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偉そうに言いたいのではない。教育者なんだ。この災害を教科書にしなければいけない。危機管理の面でも。指導者の判断という面でも。そして、そして、、被災地からのニュース。「自閉症の子どもが避難所で理解されにくかった。」という点からも。ラグビーの先生というイメージが定着しているかも知れないが、実は、ラグビー界からは逆であり、障がい者へのスポーツ指導のイメージが強いらしい。現に、実践障害児教育という冊子にスポーツ指導の原稿を提出したこともある。でも、そんな形式ではなく、ジャパンの勝敗やスーパーリーグよりも、障がい者雇用の問題や基礎年金の変動の方が気になっているのは既に10年前からだ。それに、、作業所に通う卒業生に会えたときなどは格別な喜びがある。彼らの強い個性は愛すべき個性であり、理解が必要だ。逆に、マイナス個性は正すべき個性である。双方が進んでようやくバリアフリーが可能になる。ノーマライゼーション、バリアフリー、統合教育など言葉ばかりが先行する昨今だが、避難所行けず、食料も薬もない…=自閉症の子持つ家庭孤立-東日本大震災-http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011032600198こんな記事があると本当にいたたまれない。なんとかしたい!健常児も、自閉児も双方がこの災害から心新たに教育を考えなければいけないと思う。机上の学問も当然必要だが、有事に対応できること。そして、互いを理解しようとする気持ちを育てること。加えて、自分のことを自分でやれることを根気強く教えること。被災地の写真がまだまだある中、楽天ブログの写真アップロードの上限にひっかかり、文章だけを考えていたら、最終的にここに落ち着いた。そうだ、教育者なんだ。進路先だけを考えるのではなく、学力アップだけを考えるのではなく、保護者の顔色を見るだけでなく、学校の隆盛を考えるだけでなく、明日を生きる子ども達に何かを教える基本を忘れない教育者でいなければ、本末転倒なんだ。なんて、、釜石から戻って様々考えながら浮かんできた。さぁ、明日は久しぶりに子ども達に会える。ビシビシ!やるぞ!明日も、アップ上限いっぱいまで写真アップします!!
2011年03月31日
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昼近くなり、トイレの使用と食事を考えた。しかし、港町のあった町を抜けると、そこに小学校があり被災者の避難所があったので、その様子を見てから行くことにした。避難所の水道は自衛隊が持ってきている水の袋から給水されているようで、歯を磨いている老人がいた。支援物資は山積みになっていて、入り口に番をしている人が座っていた。中を覗くと様々な物資が届けられているようだ。それにしても数が多い。そして、そこに更に物資が輸送されてくる。そこで聞いた話を思い出した。「物資は送られてくるけど、整理されていないものは段ボールのまま放置なんだ。整理する人手が足らなくてね。それにボロボロで避難生活している人も嫌がるような衣類が多いのと、サイズ限定の服なんて困るよねぇ。下着や靴下は新品じゃなければ自分ので我慢する人もいるから、それだけは新品を送ってもらった方がいいね。それと、米は来るけど副食がないんだよ。避難所生活の楽しみは食事だけだからね。運良く電気が通じても、みんなで大型テレビ。ラジオ。他に何もない。」物資を送るのも難しいと痛感。避難所の入り口には、伝言板のように張り紙がされていた。「釜石商工生徒へ 22日終了式あり 登校できる生徒は登校せよ」印象的だった。しかし、その後、瓦礫の山と化した町を通り抜けて、川の橋を渡って駅前を西に向かった。距離にして100mほど離れた場所。そう、我々が来た道である。「え?何も変わっていないじゃないか?」と感じていた数時間前に通過した道。そして、白竜で奥さんから「この先からは、どうか気をつけて。」と言われた場所を通過すると、時間経過によって、経験によって、更なる違和感を感じることになった。まず、ファミリーレストランが開店している。郵便局も営業している。ホームセンターも。大型量販店の駐車場は自衛隊と警察の待機場所だが、薬王堂という医療品や薬品のスーパーも開店している。ガソリンスタンドも非常車両優先だが営業はしている。同じ釜石である。そうか、川が境目なんだ。と理解し始めた。空から見ると分かりづらいが、低い地域と高い地域を分ける川を境目にして、(明日にはもっとわかりやすい地図を載せる。楽天ブログの写真アップ上限のようなので)電力供給や水道供給が違うルートになっているらしい。だから、ファミレスでは通常メニューで食事ができ、この日は昼間からビールを飲んでいる女性陣もいた。物資もお金さえあれば、購入できる。我々のような一般車両が行き来できるのだから、仕入れもできている。だから営業もできているのだろう。そうか、、支援物資は振り分けが困難で様々ものが物資倉庫で混在している。家を流された人々は、財産そのものが無くなり、物品や食料購入ができない。被災地そばでも、家を流されていない人は現金やカードがあり通常生活をしている。被災者には不謹慎な話だが、我々は食事をしながら確信を深めていった。・物資は必要なものだけをしっかり仕分けして送る。・送る物資も適切に分配できる人に送る。・義援金は復興資金は政府に任せて、当座をしのぐ資金を適切に分配できる人に送る。これなんだ。もしかしたら、他の地域でも同様の事象なのかも知れない。
