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縁あって覗いてくださるみなさま、コメント下さるみなさまへ。いつもありがとうございます。今年はなにかとあって、インプットもアウトプットも満足にできませんでしたが、たのしい一年になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。ことしはとにかく野球一色でした。そしてインドでした。なんだかんだいって、本はボチボチ読んでいたけれど、映画は観られなかったなあ。ここで紹介できたのは70作品くらい。半分は感想を書かずに終わってしまいました。新春早々、家人の転勤が決まっており、7日にお引っ越し。札幌の近隣都市なので、単身赴任してもらうこととして、わたしはここに居りますが。お手伝いはしなくちゃ。それに絡み、年末は電化製品の買い物が多くて大変でした。わたしの乗る車も必要になるため、中古車屋さんをいっぱいハシゴしたのも疲れました。軽自動車には乗りたくないと・・・とりあえず、古いゴルフのポロ、赤に決めました。人生二度目の外車ですが、古いから壊れないことを祈ります。年末なのに、部屋には段ボールに入ったままの荷物。テレビ、レンジ、冷蔵庫。布団に書類類多々。早く片付かないかなー。古いソファーと子ども部屋のタンスも持っていってもらうのだー。そして我が家には新しいソファーがお目見えするのだー。・・・そう、計画だけは密かに。いろいろな入用が過ぎたら、買おう。憩いのソファー。 大掃除もままならず、午前中に年賀状をポストに投函。小さい家人たちのいる忌々しい冬休み、、、一日中ごはん作ってる気がしてうんざりする。映画もゆったり見られやしない。見せられないような映画を見てるわたし。きょうは手巻き寿司、年越し蕎麦。(インスタントになる可能性大)毎年恒例の『ダウンタウンのガキの使い』笑ってはいけないシリーズをみて年越しです。そして『ゆく年くる年』でしょう。来年も変わらずに、おもしろい一年になりますように。がんばりまっしょい。それではみなさま。よい新年をお迎えください。ご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
2010.12.31
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今年すっかりはまったタブッキをまた読んだ。難解な遊び心が、前2作に比べるとやや読みにくいがおもしろい。まるでひとり笑いであり、自己充足的な喜劇性への進展――だそうだ。注釈にあるタブッキの言葉。内証的であって当然の物語。 ある夜運びこまれた身元不明の男の他殺遺体。死体置場の番人スピーノは、不思議な思いにかられて男の正体の探索を始める。断片的にたどられる男の生の軌跡、港町の街角に見え隠れする水平線――。 (データベースより) スピーノの身元探しの彷徨が、いったいどこに辿りつくのかは予測不可能で、ただ静かに背だけ見える出口へ向かって読み進んだ。これまでと同じように、ふつうの小説作法とはちょっとはずれたところで物語は作られていく。首をかしげつつも、魅力的な文体に引っぱられる感が癖になる。生者スピーノが、死者の身元を求めてさ迷う――。恋人がいてもどこか冷めていて、友人との関係さえずれたスピーノが、なぜこの他殺死体にはこだわるのか。彼の行動は謎めいていて暗示的で、断片だけの手掛かりを得ながら真実に近づいていく。結局それでどうなったかなんて、説明できそうもないほどに、不思議で掴みどころのない心の旅路だった。著者自身にとっては、自己の充足を得られた大事な作品なのだそうだが、読者の満足度は、そのためあまり大きくない。雰囲気で読む作品といえそう。押しつけがましく訴えてこないと、なんとなくこちらからにじり寄ってしまう、そんな一冊だった。前2作同様、翻訳をされているのは須賀敦子さん。この方の訳がまた流れるようにスマートな文章で読みやすい。タブッキの文章の妙味を、きっと見事に捉えてらっしゃるのだろう。わずか数頁のなかで、端的にタブッキの魅力と作品解説をされる訳者のあとがき、毎度読むのが楽しみなのだ。来年は、須賀敦子さんのエッセイ作品など読んでみるつもり。 「ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では、偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目に見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ。」 (本文より)
