2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全15件 (15件中 1-15件目)
1
退院した病院の帰り、水族館に寄った。シャチもいる、大型の名古屋水族館です。ライブのテレビカメラもついていて、子供さんの明るい笑顔も映し出されます。若いお嬢さんの合図でイルカが、飛び跳ねます。「わーすごい、イルカさんはオリコウさん。私はお馬鹿さん」歯のない口を広げて、大騒ぎ。「パチ、パチ。いっぱいご褒美のえさをもらいなさいね」「イルカさんも、飛びたくない日もあるだろうに。 寝てたい日もあるだろうに。えらいね」「花も、動物も、子供もうそをつかないから好き」「誰が一番うそつきなの?」「おまえ。大学卒業して親孝行するといったのに」あらま、まだ許してくれないか。
2005.05.29
コメント(6)
抜歯とはいえ手術。緑内障手術についで二度目。低血糖障害での昏睡による入院が一回目。それから10年。全部で七回の入院です。そのうち五回が、この二年の間の出来事です。糖尿病が35年。それに伴っての変形性関節炎も30年。それ以外に糖尿病による、合併症もなく無事に生きてこれました。でも母の心に巣食った心の病の、根は思いのほか深かったようです。母のストレスの多くは、結婚を契機に生まれたようです。回船問屋の長女として生まれた母。太平洋戦争を契機として、運命が狂い始めたようです。でもその狂いがなければ私は生まれていないでしょう。母が貧乏な父と結婚するわけないからです。敗戦で世の中に男が少なくなった、産物での結婚でしたから。母の世代の多くの女性が意にそぐわない、結婚をしています。母も好きな人がいたのですが、戦死しました。男ならかなりの心理的ダメージが残ります。その点女性は強い。生きていこうと決めた瞬間から、前しか向かないからです。潜在意識を利用して、成功するやり方。あれなどは、情けない男どもの、救済方法と思うことがあります。こうと決めたら、やりぬく・継続する力は女性のほうが勝っていると思います。子育てにしても、男は口出しできますが手出しはしません。でもこれからは、核家族の問題もあり、男女協力していかなければならないでしょう。それには男がかなり意識改革しなければなりません。「主婦はいいな。だんなが働いている間、寝てられるのだから」こんな考えの男が今でも多いのでしょうか。私も母の介護がなければ、そういった古典のままの人間でしたでしょう。しかも厄介なことに、口だけはたつ、冷たいままの人間に。いま私は思います。人としての幸せは、健康だと。そしてひととしての、痛み・感謝知らずになることがどんなに不幸なことか。人よりいい生活をする。人より金を稼ぐ。人より、人より・・・これではきりがありません。いつの間にか自分を見失い、健康・心を損ないます。幸せとは単純なことです。健康。家族の笑い。友達との団欒。それにはゆったりとした自分の時間をとりもどすことではないでしょうか。
2005.05.28
コメント(5)
昨日抜歯の手術が終わった。事前に看護婦さんが尋ねる。「手術は初めて?」「はい」もう去年の今頃、目の手術をしたことを忘れている。でももう良いと、思えるようになった。手術が終わって、帰ってくる。口に挟んだ、脱脂綿が赤くなり痛々しい。「お疲れさん。最初で最後の手術が終わったね」「うん、癌で手術はしたくないからね」「抜いた歯はどうする」「お棺に入れておくれ。弟とお父さんに見せてあげたいからね」「今日で、完全禁煙三日目だよ」「もう無理しなくて良いよ」二年前の日記にこう書いている。テレビで見た。やはり喫煙は、癌の元だそうだ。死んだ父親もタバコの吸いすぎで、心筋梗塞を起こした。高校生のころ父親に、タバコを吸うなら外ですってよとひどいことを言っていたのに。いつの間にか父親のようになっている。息子を肺がんで、失いたくない。私が先に死にたい。今日からは心を鬼にして言おう。「私は肺がんで死にたくないから、外ですって!たばこをやめろ!」
2005.05.24
コメント(6)