2011年03月31日
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港近くの町に出て、違和感を感じる光景が様々飛び込んできた。別の記事でも書いたが、人間は自分の記憶や理解が及ばない状況になると目を背けて更には瞬間的に違和感を感じる機能がある。凄惨な事故や知らない生物、理解しがたい状況や形状のそれらを見るときに顔を顰(しか)めるのはそれだ。私はこの日、何度となく違和感を感じた。形状をとどめない巨大建造物は、まるで針金工作でつくったジオラマを壊すかの如く。そして、本来海の中にあるべき船底が陸地に上がり、見事と行っても良いようにバランスをとって立っている船。壊れた民家に目を向ければ、そこで思い出の品を探すのか復興に向けてなのか、瓦礫を手に持って自宅を整理する老人の姿があった。さすがにカメラを向けることははばかられたが挨拶を交わすこともできなかった。表情がない老人から心の声が聞こえた気がする。「何から手を付けて良いか、、でも、ここしかない、、少しでもここにいた証が、、」昔大学の講義で聴いた覚えがある。「人は死を恐れる。それは生に対する執着や痛みを伴う恐怖だけではなく、生きている知人との別れの辛さだけでもない。死の恐怖とは、今まで生きてきた自分の足跡が消えて亡くなることに対しての恐怖も非常に強い。」そんなフレーズを思い出しながら、ふと周囲を見ると朝方から時間が経過したせいか、多くの地元住民が同じ行動をしていた。そう、住む場所だけでなく、着の身着のまま出てきたために、お金も、カードも通帳も何もないのだ。何もない状態で、更に住む家もないのだ。ようやくその臨場感が状況理解に加速を付けた。確かに、今この瞬間に全ての土地家屋も含めた全財産が無くなったら、どうするだろう。等と考えていると、次のショッキングな光景が目に入ってきた。このランドセルの主は無事なのだろうか、、、無事であって欲しい。生と死。そして、生だったとしてもその後の希望がもてないまま時間が経過する。光と影が交錯するのではなく、闇と漆黒の交錯。涙が出てくる情景。この地域の人々は昼間はこうやって家のあった場所の整理。夜になると避難所へ帰るという。復興支援と口にするが、東京にいてテレビから流れる映像だけでは実感できない。いや、復興支援と口にすることすらおこがましい惨状。計画停電に愚痴を言い、不安を煽って買い占めする。テレビを見ながら評論家気取りになっている場合ではない。各地の復興とは長い長い時間がかかるものであり、その間、人々の希望を繋ぐことが私たちが考えることなのではないだろうかと思った。が、全てを理解すると更に分かったことがある。
2011年03月31日
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及川先生に道案内をしてもらって、被災地を歩いた。(及川先生は、本校が釜石合宿が始まったきっかけ(ブログ参照)を作り、成功に導いてくれた人。地元の歯医者さん。及川先生は本校ラグビー部が創部した直後に釜石シーウェーブスをきっかけに私が知り合い、釜石という土地が、武蔵野東ラグビー部を受け入れる立役者になってくれた人。どんなに忙しくてもグランドに来ては写真を撮り、八幡平まで来ることもしばしば。そして歯科検診をしてくれたり、チームのレギュラーにはマウスガードを作ってくれる。それもスペシャルカラーリングとネームとエンブレムまで入れてくれるほど。練習の合間に歯科医院で歯型を取る際には、練習に支障を来さないようにと、練習直後の汗と泥まみれの部員を、綺麗な診察室にビニールシートを全面に敷いて受け入れてくれた。そして、医院のモニターには本校部員の合宿の様子がスライドショーで流れている。また、東京での三送会。大会ではチームが2つ勝てば早朝に釜石を出て試合の応援にも来てくれた。合宿では部員に苦言、叱咤もしてくる本当の愛情を持った先生。)鼻をつく臭いは更に強くなり、道があった場所だけが急場をしのぐかのように瓦礫が撤去されていた。歩きながら先生は、その場所その場所の方々の安否を教えてくれたが、助かった人よりも亡くなってしまった人の方が多かった気がする。隣の方は、震災直後に挨拶を交わして以降姿が見えず、数日後に向かいの家にある瓦礫の下から発見されたそうだ。確かに見覚えのある店が(先生の歯科医院から路地を曲がって数軒先にあったラーメン店)建物ごと流されて、歯科医院の先に流され大破しているほどで、町の配置を崩す津波の威力を物語っていた。