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あるひとつの光景を2つの観測点から書いてみます。一つ目。「それからの5分は、まるで光が過ぎるように感じられた。僕とマミは発車のベルが鳴るまで、抱き合い、見つめあい、そしてキスをした。マミの唇から、かなしいかおりがした。背中にあるやわらかい手にギュッと力がこめられると、僕はどうしようもなくマミが愛しくなり、今度は首筋にキスをした。「一年なんてすぐだよ」僕はなんの励ましにもならない言葉を口にしていた。実際にはその1年でふたりはどうなってしまうか分からない。遠く離れるということは、やはり危機なのだ。たとえ「愛してる」という言葉が今ここにあっても。あたたかい。マミの鼓動が聞こえる。行っちゃヤダ、という言葉を堪えるかわりに、マミの目から涙がこぼれて、僕の服を濡らした。「泣くなよ。俺が女を泣かせてるみたいじゃんか」そんな風におどけてみせても、何か状況が変わるわけではなかった。これから1年間離れて暮らすという事実は、僕らの間にどっかと居座ってどこにもいかない。二つ目。最近の若い人のマナーの悪さにはこれ以上目をつむることができませんので、投稿いたします。いったい現代日本の倫理規範はどこへ行ってしまったのでしょう。先だっての事。駅のホームで若い男女が抱き合っているではありませんか。あら、はしたないと思い見ていると、なんと接吻もしている模様。あまりの恥の観念のなさに、思わず嘆きの声がもれました。もともと日本には、恥の文化がありました。私たちが若い頃には、女としての恥じらいを持つようしっかり教育され、人前ではしたないことをするなと教えられたものでした。それが今はどうでしょう。もはや戦後ではない、という名目のもとに、若い女性は肌を露出し、大またを広げて下着を見せ、もはや恥の観念はどこかにいってしまったのでしょうか。代々受け継がれてきた日本の文化が断絶してしまうことを私は危惧しています。先だっての事に関しましても、いにしえより「男女7歳にして席を同じうせず」と申したほどで、私たちの世代では、街で男女が手をつなごうものなら、皆から白い目で見られたものでした。ところが今はどうでしょう。街ゆくアベックたちはいたるところで、抱き合い、接吻までしているのです。仲良きことは美しき哉とは申しますけれども、最低限のマナー(相手に不快感を与えない)は守ってほしいものです。意見の違いを、受け入れられますか?
2006年02月28日
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「ねえ、○子、あたし最近思うんだけどね、あたしの遺伝子はまあ置いといて、『この人の遺伝子を残したい!』って人と結婚したいんだよね」・・・すげえ、この人。構想でけえ。
2006年02月28日
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向上ということも大切だが、位置を知るということが、もっとも大切なのではないか、と思う。位置を知るから、そこが土台になり、そこから成長向上できる。人間は基本的に支点となる土台がないと、なにもできないのだ。水に浮いた紙に、字を書くことはできない。こうしてパソコンの前に坐り、キーボードを叩くのだって、イスという土台があって、まず俺が坐ることができ、パソコンの台だって、はじめてパソコンが存在し、キーボードがしっかり設置してあって、ちゃんと文字を打てるのである。というわけで、成長をつよく願う人間は、自らの位置を知らねばならない。たとえば僕は合気道をやっているけれど、僕の合気道には、僕の合気道の特性がある。他の人の合気道には、その特性がある。その特性を観る観測点として、「実戦での強さ」「技の巧みさ」「健康への貢献」「コミュニケーションの促進」「哲学性の有無」「マゾヒズムを刺激する痛み」「ダイエット・美容効果」など、その数は言ってみれば無限である。その観測点のうち、何を選び、何を高めていくのかは、個々の自由であるが、その選択と進む道を間違えれば、かなしい運命をたどることになる。たとえば、今ぼくが稽古しているようなことは、到底実戦で使えるようなものではない。蹴りや武器に対応する稽古もしていないので、たぶん応戦できない。いや、稽古していると思い込んでいる突きであっても、まともに打ち込まれたらひとたまりもないだろう。そういうことを僕は知っている。知っていて、なおかつ今のような稽古法を実践しているのだ。だが、いつも型稽古をしている人が突然「実戦ではこうなる」などと言い出す。沖縄空手を話題に出し、「上段回し蹴りなどはお遊びで、本来は腰から下なのだ」などと言う。「入り身をし、実際はここで突きを入れる」という人が、入り身を練習していない。流行の古武術(?)に影響された人が、「今の柔道・剣道は居着いているからダメだ」と言う(恥ずかしながら僕はこれでした)。こういうのは「位置を知らない」と言える。自分の学ぶものが「万能」と思い込んでしまうのである。万能と勘違いしているから、鼻をふくらませ自流を自慢し、他流を否定してしまうのだ。それはつまり思考が停止しているということである。位置、つまり特性、すなわち自他の流派の長短を知ること。これが大事なのだと、つよく思うのだ。ちなみに、いま自分がやっているのは、「合気道の合気道たる所以」の部分を強調したもの、と思っている。サッカーで言えばリフティングの部分。リフティングには、いろいろな技術が集約されている。だがリフティングの達人になっても、サッカーの神様になれるわけではない。いろんな武道があり、そこにはさまざまな共通点と相違点がある。その共通の部分を求めつつ、相違点、言わば「合気道のアイデンティティ」を強調したものを研究しているつもりである。もちろん、これは現段階の暫定的結論だ。というわけで、成長を求めつつも、つねに自分のいる場所を読んでいくことが大切なのではないかな、と思うわけです。
2006年02月28日
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イメージは、蛇口である。あるいは、ブレーキ。地球からの、大地からの、「重力」という巨大で偉大な力は、つねにわれわれに働きかけている。その声に耳を傾けること。そして、それを放出すること。水道というのは、重力を利用するのである。タンクは通常、屋上にあり、蛇口をひねると、水が出る。水量は、蛇口で調節する。水量を多くしたいとき、蛇口を開ける。けして、モーターで勢いよく水を噴出するのではない。あくまで蛇口というのは「制限」「コントロール」するもので、蛇口じたいが、水のエネルギーを捻出しているわけではない。つまりはブレーキともいえる。アクセルは不要。なぜなら前進する「ちから」はつねに、地球から流れ込んでくるからである。いずれにせよ、「大なる力」を制御するところに目下研究中の原理の面白さがあるのである。
2006年02月28日
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目下研究中の「竹馬立ち」。かなり効果は大きいようだ。今までにないような崩し方ができる。本当に力がいらないというか、手を切り下ろすという意識もむしろ邪魔なくらいで、手をポトンとしたに落とすだけ。相手は腰から崩れる。と達人みたいに書いてみたが、実はこれ、かなり成功率が低い。何度も言っているように、今の僕の技は立ち方がすべてなのだが、その「良い立ち方」になるまで数秒を要する。「姿勢をよくしよう」という意識が必要な、「不自然な自然体」なのだ。だから投げたあと、連続で掛かってこられると、「ごめん、ちょっとタンマ」と言って、もう一回取りにきてもらわねばならないという情けない状況なのである。ゆっくり精確にやれば、取らせてからでもできないことはないのだが、どうしても引っ張ったりしてしまう。ちょっとでも力んだらダメ。重さを相手にかけようとすれば、たちまち失敗する。準備に時間がかかるし、しかもすぐ崩れるという実用性の低さである。だが、これは技術じたいに問題があるのではなく、僕の実力の問題だろうと思う。これが自然に使えるようになれば、かなり面白いシロモノだと思う。「力貫」もすこしイメージできたし。いっそうの稽古に励むべし。あくまで「自然体」。今日はその立ち方が、なんか「虚」だなあ、と思って、「虚の立ち方」というカッコイイ名前にしようかと思った。~今日の釣果~入り身投げのときに、背中をさするように転ばすのがうまくいった。片手取りで、ぜんぜん効かない人がいた。たとえば一教で、「一教だけはかけられてたまるか」という感じで重心をのがす人には、そっちの方向に崩すのが良いと思った。でも最終的には、どんな状態であっても重心を吸い取ってやりたい。
2006年02月28日