明日母が、抜歯の手術をする。一時間ぐらいかけて、慎重にするそうです。持病に糖尿病を抱えているので、最悪のシナリオで脳梗塞などが考えられるそうです。母の家系は女系家族です。代々婿さん、母もそうなるところでした。日本が戦争に巻き込まれていった昭和初期。母のおじいさん。婿さんでした。家族、商売で使っていた使用人を集めて、母を嫁に出すことを宣言したそうです。「皆も不満があると思う。特に私の女房は不満だと思う。でもこの婿さんが続く家系は私で終わりにしたい。だから孫の男の子に継がせる。継ぐ子がいなければ、商売はやめる」こう宣言して、皆を驚かせたという。いまから考えるとすごい人だと思った。でももっとすごいのはそれを許した、大ばあさんだったとおもう。小さいころ私にこう漏らしていた。「皮肉なもんだ、婿さんをやめたとたん。孫の長女が男の子を産んだ。私は、お前に継がせたいよ」何の話かよくわからなかったが、今はよくわかる。商売をやっていると、自分の死んだ後が気になるのだ。大ばあちゃんは、早くに母の婿さんに商売を教えたかったのだろう。そして安心して、死にたかったのだろう。商売を継いだ叔父さんは、母と一回り年が違う。大ばあちゃんは、しっかりしているうちに、代々継いだ商売が続くことを見届けたかったのだと思う。頭がしっりしているうちに。
2005.05.22
コメント(2)
最近今日をいきいき生きることを考えます。フリーページにも「いきいきと生きる」と題した本を紹介しています。歯科医の立場から、高齢者の皆さんがいきいき生きるとは何かと問われかかれたすばらしい本です。この本を読んでいて、思います。いきいき生きるとは、今日を楽しく生きるということです。団塊世代の教えられた、未来に備え今日を生きるのではないということです。いつ終わるかもしれない未来に備えるのではなく、現実にある今日を楽しく生きることです。過ぎた過去を悔やむことでもなく、来るかどうかもわからない未来を憂えることではないのです。この考えをするようになって心が軽くなりました。今日を楽しく過ごせれば、いいのです。過ぎ去った過去を、反省することをやめる。これだけでも心が軽くなるのです。そして今日をいきいき生きることを、続けるにはどうしたら良いのか。将来健康を損ねる危険因子を日ごろから取り除き、生活習慣にすればいいのです。肥満・禁煙・ストレス・依存症・・・これらを少しでも取り除く習慣を早くから、確立すればいいのです。早ければ早いほどいいのです。ファーストフードに慣らされた世代は、将来肥満に因る心筋梗塞、糖尿病、脳梗塞などが憂えられてます。今の若い主婦の方もファーストフードによる便利さから逃れません。近くのファミリーレストランに行けば、手軽に食べれます。経費節減に努めているファーストフードなどは、危険因子がいっぱいです。楽をすればそれだけ、失うものが多いのです。何を失うか、それは健康です。近所でも肥満の子をよく見かけます。彼らも努力はしています。運動部に入ったりしています。でも決して直らないでしょう。彼らの食生活に問題があるからです。彼らはよく間食します。それも手軽に買える、危険因子の詰まった物で。しかも彼らの母親も、一緒になって、食べています。その多くの母親は、ファミリーレストランも大好きです。作る手間が省けるからです。そしてそのうちの何人かは、タバコも吸います。危険因子の連鎖です。どこかで断ち切ることをしないと、ひ弱な子ばかりが増えていきます。いま私は禁煙に挑戦中です。なかなかうまくいきません。ニコチン依存症になっているからです。いまは外に出かけているときは、絶対すわないようにしています。すうときはベランダで、プランターの花に水をやりながら吸っています。家の中を大掃除して、ニコチンのついた家具などをきれいにしたからです。それに母に、受動喫煙させないためです。毎日を健康に生きるため少しからだと心を、鍛えようと思っています。近くのヨガ教室に通おうと思っています。時間が許せるなら、ずーと参加したいです。昨日教室の無料体験してきました。やはり想像していたとおりでした。女性人の好奇の目にさらされました。なんと男性参加者はいまのところ一人もいないそうです。火曜日の午前に体の空いている人は、50代の元気ある女性ばかりなのです。健康のことのみを考え、教室に通わなければなりません。「あんたなんで独身なの?」「あんた東大に入って、何でやめたの」こういう質問から、逃れなければなりません。がんばるぞ~