2010.12.31
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全編スチール・カットと、ナレーションのみで描く、SF映画の異色作。人類の99パーセントが死滅した未来。生き残り地底人となった科学者たちは、第三次世界大戦で荒廃する前の世界へタイムトラベルし、未来を救う術を求めている。ある時ついに、ひとりの捕虜が時空を超えることに成功した。男は見覚えのある女性と知り合い、彼女と行動を共にして、任務を遂行していくのだが――。 幼いころに見た記憶の断片が、大きな伏線となっていく。飛行場の送迎デッキ、そこで銃殺されるひとりの男。彼が生きた過去は、彼の記憶のなかにある確かなリアルで、子ども時みたあの怖ろしい光景はまさしく自分の死なのだった。主人公の過去への望郷の念、まだ破壊される前のパリの街、人類、そして恋した女性。地下に潜む未来では、過去の地球は美しく、すでに失われてしまったことの切なさがそこはかとなく感じられる。モノクロのスチールのみ、あとはナレーションのわずか29分のドラマ。それぞれのスチールはとても儚く美しいとはいえ、30分も続くころには退屈さを覚えてしまうけれど、ただの動画ではこんな濃厚なムードは出ない。佳作といわれる所以がよくわかる。ワンシーンだけ動画の場面があるので、静止画の連続とおもって油断しているとうっかり通り過ぎてしまうかもしれない。深い印象を残すための仕掛けがまた乙だった。 好きな映画、ギリアム監督の『12モンキーズ』(1995年製作)はこちらを元ネタとしている。すいぶんエンタテイメント性が増して、物語が膨らんでいたが、たしかに本作が原点となっとく。デジャブが確実にあるべきラストシーンへと終結されていく展開はかなり秀逸だ。† † †監督・脚本/ クリス・マルケル 製作/ アナトール・ドーマン 音楽/ トレヴァー・ダンカン 出演/ エレーヌ・シャトラン ジャック・ルドー ダフォ・アニシ(モノクロ/LA JETEE/29min)
2010.12.27
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映画館から帰って、再読してみる気持ちになって、久しぶり読み返してみた。教えられていたとおり、わたしの感じ方は変化している。読書中も読了後も、20代半ばに感じたモヤやイライラを、それほど感じなくなっていた。ワタナベや直子やレイコや緑の気持ちを受け入れられたのは、もっと大人になったからかもしれない。精神の病という、救ってやれない病気の直子を見守り続けると誓ったワタナベの苦しみは、どれほどだろうと同情することができる。感情移入もできる。ただ、愛なのか責務なのかわからないまま、目の前にある緑との恋愛を巻き込んでいく様は、やはり釈然としなくてイヤだった。今回読んでいて気がついたのは、緑が、覚えていたよりずっと苦労して傷ついていたことだ。子どものころ両親に腹いっぱいの愛情を注がれなかったこと、父親や親戚の看病に明け暮れてクタクタであること、恋人との関係がうまくいっていないこと、、、それでも快活にしている、可愛げにワガママを言う彼女が好きだ。映画の緑役だった水原希子に、苦労の色が見えないのは、だから今思うと残念だった。ただの身勝手なお嬢さんに見えてしまうのが、もったいないのだ。直子役の菊地凛子と、配役が逆でもよかったかと想像してみるが、それでは壊れた直子の凄味は出ていなかったろうし、むつかしい。性についてオープンに語る会話劇は、いまではなんの違和もなく読み進んでしまう。初めて読んだ8年ほど前は、会話そのものを嫌っていたのだけど。