先生は今、隣にあるご実家と思われる場所の3階に住んでいるそうだ。1階は濁流が流れたのか、ガラスもドアも大破して、2階も床の部分は泥に覆われていた。2階の奥には震災の直前に亡くなった御尊父の祭壇があった。当然、水道が来ていないので水は汲みに行き、便所は小さいのはトイレに流し、大は紙おむつにするそうだ。車一杯に積んだ支援物資の一部を差し上げて、先生に託す為に集めた有志からの義援金を手渡し。3階でお茶でもと言われて御邪魔した。しかし、その3階から見た景色で更に驚いた。祭になると人々がごった返したメインストリートは瓦礫の山。そして、高い場所から眺めると1階部分、2階部分、3階部分と、まるでグラデーションのように、線が入って破壊度が違っている。そう、3階部分以上はまるで無傷なのだ。お茶を頂いた後、更に被災地を回るため再開を誓ってお別れをしたが、先生の握手は固く力強かった。数分前に「患者の電子カルテがハードディスクに入ったまま5000件分水の底に、、」と涙を浮かべていた先生の言葉。そして、「復興するったって、どうすればいいのか、、」「この土地にまた住めるようになるのか、、」というポツリポツリと出てくる言葉や、「瓦礫を少し動かすと、ご遺体が出てくるんですよ。誰か分からないものが多いけど、、」そんな言葉が思い出された。言葉が頭の中を巡ったまま固く握手をして、必ず再び訪れることを先生と自分に誓った。市街地を後にして、車で山を越えると釜石商工という学校がある。ここは、本来であれば今の時期に合宿予定していた学校。学校の一角には合宿施設があり寝泊まりでき風呂の施設も完備されている。少し高台にあった学校は無傷。また、新校舎に建て替えた直後ということで、耐震構造がしっかりしていたらしい。そこへラグビーグッズを届けることも今回の目的の一つだった。駐車場に車が入ると、すぐに阿部先生が出迎えてくれた。まずは無事を喜び再開の握手。元シーウェーブスの選手だった阿部先生。とても固く力強い握手だった。そして、目からは大粒の涙がこぼれていた。「まさか、本当に来るなんて、、」言葉を詰まらせる阿部先生。今回は、我がチームの物資だけでなく、ラグビー用品店のセプター、スズキスポーツからスパイク十数足、ソックス40本、ジャージやトレーナー、ボールは50個。そして、東京だけでなく、三重県の四日市農芸、大分文理大学の厚意も運んできた。荷下ろしした後に、来週は古ジャージやカバン、生徒や卒業生の普段着、靴なども送ることを告げた。聞けば、部員の家も半分ほど流されてしまったそうだ。流された家からは、着の身着のまま逃げたので、ほぼ全ての日用品を失ったとのこと。しかし地域によっては全く違う状況、、、? ? ?不思議な感覚がようやく自分で理解でき始めた。震災被害のみならず津波の大打撃は、高低差と地域差を生んでいた。その後、我々は町を回りそれを痛感し理解し、今何が必要か見えてきた。
2011年03月31日
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楽天ブログの写真アップが限界に来たので文章だけにするが、、、物資を持って行った我々が一番違和感を感じたのが、境界線を挟んで町の様子が全く違うことだ。というのは、釜石駅と川を挟んで、瓦礫の山、そして、瓦礫を掘り起こすと遺体が出てくるという大災害地域の東側と、電気ガス水道のライフラインがほぼ揃った普通の地域に別れている。数十メートルの違いが、別世界。被災地域では避難所でタンクから流れ出る水で歯を磨き、体育館の仕切りのない場所で寝泊まりする人々。そして、過去自宅があったであろう場所の瓦礫を掘り返しながら、思い出の品を探す。それに引き替え、川向こうではファミレスが営業をしていて、昼間からビールを飲む人も。そして、薬品店には商品もあり、コンビニも開いている。どうして?疑問がよぎった。、、そうか。自宅を流された人は着の身着のまま。財布も持たず、もちろんカードも通帳も、財産の全てを流された。そう、、お金もないし、物資もないのだ。だから、家が残った人には普通の生活ができるツールがあり、お金やカード、通帳があればお金も引き出せる。道路もしっかりしてきているので仕入れも可能な一般量販店で買い物もできる。生活がかかっているから、それを無料で出すわけにも行かないのだろう。現地の方はハッキリ言わなかったが、我々は直感した。物資もそろそろ大量に揃ってきた今、必要なのは資金かも知れない。もちろん当座をしのぐ資金だけではなく、長い目で考える復興資金も必要だが、そこは行政の管轄だ。我々は我々が集めた資金を有用に使ってくれる人を探して渡すことが一番だと感じた。経由が多いと、末端まで行き渡るのに時間がかかる。物資も必要だが、資金も必要。これが、、現実。
2011年03月30日
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撮影したVTR。
2011年03月30日
