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牛ケ谷戸諏訪神社から目的の「田中店」へ向かう。4月15日(月) 13:40南向院 (みなかたいん)所在地:埼玉県比企郡川島町三保谷宿354牛ケ谷戸諏訪神社の裏に車を止めたので、農道を走り県道74号線へ出る前にあった墓地。後方を横切る高架橋は圏央道。入口左手に立っていた新旧の六地蔵。入り口横には古い墓石が4基。新旧の六地蔵には ”地蔵札” が貼られていた。南光院阿弥陀堂真言宗智山派寺院の南光院阿弥陀堂の創建年代等は不詳ながら、江戸期には氷川山寂年寺南光院と号する真言宗寺院で、三保谷宿氷川神社の石鳥居(宝永3年1706年)に「別当南光院第九世住法印隆善代」と銘されていることから室町時代後期頃の創建が窺えます。不動明王を本尊とし、三保谷宿氷川神社、三保谷宿愛宕社の別当を勤めていました。年不詳ながら廃寺となり、阿弥陀堂として残されていますと。堂宇には「南光院 阿弥陀」と。墓地には移設されたのか笠付きの墓石が数多く並んでいた。墓石には、延享、享保等の年代が確認できた。中央の笠付き墓石には、正面に「為先祖代々一切菩提也」。側面に「三保谷宿 田中治郎右衛門應昇」と。宝篋印塔が一基立っていた。境内に建つ案内板は「ゴミの持ち帰りです」だけで他になかった。看板には「南光院共同墓地管理者」と。堂宇の扁額も「南光院」だがGoogleマップは「南向院」で、正式名称は???。南向院を後にする。南向院から県道74号線(日高川島線)へ出て北上。13:50田中店所在地:埼玉県比企郡川島町下八ツ林 244-1地元の雑貨店で店内ではパン、雑貨等を販売しており目的のものはなかった。店頭では地元の新鮮野菜の販売をしていたが、リーズナブルな価格でなかった。田中店から県道74号線(日高川島線)を引き返し、眼に入った神社へ立ち寄る。14:00氷川神社所在地:埼玉県比企郡川島町三保谷宿 572三保谷宿は、室町期から戦国期に見える三保谷郷の本郷の地といわれている。『平家物語』寿永四年(1185)二月十八日の屋島合戦に見える美尾屋十郎広徳の本拠地で、美尾屋氏の居館は現在の大字表にあり、光徳寺が菩提所であるという。境内のソメイヨシノは散り始めており訪れるのが数日遅かった。三保谷宿氷川神社の創建年代等は不詳ながら、当地は美尾屋十郎広徳の本拠地で、牛ヶ谷戸・山ヶ谷戸・表村・上下新堀・吉原・紫竹・三保谷の9ヶ村を三保谷郷と称され、当地はその本郷地とされている。当社は、武蔵国一の宮氷川神社を勧請して創建、地名も本社に倣い大宮と名付けられ、三保谷村の鎮守として祀られてきましたと。鳥居横に集会所が建っていた。入口には2枚の看板、左に「氷川神社々務所」右に「三保谷宿集落センター」と。境内の奥に杜に囲まれた社殿が建っていた。平成九年(1997)に着手完成した社殿。氷川神社 幣拝殿改築記念碑御 由 緒当社の創建年代は、不詳であるが、武蔵国一宮氷川神社より御分霊を奉祀したと伝えられている。社伝によると、元禄十年九月に社殿を再建し、内陣に金幣を納めた。その後、宝暦十年十二月、御神体に彩色を施し、安永五年七月本殿を改築、さらに、弘化四年十一月拝殿と覆屋を再建し、御神体に彩色を施したとある。その後、昭和三十三年火災に遭い、本殿、幣殿、拝殿を焼失したが、翌三十四年に再建している。しかし、幣殿、拝殿は仮復旧だったため、不朽が甚だしく、遠からず改築をと、氏子の崇神の念厚く一同で決議し平成五年から資金の積み立てを開始し、九年に着手完成したものである。 主な祭典祈 念 祭 二月二十四日例 祭 四月十日神輿渡御式 七月十五日新 嘗 祭 十一月三十日 右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「氷川神社」。社殿の右側に廻る。本殿は覆い屋で覆われていた。社殿前から南側の境内を見る。境内の西側に「境内社六社合殿社」。境内社浅間神社入口御祭神 木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)この浅間さまは、「初山」の名で親しまれ「子育ての神」としての信仰が篤く、この山に登り参拝することにより富士山に登山したのと同じになると言われております。「初山」とは、新生児の健やかな成長を祈るもので、神社では両親に抱かれて参拝したお子様の額に朱印を押して無事な育成をお祈りしております。浅間神社への登り口に「力石」。二つ置かれていたがどちらも「力石」であろうか。「力 石」この石は、力石と言って昔、力自慢の若者がこれを担いで御本殿の回りを一周した者が、姓名を刻んで社前に奉納したものと言われます。初山のお子様が健康に育つように、この力石に手を触れて下さい。鬱蒼とした階段を上り頂上に ”浅間神社” の石碑。紙垂で飾られていた。『風土記稿』には「氷川社村の鎮守なり、南光院の持」と載せられている。この南光院は、当社の南西400メートルほどの所にあった氷川山寂念寺と号する真言宗の寺院で、表村光徳寺の末寺であったと。先程訪れた「南向院」のことであろう。14:05まだ時間が早かったが、自宅まで約100キロあるので帰路につく。ルートはお土産の「福蔵最中」も買いたいので、一般道を走ることに。カーナビを「自宅」一般道優先にして、県道12号線(川越栗橋線)を南下。交差点は国道254号の「川越市 宮元町」。この交差点を左方向へ進み国道を南下。まだ時間が早く渋滞もなく順調に走る。ネットで「福蔵最中」を検索して販売店を調べるべきであったのだが。川越城の東側を南下、国道254号の小仙波交差点の ”小仙波跨道橋” 。カーナビの案内はこの先で右方向へ進み国道16号へと。国道16号を西方向へ進むがお土産は諦める。矢張りネットで調べるべきであったが頭が・・・。この先”脇田新町交差点”を左折して更に国道16号を進む。14:40道路標識では関越道の「川越I.C 1km」と。ここを入ると鶴ヶ島JCTから圏央道へ入れるのだが渋滞もなかったのでこのまま進むことに。八王子 34km、入間 10km。15:10このまま一般道を走ると八王子で渋滞するので「入間I.C」から圏央道を利用することに。入間I.Cを入り圏央道へ。事故の無いことを祈りながら。八王子方面へ。順調に走り八王子JCT。八王子JCTから南下、「上依知 (Kamiechi) 第一トンネル 長さ 589m)。お土産を購入しなかったので代わりに寒川にある ”日本一たい焼き” を購入するために寒川北インタで下りることに。しかしここも休日であった。15:50寒川北料金所ここ寒川北インタはETC専用で搭載していなければ下りれないのか。ゲートには「ETC」「ETC/サポート」とあったが。16時過ぎには自宅へ到着、往復約230キロのドライブであった。目的の ”日本五大桜の石戸蒲ザクラ” は予想通り見頃を過ぎていたが、”伝鎌倉街道” を知るドライブでもあった、また知らなかった石戸宿、三保谷宿と気になる地名も。機会があればまたいつか訪れたいと。 END
2024.05.21
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天神社、放光寺の後は同じ石戸宿にある「八幡神社」へ。4月15日(月) 12:45八幡神社所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目272カーナビの案内で来たが、桜堤通りからの入口がわからなかったがどうにか探し当てる。住宅街にひっそりとある神社で鳥居と拝殿がある。入口は桜堤通りの鈴木商店を荒川方面に曲がり百メートル程進むと右奥に鳥居が見える。木製の両部鳥居の扁額「八幡宮」。鳥居前から南側の狭い道を振り返る。鳥居を潜り参道を進むとタケノコの先端が芽を出していた。参道は綺麗に掃除されていた。Googleマップに載っていた神社だが詳細は不明。社殿右側に注連縄で飾られた石祠があり「稲荷大明神」と。鳥居前まで車で入ったがユーターンするスペースがなく入口までバックで。次の目的地へ、これも事前にチェックしていた「べに花畑」をセットし桜堤通りを南下。桜堤通りから県道57号線(さいたま鴻巣線)と合流、圏央道の手前に植え付け後の ”べに花畑” 。べに花畑沿いに社を見つける。13:00川田谷の庚申塔所在地:埼玉県桶川市川田谷べに畑の一角に立派な覆い屋の中に庚申塔が納められていたが、説明板がないのが寂しい。覆い屋の横には風化した石碑が置かれていた。覆い屋の中を覗き込む。笠付きの庚申塔が一基納められていた。側面には字が刻まれていたが判読できなかった。笠部をズームアップ。昼時を過ぎ昼食を考えたが適当な店が見つからず。県道57号線(さいたま鴻巣線)を南下 ”桶川市 川田谷(Kawataya)交差点”。ここを右折して県道12号線(川越栗橋線)を西方向へ走り意味深な ”太郎右衛門橋” へ。同交差点角に「東叡山勅願院泉福寺」の寺号標石。同寺はここから南約900メートルにあり、古くから天台宗の中心的な寺院の一つ。荒川に架かる ”太郎右衛門橋” の由緒等を確認したかったが道路が渋滞していたので諦める。事前にチェックしていた「石戸蒲ザクラ」周辺の目的地を一応散策し終えたので少々早いが疲れたので帰路につくことに。出発時に埼玉といえば「福蔵最中」が頭に浮かび、お土産にとスマホで取扱店を検索。近くにある「田中店」がヒットしたので立ち寄ることに。13:25田中店へ向かうため県道12号線の山ヶ谷戸交差点を右折県道74号線(日高川島線)を北上、直ぐに立派な神社があり立ち寄る。牛ケ谷戸諏訪神社所在地:埼玉県比企郡川島町牛ケ谷戸 669門前に新しい「村社諏訪社」と彫られた社号標石。門前を走る県道74号線(日高川島線)沿いに「遠山記念館」の案内板。因みに遠山記念館は、埼玉県比企郡川島町にある博物館。 日興証券創設者遠山元一の邸宅と美術コレクションをもとに、1970年に開館した。運営主体は公益財団法人遠山記念館で、歴史的建造物である遠山家の邸宅・庭園と美術工芸コレクションを保存公開し、文化芸術の振興に寄与することを設置目的としていると。境内に建つ石製の鳥居。鳥居には大きな注連縄がかけられていたが扁額はなかった。境内のサクラ散り始めていた。サクラの木の下には遊具施設もあった。社殿に前に聳える芽吹いたケヤキの高木。左から八坂社、諏訪社、天神社が並ぶ。境内右側に公衆トイレ、石碑が建っていた。石碑には、「皇太子殿下御成婚記念事業 諏訪社幣拝殿改築記念碑 竣工 平成六年三月二十七日」と。 御由緒御祭神 建御名方命 (たけみなかたのみこと)古文書に初代の神主は天文十三年(442年前)禰宜馬場帯刀とある。氏子中の馬場家先祖が信濃国御本社より御分霊を勧請し建立したと伝えられ、其の後寛永十三年七月(340年前)当地生れ鈴木三右エ門立願して社殿を造営されたと当時の棟札に明記されている。明治初年神仏分離に当り、諏訪大明神は諏訪大神社と改称し現在の諏訪社となった。明治三十年九月大暴風雨に社殿後方の御神木倒れ、同時に社殿も大破したので320円の経費を以って倒された大杉一本で改築された。昭和五十年十一月、御本殿大改修を経費75万余円を投じて完工し現在に至る。八坂社 大正元年十二月に牛ヶ谷戸字天王の地に鎮座せるを移転して境内社と改めた。天神社 古来より境内社として祀られている。御祭事 新年祭 三月二十七日 例 祭 八月二十七日 八坂祭 七月十三日 新嘗祭 十一月二十七日 昭和五十二年八月二十七日 川島町道徳教育振興会 諏訪社氏子総代入口には「諏訪パブリックトイレ」と。諏訪社の前に、右側の狛犬、阿形像左側の狛犬、吽形像。諏訪社の拝殿拝殿の扁額「諏訪社」。内陣を見る。壁面には賞状、写真が掲示されていた。諏訪社の本殿を左側から。諏訪社の前の対の狛犬。境内社の「八坂社」 。大正元年十二月に牛ケ谷戸字天王の地に鎮座していたものを移転した。八坂社の扁額「八坂社」。各社には多くの千社札が貼られていた。諏訪社の右側に建つ「天神社」。古来より境内社として祀られている。天神社の扁額「天神社」。天神社の内陣。八坂社の前から県道側の境内を見る。石碑には、「天皇陛下御即位十周年記念記念事業 八坂神社幣拝殿改築記念碑 竣工 平成十年十二月二十七日」と。八坂社の左側の県道沿いに覆い屋で覆われた石碑。石碑には「高天原 ○楽明神」と彫られていた。奥にも建物があったが。13:35境内の南側には幟旗用のポールが建つ。 ー 続く ー
2024.05.20
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桜堤通りを南下、石戸宿の寺社史蹟散策に。4月15日(月) 12:15桜堤通り沿いに建つ社号標石には「村社 天神社」と。道路脇に駐車スペースがあり駐車して散策。入口に立つ案内支柱には、石戸城跡 0.5km、北本市子供公園 0.5km。伝鎌倉街道をめぐる ~ 石戸宿の宿並と御茶屋(御殿)跡周辺の文化財 ~北本市の西部には、鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。この街道は当時の幹線である中道から浦和の秋ヶ瀬あたりで枝分かれして荒川沿岸を北上し、栃木県へと通じる支道であると考えられています。この街道沿いには戦国時代の石戸城跡や近世の御茶屋(御殿)跡をはじめとした文化財が数多く存在し、歴史的にも重要な道でした。また、街道の真ん中にはかつて水路が通っており、祭礼の時は東側だけを使っていました。この街道周辺は徒歩での歴史や自然散策にうってつけですので、ぜひ散策してみてください。 北本市教育委員会作成1 石戸城跡 (①) 石戸城は戦国時代の城郭で、岩付城主・太田氏の支城といわれています。永禄5(1562)年 11月、北条氏康・武田信玄の連合軍が松山城(吉見町)を攻めた際、これに対する岩付城主 ・太田資正が上杉輝虎(後の謙信)に救援を求め、翌年2月、輝虎は石戸城に着陣しています。2 御茶屋(御殿)跡 (②) 徳川将軍が鷹狩の際に休息をとった施設を御茶屋といいます。特に家康は鷹狩を好み、鷹 場のあった川越(川越市)から忍(行田市)を往復する際には鴻巣御殿に宿泊し、石戸の御茶 屋で休息をとったと考えられます。ここには現在も「御殿稲荷」が祀られており、地元で は「御殿」の敬称をもって呼ばれていたことがわかります。令和3年に北側の一部を発掘 調査したところ、施設を区画する堀跡と江戸時代初期の遺物を検出したことから、ここに 御茶屋があった可能性が高くなりました。3 神社仏閣と石造物 放光寺と天神社 (③) 放光寺は天台宗のお寺で、境内に中世の板碑があることからかなり古い創建と考えられ ます。同じ敷地内にある天神社は地域の氏神で、学問の神様である菅原道真を祭神とし ています。また、境内には樹齢約600年といわれる「ムク」や、江戸時代の石戸領第6代 領主・牧野贇成(よししげ)の揮毫による幟旗など、市指定文化財が5件所在します。 石造物 (④⑤) 石戸宿の宿並周辺には様々な石造物が残されており、それらを探しながら歩くのも楽し いものです。放光寺には地獄の番人である閻魔王(④)が祀られており、宿並の南端の庚 塚(かねづか)と呼ばれる地区には嘉永4(1851)年に石戸連の俳人15名が俳句の上達を願 って建てた「芭蕉句碑」があります (⑤)。 北本市教育委員会作成「宿並三六軒」と呼ばれた石戸宿の家並と屋号宿並は、間口が狭く奥行が長い地割りが特徴で、現在でも戦国時代からの区割りをよく留めていることがわかります。参道脇には咲き終わったウメの古木。天神社所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目64祭神は菅原道真で、石戸宿村の鎮守。江戸時代中期頃の創建と考えられている。10月の祭礼の日にはササラ獅子舞が奉納されていた。石刻絵馬「菅原道真」、「石戸宿の天神社幟」「天神社幟」などの指定文化財が奉納されている。石戸宿と天神社石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回、市が立ち賑わっていた。街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の中央に排水溝が設けられていたという。天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ祭神は菅原道真である。祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。 昭和六十一年三月 埼 玉 県 北 本 市 朱色の鳥居が建ち、左右2本の主柱の前後を袖柱が支える「両部鳥居」構造になっている。鳥居の扁額「天満宮」。鳥居を潜ると右側に玉垣で囲まれた墓石。墓石には「奉納 大乗妙典日大〇國卒六部供養佛 享保十・・天」と。ムク(ムクノキ) 市指定天然記念物 昭和五十三年三月十五日指定ニレ科の落葉喬木で、山地に生えるが、人家付近に植えられることもある。天神社のムクは、根回り5.24メートル、高さ20メートル、樹齢は600年以上と思われる大木である。5月ごろ、淡緑色の細かい花が咲き、果実は10月頃に熟し、その果肉は甘いので子供が食べたりした。奉寄進石手水鉢元禄六年等の字が読めたが風化して。石燈籠、狛犬の奥に社殿。天神社 御由緒□ 御縁起(歴史)荒川の東沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いたとも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神山城とも呼ばれていた。太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請したことを考え合わせると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られていたとされるので城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってきた」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字) 奉改社地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(1783)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在宜範」と記されている。また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(1753)の造立である。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(1759)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記されている。□ 御祭神と御神徳 ・菅原道真公・・・学問成就、健康増進□ 御祭日 ・例祭(二月二十五日) ・お日待(十月第二日曜日)天神社ささら獅子舞 北本市指定無形の民俗文化財 昭和五十四年三月十五日指定獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子 (関東では、このような三頭だてが多くみられる) が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラなどの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけずり、のこぎりのような歯をつけた竹に、もう一つの、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて鳴らす楽器の名から出たものである。市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、昭和五十三年に復活した。獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。 昭和五十五年十月 北本市教育委員会先端が切られた?市指定天然記念物の ”ムクノキ” を望む。境内の北側に建つ神庫と、右側に「排水工事記念碑」と刻まれた石碑。対の狛犬の後方に天神社の拝殿右側の狛犬、阿形像左側の狛犬、吽形像拝殿前から東側を望むが、右前方には墓地。左側は天神社への参道。拝殿は耐震補強でつっぱり棒が施工されていた。拝殿の扁額は薄くなった手書きの「天満宮」。社殿の右奥に、境内社、石祠が並んでいた。竹林の中を下る道があったので下りることに。タケノコを探すが・・・。竹林の中を下ると広いグランド。ここは ”天神下公園” で草野球も可能であると。天神社への道は仮設の手摺、ステップで整備されていた。天神社の社殿裏に根元が広がった ”ムクノキ” 。ムクノキはアサ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク、またはエノキに似るためムクエノキとも言う。果実は甘酸っぱく、ムクドリなどの小鳥が集まる木で知られる。ざらついた葉が漆器などの研磨剤に、かたい材は運動具などに利用されると。保護樹木指定標識保護樹木名 ムクノキ指定番号 第17号指定年月日 平成5年12月1日 北本市ムクノキを見上げるが樹径、樹高等は?であった。天神社の本殿。天神社の社殿で拝殿はつっぱり棒で耐震補強。苔むした古い墓石が立ち並んでいたが。境内と桜堤通りとの間には墓地が広がっていた。墓地の西側には新しい赤い頭巾の六地蔵が並んでいた。比較的新しい地蔵で台座には「六地蔵建立 平成八年十二月吉日」と。六地蔵に並んで右側には宝永年代の石仏。こちらには中央に「萬霊供養塔」。ソメイヨシノが満開であれば・・・。左の建物は、「放光寺念佛堂」。放光寺 (ほうこうじ)所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目262天神社に隣接する天台宗の寺院で、川田谷泉福寺の末である。新しい門柱には右に「青龍山梅林院」、左に「放光寺」と。石戸宿しだれ桜日本五大桜のひとつである福島県の ”三春の滝桜” の子孫であるといわれるシダレザクラが見事で、毎年多くの観光客が訪れる。この日は残念ながら既に咲き終わっていた。こちらもつっぱり棒で補強された ”放光寺本堂” 。放光寺本堂の左には「石戸宿集会所」。墓地の入口には古い石仏が並んでおり境内整備時に移設されたのであろう。真ん中に「板碑」。その中に ”放光寺の地獄の番人であるといわれる閻魔王” 。台座には「普門品三千巻 奉讀誦 二世安楽所 心経一千巻」 と。横顔をズームアップ。墓地の南側に放光寺への参道。右奥の桜堤通り沿いに車を止めた。葉ザクラのしだれ桜を見上げる。12:35駐車場から、しだれ桜、放光寺を振り返る。例年の見頃は3月下旬~4月上旬であると。 ー 続く ー