『ノルウェイの森』は、愛読家で純文学を好む人には拒絶される傾向がある――らしい。純文学が好きだけれど、本をあまり読まなかった頃より楽しめた、やはりこれは年齢や経験を重ねた自分の変化ということかしら。時が経っても変わらないのは、長い―という感想。赤と緑の装丁が当時としてはよかったのだから、上下巻は必然なのかもしれないけれど。 追記。 改めて映画を思いおこすと、小説にある死生観の多くは、描き出されてはいなかった。たくさんの時を要した出来事と、短い期間で起こった出来事と、そういう時の流れが持つ大事なニュアンスが伝わりきれなかったのは残念。それでも、やはり日本の1960年代という独特な時代の匂いがこの小説には大切で、トラン監督が切り取った自然の美と時代の切なさが相まった映画化は、失敗作とは思えない。小説を後から読み返してみたのも、よかったのねきっと。
2010.12.23
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交通事故で記憶を失った兄ハルオと、兄を愛する妹アイス。アイスは自分を恋人と偽り、ふたりで暮らすようになるが、やがてハルオの記憶は徐々に戻り始める――。 90年代の大好きな雰囲気にほだされて、とても惹かれてしまう。気だるい昼下りに、ひとりで観ていたい。淡い逆光の部屋。生活感のない日々。アナーキーな日常に映るとしても、彼らに流れている思いはとてもピュアだ。病院から連れ帰ったハルオと暮らしはじめるのは、一脚のイスと、大好きなアイスクリームを入れる冷蔵庫だけの殺風景な部屋。ふたりの生活を守るため、アイスはなんの迷いもなく売春を繰り返していく。記憶を失った無垢なハルオは、その真実を知らないまま、無邪気に暮らしている。遠くに聴こえる解体現場の音。街の喧騒。 とびきり美しい映像に、内容のダークさと破壊する行為はよく似合う。常識やモラルにがんじがらめでいることから解放されるカタルシス。インモラルな恋愛だとしても、カタチはどうあれふたりの幸せを願いたくなる。やがて、回復したハルオは、近所の解体現場で働き始めた。記憶が戻らない限り、このままずっと幸せが続けばいいと願うのに、兄は少しずつ記憶を取り戻してしまう。戸惑い、未来を悲観したアイスは、彼の前から忽然と姿を消し、そして兄は、妹を愛していたことと、彼女の切ない嘘をはっきりと思いだすのだった――。タブーとはいえ、幸せな結末がしっくりときた。愛の結晶が生まれるなんて、たしかにびっくりな展開だが、この際なんでもありさえ許してしまえるほど、無垢な面を持ち続けるふたりの恋愛は好きだった。けして一般ウケはしないだろうけれど。† † †監督/ 矢崎仁司 脚本/ 宮崎裕史 小野幸生 矢崎仁司 出演/ 趙方豪 由良宜子 奥村公延 (カラー/118分)
2010.12.19
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純粋青年の初恋と、彼が起した奇跡の物語。監督は、本編が初の長編となる青森出身の横浜聡子。全編とおしパワフルで、そして津軽弁。ゆえに、字幕ありを余儀なくされるでしょう。 青森で野菜を作りながら一人暮らしをしている青年、水木陽人(松山)。ある日、野菜を売りにいった幼稚園で、東京から来た新任保育士の町子先生(麻生)と出会う。一目で恋に落ちた彼は、彼女の気持ちも考えず、ただひたすら猛烈アタックを開始する。一方、町子には、事故で死んだ彼氏がいて、彼の吹っ飛んだ首がいまだ見つからない、、という過去の苦悩を抱えていた――。障害をもった陽人は、単純すぎるほど純真で、町子先生はうんざりと戸惑いを隠せない。ずっとハイテンションのやかましい彼にイライラしてくる頃、ある事件が起こる。近所の少年と畑に埋まって遊んでいたら、頭から農薬を散布されてしまい、翌日から体調が芳しくないのだ。そのせいでいつもより少し大人しくなった陽人に、町子先生の一言・・・・。「今のほうがいい」彼は、「農薬を浴びる=町子先生に好かれる」と信じ、日々納屋にこもっては農薬のシャワーを浴びることとなる。子どもみたいに無垢だから、町子先生がほしいとなったら欲しいし、ぜったいに結婚したい。