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「熱静」という言葉を作りました。熱くならねば面白くない。静かでなければ知性がない。ということでこの言葉を思いついたわけです。熱静ということは、楽しむということの原点です。うわっほぉぉーー!!とはしゃぐのだけれど、ある面で冷静。この冷静さがオトナの条件なんですね。アダルト関係のものが「オトナ用」なのはそのためです。オトナがアダルトビデオやアダルトサイトを見たって、なんとも思わない。なんとも思わないというのは本当はウソだけれど、冷静に「これは面白い」「これは興奮しない」と判断できるわけです。これは経験のないコドモにはできない。妄想ばかりが膨らんで、困ったことになってしまう。だからR指定なんかがあるんですね。これはオタクとオタク気質の違いでもあります。僕はオタク気質のある人間ですが、オタクではありません。ちゃんと人にまじって社会で生活しているからです。はしゃぐことはあっても、冷静な自分もいるんです。オタク気質というのは悪いものではないと思っていますが、オタクはよいものではないと思います。真のオタクは妄想の中に住みます。マトモなオタクは妄想を楽しみます。「楽しむ」ということが熱静です。熱静はどんな感情にもあてはまります。「怒り」「かなしみ」「よろこび」・・・。その感情を味わいながらも冷静。そうであることがオトナです。合気道だってそうです。どんな技を見たって、冷静さがなければならない。また「熱さ」がなければやる気が出ない。やみくもに崇拝するのではない。やたらと否定しても仕方がない。だが、たいていはどちらかに偏ってしまう。なかなか楽しむということが難しいらしい。熱静。どうですか。こんな観点もありじゃないですか。
2006年06月30日
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好きっていうのは、たぶん「隙」ということです。「隙あり!」っていうその場所に「好き」が入り込む。隙は「空(す)き」でもあります。つまり空間。あいている場所です。欠点と言い換えたら分かりやすいかもしれない。自分の足りない部分。自分の「谷」の部分ですね。そこを埋めたいわけです。だから「欲する」ことになる。それが「好き」でもあります。正反対の人に惹かれるのには、こんな理由があるのかもしれないと思った。
2006年06月28日
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僕は僕の話を分かったふりする人が嫌いだ。僕の話は難しいものが多い。なんで難しいかといえば、言葉の使い方が自分勝手だからです。自分がピンと来た言葉しか使わないから、感性が違う人には通じにくい。僕がつねづね考えてるようなことが、多くの人には「やっかいで面倒な話」にしかならないことは経験でよくわかっている。だから僕はこの日記以外では、「自分の考え」というのはほとんど外ではしゃべらない。でも、どうしても言いたくなって、ときどきポツリともらすことがある。そうすると反応は大きく3つに分かれる。一つ目は、完全な拒否反応。拒絶である。「難しいね」「語ってるね」「分からない」これはこっちとしては悲しいが、正直な分だけまだ救いようがある。二つ目は理解者である。理解者は、自分なりの規矩(スケール)をもっている人で、何かに一生懸命取り組んでいる人が多い。僕の哲学は、完全に合気道(武術・禅)に拠るものだが、そのものさしが違っても、何かにしっかり打ち込んだ人は、たいてい僕の話を理解してくれる。三つ目が分かったふりをする人。「ああ~、○○みたいな」「~ですよね」という感じが多いかな。とりあえずものすごく見当はずれな返答ばかり。で、「違うよ」と一度は言うのだが、それも伝わらないようなので、あとは適当に答えておく。すると不思議なことに、適当に答えてもぜんぜん気にしていない。というか気づいていない。鈍感なんですね。で、この三つのうち最後の「分かったふり」だけが仲間はずれなんです。「すなお」じゃないんです。分からないときはわからないといい、理解できるときは理解できるという。それが素直な言動です。分からないことは恥でもなんでもない。だが、分かったふりというのは恥であり、間抜けであり、なんともみっともないものだと思う。分かったふりをする人と話すのは、時間の無駄だ。
2006年06月28日
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甘える、というのは色んなカタチをとる。「ねぇ、これ買ってよぉ」とか猫なで声でいうのは、「目に見える甘え」である。これは実体とカタチにずれがないため、問題ない。素直である。「目に見えない甘え」というのがやっかいだ。「目に見えない甘え」は色んなカタチをとる。正義の主張であったり、怒りであったり、依頼であったりするのだが、実体は甘えなのだ。甘えとは相手に期待すること。その期待を裏切った相手を批難すること。僕も、誰かに甘えているかもしれない。いや、甘えているはずだ。ちょっと考えてみよう。
2006年06月28日
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これからのサッカーは体格だ。BYジーコサッカーって、そんなもんなのか。じゃあ、デッカイやつ集めろよ。夢も希望もない。ほれみろ、これからは「合気道」の時代なのだ。筋力には限界があるんだってば。
2006年06月27日
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まあそんなにはしゃぐことでもないんだけどね、このまえ缶コーヒー買ったらね、「3333」スロット当ったああああ!もう1本買っちゃったあああ!!超嬉しいよ!いや、超うれピーよ!たった100円分。お金じゃないんだなあ。
2006年06月27日