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僕は教育という言葉のひびきが嫌いである。教えるものと教わるものが対面しているような感じがうさんくさくて、たまらなく嫌いだ。教育という響きには、知性を感じない。中身のない文化の継承しか思い浮かばない。文化とは、ほんらい機能であり、機能とは意味である。だから文化が意味を失ったとき、文化は文化でなくなり、ただの死骸となる。タマゴで大切な部分は白身と黄身である。もちろん「カラ」も大切だが、中身がいちばん大切だということは誰でも知っている。だが実際は、中身はそっちのけで文化のカラばかりが「伝統」として残され、なおかつその「カラ」が「文化・伝統」と呼ばれている有様。教育に必要な「教科書」もそう。教科書なんて間違ったことばかり書いてある。とくに高校までのは。なにがいちばん間違っているかって、「○○は××です」という書き方がしてあること。可能性を残そうよ、可能性を。「○○は××であるとされている」とかさ。あれじゃ知性もなくなるよ。え、それじゃ授業が成り立たない?知るか!!そんなんテメエで考えろ!!とにかく断定しないこと。教わるほうは鵜呑みにしないこと。最終的には自分でやるしかないでしょう。ほんと、すぐ鵜呑みにするやつほど、相手が鵜呑みしないと怒り出すからね。ねえ、ペットじゃないんだからさ、教育なんてするほうもされるほうも恥ずかしい言葉じゃない?これからの時代はあれですよ。「共育」でなくてはなりませんよ。って生ぬるい結論になっちまった。
2006年02月27日
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街中の交差点。大勢の人が待っている中で、赤信号を渡っていく人がいる。僕は結構、こういうことをやってしまう人間だった。だが、これからはあまりやらないようにしたいと思っている。急いでもしないのに赤信号を渡ってしまうのは、かなしい孤独な叫びである。「誰か僕を見て!」「僕は此処にいるよ」「僕は大勢の中に埋もれない傑出した人間だよ」「ほら、個性があるでしょう」僕は「みんな」の中に埋もれることをことさらに怖がる性質がある。ことあるたびに、個性を強調したがるといえば聞こえはいいが、目立ちたがる。「みんな」とは違うのだ、ということをアピールしたがる。善悪正邪のまえに、「みんな」と違うことを好む。僕にとって「一緒」というのは、侮辱であり、恐怖であるのだ。なんでこんな性質が身についたのかよく分からない。ともかく、それが如実に現れてしまうのが、「赤信号を渡る」という行為である。みんなが守っている交通ルールを破ってしまう、型破りな人間を演出してしまうのだ。だが実際には誰もそんなふうには思わない。「急いでるのかしら」「若いねえ」といった感じの白い目で見ている。で、今までなかなか治らなかったし、今もそんなにカイゼンされたとは思えないけれど、「店員」であるということが、それを治す上で、かなり良いクスリになっているような気はする。というのもサービス業の従事者は目立ったりするのはご法度だからである。あくまで「良識人」でなくてはならない。これは僕にとってとてもつらいことだが、まあ修行と思えばちょっとは楽しくなる。そんなこんなで、今後は「赤信号を渡らない勇気」を培っていきたいと思います。
2006年02月27日
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メールの返信が、10日後。「返信遅れてごめん」って言われても、はじめ何のことか分からんかった・・・。みなさん、メールはせめて3日ぐらいで返しましょう。
2006年02月25日
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さてさて翌朝、つまり今日は8時くらいに目が覚めた。あんまりよく眠れた感じではなかったが、まあ別によい。今日の予定は、京都の某大学合気道部の自主練習への参加。もともとそんな予定はなかったのだが、急遽、大阪に一泊することになったので、それならということで、先述の友人Mくんが、自らの所属する合気道部の稽古に参加できるよう手配してくれたのである。ありがたや~。のんびりと着替え、朝食(450円)をとってからホテルを発つ。そういえば、ホテルのトイレがウォッシュレットだったので、せっかくだからと思い、生まれて初めて使ってみた。よく、「ウォッシュレットでびしょびしょになった」とかいう失敗談を聞くので、かなり慎重に、水勢を「最弱」に設定して、いざスイッチオン!そしたらこれがまたすごいんだ。ピューと水が出てきて、穴を直撃。思わず、「おうっ」と声が漏れてしまった。で、その変な声が漏れたのとお尻の穴に水が当っているというのがものすごく恥ずかしくて、すぐさまストップ。そのあとなぜかすこし落ち込んだ。僕はカミに感謝した。待ち合わせはその大学に13:00だったが、京都駅に着いたのは午前10時。まだまだたっぷり時間があるので、お寺を見に行くことにした。京都に来たのは5年ぶりだろうか。だが、当時の記憶は意外に鮮明で、駅周辺はだいたい分かった。方向音痴のくせに。それで、大きな寺を覚えていたので、そこに行くことにした。名前はよく分からないが、なんとか本願寺だったと思う。門をくぐるとやっぱり良い。古い木材が醸し出す荘厳さが好きだ。それにあの匂い。小学校の教室を思い起こさせて、懐旧に浸ってしまう。いくつかお堂があるので、ちらちら見ていたら、あるお堂から、オルガンの音が流れている。読経の声じゃないよね?と何度も確認したが、どう聞いてもオルガンの音だ。それで、音につられてどんどん近づいていくと、「どうぞ」と警備員の人が戸を開けてしまった。中に入るつもりはなかったのだが、こうなると入るしかない空気だったので、「どうも」と言って中に入った。そしたら、なかには女子高生の団体(100人くらい?)がいて、さっきのオルガンにあわせてなにやら歌っている。それも正座で。だが、みんなやる気がないのか、その声はものすごく小さくて、ほとんど何か分からない。仏教の歌なんだろうか。それで女子高生は仏教系の学校の子ということだろう。納得できるようなできないような結論しかでなかったが、最終的にはお堂だけにドウでもよかったので、お堂から出てきた。で、まあなんやかやあって、13:00ちょいすぎからその某大学の稽古。僕はふつうの合気道の人に比べると、かなり色んな道場に顔を出しているけれど、やっぱり初めての稽古というのは緊張する。初めての人と話すのは苦手ではないけれど、いちばん初め、会ったときのいちばんはじめに、「誰、この人?」という顔をされるのがとても嫌いなのだ。だから一度紹介されてしまえば、そのあとはそんなに苦痛ではない。稽古はだいたい3時くらいには終わったが、僕も含めなんとなく3人くらいが残り、夕方5時までやっていた。すごく受けの素直な人が多かったので、僕は達人気分で調子に乗っていた。それに今日は春の風が気持ちよく、春の思い出がたくさん蘇った。梅の花も咲いていた。それからおいしいラーメン屋に連れて行ってもらうことになったが、あいにく臨時休業だったので、近くのカレーうどん屋にした。3人ともカレーラーメンを頼んで、がつがつ食って、ふう、ごちそうさまというところで、Mくんが、「そういえば言い忘れましたが、 このお店ではスープを残してはいけないんです」とポツリと言った。冷静な表情だったが、心はニヤニヤしてたんだろう(笑)実際、彼のスープはさっさと飲み干してあった。僕は「この野郎」と思いながら、必死でカレースープを飲んだ。胃の中にカレーのインド洋ができた感じがした。それからは電車に乗って、京都駅へ。おみやげを買って、新幹線に乗り込む。近鉄で帰ろうと思ったが、乗り継ぎが面倒なのと、時間がかなり掛かるということなので、新幹線にしてしまった。たまにゃ贅沢も良し。で、夜の10:00頃には岐阜に戻ってきたわけです。あ~、合気道も7時間くらいできたし、本も2,3冊読めたし、散財しまくったけど、充実した二日間でした。さ、明日からもはりきって働こうっと★
2006年02月22日