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おそらく、最初に車から降りたときから気がついていたのだろう。いや、あまりのビジュアルにそこまで神経が回らなかったのかも知れない。しばらくして我々は鼻をつく臭いが気になっていた。ヘドロのような、塩が饐えたような腐敗臭。それは、駅を越えて海のそばの市街地を回って理解ができた。海から押し寄せた津波は、家々を破壊して瓦礫という武器となり加速度を増して更に家々を潰していったのだと想像できた。見慣れたはずの商店街も、基準となる建物が所定の位置から大きくずれているために地理の感覚がなくなる。アーケードに残された文字が唯一の基準となる。津波はその高さや一時的な水量ではなく、まるで水位そのものが上がったような大きな水量変化と勢いが数十トンの力となって継続的に押し寄せる。故に、工場の壁を突破して家を基礎の部分から根こそぎ破壊する。あまりに凄惨な町の状況は、車を徐行させながら見入る我々から再び言葉を奪った。すると、運転していたオジキが、、「あ!及川先生だ!」と呟いた。前方から、頭にタオルを巻いてマスク、手に荷物を持った及川先生が歩いてきた。
2011年03月30日
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白竜から東側に向かうとJR釜石駅があり、海に近くなる。釜石駅の横には川が流れており、湾へ直接流れ込んでいる。想像はしていた。ある程度。津波は海側の町をのみ込んで、川を逆流した。言葉では聞いていたし理解もできていた。ある程度。津波は濁流となり、家々や車をいとも簡単に流した。それも映像で見たことがある。メディアを通して。しかし眼前に広がるその景色は想像を絶していた。我々はあまりの状況を飲み込めなくなり言葉を失った。車を沿道に止めてシャッターを切るのだが、それぞれ言葉がなかった。それは、違和感。今まで体験し理解していたものが打ち壊され、現実の凄惨さ自然災害の凄まじさをしっかりと理解するにはあまりに時間がかかったのだろう。その違和感は今となっても消えないものだ。果たして、この自動車の持ち主は。果たして、この家の住人は。果たして、これがどれだけの時間をかけて復興。そんなまともな考えすら浮かばない状況だった。「この先からは、、」そう海からの距離と高低差。これが明暗を分けることになったのだ。そして、その明暗は更なる違和感に繋がっていく。
2011年03月30日
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高速道路から釜石道。運転するのは、オジキ。助手席にはトップナッチ。私は後部座席。知る町並みが見えてきて胸がドキドキと鼓動した。一軒一軒、見覚えがある建物を損壊がないか確認するように見入った。昔食事でお世話になったカリナ、、無事。旧釜石南高校(現釜石高校)も無事の様子。市街地に近くなり、駅へ向かう。いつものように、左手ガスタンクには「ようこそ釜石へ」の文字。そして、右手には新日鉄の建物。屋根には「鉄とさなか、ラグビーの町釜石」の文字も健在。駅の手前、スタッフがお世話になった”白竜”というホルモン焼きのお店に立ち寄った。午前6:30。非常に早い時間だったが店の玄関を叩いた。この店は、亡くなった私の父よりも少し年上のご主人が頑固店主。そして、奥さまも同世代、80歳近い老夫婦で店を営業していた。娘さんはなんと、昔々、武蔵野市に嫁いだという。震災後、電話も通じず及川先生や阿部先生に聞いても安否確認ができなかったので、心配していた。店のドアから中を覗くと、いつもと変わりない様子。そして、座敷には上着が置かれていた。グラスやボトルが置かれている場所も変化がない。数分後、、奥さんが歩いて出てきた。「はい?」「あの、、いつも夏にお世話になる、、東京のラグビー部の、、」と話していると、奥さんは、「お父さん!!!先生が来たよ~!!!ほら!東京の先生がぁ!!」と店の奥に声をかけた。すると、頑固親父が満面の笑みで出てきてくれた。「おぉぉぉ!!先生!!!」握手をしたらお互い涙があふれてきた。全員が安堵の表情で握手を繰り返す。午前7時前。奥さんが、「来月から、店の営業しますから!」と心強いことを聞かせてくれた。よかった。「じゃぁ、この後、釜石商工に行くので、失礼します。」と、私が言うと奥さんが言った。「この先からは、どうか気をつけて。」その時には気にしなかったのだが、その数分後にその言葉の意味を痛感し、言葉を失うことになった。
2011年03月30日