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もう よるがいちばんみじかいひは すぎました。いまはひるがどんどんみじかくなっているのです。しっていますか転落は かならず しずかにはじまります。だれもきづかぬうちに おともなくいまにふゆがやってきますよるがいちばんながいひ も いつのまにかおわりますそっと ひとしれず咲く 希望とつぜん なんてことはこの世にはないのですそれはわたしたちの にぶさです予兆<きざし>があり、そしてものごとが<興る>このせかいの みなもをみること きくこと かんじることするどいということは まにあうということですまにあうことが ほんとうのゆたかさですそれは愛でもあります
2006年06月25日
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今日のお話は野口三千三先生の影響を多大に受けていますので、その点ご了承ください。動く、ということがあります。動くというのは、自動詞ですね。だから「動かす」とは本質的に違っているわけです。「動かす」が能動なら、「動く」は受動です。何度も言っているように、本質的な「動き」は、受動であります。たとえば身体のパーツをまあ別々に動かせるようになったとしても、それがよい動きであるとは限りません。身体の分化は最重要課題ですが、分化すればいいというものでもない。いちばん大切なのは、その動きが「重力にゆだねられているかどうか」なのです。「動」という字は「重+力」であります。つまり重さの力で動きがあるということです。だからたとえば、ストレッチとかいうのでも、「伸ばし」ているうちは、まだまだその効果が低いでしょう。ストレッチも本質的には、「伸ばされる」ものでなければならないのです。では、どうしたら本質的な、受動的な「動き」をつかめるようになるのでしょうか。それは立ち方です。立ち方が受動的でなければならない。立ち方が受動的というのは分かりにくいかもしれませんが、カンタンにいえば、踏ん張らないということです。よく何も考えず「腰を落とす」ということが言われていますが、それはほとんど意味がないと思います。腰を落とそうが落とすまいが、「やわらかく」立てば、やわらかく中心から動けます。動きの始まりは、「抜き」であります。つまり「バランスを壊す」ということ。バランスを破壊することで新たなエネルギーが生まれるわけです。破壊と創造は本質的に同じなのですね。その「抜き」と「生まれたエネルギーの方向づけ」(腰が関与します)だけを我々はするわけです。他は何もしてはいけない。そういえば「生まれる」も受動であります。かの有名な、「I WAS BORN」ですね。受動を知ることは、「生かされている」実感でもあります。う~んどうもシマリのない終わり方になりました。
2006年06月24日
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あきらめるということは、あきらめないということだ。あきらめない、ということは、やめることをあきらめることだ。
2006年06月23日
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楽しいことを意識的に思い浮かべることがなかなかに良いことだと思う。悔しいことがある。理不尽なことがある。ギャフンと言わせてやりたいやつがいる。だが。憎しみにまかせてやりかえすのは本当に知恵のやるものがやることではない。賢者は愚者の相手をしない。無視もしない。相手をしているフリをしてあげる。何を言われたって、「はーい」と言って、あとは楽しいことを考えればいい。わざわざ人を怒らせるような寂しい人もいる。だがそんなやつを「斬っ」たとして、自分という刀が汚れるだけだ。楽しいことを考えるのだ。嬉しいことを考えるのだ。やりかえそうなんて思うな。ハムラビ法典なんて捨てちまえ。エロいことでもいいと思う。楽しいことを思い浮かべるのだ。ムカムカしてるのにそんなことできるか、と言うな。騙されたと思ってやってみろ。楽しいことだけを想像するのだ。
2006年06月23日
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我慢には限界がある。工夫には限界がない。
2006年06月21日
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見ちゃったよ、ついに。ショーシャンク。なんか名作っていうもっぱらのウワサでさあ、連れのススメもあり、見てみました。映画、というか(武道系以外の)DVDを見るのが超久しぶり。2時間見るのはかなり体力がいるんやねー。体勢をゴロゴロ変えながらなんとか見切りました。で。これはすごいね。作った人天才だね。最後のほうで突然、広がってたパズルが収斂する感じ。どうやって終わるんだろうと思ったら、「そうきたか!」ってね。一瞬、みごとにだまされて、主人公死んだかと思った俺。なんか悔しかった。希望ですよ、希望。まあこの映画を見て希望が湧いてきたということはなかったけれど、作品の巧みさに「やられた!」って感じだね。とにかくすごいねー。でもまあ休日の2時間をDVDに費やすのはオレの性に合わないみたい。30分くらいの映画があったらいいな。
2006年06月21日
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入力と出力ということです。インプットとアウトプット。食事と排泄。知識と知恵。学びと遊び。これらは対極に位置するものではありません。いや、対極に位置するんだけれどもあい補い合うものであり、けっして対立するものではない。まあちょこちょこと説明していきましょう。知識というのは、いかにモノを頭に詰め込むか、ということです。知恵というのは頭を空っぽにすることです。知識の放出ということですね。だから「知」を「恵む」というわけです。(↑勝手な解釈なんでご注意を)それは普通な言い方をすれば「知識を役立てる」ということでもあります。だから知識を頭に詰め込むことも大事、それを利用するのは(知恵)はもっと大事、ということになりましょうか。頭を空っぽにするというのは、今風の言葉で言えばアウトソーシングです。具体的には大きく二つの方法に分かれます。ひとつは、メモの活用。ひとつは、他人の(頭の)活用。です。それは「書くこと」と「聞くこと」であります。そういうことだと思うんです。