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突然、旅行してしまった。そんな計画まったく立てていなかったのに、僕の本能が「そうだ、大阪いこう」と言ってしまった。理性が、「おいおい、急だな」と言ったが、そういう場合、行くしかない。直感にあらがってはいけないと直感が言っている。なんで大阪かといえば、ネットで親しくさせていただいている「塾長先生」の研鑽塾という合気柔術の教室があるからだ。僕の休日と稽古日が重なったので、行くしかないと思ったわけ。で、せっかく関西にいくのだから、と思い、大阪にすむ知人にも連絡を取り、ひさしぶりに会うことになった。もちろん合気道関係の友人である。彼とは、彼が名古屋に来たときに一緒に稽古したのが縁で、爾来1年強、ネットとメールでのやりとりが続いていた。塾長先生には出発日の前日、つまり月曜日にいきなり「明日行きます」と電話をしてアポをとり、それで火曜日朝10:00ごろ、大阪に向けて家を発ったのである。JRと近鉄を乗り継ぎ、ブラブラと大阪まで行ったら、午後3時にはJR大阪駅に着いた。そこで、さきほどの彼と彼の友人が出迎えてくれた。彼の友人は僕の後輩でもある。人間関係の説明が面倒なので、とりあえず武道・武術マニアが3人集ったと思ってください。待ち合わせはなんだかオシャレなファッションビルだったのだが、はて、これからどこへ行こうということになった。普通なら、洋服でも見たりカラオケに行ったりでもすればいいようなものだが、その方向には流れず、「ジュンク堂 大阪本店」に行くことになった。もちろん、武道コーナーが充実していると聞いたからである。といったものの、道が分からないので、人に尋ねては歩き、尋ねては歩き、そんなことを繰り返して、だいたい20分くらいでジュンク堂についた。さすがにジュンク堂の本店だけあって広い!はずなのだが、一目散に武道コーナーに向かったので、全体的なことはよくわからない。書店員としては調査とかしても良さそうなものだが、それより武道コーナーの品揃えが気になって仕方がなかった。それからはたっぷり2時間ぐらい、そのコーナーの前で武道の書籍・DVDについて語りあった。「これは面白い」「これはタメになる」とかなんとか言って。もちろん素人だから的外れなことばかりだろうけれど、そんなことよりも、普段はできないマニアックな話ができるのが楽しいのである。そんなことをしてる間に、研鑽塾の稽古開始時間が近づいてきた。それで「じゃあ、そろそろ」というと、「今日はこれからどうされるんですか?」と聞かれる。「ちょっと合気柔術の稽古に・・・」というと「こんなこともあろうかと」と言って、友人はジャジャーンと道着を取り出した。「僕も行ってもいいですか」出たよ。「こんなこともあろうかと」って道着持ってくるやつなかなかいないよ。俺は、もちろんと言って、一緒に稽古に行くことになった。もう一人の後輩はまあいろいろ用事もあるらしく帰宅した。JRの環状線「玉造」駅からすぐそばのところに研鑽塾はある。駅について塾長先生に電話すると、迎えに来てくださり、お互い電話しながら目が合ったところで、「どうもはじめまして」と相成った。いつもは8時から稽古されているそうだが、今日は僕らがいるということで、6時半過ぎから早めに稽古を始めていただいてしまった。それからたっぷり9時半まで稽古があり、塾長先生はその後の鍋パーティにも誘ってくださったが、僕は帰りの電車のことがあったので、お先に失礼することにした。それからJRに乗り、友人とも別れ、僕は新大阪駅にいた。近鉄線はもう終電もないので、新幹線で帰ることにしたのだ。窓口で僕は聞いた。「名古屋行きのチケットを・・・」駅員は言った。「名古屋行きはもうありませんよ」え、今なんと?もう名古屋行きはないんですか?「名古屋に帰る手段は寝台列車だけです。1万ナンボですかね。まあそれで帰っても、名古屋のJRはぜんぶ止まってますけど」OH!YOU ARE SO COOL!冷たいよニイチャン!!というわけで、大阪に泊まるハメに。まあ「こんなこともあろうかと」余分なお金は持ってきていたのだが・・・。それで詮なくビジネスホテルを探した。さいわい、それなりのところを見つけて、寝床は確保できた。飛び込みははじめてだったので、ちょっと緊張した。シングルの部屋は新入社員研修で泊まったホテルに似ていた。テレビが、これまた不思議なことに僕の興味のあるチャンネルだけ有料という不公平なサービスだった。そしてちょっと稽古をし、僕は眠りに就いた。「大阪・京都 合気の旅二日目」に続く。
2006年02月22日
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昨日ひさしぶりだったので、はりきりすぎて5時間半も稽古したせいか、激しく筋肉痛になってしまった。昨日の夜から「腿の裏と尻が痛いなあ」とは思っていたが、今朝になってガビっ!!わき腹が全部痛い!!あと、腹筋も。いやー、学生のころは一週間に20時間弱稽古しても筋肉痛にはならなかったのにねえ。怪我や故障は多かったけど。まあ不思議と筋肉痛も気持ちいい感じがする。なんか笑える痛みっていうか。マゾヒズムかな。
2006年02月18日
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笑顔を出すというのは、非常に勇気のいることだ。笑顔というのは、自分を開くこと。無防備な姿勢だ。無防備だからこそ、人間の活力の1つとなる、「こころの暖かい交流」の可能性が出てくるのだ。勇気がなければ笑顔を出せはしない。逆に、勇気のない媚びた笑顔は醜い。笑顔は無防備であるから、傷つきやすい姿勢でもある。不機嫌な顔は、守りの姿勢であるから、傷つきにくい。だからコンビニのバイト君でフキゲンなやつは心の弱いやつと見てよい。笑顔を出したとき、お客さんが冷たくて、それで傷つくのが怖いのである。実際、お客さんが冷たいと、ムカっとくるものだ。商品をバーンとレジに置いたり、お渡しのとき、奪うようにピッともっていかれたりすると、カチンとくる。つまり傷つく。こころの暖かい交流を求めて、それが拒絶されたとき、ひどくかなしい気分になる。ときに腹立たしい気分になる。だけど、やっぱり「こころの暖かい交流」を求めて、恐れず、いや怖くとも笑顔は出したほうがよいと思う。こちらがこころを開いたからといって、相手が開いてくれるわけはない。だが、こちらが開かない限りは絶対に「こころの暖かい交流」はできないのだ。バットは振らなきゃ当たらない、ってやつだね。で、前置きが長くなったが、今日は名駅のビックカメラにいったら、不機嫌な店員がいて、しかも俺は失敗をやらかしてしまったのだ。ビデオカメラを探していたのだが、意外にも置いてある商品量が少なく、他に場所はないのかなあと思い、店員に聞いた。「すいません、他にビデオカメラって置いてないですか?」そしたら、その返事が、「はい」の一言。それも「他にあるわけねーだろ。いちいちそんなこと聞くな」的な、冷たい「はい」。それで傷ついてしまったのが、俺の弱さ。「ああ、そうですか」と言ったあと、そいつをにらみつけてから去ったのだ。あとから考えれば、最後の行動で俺はあいつと同じレベルに落ちてしまった。反省反省。それかそういう行動をとって、パッと「忘れる」こと。カッとモノをいえたら、パッと忘れられるかな。俺みたいにメモをとるのは、湿っぽいかも(笑)ふむー。
2006年02月17日
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現実を見ろというが、現実とはなんと厳しいことだろう。現実は絶望だ。現実は、どん底だ。たとえば「自分を見つめなおす」ということがあるが、なんと苦しいことだろう。というのも、「自分を見つめなおす」というのは、「客観的に」自分を見ることだが、実際にはそんなことはできはしない。人間の目というのは前に二つついているから、「一面」しか見ることはできないのだ。人間にはかならずウラとオモテがあり、まあ長所と短所といってもいいが、そのウラとオモテを同時に見ることはできない。褒められれば、オモテを見ることになるし、けなされれば、ウラを見ることになる。成長の度合いによってその振幅は小さくなってはいくが、けっして同時にウラとオモテを見ることはできない。ウラ・オモテ・ウラ・オモテと早く見てもダメだ。という現実があり、なおかつ日本の世の掟として、「自分のことを良く言い過ぎてはいけない」というのがある。「ケンソンのビトク」などと呼ばれているものだ。そのせいで、自分のことを良く言うのは恥ずかしい。恥ずかしさというのは、恐怖である。誰かに、「オマエそんなに良くないよ」といわれる恐怖である。そういうことがあって、「客観的に自分を見よう」などとやり始めると、基本的には自己嫌悪におちいっていく。俺の場合は、いくら自分を褒めてみても、最後に自分をけなしてしまう。「俺も結構○○なんだよ。といっても××だけどね」的な。だから「現実」は絶望である。夢ばかり見ていても仕方がないが、現実ばかり見ているのもつまらない。苦しい。半ば現実を見、半ば夢を見る。そのバランスが大事なんじゃないかな。現実は、どん底だ。そう、でも、底があるから這い上がっていける。
2006年02月17日