2005.05.21
コメント(10)
痴呆に関する家族の会に今年参加しました。この回はもう20年余り活動していて、社会的にもかなり認知されています。私のお世話になった方からの進めもあり、参加しています。家族支援これがこの会の基本コンセプトです。大変すばらしい取り組みだとは思います。ただストレスがたまるのです。なぜなら参加者のほとんど、支援者のほとんどが女性です。しかもほとんど子育て経験のある方ばかり。痴呆以外に、子育てという共通項があります。だから共通言語があります。彼女たちは、談笑に花が咲きます。だから私たち男は、孤独になるのです。介護の現場でも、看護でも、なおかつ家族の会でも、周りは女性ばかり。かなりうんざりします。何がうんざりするのか。まず私の存在が特異なのでしょう。いい意味で言えば目立つのです。しかもかなりの厄介者です。なぜなら女性の多くは、群れたがります。小さなグループができたら、少しでもより多くの人を取り込もうとします。自分に女性としての魅力があると意識する人は、かなりてこずります。そして魅力を失いつつある、戦う女性もてこずります。婦女子は、養いがたし。意見交換ができないからです。意見交換といえば、相手を言い含めることではないのです。皆が正しいと思うことを、素直に意見を出す。意見が食い違う場合は、どこかで寄り合いを見せなければなりません。でもよく言えば、自立心が強い。悪く言うと、我が強い。こういうと多くの女性から、反発を食らいます。それは決め付けすぎ、頭が固いと。私もわかっているのです。女性すべてがそうでないことを。男性がすべて正しいといっては、言っていないのです。ただ孤独な戦いを強いられるのです。いま孤独な状況ですが、そのうち女性でも共感できる人が出てくるでしょう。男性の介護者でも、尊敬できる人物に出会うでしょう。いまは一人でも、現実に意見交換のできる人間と出会いたいです。見えない世界、インターネットでは、限界があることを知った、今日この頃です。母が、抜歯入院で再入院しました。今度は10日ばかりです。この入院で今後の母のことを決めなければなりません。退院後の一ヶ月で、いろいろやってみました。介護保険でのサービスの見直しもしました。でもいろいろ不具合も出てきました。悪いとこは早めに直したほうが、良いです。デイサービスを二つ使っていましたが、ひとつをリハビリもしてもらえる、デイケアにします。週に三回程度、訪問の鍼灸士さんを頼みます。マッサージをしてもらうと、母が一番喜ぶからです。訪問リハビリも考えました。家の中でノリハビリですから、現実的です。トイレもできるようになるでしょう。でも悲しいかな、それまでも使うと介護保険の自己負担になってしまいます。あきらめざるを得ません。私が家で、できるだけ母にしてやるようにします。
2005.05.19
コメント(6)
私がこの市営住宅に引っ越して、もうじき二年が立ちます。早いものです。引っ越した当時母は、人並みの高齢者でした。いま認知症と戦う母、それを介護する息子にと変身しました。その前に母は、去年身体障害者になりました。視野障害という軽い程度の障害です。それまでそんなもので障害者になるなんて考えても見ませんでした。でも障害者手帳をもらうと、いろいろな支援制度があることがわかってきました。それを障害者という立場でアドバイスいただいた、方がいます。私より少しお姉さんです。彼女はいわゆる難病患者です。多発硬化症。フリーページに、難病がわかるホームページをリンクしてあります。ご参考を。発症して20年余り。彼女の生い立ちもすさまじいものがあります。それは伏せさせていただきます。