2006年06月21日
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すごいひさしぶりにカラオケに行きました。僕は歌うときはいつも完全に自分の世界に入り込んでしまうので、人によってはヒいてたかも(笑)まあストレス解消できたからよしとしよう。今日は、歌というのはそれ自体がセクシーだなあと思いました。それに人が出る。音程ではなくて、声質に人柄が出るんですね。たぶん僕はナルシストな声質だと思います。歌というのは、たしかもともと「祈り」でしょう。それは祭りであり、政治であったはずです。だから非常にエロスなわけです。生への渇望というか、まあ生の欲求です。そういった「神との交流の手段」を我々は聞いているのですからセクシーで当然、といえば当然ですね。人の本性を見抜くのに、「歌わせる」という選択肢があっても面白いと思います。ちなみにカラオケというのは、歌詞の内容、または「選曲そのもの」がメッセージになりうる面白いツールだと思います。そういった使い方もできます。カラオケで渦巻く人間模様というのは実に複雑です。これは詳しく描写したら面白いかもしれないですね。
2006年06月20日
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明石家さんまが、テレビで面白いことを言っていた。以下、要約だが、「若手が面白くて嫉妬する」「若手の台頭が不安でならない」というようなことだった。それにたいして若手芸人が「何言ってるんですか。もうドーンと構えてくださいよ」「めちゃめちゃ先を走ってるじゃないですか」とフォロー(?)するのだが、「いやいや、毎日不安で仕方がないんだ」と本気で言っていた。それを見たとき、「ああ、だからさんまは第一線を走り続けることができるんだ」とすごく納得した。さんまは不安を原動力にする天才なんやね。あの手塚治虫もそうだったらしい。つねに先頭を走り続けながらも、「人気」が落ちやしないかいつも気にしていたのだという。不安。一流の人でもあるんだなあ。いや、それどころか一流の人ほどある意味臆病なんだよなあ。そのマイナスの感情をいかに転化できるか。うむ、一流の人は参考になるなあ。
2006年06月19日
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何かをしてあげたり、何かをしてもらったりとかそういうことではなくて、何もしないということが究極的な愛なんじゃないか、と思う。何もしないこと。その難しさ。もちろん、無視したり憎んだりしては「何もしない」ことにはならない。何もしないとは、ごく普通に普段どおりであるということ。あるがままの境地。遠い、なんて遠いんだ。
2006年06月19日
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呼吸の間隙、つまり呼○吸 ↑この部分ですが、ここがいわゆる「スキ」だと言われています。呼…息を吐くこと吸…息を吸うこと息を吐ききった瞬間、すなわち息を吸い始める直前ですね。どうやらここがスキになるらしいのです。らしい、というのは半分知識、半分実感だからです。呼吸の間隙が「スキ」になるというのを本で読み、まあ色々と実験中なわけです。で、もしかしたら?という仮説があるのですが、呼吸の隙間はどうも言葉の暗示も入り込みやすいようなんです。達人は呼吸の隙間に技をかけるらしいんですが、いわゆる「自己暗示」というのも、スッと入る傾向があるようだ。本来は、自然呼吸を「読ん」でやるのでしょうが、自発的に呼吸をしてもわりかし効果がある。息をハァ~と吐ききって、吸い込む直前に、「自分はできる」「自分は悪くない」などのプラスの暗示をかけると、本当にそんな気がしてきます。「たしかにそうだ」と自信が持てる(気がする)。逆に風邪なんかも呼吸の間隙に入ってきます。ハックシューンとやって、その瞬間、「やば、風邪だ」と思い込み、それから息を吸うもんだから風邪を引く。これは野口先生の本で学んだことですが、たしかにそうだと思う。だから息を吸うタイミングを少しずらしてやれば、(吐くのを少し長くする)風邪は入り込みにくいわけです。経験上、「赤面」なんかもこれで防ぐことができます。カァ~っと赤くなる前に、ほんの少し息を長く吐くわけです、それで気持ちが下に下がる。まあ女性が赤面するのはすこぶる可愛いので、無理に防ぐことはありませんが。話がずれましたが、まあ呼吸の間隙は自己暗示などが入り込みやすいですよ、ということです。興味のある方は試してみてください。
2006年06月19日
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「センター」のことですけど、たしかに銀色かもしれない。 目をつぶって、「センター」を探すんですが、僕の感覚では、骨がピッと並ぶと、ピーンという感じになって、そしてその色は銀色です。詳しく言えば、「光っている白」なんだけどね。目をつぶっても、なかなか真っ暗にならないでしょう。残像だったり、光の明暗だったりがある。そういう感じで、見えているような見えていないような想像できているような想像できていないようなビミョ~な感じなんだけど、まあ「銀色」といっても差し支えないような色です。それは骨がきちんと並ばないと現れないようだ。だから「銀色」は規矩となりうるわけですね。いや~、今日の文章だけを見た人は、僕の事を宗教家かなんかと思うかもね(笑)
2006年06月19日