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竹馬だよ、これはまさに。今日は睡眠時間より合気道の稽古時間のが長いという幸せな休日でした。で、今日の最後のほうに発見した、というか再認識して再現性を持った原理が「竹馬立ち」である。「たけうまだち」と読んでもいいが、「騎馬立ち」にあわせて、「チクバだち」と読んでもよい。細かいところは秘密だが、重心を点として感じて、なおかつそれを消失させるのが重要だ。今日の発見は僕の中でかなり大きく、「これが自分の技のすべての基本である」と言いたいくらいだ。肩の力を抜くのはもちろん、前腕の「あずけ」、腰の脱力、胸・背中の操作などもむろん重要だが、「竹馬立ち」がなければ、それがよく機能しないようだ。ぎゃくに「竹馬立ち」を意識すれば、他はほおっておいても、技の効きはかなり良いようだ。重さをかけている感じがしないのが不思議だった。ちなみに竹馬だけに、膝をまっすぐにしても使えるようである。もちろん、いつものように相手をしてくれた人は非常によい受けをしてくれる人で、僕の技が万人にかかることはないだろう。だが、演舞をしてくれと言われたらなかなか面白いことをする自信はついた。あんなにすーっと相手の腰を崩せたことはなかった。たとえどんなにやりやすい相手でも。受けの人に「ちょっとリキんでみて」とお願いしたら、相手が勝手に腰から崩れていった。黒田先生の映像をイメージしたのが良かったのかもしれない。それと、前から言っていることだが、技の掛からない人とやることも大事だが、それだけでは面白みが分からず苦しいだけなので、技を受けてくれる人とやるのも大切だと思った。特に俺は褒められるのが好きなので、技の掛かる人と稽古したほうが進展がある気がする。2005年3月・9月の気づき、そして今年今日の発見。すべて合気道歴としては後輩格の人に相手をしてもらい、気づくことができた。これが、「できないことをよしとする風潮」だったら、絶対に気づくことはできなかっただろう。「合気道は難しいなあ」などと言い続けて。だが、発見といっても、多くの諸先生方のお言葉が僕の中に蓄積されており、それが醸成されただけと言うこともできる。それを忘れてはいけない。数年前にいただいた言葉をやっと飲み込めたというものもある。ありがとうございます。追伸:今日買った本によって、自分の研究が「科学的」だということが判明。光文社新書の新刊、「99.9%は仮説(竹内薫 著)」。「バカの壁」と一緒に読みたい良書です。こういう本は全国民が読んだほうがいい(笑)
2006年02月17日
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世の中には、真実よりも大切なことがいっぱいあるんだなあ。
2006年02月15日
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今日は春の風吹いたねえ。東の風が頭角を現してきて、「春風台頭」なんてね。さてさて、「長いものには巻かれろ」そんなことわざがある。これはえてして良くない意味で使われる。ごますり、阿諛追従のたぐいに思われがちだ。ジャイアンに対するスネオのように、コバンザメ的に「こっちについたほうが得」といった用法で使われている気がする。だが、これは本来、もっと優れた、プラスの意味を持った言葉だったのではないだろうか。「力の強いものに追従したほうが得」なんて、魂がよごれてしまうようなくだらない言葉を、先人がわざわざ現代に残すだろうか。俺はそうは思わない。古人が残してくれたものは未来を切り開く道具だと思いたいのだ。とすれば、「長いものには巻かれろ」はどんな意味なのだろうか。これは「長いものには」の「は」が問題なのだ。「長いものに巻かれろ」ではない。「長いものには巻かれろ」なのだ。この違いは何なのか。これは能動と受動の違いである。「長いものに巻かれろ」だと、「長いもの」を積極的に探して、「巻かれる」ことを意味する。これだと、「力の強いもの」に寄り添って、ハイエナのように「得」を「ラク」にゲットする感じになる。しかし、「長いものには巻かれろ」は違う。なにか、自分を取り巻こうとしているものが「長いもの」であったときは「巻かれるしかない」、という「あきらめ」の境地なのだ。この「長いもの」というのは「神」であり「運命」である。俺は以前から「自分には克ち、神には負けろ」と言っている。「人事を尽くして、天命を待つ」と同じ意味で。「運を天に任せる」とも言う。「巻かれる、任せる、待つ、負ける」すべて「ま」を語頭に持つ、受動的な言葉である。この運命というやつは大河に譬えるとわかりやすい。神は大きな河の流れだ。やはり基本的には「流れに掉さして生きる」しかない。つまり、流れのままに抗うことなく、河の流れに沿って生きるということ。もちろん、自分という船を操縦することはできるのだが、大河の行く方向までは変えられない。「長いものには巻かれろ」ってのは、本来そういう意味だったんじゃないのかなあって、会社・お店という小さな川に翻弄される俺は思ったのだ。
2006年02月15日
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今日は休日ということで、合気道の動画をぎらぎら探して見てみた。まず頭に浮かんだ言葉。「舞(まい)」よい意味でも悪い意味でもなく。ただ、舞。「演ブ」の「ブ」は「舞」でいいんじゃないか、と思う。俺は最近は意識的に「演舞」という漢字を使っている。特に自分がやるとしたら絶対に「演武」とは書くまい。恥ずかしいから。真の旦那芸、真の宴会芸、真の合気ダンス。それはそれで「道」たりえると思う。「合気道はあくまで武道であり踊り(ダンス)ではない」という意見も聞くけど、別にそれは自由だと思う。もうここまで広がってしまったら、武道であり武術であり、宗教であり哲学であり、ダンスであり、体操であり健康法であり、ダイエットの手段であり、趣味であり、ライフワークであり・・・、でいいんじゃないか。ただ、もとが武道であったことは事実として覚えておいてさ。今日はそんなことを思いました。追伸:あの渡辺師範の技、かなり好き。一回投げて頂きたいなあ。ちゃんと受け取れるかなあ。
2006年02月14日
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新体道の青木先生が面白いことをおっしゃっている。文化というのは、ときに断続的に継承されるのだと。すごく納得がいった。これはどういうことかというと、―ここからは自分の解釈も含めるけれど―歴史的通時的に、つまり<タテ>に継承されてきた文化が、あるとき突然にぽーんとどこかに横っ飛びし、まったく他の文化で根付いていくということ。それは、あるいは書物によって、あるいはなにか奥深い意識のシンクロによって、あるいは伝達者によって起こる。そしてそこに新たなが生まれるのである。これはまことに皮肉なことで、「先生様!先生様!」と叫んでいる人には結局何も伝わらなかったりする。偉大な先生というのは、もちろん「業績」もすごかったりするのだが、本質はそこではなく、その先生がご自分で考えた部分、いわばが偉大なのであって、そういう先生は「自分で考えよ」とおっしゃる。「私のようにやれ」とは言わない。だから一見、その先生に反しているようでも、逆にその意識はなくとも本質を継いでしまう、というようなことが起こるのだろう。これはとても皮肉な話だと思うが、とても面白い事象だとも思う。
2006年02月14日
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この世界は、みかんの皮のようなものだ。
2006年02月14日
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楽しいことが良いことか。苦しいことが良いことか。意見の分かれることところだと思う。「楽しいだけじゃダメだ。人は苦しんで成長する。」という「苦しみ派」は多い。昔の日本の体質な気もする。仕事(武道)が楽しいわけないだろう。厳しいに決まっている。苦労は金を出してでも買え。苦難を乗り越えてこそ、大きくなる。苦労みそをなめろ、的な。いっぽう、「楽しみ派」は「苦労」に重点を置かない。楽しむことが大事ですよ。苦しかったら続くはずがない。楽しみながら、こつこつと続けることが大事です。好きなことをやって楽しむのがよい。なんで楽しくないのにやるのか、的な。でまあ、一時はどちらがいいのかなあ、なんて考えもいたんだが、今日になって、「どっちでもいっか」と思った。結局、体質に合ったものがいいんじゃないかって。「苦しみ派」というのは辛抱強い人に向いているだろう。押して忍ぶ、の心。忍耐。耐え忍ぶ。ぐうっと亀のようになって、中にそのエネルギーを溜め込む。そして雨がやむのを待つ。「楽しい派」は創意工夫に優れた人に向いているだろう。苦しいのは嫌だ。さて、どうやって逃れようか。こうすれば辛くなくなるはず、やってみよう。こうでもないああでもない。あれがよいかもしれない、やってみよう。俺は明らかに後者だろう。楽しみ派。苦しいのはあんまり好きじゃない。どうにかして逃れようと工夫する。まあ一長一短があるだろうね。苦しみ派は、ともすれば工夫を忘れ、頑迷固陋になり、雨がやんでも、うちにこもってしまう。楽しみ派は「どうにもならない状況」で絶望する可能性がある。両方備えることができればいいけど、それは無理だろうから、まあ自分がどっち派か分かっているだけで違ってくるだろう。両者に共通するのは、愚痴がないってとこかな。