なお一人娘さんは、当時高校生。そしていま、下の妹さんが、がんによる、終末治療を受けています。一人住まいの彼女は夜、玄関を施錠しません。いつでも救急車が入れるようにしているからです。難病のホームページを最近よく見ます。膠原病など普段よく耳にするものを、少し詳しく知っておこうと思ったからです。リューマチなども、膠原病の範疇になっていることを知り驚いています。でもいろいろ見ていると、私にとって興味深いことを発見しました。どの難病にも、発症原因にストレスが絡んでいるのです。私はストレスとは、外部からの目に見えない力が、体内を攻撃する力とでも考えています。たとえば、紫外線・電波・対人関係から来る無言攻撃(あいつの顔を見るとむかつく)将来の不安・・・特に最近では本来自然にあった、紫外線などのストレスのほかいろいろ増えています。受験戦争などというものは、子供・親を巻き込んだ大きなストレスになります。そんなことを考えていたら、悲惨なことに気がつきました。ストレスが病気の大きな原因であるなら、人類の未来は非常に暗いということです。なぜなら進歩すればするほど、ストレスは増えるのです。今は病因が特定されずに、科学の力が及ばないものもいずれはわかる日が来るでしょう。でもそれがわかるときは、また新たな病気が発見されるということです。終わりなき戦いです。認知症も発見されて80年余り。今では人類の存亡をかけた問題になりつつあります。でもまだ癌なども克服されていない。国家予算は、どんどん膨れていきます。福祉予算など、道路を作ることに比べれば、日陰みたいなものでした。でもいま人類は多くの間違いに気付いています。開発すればするほど、多くのものを失うと。ここ名古屋でも、木曽川河口堰の問題、藤前干潟の問題を多く抱えています。一度開発計画がなされると、利権問題などが複雑に絡み合い、なかなか白紙になりません。間違いは早く改めたほうがいいのです。できないのは、多くの人間が自分のした間違いを素直に認められないからです。いまこそいろんな人の意見をすり合わせ、いい方向に持っていかなければならないと思うのです。でも残念ながら、その日はまだ遠いでしょう。テレビなどの討論会を見ていると、まだ自分の意見を「大声を上げてごり押しする」他人の意見など、聞く耳もたぬ。自分が一番正しいんだ。こんな態度の人が多く感じられます。まだまだ日本人は、議論が苦手です。議論自体が大きなストレスになります。ストレスになるなら、黙っていよう。良心ある人の多くの態度がそうなります。どこでも盛んに仕切りたがる人が多いですからね。なんか書いているうちに、またストレスがたまってきたぞ。明日最近ストレスを感じることを書いて見ます。
2005.05.18
コメント(6)
愛知県のお隣、三重県に、長島というところがあります。木曽川、長良川に囲まれた小さな河口の町です。いま日本の土木技術の発展は目覚しく、3000メートルぐらいは軽く地面を掘れるようになっています。ということは、金をかければ、温泉はいまどこでも出るようになっているということです。古い温泉宿は、バリヤフリーになっていることが少なく、なっていても、家族風呂は値段が高くしかも温泉でないところもあります。いまテーマパーク作りがあちこちでなされています。目玉は、温泉・花・健康です。小さい子供も、お年よりも安心して遊べる施設でなければ、人が集まらないようになっています。ここ長島でも古い温泉施設がつぶれ、新しいコンセプトの元、町づくりがなされています。温泉も新旧とり乱れて、七つもは入れるところがあります。みなバリヤフリーをうたっています。でも実際この目で見て見なければ、どの程度母みたいな高齢者・障害者にやさしい、使いやすい施設であるかわかりません。この前一日かけて下見してきました。その中で、名古屋市が、障害児・者、高齢者に対して提供している、温泉ホームがあります。時代の流れで社会福祉協議会が、委託で運営し、今ではどんな方でも利用できるようになっています。一泊6000円。