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裏切る、とは心を切ることなのだ。他人と、自分の心を。愛するとか、生きるということは、世間で思われている以上に、受動的ないとなみなのだ。というか生きるということじたいが、絶対的な受動性をはらんでいるのだ。
2006年06月18日
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2006年も半ばで新たに抱負を立てました。・「無理だ。できない」と言わない。・イヤなことも受け止める!吸収する。・「この出来事は何を自分に教えてくれるのだろう」を口癖にする。さ、やるぞー。
2006年06月17日
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人は自由なのだと気づくこと。するとだんだんと自由になっていく。自由になるために必要なものはただひとつ。勇気である。勇気とは何か。勇気とは、小さな一歩を踏み出すことだ。どんなにがんばったって、人間が一歩で100メートル進むことはできない。一歩しか進めないからといって嘆くことはない。10メートルさえも遠いと悲しむことはない。できることをやる、ということ。これが、難しい。カンタンに聞こえるけど。僕らができることは意外に多いのに、できないと思い込んでいる。たしかに、瞬間移動したり、空を自在に飛んだり、カメハメ波を出したり、ということはできない。だが、好きな人に告白したり、自分には似合わないような派手な服を着てみたり、嫌いな奴に「バカヤロー」と言うとか、仕事をやめて旅に出るとか、そういうことは、「やろうと思えばできる」ことだ。そういうのをやってみるということ。小さなことでもいいから。つまり「実際にできないこと」と「できないと思い込んでいること」をはっきり分けるのです。そうすると、「できないと思い込んでいること」がほとんどだということに気づく。これは驚きです。かくいう僕も、まだまだたぶん「自分の奥底から湧き上がるもの」を隠していると思う。たとえば「現実」とかいう言い訳をして。その言い訳をやめて、自由になったとき、ほんとうの夢がはじまると思うのです。僕の夢はなんだろう。自由へ。そしてその先へ。
2006年06月17日
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キーケース買いました。大須で買いました。和柄です。最近、和柄が流行だが、ボクはもう5年まえくらいから和柄を着ていたよ。時代先取りしちゃった。えへ。キーケースって、オトナだよねえ。こう、ジャラジャラ言わせちゃうわけ。いやあ、嬉しいなあ。え?キーケースっていうか印籠みたい?それ、言っちゃだめだよお。え?バックの猫はなにかって?そりゃもちろん「きょうの猫村さん」2巻(限定版)の特典、猫村手ぬぐいですけど、何か?
2006年06月16日
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「ほだし」という単語を古典の授業で知りました。訳は・・・1:手かせ、足かせ2:係累(妻子などの親族)とのことでした。要するに、自分の自由を物理的・精神的に縛るものということのようです。昔の人は「家族」と「足枷」を同じ言葉でくくっていたんですね。ちなみに「情にほだされる」という言い方がありますが、その「ほだす」が名詞になって「ほだし」になったようです。人のつながりは、どうも距離感が難しい。好きなら近づく。嫌いなら離れる。そういった原則はある。だが、それだけではない。好きなのに話かけられない。嫌いなのに愛想笑いをしてしまう。好きなのに冷たくしてしまう。嫌いなのに、気になる。そういうことがある。逆にいえば、好きだからといってずっと一緒にいればいいわけでもないし、嫌いだからといって、心から否定していいものでもない。ハリネズミのジレンマというお話がありますね。寒いところにハリネズミを2匹おいておくと、おたがい寒いので近寄ろうとする。でも近寄りすぎると互いのハリが刺さってしまって痛い。それでお互いに適正な距離を探し続けると言うんです。(想像すると結構かわいいですが)だが人間には目に見えるハリがない。みんな鋭いトゲを持っているのに、見えはしない。だから距離が測りづらいんですね。だけど、距離を考えなければならない。距離を無視したら、共倒れになる可能性もある。傷つけあってしまうかもしれない。だからずっと続けるのです。「適正な距離を探し続ける」わけです。これが煩わしさです。ときに面倒になることもある。だけどそれも愛のうちなんだナァとふと思ったのです。
2006年06月15日
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こうすればなれる!!バカな大人!!一。モノを考えるな。 いちいち頭を使うのは面倒。 権威の受け売りで話せ!!二。カタチを大事に。 中身などどうでもいい。 形式にだけこだわれ!三。愚痴を吐こう。 たまった不平不満はどんどん出そう 周りが嫌な気持ちになっても気にするな!四。相手のミスはねちっこく責めるべし 相手に恥をかかせるようにみんなの前でミスを指摘しよう たとえそれが「ぬれぎぬ」でも、言い訳でごまかせ!五。責任をかぶらされるな。 なんとかがんばって責任からだけは逃げよ。 他人のミスは人のせい、自分のミスも人のせい。六。基本はイヤミで。 会話は基本的にイヤミがよい Aさんの前ではBさんの悪口を、Bさんの前ではAさんの悪口を七。自分こそが正しい とにかく他人のことは考えるな 自分だけが正しいのだ八。権力には逆らうな えらい人には逆らうな ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべろ!!(愚痴は裏で言うべし)九。自分の快適さだけを追及せよ 全体の効率などどうでもいい 自分がいかに快適になれるかだけを追い求めよ十。目の前の運命から逃げよ自分勝手な「あるべき世界」を他人に押し付けろすべて「べき論」で語れ!!以上、10か条だ!!みんなこれを守ってバカな大人になってくれ!!アディオース!!