2024.05.19
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"石戸城と一夜堤" を後にし、桜堤通りへ戻る。4月15日(月) 11:35狭い路地を抜け ”石戸城跡説明板” 前へ。ここ桜堤通りを右折し北上。道路脇に「桜堤通り」と。Googleマップに載っていた「モチの木」。石戸城跡説明板前から北上し直ぐにある ”モチの木” を振り返る。木の根元にプレート。保護樹木指定標識保護樹木名 モ チ指定番号 第64号指定年月日 平成7年2月1日 北本市この辺りは桜堤通りの東側で、石戸城の ”三の郭” であろうか。桜堤通りを北上、サクラ並木の ”城ヶ谷堤 (桜土手)” の南側入口。右下が先程車を止めた場所である。天神下公園駐車場所在地:埼玉県北本市石戸宿7丁目128約二百メートル程城ヶ谷堤(桜土手)を走り、左下に駐車場があり立ち寄る。ここは城ヶ谷堤(桜土手)の西側にある駐車場(無料)で公衆トイレもあった。この日は天気が良く車内気温が上がるので日陰を探して駐車。城ヶ谷堤(桜土手)をズームアップ。駐車場ではテントの撤収が行われていた。前日まで”桜まつり”が開催されていたのか。石屋下沼駐車場下にある沼で右側 (西) を荒川が流れている。沼の周りには多くの釣り人が楽しんでいた。駐車場の北側の竹林前に案内板を見つける。Googleマップでこの辺りに「横田薬師堂下湧水」があると。横田下の湧水群は、市内でもっとも水量の豊富な湧水地で、1991年(平成3年)の調査では毎分262㍑を記録し1日に 377t(トン)もの水量になりました。湧水の水源は、雨水です。地下に浸透した雨水は、長い時間をかけて地層を巡り再び地面に噴出し、湧水となります。湧水が、夏は冷たく冬は温かく感じられるのは、雨水が長い時間温度の一定な地中にあるためで、その水温は年間を通して常に15℃前後です。市内には湧水地が10か所ほど確認されており、いずれも豊かな動植物を育む源になっています。ここ横田下の湧水群の周囲はヤナギやハンノキが小さな林を形成し、コムラサキなどの蝶類をはじめ、サラサヤンマやオオアオイトトンボなどのトンボ類の貴重な生息地になっています。 北 本 市案内板の手前には、野生のケシの花が咲いていた。我が家でも咲いているが他の花の色に影響するからと妻からじゃま者扱いにされている。そんな花も群生すると綺麗だが。駐車場から下り木道の遊歩道へ。竹林の中に「横田薬師堂下湧水」の標識柱。下の方は草に覆われていた。この時期、草むらへ入るのも嫌で。草むらから水が湧き出ていた。駐車場へ戻る。天神下公園駐車場から桜堤通りへ上がり ”城ヶ谷堤 (桜土手)” の南方向を望む。天神下公園駐車場のすぐ北側に目的地があり車を道路脇へ停める。北本ウオーキングマップ(北本市全域)桜堤通りの道路脇にあった案内板、現在地は黄色の丸辺りで川島町に近い。現在地辺りをズームアップ。この日動いている地域になる。北本ウォーキングマップ北本は、住宅地の庭木から、里山の面影を残す雑木林や荒川の田畑まで多様な緑を感じることができるまちです。この北本ウォーキングマップは北本の農業と結びついた文化的景観と市内の主要な施設を案内するものです。石戸蒲ザクラ D-4 一夜堤 D-5エドヒガンザクラ C-4 北本市子供公園 D-4北本市役所・文化センター B-2 北本中央緑地 C-1埼玉県自然学習センター D-4 城ヶ谷堤 D-5真福寺 B-3 高尾さくら公園 B-5高尾宮岡ふるさとの緑の景観地 B-4 野外活動センター B-5 北本市産業観光課石戸谷の庚申塔所在地:埼玉県比企郡北本市石戸宿7丁目案内板の近くにあったが、Googleマップで住所が比企郡と。北本市であるので修正が必要。座にも三猿が彫られている。側面には「享和元○○二〇吉祥日」と。車を止め歩いて「横田薬師堂」へ向かう。道路の左側にも紙垂で飾られた”笠付き庚申塔”であろうか一基あった。横田薬師堂所在地:埼玉県北本市石戸宿7丁目121番地辺り桜堤通り沿いにある門柱に「横田薬師堂」と。北本市石戸宿にある横田薬師堂は、薬師如来像の安置に際して、宝暦二年(1752)川越の宮大工により建立されたという。また、薬師堂墓地は、明治初期に各家の屋敷地近辺にあった個人墓地を寄せ集めて造られたものという。そのため、薬師堂前の墓石は移設された感がする。昭和三十七年十一月に建てられた「薬師堂改修記念碑」には、「薬師堂は江戸時代中期宝暦二年九月御本尊薬師如来の安置に際し、武州川越の住、宮大工星野入右エ門重春の作とあり、間口二間、奥行ニ間半、草葺の堂宇と、間口三間、奥行二間半の庫裡は遠く江戸時代より幾星霜を経て、漸く類廃著しく、茲に地区民相計り、今後公会堂として改修使用致すべく、祖先の霊眠る墓地関係者はもとより、広く区内一般の努力により、本堂草葺屋根を瓦葺に、庫裡を亜鉛葺に改修す」とある。冷暖房の室外機があり利用されているようだ。境内に入ると左側に建つ「薬師堂改修記念碑」。昭和三十七年十一月に建てられた石碑で裏面に上記文言が彫られている。横田薬師堂の東側百メートル程の農道脇に石碑。ここもGoogleマップに載っていた「馬頭観世音 (石戸宿)」。石碑には「馬頭観世音 明治二十年一月立之 願主 矢部平吉」と。畑越しに桜堤通り沿いに咲くサクラを望む。Googleマップに載っていた北本市石戸宿8丁目辺りにある「供養塔 (県道標)」を探す。カーナビの案内で進むが住宅街に入り道が行き止まりになり引返す。その片隅にあった2基の墓石。12:10供養塔(県道標)は見つからなかったが、左側の碑の側面には「明治丗六年一月吉日」と、お酒も供えられていた。 ー 続く ー
2024.05.18
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阿弥陀堂の次は近くにある「コッホ・北里神社」を目指す。4月15日(月) 10:35事前のチェックで ”北里大学 北本キャンパス” を知り立ち寄った。ここにもソメイヨシノの木があったが残念ながらピークを過ぎ葉ザクラになっていた。道路脇の看板に、「第一三共株式会社 第一三共バイオテック株式会社」。所在地: 埼玉県北本市荒井6丁目111番地同社のHPから高品質なワクチンを低コストでタイムリーに供給することで、保健衛生の向上に貢献しています。また、ワクチンで培ったバイオ基盤技術を活用することによって、世界中の人々の健康で豊かな生活に貢献していきますと。今回の新型コロナでも貢献したのであろう。ソメイヨシノの中に ”コッホ・北里神社” の鳥居を見つける。道路脇に車を停め参拝することに。サクラ並木の参道を進む。満開なら最高のロケーションであろう。ピークを過ぎていたソメイヨシノを見上げる。コッホ・北里神社所在地:埼玉県北本市荒井6丁目102番地辺り日本の細菌学の父といわれ、近代医学の大功労者である北里柴三郎博士と、彼がドイツ留学中に学んだロベルト・コッホを祭った神社。コッホを深く敬愛していた北里は、彼の髪を持ち帰りコッホ亡き後、日本において祀った。東京白金の北里研究所に鎮座していたがその後、1994(平成6)年には北本キャンパスにも分祠され現在に至る。鳥居の扁額「コッホ北里神社」。右側には「北里柴三郎博士没後九十周年事業募金」。多くの方の名前、企業名が刻まれていたが募金額はなかった。コッホ・北里神社の由来北里柴三郎は、ベルリン留学時代(1886~1891)ドイツの細菌学者ローベルト・コッホ博士に師事し、当時、不可能と考えられていた破傷風菌の純培養に成功、さらに免疫抗体や血清療法の発見など数々の輝かしい業績を挙げ、その名を世界に知られるまでになった。北里はこれを全てコッホ博士のお陰とし、心からの尊敬と信頼を捧げた。1910年5月27日、コッホ博士の訃報を受け、北里は深い悲しみにくれ、間もなく、国立伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の一隅に博士の遺髪をご神体として総檜造りの祠堂(コッホ祠)を建て、没後一年祭を挙行し恩師を偲んだ。1914年11月5日、北里は国立伝染病研究所所長を辞し、即日、新たに北里研究所(現東京都港区白金)を創設して所長となり研究事業を続行した。そして、翌1915年、このコッホ祠堂を北里研究所構内の東南隅に招来し、同年5月27日、例祭を兼ねて遷座報告の祭典を挙行した。1931年6月13日、北里が逝去すると、門下生らは、北里の御霊を北里研究所内に祀ることを願い、間もなく、コッホ祠の傍らに北里祠を設け、コッホ祠と共に北里研究所の守護神として崇敬報恩のしるしとしてきた。1945年5月25日、戦災により北里祠は焼失したが、幸い難を免れたコッホ祠にそれを合祀し、以後現在まで毎年6月13日の北里の命日に例祭を行っている。また、5月27日のコッホ博士の命日には献花を捧げている。1980年、この祠堂は北里本館屋上の一隅に遷座されたが、1993年、当初北里祠の在った位置に移すことになり、これを機にコッホ・北里神社と呼ぶことになった。1994年3月、創立75周年記念事業として1989年から始められた当地の一連の事業の完成を記念し、前記のコッホ・北里神社の分社としてこの地に奉った。 2007年 6月13日 旧、社団法人 北里研究所 2013年 4月1日 学校法人 北里研究所手水鉢をサクラの花びらが飾る。これぞ花手水。コッホ・北里神社内へは施錠されていた。今年から新千円札になる北里柴三郎の名も再認識されるのであろう。外国人の名前を冠した神社は日本ではここだけだという「コッホ・北里神社」。ドイツ人のローベルト・コッホ博士に関連する石碑が稲村ヶ崎公園にある。 興味のある方は「茅ヶ崎市自転車貸出し」👈 をくクリック願います。白金キャンパスにある ”コッホ・北里神社” (パンフレットから)。この道路脇に車を止めコッホ・北里神社を参拝したが後方に咲き終わったしだれ桜。道路脇の植え込みに「北里大学看護専門学校」の案内板。大村記念館所在地:埼玉県北本市荒井6丁目102番地大村智先生の数々の研究業績や栄誉を顕彰するために、2012(平成24)年11月1日、北里大学の北本キャンパス内に「大村記念館」が開設された。北本キャンパスには、大村先生が北里研究所所長の時に設立した、北里大学メディカルセンターと北里大学看護専門学校がある。大村記念館は、北里大学看護専門学校の「附属棟」の1階にある。この日は月曜日で「開館中」。受付で館内は撮影禁止と。大村博士は2015(平成27)年 ノーベル生理学・医学賞を受賞された。10:55展示室には、大村先生の胸像や国内外の賞状・メダル、抗生物質の分子模型や菌の電子顕微鏡写真・寄生虫感染症・抗寄生虫薬イベルメクチン等の開発・研究プロセスが紹介されていた。北里大学の北本キャンパスを後に西側の ”桜堤通り” へ。桜堤通りを北上、道路脇に ”石戸城跡説明板” 。発掘調査の結果この辺りは ”五の郭” 、道路を挟んで西側は ”四の郭” 。埼玉県選定重要遺跡 石戸城跡 (いしとじょうあと) 昭和四十四年十月一日選定石戸城は別名「天神山城(てんじんやまじょう)」ともいわれ、十五世紀後半頃に築かれたと考えられている。当時は戦国大名が覇権を争う群雄割拠の時代であった。城は上杉氏の家人・藤田八右衛門によって築城されたとされ、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城から松山城、川越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたと思われる。永禄六年(1563)二月、北条・武田の連合軍が上杉方である松山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割を終えるようである。現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。 平成二十九年三月 北本市教育委員会石戸城の縄張り図”石戸城跡説明板” から狭い道を走り桜堤通り下まで入り車を止めた。縄張り図によるとこの辺りは ”一の郭” の北側であろうか。車を止め桜堤通りへ上る。ここから北側はサクラ並木の観光名所 ”城ヶ谷堤 (桜土手)” といわれている。既にサクラは散り菜の花だけが残っており、一週間前なら絶景であった。桜堤通り西側の荒川低地には駐車場があった。桜堤通りに「河川における行為の規制」。桜堤通りの東側斜面にもサクラ。北本市自然遊歩道入口入口に立つ「北本自然観察公園」「北本市自然遊歩道案内図」の案内板。ここは一夜堤口です 埼玉県自然学習センターまで 950mこの公園は、埼玉県の「里地里山」の自然環境を残しながら、野生の生きものがくらしやすいよう、また来園される方が自然に親しめるように整えられた公園です。北本市自然遊歩道案内図 遊歩道を歩き ”史跡・一夜堤" へ行くことに。現在地は黄色矢印。 遊歩道脇は低湿地帯になっており、右側は ”北里の森” 。遊歩道の先の ”史跡・一夜堤” 方向。埼玉県自然学習センター・北本自然観察公園の看板この時期の観察ポイント 2024.01何に見える! オニグルミの冬芽と葉痕葉が落ちた跡の葉痕と冬芽がなんとも可愛いオニグルミ。葉痕の形により、ヒツジやサルの顔にも見えてきます。姿によっては手をあげているようにも・・・。さて、何に見えますか?静寂な遊歩道を歩く人もおられたが、野鳥の鳴き声も。波静かな湿地に水鏡。この先が ”一夜堤” 。湿地帯を振り返る(北側)。左奥は ”高尾ふるさとの森” 。一夜堤に建つ説明板石戸城と一夜堤石戸城は、室町時代長禄年間(1457~60)ころ、岩付・松山・川越の各城との連絡のために築かれたものと伝えられている。扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城に始まり、永禄六年(1563)松山攻めの時には、上杉謙信が石戸まで進入してくるなど、いくたびかの変遷をみたという。謙信の松山攻めに先立つ永禄五年北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守とのあいだに激しい攻防戦を演じたことが「関八州古戦録」にみえている。毛利の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き一気に城へ攻め上って勝利したという伝承がある。この土橋が現在「一夜堤」と呼ばれている。「一夜堤」は、石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ、長さ45メートル、幅5メートルほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。 平成元年三月一日 北本市一夜堤から南側の湿地帯。北本自然観察公園この公園内には、貴重な動植物を守るための保護区域があります。保護区域内は園路、木道から外れて中に立ち入らないようお願いします。 彩の国 埼玉県現在地は黄色矢印。湿地帯に蝶。ズームアップ。一夜堤から北側の ”高尾ふるさとの森” を望む。11:25一夜堤を後にし遊歩道を戻る。 ー 続く ー
2024.05.17