2006年02月14日
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「あつを」さんから色バトンがやってきました。それではスタートゥハっ!1.自分を色に例えると? き、黄色かな。太陽のような存在(笑)2、自分を動物に例えると?色、関係ねぇぇ!!イルカ。知能が高い(笑)はい、好感度ダウン。3、自分を好きなキャラに例えると? ちょっと思い当たるものがない。あえていうならozekey4、自分を食べ物に例えると?春菊。好き嫌いが分かれる。5、バトンをもらった人を色で例えると?不思議と、黒と白のイメージがあります。6、次に回す5人を色で例えると? 雀の涙さん→茶色。たぶん帯のせい。ちほさん→ピンク。なんとなく。3番ショートさん→濃い茶色。なんとなくかねさま→金色。たぶん苗字のせい。5番目は該当者なし。
2006年02月13日
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この矛盾。完全に孤独でありながら、同時にすべてとつながっている。人間というもの。矛盾が矛盾なく成立するという矛盾。頭が混乱してくるね。見る、という行為は「向かい合う」ことだと説いた。それは逆に、球体の表をみたら裏を同時に見ることはできないということをも意味する。「人は一人では何もできないが、だがすべて自分ひとりでやるしかない」いいね、矛盾。
2006年02月12日
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「オマエに言われたくはない」こういう感情を覚えることがある。当人が実践していないことを偉そうに諭されると、そう思う。言っていることはマトモなんだけれど、なぜだかカチンとくる。これは不思議なことですよ。同じ言葉でも言う人によって効果が違うなんてね。「力を抜け!」って、いや、確かに俺はまだリキミが抜けないけど、それはアンタもだろ、みたいな。「できてないヤツが言う」ってのはどうやら相手を素直じゃなくする効果があるようだ。とすれば、相手が言うことを聞いてくれないというときは、自分がそれをやっていないからなんだろう。気をつけよっと。正しけりゃいいってもんじゃない。
2006年02月12日
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コンセントに足を引っ掛けたときにどんな行動をとるか。これが大きな分かれ道だと思う。コンセントなんぞものともせず、ブチっと抜いてそのまま歩いていけるような「強靭な」足腰を作るのか。それとも、コンセントに足が掛かった瞬間、鋭敏な感覚でそれを判断し、とっさにまたぐのか。はたまたコンセントに足が引っかからないような、行動を常にとるのか。大切な分かれ道だと思った。
2006年02月12日
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武術の達人だからといって、俗な欲求がないわけではないと思う。「武術の稽古は己を鍛えるためで、人に見せるものではないのだ!」「いやらしい考えを持ってはいかん!」「自分が相手より強いかどうかではなく、 自分に勝てるかどうかだ!」などの克己的な意見はよく耳にする。もちろん、上のような意見は間違っていない。むしろ、そういった観点がなければ、技の探求はエゴイスティックでキモチワルイものになるだろう。だが、そのようなストイックな視点にばかりとらわれるのも間違っているような気がする。俺は、「武術の達人も俗欲を持っていた」という視座についている。合気道開祖、植芝盛平先生は超人とも思える逸話を残しているが、同時に、「稽古に女性が来ると、いつもは見せない技をポンポン出した」と藤平光一先生が語っていらっしゃる。こういうことを語ることを、「開祖を冒涜した」というだろうか。いや、言わない。むしろ「神業」を持つ達人の人間性を垣間見ることで、より一層、魅力を感じるのではないだろうか。達人だって、いや、だからこそか、「どうだ、俺の技はすごいだろう」的な感情を少しは持っていたと考えている。それが悪いことだとはぜんぜん思わない。人間なら当たり前だと思う。前も書いたかもしれないが、こんな説話がある。禅の和尚さんと弟子が散歩していると絶世の美女が通りかかった。和尚さんは一瞬その美人に見とれた。のちのち弟子が「和尚、さきほど美人に見とれましたね。まだ欲をお持ちなのですか」「何を言う。たしかにわしは美人に見とれたかもしれんが、そんなことはもう忘れておった。わしがチラ見したことをずっと覚えているお前の心こそ、『囚われている』と言うのじゃよ」和尚さん、デカイね。そう、たぶん達人は俗欲があるとかないとかどうでもよかったのだろう。ただ、あるがままだった。う~ん、遠い境地。まだまた俺はちっちゃいなあ。
2006年02月12日
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この前も言ったように、「愚痴はイケナイからまったく言わない!」というのは苦しい規則だと思う。やっぱり人間、すこしくらいの不満も出ますよ。さあ、そんなときどうしよう。俺が心がけているのは、「あかるい愚痴」。愚痴は湿っぽいのが本当にタチが悪い。関係ない人まで気分が悪くなる。そういう人のそばには寄りたくない。だが、あかるい愚痴ならまだなんとか大丈夫。むしろ面白いくらい。さっぱりしているから、聞いているほうも笑える。「毒舌」って感じに聞こえるかもしれない。でも「毒舌」ってのは褒め言葉だ。嫌なことをイヤミなく言ってのけるから毒舌なんて言われるが、それは不満をすっと外に出す能力に長けているからできること。できない人は、じわじわとイヤミを出すか、ためてためて、爆発する。不満が出るのは仕方ない。それをどうやって気持ちよく放出するか、だと思う。
2006年02月12日
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日本には春夏秋冬の素晴らしい季節がある。春には花咲き乱れ、新緑が芽吹き夏には草木生い茂り、果実みのる。秋には木の葉舞い、木枯らし吹き、冬には雪舞い降り、春を待つ。すばらしい。だが、四季の中に「本当の日本の季節」というのがあるだろうか。いや、ない。誰が、「日本の本当の季節」を探すだろう。夏の暑さを体感し、「日本は暑い国だ!」と決め付ける。冬になりその寒さを実感し「やっぱり日本は寒い国だ!」そしてまた夏になり「いや、やはり暑い国だ!」冬には「でもやっぱり寒い国だ!」そして次の夏、「暑い!寒かったり暑かったり、この国の本当の気候はどれなんだよ!」こんな人間がいたら滑稽だろう。だが僕らは往々にして、このような過ちを犯しがちだ。あるときは(たいていは人に褒められたとき)、自分に自信が持て「自分はよい人間だ」と思う。だがあるときは、劣等感にさいなまれ、「自分はダメなのではないか」と苦しむ。その変化はときに一瞬だ。誰かのポンとした一言で、突然はしゃいだり、やけに落ち込んだりする。そんな一瞬で人が変わるわけがないのに、気分は激変する。要は視点が変わったというだけなのだ。だから、大切なことは「心の春夏秋冬を知る」ことではないだろうか。自信のあるときも、落ち込んだときも「自信のある人間」「自信のない人間」と思うのではなく、「自信のあるとき」「自信のないとき」と考えることで、すこしは自分を客観的に見られるのはないか。穏やかな気持ちのとき、「今は心が春だな」さみしいとき、「今は秋」怒れるとき「今は夏」。そんな風にゆっくりと自分を見ることで、まるごと全体の自分を捉えることができるんじゃないか、そうやって考えている。
2006年02月11日
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「オマエはもう限界か?」そう己に問うてみる。たいてい答えはノー。そう、まだまだいける。
2006年02月11日
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まじで合気道したい。誰か相手して。畳のある場所貸して。あーーーー!