2006年06月15日
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ホタルが光りました。いやいやすごいっすね、ホタル。生ホタルを見たのは何年ぶり?っていうかたぶん生まれて初めてです。あれは神秘的ですね~。ロマンティックですわ。でも、ケツが光るおかげで人間に重宝されちゃってるけどね、たぶんあの形状で尻が光らなかったら、きっと殺虫剤でやられるね、ホタル。ケツが光ることは大事なんだなあ。オレも明日から光らせようかなあ、ケツ。写真はなんか山の高いところからの撮影です。足滑ったら確実に死んでたね。怖かった~。けど、まじで眺めはよかった。また行きたいっす。10分くらい登ったらかなり汗だくになりました。でも気持ちのいい疲れ。今日はよく眠れそうです。ちなみに「落石注意」って言われても何を注意していいかわかりません。「落石っていうのは地面に落ちている石のことだよ」っていうのはほんとうなんですか。気になって夜も眠れません。
2006年06月14日
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それでいいんだよミスも失敗もそれでいいんだよズルイこころもおそれる気持ちもそれでいいんだよ空は青く、山は高い海は広く、太陽は赤いそれでいいんだよ大好きなあの子もダイキライなあいつもみんなみんな人間なんだ人間から生まれた 人間なんだ僕らがもって生まれたただひとつの使命それは逃げないこと目をそむけないこと向かい合うこと弱気になる日もあるだろうやめたくなる日もあるだろうそれはそれでいいんだよだけど、自分からは逃げないで嗚呼 母よ父よいのちをありがとう妹よ 弟よやさしさをありがとう自分を愛することはこの世界をゆるすこと その歴史をみとめること運命に逆らわないことで、はじめて運命から自由になれる人間は人間以上でも人間以下でもない人間は人間だ人間っていいじゃない地球環境破壊したりするけど、ちょっとは反省しているし人間は人間だし、それでいいんだよ僕は僕でいいんだよ君は君でいいんだよこれで いいんだよ
2006年06月13日
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面白いもんだね。心というのは全か無かの法則が当てはまるらしく、突然パッと変化する。身体は徐々に変貌を遂げるが、心は突如として変化する。つまり身体はアナログであり、心はデジタルである。で、今日はついに憐憫の情が生まれた。イヤミやら仕事の揚げ足とりやら、かなりカチンと来ることが多かったのだが、今日はなんか哀れみの情が生まれてしまった。(なんでこんなに必死に俺のミスを探すのだろう・・・?)血眼になってミスをあげつらう、その姿があまりに哀れにみえた。もちろんムカっとは思うのだが、だんだん可哀想に思えてきた。(さみしくて、かまって欲しいんだろう)そう思った。もうちょっとやさしくしてあげないとな。それか、もしくは一度叱ってあげたほうが眼が覚めるかもしれない。いずれにせよ、もう対抗する気はなくなりました。いちいち対抗する時間がもったいない。うまいこと流して、相手のどうでもいいプライドを少し保護してあげることにしますか。お子ちゃま相手は大変だけど、これも仕事かな。さ、明日から2連休だ!!
2006年06月13日
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どうも僕はエリが好きらしい。エリのついた服にピンと反応してしまう。なんかカッコイイなあ&素敵だなあと思う。あれは不思議だよね。エリを立てると印象変わるもんね。エリのカッコよさってのはどこから来るんだろうね。首が強調されることに意味があるのか?服の身体性を研究したら面白いかもしれない。たとえばエリなんかは実際には役立たずな場所だけど、なんかカッコイイ。それは「身体のなにか」を代弁してるからなんだろう。またその身体性が代弁された「服」というものの好みも研究したら面白そうだ。たぶん服の好みだけでかなりの事が分かるだろう。今度、街へ行く予定なので、また色々な服を見てみよう。
2006年06月13日
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なぜ分化するのか?それは統一するためだ。
2006年06月13日
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僕が使う言葉はあくまで個人的な感覚に基づくものなので、「医学的な」知識から言ったら、間違っているかもしれないが、その点はご了承下さい。まずは胸鎖関節の可動。胸鎖関節ってのは、鎖骨の内側の関節ね。鎖骨は、外側が「肩」につながっているでしょう。で、内側は肋骨のいちばん上につながっているんだけど、そこを動かします。胸鎖関節が腕の起点だと仮定すると、動きが変わります。胸をちょうつがいのように使えるようになるわけです。これは研究の価値があります。それから尾骨の丸め。どうも正しい姿勢においては、すこし尾骨を丸めたほうが良いようだ。実際には、仙骨の丸めになるだろうが、イメージでは尾骨の丸め、くらい。(仙骨の先っちょが尾骨だよ)とにかく、丸める部位は少ないほどよい。先端の先端、尾骨だけ。できなければ、仙骨ごと。骨盤ごと後傾させるともうほぼ意味はない。それが背骨にまで影響して、猫背になっては、悪影響さえあるだろう。もちろん骨盤の後傾にさいして、臀部が緊張しては何の意味もない。いずれにせよ、分化が先決。
2006年06月12日
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TMレボリューションのベストアルバムを買ってしまいました。ファンってわけじゃないけど、「TMの(売れてた)時代」が懐かしくて。あの頃はまだまだ俺も青かった。うん、懐古主義だね。だけどいいよ、一曲一曲何かしら思い出すからね。「HOT LIMIT」なんてよく歌ったなあ。あー、くそ!コメントがオッサンじみてるな。こないだゲーセンで「太鼓の達人」やったんだけど、ふつーーーに歌を選択したつもりが、「選曲が古いですね」って言われてさり気にショック!!うぬー、時代のスピードはなんて速いんだ。俺もあれだよ、「ワンセグ」とかはじめようかなあ。いや、違うよ。なんか違うよ。新しいってのはあれだよ。ただ時代的なものだけじゃないんだよ。温故知新だよ。ね、だから僕はオッサンじゃないんだってば。まだ厳然たるお兄さんだから。うん。そういうこと。そういうことなんだよ。