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川田谷諏訪神社参拝後は、北側にある庚申塔、石仏めぐりに。4月15日(月) 9:50石戸の庚申塔所在地:埼玉県北本市石戸上1505番地田園風景の農道脇に建っていた庚申塔。畑にはビニールハウス、太陽光発電が建ち、ハウスではトマト、イチゴの生産販売。庚申塔を挟んで右側は北本市、左は桶川市になる。交通量が少ないので農道脇に車を止める。庚申塔は覆い屋で覆われ、前には木製の鳥居も建っていた。背丈もありひときわ目立つ庚申塔だが説明板がなく詳細は不明。移設されたのか、覆い屋も簡素なものだが。ネットでヒット。建立年:宝暦4年(1754)形式等:舟型・浮彫り、高さ119、幅50銘 文:宝暦四甲戊天九月吉日 願主 下石戸上村講中彫刻等:穏かな顔、瑞雲日月、一面六臂、戟、輪宝、矢、弓、合掌、2鶏、邪鬼、3猿馬頭観音所在地:埼玉県北本市石戸9丁目石戸の庚申塔から東へ走り数百メートルの所にある馬頭観音。馬頭観音を撮影していると散歩中の地元の方から「この先の桜が綺麗だよ」と。覆い屋の下に2基の馬頭観音。地元の方から綺麗だといわれたサクラ。農道の先に ”石戸の庚申塔” 。また「荒川沿いの吉見のサクラも綺麗だ」と。馬頭観音・6体地蔵尊所在地:埼玉県桶川市川田谷6286馬頭観音から更に東へ走り数百メートル先の墓地の中にある。左に新しい馬頭観世音、右に6体地蔵尊。両サイドに字が刻まれていた、右側には「○大僧○龍清法印 〇先祖菩提」左側には「○大僧○龍清法印 正徳二壬庚二月十六日」と。敷地内に枯れた大きな古株があり、かつては杜の中にあったのであろう。馬頭観音・6体地蔵尊から県道33号線(東松山桶川線)を北上、サクラの森が見えていたので右折し立ち寄る。埼玉県のこの辺りは関東平野のど真ん中で目標とする山がなくカーナビがたより。天台宗 大藏寺所在地:埼玉県北本市石戸6丁目206天台宗寺院の大藏寺は安楽山無量院と号します。大藏寺の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「同宗同末(放光寺と同じく天台宗、川田谷村泉福寺の末)、安楽山無量院と號す、本尊阿彌陀開山玄秀。阿彌陀堂」とありますと。県道33号線(東松山桶川線)から見たときは綺麗に見えていたが既に散っていた。葉ザクラのソメイヨシノを見上げる。参道の左側に地蔵。ここの地蔵の台座にも「地蔵札」が貼られていた。また台座には「奉造立地蔵尊像 昭和四十七年三月吉日」と。葉ザクラが散る下に山門。山門を潜ると正面に本堂。路面にはサクラの花びらが飛び散っていた。天台宗総 本 山 比叡山 延暦寺高 祖 天台大師 智 顗宗 祖 伝教大師 最 澄立教改宗 桓武天皇 延暦二十五年(平安時代の初期)本 尊 法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来とすべての諸佛・諸菩薩等は同類一体 である。よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。教 義 法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として、密教・禅法・念佛等をそ の実践門とする。教 典 法華経に示されている諸法実相の立場を基本としてひろく大乗経典を讃仰・読誦 する。当山本尊 阿弥陀如来 本堂のご本尊さまに先ず合掌大藏寺本堂境内に咲いていたボタンの花。いつの間にか咲いていたボタンだ。境内に赤い頭巾、前ダレをした地蔵が何体もあった。本堂改築 庫裡新築 竣工記念碑本堂前から山門を望む。葉ザクラのソメイヨシノを見上げる。ソメイヨシノの樹径も大きくなり大木に。この後、大藏寺を後にし西側へ移動。県道57号線(さいたま鴻巣線)沿いにあった古い墓石。いつかこの県道57号線(さいたま鴻巣線)を北上し鴻巣方面へ行きたいが。この後カーナビを「北本市の阿弥陀堂」にセット。阿弥陀堂への途中、Googleマップに庚申塔等があり探す。石戸宿1丁目の庚申塔所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目カーナビの案内では近くに来たが北側に古民家風の建物。入口の立て看板に「株式会社 アジアメデカ元気事業団」と。アジアメデカ元気事業団の本社は東京千代田区内神田にありここは北本オフィス。日本からアジアへ、医療機関の開業・運営支援・介護施設の開業・運営支援・さらには優秀な人材を育む教育システム等のご提案を通している。敷地内を探し庚申塔らしきものを発見。道路から10メートルほど入り撮影。庚申塔には「宝永二・・・」と刻まれていた。三猿の彫り物も。八雲神社所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目110辺り道路脇に小さな社殿が建っていた。廻りは新地になっていたが。八雲神社といえば北本市には8丁目にも ”石戸八雲神社” がある。境内は新しく整備されたのか、また詳細については説明板もなく不明。社殿の扁額は手書きの「八雲神社」。内陣を覗き見撮影。道路を挟んだ南側に石碑が建っていた。石碑には「愛蚕之碑」と。愛蚕之碑昭和六年春蚕條桑育ニ際シ長野懸萩原千太次氏ノ考案ニカカル蚕病豫防剤○〇ホサンヲ試用セシニ其ノ効果絶大ナリシニ〇ニ且東京高等蚕糸學校波多野岩吉先生並ニ静岡懸古橋正一郎先生ノ學理的研究ニ合致セルニ深ク感ジ爾後十有三年○○ニ普及セン。努力セリ然ルニ此ノ○○ノ使用極メテ簡便殺菌力大ニ而ニ食欲ヲ増進セシムル特効アルニヨリ業界ニ歓迎セラン其ノ目的ヲ達スルニ至レリ今ヤ大東亜決戦下繊維不足ノ折柄益々之ガ普及ヲ圖リ蚕糸ノ増産ニ寄興セント欲ス茲ニ散〇普及セル記念トシテ之ヲ建ツ愛蚕之碑前から西側を望むと目的地の「阿弥陀堂」が見えていた。阿弥陀堂は道路の北側にあり地蔵も北向きであった。阿弥陀堂所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目110辺りここにも説明板がなく、創建年代等詳細は不明。左側に”石戸宿阿弥陀堂の青面金剛”10:35道路拡張で移動されたのであろう、その際に阿弥陀堂は改築されたか。 ー 続く ー
2024.05.16
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北本市の善照寺から東へ走り桶川市の諏訪神社へ。4月15日(月) 9:30川田谷諏訪神社所在地:埼玉県桶川市川田谷 6710川田谷諏訪神社の創建年代などは不詳ながら、天正十九年(1591)には徳川家康より社領三石の御朱印状を拝領、石戸領の総鎮守だったという。明治六年村社に列格、明治四十年雷電社を合祀、明治四十二年(1909)神饌幣帛料供進神社に指定されている。東側の駐車場から戻り西側の参道入口へ。参道入口に立つ社号標石には「村社諏訪神社」と。こちらの石碑は風化して読みずらかったが。 定一、軍馬 乗入事一、魚鳥 補事一、〇木 伐事右・・・・・・・・ 以下わからず。 境内での禁止事項が刻まれているのであろうか。参道入口に建つ石鳥居。諏訪神社 御由緒□ 御縁起(歴史) 『風土記稿』川田谷村の項に、「諏訪社 社領三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田 谷郷の内とあり、石戸領の総鎮守なり」と載り、境内に建つ文化十三年(1816)の敷石供養塔 にも「石戸領二十一ヶ村氏子中」と刻まれているように、当社は古来、石戸領二十一か村の 総鎮守として崇敬されてきた。この「石戸領二十一か村」とは、滝馬室・原馬室・原馬室枝 郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村 枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村 枝郷北袋の諸村である。 鳥居に掛かる扁額の銘文によると、当社の社殿は天保八年(1837)七月に再建されたが、同十 五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建した。『明細帳』に よれば、明治六年に村社となった。祭神は建御名方命である。 また、江戸時代には当社の西方五〇〇メートルほどの所にある天台宗の普門寺(山号は諏訪山) が別当であった。□ 御祭神 ・建御名方命□ 御祭日 ・元旦祭(一月一日) ・祈年祭(三月二十七日) ・春祈祷(四月一日) ・大 祭(八月二十六・二十七日)参道を進むと木製の ”二の鳥居” が建っていた。参道左側に建つ石碑。石碑には、「戦勝紀念」と。右書きで「幟〇确寄附連名 明治卅九年 竜集丙午七月吉日」。金拾円からの寄附者の名前が刻まれている。 二の鳥居は左右2本の主柱の前後を袖柱が支える「両部鳥居」構造になっていた。扁額には「諏訪神社」と。参道の両側には石燈籠、石碑が並ぶ。左側に並ぶ石碑。手前の石碑には、「明治三十七八年役 戦利品奉納記念碑 埼玉懸知事 島田剛太郎謹書」と。今まで各地の神社に参拝したがこのような「戦利品の碑」は始めてであった。明治三十七八年役とは、「日露戦争」のことで戦利品はどこからであろうか。また、具体的な品物は。次の石碑には、「皇紀二千六百年 社殿改築記念之碑 埼玉懸知事 従四位勲三等土岐銀次郎謹書」と。社務所改築記念碑 平成元己巳年三月多くの社務所改築資金寄付芳名が刻まれていた。境内右手前に大きな窪みがあったが池であったのか周りには手摺。境内から参道を振り返る。境内の南側に建つ ”社務所” 。境内の北側に建つ ”神楽殿、倉庫” であろうか。左側に境内社の三峯社。社に「三峯社」と。石祠と右側に「廣前敷石供養塔」。その側面には「別當諏方山普門寺 ・・・・・」と。境内の東側に建つ社殿。諏訪神社の御由緒から鳥居に掛かる扁額の銘文によると、社殿は天保八年(1837)七月に再建されたが、同十五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建したと。手水舎鬱蒼とした杜の中に拝殿右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「諏訪神社」。拝殿前から境内を見下ろす。左に社務所、西側の参道の先には ”二の鳥居”、”一の鳥居” が建つ。市指定文化財 諏訪神社本殿 平成9年10月1日指定諏訪神社は、江戸時代に旗本牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。諏訪神社本殿は、一間社流造という造り方です。身舎(もや)と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間 (約1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られています。造られた年代については、棟札が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測され、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられています。市指定文化財 川田谷・下日出谷の万作(諏訪の万作) 平成15年6月2日指定「万作」は、埼玉県をはじめとした関東一円に分布する民俗芸能として知られており、桶川では川田谷と下日出谷の地域で伝承されています。鉦(かね)や拍子木と歌で調子がとられ、「銭輪」「きっさき」「伊勢音頭」「下妻」「口説」などの手踊りが演じられます。かつては、歌に加え台詞を述べる「段物」と呼ばれる芝居の要素が入った演目もありましたが、現在では手踊りが主になりました。市場地区で伝えられている「諏訪の万作」は、昭和30年代の町村合併時に地区の交流を目的として、薬師堂喜楽連から教わり始められました。現在は、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りの演目が、毎年8月に行われる諏訪神社の祭礼などで披露されています。 令和6年2月 桶川市教育委員会 説明板の写真から ”諏訪神社本殿” 。諏訪神社本殿は、一間社流造という造り方です。身舎(もや)と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間 (約1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られてる。拝殿の右側から廻り込む。諏訪神社本殿は覆い屋で保護されていた。本殿を後方から。隙間から覗き見る。身舎(もや)は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られてる。彫刻をズームアップ。本殿裏にある境内社。右から「桶川市指定文化財 諏訪神社本殿」中央は「奉納 永代修繕費費及燈明料 一金壱百円 願主名 明治廿五年九月十五日」左は、風化して判読できなかった。この石碑も読みずらかった。どうにか上段に「鳥居敷石奉納○○」と。下にも字が刻まれているのか判読できなかった。本殿を北側から。境内の北側に建つ境内社の ”白幡社” 。社には「白幡権現神社」と。北側から広い境内を見る。大祭の八月二十六、二十七日には、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りが披露され賑わうのであろう。境内の隅には「阿夫利神社御神燈」と刻まれた新しい燈籠が建っていた。こちらには新しい境内社と右側には石祠。社には「稲荷社」と。9:45川田谷諏訪神社の参拝を終え次の場所へ移動することに。 ー 続く ー
2024.05.15
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石戸蒲ザクラの後はこれも咲き終わっている「普門寺のしだれ桜」を訪れる。4月15日(月) 9時過ぎ目的地を「普門寺」にしカーナビの案内に従って県道57号線(さいたま鴻巣線)を南下。ここを斜め左方向の国道17号(上尾道路)へ進む。石戸蒲ザクラから ”普門寺” へのルート。Googleマップより。今日の目的地がこの辺りに集中しており、電動アシストの愛車リンちゃんがあればと。インタは今朝下りた圏央道の ”桶川北本I.C” 。この辺りは桶川市と北本市の境界地になっている。桶川市桶川市は東西約8km、南北約4kmで埼玉県の中央に、また日本列島のほぼ中央に位置し、東は元荒川をへだて久喜市および蓮田市に、西は荒川を境に川島町に、南は上尾市および伊奈町に、北は鴻巣市および北本市に隣接している。昭和45年(1970)に市制施行。人口は約7万5千人。市の木:ケヤキ、市の花:ツツジ。その昔、江戸から10里、近隣からの農産物の集散地という地の利を得て、人々が自然に集まってくるため、中山道の宿場町として栄えた。普門寺へはこの交差点を左折。正面は桶川北本インタの北側。交差点名は「桶川市 川田谷(市場)東」。9:10川田谷(市場)東交差点を左折して直ぐにある、普門寺参道。参道沿いに赤い頭巾をかぶった地蔵が並んでいた。天台宗 普門寺所在地:埼玉県桶川市川田谷(かわたや)6663天台宗寺院の普門寺は、諏訪山福聚院と号す。普門寺は、慈覚大師が当地巡錫の際に飢餓に苦しむ人々を助けたことを後世に残すため、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したと伝えられ、貞享5年(1688)に再建した旨の棟札が残されていたという。江戸期には川田谷諏訪神社の別当を務めていた。当寺の枝垂れ桜は市文化財に指定されている。足立坂東観音霊場18番である。境内の堂宇は1棟で「普門寺観音堂」のみ。参道の北側には満開のソメイヨシノが聳えていた。右側には予想通り咲き終わったしだれ桜。先程の交差点を振り返る。道路脇には小さいが「普門寺のしだれ桜」の案内板が立っている。境内に並ぶ石仏、頭巾をかぶった六地蔵であろうか。二つの地蔵に頭がない、六地蔵。地蔵には、戒名?が書かれた白い札が貼られていたがこの地方の風習であろうか。ネットで調べると「地蔵札」と。参道側にも古い地蔵があり紙が貼られていた。観音堂の裏から北方向には右側に市文化財に指定されている ”しだれ桜” 。ズームアップするが同時に咲くことは・・・。観音堂前に並ぶ地蔵群。咲き終わった普門寺のしだれ桜。普門寺のしだれ桜は、エドヒガンザクラの変種でイトザクラとも呼ばれている。高さ11.5m、推定樹齢約190年とされるこのしだれ桜は、毎年3月中~下旬ごろ小振りで、可憐な花を無数に咲かせ近隣の人が訪れる。見学、駐車料金は無料。ソメイヨシノは満開、しだれ桜は葉が滝の如くに。しだれ桜の周りはロープが張られ立入禁止。満開のしだれ桜を見たかった。例年の見頃は3月末と。石柱には「普門寺のしだれ桜」と。周りは竹林が迫る。桶川市指定文化財 天然記念物 普門寺のしだれ桜 平成八年五月二十八日 指定東叡山泉福寺の末寺である諏訪山福聚院普門寺(ふくじゅいんふもんじ)は、平安時代にあたる天長年間に慈覚大師がこの地を訪れ、 飢饉に苦しむ人々を助けたことの記憶をとどめるために、後世、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したと、開山の由緒を伝えています。現在は堂宇を失っている普門寺ですが、江戸時代には幕府より寺領三石の朱印地を与えられ、また、石戸領総鎮守であった諏訪神社の別当としても栄えました。枝垂桜は、エドヒガンザクラの変種であり、イトザクラとも呼ばれています。普門寺のしだれ桜は、毎年三月末、枝垂れた枝に付く無数のつぼみが花開き、小ぶりの花が咲き連なるその豊かな彩りは、人々に春の盛りの到来を告げてくれます。 樹 齢 180年 樹 高 11.5メートル 枝張長 11.4メートル(東西) 13.6メートル(南北) 胸高直径 65.3センチメートル 根元径 102.0センチメートル 平成十年三月 諏訪山福聚院普門寺 桶川市教育委員会 樹高が11.5メートルのしだれ桜を見上げる。西側から手前にソメイヨシノ、後方にしだれ桜。ソメイヨシノの樹齢も何年であろうか。満開のソメイヨシノ。しだれ桜の下から観音堂を望む。しだれ桜の根元は立入禁止で養生。駐車場に戻り振り返る。電線が景観を失うと。次の目的地は近くの北本市にある「善照寺」に。日蓮宗 善照寺所在地:埼玉県北本市石戸宿4丁目190普門寺の西側にあり県道57号線(さいたま鴻巣線)沿いにある新しい寺院である。門前に掲げられていた表札。日蓮宗寺院の善照寺は、北辰山と号する。善照寺は、試諦院日尊(昭和15年寂)を開山として、昭和44年(1969)に創建したという。県道沿いの門扉は閉まっていたが施錠されていなかったので中へ、観音菩薩であろうか。善照寺本堂境内、墓地であったか本堂へは施錠されていたのでここで引返す。9:30諏訪神社交差点善照寺から東へ走り普門寺前を通り抜け次の目的地「諏訪神社」へ。交差点手前右側に駐車スペースがあったので駐車して参拝することに。 ー 続く ー
2024.05.14
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いよいよ「日本五大桜の石戸蒲ザクラ」へ。4月15日(月) 8:45駐車場から進み道路の角に石碑。石碑には「成田山不動明王」と。東光寺&石戸蒲 (いしとかば) ザクラ所在地:埼玉県北本市 石戸宿3丁目119 東光寺境内石戸蒲ザクラはカバザクラの古木で、東光寺の境内にて生育している。 1922年10月12日、国の天然記念物に指定された。また日本五大桜の1本に数えられている。2000年5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。聳えているのはソメイヨシノで予想どうり満開を過ぎていた。東光寺の前にも駐車スペースがあった。東光寺前広場カバザクラの原木は埼玉県北本市石戸宿・東光寺境内にあり、エドヒガンとヤマザクラの雑種と推定されている。鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、蒲冠者 源範頼がこの地に来たときについてきた杖が根づいたのがこの桜で、蒲冠者の名に因んでこの名が付いたともいわれていると。階段の右横には社もあったが。階段下右側には、東光寺の地蔵尊・庚申塔等が並んでいた。東光寺の周りにはソメイヨシノも聳える。ソメイヨシノも木によっては咲き終わり葉ザクラに。保護樹木指定標識保護樹木名 ソメイヨシノ指定番号 第59号指定年月日 平成7年2月1日 北本市階段を上ると右側に前ダレをした地蔵。石柱には「石壇再建之碑」と。左側にも前ダレをした地蔵と墓石。字が刻まれていたが判読できなかった。境内の中央に東光寺本堂。境内には散ったサクラの花びら本堂の扁額「東光寺」。階段を上がると右側に立っていた説明板。東光寺の文化財東光寺は川越市東明寺(時宗)の末寺で、西亀山無量院東向寺とも号し、伝説によると蒲冠者 源範頼の開基といわれている。境内には、国指定天然記念物「石戸蒲ザクラ」をはじめ、県指定考古資料「板石塔婆」や、市指定彫刻「銅造阿弥陀如来坐像」など多数の文化財が所在している。また、寺域及び周辺地域は鎌倉時代の館跡であることが知られている。国指定天然記念物 石戸蒲ザクラ 大正11年10月12日 指定「石戸蒲ザクラ」は、福島県三春の滝桜・山梨県山高の神代桜・静岡県狩宿の下馬桜・岐阜県根尾谷の薄墨桜と共に、日本五大桜に数えられる名木である。「蒲ザクラ」の名称は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟蒲冠者源範頼の伝説による。一説には、範頼が石戸に来た時についてきた杖が根づいたのがこの桜で、蒲冠者の名にちなんで「蒲ザクラ」と名付けられたという。天然記念物に指定された当時は四本の大きな幹に分かれ、根元の周囲は十一メートルもあったと記録されている。現在開花する幹は老木の株分けで、いわば二代目「蒲ザクラ」である。品種はエドヒガンザクラとヤマザクラの交配種とされ、四月上旬に開花する。県指定考古資料 板石塔婆 昭和40年3月16日 指定市指定歴史資料 東光寺板石塔婆群 昭和53年3月15日 指定板石塔婆は、板碑・青石塔婆とも呼ばれ、鎌倉時代から室町時代末期にかけて多数つくられた供養塔である。東光寺には二十二基の板石塔婆があり、かつては蒲ザクラの周囲に立てられていた。県指定の「板石塔婆」は、貞永二年(1233)の銘をもち、全国第四位の古さである。表面上部に梵字で阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)を配し、その下部に「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」の偈(仏の功徳をたたえる詩)が刻まれ、周囲には円と半円の装飾が刻まれている。国の認定重要美術品である。この他にも寛元四年(1246)銘や建長三年(1251)銘等の比較的古いものが多く、当市の歴史を知る資料として貴重である。これらは一括して「東光寺板石塔婆群」として指定し、現在は市教育委員会で管理・公開している。 平成五年三月 埼玉県教育委員会 北本市教育委員会左:滝沢馬琴著「玄同放言」に渡辺華山が描いた蒲ザクラ。右:天然記念物に指定された当時の蒲ザクラ左:東光寺板石塔婆群(現在は収蔵庫にて保管)右:貞永の板石塔婆既に葉ザクラになっている「石戸蒲ザクラの原木」。石戸蒲ザクラの樹高は高木で樹形は傘状。一重咲きの中輪の花を咲かせ花弁の色は白色。東京の花期は4月上旬でソメイヨシノより数日遅く咲くとのことであるが既に咲き終わっていた。石柱には、正面に「天然記念物石戸蒲櫻」側面に「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依〇 大正十一年十月内務大臣指定」と。樹齢800年と言われている。和名を「カバザクラ」という世界でただ1本の品種。蒲ザクラの根元にある五輪塔は源範頼の墓と伝えられていると。既に葉ザクラの石戸蒲ザクラを見上げる。訪れるのが1週間遅かったか。東光寺本堂と左奥に収蔵庫。収蔵庫前の木柱には、「市指定歴史資料 東光寺板石塔婆群 平成四年三月 北本市教育委員会建之」と。東光寺本堂と石戸蒲ザクラ。境内に建つ二基の石碑。右側の石碑「高松宮同妃両殿下御成記念碑」。左側には、「東光寺新築記念碑 昭和四十三年十月竣功」と。見上げるとソメイヨシノの花も後わずかに。境内から見下ろす。普段はここまで車で来れるようだ。東光寺の東側下に2軒の覆い屋。手前には六地蔵がおさめられていた。小さい覆い屋には「庚申塔」であろうか。説明板がなく詳細は不詳。東光寺の南側にある「堀の内集会所」。堀の内集会所にはトイレ施設があり、蒲ザクラが満開時には来場者の利用に。そのためのバリアフリーの仮設通路であろうか。仮設通路の横には遅い出番の八重桜が満開に。ズームアップ。こちらの樹にはネームプレート。ネームプレートには「石戸蒲ザクラ 後継樹 平成14年度植樹」と。植樹してから22年経った平成14年度(2002)植樹の ”石戸蒲ザクラ後継樹” 。八重桜と葉ザクラの石戸蒲ザクラ後継樹。堀の内集会所でトイレを借用。こちらのソメイヨシノは散り始め。カバザクラはソメイヨシノより数日遅く咲くとのことであるが既に咲き終わっていた。ソメイヨシノも木によっては花が残っている。駐車場へ戻る。元々は世界に1本しか存在しないサクラであったが、北本市のまちおこしによりその子孫が市内に植樹されている。ここ駐車場にも石戸蒲ザクラの後継樹が植えられている。9:05駐車場から東光寺のソメイヨシノを望む。ガマザクラは一週間ほど遅かった。地元の方の話では「ソメイヨシノに比べ綺麗でない」と。 ー 続く ー