名古屋市の国民保険を利用している人は、5000円で泊まれます。近くの方は休息もできます。760円の入湯料と昼食代600円ぐらい払えば、三時間ぐらい温泉に入っていられます。ほかの施設でよくある、家族風呂使用料はかかりません。それともっといいのは、昼前から使用可能なのです。施設の経費削減の元、多くの施設が三時ぐらいからの利用となっています。いろいろなことを考えこの施設でこれから利用していこうと思いました。そこでこの前ためしに、休息でいってきました。障害者に対する配慮もかなりされていました。「気持ちいい、気持ちいい」の連発の母。「お前が生まれたとこまで洗ってもらうなんて、情けないからだになって」うれしさと、無念さが交互します。母の心のゆれが感じ取られます。でも、気持ちよければいいのです。今日が少しでも楽しければ。いま母に聞きました。「温泉どうだった?」「私温泉なんて、この20年行ってないわ。ましてやお前に恥ずかしいところを洗ってもらうなんて。そんなうそをつくんじゃないよ」あれあれ、まあいいか。
2005.05.16
コメント(14)
昨日母と温水プールに行ってきた。前からプールでの歩行訓練が良いとは知っていました。もう4年前くらいから、最初のケアマネージャーに頼んでいました。高齢者が安心して入れる温水プールを調べてくれと。その答えはとうとう、もらえませんでした。忘れてしまったのでしょう。今では自分で調べたほうがいい、自分の目で確かめ、行動したほうがより良いとわかってきました。ケアマネジャーだからと言って、詳しくはないのです。それに一人一人の利用者の、肌合いがわかり、将来を考えてくれる能力のある人は、ほとんどいないのが現実です。去年母が身体障害者の認定が、決まりました。いま介護保険と、障害者福祉の両方が使えます。でも基本的には介護保険で使えるものは使うよう行政の指導がなされています。介護保険は、集金が確実なシステムになっているからです。それと障害福祉は税金でまかなわれます。この二つの違いが混乱を招き、その境目を確実に把握できるケアマネジャーがいない現実。そこで利用者個人の、自己努力が必要になるのです。自分で調べまくるのです。いま行政でも民間の施設でも、聞けば親切に応対してくれます。だから聞かなければ、始まらないのです。納得できるまで、聞きまくりましょう。それも体力勝負・忍耐勝負になるのでストレスもたまりますが。昨日行った温水プールは、日々使えば母に効果があるでしょう。でもひとつ問題があるのです。施設が古いため、障害者・高齢者に対応できていないことです。一番のネックは、着替えです。男女一緒に着替えができる場所がない。そこで障害者トイレでの着替えになります。そこにはもちろんロッカーがありません。ロッカーは男女別なので、着替えたもの・着替えは私の使う男用ロッカーに入れなければなりません。温水プールを使った後、かなりのストレスを感じてしまうのです。母も私も。そこで県外の新しい施設、そこに行ってみようと思います。少し遠いのと、利用料金が、二人で700円かかるのです。市内の施設を利用すれば、障害者とその介護者ということで、ただなのですが。快適に使えれば700円くらい安いものだと思っていってきます。
2005.05.12
コメント(5)
昨日の母の日に、カーネーッションを送った。カリフォルニア・ロマンスというネーミングと、きれいな黄色に引かれて、鉢植えを買った。照れ隠ししながら「やるよ」「めずらしい。ありがとう」目を大きく開いて、びっくりした母。トイレの前に飾ってやった。用を足しながら「花はいいね。うそをつかないから」私に対する皮肉かなとも思ったが、しょうがない。母に一度も感謝の意味で、花など贈ったことがないのだから。団塊世代の、苦手なことである。飯がうまい、感謝している、ありがとうの言葉を素直に出せないのです。団塊世代の男を夫にした奥様。団塊世代の男を父親に持った、子供さんたち。どうかご理解を!決して感謝知らずではないのです。どう表現して良いのか、わからないのです。団塊世代の男たちに、愛の手を!