けれども、ひとりで暮らす陽人の生活は危なっかしくいびつ。これが恋をして、もっといびつになってしまう。壁のスケジュールボードに明日の予定を貼り付けて、たくさんの目覚まし時計をセットして、決められた規則でやっと正しく生活できていた陽人なのに、町子先生のことしか考えられなくなってからは、約束をすっぽかし予定変更ばかり。しかも、農薬は確実に彼の身体を蝕みつづけていく。たくさんの人に見守られながら暮らしている陽人の変化に気づいたのは、近くに暮らす祖母や、幼いころから彼を看てきた町のドクターだった。度重なる頭痛と吐き気に襲われて、病院に担ぎ込まれたときには、すでに手遅れで、陽人の心音は停止し夭折してしまうのだ――。と、こんなところで終わっては、ウルトラミラクルなラブストーリーとはいえない。奇蹟が起こるのはここからだ。なんと心臓が止まったはずの陽人が生き返る! 脈が止まったままなのに、、!!ゾンビにも幽霊にもならず、瑞々しい肉体そのままに、家に戻った彼の元には、少しだけ変化が現れる。猛アピールにうんざりしていた町子先生が、彼の家に住み込んで、生ける標本となった彼を毎日丁寧に観察して、助けてくれるようになったのだ。生前となんら変わりないけれど、食欲だけは消えている。なんにも食べなくなったので便意はないが、でも生きている。普通の会話を交わしながら、山の散歩道を歩くのがふたりの日課で、先生を想う無垢な恋心も健在だ。農薬シャワーだってこっそり続けている。(そのうち町子先生が見つけて驚愕するけど、、)ありえないことの連続も、幻想と現実を結んだひとつのエピソードで、妙な説得力を放つ。心音の弱まっていく陽人は、夢のなかで、町子先生の死んだカレシと出会う。首のない、けど洗練された彼。彼は陽人に、自分の履いている靴をくれる。息を吹き返したとき、陽人の足にはちゃんとその靴が光っているのだった。恋人の見慣れた靴を履いて生還した陽人に、気づいて驚いたのは、当然町子先生だけなのだけれど。子どものような彼がどんな末路を歩むかは、ごらんになってのお楽しみ。その時は、意外に早く訪れてしまう――。無垢な愛をたっぷり注いだ町子先生に、ほっくりとした思い出と脳みそを遺し、第二の人生を終えた彼。やかましく思っていたはずなのに、この世からいなくなってしまうと、すごく寂しい。そしてそんな気持ちにさせるのは、松山ケンイチの演技あってこそだったのかもしれない。精神に障害のある主人公でなく、破滅的に生きるシャイな男の子、、というほがもっと好きになれたかも。(カラー/120分)
2010.12.17
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原作は、二十代半ばに読んでいた。なか身はもうほとんど忘れてしまったけれど、もやっとして好きじゃなかった記憶だけが残っている。この映画が、もし、トラン・アン・ユン監督でなかったら、劇場へは行ってなかった。内容の情報はちまたに溢れているので、わたしはまったく偏見だらけの感想を書いてみよう。素直な一番の感想は、『青いパパイヤの香り』『シクロ』のときの上質な感覚はない。原作を読んだ時とおなじもやもやが湧いてくる。やっぱりこの小説自体が好きではないのだ。昭和40年代、学生運動。若いうちだけに経験する初めての純愛――それには最初から最後まで性がついてまわる。邦画でセックスに関する言葉のやりとりがここまで描かれる、ましてや売れっ子の若い役者たちがそれを演じていることは、たしかに斬新だった。欧米の作品では見慣れていることも、日本語になって言葉の壁がなくなると、より身近で生々しい。ヨーロッパ映画のような詩的な会話劇は、トラン監督の感性で編まれたものだろう。上品でインテリぽいのも原作の雰囲気とおなじ。 「死生観を孕んだ深く美しい世界観」 「1つの事件であり、1つの奇蹟である」 「今こそ『ノルウェイの森』が必要なのだ」宣伝文句をチラシから拾ってみる。配給元の過大評価甚だしいと思わずにいれなかったけれど、悔しいかな、いまはもう一度、原作を読み返してみたくなってきた。いつか古本屋に持っていって、売れ残った赤い一冊の上巻を、本棚から出してきた。