2024.05.13
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日本にはサクラの名所が全国に多々あり、その中でも日本五大桜と言われる一つが埼玉県北本市にありその「石戸蒲桜(いしとかばざくら)」を訪れたブログです。日本五大桜で私にとってまだ訪れていないところが3ヶ所ありかねてから行きたいと。サクラの開花期が近いため、一度に数ヶ所訪れることができないのでネットで「石戸蒲桜」の開花情報を入手。情報では満開は既に過ぎているとのことであったが、自宅から一番近いので愛車のノートで出かけた。併せて、いつものように近郊の寺社史蹟を訪れることにした。因みに ”日本五大桜” は、1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定された5つの桜を指す呼び名である。 1) 福島県田村郡三春町の「三春滝桜」 2) 埼玉県北本市の「石戸蒲ザクラ」 3) 山梨県北杜市の「山高神代桜」 4) 静岡県の「狩宿の下馬ザクラ(駒止めの桜)」 5) 岐阜県本巣市の「根尾谷の淡墨桜」既に訪れているのは 1)、3)の2ヶ所のみ。4月15日(月) 7:15自宅を6時45分に出発。首都圏中央連絡自動車道(以降圏央道)を利用し北上することに。カーナビの案内は目的地までは約100キロ、1時間半と。圏央道は3月27日(水)にも ”城山かたくりの里” へ行く時利用したが、この時は事故で渋滞したので事故のないことを祈りながら運転。横断幕からインタによっては利用料金は「ETC専用化」されるようだ。小倉山トンネル入口には、「小倉山トンネル 長さ2100m」「ETC専用 相模原IC」の道路標識。事故が多発するトンネルである。小倉山トンネルを出ると直ぐにある相模原インタ。”城山かたくりの里”の最寄インタである。ETC専用であるようだ。城山トンネル 420m道路標識には「高尾山 4km、八王子JCT 6km、鶴ヶ島JCT 46km」。トンネル出口には「高尾山インタ出口」。圏央道沿いには民家があるのであろうか防音壁を設置。相模原八王子トンネル 3580m神奈川県相模原市緑区と東京都八王子市にまたがる圏央道のトンネル。圏央道で最長のトンネルでもある。 名称の由来は、相模原市と八王子市を跨ぐことから。建設時の仮称は「城山八王子トンネル」であった。高尾山インタ出口、ここもETC専用。八王子JCTまで、2km。7:30八王子JCTこの先は八王子城跡トンネルで、全長2382m(内回り・外回りとも)。トンネルのある城山には日本100名城の”八王子城”がある。サービスエリア、パーキングエリアまでの距離標識。インタ、JCTへの距離標識。7:50狭山PA(外回り)所在地:埼玉県狭山市笹井 2363-2自宅を出てから約1時間、いつもトイレ休憩で立ち寄るパーキングである。土産物店、レストランもあるパーキングエリア。圏央鶴ヶ島インタ出口。鶴ヶ島JCT目的地は直進して「桶川北本インタ」へ。圏央道は、都心から半径およそ40km ~ 60kmの位置に計画された、延長約300kmの高規格幹線道路である。圏央道は、首都圏の道路交通の円滑化、環境改善、沿線都市間の連絡強化、地域づくり支援、災害時の代替路としての機能など多くの役割を担う目的で建設された。そのため物流関係のトラックが多い。ただ道路幅が狭いのがネックである。8:15鶴ヶ島JCT自宅から1時間半、今日は渋滞もなく順調に来れた。カーナビの案内は次の「60 桶川北本 4km」を降りる。内回りの車線は渋滞。以前の愛車ジュークのカーナビは、道の無い空中を走っていたが。今の愛車ノートはカーナビが新しいので道のあるルートを案内してくれた。初めて下りる”桶川北本インタ”。8:2560 桶川北本料金所埼玉県桶川市大字川田谷にある、圏央道のインターチェンジである。当初上尾道路の自動車専用道路(新大宮上尾道路)と接続するジャンクションでの供用を予定していたため、仮称が桶川JCTとなっていたが、上尾道路の自動車専用道路部分の開通の目途が立たないことから、当面一般道路と接続しインターチェンジとして運用されていると。目的地の「石戸蒲ザクラ」は桶川北本インタの北側にあるのだが、カーナビは南方向を案内。インタから上尾道路(国道17号)を南下、ここの交差点を右折。上尾道路(国道17号)を南下すると「池袋 36km、さいたま 20km、上尾 8km」と。今日の訪問先をGoogleマップで事前にチェック。主目的地は ”日本五大桜の石戸蒲ザクラ” 。北本市埼玉県の中東部に位置する市。 人口は約6万5千人。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年までは中山道の宿場、鴻巣宿があったことが地名の由来である。昭和46年(1971)に市制施行。市の木:サクラ、市の花:キク。8:35カーナビの案内で県道57号線(さいたま鴻巣線)、桜堤通りを北上。進行方向に散り始めているソメイヨシノ、芽生え始めたエノキが目に入り道路脇に駐車。福禄寿所在地:埼玉県北本市石戸宿4丁目113北本市の七福神は線路の西側エリアに6つ、線路の東側エリアに1つありここは西側エリアに。市内の南部ののどかな風景の中に庚申塔と句碑が三差路に並んで立っている。庚申塔 (猿田彦大神) は本来中国の道教の神様を祀ったもので、北本市内には数え切れないほどの庚申塔が残されていると。右側のエノキの樹齢は何年であろうか。エノキの根元に芭蕉の句碑。北本ウォーキングマップ近郊の案内マップ。現在地は下の黄色矢印。覆い屋の中には赤い前ダレを着用した地蔵。猿田彦大神は【幸運と長寿の神 福禄寿】である。 七福神の隣には1851年(嘉永4年)に建立された ”松尾芭蕉の句碑” 。この句碑は、嘉永4(1851)年に石戸連の俳人15名が俳句の上達を願って建てた「芭蕉句碑」。芭蕉句碑 所在地 北本市大字石戸宿松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳人であり、各地を旅して多くの名句と紀行を残した。有名な作品として「野晒紀行」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。埼玉県には約百基の芭蕉句碑があるといわれているが、この石戸宿所在のものも、その一つである。この句碑は、嘉永四年(1851)の建立で、表面に芭蕉の、 原中(はらなか)や 物にもつかず 啼雲雀(なきひばり)の句を四行に刻み、裏面には地元や川越等の俳句同好者の句が二十句刻まれている。この句碑は、高さ81センチメートル、幅158センチメートルの大きさで、一部破損しているが、ほぼ完全な形で残っており、江戸時代末期の地方文化を証明する資料として貴重である。 昭和六十一年三月 埼玉県 北本市ソメイヨシノがピークを過ぎていたのが残念であった。福禄寿を後にしカーナビの案内で進み、道路標識「感動桜国きたもと 国指定天然記念物 石戸蒲ザクラ」。8:45石戸蒲ザクラ駐車場駐車スペースは120台で無料だが、花見時期を過ぎ一台もなかった。ここに植えられているサクラはカバザクラの子孫だと。駐車場脇に「北本ウォーキングマップ」。案内板にサクラの枝の影が映り込む。北本ウォーキングマップ北本は、住宅地の庭木から、里山の面影を残す雑木林や荒川の田畑まで多様な緑を感じることができるまちです。この北本ウォーキングマップは北本の農業と結びついた文化的景観と市内の主要な施設を案内するものです。石戸蒲ザクラ B-2 一夜堤 B-1エドヒガンザクラ C-2 北本市子供公園 A-2北本市役所・文化センター D-4 北本中央緑地 C-5埼玉県自然学習センター B-2 城ヶ谷堤 B-1真福寺 D-3 高尾さくら公園 D-1高尾宮岡ふるさとの緑の景観地 D-2 野外活動センター D-1 北本市産業観光課駐車場から「石戸蒲ザクラ辺り」を望む。駐車場から歩いて蒲ザクラがある東光寺へ向かう。 ー 続く ー
2024.05.12
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最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近にあり、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはいろんな種類のサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩る。4月10日(水) 14:25最明寺史跡公園の南側に咲く八重紅しだれ。広場の周りには古木になったソメイヨシノが咲く。満開のソメイヨシノを見上げる。松田町の麓から狭い道を上って来るため意外と人は少なかった。こちらは八重紅しだれであったか。最明寺史跡公園 管理事務所約30分の散策で最明寺史跡公園を後にすることに。サクラの開花状況もグッドタイミングであった。公園には売店がないので飲み物、食料品は持参する必要がある。傾斜地に咲くオオシマザクラをズームアップ。この上からの景観も素晴らしいと。管理事務所周りで咲くオオシマザクラ。まだ蕾もあり数日は楽しめるようだ。他の枝も、三分咲き。14:35管理事務所から緩い坂道を上り数分で駐車場へ戻る。まだ時間が早かったので御殿場線山北駅へ向かうことにしカーナビをセット。国道246号へ下るルートをどうするか思案、前回と同じ狭い林間コースを選択。前回は ”時光窯” 辺りで右折し農道が狭かったので今回は直進。酒匂川の先には 相模湾。更に農道を下り、サクラが咲き視野が開けたので道路脇に車を停める。カメラを左に振り、松田町、大井町方面を見下ろす。夜景撮影にも良い場所では。ソメイヨシノが満開で路面に花びらが散る。酒匂川の河口。酒匂川の流れをズームアップ。何本もの橋が架かっている。JR御殿場線の松田駅をズームアップJR御殿場線をズームアップ松田駅の先で ”ロマンスカーあさぎり” が小田急線へ入り新宿駅へと。小田急小田原線が走る。酒匂川の堤にはサクラが満開。山道から下り東名高速道路の山側を並行して西へ走る。一般道は山の傾斜地にありアップダウン。15:10地蔵尊所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原カーナビの案内で山側から下り、国道246号と県道76号線(山北藤野線)の合流点に建っている。交通量が多く車窓から撮影。場所的に交通安全のための地蔵尊と思ったが。15:20JR御殿場線山北駅県道76号線(山北藤野線)の山側に寺社史蹟があったので行こうとしたが、新東名高速道路関係の工事車両が多かったので今回は諦め、後日訪れることに。駅前にはレトロなバスが2台駐車、車のナンバーは「11-22」。後方の建物は ”町立ふるさと交流センター(観光協会)” で屋根はSLをイメージしている。今日の目的地を全て終え帰路につくことに。国道246号沿いのキロポストには、「246 三宅坂まで80km 山北町山北」と。左側の中腹には新東名高速道路の工事現場。令和9年度(2027)の開通を目指して工事中の ”高松トンネル西側” をズームアップ。手前下は東名高速道路の防音壁。国道246号の前方は松田山。15:35国道246号を走りいつも見る看板「山ちゃん」。前回立ち寄ったが16時で閉店時間であった。この日は閉店前であったので立ち寄ることに。山ちゃん所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原 1823-1地元農家の方がとれたての野菜を販売している。営業時間:9:00 ~ 16:00 定休日:月、木曜日?売店のおばあちゃんから勧められ採れたての大きいタケノコを2,000円/個で購入。ぬかもつけて頂き帰宅後茹でて2軒で食した。15:50国道246号の桜観音前交差点信号手前左の ”桜観音堂” のサクラが綺麗に咲いていたので急遽立ち寄ることに。ここには今年1月18日(木)に”松田寄ロウバイ”の帰りにも立ち寄った。長谷観音寺 (桜観音)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035前回と同じ場所に車を停め国道沿いから境内へ入いる。境内はサクラの花びらで絨毯状態。境内のしだれ桜が満開。長谷観音寺前へ進む。境内には石碑等があったが今回はサクラのみを追った。サクラの絨毯。長谷観音寺前から振り返る。左下は国道246号が走る。前回入らなかった裏側の墓地へ上がる。墓地に建つ「宝寿聖観音」。台座に「宝寿聖観音 納骨堂」と。長谷観音寺裏から酒匂川を望む。長谷観音寺の裏。宝寿院 (ほうじゅいん)を望む。宝寿院、長谷観音寺(桜観音)、については「足柄上郡の寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。16:25長谷観音寺から国道246、255号、県道72号線、国道1号を走り、橘インター入口交差点から西湘バイパスへ入る。自宅へは17時に到着。この日の歩行数は、12,250歩であった。今日一日、松田町寄五大しだれ桜を堪能した日であった。全国の観光地ではオーバーツーリズムが問題になっているが、今日一日外国人には一度も会わなかった穴場である。 END
2024.05.11
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ここ最明寺史跡公園は1月に「松田町寄ロウバイ園」の帰りに立ち寄った時は誰もいなかった。史跡公園は、毎年4月上旬になると「ソメイヨシノ」や「花桃」などたくさんの春の花が咲き乱れる、知る人ぞ知る花見の名所であることを知り2度目の訪問。4月10日(水) 14:05途中の駐車場に車を停め、歩いて公園へ下る。最明寺(さいめょうじ)史跡公園所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近で、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。この日は4月10日の「最明寺例祭」で関係者等の多くの車が停まっていた。最明寺史跡公園 管理事務所表札は逆書きになっていた。また入口横には公衆電話が設置されていた。最明寺史跡公園案内図■ 最明寺跡 人里はなれた山中で、密教の奥義を追求した真言宗の名刹として、鎌倉時代の承久三年(西 暦1221年)松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地 に建立したものである(当時は西明寺)。 その後、文明元年(西暦1469年)となりの大井町金子に移転しており(現最明寺)なぜ移転し たかなど謎も多い。 毎年4月10日には、庶子地区の信徒により「施餓鬼会(せがきえ)」(供養の行事) が盛大に 行なわれ、極めて仏縁の深い地である。最明寺史跡公園 花マップ春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはいろんな種類のサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩ります。野鳥がさえずる散策路を歩き池をひとめぐりすれば、心が解き放たれるような不思議さを覚えますと。サクラの種類も、咲く時期が異なるオオシマザクラ、河津桜、寒緋桜、おかめ桜、紅しだれ桜、ソメイヨシノ、関山、大寒桜、手弱女、ウコン桜、楊貴妃、東錦、気多白菊桜と多種である。山の斜面が白く染まっていた。管理人?の方がオオシマザクラが数十本植えられていると。1月に訪れた時は河津桜が数輪咲いている程度であった。池の周りのいろんなサクラが満開になっていた。南側広場の八重紅しだれも満開に。広場にはテーブル席もあり宴会中であった。いろんな色のサクラが咲き、池の対岸にはこれから咲く「ウコン桜」が数本あると。紅白の花桃であろうか。湖面に浮かぶ花びら。八重紅しだれも咲く。傾斜地に咲くオオシマザクラ。湖畔の木は開花前のウコン桜。頭上を見るとモミジの花が咲いていた。満開の八重紅しだれとソメイヨシノ。鮮やかな菊桃と花桃が満開。ズームアップ。赤い菊桃をズームアップ。キクモモはバラ科サクラ属の落葉小高木でモモの1品種。名前は、花弁が細長くキクに似ていることに由来する。別名はゲンジグルマ。 濃い紅色の八重咲き。花期は3月下旬から4月上旬ごろ。江戸時代に中国北部より渡来し観賞用に改良され、現在に至る(ウィキペディアより)。初めて見た菊桃、右に八重紅しだれ。菊桃を見上げる。花桃と菊桃の競演。これから咲く幹に「欝金(ウコン)」と。オオシマザクラ系のサトザクラであり、江戸中期以前に人の手によって作られた品種と考えられている。花弁が香辛料で知られるウコン(鬱金)に似た萌黄色になることからウコンザクラと名付けられた。黄色い花を咲かせる唯一のサクラであり、清酒「黄桜」はこの花にちなむと。対岸に八重紅しだれと手前にウコン桜。急斜面にオオシマザクラが咲く。公園からハイキングコースの斜面を上がって行くと富士山や相模湾も見渡せると。満開の八重紅しだれの水鏡を期待したが。手前左側の幹には「関山(カンザン)」と。関山は東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種です。花色が濃紅色で美しく、生育もよいので海外でも広く栽培されています。また、お祝いの席で出される桜湯にはこの花の塩漬けが多く用いられている。八重紅しだれが満開に。湖畔に咲く八重紅しだれ。最明寺史跡公園の西側に「鐘楼跡」があるので行きたかったが。木の根元に倒れた案内板、「寄自然休養村 1時間30分 松田山入口 40分」「最明寺史跡公園 3分」。 八重紅しだれが水鏡に。さざ波が立つ湖面に八重紅しだれの水鏡。満開の八重紅しだれの下を散策。八重紅しだれの樹齢は何年であろうか。ソメイヨシノに比べ成長が遅いのでは。スマホで撮影。多くの人が訪れていた。スマホで撮影八重紅しだれと後方の山にオオシマザクラ。幹に「八重紅(ヤエベニ)しだれ」と。幹の苔から樹齢は・・・。八重紅しだれをズームアップ。公園入口の管理棟の横に数台の駐車場。スマホで撮影最明寺護摩堂跡覆い屋の下に平成六年に寄進された石碑。この日は4月10日で「最明寺例祭」が行われたのか紙垂で飾られていた。綺麗な花も供えられていた。最 (西) 明寺跡の由来伊豆山の別当浄蓮上人源延は、夢のお告げを受け、信州善光寺の一光三尊善光寺如来の尊像を模写して越前の仏師海縄にたのんで金銅の仏像を鋳造して承久三年(1221)松田の郷庶子山に安置し、寺を西明寺といった。源延は源頼朝の重臣加藤左衛門尉実長斎といい、出家して、天台の澄憲の門に学び、のちに伊豆山の別当となって活躍した。第二位覚阿上人円浄の時に最明寺入道北条時頼は、善光寺如来を深く信仰し、寺領一千五百石を寄進したので、この時寺門は隆盛であったと伝える。応仁・文明の戦乱のため、最明寺は次第に衰えた。文明年間、鎌倉八正寺宮尊賢親王は、弟子の賢昌を住持として寺の復興を計ったが、山道険しく、人ともに困難であるため、寺を金子の郷に移した。庶子山西明寺の田地は、庶子村の信徒にまもられ、数百年の間、毎年四月十日の 施餓鬼会と善光寺如来の戸ごとの巡行供養が行われてきた。その後、松田町庶子戸主会、現在の庶子自治会が継承して昭和の今日に至っている。 昭和六十三年十月吉日 松田町教育委員会一段高いところにいくつもの石仏。14:25八重紅しだれとオオシマザクの競演である。 ー 続く ー
