります。昔ならわたしの年を考えて、挑戦しなかったでしょう。でも先読みせず、今を生きることにします。愛知県の流れに乗ってみようと思います。それには、介護施設でまず働かなければなりません。この前ひとつ面接に行ってきました。回答はまだ来ていません。ことわられたらまた違うところを探します。どこかあると思います。それと少しでも長生きしたいと思いました。母の入院している病院で、できるだけの検診も受けました。今のところ問題ないそうです。27歳の長身の女医さんでした。かなりの美人で、動揺しました。女医さんからのアドバイス・これから毎年、人間ドックを受けること。・禁煙すること昨日母を見舞いに行って、喫煙室でタバコをすっていました。誰かわたしの肩をたたきます。そこにその女医さんの、やわらかい笑顔がありました。「先生、わたしがすっているのは、命の煙です。今本数も減りました。母の状態がよくなっているので、これからもっと減ります。それで勘弁してください」また素敵な笑顔を浮かべ、何もいわず行ってしまいました。やばい、また病気が出たぞ。彼女に惚れたかな。
2005.04.01
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