2006年06月11日
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カメムシってやつぁ、すっっっっごくクサイ。と、聞いている。僕はシティボーイなんで、実際は匂いをかいだことがない。いや、かいだことがないはずなのだ。でも、かいだことがあるかもしれない。田舎っ子のウワサによれば、その匂いは刺激臭ではないが、生ゴミのようでもなく、なんともいえないクサーイ匂いなのだそうだ。いろいろと説明を求めたが、どう言葉にしてよいか分からない、とのこと。だから僕は分からない。その匂いをかいだとしても「カメムシの匂い」と認識しなければ、僕は「かいだことがない」と言うだろう。また「事実として」その匂いをかいだことがないかもしれない。それは誰にも分からない。感覚というは伝わりにくいものだ。そりゃそうだ。言葉は本質的に「ウソ」であるから、五感を共有できるほうが逆に不思議なのだ。カメムシの匂いさえ通じないところに、僕は人の絶対的な孤独をあらためて感じてしまった。ところで、なんで僕らは五感を共有できるのだろう。それが不思議になってきた。僕らはどうやって「感覚」を表す言葉を覚えたのだろう。「にがい」なんてどうやって覚えたのだろうか。あの腹痛の薬、「正露丸」を口につっこまれて、「これが【にがい】(という味)よ」なんて教育されたのだろうか。たぶんされてない。されてないと信じたい。はじめて苦いものを食ったときは、「うげっ」と思うだけだろう。その「うげっ」(という感覚)が「苦い」(という言葉)だと、いつ分かったのだろう。オトナのマネをした?でも感覚までは共有できないはず。うむ~。でもたぶん「はじめに言葉ありき」だろうね。経験からいってそう。ある「言葉」があって、それを知らない人は、「みんなが使ってるあの『言葉』、何なんだろうなあ」と思っている。そんなとき、ある経験をする。つまり新しい感覚を得る。その瞬間、なんかひらめくのだ。「あ!この感覚があの言葉だ!」というふうに。それは勘違いも大いにあるのだけれど、何度か勘違いを経て、「みんなの約束」に近づいていく。「約束」というのは、どの感覚にどの言葉をあてはめるか、という約束である。こういうのは合気道でもまったく同じだね。言葉はみちしるべなのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
2006年06月10日
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「みんな、人間なんだ」明らかに「みつを」に影響された思想だが(笑)なかなかいい言葉が自分の中に生まれたと思った。どんなに憎たらしいやつも、どんなに意地汚いやつもどんなにイヤミなやつも、人間なんだ。人間なんだよ。そう思ったとき、すこしラクになった。敵は敵ならず。敵は己の中にあり。これ、よく言われちょうけどね、ほんとそうだわ。敵は敵ならず。敵は自分の中におんねん。別に嫌なやつなんて相手せんでええねん。そんなやつはウンコやねん。自分の肥やしになるんじゃ。ある意味で、最強の自己中じゃい。自分の成長だけ考えとったらええねん。自分の成長考えとったら、大変なことも全部考えが逆になるやろ。パワーアップの材料に見えてくるやろ。はじめから無理、っちゅうなや。シクってもいいで、まずやってみろて。それで無理だったらやめりゃいいじゃろが。ウンコは成長せんでええねん。ところでこりゃあ何弁じゃ?
2006年06月10日
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言葉がなくては伝わらない。言葉がすぎれば嘘になる。そのバランス。
2006年06月10日
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ミシュランってなんだ、ミシュランって?最近よく聞くでしょう、ミシュラン。イメージでは、「上機嫌なミハエル・シューマッハ」なんだが、実際はそうではないらしい。ミシュランというのは・・・ヨーロッパのホテルやレストランの旅行案内書。星の数によって格付けする。フランスのタイヤ会社ミシュランが毎年改訂版を発行。というのが辞書的な意味らしい。もとはホテルの格付けだけに使われていたんだね。今ではまあ、「格付け」くらいの意味で使われていると思ってよいでしょう。へ~。ちなみに「ギネスブック」だけど、あのビールのギネス社が作ってるんだよ。ビールのお供にどうぞ、っていう意味ではじめたらしい。今じゃギネスブックじたいがなんかギネスだよね。「世界一、世界一の記録が載っている本」みたいなさ。はい、次。【三杯酢】-さんばいず。これも気になるところだね。タコとわかめの酢の物を買ったらついてきたんだけどね、三杯酢。イメージ的には、キャディさんがかぶってる帽子みたいなやつなんだけど、違うよね、うん違うよ。三杯酢。加減酢の一。同量の酢・醤油・味醂(みりん)を混ぜ合わせたもの、だってさ。だからあんまりすっぱくなかったんだね。納得。(納豆食う。ねばねば)キャディさんが帽子とか何にもつけてないときに、「サンバイザーでもかぶったら?」って提案したら、「それもそうですね」とかいって、ざっぱーんって、三杯酢かぶったらいいね。かなり、ベトベトになるよ、これは。
2006年06月10日
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やみくもに身体を鍛えるのもいいが、まずは意識を変えてしまうことが先決だと思う。むやみやたらに数をこなせばいいというものではない。、と思います。
2006年06月08日
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丹田丹田と言われているが、最近の僕の意識は尾骨です。といっても尾骨を意識するのではない。尾骨は意識されるのだ。肩を落とします。胸を落とします。背中を落とします。腰を落とします。腹を落とします。そうすると尾骨が意識されます。尾骨すなわち頭頂であります。この「並び」を崩さぬよう、いや、むしろ崩さぬことのみを意識して、技を施します。今日はわりかしうまくいきました。この調子です。