2006年02月11日
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兼六園の入場料、1006円。
2006年02月10日
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小人の問題はつねに大きい。騒ぎたてるなかれ。
2006年02月10日
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昨日、面白いことを思いついた。それは、一日一回、宇宙について想うということ。どうだ、考えがデカイだろう。僕は俗世に棲む凡人だ。日々、小さいことに一喜一憂し、自我にとらわれ、煩悩に左右され生きている。それで、悩むことがある。仕事がどーだ、恋愛がどーだ、人間関係がどーだ、ということで。悩みというのは分かりやすい遠近法を採用していて、近づくとおおきくなり、遠ざかると小さくなるという性質を持っている。つまり、悩みを解決しようと没入すればするほど、悩みという泥沼にハマってしまうことが多いのだ。孤独というのは存在せず、実際に在るのは「孤独感」だけだというのと同じように、悩みも、実際に悩みがあるというよりは「悩み感」があるだけの場合も結構ある。いわゆる杞憂というやつ。さて、そんな「悩み感」を吹っ飛ばす方法が、「宇宙のことを考える」法である。悩みがあるときというのは、ジャンケンでいう「グー」のようなものだ。考えが内にこもっている。「自分は、自分は」という考えに囚われたとき、悩む。そこで、宇宙のことを考えるのだ。限りない宇宙、果てしなき銀河系、とこしえの闇、そして永遠の光。宇宙!森羅万象の母。ああ、なんと自分という存在の小さいことか。そしてこの悩みの、なんと微細なことか!!この地球。母なる大地。僕といういのちをこの世に産みおとし、懸命に育ててくれた両親!ありがとう、ありがとう。僕は神の子、宇宙の子、歴史の子、社会の子。僕がこの世に生まれ出たことに、意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。だが、いずれにせよ、僕は生きている。ここに、僕のかけがえのないいのちが息づいている!なんという素晴らしい奇跡!!・・・という具合にやってみるのだ。寝る前に、部屋を暗くしてやったりしている。もちろんこれをやり続けてはソッチの世界に入ってしまう。だが常日頃から俗にまみれている僕には、一日一回やってみたりすると気持ちが浄化される気がする。小さな俗欲にまみれる人にはオススメです。
2006年02月09日
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黒田鉄山先生のDVDを見た。たまらんね。何がなんだか分からんね。あえてコメントはそれだけで。それで、黒田先生があの身体で合気的な表現をされたら、それは僕にとってどんなにか魅力的だろうかと思った。でも黒田先生はそういうのは嫌いそうだな。「ナンバ歩きってなんですか?」「知りません」っていう最高の答えを持ってるくらいだからな。「遊び」はよくやってらっしゃるようだけど。ああ、深いなあ、遠いなあ。
2006年02月08日
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今日、ボクの好きなタイプが確定しました。それは純粋な人です。あえて定義はしません。純粋な人は純粋な人です。それにくわえて知性があればなおよし。最後にそれなりに可愛ければ言うことなしでしょう。
2006年02月08日
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なんてえ矛盾だ。言葉では「正しいことがいちばん人を傷つける」ってのは知っていた。いちばんの悪口は、「事実」だ。だから真実を隠すこともときに必要なのだと。だが、実態としての俺は真実を求めるあまり、他人を傷つけ、自分を傷つけてきたのではないか。俺はいつも真実を求めてきた。もちろん、ときに卑怯であり臆病であり、姑息であった。俺は聖人君子ではない。しかし基本的なところではウソはつけない人間である。それゆえに他人のウソも許せない人間だ。あー、こんな書き方をするとカッコ良すぎる。これでは悲劇のヒーローぶっているだけだ。今日書きたかったのは、俺には、真実を求めるあまり傷つけた人があまたいるということ。申し訳なかったと思っている。だが俺は、それを反省しながらも、また繰り返すであろうという未来像を観るのだ。俺の間違いを俺が直すことはできない。それができるのは、他人であり、社会であり、母なる大地と神である。俺は一生懸命、俺になるだけだ。そうでしか、在りえない。
2006年02月08日
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最近はかなり不器用というのがもてはやされているせいか、「不器用」を演じている器用な人が見受けられる。J-POPとかで。世間には二重の常識がある。ひとつはいわゆる「常識」とされている倫理的規範のようなもの。架空で空虚といってもいい。「マジメが良い」「授業はサボらないのがよい」「法律は守ったほうがよい」といったことだ。「不器用より器用がよい」もこちらの範疇に入る。だが実際にはもうひとつの常識があり、これを俺は「ジョーシキ」と呼んでいて、人々はなかなか口にしないが、こちらが実際に通用している。これは「ワルの倫理」とも言えるもので、「マジメは面白みにかける」「授業なんかちょっとくらいサボれ」「時速60km制限でも70km/hで走ってもよい」といった類のものである。このふたつの常識を利用した自己演出というのを俺はよく見かける。あまりによく見かけるので、方程式化できると思ったのだ。その方程式とは・・・自分は「常識」的な人間になりたいが、どうしても「ジョーシキ」にしたがってしまう「ワルイ」人間なのだという演出だ。たとえば、「もっと器用にキレイな言葉を言えたらいいんだけど、俺、不器用だからうまく言えないけど、好きだよ」的な。「危ないって分かってるけど、このまえ130km/hも出しちゃったよ」的な。「授業1週間もサボっちゃったよ」的な。「据え膳食わぬは男の恥だぜ」的な。これらの発言は、つまるところ「ワル」としての自己演出と言えるだろう。こういうのは程度の差こそあれ誰もがやっていることで、そんなに悪いことではないと思う。俺だって、そういう背伸びをたくさんしてきたし、今でもしている。そうでなけりゃ一人でパチンコとか行かないよ。「ロクなもん食ってないよ」という自虐は「ロクなもん食わなくても健康だよ」という自慢でもある。結局、自虐も自慢も、もとをたどれば同じもので、自分にとらわれ、「オレがオレが」と言っているだけなのだ。まあなんにせよ、高倉健以外で「不器用ですから」なんていう人は90%器用だよ。不器用で純粋な人間を演出しているんだ。俺は、なぜかそういうのに過敏に反応して嫌悪してしまう。自分がやっているからかな。
2006年02月08日