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格好つけたい訳ではない。危険な状態が好きなわけでもない。ただ、「口では何とでも言える」と口癖のように生徒に言ってきた。行動する時間がある。行動する体力がある。判断する経験もある。(と、、これは信じ込んでいるだけ、、)そして、集まった物資や義援金もある。加えて、輸送手段は模索中。そして何よりも、一緒に行ってくれる仲間がいる。ここまで揃っていて、「現地が心配だ」「今こそ、、」「一人じゃない」「お世話になった、、」と口先だけが嫌だった。そして、、東京という温々とした場所で、部分的な計画停電如きでブーブー言っている輩と一緒にはなりたくなかった。米軍基地や火葬場、ゴミ処理場と同様、必ずお世話になる施設なのに地元誘致を嫌い、他方の人々の不安と引き替えに裕福な暮らしをしていた我々。専門知識も知らず、文句も言わず、今日も薄く政治家を選択し、有事の際になると後付けで文句を言い、過剰反応だけをするのは嫌だった。現地に行ったとしても、何の役にも立たないし、物資もわずか。でも、それを感じ取って伝えることはできると思った。取捨選択をして政府から規制が加えられるメディアの取材ではなく、一人の人間として、口先ではなく労力と危険性と心で行動する。そうだよね。思っていてもできないことはある。恐いことも。でも、口では何とでも言えるって言っていた以上、やった。正直、、恐かった。
2011年03月29日
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一番迷ったのは原発でもなければガソリン不足でもない。まずは、被災地に向けてシャッターが切れるか。冒涜と思われるのではないかという不安。次に、目的とする人たちに会えるかどうかという不安と、会ったときに想像を超えた窶れようだったときにかける言葉。これが迷いだった。そして、現地についたら、その迷いや不安は更につのった。
2011年03月28日
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パンツやシャツ、靴も買った。ガスコンロやカセットボンベも。それにしても役立つ品は何なのだろう、、と考えながら。すると釜石からのメール。車満載になるほどの荷物。それにしても、道路は、ガソリンは、、不安がないわけではない。でも、被災した人々の苦労から比べれば。明日、夕刻出発。様々な状況を見てきたい。
2011年03月27日
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多くの厚意が集まった。「ラグビーがしたい!」という釜石の思いが多くの人の心を動かした。ラグビー用品店、セプターからは新品ボールを10個と花園使用のトレーナーを40着!そして、大分文理大学の監督で同級生の永野からの発注で、宮崎ラグビースクールから新品ボールが40個加えて、ラグビー用品店、スズキスポーツからもスパイク15足とストッキング40本と練習試合ジャージと短パン。嬉しいことだ。早ければ、28日にでも、、私が持って行く!会いたい人もたくさんいるから。
2011年03月25日
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災害時だけど、、組み合わせが決まった。
2011年03月25日
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本当は三送会で卒業生に渡すもの。これは毎年寄贈して頂いていた、卒業の証しと言ってもいいキーホルダー。当然、オリジナル。卒業時期が近づくと、及川先生から電話があって人数を聞かれる。おそらくそこから手作りで約20個を作成してくれていたに違いない。遠い地からの気遣い。先にはサンマが山ほど届き、調理室で焼いて食べた。これも、、気遣い。渡せていないキーホルダーを見つめ、様々思い出す。
2011年03月24日
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「家が流された生徒が多くて、、スパイクや練習着が、、」阿部先生がそう言っていた。ユーズドの練習着を集めて、スパイクは義援金から業者にお願いすることにした。加えて、物資を集めて何とかして届けたい。もし業者がいなければ、自分で運搬する。災害時にラグビーか?という人もいるかも知れないが、阿部先生の気持ちはなんだかわかる。鉄とラグビーの街「釜石」。しかし溶鉱炉は動きを止めた。そして、春大会が近い。釜石の人達の心に火を灯すのは、ラグビーかもしれない。だからこそ、阿部先生は練習着やスパイクを要求したのだろう。今こそ恩返し。
2011年03月23日
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報道規制のない実態と人々の表情に心が震えた。
2011年03月22日
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釜石復興支援計画被災地は釜石だけではないと理解はしている。ただ、約10年継続して釜石に育てられてきた。だから、何とかしたい。釜石工業の阿部先生とは電話ではなして必要なものはわかった。そして輸送ルートも開通しつつある。資金集めて、物資も集めて、さぁ、、今こそ!!