2024.05.10
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虫沢のしだれ桜を見た後、Googleマップでチェックしていた箇所が今朝一番に訪れたかつての萱沼村にあることがわかり寄からの返る途中再度訪れた。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた ”寄村”。その七つの村とは萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。その寄村も、昭和30年(1955)に松田町と合併して名前は消えた。このため今日訪れた「寄五大しだれ桜」の住所は全てが「松田町寄」となっている。名残りとしてかつての村名が ”五大しだれ桜” の名として残しているのであろうか。4月10日(水) 12:45県道710号線(神縄神山線)を南下、富士急バス停「萱沼入口」。萱沼地区はここを左折して小田原ゴルフ倶楽部松田コース場方面へ上る。バス停から坂道を上ると”小田原ゴルフ倶楽部松田コース”のコース間の橋。車窓の左側に朝見た ”萱沼(かやぬま)のしだれ桜” 。萱沼のしだれ桜から更に進むとスマホで「目的地に到着」と。馬頭観世音 (文字塔/擁壁上)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄?番地見上げると民家の庭先にしだれ桜、古木の欅であろうか聳えていた。民家の擁壁を見ると ”馬頭観世音の文字塔”。道路整備時にここへ移設されたのであろう。先程訪れた虫沢地区にもあった。擁壁の中に「馬頭観世音」。近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものであると。更にゴルフ場への道を進むと、今度は擁壁の上に。ズームアップすると「馬頭観世音」と。なお、ご利益は、無病息災、動物救済、厄除け、旅行安全のご利益があるとされている。更に進むと三叉路にバス停「萱沼上」。傍にポスト、石碑も。記念碑此ノ萱沼部内ヲ通ズル道路ハ古ヨリ大雨ゴトニ人馬ノ往来殆ド杜絶シ住民不便ヲ感ジ幾度カ改善ヲ試ミラレタル〇其ノ〇容ラ〇ク○得○○○今回住民ハ村長ノ提案ニ賛同シ更ニ道路○○○ノ○○○○ノ篤志ニ依リ協力一致昭和五年八月起工シ翌春三月竣功ス而シテ総工費五千圓内縣補助二千四百円ヲ以テ積年ノ希望ヲ達成シタレハ将来洵ニ便〇ナラント云〇昭和六年三月 寄小學校長 安藤庫之助 撰〇書 〇起人 寄村長 安藤溝十郎 村會議員 石井奥 助 世話人 區 長 安藤林之介 石井新次郎 副区長 安達安兵衛 飯山惣次郎 工事設計〇土木技手 〇 廣 吉 安藤源次郎 工事監督者 神部北之助 野口政 吉更に坂道を進み、萱沼地区の最奥部に。突き当りに「小田原ゴルフ倶楽部 松田コース」の看板。看板前から上って来た道を振り返る。クラブハウスへの道には満開のサクラ並木。ソメイヨシノの花びらが絨毯の如くに散っていた。ゴルフ場入口から折り返すと道路脇に石碑。石碑には「堅牢地神」であろうか。石碑の裏面には、世話人の名前が刻まれていた。ここにも安藤、石井の名字がありこの辺りの名主であったか。次に訪れたのがGoogleマップに載っていた「子乃神社」。道路脇に案内板がなく車を道路脇に停めて探す。スマホの案内で路地を入り正面に階段。階段下から振り返る。子乃神社所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄?番地萱沼を見下ろす傾斜地に建ち南東方向を向く神社である。説明板がなく詳細は不詳。Googleマップ上では萱沼には他に神社がないので村の鎮守であろう。社殿前のスペースがなく鳥居も社殿前に建っている。社殿の左側に石祠。境内に北側、ここまで車で来れたようだが途中の道が狭い。北側の道を進むとかつての中山村?にある「福昌院」へ。子乃神社から戻る途中の民家の庭先に咲いていた紅白の花桃であろうか。断りもなく撮影したが。道路へ戻り ”子乃神社” を振り返る。この道は普通車にとってギリギリである。萱沼地区を後にし県道へ向かう。右側車窓に ”萱沼のしだれ桜” を見納める。13:15萱沼地区の目的地を見、県道710号線(神縄神山線)へ戻り、正面に富士急バス停「萱沼入口」。富士急バス停「萱沼入口」から南下、次の目的地「最明寺史跡公園」へ向け国道246号を走る。ここを右折して山道へ。国道246号沿いには”チェックメイト・カントリークラブ” の案内板。国道246号からの山道は九十九折、サクラ並木の間から東の方向が開けたので駐車。スマホで撮影、知人へ送信。東方向には ”大山”、”塔ノ沢” が見えていた。手前の山にはいくつかのゴルフ場。新東名高速道路の新秦野料金所から出た国道246号との立体交差をズームアップ。山道を上りきりヤシの木が立つチェックメイト・カントリークラブ入口。チェックメイト・カントリークラブ所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領 3033-1松田山の山頂という抜群の立地に広がる会員制ゴルフコース。四季折々の表情も豊かな富士山や、相模湾沖に浮かぶ島々の絶景を一望できる絶景のロケーションである。ただし、スコアーが良ければだが。クラブハウスでくつろぐ上質なひとときも、心ゆくまでご堪能できると。この日も多くの車が停められていた。チェックメイト・カントリークラブ前から、最明寺史跡公園への道路。最明寺史跡公園への道路脇には数多くの”松明の台”が並んでいた。この辺りは松田山の頂上部で車の量も少なく、サイクリングコースになっている。右前方から自転車が突進。13:55西方向に富士が顔を出していたので道路脇の駐車スペースに車を停める。菜の花とのコラボ。この日は気温も高く時間的に多少霞んでいたようだ。今朝一番にここへ来るべきであったか。酒匂川の右側には山北町が広がる。カメラの露出が難しい。カメラを左に振ると、右側に標高870mの矢倉岳、中央に標高1212mの金時山。手前下には、旧アサヒビール神奈川工場跡地、南足柄市運動公園が広がる。酒匂川の左側には足柄平野が広がる。この辺りは今後の散策コースに。かつては暴れ川と言われた酒匂川の ”文命堤” 辺り。旧アサヒビール神奈川工場跡地(右側)辺りをズームアップ。手前の足柄平野には開成町の「あじさい公園」もありここも今後の散策コースに。酒匂川の下流を望む。酒匂川沿いには足柄平野が広がり遠く真鶴半島が望める。酒匂川には多くの橋が架かっている。上流側から新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、更に下流に足柄大橋。県道78号線(御殿場大井線)の足柄大橋をズームアップ。高層ビル群は小田急小田原線開成駅前の集合住宅 ”開成庭園の杜パレットガーデン” 。ここは富士を望む絶景ポイントである。早朝の朝焼け、夕焼けも良いのではと。13:55足柄平野を見下ろし、次の「最明寺史跡公園」へ。スマホで撮影。 ー 続く ー
2024.05.09
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”虫沢のしだれ桜” を目指したが、その前に1月に見落とした道祖神めぐりを行なうことに。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 12:05前回は山側を走って来たが今回は虫沢川に沿って上って来た。目的地の傍に車を停め虫沢川の下流を望む。ほうき桃をズームアップ。手前には野鳥の巣箱が設置されていた。庚申塔・馬頭観音・石仏所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 5995かつての虫沢村にある石仏群で花ダイコンに囲まれていた。庚申塔・馬頭観音・石仏で今でも供え物があった。虫沢川に架か虫沢橋。12:15寄虫沢向組双体道祖神所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6130先程の石仏から上流にある道祖神で道に迷いながらどうにかスマホの案内で到着。擁壁の壁の中に設けられた道祖神だが道路拡張時に擁壁中になったのであろう。双体道祖神の前を流れる虫沢川。ソメイヨシノも満開で風に煽られて散っていた。橋の名は、”長寿橋” と。長寿橋から虫沢川の上流側を望む。ここにもしだれ桜が植栽されていた。寄五大しだれ桜5番目の「虫沢のしだれ桜」へ向かう。12:25虫沢地域集会施設所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6430平成23年(2011)4月23日(土)に虫沢地域集会施設の完成落成式が開催された。この新集会施設は、神奈川県産の木材を使用し、木の香りをほのかに感じる、暖かい造りとなっています。また、耐震性に優れた建物となっており、今後は、虫沢地域の防災拠点として、重要な役割を担っていきますと(まつだ広報より)。広いスペースがあり車を停めさせていただいた、右側には電話ボックスもあった。広場に石碑が建っていた。記念碑石碑を撮影するも判読できなかった。集会所に車を停めスマホの案内で進むとひと際大きいしだれ桜が目に入った。虫沢のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6433これも民家の庭にあるのか大きなしだれ桜が聳えていた龍王寺の近くにあり周りは畑等に囲まれており、のどかな春の風情を満喫できる。北側の民家の庭先ではご婦人たちが談笑しておられた。ちょうど昼時で花見酒でも・・・。満開のしだれ桜を見上げる。どこのしだれ桜もピンク色が良かった。散り始めていた。道路脇にあった墓石は ”馬頭観音” であろうか。ここも説明板がなかったが、”松田町寄五大しだれ桜”と呼ばれるだけに説明板が欲しい。種類はエドヒガン (シダレザクラ) のようだが、樹齢、樹高、枝張り等。電線が入らないようにするが。一日で「松田町寄五大しだれ桜」を巡ったが、”宇津茂のしだれ桜” を除いて満開で堪能した。願うならば、「寄しだれ桜まつり」が三日間だけというのはもったいない感がするが。かつての寄村にはいたるところに”しだれ桜”が植えられており町おこしの一環に!係の方の計画、実施等が大変であろうが。また、古木になると根回りの養生も必要になり桜守も大変になる。既にしだれ桜の幹には他の木も絡み、手入れが必要かと。車のウインドーに映えるしだれ桜。五大しだれ桜の見納めに見上げる。駐車料金、花見も無料であった。ロウバイの時は入園料が500円であったが。”虫沢のしだれ桜” から駐車場へ、正面の山はタケ山(710m)であろうか。民家の庭先でライラックの花が咲いていた。タケ山(710m)はハイキングコースになっている。ライラックをズームアップ。虫沢地域集会施設へ戻る。集会所前にご婦人がおられ何か言いたそうな顔つきで、「無断で駐車してすみません」と謝るが、「さっき人の家の花を撮影しておられたが家主に断った方がいいのでは」と。家主が庭先におられたら撮影の許可を願うが、誰もおられなかったのでわざわざブザーを押すのもと思いながら、取り敢えずご婦人に謝ったが。12:35いろいろと考えながら、龍王寺の門前下を下る。 ー 続く ー
2024.05.08
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土佐原休憩施設から土佐原遊歩道を下る。4月10日(水) 10:45寄土佐原道祖神から林道へ下り立ち県道へ向かって下る。林道沿いに民家があったが空き家状態になっていた。林道を下ると道路脇の壁面に石仏、洞。石仏脇には覆い屋の下に旗らしきものがあったが。ズームアップ。菊が供えられていた。石仏の直ぐ先に、覆い屋の中に石祠があった。中には石祠と狐が多くあった。下ってきた林道を振り返る。宅急便の車が来たが静かでのどかなものだったこの木もしだれ桜か見とれていると、この先は民家とのことで折り返す。民家の庭先でタケノコを採った人が「今年のタケノコは遅い」と。購入したかったのだが、豊作ならもらえたかと。しだれ桜を見上げる。古木の先は切断されていたが新芽が伸び咲いていた。幹まわりを見ると相当な樹齢を感じるが。この辺りの裏山に「土佐原のしだれ桜」がある。林道沿いに新しい建物の ”土佐原地域集会施設” があった。トイレの表示があったが施錠されていた。引き続きマイナスイオンの多い林道を下る。林道沿いの斜面に ”マムシグサ (蝮草) ” がたくさん芽吹いていた。マムシグサとはサトイモ目サトイモ科テンナンショウ属マムシグサ種の多年草です。別名:マムシソウ(蝮草)、カントウマムシグサ(関東蝮草)、ムラサキマムシグサ(紫蝮草)。よく似たもので ”ムサシアブミ (武蔵鐙) ” があるが。ズームアップするが。秋にはつぶつぶの赤い実をつける。こちらの斜面には幹に苔が付いた古木の栗の木が聳えていた。枝先をズームアップすると落下しなかった栗の実。民家、人影のない林道を下りようやく県道710号線(神縄神山線)へ。この先を右折して車を停めている、”みやま運動広場” 向かう。正面の建物は ”宇津茂地域集会施設” 。この辺りの集会所の呼び名は「地域集会施設」と。手前右側の穴は?。石垣の一画を掘られていた。洗い場かと思ったが。県道脇にあったマップ(現在地は赤丸)。このマップ内にも ”地域集会施設” が7カ所ある。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。宇津茂地域集会施設の向かい側に寄郵便局。寄郵便局から県道710号線を北上してみやま運動広場へ。ソメイヨシノは満開で散り始めていた。ソメイヨシノも花の蕊が赤くなり終盤に。寄自然休養村管理センター西側のバス停「寄」広場のソメイヨシノも満開。11:15みやま浜膳寄自然休養村管理センター内にあるお食事処。まだ12時までには時間があったが、9時20分に歩き始め2時間歩いたのでお腹が空き昼食をとることに。入口には「まぐろ丼」の幟旗も。店内は広く寄自然休養村管理センターへの宿泊者の食堂にもなっているようであった。おすすめメニューは ”みやま浜膳” であったようだがメニューも見ず、好きな ”天丼” をオーダー。海老が2匹入った天丼 1,000円 (税込)。タラの芽も入り美味しかった。食事を終え太陽に輝くサクラの花びら。寄自然休養村管理センター前にあるオブジェ。オブジェの台座に「やどりきの塔 寄自然休養村の地 平成九年 ○○町長」と。寄自然休養村管理センターの2階は宿泊施設になっている。センターの前にオブジェの「やどりきの塔」が建つ。この後、車を停めていた ”みやま運動広場” を出発して次の目的地へ。11:50中山のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3308民宿「せど」の目の前にある大きなしだれ桜。県道沿いの土手の上にあり、満開の時期を迎えると空から桜の花びらが舞い降りてくるように見え、あまりの美しさに桜の木の下で立ち止まり思わず目を見張ってしまう。寄五大しだれ桜の4番目の ”中山のしだれ桜” 。駐車場が見当たらなかったので民宿「せど」の脇に車を停めさせていただき散策。県道710号線を北上してくると曲がり角の先の土手の上に聳えておりビックリする。下から見上げるが、多くの電線が横切る。土手の上に上がり、満開のしだれ桜と菜の花を望む。樹齢、樹高等の詳細は不明。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)墓石があったが個人のものであった。満開のしだれ桜を見上げるが樹高は約20mと高木では。中山のしだれ桜の先にGoogleマップで道祖神があったので坂を登る。民家の角地に古い道祖神であったか。ガラスコップが一つ置かれていた。道祖神から車を停めている民宿せどへ下る。二本のしだれ桜が聳えていた。このロケーションでも電線が上空を走り、工場の看板も・・・。上空を見上げれば二本のしだれ桜の枝が覆う。12:00”中山のしだれ桜” を後にし5番目の「虫沢のしだれ桜」へ。 ー 続く ー
2024.05.07
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”松田町寄ロウバイ園”の上にある寄展望台から今日の目的地「土佐原のしだれ桜」へ下りる。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 9:55土佐原遊歩道入口に立つ案内板。土佐原遊歩道から ”満開の土佐原のしだれ桜” を見下ろす。この絶景をスマホで撮影、知人へ送信。狭い坂道を下り民家の庭先に。ここは1月にも訪れており今回が二度目である。下の道からは右側を登ってくる。土佐原のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3571宇津茂農道側に建つ民家の庭先に見事な桜の木がある。樹齢約250年とも言われる寄を代表する大きなしだれ桜である。庭先にはテーブル、椅子が用意されていた。しだれ桜は樹齢約250年になり枝には添え木。樹高12m、枝ばり14m、幹回り2.5mで「寄五大しだれ桜」では最も古いしだれ桜である。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)満開のしだれ桜と菜の花とのコラボが素晴らしかった。10時頃であったが民家の方もおられず独り占めした空間であった。猫の目視線で見上げる。頂上部は枯れているのか。幹をズームアップ。満開のしだれ桜。しだれ桜の根元には石祠が置かれていた。しだれ桜をズームアップ。庭先にはミツバツツジも咲いていた。出来れば民家の方と”しだれ桜”について話をしたかったのだが。ロウバイの新芽と丸いのは実であろうか。誰もいなかったので約15分ほどの滞在で ”土佐原のしだれ桜” を後にした。土佐原のしだれ桜の裏山に登り見下ろす。ほうき桃とのコラボ。急な坂を登り土佐原遊歩道へ戻り、土佐原のしだれ桜を見下ろす。土佐原遊歩道を進み、路面にサクラの花びらが散っていた。急なカーブを曲がると目の前の斜面にしだれ桜が咲き乱れていた。絶景だ!今年も行けなかった甲府盆地の桃源郷を思い出す景観だ。土佐原休憩地に広がるしだれ桜。斜面に、ハナカイドウも咲き始めていた。ハナカイドウの科名 / 属名は、バラ科 / リンゴ属。ハナカイドウは一般に「カイドウ」とも呼ばれて、日本では広く北海道南部から九州まで栽培されています。リンゴと同属の落葉果樹で、原産地の中国でも古くから栽培され、その花の美しさは、中国の唐の玄宗皇帝が酔って眠る楊貴妃をハナカイドウにたとえたように、昔から美人の代名詞として使われるほどです。4月から5月の庭に新緑が目立ち始めるころに枝を埋めるようにして咲くピンク(淡紅色)の花が目に鮮やかですと。ズームアップ。土佐原休憩施設所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3563施設に「土佐原休憩施設 平成2年度 新農村地域定住促進対策事業」と。土佐原遊歩道の上に建つ施設で建屋には上らなかった。トイレ施設があったか。斜面に咲き乱れるしだれ桜。傾斜地には、茶畑が広がっていた。茶畑が多かったがブランド名は?土佐原遊歩道の西側。土佐原休憩施設の下に数台の駐車スペースであったか。土佐原遊歩道下の斜面。自然遊歩道土佐原路線案内図 延長726m案内板には、鍋割山方面表丹沢県民の森 3.5km 1時間15分土佐原しだれ桜 0.4km 10分 寄自然休養村管理センター 1.2km 30分この先に”道祖神”があったのでスマホの案内で土佐原遊歩道を進む。遊歩道脇の斜面に朝露が付いたスミレが咲いていた。名前はわからないが。スミレは春先に可憐な花を咲かせる。シャガも咲いていた。根が広がり群生地を作るシャガである。ズームアップ。振り返ると斜面にピンク色のしだれ桜が聳える。ハナカイドウにも朝露。ズームアップ山野草が咲く道路脇の斜面に ”イチリンソウ” の群生地があった。イチリンソウの科名 / 属名は、キンポウゲ科 / イチリンソウ属(アネモネ属)。イチリンソウは本州から九州の野山に生える代表的な「春植物」で、人里でも見られ、春に咲くかわいらしい白い花は多くの人に愛されている。道を間違えた先にもしだれ桜が聳えていた。寄五大しだれ桜に負けじと聳えていたが。ここでも電柱・電線が景観を損なう。道祖神を探してスマホの案内で進むが近くに来てもそれらしきものがなく。ちょうど散歩中のご婦人がおられ聞くと「この上です」と。寄土佐原道祖神道路から数十メートル上ると廻りをきれいに清掃された広場に道祖神があった。双体道祖神は覆い屋の下に並べられていた。道祖神の前にはお供え物もあり、広場も整備されていたので集落の方の信仰心が伺える。10:45林道への坂道の除草をしている人がおられたが挨拶をしても。下の林道沿いの家は空き家に。 ー 続く ー