下巻を買うかはわからないけれど、とりあえず読み始めてみようと思う。松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子の熱演は好印象で、映像美も健在だった。音楽もよかった。133分は長く、普遍的なことであるのか疑問を抱き、死生観を感じとることはできなかった。哀しみを哀しみ抜いて、そこからなにかを学びとることしかできない。それでも次にくる哀しみには打ちのめされてしまう――。それなら、哀しみ抜いたワタナベの行為こそが哀しいなぁと思うのは私だけなのかな。小説を読み返したら、加筆します、たぶん。
2010.12.14
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巨匠テオ・アンゲロプロス監督による、ギリシャ現代史の雄大な一大叙事詩。3部構成となる予定で、本編はその1作目。 1919年。ロシア革命によってオデッサから追われ、難民となったギリシャ人の一群が東を目指して歩いていた。革命で両親を失ったエレニは、一行のリーダー格、スピロスに拾われ、家族の一員として育てられる。およそ10年後、スピロスたちは新たな村<ニューオデッサ>を築き住みついた。エレニはスピロスの息子アレクシスと恋に落ち、彼の子供を身篭るのだが、生まれた双子は、スピロスの怒りを怖れた周囲の大人たちによって養子に出されてしまう。やがて、スピロスは妻ダナエを亡くし、成長したエレニを娶ろうとするが、結婚式から逃げ出したエレニはアレクシスと共に、駆け落ち同然に村を去るのだった――。 祖国と両親を失ったときから、エレニの旅は始まった。なにも持たない、か弱いひとりの女性が、ただ愛する人と手を繋ぎ合って生きている。不確かな未来に、不安定な暮らし。けれど彼らには常に音楽があった。豊かな情緒たっぷりな音楽に抱かれながら、不安と希望を抱きながら、深く愛し合うエレニとアレクシスが切ないほどに強い。独特な時間感覚のなか、予測できないことばかり起こる、3時間の長尺といえ眠気とは無縁な世界だ。長回しと、生命力に満ちる水に覆われたスクリーンの数々。人の魅力、情感ある音楽の魅力、途切れることのない映像美が圧倒されるほどすばらしい。<ニューオデッサ>で一度手放した我が子と、旅の途中で再会し、手元に引き取ったエレニとアレクシスは、少しずつ家族4人の絆を深めていく。しかし、困難は続く。スピロスの死、村の水没、アコーディオンの名手であるアレクシスの夢を懸けた渡米による別離・・・・。止めを刺すように、ファシズムの嵐が吹き荒れ、エレニは音楽仲間のレジスタンスを匿った罪で逮捕され投獄されてしまうのだった。なんにも持たなくても、故郷を失っても、泣いても、愛する人と手を取り合っていたエレニのささやかな幸せさえ、結局戦争によって引き裂かれてしまう。内戦の終結とともに釈放されたエレニには、もう愛する家族は残されていない。アレクシスも最愛の息子たちも、それぞれに戦死を遂げ、泣き崩れるエレニがただ、ひとり残されるばかり―――。寓話に似た語り口と、象徴的な画。それに救われた。でなければ、切なくてやりきれなかったと思うから。† † †監督/ テオ・アンゲロプロス 脚本/ テオ・アンゲロプロス トニーノ・グエッラ ペトロス・マルカリス ジョルジオ・シルヴァーニ 撮影/ アンドレアス・シナノス 音楽/ エレニ・カラインドロウ 出演/ アレクサンドラ・アイディニ ニコス・プルサディニス ヴァシリス・コロヴォス (カラー/170min/フランス=ギリシャ=イタリア合作/TRILOGIA I: TO LIVADI POU DAKRYZEI)
2010.12.12