2005.05.09
コメント(8)
20世紀を代表とする、偉人。アインシュタインは別格でそれ以外を考えます。いろいろありますが、私はこの三人を上げます。ハッブル、フロイト、アンデイ・ウオーフォール。彼ら四人の業績もさることながら、顔が好きです。彼らの偉大さ、理想の深さを知らなくても、写真を見れば多くの人がひきつけられます。若いころ、この中の、ハッブルに憧れ、50歳くらいになったら、こんな感じの顔になりたいと思っていました。残念ながら、思いは達せられませんでしたが。ハッブルは宇宙が膨張していることを発見した、天文学者です。その名は、宇宙望遠鏡に残されています。彼の顔は哲学者、理想家の顔をしています。それ以外に私の好きな人がいます。彼は19世紀の人です。シュリーマン伝説の人物となりつつある人です。歴史家でもなく、探検家でもなく、単なる金持ちでもない。ただ私が思うには、かなりの理想家だということです。それでなければ一代で築いた財産で、古代文明の発掘。しかも当時単なる昔話にしか過ぎなかった、ミケーネ・トロイの文明は必ず昔にあったという信念だけで、できるものではなかったということです。昨日彼のことを書いた本を読み返しました。昔と違った発見をしました。彼の発見の多くは、妻にかかっていたのだということを。彼だけに業績の多くは集中していますが、妻の協力なくしてはできなかったということです。妻とともに築いた財産。それを惜しげもなく投げ捨てる。妻の協力がなければできないことでした。やはりパートナーの存在が必要なのです。夫は妻。妻は夫。兄弟、姉妹。多くの家族。友達。仕事の相棒。いろいろなパートナーがあります。人間一人でできることはたかが知れていると思うのです。そんな単純なことを55年かかって知ったおろかな私です。でもいまからでも遅くはない。そんなことを気づかせてくれた、シュリーマンの伝記と、母の介護です。
2005.05.08
コメント(4)
朝方まで母と、私の小さいころの話をしていた。そこへ一本の電話。「もしもし、○○だけど、亭主とお宅に伺っていい?」母の一番下の叔母である。朝の7時に急に電話して、遊びに来るという。思い立ったら行動する、叔母らしい。年の近い姉弟のように育った私たち。乳飲み子を抱えて、わたしたち母子のもとに逃げ込んだ30年前。一度結婚に失敗し、実家に帰りづらくなっていた、叔母。母のもう一人の叔母と一緒に、だんな様に会った。「もう二度と酒は飲まない。妻子に暴力は振るわない」その言葉通りに、もう30年断酒している。その乳飲み子も、今年嫁ぐ。それらのからみがあって、だんなさまと、顔をだすという。30年ぶりにあうだんな様。昔のぎらぎらした面影はなく、いいおじいさんになっていた。いい笑顔である。来年定年退職する叔母のほうが、やつれた感じである。久しぶりの再開。そして父と弟の位牌に二人で手を合わせていただいた。今名古屋は万博でにぎわっている。夫婦二人で、もう二回も行ったという。それと近くでイタリア村も、オープンしている。だから二人は、イタリア村か、金の鯱を見に行きたいという。私が名古屋城なら母も、みにいけるから、一緒に行こうといった。四人で、金鯱を触った。別れ際、「義姉さん、金鯱触れてよかったね」「ああおかげさまで、冥土の土産ができたわ」再開を祝して、分かれた。帰り道「母さんよかったね。娘さんの結婚式にも出ようよ」「ところで、妹のとなりにいたお人。あれ誰?親切な人だったが、よくわからんわ」あれあれ、この話は永久に秘密にしなければ・・・
2005.05.06
コメント(6)
昨日母と近くの藤前干潟に行ってきた。あいにく満潮で、野鳥はほとんど見えなかった。祭日なのでボランテイアの野鳥の会の方が親切に母が見えるように望遠鏡をセットしてくれる。ただ認知のためか、目が悪くなっているのか、見えないといって寂しそうに、下を向いてしまった。「あんたは見たいのだから、見なさいよ」という。近くの公園で、母と赤いボール玉でキャッチボールをする。国立長寿医療センターでやっていた、リハビリからヒントをもらったものだ。母は生まれてからこんな遊びをやったことがなく、ボールを力いっぱい投げつける。「ごめんね、運動音痴だから。目も見えないし」家に帰って、母と寝ながらテレビを見る。「明日の、デイサービス休んでいけない?」「疲れるのかい」「それもあるけど、こうしてお前と手をつないでいられるのが後どれだけかと考えると、 寂しくなるから」退院後、私が仕事に出かけれるよう、新しいデイで週二日増やした。でも仕事が決まらず、まだ家にいる。「私のわがままだとわかっているけど、寂しいから。 お前といるのが一番いい」母のやさしさに触れた一日でした。