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不機嫌なやつがいるでしょう、そこかしこに。俺は思うんだけどね、不機嫌なやつってのはもう負けなんですよ、完全に。相手がチヤホヤしてくれないから、「僕(私)もやさしくしてあげない!」ってプンプンしてるってことだからね。不機嫌ってのは恥ずべきことだと思う。もちろん人間、嫌な気分になることはある。むかつくヤツ数人に囲まれたら、それこそムカムカしてしょうがないとは思う。けれど、なるべくそういうのは隠すべきだ、オトナなら。不機嫌なオトナってのは大抵、「立場」が偉いだけなのに、自分が偉いと思い込んでいる人がなるもんだと思う。不機嫌になることが偉い人、と勘違いしている人の内心は「なんでチヤホヤしてくれないの!プンプン!」ってことですよ。ああ、恥ずかしや恥ずかしや。学者もお医者さんも社長も、武道の道場に一歩入ればただの白帯初心者。逆に、そこの師範もどっかの会社に入れば平社員。「立場」なんてオママゴトみたいなもんだ。やっぱり何よりも人間的成長ですよ。とにかく俺は不機嫌な人間にはなりたくないね。不機嫌になってしまうときもあるけど、それは恥ずべきもの、と思っていたい。負けるのは嫌いだし。
2006年02月07日
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最近になって、肘を張っても、脇をしめてもその外面のカタチが関係がないような気がしてきた。武道では、基本的に「脇を締めて」と言われる。「どんな芸事でも脇は締めるのだ」という人もあるくらいだ。だが、よくよく考えてみれば「肘を張る技法」もある。僕のよく知る先生でも肘を張って正面打ちを受けるのをやっていた。ちなみにその先生のお弟子さんは脇を締める派で、「先生のレベルに到達しないで肘を張ってもリキむだけ」と言っていた。さて、肘を張る技法でほかに有名なのは立禅と書道である。おそらくだが、あの肘の張り方は同じものだと思う。そのふたつとも、リキみとは正反対にあるものだ。というわけで、やみくもに「脇を締め」なくてもいいと思い始めたわけです。ピン!ときたらクリックお願いします。
2006年02月06日
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最近のテーマは「愛」。「愛とは何か?」なんてムズカシク考えることはない。何かと何かの結びつき、くらいに考えてほしい。勉強・仕事・人間関係…etcに技術がある。技術はその人のレベルをアップさせる。しかも飛躍的に。だから技術はもてはやされる。勉強の技術を磨き、点数を上げ、仕事の技術を上げて出世し、人間関係の技術で楽しく過ごす。しかし技術から得たものは、なべて虚しい。華やかなように見えて、何か違う。根底に愛がなければ、何もかも虚しい。そんなふうに感じる。俺はどっちかといえば器用な人間だ。「不器用ですから」と言ってみたいが、絶対言えない。だからあれね、「器用貧乏」に気をつけないといけないタイプ。もちろん技術も大事なんだけどね。実際は、愛があれば自然と技術は生まれるもの。ああ、愛はでっかいなあ。ピン!ときたらクリックお願いします。
2006年02月06日
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浮いた言葉というのは身のない言葉のことだ。耳にしたとき、軽いからすぐわかる。テレビの「コメント」とかは基本的にそう。さっき、太極拳ブームがどうとかいうのがやっていて、VTRが終わって、どうですか○○さん?みたいなフリがあって、「あー、いいですね。呼吸法は健康にもいいですし、 筋力トレーニングにもなりますしね」「そうですね、あれくらいゆっくりなら 無理なく続けられそうですね」だって。こんなこという人の人格疑うよね。「なんか適当に言っておけばいい」っていう気持ちが丸分かりじゃん。俺はだまされんよ。知らないなら知らないって言えよ。「呼吸法は健康にいい」ってオマエどういう意味だよ。なんだその曖昧な言い方。曖昧にごまかせばいいと思ってるんだろう!俺、ホントそういうのダメなんだ。むかっ腹が立って仕方がない。イメージでしゃべらないで、実感でしゃべって。合気道の稽古でも言葉がまじフワフワ浮いている人は多い。うまい人は、実感を持って話してくれる。だから話が分かりにくい。けど、それはそれで良くて、「質問」してだんだん聞き出せばよい。「質問するのはバカですよ」と言ってる先生もいる。聞かずに盗むのが武道だと。まあ、そういう考えもあるだろうし、ある種の質問は自分がバカだということを証明してしまうのは確か。(合気ってどうやるんですか?的な質問)だが、時代も時代だし、聞ける雰囲気の先生ならどんどん聞いたほうがよい。分かりにくい、けれどもその人自身の「生身の言葉」が聞ければ、のちのち絶対に役に立つ。逆の立場で自分が教えているときも、後輩が「??・何言ってるか分からない!」といった顔をしていないと不安になる。「ふんふん、そうですか。分かりました!」といった感じの人は絶対に分かっていない。とりあえずわけの分からない俺の話を終わらせようとしているだけだ。俺は、「自分の言葉」でしゃべっているのだ。分かりにくいことは承知の上だ。そんな一瞬で分かるわけないだろう。そういうやつが、浮いた言葉を伝承していく。俺も気をつけなきゃな。知らんことは知らんと言えるようになりたいもんだ。ピン!ときたらクリックお願いします。
2006年02月06日
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仕事中に歩きながらふと窓ガラスをみたら思ったより安定して歩いていて嬉しくなった。「脱力」で歩くと、やっぱ重心が上下するんよね。それをやめて、お腹にくっと力をいれて、腰のぶつかりをなくして、肩と胸を整えると、安定する。ちょっとこの調子で働いてみよう。めざせ、「ひとり動く歩道」。
2006年02月05日
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ヤンキーというのは素直な人だ、と俺は思っている。そういう世界にいたことがないので、詳しいことが知らないが、イメージでは「ナマイキ」ということが「悪」とされている。「なんだあいつ、新入りのクセにナマイキだな」「一発シメてやらないとな」となるんだろう。ここでその社会<コミュニティ>の番人が登場し、シメにいくのだ。番人というのは、その社会・文化・伝統にもっともどっぷり浸かってほとんどそれを「真実」だと思い込んでいる人だ。「ナマイキな新入り」が「番人」とぶつかる。これはどこの社会<コミュニティ>でもあることだ。二つ以上の文化がすなおに融合することなどありえない。どうしてもはじめは衝突する。これがヤンキーの場合だと「シメる」という非常に簡明な答えになる。ここに論理はない。ただ、感情の昂ぶりがあるだけだ。それが素直さということ。だが、世の中ではなかなか「あいつは新入りのくせにナマイキだ」ということを口に出せない。そんなことを言ったら、自分が小さい人間だと他人に思われてしまう可能性があるからだ。エバろうとしていた心がバレてしまうからだ。「ナマイキでむかつく」という感情と「だけど、それを表には出せない」という現実の矛盾は、しだいに「番人」に鬱積する。そして「番人」はある日突如として感情と論理をすりかえる。その論理の最大の武器は「言葉」。「文化・社会のルール・伝統・和」といった「正しい」言葉がずらりと並ぶ。だが、この論理は感情に基づくもろい論理である。だから、ちょいとつつくとすぐに瓦解する。やっぱり、素直なほうがつよいと思うよ。「ナマイキだからむかつくんだ」って素直に言われたら新入りは反論できない。その感情を受け入れるしかない。そうでなければ、そのコミュニティでやっていくことはできない。だが、そこに論理が混じってくれば反撃の余地が生まれる。感情からすりかえられた論理などウンコ以下だからだ。論理は論理で大事だけれど、やっぱり人間としては感情も大事なんだ。ということは、ホンモノの大物ルーキーなら、相手(番人)の感情ごと呑みこまないとね。それがホントの勝利だよ。ぶつかるのは同レベルの証だよ。あーー、つまらないプライドとの闘い!!勝て!自分に勝て!!