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『インド夜想曲』がステキであったアントニオ・タブッキの小品集。ポルトガルに魅せられたイタリア人作家のタブッキが、ある夏の日々に過ごしたアソーレス諸島での記憶から生まれたという。読書しながら浮遊して、幻想の中で、アソーレスを旅している気分になる。充足感のある豊饒な旅。『インド夜想曲』でもそうだった。舞台となったアソーレス諸島は、ポルトガル沖、約1000kmの大西洋上に浮かぶ九つの島だ。この地を舞台に、書簡、捕鯨の航海記、情緒ある恋物語などが、詩的に断片的に綴られていく。巻尾には大昔の地図と補注、遊び心でクジラによる<あとがき>まである。隠喩と象徴の可能性を極限まで押しすすめたという文章の、摩訶不思議なる魅惑の世界は、わたしにははじめての読書感覚で大好きになってしまった。ダブッキの著作は、これからもっと読んでいこう。 ここで描かれる捕鯨行のドラマティックな記述を、自然保護団体やらシーシェパードのみなさんならどう感じるんだろう。『白鯨』などにも、浪漫はわかないのかしら。2009年製作の映画『The Cove』では、日本のイルカ漁の様子がドキュメンタリーなって物議を醸したっけ。人間はなんでも食べるんだから、そんな目くじら立てなくてもいいのに、と思う。あたりまえに鯨ベーコンを食べて育った世代ゆえなのか。 (あらすじ)ポルトガル沖合はるか遠方の、アソーレス諸島に繰り拡げられる、クジラと難破船と愛の物語―。幻想味が絶妙の鬼才が、その実験的小説作法を極限にまで押しすすめ、織りあげた、詩的で象徴性豊かな小品集。
2010.12.08
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『愛のむきだし』つながりで、安藤サクラの作品を手にとる。監督は長編4作目となる、父の奥田瑛二。次女、安藤サクラの初主演作品。 山口県、下関。名門女子高に通う真理子は、チンピラに絡まれたのがきっかけで、一人の青年と出会う。青年はやくざの端くれで、チンピラたちの兄貴分だった。絡まれたとき、合唱部の大事な楽譜をなくした真理子は、償いとして、物騒な学校の帰り道にボディガードをしてくれるように頼む―――。海に落ちた真理子の鞄を拾うため、迷わず海に飛び込む青年の登場シーンがかっこいい。はじめて見た俳優、佐々木崇雄が、影のあるヤクザ役を好演している。プリマドンナを夢見る真理子と、夢を持たない青年。会うごとに親しくなっていくのだが、青年が名前を明かすことはなかった。彼は在日朝鮮人のやくざの端くれで名はソンムン。自分の素姓を明かすには、真理子はあまりにも純真すぎたのだ。ふたりが初めて打ち解けあえるのは、中盤。真理子が合唱団のソロを外されて、自暴自棄に陥ることがきっかけだ。(在日2世の彼女は無意識裡にコンプレックスを抱えていて、ソロを外されたのは、そのせいだと疑っている)落ち込む真理子に困ったソンムンは、母と暮らす実家へ彼女を連れていく。ずっと隠していた名前を教えて、彼女のことも家族に紹介するのだった。温かいソンムン家族に癒された真理子は、元気を取り戻し、また夢にむかっていくのだが、、、。この頃すでに、ソンムンに任される仕事はエスカレートしている。人殺しをするよう命令が下され、しかもその相手は、在日の実業家で、真理子の父親であることを知ってしまう――。恋模様とはまだいえないほどの、ささやかなふたりの出会いと別離は、さりげなくてちょっぴり切なかった。年上の謎めいた青年に恋する真理子の気持ちはよくわかるけれど、ソンムンはなぜ、彼女に惹かれたんだろう。出会ってすぐに、恋に落ちるようなシーンはない。下校時刻になると門の前に現れて、律義にボディガードを続けるソンムンは、真理子の前途ある希望に満ちた青春に触れてこころ癒されている、そう捉えるのが自然。女性として愛しているふうな関係とは、すこし違う。暗闇に生きる男と少女の純粋な愛、ありがちなテーマだけれど、ひとつひとつの要素に魅力はあった。カヴァレリアの合唱、真理子が通学につかう連絡船、下関の坂の多い町、ボディガード・・・・。でも要素と要素のあいだに化学反応はおこらず、ざんねんなまま終わってしまい、勿体のないかんじ。『レオン』を100倍に希薄化した印象に留まる。たとえば、ヒロインが宮崎あおいだったら? もっといい映画になっていたかもしれない。ファミリーで作る作品は、たまにそんな残念なことが起こってしまう。カサヴェテス、ファミリーのように相乗効果となればステキだけど。† † †原作・監督・脚本/ 奥田瑛二 撮影/ 石井浩一 音楽/ 稲本響 出演/ 佐々木崇雄 安藤サクラ 石田卓也 北村一輝 夏木マリ (カラー/123min)