2024.05.06
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寄五大しだれ桜の「宇津茂のしだれ桜」の後は3番目の「土佐原のしだれ桜」を歩いて訪れる。今はもうない集落の名は、寄村。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 9:15寄自然休養村管理センター周りのソメイヨシノは満開。ソメイヨシノは満開で散り始めていた。寄自然休養村管理センター前から ”松田寄ロウバイ園” を見上げる。寄自然休養村管理センター受付管理センターは寄地区の観光に関するパンフレットを扱うほか、「寄テニスコート」、「みやま運動公園」などのスポーツ施設の予約、手続き、受付を行っている。また、宿泊施設と食堂が併設されており、地元のとれたて野菜や手作り品などの販売も行っている。2階が宿泊施設になっている。寄自然休養村管理センター内に飾られている「松田町寄五大しだれ桜」。9:25”寄(やどりき)しだれ桜まつり” が開催される3/24(日)、30(土)、31日(日)はバス停「寄」から土佐原のしだれ桜まで送迎車が運行(片道300円)された。その日以外は”みやま運動広場”から歩いて約18分。水・食料をリュックにいれ歩いて登ることに。今年1月の ”松田町寄(やどりき)ロウバイまつり" の時も歩いて登った。正面の傾斜地は ”松田町寄ロウバイ園” 。廻りには茶畑も広がっている。右上が”寄展望台”で、土佐原のしだれ桜はその向こう側にあるのだが開花状況は・・・。ロウバイ園の周りにはしだれ桜が咲いていた。遊歩道から寄集落を見下ろす。右側は咲き終わったロウバイ。ロウバイが芽吹いていた。我が家でも今年種を蒔いたが発芽率は3/9であった。何年後に花が見れるか楽しみだが。松田町寄ロウバイ園の入口へ到着。”しだれ桜まつり”も終わり人影もなく閑散としていた。左の建屋には ”やどりきかあさんの店” があるのだがロウバイまつりの時だけの営業か。松田町寄ロウバイ園ムスカリが咲いていた。ロウバイ園の出店横に2本のしだれ桜が満開になっていた。ロウバイ園の遊歩道脇にはレンギョウも綺麗に咲いていた。遊歩道から ”みやま運動広場”、介護施設の ”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ” を見下ろす。中津川沿いにはしだれ桜並木が満開。更に遊歩道を上り、レンギョウに絡まったこのつる性の花は ”あけび(木通)” であろうか。まだ時間が早く花には露がついていた。更にズームアップ。更に上部から先程の ”みやま運動広場”、介護施設の ”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ” を見下ろす。中津川の両岸にしだれ桜並木。満開のしだれ桜並木をズームアップ。ロウバイ園の遊歩道を上るが他の人の人影はなく。南側の傾斜地には咲き終わったロウバイと満開のしだれ桜。遊歩道の北側斜面にはしだれ桜。遊歩道を上り振り返る。サクラの木の根元に「平成十七年度 宝くじ桜植栽地」の石柱。数年後にはロウバイに続いて ”しだれ桜まつり” がもう少し長く行なわれるのでは。平成十七年(2005)に、宝くじ桜植栽が行われてから約20年。傾斜地には20年経たない若木も植えられている。9:50寄展望台へ到着。撮影しながら登ったので約25分を要した。展望台から寄集落を見下ろす。しだれ桜、ソメイヨシノが満開。右に ”寄自然休養村管理センター” 、左側に車を停めている ”みやま運動広場” を見下ろす。”寄自然休養村管理センター”、手前にはロウバイ園の売店。ズームアップ。展望台のベンチに座りのんびりしたかったが上着を脱ぎ水を一杯飲んで目的地へ出発。展望台からの東側の斜面にしだれ桜が咲き乱れていた。いろんな色のサクラが咲き癒してくれる空間である。絵になる画題であるが。菜の花とのコラボもまたきれい。このエリアには民家が数軒あったか。東側の下を見下ろすと目的地の「土佐原のしだれ桜」が満開であった。ズームアップ。1月にもロウバイの撮影で訪れた。9:55遊歩道から下り「土佐原しだれ桜」への入口。 ー 続く ー
2024.05.05
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萱沼しだれ桜の次はこれも寄五大しだれ桜のひとつ「宇津茂しだれ桜」へ。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 8:35萱沼のしだれ桜から数百メートル下り県道710号線(神縄神山線)と合流。ここを右折して北上、次の目的地「宇津茂のしだれ桜」へ向かう県道710号線を北上、宇津茂のしだれ桜への途中左折して中津川沿いへ。田代公衆トイレ所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄橋は中津川に架かる田代橋。小さな広場にとんがり帽子型のトイレ施設がありここへ駐車。ここから上流側の両岸にしだれ桜が植栽されている。まだ若木だが満開のしだれ桜。朝日を浴びてピンクが映える。この辺りのしだれ桜は満開で見頃であったようだ。鍋割山を源流とする中津川の上流側。川面から反射して。逆光で丘の上のサクラの後方には1月に参拝した高根神社がある。二本のサクラが見事に咲いていた。白色は満開のソメイヨシノであろうか散り始めていた。丹沢山系からの水量が多い中津川。田代公衆トイレ周りのしだれ桜を後にする。8:50寄弥勒寺双体道祖神所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄1782福昌院の裏手にある道祖神で、前回見落としていたので訪れた。双体道祖神を中央にいくつかの五輪塔が並べられていた。左側には「馬頭観世音菩薩」。曹洞宗 福昌院 (ふくしょういん)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄1781福昌院の境内入口に立っていた観音像。1月に参拝しているが再度参拝した。境内の北側から本堂前へ入る。本堂の扁額「少林山」。本堂前で石楠花が綺麗に咲いていた。いつの間にか石楠花の咲く時期に。ズームアップ。水鉢にはスイレン。境内から民家に咲くサクラを望む。山の稜線も綺麗に見えるが山の名は?。山門から本堂を望む。車を左手に止め県道710号線(神縄神山線)へ。河戸川(かわどがわ)に架かる少林橋。山門を振り返る。県道710号線(神縄神山線)の左側に石碑があった。石碑には「記念碑?」と。読みずらかった、「○○路線〇当〇寄村道・・・・・ 結ぶ唯一の道路であったが昭和三十一年に○○○○〇 ○○○野峠を経て隣村神縄へ通ずる道路として神 縄○○○○○○県道として○○○された。 ○○当地に至る間延々八村九十九所の悪路も局部 改良により昭和四十一年より大型バスの乗入れも実 現され至難とされた当弥勒寺部落内の○○道路も 交通〇策事業に○○○昭和四十年度より拡張工事に ○○同四十三年三月無事完成し交通安全の目的 が達成され関係者〇しく感謝の〇を表し此処に記 念碑を建つ」と。県道710号線(神縄神山線)沿いに建つ案内板には「曹洞宗 少林山 福昌院」と。県道から参道を戻り、正面に苔むした階段の上に山門。山門は江戸時代中期に建立され、寄地区で現存する最古の木造建築といわれている。境内には天気が良かったので天日干しの座布団。ミツバツツジが綺麗に咲いていた。深紅の石楠花も。9:05寄みやま運動広場所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3111寄自然休養村管理センター前にある駐車場で、今回もここへ駐車(無料)して散策することに。まず向かったのが、宇津茂しだれ桜。左側には台車に載せられた車。中津川に架かる大寺橋から見下ろす。残念ながら寄五大しだれ桜のひとつ「宇津茂のしだれ桜」は満開を過ぎていた。しだれ桜の袂に説明板がないので種類がわからないのが残念。宇津茂のしだれ桜大寺橋のたもとにある推定樹齢80年の大きなしだれ桜です。満開の時期を迎えると、中津川のほとりに「滝」があらわれたかのごとく、桜の枝から花々がほとばしり川面へ流れ落ちるように咲く姿が見られますと。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)樹 齢:推定80年大寺橋の上から東方向を望む。寄自然休養村管理センター周りのサクラが満開。中津川の上流側。右側は県道710号線(神縄神山線)で山道を登り、丹沢湖へと至るのでいつかドライブしたい。宇津茂のしだれ桜はピークを過ぎていたが、しだれ桜並木は満開。ズームアップ。右側には「ホタルの里」がありここにもしだれ桜が植栽されている。河川敷に下り桜並木を見上げる。下流側数百メートルに田代橋がある。中津川沿いには約1キロに渡って、約220本のしだれ桜が植えられており、美しいしだれ桜並木を見ることができる。9:15大寺橋の下流側から ”宇津茂のしだれ桜” を見る。 ー 続く ー
2024.05.04
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今年1月18日(木) に「松田町寄のロウバイ」を見に行った時、「五大しだれ桜」を知り、その時、しだれ桜の見頃は4月上旬と聞いていたので数日前に松田町観光案内所へ開花状況を問い合わせ愛車のノートで出かけた。寄(やどりき)しだれ桜まつり開 催 日 :3/24(日)、30(土)、31日(日)開園時間:午前9時 ~ 午後4時土佐原のしだれ桜は樹齢250年とも言われ、淡紅の花が天から降り注ぐかのような雄大さがあります。また、近くを流れる清流・中津川沿いには220本のしだれ桜並木があり、桜を愛でながらの散策やハイキングも楽しめる。土佐原のしだれ桜 別名 みやま淡彩桜(たんさいざくら)寄五大しだれ桜は、① 土佐原、② 萱沼、③ 宇津茂、④ 虫沢、⑤ 中山、で主役は ”土佐原のしだれ桜” 。4月10日(水) 7:35菜種梅雨で3月末の天候が不順であったので、天気が良かったこの日に出かけた。今回も圏央道、新東名高速道路を利用することに。圏央道から新東名高速道路へ進む。新東名高速道路の先には富士山が見えていた。厚木南インタ出口まで1km。厚木南インタ出口。前方は、長さ3,855mの高取山トンネル。高取山の手前の山には山桜が咲く。車内のカーナビ長さ2,906mの羽根トンネルを出たらそこは秦野市の ”秦野丹沢スマートインタ出口” 。前方は、長さ666mの小原トンネル。トンネルを出ると終点の ”新秦野・松田インタ” 。 小原トンネルを出ると、山の上に ”小田原ゴルフ倶楽部 松田コース” がある。新秦野インタ出口。この先は3年先の令和9年度 (2027年度) の開通を目指している。右側のトンネルは既に完成している上り線1,358m、下り線1,351mの萱沼トンネル。7:55新秦野料金所自宅から約40分で到着。新秦野料金所から国道246号へ向かって更に下る。左車線は伊勢原・秦野方面。直進すると国道246号を走り東名高速道路の大井松田インタへ5km。この先の ”寄入口交差点” を右折。寄入口交差点から県道710号線(神縄神山線)を北上。松田事業PR館手前の道路脇に車を停。める。県道の眼下には令和9年度(2027)の開通を目指して工事中の ”高松トンネル、中津川橋” 。高松トンネル工事は軟弱地盤等で最難関工事と言われ、2020年度、2023年度、そして現在は2027年度と何度も繰り延べられた。道路脇のサクラが満開であった。更に車を進め前回停めた ”松田事業PR館” 傍に車を停める。工事中の高松トンネル、中津川橋を見下ろす。高松トンネルが完成すると長さが上り線2,851m、下り線2,864mになる。高松トンネル坑口の下り側(左)が上り側に比べて大きくなっている。中津川橋の本来の橋脚の基礎を施工するはずの岩盤が、破砕地盤で複数の非常にもろい地質によって構成されていたことが判明し、やむなく橋脚の基礎の位置を安定強固な位置へずらした結果、トンネルの中に橋台を設置する必要が出て、トンネルの開口部を大きくすることになったとのこと。8:10朝の朝礼も終わり工事開始でトラックが工事現場へ下りる。新東名高速道路 松田事業PR館【予約制】所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄萱沼入口高松トンネルと中津川橋の工事について、建設現場を間近に見ながら解説をして頂ける。松田事業PR館を後にし最初の目的地「萱沼(かやぬま)しだれ桜」へ向かう。ここ県道710号線(神縄神山線)の萱沼入口を右折。入口に「小田原ゴルフ倶楽部松田コース 右折1km」の看板。今はもうない集落の名 ”寄村” は、明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。その七つの村は萱沼(かやぬま)、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。昭和30年(1955)に松田町と合併し、寄村の名前は消えたと。そのため全ての住所が「松田町寄・・・番地」となっている。「松田町萱沼・・・番地」としてほしかったのでは。8:15萱沼のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 911萱沼地区入口の民家の庭先に立つこの大きなしだれ桜は、周りの景色の中でもひときわ目立ちゴルフで訪れるゴルファーの目にも。まだ時間が早く人影がなかった。駐車場も分からず道路脇の広いスペースに車を停め散策。満開のしだれ桜をズームアップ。道路脇に咲いていたヤマブキ。南側のゴルフ場への道路から望む。左奥にも見事に刈りこまれたツゲの木であろうかしだれ桜に負けずと聳えていた。敷地外からズームアップ。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)樹 齢:不明満開のしだれ桜を見上げる。庭に誰もおられなかったので敷地内へ入らせていただいた。西側から撮影。庭先はピンクの花びらで染まっていた。東方向にも坂道がありまた違った光景が撮れたのだが。しだれ桜もピークを過ぎピンクの花びらが庭に散っていた。満開のしだれ桜を見上げる。風があれば飛び散って花吹雪になったのだろうが。樹高は20メートル近い高木であったか。上空を見上げてズームアップ。枝振りも見事で手入れが大変ではと。樹齢等の説明板が目に入らず詳細がわからず、人影もなく聞くこともできず。庭先のミツバツツジも綺麗に咲いていた。見事な樹形をしている。道路を挟んだ南側の高台へ。高台から下り再度道路から望む。人影がなく約15分程の滞在で、萱沼のしだれ桜を見納める。8:30萱沼のしだれ桜を後にし次の目的地「土佐原のしだれ桜」へ向かうことに。前方の橋は、小田原ゴルフ倶楽部松田コースのコース間の橋。 ー 続く ー
2024.05.03
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金剛山普門寺の参拝を続ける。3月27日(水) 16:00山門(仁王門)横から境内を見る。観音堂の前には回向柱。手前は枝垂桜。本 堂普門寺は真言宗智山派寺院の寺院。天平年間(729〜749年)行基菩薩により開山した。その後、江戸時代までの経緯は不明であると。慶安元年(1648年)徳川幕府より17石7斗の御朱印を賜り、元禄十一年(1698年)頼真により中興開山された。本堂前に常香炉。御本尊は、不動明王で江戸時代の作。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所25番札所である。本堂の扁額は「不動学」であろうか。境内の東側からの本堂、観音堂。本堂の東側では客殿の改修工事中であった。工事看板に「金剛山普門寺 本堂・観音堂・客殿改修事業のお知らせ」。謹啓 檀信徒の皆さまにおかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。日頃より当山へ別格のご支援とご協力をお寄せいただき厚く御礼申し上げます。さて、当山は奈良時代の天平年間に行基菩薩により創建され、爾来約1250年の歴史を刻み、現住職で35代目を数えます。この永い歴史の中で、当山は檀信徒並びに地域の人々にとって「ご祈願の場」また「ご供養の場」として深く心のよりどころとなってまいりました。こうして永年大切に守られてきた本堂・観音堂等の建造物も、現在に至っては経年劣化が不安視される状況となっております。2017年、専門業者による調査を行った結果、基礎・土台における蟻害・腐朽などにより木組みが不安定な状態であり、建物内部における柱の傾斜・劣化・ねじれなども確認され、早急に修繕すべき点が多数見つかりました。また、客殿におきましても以前より皆さまから頂いていたご指摘ご要望に沿い、利便性を高め、世代を問わず多くの檀信徒の皆さまに安心して利用していただくための施策を検討してまいりました。当山総代・世話人会に於いて、檀信徒の皆さまにとってどのような寺であるべきか、また本堂をはじめとした伽藍を次世代に継承してゆくためにはどのようにお守りすべきかについて、慎重に協議を重ね、2017年5月の「総代・世話人会総会」にて、本堂・観音堂・客殿を「改修」するとの結論に至りました。以降「金剛山普門寺 本堂・観音堂・客殿改修事業 」として建設委員会のもと進められている当事業につきまして、2018年末時点で本堂・観音堂の改修設計案を順調に取り纏める事ができました。ひとえに檀信徒の皆様のご賛同・ご厚志によるものと、心より感謝申し上げます。この2つのお堂は2019年秋の着工を目指し、引き続き工事内容の精査・調整を進めて参ります。また同工事の着手と合わせて、客殿建替え計画も本設計へと展開して参ります。今後ともにご理解・ご支援の程よろしくお願い申し上げます。 合掌右下に「本事業は2023年4月に行われる『第23回武相卯年観音御開扉』に合わせた整備完了を目指します」 とあったが。御開扉(おかいひ)とは、普段は閉じている秘仏を収める御厨子(おずし)の扉を、特定の日に限って開くことです。武相観音霊場は、12年に一度、卯歳の春だけ御開扉し、秘仏の観音様をお参りすることが出来ますと。上 建物全景イメージ:お堂本来の美しい佇まいを生かした外観に整備します。 ※ 客殿は計画案の一例です。左下 本堂内観イメージ:内陣を3方から囲むレイアウトに変更し、現状の広さを 最大限に活用できる状態へと改修を行います。