2005.05.04
コメント(6)
この前の日曜日、水俣病に関するシンポジウムが名古屋で開かれました。この手のものは大概東京だけで開催されます。今回名古屋で開かれたのでいって来ました。私たち団塊世代は、ほとんどが左翼的な考えをしていたものです。でもその運動にかかわった多くのものが、どこかへいってしまったかのようです。社会党も、かっては自由民主党と二大勢力であったことなど、ほとんどの人が忘れてしまっています。労働者の権利を守る組合も、かっての力はなく、メーデーなどというものは、たんなる暦の上で発見される行事となっています。栄枯盛衰が世の習いとはいえ、寂しい気がするのは私だけでしょうか。この前4月29日は、昭和天皇誕生日であったことを書きました。若い世代は知らないと思っていましたがここまでとは思いませんでした。愚公さんなどは、おばあ様が、その日に生まれていたのに、ご存知でなかった。これだけでも、日本の社会の陥っている問題がうかがわれます。若い世代に教える、システムが壊れていると思うのです。車の運転で言うと、今の自動車学校でも、キープレフトを教えていないとこもあるそうです。知識としては教えているのでしょうが、道は広くなり、車の性能も上がっている今の日本。キープライトで運転しているほうが、早いし、駐車している車を、迂回するのも面倒だ。こんな考えの方が多くなっているのではないでしょうか。戦後60年余りたちました。廃墟の日本から、ここまで復興しました。急激に膨れた財産。それを食いつぶした行政。あわてて構造改革に取り掛かっています。もう日本は豊かでなく、貧乏なんです。でも今の若い世代はそう感じているのでしょうか。多分そう思っていないでしょう。ものはあふれて、買ったほうが安いものが多くなりました。いい物を長く使うより、安くて使い捨てにしたほうが便利だ。こんな考えが多いように思われます。便利になれば失うものが多い。何を失うのでしょうか。私は、心だと思うのです。人を思いやる優しい心。今まで歩いていた若者が、自転車に乗り、車に乗る。そうすると歩行者優先・弱者優先の気持ちがなくなり、乱暴な運転をする。無法者の運転者が横行する。企業も大きな矛盾を抱えています。存続の元、人件費の削減が求められました。多くの企業は、中堅という働き手がすくなくなっています。一部の幹部職と、多くの若い働き手。それをつなぐ、中堅が少ない。いまのJR西日本でも、例外ではありません。でも大きな矛盾を抱えても、社会は動いていくのです。私は矛盾を抱えてもそれを隠さず、皆の知恵ですこしでもよりよくすることはできないか考えます。いやできる、そう思わなければ、希望が出ません。私も孤立無援と思われた、去年のころ。もうどうなってもいいやと思ってました。でもインターネットで、現実の中でいろんな方の支援を受けるたびに、心がほぐれていくようです。それで私の心が母に伝わるのか、少しずつですが、元気になっていきます。本心は、やさしく向き合ってくれた私と、24時間側にいたいのでしょう。「私デイに行きたくないの。少しでもお兄ちゃんの、側にいたいの。もうこうやって、手を握れるのも長くはないだろうし」昨日水俣病の話をしながら、母が語った本心でしょう。水俣病の患者さんと、今の自分の姿をダブらせたのでしょか。「母さん、そんなこというなよ。生きる希望がなくなったら、生きていけなくなるよ」「そうだね。生きていれば何か良いことあるからね」また母の前でなきなくなるのをこらえて、手を握り、眠りにつきました。
2005.05.03
コメント(2)