2010.12.06
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週末、ひさしぶりに小樽へ行ってきました。お昼過ぎに着いて、運河とか、「かま栄」のできたてかまぼことか、ウィングベイ小樽とか、いろいろさらっと見たあと、楽しみにしていた小樽文学館へ。写真の『ちまちま小樽文壇史+偉人物語展』は、一年もまえだー。(知らなかった! いま気がついた。どうりで人形が少ないと思った、、、)いま現在は、十数体が並んでいます。まったく見れないわけじゃないので、よしとしてつらっと書くよ。(この企画展は過去のものですからお間違えなく)イラストレーターの高山美香さんが作る人形は、オーブン粘土製。人形部分で約10センチ。こだわりつくした小物や、小気味よい人物説明文がたのしい。いぜん訪れたときも、たしか見たはずの石川啄木人形。 王子様のように、我儘放題育てられた氏の短歌が、ひとつ紹介されている。 一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと (一度でも俺に頭をさげさせたやつらは みんな死んでしまえばいいのに。)心くすぐられる。いつもとは違った切り口で偉人に触れられる乙なひと時。ちまちま、ププププ現在、ノン企画ちゅうですが、小樽文学館は館フリークには堪らない味ある空間なので、是非一度足を運んではみてはいかがでしょうか。
2010.12.04
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史上最低監督の異名を持つエドワード・D・ウッド・Jrの珍品SFホラー。エド・ウッドがなぜに最低監督といわれるのかは、作品を見れば納得なはず。しかし、映画への愛情を感じるB級珍品は憎めない良さ。ホラーなんだけれど、腹抱えて笑える駄作の楽しさは、エド・ウッドならでは。より楽しむには、ティム・バートンの『エド・ウッド』を先に見ておくといい。 立て続けに起こる失踪事件を追う女性記者。彼女は現場に向かう途中事故を起こして、マッド・サイエンティストの僕、怪物男に誘拐されてしまう。祖国に見捨てられた科学者は、国を捨てて実験に没頭してきた。怪力男とともに、巨大タコを使って人間を誘拐しては、放射能による人体実験を繰り返してきたのだ。そんな博士も、さらった女性記者の美しさには抗えず、花嫁衣装を着せてしばし愛でているのだが、、実験はついに開始されてしまう。そこへ飛び込んできた記者の恋人と、彼女に好意を寄せる怪力男と、三つ巴のゆる~い争いが幕を開ける。 陳腐な実験器具に、おもちゃの手錠に、おまぬけなタコ。突っ込みどころは多い。邸を追われた博士は、逃げる最中、自ら作りだした巨大タコに襲われる。博士みずからタコの足を動かしつつ、殺られるーと叫び格闘する姿には、倒れそうになる。本気のホラーか?と目を疑うかもしれないが、みんな本気でやってます。『エド・ウッド』には、この場面を撮影している様子がおもしろ可笑しく描かれているので、やっぱり先に見ておくといいかも。博士を演じているのはベラ・ルゴシ。ドラキュラ役で名を馳せたルゴシも、晩年は仕事に恵まれず、そんな彼を役者として救いだしたのがエド・ウッドだった。救いだされた先が、最低監督のレッテルはられたエド・ウッド作品なのは幸せとは言いがたいけれど、ふたりには友情が育まれていく。史上最低だからこそ、いまも見る人が絶えないわけで、ステキな運命の巡り合わせ、ということで。 製作・監督・原案/ エドワード・D・ウッド・Jr 脚本/ エドワード・D・ウッド・Jr アレックス・ゴードン 撮影/ ウィリアム・C・トンプソン 音楽/ フランク・ワース 出演/ ベラ・ルゴシ トー・ジョンソン ロレッタ・キング (モノクロ/68分/BRIDE OF THE MONSTER)
2010.12.01
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