2011年03月22日
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先祖の墓ではない。でも、毎年墓参りする場所がある。鉄の博物館、横の坂を上がった階段状の墓地。花を買って、墓を掃除して、、毎年、一年間の報告をする。悲しい知らせも、嬉しい知らせも報告する。高台から見る湾は最高に美しかった。だから、必ず行く。今年も。元・釜石南高校ラグビー部監督 岡島先生の墓へ。
2011年03月21日
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「いやぁ、、夏の東北は良いですねぇ!食事も旨いし、空気もいい!なんといっても涼しい!」私がそう言うと、山内さんは、「冬に、、冬に来てみろ、、、いてーからぁ、、、」と呟いた。あの夏の日から何年が過ぎたのだろう。我々武蔵野東ラグビー部が、釜石を初めて訪れた夏。私のわがままで、新日鉄釜石ラグビー部の部員達が生活していた白鳳寮に滞在し、ウェールズと試合をしたという伝説の多目的グランドを使用させてもらった。グランドといっても団地の中にある公園の一部。誰でも使える芝グランド。あの地で育まれた部員は数知れず。いつの間にか、八幡平からステージアップしたAチームだけが行く場所になっていた。あそこで、、部員も、顧問も、マネも、ドラマを体験して育った。僕たちは一人じゃない。多くの人たちに応援されているって感じられた。グランドで必死に走っていると見ず知らずの人がエールを送ってくれた。頑張れ!って。ケッパレって!そして、誰もが話しかけてきた。「どこから来た?」それが、、「おお!武蔵野東だなぁ!」って、変わっていった。僕たちは一人じゃない。誰もが応援してくれた街。お祭りでは放送までしてくれた。そして、拙い踊りに表彰までしてくれた。僕たちは一人じゃない。だから今こそ。釜石は故郷だから。
2011年03月18日
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科学者や災害専門家がいるのだろう。ただ、上空からの放水はあまりに、、、映像でも拡散していたが、案からしても想像がついた。で、どうだろうか、、、少々北へ行けば、雪という半固形で冷却できそうな雪が大量にあるはず。少々固めて、上空から投下した方が拡散しないのでは、、、それともクラッシュアイス。それともドライアイス。かなり昔の映像で、台風の中心に何トンものドライアイスを投下して台風を消滅させた映像を見た覚えがある。確か、アメリカ空軍。あれだったら、、なんて、真剣に思いを巡らせたりした。でも、プロが考えて上空放水なんだよなぁ、、、地上から放水するのは警察と消防。がんばれ!!!国を背負った大任。そして、命をかけた行動。手に汗握る。
2011年03月17日
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NHKによせられたメッセージ。福島第一原発で働く父のことが書かれてあった。その原発職員は「覚悟を決めてください」といったそうだ。その覚悟で残っているそうだ。そして、そのメッセージには「原発があったから皆さんの暮らしが保たれていたのを忘れないでください。そして、原発内で悪化しないように働く職員の元にも食料はないと思います。是非、食料を届けてあげてください。」とあった。、、、その通りだ。以前も書いたが、沖縄の米軍基地。ゴミ処理場。火葬場。自分たちのそばにはいらない。でも、必要なものはある。それを他所に置いて、自分たちが快適な暮らしをしてきた。今、考えるときだ。夜中にテレビを見ながら涙が出てくるのは、何夜連続だろう。
2011年03月16日
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恩師が昔言っていた。「勝ち試合のSOなら誰でもできる。問題は負けそうな試合でSOが冷静に何ができるかだ。」父親が昔言っていた。「金に困ったり、人間関係に困ったり、人間は困ったときこそ、持っている底力が出てくるんだ。それは、良くも悪くもその人間の底が見える。」確かにそうかもしれない。オロオロ、ハラハラ、イライラ、カリカリ、、、通り一辺倒の考えや、自分本位、虚勢を張ったり、虚言に流されたり。こんな大災害だから当たり前。だけども、、国のリーダーや、地域のリーダー、先頭に立つ人間にはその底力を発揮してもらいたいものだ。アンテナに捕まって津波を逃れた町長が、自らの蓄えを投げ売って周囲を助ける自治会長が、被災しながらも、避難所の人々の歯を診療する歯科医が、原発のそばの村で気丈にも救援物資を国家に要求し続ける村長が、多くの人が素晴らしいリーダーの手本を見せてくれている。そして、その周囲は安心をするのだろう。リーダーは気を遣わせたり、不安にさせてはいけない。緊急時には、SPECがにじみ出る。被災地にて、診療をしているという及川歯科医師に脱帽。そして、安堵。よかった。
2011年03月16日