2006年02月05日
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最近「未来」という歌にかなり共感できる部分が多いと気がついた。今まで車のBGMとして歌詞はあんまり聞いてなかったんだけど、ふと歌詞を気にしてみたら、うお!ガツンって感じ。アレね、あの綾瀬はるかがポカリのCMで歌ってるやつ。綾瀬はるかは可愛いなあ。おっと、話がそれかけた。生まれたての僕らの前にはただ果てしない未来があってそれを信じてれば 何も恐れずにいられたそして今僕の目の前に横たわる先の知れた未来を信じたくなくて 目を閉じて過ごしているドキっ!そうなんだよ。生まれたばかりのころ持っていた、「限りない可能性」はどんどんなくなっていく。年をとるにつれて。何かの夢に向かうことは、何かの夢を捨てること。でも今俺がやっているのは、夢を捨てているだけじゃないか?それはなんとなく分かっている。心の奥底では。俺の未来は、狭まってきている。俺が俺に問いかける。「このままでいいのか?」でも、それには気づかないふりして、「限りない可能性」を求めている。捨てろ!「無限の可能性」を捨てろ!オトナなら現実を見ろ!それは夢を捨てることじゃない。眠りながら夢を見ないで、目をぱっちりと見開いて白昼堂々と夢を見るのだ!!さあ、俺よ、どうやって動く?オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月05日
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「正しいこと」っちゅうのは、世間的には言っちゃいかんことになっとる。処世術っていうのかな、浮世を渡るすべとして、「正しいこと」は言えんのです。でも、「正しいこと」言いたいよなあ。友達どうしだったら、ぶつかりあったり、なぐさめあったりが自由なのになあ。相手がムチャ言ったら、「てめえ、ふざけんじゃねえ」って言うのが人間じゃん?―こんな俺の思いが、幼稚な純粋性だということは知っておるのです。とはいえ、俺の中から未だ純粋性が消えぬことも事実。あー、思い切って言いたいよなあ。それができないのは、俺に社会的実力がないからだね。くそっ、「立場」のバカヤロー!!
2006年02月05日
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先日、生まれてこのかた経験したことのない、パチンコというやつをやってみようとなんとなく思い立った。23歳にして、初。それでさっそく近くのパチンコ屋へ行ってみる。駐車場にクルマを止め、ちょっとビビリながらも歩を進め入り口へ向かう。駐車場は平日だというのに車がいっぱい。みんなヒマなんだろうか?入り口そばに、「換金所」がある。「これがウワサに聞くアレかあ」と妙に納得しながら、自動ドアを通り中へ。中は予想以上にものすごい音。耳が痛ぇ~、と思いながら、とりあえず台を見て回る。といっても、何を見ていいのか分からないので、見てるフリをしながら歩く。「この台は出なさそうだな」とかいう顔をして。店内をぐるりと一周するころに、気がついたことがあった。じいさんばあさんばっかり!土地柄もあるだろうが、まあ平日の昼にヒマなのはじいさんばあさんくらいのもんだろう。駐車場の車のわけがやっと分かった。で、そのお店には何種類かの台があることが判明。「大海物語」「ウルトラセブン」くらいは聞いたことがあったが、ほかは何がなんだか分からない。このままお店をぐるぐるし続けてもラチが開かないので、思いきってお店のおねいさんにやりかたを聞いてみることに。「あのぉ~、ここ初めてなんですけど、 どうすればいいんですか?」「ここ初めて」ってオマエ、パチンコじたい初めてだろ!と自分にツッコミつつ返事を待つと、「台の横にお札をいれれば玉が出ますよ」とやさしく教えてくれた。助かった。というわけで、とりあえずどっかに座ってみることにしたのだが、これがなかなか迷う。良さそうな台というより、あたりに人がいない台に座った。素人ってバレたら恥ずかしいし。と思ってイスに座った瞬間、となりにオッサン座ったーーー。ぐはっ。まあ仕方ないので、おそるおそる千円札を台に挿入すると、言われた通り玉が出てくる。あとはあの、あれなんていうの?ノブ?取っ手?あの右下のやつを回したわけですよ。セオリーどおりね。そしたらセオリーどおり玉がはじき出されてきた。が。なんだこれ、どこを狙ったらいいか分からない。俺のイメージでは上のほうでチューリップみたいなのがパカパカしてると思ったら、そういうのはないんだね。これは困ったと思って隣のオッサンをそぉーっと見ると、まあ真ん中あたりを狙っているようだ。じゃあ俺も、みたいな。だが、よく見たら、これもウワサ通りの「スロット画面」が真ん中で動いている。ずっと見てるとたまに回りだすんだね。回り始める基準とかが分からんけど。でもその画面に集中してるとついつい玉の勢いがなくなって、なんか変なとこに落ちてしまう。で、玉を真ん中に狙ってると画面が見れねー。どこを見てればいいんだ!ムキー!とかなんとか四苦八苦しているうちに千円分の玉がなくなってしまった。なのでもう一枚、千円を入れる。ジャラジャラ。これで一安心。と思ったのも束の間、またたく間にその玉もなくなってしまった。あのアレをヒネっても何にも出てこない。シーン。俺は思った。「なんだよ、これ。意味わかんねえよ。ビギナーズラックの神様は昼寝中かよ。『確変』とかになって玉がジャラジャラ出すぎて、なんか水着みたいなセクシーなおねいさんが玉を運んでくれたらちょっと照れるなあとか考えてた俺がバカみたいじゃないか。脳みそ損した!僕ちゃんもう帰る!」と思ったが帰り方も分からない。え、何、勝手に帰ればいいの?もう帰っちゃうよ。ほら、帰るよ!・・・自動ドア、ウィーン。そして、ひさびさに静かで透明な空気を吸って俺はこう言ったのさ。「これで良かったんだ」ってね。それから俺はコンビニでクリームパンを買って家に帰った。ちゃんちゃん。以上、マジメくんのパチンコ体験記でした。さあ、次は何をしようかなあ。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月04日
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やっぱり相性というのがあるだろう。思うに、いや、当たり前のことかもしれないが、事細かによく教える師匠に合うのは、素直で、あまりものを考えない弟子が合うと思う。逆にあまり教えない師匠には、批判的に物事をとらえ、なんでも自分で検証し、よく頭を使う弟子が合うと思う。「文化」や「伝統」が「キレイに」伝承するのは前者だと思う。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月03日
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鳥のオリンピック。ぴよぴよ。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月02日
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「いいとも」でまたタモリが面白いことを言っていた。「俺は、湯船に3分と浸かってられないんだよね」でたー。タモリ名言。これは身体が疲れてない証拠だね。子供はお風呂に長く浸かるのを嫌がるでしょう。オトナは自分と一緒と思って、あと「10秒」なんて苦痛を与えてしまうが、子供は風呂で身体をほぐす必要などないのだ。身体が疲れているときは、熱いお湯が気持ちいい。じいちゃんとかが「風呂は熱いのがいいんじゃ!」と熱弁するのは疲れているから。固まっているからだ。温泉は気持ちいいが、温泉がなくてもほぐれている身体はもっとキモチイイ。いやあ、タモリはさすがだよ。ほんとすごいわ。テレビエンターテイナー、稀代の名人だね。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月02日
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俺ってばよ、自分のケツは自分で拭くタイプなんだだから汚れてるって、怒らないでくれよ俺のケツ勝手に拭かないでくれよそしてきたないってののしるのやめてくれよほーら、あいつのケツもきたないが、ちゃんと自分で拭いてるだろそれはそれでいいじゃないかもちろん他人に自分のケツを拭かせるやつは最悪さ。けれど勝手に他人のケツを拭くやつもどうなんだい?自分のケツのキレイさ、他人にあてはめんなよ自分のケツのキレイさ、他人にあてはめるのやめてくれよオモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月02日
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俺ぁ今まで、なんだかすごく鉛筆を使ってこなかったのかもしれないな。振り返れば、尖りとがってたよなあ。プライド高いもんなあ。この高いプライドはいったい何を守っている?隠れた才能?優秀な頭脳?もっとえんぴつ使って、がりがり絵を描いていこうよ。ほら、何ビビってんだ。たしかに尖ったえんぴつはカッコイイかもしれないが、そりゃオマエ、使ってない証だぜ。キレイな辞書とおんなじさ。「ペーパードライバーはゴールドドライバー」失敗しないってことは何もしてないってことだ、って、オマエが言ってた言葉だろ。尖ったえんぴつで他人を刺すことが偉いことじゃない。そんなヒマがあったら、懸命に絵を描こうぜ。そんなヒマがあったら、懸命に絵を描こうぜ。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年02月01日
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