2006年06月07日
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前々から研究している前腕のゴム感だが、これがある種の攻撃になりうると思った。攻撃というよりは、刺激といったほうが正しいかもしれない。相手の手の内にのみ刺激を与えることによって、相手を混乱させる、ということのような気がする。押されもしない、引かれもしないただ、腕の重さだけが伝わっている状態で、手の内が刺激される。自然とカラダが反応し、固まってしまうのではないか。ただこれはあくまでも補助的な技法で、その根本はやはり姿勢にあると思う。姿勢を正して、肩甲骨を浮かせる。今日の対人稽古ではその技法ばかりを使った。剣を上げるだのなんだの言う前に、まずは姿勢だ。分かっていながら、すぐに崩れてしまう。いや、自ら姿勢を崩してしまうのだ。まだまだ修行が足りんようです。行住坐臥一切が修行。ますます精進します。
2006年06月07日
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「床に落ちたものも食べる」これが実家の慣習でした。これは母の自負でもありました。毎日きちんと掃除をしているから、床に落ちても大して汚れない。だから食べなさいと。おかげで僕は、「床=きたない」という発想がほとんどなかったのです。ところが、いざ一人暮らしをはじめてみると、部屋というのは、ほおっておくとこんなにも汚れるのか!と驚きました。床は3日もすれば、ホコリまみれになります。落としたものなんか食べられません。それからキッチンが汚れる。ゴミがたまる。風呂場に垢が発生する。洗濯物がつみあがる。日々たまっていく家事に、「この前やったやろが!」とぼやいてみたりする。おかんはこういうのをやっていたんだなあと実感します。ところで、僕はおかんから「部屋を片付けなさい!」と言われた記憶がないのです。まあ一人部屋ではなくて兄弟部屋だったことも一因かもしれませんが、とにかく片付けろということを言われた覚えがない。部屋を散らかして出かけて、帰ってくるとキレイに「なっている」。いつもそうでした。おかんが何も言わずにやってくれていた。それが10何年も続いたわけです。で、なんですが、そういうのは不思議と伝わるもんでね、今、写真のように僕の部屋はかなりキレイです。男の一人暮らしにしちゃ、良いほうでしょ?それでやっぱり言葉じゃないんだなあ、と思ったのです。やれと言ってもやらない。親がやることを僕らは見ている。それを真似する。良いことも悪いことも。これは面白いことです。言葉じゃないんだよなあ。ギャーギャー騒いでも、仕方ないんだよなあ。
2006年06月06日
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地球を尊重して立つのこと。そっと置くわけです、身体を。というか骨を。地球を蹴ったらいかんですよ、かわいそうじゃないですか。ギュッとならないように。音で言うなら、「ツーん」だな。(この音分かる方いたらメールください)足裏から腰を抜けて、頭のてっぺんへ。つーん。体重かかると足がびちょーんと広がります。それを均等に広げてやらないと一箇所に負担がかかり、よくない。居着きヒロシ。地球には、やさしくね。
2006年06月05日
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見ている君のうしろ姿を 見ているやわらかになびく髪を見ているすこしのぞく横顔を 見ているせわしない背中を見ている僕が君を見ていないとき、君は何を見るだろうか君の眼にうつる その答えは―。見ている僕は 君のうしろ姿を
2006年06月04日
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最近、ちょっと成長したなと自分で思った。不満やらなんやらを「ワー」と言われたときに、前より冷静な自分がいる。もちろんカチンともくるし、ギャフンと言わしてやろうと思ったりもするのだが、前に比べると格段と落ち着いた。相手の言っていることをまず受け入れて、反論すべきところはやんわり反論する。火に油をそそがぬように、そーっと反論する。変なプライドを捨てて。怒りとは怖れである。恐怖があるから怒りが生まれる。怒りとは防衛である。だから恐れがなくなれば、怒りも減ってくるのだ。うん、この調子、この調子。
2006年06月04日
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「技」<わざ>という字と「枝」<えだ>という字は似ています。武術の大名人、佐川幸義先生のことを書いた名著「透明な力」(講談社)という本がありますが、そのなかに先生の語録がたっぷり載っています。すごく納得することばかりで、やはり名人は違うなあと感心するのですが、しかしよくよく読んでみると、「無茶苦茶な」ことばかり言っています。「だいたい、技ができない人に限って、 精神、精神というようになる」「精神だけではなにもできない」「精神力だけ強くて気張ってみても駄目だ」とおっしゃったかと思えば、ひるがえって、「精神力がいちばん大事だ」「結局、心ですよ」「結局は精神力だ」となる。言葉だけ取り上げると「???」となってしまう。しかし上のお言葉は本当は実に理路整然としていて、どこも撞着していない。それは次を読めば分かります。「それ(精神)を活かすための技術を練習しているようなものだ」「精神は技術を通していきてくる」これが答えなんです。まず中枢として精神がある。精神があるから技術が発達する。そしてその技術が精神を活かす。、ということです。木の幹が精神です。枝が、技術です。精神だけでもいけない。技術だけでもいけない。これは心と言葉の関係にも似ています。心だけでは何も伝わらない。言葉だけでは、伝えるものがない。これは当たり前のようでいて、なかなか世に浸透していない理だと思います。だからテクニック(技術)系のいわゆる「ハウツー本」が生まれる。「頭をよく見せる技術」だの「モテる技術」だの「仕事ができるようになる技術」などなど。こんなもんはココロのない人が読んでも何の意味もない。技術は精神にサンドイッチされねばならない。逆に、精神は技術を含んでいなければならない。まず精神がある。だから技術が身についてくる。その技術によって精神を活かす。精神→技術→精神、という順になるわけです。これは仕事でも恋愛でも、合気道でもおんなじだと思う。技術はこころの枝、なんです。