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岩手県選抜の高校生チームが、月末に関東遠征を予定していた。昨日、担当する旅行会社にその中止連絡が入った。事態からすると当たり前だが、しっかり連絡を入れる。その業者と先生からの伝聞だが、釜石工業のA部先生が無事だと聞いた。少しだけホッとした。今はただ、祈るだけ。多くの人達の命が救われることと、復興に向けていくこと。
2011年03月15日
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計画停電の計画は無計画。たしかにそうだ。被災した待避所をその範囲に入れるなんてナンセンス。そして、やる、やる、といっていてやらない。これも、当事者からするとドキドキする。でも、、、政府も混乱している。経験のない大災害。テレビでも政府批判をしているけど、我々は実行するのみ。日本人のマナーの良さを海外は評価しているけど、ここ最近は、いちゃもんつけて、責任者を引きずり下ろす傾向もある。ともあれ、、被災した方々の映像を見ていたら、停電如きで文句は言えない。ある意味、火葬場やゴミ処理上、米軍基地同様に、我々の生活があるのは、原発で作られた電力によって成り立っていた。その地域の人達のおかげで生活が成り立っていたと考えても無理はない。今、がんばらないと。やれることを、やる。
2011年03月15日
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最初に菅首相が国民に対してメッセージを述べた際に思った。どうして文面を読み上げるのか。そして、、できれば超党派、オールスターでこの苦難を乗り切ってもらいたい。「私のリーダーシップは足りないかも知れません。しかし!今の事態では交代すらできません!だからこそ、あと1年だけやらせてください!そして、与党、野党と言っているのではなく、各党の有能な専門的議員を緊急事態として大臣、もしくは大臣補佐として布陣して、この難局を乗り越えませんか?予算を通す程度の超党派では足りないのです!今は戦後、いや、日本最大の危機なのです。故郷を守るために今だけでも団結しようではありませんか!ここから日本は立ち上がるのです!」なんて、、、あ、もちろん当事者にとっては、そんなこと軽く言うなよ。と思うでしょうが、今のこの問題を党派で争っている場合ではないと思っただけ。有能な政治家かどうかはわからないけど、自民にも公明にも社民にも、、力になる人はいるのではないだろうか。そして棒読みで国民に話しかけるのではなく、心から訴えかけられる人もいると思う。くだらぬ話だが、映画「インディペンデンスデイ」でビルブルマン扮するアメリカ大統領が戦闘機に乗った状態で熱く人類の徹底抗戦について叫んだシーンが大好きだ。あ、SFと一緒にしたら不謹慎だが、、、今こそ、鼓舞できる奮起できるリーダーが必要な気がする。
2011年03月14日
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大きな揺れだった。知り合いに安否確認をした。いまだ連絡がつかない友人がいるが、無事を信じている。そんな緊急事態。野方で友人と話をしている最中に計画停電のニュースが店のモニターに映された。隣の席の団体から、「えーまじかよ、、」と聞こえた。そして、その後海沿いに住む人たちの被災の状況が映し出された。すると、「仕方ないだろう。海沿いに好きこのんで住んでいるのだから、嫌だったら引っ越せばいいのに。」思わず席を立ち上がろうとした。ふざけるな!故郷とはそういうものじゃない!美味しい魚を頂けるのだって、漁師さん達がいるからだ!そう怒鳴ってやりたかった。それも、そういっているのは若者じゃない。40歳半ばくらいの男性。黙って店を出ると、友人が言った。「怒ったでしょう。」そう、その通りだった。そして、悲しくなった。情けない。でも、そいう奴もいるんだ。被災した人たちは、寒い東北の3月を体育館や公民館、避難場所で少しの暖で耐えている。食料や水、そして今と、将来への不安も、悲しみもあるなかで。そんな人たちへ我々ができることは少ない。ニュースで各国の対応を見た。想像よりも諸外国は優しい。いや、ニュージーランドが「今度は我々の番だ!」中国が、「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」アメリカ、が「不屈の日本」「日本は経済が低迷し、政治家の失態に国民の大部分は当惑しているが間違ってはいけない。日本の産業力は依然として偉大だ」これを見て泣けてきた。人のつながり。今こそ、団結力が必要だと思う。
2011年03月13日
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大災害。知人の安否。いや、知人以外でも家が流され濁流にのまれている人々への安否。残酷な映像は映画じゃない。目を疑う光景。泣けてくる。そして余震と地震警報。気がつけば朝になった。これは現実なんだと思い知らされる。いつもお世話になっている釜石の人々は無事なのだろうか、、、
2011年03月12日
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大災害です。みなさん大丈夫ですか!!ブログではありますが、通信混乱のため緊急使用します。3月12日と13日の練習ですが交通状況混乱が予測されますので、練習を中止します。尚、本校部員関係の方がこのページを見たら、自分の下の人に向かって連絡網を回してください。明後日に関してはまた連絡をします。