右上 本堂内観イメージ:内外陣・広縁の床段差を解消し、堂内のバリアフリー 化を図ります。右下 観音堂内観イメージ:文化財としての美観を維持しながら、補強・修繕を 行います。観音堂と枝垂桜の古木。鐘楼跡山門(仁王門)東側には、かって鐘楼堂があったが戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風で倒壊。今はその石積みだけが残されている。山門(仁王門)横から南西方向を望む。普門寺を後にし駐車場へ戻ることに。駐車場へと坂を下るが誰とも合わずのんびりとした空間であった。広い駐車場には我が愛車のみ。16:10普門寺は見るべきところが多々あったのだが、急ぎ足での参拝であった。普門寺から下る途中に神社があり立ち寄る。広場の隅に石柱。下は ”首都圏中央連絡自動車道(圏央道)” の防音壁。石柱には「旧川尻字畑久保の地」、側面には「題字 城山町長 北島厚」と。今は相模原市となっているが、かつての城山町にはこのような石柱が至る所に建っている。外には「旧川尻字谷津の地(きゅうかわじりあざやつ)」。石柱の近くの角地に道祖神であろうか建っていた。一段高いところに建っていた。先程参拝した「普門寺」の案内板、200mと。慈眼寺所在地:神奈川県相模原市緑区城山4丁目9-22普門寺の案内板の向かい側の丘の上に建っているお寺。祭礼がある時には幟旗が並ぶ階段。慈眼寺観音堂慈眼寺は武相四十八観音霊場第38番札所である。観音堂の扁額には「観世音」と。何故か観音堂の前の石燈籠には「八幡宮」、台座には「村内安全」と。境内の北側に並ぶ境内社。境内は地元の方々の奉仕で綺麗に整備されていた。観音堂の左側に建つ境内社。説明板がなく詳細は不明であるが社の中には小さい社殿が祀られている。こちらにも境内社が二社。境内の南側に並ぶ地蔵菩薩には赤い帽子とよだれかけ。赤い帽子とよだれかけは、お地蔵さんが「子供を守る神様」として信仰されてきたことから、人々が「自分の子供が健やかに育つように」という願いを込めてよだれかけを奉納するようになったと。裏側には「安永九?子年 供養佛」と。境内に西日が浴びる。地蔵菩薩前の古木が一本切断されていた。観音堂を見上げるとヤマザクラが綺麗に咲いていた。ズームアップ。ズームアップ。16:20慈眼寺を後にし帰路につくことに。カーナビを「自宅」にセット有料道路を使用し到着は18時前と。事故がないことを祈る。16:25慈眼寺から下り、圏央道の防音壁。南側に相模原インタがあるが今朝下りた相模原愛川インタへ向かうことに。16:45前方は国道129号の田名赤坂交差点。国道129号を南下左車線に入り相模原愛川インタへ。16:55相模原愛川インタ入口。料金所から相模川に架かる”相模川渡河橋”を渡り圏央道へと入る。車窓左側には国道129号の”新昭和橋”。相模川を渡り左の”海老名”方面へ。相模原愛川インタ辺りまではトンネルが多く事故多発地帯である。前方の高層ビル群は海老名駅周辺であろう。上空は圏央厚木インタ高架橋。説明が足らないが海老名南JCTを利用すれば「名古屋方面は新東名もご利用できます」と。海老名駅周辺のビル群。海老名JCT。左側車線の東名高速道路への車が渋滞。渋滞情報。海老名JCTはいつも渋滞。我が車は圏央道を直進して南下。名古屋方面の方は直進して海老名南JCTを利用すればよいのだが。順調に走り寒川南インタへ。17:20寒川南料金所で圏央道を出る。自宅へは17時45分に到着、今日の走行距離は約83キロであった。歩行数は約9,000歩。相模原の歴史散策をまたしたいものだと思った一日でした。 END
2024.04.22
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城山湖に立ち寄り目的地の「普門寺」へ到着。3月27日(水) 15:45金剛山普門寺 (ふもんじ)所在地:神奈川県相模原市緑区中沢 200昔から「中沢の普門寺」といえば、「飯縄さま」あるいは「観音さま」そして檀家にとっては「お不動さま」の霊場として常に近隣の人々の信仰の中心としてあがめられていると。普門寺の広い駐車場。奥にも別の駐車場があったがこれだけの広さが必要なのかと。入口を振り返る。駐車場入口に建つ寺号標石「金剛山 普門寺」。駐車場から普門寺へ。正面右が普門寺の境内で「本堂・観音堂・客殿の改修工事中」で工事車両が数台入っていた。相模原市のマンホール蓋。市の木ケヤキをデザイン。下部に「さがみはら おすい」の文字が入っている。普門寺の歴史普門寺は真言宗智山派に所属し、天平年間(729〜748)に行基により創立されたと伝えられています。その後江戸時代に至るまでの歴史は明らかではありませんが、近年発掘された板碑の年代等を見ても、霊域として常に重要な場所であったであろうことは想像できます。慶安元年(1648)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄十一年(1698)頼真により中興開山されました。寺伝、資料によれば、往時の構えは、未寺に東福寺、大悲山慈眼寺、智恩寺の三ケ寺(共に廃寺)を従え、背後の山上に飯縄権現社、更に三島社と、地元中沢村の鎮守神の別頭寺院として、豪壮な堂社、伽藍を構え、霊威赫々たる真言宗の祈願道場として隆盛を誇っていたということです。このことは、現在に残される広大な寺域や境内の古木、凡そ三百年前に造営されたと伝えられる仁王門、観音堂、飯縄権現堂、本殿などの建造物の見事な結構、手の込んだ細工などからも一見してそれと伺い知ることができるものですと。駐車場からの道を進むと右上に山門(仁王門)。山門(仁王門)への階段は新しい玉垣。新しい玉垣には奉納者の名前が刻まれていた。右側の親柱には「武相卯歳観音霊場 第二十五番目札所」左側の親柱には「真言宗智山派 金剛山 普門寺」と。山門 (仁王門)観音堂の正面に建つ仁王門は、江戸の頃は権現堂に上る階段の途中にあったということだが、現在の場所に安置されたのは二百四十年以前と伝えられている。山門(仁王門)の扁額「金剛山」。山門(仁王門)の左右にそれぞれ仁王様が立つ。仁王様は運派系の仏師、全慶の作といわれ、顔立ち、姿とも力強さがあふれる作風です。今から三十年程前、ミツバチがこの仁王様に巣をつくり、巣を取るために仁王様のお腹を開き、修理修復がほどこされたという逸話がある。左側の仁王様。仁王門を入ると正面に観音堂、右側に本堂観音堂は五間四面流れ向拝の総欅造りで、四面板戸、丸住の上には出組化粧折上げに桁が載せられている。堂内は斗拱の上に桁を受け、格天井が廻らされており、床は内外陣共に鏡板張りですが、現在は畳が敷き込まれている。内陣来迎柱前の須弥壇、宮殿の造りは、端正で剛健な構えを示している。向拝柱の頭貫・木鼻には龍、獅子の彫り物がほどこされている。向拝の中央に下げられているのは、鰐口(神奈川県重要文化財)であろうか。であれば、以前は観音さまの向拝に下げられ打ち鳴らされていたものであると。観音堂の扁額「○○殿」。山門(仁王門)から左前方を見る。右側の六角堂は「永代供養墓」。左側の墓地入口には2基の宝篋印塔。山門(仁王門)を入って左側に建つ二基の宝篋印塔。2基とも頭部の笠が取り外されている。右側の一基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられている。天保二年(1831)、諸国飢饉、幕府の財政悪化の折、上川尻村に課せられた御用金をめぐって領主の用人と名主が不正を働くという事件が起こりました。不正に抵抗した村人は相談し、天保三年、勘定奉行、老中目付に駕寵訴という非常手段で訴え出ます。しかし関係した両者は共に捕えられ、伝馬町の牢で伝染病にかかり、事件の結着も見ず怨みを残して死んでしまったのです。しかしその後も村内の内粉は納まらず、弘化二年(1845)犠牲者達の十三回忌に至ってようやく和解が成立、三月、人々の冥福を祈り宝謹印塔が建立されました。以後三月二十八日を命日として、明治維新まで関係者、上川尻村一統は施餓鬼会を営んで供養を捧げたということですと。説明板が建っていたが消えて判読できなかった。左側の宝篋印塔。後方に置かれている宝篋印塔2基の頭部。墓地入口に並べられていたのは石像、双体道祖神であろうか。新しい六地蔵も。墓地から東方向の境内を見る。歴代住職の墓であったか。石碑の字が判読できなかった。裏山に広がる墓地に建つ新しい墓塔。墓地からのどかな南方向を見下ろす。境内へ戻り入口に頭部のない宝篋印塔。山門(仁王門)の左側に並ぶ像、石塔。水子地蔵基壇に「水子地蔵」と。右側の石柱正面に「梵字」、側面に「南無大師遍照金剛」。左側には「萬霊塔」と。こちらの石碑には、「武相第二十五札所 聖観世音菩薩 真言宗 普門寺」と。六角堂の永代供養墓観音堂の左側を裏側へ進み、左側の石碑には「飯縄大権現参道口」と。”飯縄権現堂” は観音堂左手奥の石段を登ること百四十七段、御神木のスダジイの木をはじめ老木のうっそうと繁る中に「飯縄大権現」のお社が祀られているが今回はスルーした。立入禁止になっていたが、観音堂裏のこの新しい穴は。木製の祠の中に「お舎利さま」。宝暦三年(1753)川尻村小松の生まれで、生きながら成仏(入定行者、即身仏)を志す者がありました。三十四才の時に、普門寺の法印快誉と契約し、土中に入り断食して、念仏を唱えながら眠るように成仏したということです。— 七月四日入室、八月二十一日夜中に往生し願成就し ー と過去帳に記されています。このお沙弥さま梵蓮社・・・と云わ〇る人に小松の・・・・・この説明板も字が消えて読みとれなかった。祠の中にはお舎利さまとよばれる石造阿弥陀如来座像が鎮座しています。元はおしゃり山と呼ばれる裏山にありましたが大正六年に遷座されましたと。延命地蔵尊右側の基壇には「延命地蔵」。左側の石碑には「自聞龍神」の文字と龍の浮き彫り。南方向に山門(仁王門)。16:00山門(仁王門)東側には、かって鐘楼堂があったが戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風で倒壊。今はその石積みだけが残されている。山門(仁王門)横からその石積みを見る。相模原市指定有形文化財(彫刻)普門寺の木造聖観音菩薩立像普門寺の木造聖観音菩薩立像は、像高105cm、観音堂内の宮殿型厨子内に本尊として祀られています。頭部に宝髪(ほうけい)を結い、面部は丸く頬に張りがあり、眉目は弧形が延びやかで、優美な印象です。体部はすらりとして、胸部は薄く、衣文は浅く繊細で、全体に平安時代後期の本格的な藤原様式を示しています。この像は、十二年に一度の卯年に開帳されることから、卯年観音と呼ばれ親しまれています。相模原市登録有形文化財(建造物)普門寺の観音堂普門寺の観音堂は宝形造、正面三間、奥行四間で、手前一間のみを外陣、奥三間を内陣とするいわゆる小型の密教本堂形式で、観音霊場寺院に多く見られます。内陣は開口部が少なく閉鎖的とするのが通例ですが、この堂は内陣まわりに多くの開口部を設けているのが、特徴的です。建立時期は、十八世紀中頃と考えられます。※ この立像は平成十年に、観音堂は平成十八年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相 模原市指定文化財、および登録文化財となりました。指定・登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会山門(仁王門)の東側側面に「仁王門建立山内整備寄付者芳名」。平成十八年十一月吉日仁王門建立山内整備寄付者芳名一、金伍拾萬円也 2名一、金参拾萬円也 24名一、金拾萬円也 2名 ・・・最低額でも、一、金八萬円也 多くの人が ー 続く ー
2024.04.21
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城山かたくりの里、川尻八幡宮の散策を終え次の目的地は近くにある寺社史蹟巡りに。3月27日(水) 14:55セブンーイレブン 相模原城山川尻店所在地:神奈川県相模原市緑区川尻4030-1駐車場から出て、近くのコンビニに立ち寄り飲料水、食料を補給し次に訪れる場所を確認。事前に訪れる所をチェックしていたが渋滞で到着が遅れ、15時になったので近場だけにする。まずセブン-イレブンの近くにある「熊野三社」を訪れることに。スマホの案内で進み目的地近くの道路脇に車を停める。熊野三社所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4042-6道路脇から小松川に架かる橋を渡り鳥居の前へ。階段の上に社殿。鳥居の手前に立っていた注意看板。「私有地につき 立入禁止」と。ちょうど高齢の方がおられ「参拝はOKか」と尋ね「参拝のみならOK」との了承を得て参拝。私有地の参道を入ると傾いた鳥居。鳥居の扁額「熊野三社」。落ち葉が積もった階段を上り境内へ。境内の奥に一間四方の社殿が建ち扁額には「熊野三社」と。社殿の左奥の高台に別の社が建っていた。説明板等が無く詳細は不詳。境内から南方向に「城山かたくりの里」を見る。道路脇の車へ戻る。この場所は「城山かたくりの里」の北側数百メートルにある。15:05高野山真言宗 松風山寶泉寺 (ほうせんじ)所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4562門前に建つ寺号標石には「高野山真言宗 松風山寶泉寺」。門前に立っている石碑には、「史蹟 相模国小松城址 城山元町長小磯武二書」と。新しい六地蔵が並んでいた。境内地に入ると直ぐ右側に駐車場。駐車場脇にあった簡易トイレ施設と、汚水処理装置制御盤。駐車場下に設けられた汚水処理設備の制御盤であろう。駐車場から参道を進むが全てが新しい建物であった。境内の西側に建つ「本堂」。ネットで見ると猫が多いお寺であると、猫嫌いの私の目にも数匹いた。本堂の東側に建つ「法要施設」。建物への車寄せもありまるでホテルのような建物であった。法要施設の左側に「手水舎」。手水舎の龍の水口。宝泉寺の由緒久安四年(1148)に入寂された宥正上人が開山された。過去帳附記によると開山当寺山号は小松山であった事、二度火災に遭い再建が果たされたのが天保元年(1830)である事が記されている。開山当時堂字は現在地から田をはさんで南側の丘に有ったと伝えられる。再建以降に現在地の小字松風と山号を改めたと考えられている。現在堂字は小松城址に有り、城は由来によると、1300年代に長井大膳大夫広秀という武将が片倉城の出城として築いたと伝えられる。付近には、片倉城、津久井城、小松城の武将が落城について相談したという評議原、小松城落城の折、寺も民家も焼かれ一族が自害したという自害谷戸等、城にまつわる地名が残っている。本 堂ネットで調べると本堂他は平成20年(2008)頃に再建されたようだ。本堂の右奥に背丈3メートルほどの観音像?。基壇には、「令和三年十一月吉日建立 奉納者 西東京石材株式会社 代表取締役 山田健一 浅川利雄 卅二世 智泉代」とペア―の地蔵も。本堂前に立たれる「弘法大師修行像」。台座には、「碑 文 松風山寶泉寺 本堂落慶の吉日と相俟ち 高野山金剛流金剛講寶泉寺支部講員一同が積 年の念願とした御祖師弘法大師修行像の寄進建立が茲に成就す。 関係者各位の奉加喜捨に深謝し 未来永劫に亘り 菩提寺の興隆と檀信徒一同の安寧を 祈念する。 合掌 平成二十一年七月吉日 高野山金剛流金剛講 寶泉寺支部講員一同前に廻り込み正面に「南無大師遍照金剛」。立札には「この砂の下にお四国霊場八十八ヶ寺と高野山のお砂が入っています」と。左側側面には、「高祖弘法大師御詠歌 第一番 有り難や 高野の山の 岩蔭に 大師はいまだ 在しますなる」と。本堂前左右には烏天狗の像が二体。本堂の守護役であろうか。本尊は釈迦如来。本堂左側の墓地入口に無縁仏と石像が立っていた。宝泉寺の石灯籠相模原市登録有形文化財に指定されているので風化を恐れ建屋の中に置かれていた。念には念に消火器も。相模原市登録有形文化財(建造物)宝泉寺の石灯籠宝泉寺の石灯籠は、高さ約218cmの凝灰岩製です。形態は上から宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎の各部からなりますが、宝珠は五輪塔の空風輪を代用とし、火袋と中台は近年の作と考えられます。竿には「応永十七年(1410)」の銘があります。宝泉寺には多くの応永年間の石造物が残されており、その当時に地域に根ざした石造文化圏が成立していた可能性が考えられます。相模原市登録有形文化財(歴史資料)宝泉寺の板碑 (いたび)宝泉寺の板碑は、高さ86cm、幅37cmの緑泥片岩製です。基礎部分は欠落していますが、上部2本の切り込みははっきりしています。また、蓮華座上に阿弥陀如来種子(梵字)を表しており、鎌倉時代後期のものと考えられます。蓮華座の下に「正嘉二年十二月十二日(1258)」と刻まれていますが、風化度の具合より、後の時代に刻まれた可能性が高いと考えられます。※ この2つは昭和四十五年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相模原市登録文化財と なりました。登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会石灯籠横から本堂を望む。墓地を進むと西側の山の上に「史蹟 小松城址」があるのだが時間の関係で今回はスルー。15:20駐車場へ戻り帰路にある「金剛山 普門寺」へ行くことに。15:30城山湖の石碑城山発電所から上ってくると建っている石碑。城山湖 展望台所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4454-3宝泉寺からカーナビの案内で、松風都井沢線を西へ走り「城山湖」の標識があり立ち寄った。城山湖昭和40(1965)年、純揚水式の城山発電所建設にともなって、境川支流、本沢渓谷に上池として誕生した「本沢ダム」の人造湖で、「かながわの探鳥地50選」や「かながわの公園50選」にも選定されている。城山湖展望台にある四阿。四阿の屋根、横には太陽光パネルが設置されていた。四阿の隣に説明板が建っていた。城山湖にようこそ城山湖と本沢ダム城山湖は相模川総合開発事業の一環で、純揚水式の発電をするために昭和40年に誕生した人造湖です。城山湖の水は、標高の低い津久井湖の水を汲み上げたものです。この湖は、ロックフィルタイプの本沢ダムによってせき止められていて、ダム周辺の良質の土砂が多く使われ築造されました。城山湖 集積面積 0.6k㎡ 湛水面積 0.21k㎡ 総貯水容量 3,927,000m3 有効貯水容量 3,835,000m3 利用水深 28m 常時満水位 EL.280.0m本沢ダム 形 式 ロックフィルダム 高 さ 73.0m 長 さ 234.0m 堤体容積 1,852,000m3城山発電所城山湖と津久井湖を延長1.5kmの水路で結び、この間の落差153mを利用して発電しています。最大出力は25万kwで、これは約12万戸の家庭で使う電気に相当します。発電所は地表から230mの地下室(約1850㎡)に設置された4台の発電機をはじめ、地上の制御所、変電施設等から構成されています。城山発電所透視図城山発電所 形 式 日調整純揚水式 最大出力 25万kw 最大使用水量 192.0m3/s 有効落差 153.0m 年間可能発生電気量 3億7,600万kwh城山湖・本沢ダム周辺図右上写真:建設中の本沢ダム右下写真:完成間近の本沢ダム揚水発電所ってなあに?電気の使われる量は一日のうちで大きく変わります。昼間は工場や事務所などでたくさんの電気が使われ、水力発電所もいっせいに発電をします。しかし、夜になると電気の使われる量は昼間の半分くらいになります。かんたんに止めることのできない火力や原子力発電所では電気が余ってしまいます。そこで、この余った電気を送ってもらい下の津久井湖の水を上の城山湖にくみ上げます。そして昼間再びこの水を利用して発電をします。この発電方法を揚水発電といいます。城山発電所もこの方法で発電していますが城山湖に川から流れ込む水が全くないので純揚水式発電所といいます。お願い:城山湖は、発電のため1日に28mも水位が上下することがあり、危険ですので絶対に 立入禁止区域には入らないでください。本沢ダムを見下ろす。山の法面に「しろやまこ」と。北東方向をズームアップ。高層ビルは八王子駅辺りであろうか。左奥の高層ビル群はどの辺りになるのか。さいたま市か。また中央奥にかすかに見える山は筑波山であろうか。15:35この城山湖には川から流れ込む水が全くない。因みに、江ノ島に流れ込む境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、相模湾に注ぐ流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川である。いつか城山発電所の見学をしてみたいものだ。 ー 続く ー