2006年06月03日
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知って、楽しむべし。知って楽しむ、というのは観て楽しむ、という意味である。知って楽しむというのは、冷静に熱くなるという意味である。たとえば子供のたわいもない手品を「ネタがバレバレだぜ」なんていうだろうか。そうは言わない。「(子供なのに)上手だね~」と言う。端的に言ってしまえば、これが「知って楽しむ」である。何かを鑑賞するときは、知って楽しむのはいちばん楽しい。たとえばマンガを読んでいても、子供の頃は「おもしろいな~」とだけ思って読んでいた。しかし今は違う。作者の巧妙なワナを「心憎いな~」と思いながら楽しむ。「これでこうだからドキドキするんだ」ということが冷静に分かっている。けれど、ワクワクして楽しい。オトナになってきて、これがこうで、場面転換が巧みで、共時的に話が進行して、キャラの確立が云々・・・。というような分析もできるようになってくる。それができてなお、楽しむ。ただ盲目的に「わー、おもしろい」と言っているのではない。合気道の稽古も理解ある人とはそんなもんだ。技の原理が分かっている。だから本気では掛からない。けれど、「面白い原理だな」と思うから、自分から掛かってみる。それを練習してみたりする。分かると出来るは、別の事だから。知らずに楽しむのはコドモの楽しみ方である。知って楽しむのは、オトナの楽しみ方である。知って楽しむから、近づきすぎることがない。分析できてなお楽しむから、信者になることがない。短所をしっていてなお、いちいちそれを指摘しない。友人でも恋人でも、知って愛するのがよい。短所を見つけてあげること、そしてそれを認めること。知ることは観ること。観ることは分けること。分けることは分かること。分かることは理解すること。相手の短所が見えないときは、愛してない証拠だ。知るって大事だなあ。追伸:ちなみに「楽しい」ということは「意味が要らない」ということです。
2006年06月03日
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今日は一年ぶりくらいに定時で帰れました!本の入荷量が少なくて、特になんのトラブルもなかったので、さくさく帰ってきました。なので、料理を作ってみました。先日パスタを作ったら、料理の楽しさを思い出してしまったんで、もやしなんぞを炒めてみました。うちの実家のルールであるんだよ。「手首を痛めるくらいなら、もやしを炒めろ」ってね。うん、ウソ。まあ、かなり質素なごはんだけど、それが粋ってもんよ。粋ってもんなんですよ!!みそ汁がインスタントってことはヒミツね。いやー仕事が終わってからゆっくりするのもいいもんだねえ。もちろん働きまくりの日々もそれなりに楽しいんだけど、こう、料理とかしちゃうのもまた一興なもんで。それにしても、なんでギャルってみんな声がかすれてるんだろ?
2006年06月03日
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今日はこいつをゲット。予約してあった、「きょうの猫村さん2 湯けむりバージョン(限定版)」!!マニア垂涎の手ぬぐいと石鹸つきです。わはは。ついでにといっては失礼ですが、ジャガーの11巻も買いました。わはは。じゃあ明日は早いんでもう寝ます。
2006年06月02日
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たしか武蔵の五輪書に「あぎと(あご)を上げて云々」というフレーズがあった気がするが、なるほど、たしかにあごを少し上げたくらいが良いような気がする。もちろんあごを上げることに目的があるのではなく、あごを少し上げることで、冷静な精神と中心軸を感じる姿勢を保持できるのだ。鍛錬していると、どうしても「気合」が入ってしまう。それでだんだんと前かがみになってくる。もちろんあごも引いている。これは闘争の姿勢だ。どんどんリキミが入ってくる。「鍛錬してるぜ~」という自己中心的な感情はどんどん沸き起こってくるのだが、けっきょく鈍感になるだけで、良いことはない。あごを少しあげることはそのストッパーになる。逸りがちな心を抑えくれるのだ。そうなると中心の「水」も荒れることがなく、骨がちゃんと並んでいる感じがする。この姿勢で技をかければうまくいくような気がする。今度やってみよ。それから前腕のゴム感。これは指と前腕を微妙に操作することで感じるのだが、吉丸先生の著作にあるアレのことかもしれない。違うかもしれない。まあこれも要研究。身体って不思議ね。
2006年06月02日
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★どろぼう★ほっかむりをして、口ひげをはやした泥棒の話をしたら、「イマドキそんなのいないでしょ」という話になったが、昔からそんな人はいないよね?じゃあ、何がもとであんなイメージができたんだろう。★小学生のときに★挙手するときに、反対意見はグーで、補足のときはチョキで質問は1本指、みたいなルールがあったと思うけど、あれは誰が考えたんだろう。
2006年06月01日
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やってみました。正座し向かい合い、手首を抑えてねとお願い。ギュッと持たれたのをひょいと返す。???なんだか、「は?何がしたいわけ?」という顔をされたので、こりゃ理解されてないなーと思い、もう一回やるねと言い、ひょいと返す。そしたら、なにかを感じたらしく「なんかマジックみたい」という面白い感想をいただきました。でもすぐに手を離してしまうので、倒すには至りませんでした。やっぱり手を離されたらキツイよなあ。
2006年06月01日
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