2011年03月11日
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久しぶりに職員バンドの復活!ギターのA先生。ベースのS先生。キーボードはK先生で、ドラムはT先生。私は楽器ができないから下手な歌を歌う。でも、さすがベテラン!数回合わせただけでもう完璧。そして今日が本番。コミックバンド大炸裂。ああ、、もう卒業だ。
2011年03月09日
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目覚めてすぐに思った。もう何年になるだろう。この日は格別に身が引き締まる思いがする。あれから15年。忘れてはいけない教訓。忘れてはいけない愛情。忘れてはいけない戒め。さぁ、がんばろう。
2011年03月08日
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先週からふくらはぎの肉離れが悪化して、アキレス腱炎になって歩行困難な日々が続いた。金曜日には、杖をつかないと歩けない状態にも。しかし、この日の試合にどうしても出たかった。どうしても、、、本校は何かと誤解を受けることがある。「障がい者だけの学校でしょう、、」とか、「不登校専門の学校でしょう、、」とか。違う。元気な子もいるし、不登校の子もいるし、ボーダーの子もいる。全ての子どもたちがここで様々な経験をするんだ。そして、ラグビーだって、、、この日は、中学校の先生方のチームと試合。だから、純粋にOBチームで試合をしたかった。グランドもない学校。そして、誤解を受ける学校。試合をすれば、その強さだけでなく、雰囲気や成長も感じるはず。だから、出たかった。で、、50分間でた。そして、、悪化した!!!でも、これでよし。
2011年03月06日
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http://www.business-plus.net/interview/1102/212523.shtmlトップナッチツーリストもし、ここがなかったら今のラグビー部は存在しないだろう。単なる旅行業者ではなく、部員のマナーが悪ければ怒ってくれる。雑用もする。荷物も運ぶ。試合に出る。そして、一緒に泣いてくれる。業者ではない。スタッフだ。そのスタッフがネットデビュー。それも川上麻衣子さんとの対談!私の年代では、川上麻衣子さんはアイドル。うらやましい。http://www.business-plus.net/interview/1102/212523.shtml
2011年03月05日
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携帯で情報発信。そして先端技術。残念ながら多くの大人がこれについて行っていない。子どもの方が詳しくなっているのに、そして、驚きの機能があるのに何も知らない大人が制御もできずに、高額のおもちゃを与える。と、、ここまでは以前に書いた携帯電話のお話。でも今回は違う。予測できたでしょう!!!だってできるもの!!!大学の試験問題流出事件。「ああ、やっぱりなぁ。あるでしょう。」普通にそう思った人も少なくないだろう。倫理的にいえば確かに不正であり真面目に試験を受けている受験生に失礼。でも、これ、モラルの問題以外で論じたい。考えられる問題には先に対処するのが本来だと思う。予測がついているに防げないのは、残念。そして、予測すらつかないのなら、対処する側の人間が無能だといえないだろうか。16名が会派離脱した民主党。これも不思議な話じゃない。でも、国のトップが「全く理解できない」これも、読めていない。同じか。
2011年03月01日
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滅多に芸能情報を凝視しない。おじさんになって芸能人に疎くなった。誰が結婚して、誰が離婚して、それも興味はない。でも、無性に、やけに不快な気分になった。何故だろう。離婚届を提出する日をうっかり話してしまって、舌を出し自分の頭をポカリとする女。ブラウン管に映ったのは、沢尻エリカという女。「別に、、」うんうん、私もあなたに別に興味はない。ただ、話し方や動作、一挙手一投足に違和感を感じるんだ。それも凄まじく。ペラペラしゃべる内容は台詞じみていて、わざとらしく詰まり、自然に噛んでしまっている。流れているものが目に入ってきただけなのに、非常にこころがゾワゾワ。その直後、松本幸四郎さんのインタビュー。たどたどしくも熱意を感じる。私が思うに、役者さんは舞台の上やカメラが回ると、キッと人格が入り込みそれ以外のプライベートは不思議なくらいの不器用者が多い気がしている。沢尻さん。演じる場所が違うんだよ。そしてもう、いいよ。茶番に飽きたよ。あと、もう、、、取材に行くなよ。珍しく、芸能ニュースに腹が立った故に。
2011年03月01日
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