ここ最近日本で大きな地震、震災がおき続けています。福知山線での列車事故も、いろんな意味で震災でしょう。意見は控えますが。今の60代以上は、戦前派といって原体験で、戦争を経験しています。ここ名古屋でも、大空襲がありました。名古屋には、三菱重工という軍事産業があったのでそれが狙われたのです。じゅうたん爆弾攻撃という言葉があるように、爆弾であたりかまわず、根こそぎで、壊滅しようとしたアメリカの作戦です。若い方はその後のベトナムでのアメリカのやり方、最近ではイランでのやり方。それらを見ればわかっていただけるものかと思います。国民性はそんなに大きくは変わらないので、想像力を含ませていただければ、ご理解できると思います。鬼畜米英と言っていたやからが、戦後のアメリカ指導による民主化政策で、アメリカ万歳とやった、変節漢も当時いました。何人かいますが、日本の変わり身の早さを知る事実です。そのうち一人に、私の小学校の校長がいました。世の中にこんないやなやつがいるかと思った、最初の人間です。戦後の傷跡が消えようとしたころ、ある台風が来ました。伊勢湾台風です。インターネットで検索してもらえれば、詳しくわかります。私が住んでいたところは、死者もほとんど出ませんでした。でも東海道本線は、1週間不通となり、電話もない時代、情報がデマと混ざり飛び交いました。そのときの校長は、名古屋市内に住んでいて、学校にこれないというので、ほかの先生が対応しておられた記憶があります。今はどうかわかりませんが、校長などというものは、学校の行事があって初めて、顔を知る生徒が多かったので、誰もその存在を気に留めませんでした。先生で名古屋からこられている人がいました。私の担任もそうでした。学校に行くと、副校長に呼び止められます。「東海道本線が、動くようになった。校長先生が、君の担任との連絡が取れないので、様子を見てこいといっている、クラスを代表して君が行くことになった」二、三人の生徒と、副校長で行方のわからない先生を探しに行きました。確か三名ほどおられたように思います。名古屋で降りて、南に掘川沿いを歩きます。すると信じられない光景を目にします。死体を野焼きにしているのです。深く大きく掘られた穴に死体を入れて、それを焼いているのです。戦争体験者の方であったでしょうか、かなりの高齢の方が手馴れた様子で、仕事をこなしていました。そこで引き返せばまだよかったのです。でも副校長は、がんばってしまったのです。校長によく思われたい一心で。われわれ生徒を、激怒することで励まし、もっと南下します。名古屋を流れる堀川。江戸時代から掘られた人口の川です。当時は大きな木材を運んでいました。それが川に何百本もつながれていました。それが川の増水とともに、あふれ出し、民家を襲ったのでした。熊手をご存知ですか?神社などで、枯葉をかき集めているものです。あれで人をかき集めていたのです。私は人間の背中が、熊手とともにむけた瞬間を見たときから、記憶がなくなっています。それからどれくらい歩いたのでしょか。「坊主大丈夫か?」真っ黒に日焼けした、熊手をもち、半被を着た青年に呼び止められます。白い歯が印象的でした。よく見ると、彼もまだ若い高校生ぐらいでした。「誰を探しているんだ。親か同級生か?」「僕の担任の先生」「どこから来た?家はどこだ」「○○」「大変だな、一人できたのか?」後は言葉にならず、ただ泣きじゃくっていました。人前で泣くのは男児の恥と教え込まれていた私でしたが、涙が止まりませんでした。見ず知らずの他人の優しさに触れて、心が素直になっていたのでしょう。渡る世間にも仏はいることとを知った、日でした。その若い青年に救われて無事家に帰りました。そのとき校長は、ベンツという高級外車に乗って、長野の温泉に出かけていたのを知ったのは、ずいぶん後でした。名古屋に住んでいて、部下の教師を探さずに、自分はのうのうとしている。しかもそれを自分より年上の部下と、生徒に押し付けて。教師という存在も汚いやつがいることを知った日でした。私の愛知県の教育不信の芽生えた日でした。でもそのうち受験戦争に巻き込まれ、その体験を生かせないまま、過ごすことになりました。地獄と天国を見たような気がした、長い一日でした。
2005.05.01
コメント(6)
全15件 (15件中 1-15件目)
1