2024.04.20
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引き続き川尻八幡宮の参拝を続ける。3月27日(水) 14:15老朽化で再建が待たれる社務所。この後右側の通路を抜け北側へ進む。境内の北側に広いスペースがあった。立札に「八幡神社 古墳 → 」と。スペースの隅に石碑が建っていた。川尻八幡神社古墳(翁塚)この古墳は昭和四年城山町の神藤一松先生が苦心して発見、掘り出されたものである。河原石を組合せて石室が作られ、室内から直刀三振、小刀二口、宝珠型の鐔(つば)一個、鉄製のヤジリ二〇数本などが出土した。出土品や墓の構造から、奈良時代(八世紀)の様式の墳墓と推定されている。神社の伝説によると「平安時代の初期、舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子)の子孫が奥州に下向の際、この地で病に倒れ奉戴(ほうたい)していた石清水八幡宮の御分霊をまつった」という。この墳墓がその墓であろうと伝えられている。 昭和五十七年十月古室は木の柵で囲われていたが立入禁止にはなっていなかった。石室は、崩壊を防ぐため砂が入れられているそうだが、さらに落ち葉が積もっていて、石室の状況は確認できなかった。川尻八幡宮境内遺跡石室(翁塚)出土の直刀類 模型出土したとされる直刀や小刀などの遺物は、散逸して所在がわからなくなっているようですが、古墳の前には「川尻八幡宮境内遺跡石室(扇塚)出土の直刀類模型」と題して、この所在不明の直刀や小刀の竹製のレプリカが公開されている。川尻八幡神社古墳から南方向を望む。広場に「車祓所 川尻八幡宮」があった。社殿下の境内へ戻る。授与所の扉に、「銀杏は皮付きのまま持ち帰えり下さい。境内地を汚して行かないで。神様は見ています」と。現在地に移された「旧一之鳥居」と「燈籠」。鳥居の高さ 360cm、幅 290cm。江戸時代には、一之鳥居から二之鳥居まで東西に伸びる参道が松の並木となっていたことから並木八幡とも呼ばれ、祭礼の日には相撲興行などが催されて、近郷の人たちでおおいに賑わったといわれていますと。旧一之鳥居の扁額「八幡宮」。旧一之鳥居から参道を見る。左側の石燈籠の竿には「明治十四辛己年月」、基壇には「石攻北原祥重」と。”一之鳥居” から県道48号線(鍛冶谷相模原線)沿いに建つ ”二之鳥居” への参道。参道に立つ、川尻八幡宮社務所建築 氏子崇敬者奉賛者御芳名金参百九拾伍萬円也 武内博恵金壱百伍拾萬円也 安西圭市、小坂義和、八木敏夫金壱百拾壱萬円也 川尻八幡宮氏子総代会 柴田正剛金壱百萬円也 (株)エスアール (代)渋谷清心 (株)津久井フォーライフ (代)平本恵美子金伍拾萬円也 今井順子、平田智泉、八木信次金参拾萬円也 ・・・・・・・・・・・ ・・・当初の予算額は5,000万円とあったが目標額に届いているのか。奉賛金額は1口1万円からで何口でも可能ですと。旧一之鳥居を振り返る。社殿に向かって参道左側に建つ石碑には、「社殿修改築寄附者芳名 多くの奉賛者の名前と金額が刻まれていた 昭和五十九年十一月 落成」。社殿に向かって参道右側に建つ石碑には、「一之鳥居再建並拝殿修復寄附者芳名碑 多くの奉賛者の名前と金額が刻まれていた 昭和五拾年拾壱月参拾日 落成」。一之鳥居が現在地に移設された時の奉賛者の芳名碑。注連縄がまかれたこの古木は。県道48号線(鍛冶谷相模原線)沿いに建つ ”二之鳥居” 。鳥居の前の両側の石燈籠には「伊勢屋」と。二之鳥居の扁額「八幡宮」。神社の案内板掲示板に、川尻八幡宮に刻まれた太陽と星の記憶 ~ すべての謎はヤマトタケルに向かう ~ 令和6年2月19日 プラネタリウム解説員 伊藤雄一● 30回目の雨水の日の日の出鑑賞会 平成7年2月19日から始まった「雨水の日の日の出鑑賞会」は、雪の日も曇りの日も欠かす ことなく令和6年2月19日で連続30回目を迎えます。 相模原市での雨水の日の日の出の時刻は6時24分です。● 参道の終点 川尻八幡宮の長さ約1200メートルにおよぶ参道は、障害となる山や川等がないにも関わ らず、一の鳥居から約210メートルの地点で止まっています。参道の終点の位置を地図で 調べたところ、鶴岡八幡宮(鎌倉市)と武蔵御嶽神社(青梅市)を結んだラインと接する地点 で止まっていることがわかりました。 武蔵御嶽神社はヤマトタケルと縁が深い神社で、鎌倉武士から篤く崇敬されていました。 「坂東武者の鑑」と称えられた畠山重忠(秩父平氏)が大鎧を奉納したことで知られています。 ※ 鶴岡八幡宮(八幡神)と武蔵御嶽神社(ヤマトタケル)を結ぶ関係が見られる。● 隠された北斗七星 相模原市の境川周辺の七つの神社を結ぶと、北斗七星とよく似た形になります。ひしゃく の柄の先に当たる川尻八幡宮を起点とすると、終点は中央区上矢部の御嶽神社です。 御嶽神社は市内でも珍しい「湯花神事」が行われ、祭神はヤマトタケルです。 北斗七星のデザインには、しばしば「剣」の意味が込められています。 ※ 川尻八幡宮(八幡神)と御嶽神社(ヤマトタケル)を結ぶ関係が見られる。● 八幡神は星と繋がる 平安時代以前に創建されたいくつかの八幡系の神社には、北斗星や北斗七星を神格化した 妙見信仰のある場所と川尻八幡宮の参道と同じ角度(東西軸に対して15度よりわずかに浅 い)で結ばれる位置関係にあることがわかりました。代表的なものとして、能勢妙見山 ⇔ 石清水八幡宮、妙見岬(福岡市西区小戸) ⇔ 筥崎宮、妙見山(福岡市西区西浦) ⇔ 宝満山、 都内では妙見山(日の出町) ⇔ 金王八幡宮(渋谷区)があります。 この関係をアレンジしたものとして、東大寺大仏殿 ⇔ 手向山八幡宮、御岳山(青梅市) ⇔ 大宮八幡宮(杉並区)、高尾山 ⇔ 畠山重忠屋敷(町田市小山町片所)、創建時の江戸城天守 ⇔ 富賀岡八幡宮 (江東区)にもこの関係が見られます。 ※ 高尾山も周囲の神社や史跡との位置関係から妙見信仰やヤマトタケルと関係があると 考えられる。県道沿いに建つ社号標石の「川尻八幡宮」と「伊勢屋奉納の石燈籠」。右側に広い駐車場があったのでここまで車で来ればよかったのだが。駐車場入口に古木。川尻八幡宮創建は大永五年(1525年)と伝えられ、戦国時代小田原北条氏が武蔵・相模に勢力をのばしていたころのことです。祭神は応神天皇。江戸時代には南東にのびる参道に松の並木があったことから、並木八幡と呼ばれ、祭札には湯ばな・相撲興行などが催され、近隣の人たちでおおいににぎわったといわれています。境内には、古墳の石室(七世紀前半の古墳)もあり、古代より鎮守の森とともに、神の宿る聖域として村人の信仰の場として今日に伝えられています。なお、本殿は宝暦十年(1760年)の再建で、この地域で最も古い木造建築です。また、境内には八坂神社、春日神社、金刀比羅宮、天満宮などが祀られておりますが、明治四十二年(1909年)の合祀令により統合されたものです。 平成十七年三月 城山町教育委員会川尻八幡宮の参拝を終え、かたくりの里の駐車場へ戻ることに。県道沿いの川尻八幡宮の駐車場入口に「↑ P かたくりの里」の看板。道路の向かい側に庚申塔と道祖神。ズームアップ。歩行者用の道案内「 ← 徒歩7分」。広い民家の庭先に板で囲った花壇であろうか。よく見ると野菜も植えられており収穫しやすいのでグランドレベルより20センチほど嵩上げ。民家の片隅に石碑。右側の石柱は欠けて補修されていたが「竹本仲儀太夫之碑」と。側面には「明治三十?年十月建之」。竹本義太夫をネットで調べると「江戸時代の浄瑠璃語り、義太夫節浄瑠璃の創始者」であると。ここ川尻との関連は?。住宅街を抜け、”城山かたくりの里” へ。城山かたくりの里の「おみやげ広場」。地元野菜、饅頭、弁当等が販売されていたがこの時間には弁当は完売。日本かたくり、雪割草等の販売も。”日本かたくり”、”紅ミツマタ”はそれぞれ1500円と高価。雪割草は700円。古い蔵が現存しており何か展示しているようだったが「休館」の札がぶら下がっていた。。裏の駐車場は満車状態。駐車場脇に咲いていた ”陽光桜” 。 14:45約4時間の城山かたくりの里、川尻八幡宮の散策を終え次の場所へ行くことに。 ー 続く ー
2024.04.19
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川尻八幡宮、境内社の参拝を続ける。3月27日(水) 14:00拝殿の左側に建つ境内社。手前に「稲荷社」、左に「天満宮」。稲荷社 ご祭神は、宇迦能御魂神左側の狛犬の狐。社の中には四つの石祠。天満宮 ご祭神は、菅原道真。社の前には合格を祈願した絵馬が掛けられていた。拝殿の南西方向奥にも境内社が2社。祖霊社 先祖の霊が祀られている。不動明王堂 拝殿前に建つ石燈籠、歌碑。歌碑には「扇塚」と。「扇は帰る人の 道を開き 要は私を持って 舞ふ人の 心を成る 秀斎」。昭和四十六年奉納の石燈籠。左前方から社殿を見る。拝殿の前に聳える御神木。立札には「御神木 椎の木 樹齢五百年以上」と。根元が朽ち添木で支えられた御神木を見上げる。拝殿には太い注連縄。曲線美の海老虹梁は一本ものであろう。左前方から見上げる。拝殿前の立札には、合祀された各社の祭神名が、春日神社 天児屋根命、斎主命、武甕追命、比売命八 幡 宮 応神天皇八坂神社 素戔嗚命 厳島神社 市杵島姫命、田心姫命、端津姫命金刀比羅宮 大物主神 社宮神社稲荷神社 宇迦能御魂神御嶽神社 日本武尊 天満宮 菅原道真不動明王拝殿とつながる幣殿、本殿。本殿の八坂神社。本殿の裏側は綺麗に整備されていた。本殿裏から「金毘羅社」を望む。本殿の春日神社。相模原市登録有形文化財(建造物)川尻八幡宮本殿川尻八幡宮本殿は一間社流造、桁行六尺(1.84m)で、一般の一間社よりやや横長な平面を持っています。屋根正面には千鳥破風(ちどりはふ)を置き、向拝には軒唐破風(のきからはふ)を設けています。建立年代は十八世紀中期と推定されます。川尻八幡宮の春日神社本殿春日神社本殿は、桁行四.三尺(1.3m)の中型社殿で、下川尻村の鎮守社でしたが、明治期に合祀されました。流造でありながら正面に千鳥破風をつけ、向拝の屋根幅を狭めるなど、春日造を意図しています。建立年代は十八世紀中期と推定されます。 ※ 両本殿は非公開になっています。 ※ 両本殿は平成十八年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相模原市登録文化財とな りました。 登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会川尻八幡宮右側に建つ「金刀比羅宮」。扁額には「金毘羅社」と。神輿庫中には4基の神輿が祀られている。毎年8月27日の神幸祭では全9地区を1日かけて担ぎまわる。施錠されていたが中が撮影できるようにか、施錠のためであろう2枚のガラスが取られていた。そののぞき窓からカメラを入れ撮影。正面の神輿。右側に2基。左側に1基納められていた。神輿庫の右奥、境内の西側は森になっており、その中に注連縄で祀られた木が聳えていた。木の根元に立札。津久井の名木 ホソバタブ科 目 くすのき科タブノキ属樹 高 30メートル樹 齢 推定 450年特 徴 暖地の山地に自生する常緑高木。高さ 10 ~ 15メートルになる。 材は、軽く柔らかで、家具、建築などに用いられる。所在地 城山町川尻4171管理者 川尻八幡宮 (財)かながわトラストみどり財団 津久井地区推進協議会 城 山 町 平成十三年三月設置ホソバタブの葉川尻八幡宮の本殿方向の森。根元から4~5メートル程シートで覆われ保護されていた。川尻八幡宮の北側。立札に「八幡神社古墳 当宮パワースポット」と。神輿庫前から、南方向に川尻八幡宮が建つ。川尻八幡宮の拝殿前へ戻る。14:15拝殿前から階段下の境内を見下ろす。正面に旧一之鳥居。 ー 続く ー
2024.04.18
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城山かたくりの里で約2時間半の散策を楽しみ、近くにある「川尻八幡宮」へ歩いていく事に。3月27日(水) 13:30入口には「お帰りの案内板」。城山かたくりの里の出入口。まだこの時間でも次から次と来ておられた。出入口にこの日の開花状況。毎日担当の方が修正しておられる案内板。黄花かたくりは日本かたくり(紫色)のあとに咲き見頃は4月上旬です。出入口を振り返る。崩れ落ちた物置の ”土壁” 。土壁は日本で古くから利用されてきた壁のひとつで、土に藁や砂を混ぜて水で練ったものを塗り固めた壁のこと。起源は正確に分かっていないようだが、江戸時代にはお城や蔵、一般住居まで広く使われていた。今でも、古い町並みを残す地域では土壁がよく見られる。城山かたくりの里にも掲示されていた「うどんの里山」案内板。AM11:00 ~ PM4:00 毎月曜日定休日メニューの看板も生姜が香る魚介出汁大根おろし入り 中華そば ¥950 ~中華とインドの融合 スパイス麻婆カレー ¥1100 13:40脇道に入り直進すると「うどんのさと山」。休憩がてら寄ろうと思ったが道路脇に、「品切れごめんなさい」と。人気店で平日に行った方が良いとの書き込みがあったが、PM4:00まで営業にもかかわらずこの時間に品切れとは。仕方がなく緩い坂道を上り「川尻八幡宮」へ向かう。北方向に見えるのは「都営武蔵岡アパート」。下の広場は ”相模原市立城山ふれあい広場”。野球、サッカーはできないと。竹林の手前に「うどんのさと山」がある。竹林の手前に朱色の鳥居。ここより北側に「稲荷社」があったようだが。丘を越え南東方向に見える高層ビル群はJR橋本駅辺りであろうか。下の建物は、”相模原市城山保健福祉センター”。相模原市城山保健福祉センターの裏に広場があり多くの石碑が建っていた。敷地内には4基の石碑が建っていた。右側から「表忠碑」、「殉○○霊碑」、「○○○霊碑」、「表忠碑の裏面の上段に、明治三十七八年戦役殉難者下段には、明治十年西南役従軍者 明治二十七八年戦役従軍者 明治二十七八・三十七八年戦役従軍者 の氏名が刻まれていた。明治三十七八年戦役殉難者 陸軍三等正八位・軍醫勲六等 竹越 玲 歩兵一等卒勲八等・功七級 田中熊次郎 同 勲八等 神藤伸次郎 輜重輸卒 押田文七二基の石碑の裏側、左側は「殉○○霊碑」、右側は「○○○霊碑」。左側の表には「殉○○霊碑」。裏面には、「○○○」、日露戦争、日支事変、大東亜戦争の氏名、階級が刻まれていた。 昭和二十八年三月二十一日右側の表には「〇○○霊碑」。裏側には「○○○」、 西南役、日露戦争、支那事変、大東亜戦争の氏名、階級が刻まれていた。 昭和三十一年十月十八日城山町建之表は苔むして判読できなかった。裏面の建之年月から大正十二年に発生した関東大震災関連であろう。裏側には、大正十四年三月建之川尻八幡宮所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4171石碑群の北側にある川尻八幡宮境内へ入り左上に社殿が建つ。川尻八幡宮は、上川尻及び下川尻両村の鎮守社で、広大な境内を有する神社である。この建物は何であった。境内に入ると正面に「社務所」。現在の社務所は、昭和初期に建築されたもので老朽化が激しく使用が困難な状況になっている。このため、来年4月までの完成を目指している。当初の予算額は5,000万円。社務所の建築、設計、管理監督料、給排水設備工事、電気設備工事などが含まれる。奉賛金額は1口1万円からで何口でも可能ですと。右側から入って来たが、神楽殿であろうか。左は移設された”旧一之鳥居”。創建500年 令和7年(2025年)記念事業ご奉賛のお願い当宮の創建は室町時代大永5年5月5日(1525年)勧請。境内樹木が物語っている様に永い歴史をもった地域の神社であり、鎮守の杜であります。平成から令和の時代に入り、令和7年(2025年)には500年という佳節の年を迎へるに当り社務所・神社会館又境内整備事業をを計画、ここに建設委員会を立上げ準備段階に入っております。既に社務所・神社会館の老朽化は著しく経過しており、時代の変化と共に新時代に相応した建物、境内地として次世代に真の地域の伝統文化を伝達する事が出来たらと思っております。氏子、崇敬者の皆様には何卒、趣旨をご理解の上、ご支援ご協力の程宜しくお願い申しあげます。 川尻八幡宮建設委員会● 境内神社の神様 この鎮守の森は明治四十二年十一月、国家管理のもと神社整備という形で、神社合祀が行 われ、近隣地域(旧川尻村)の各々神社が地域の中央に位置し条件の良いこの八幡宮の地に 合わせ祀られたといわれています。● 合祀された神社(神様)は次の通りです。 春日神社(城北) 琴平宮「金刀比羅宮」(小松) 天満宮 (町屋) 社宮神社(町屋) 御岳神社(町屋) 祖霊社 (町屋) 稲荷神社(向原) 不動明王(向原) 八坂神社(谷ヶ原) 厳島神社(城北)社殿に向かって左下の境内に3基の石碑。中央に「頌徳碑」、左には「一金五拾圓也 奉賛者氏名住所」、右にも奉賛者氏名。社務所の前に手水舎。その奥に「古御札 納所」。社 殿御祭神 応神天皇 (誉田別命) 第15代天皇由 緒 創建は大永五年五月五日(1525年)。伝承では、舎人親王の子孫が奥州に下る途次、病 に倒れ亡くなられた為、共の者がこれを悲しみこの地に手厚く葬りました。その時護 持していた石清水八幡宮の御分霊を御神体として祠に建てお祀りしたのが、今の川尻 八幡宮であるとされています。例祭日 八月二十六日 神幸祭 (令和五年に限る) 八月二十八日 例大祭社殿右前に聳えるスギの木。川尻八幡宮社殿拝殿の扁額「川尻八幡宮」。拝殿には多くの千社札が貼られていた。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。板碑には「川尻八幡宮」と。拝殿前の立札には、各社の祭神名が、春日神社 天児屋根命、斎主命、武甕追命、比売命八 幡 宮 応神天皇八坂神社 素戔嗚命 等々。 ー 続く ー
2024.04.17
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 13:00工房ゆう (陶芸)城山かたくりの里の花マップに記載されているエリア「15」に「キブシ」が咲いていた。キブシ (木五倍子)キブシは、キブシ科キブシ属に属する雌雄異株の落葉低木。山地に生える。別名、キフジ、コメブシともいう。和名は果実をヌルデの虫えいでつくる五倍子の代用品として、黒色の染料に用いたことから名付けられている。また、花穂がフジの花に似ていることから「藤」となり、転訛したという説もある。近くにいたご婦人が「舞妓さんのかんざしのようだ」と。黄花かたくり (黄花片栗)ユリ科カタクリ属、開花期は3月~5月。別名、西洋カタクリ、洋種カタクリ。分布は、北米の亜高山帯の山地に自生、日本へは園芸用に渡来した。二株あったが片方が一輪咲いていた。開花期は紫色に比べ遅く4月に咲く。黄花かたくりの花言葉は、上品、私だけを見て、嫉妬。花の形はカタクリとよく似ているが、茎が長めで背丈が30~40㎝になる。キバナカタクリも開花後1ヶ月程度で葉が枯れてきて長い休眠期に入るといったサイクルを有するということで、春の妖精の仲間になると。紫色の日本かたくりも負けじと咲いていた。工房ゆう (陶芸)陶芸体験が、2024年5月25日から12月1日予定で「いちから」できると。工房内ではセンスのあるお皿やお椀、織物などが販売されていた。ストーブは薪で。工房内から城山市街地を見下ろす。お皿にはいろんな花を浮かべ水盤。工房ゆうの東側は傾斜地になっており、御殿場桜、ほうき桃等が植えられているのだが今年は開花には早かった。ベンチも用意されており市街地を見下ろしながら休憩もできる。ほうき桃が咲いていると最高なのだが。工房ゆう(陶芸)の隣にある ”UNI・MAR CAFE” 。店内では雪割草の販売もしていた。”UNI・MAR CAFE” にはテラス席もあり、散策後はコーヒーを飲みながらいっぷく。外のベンチでもコーヒーを飲める。ショウジョウバカマとかたくりの競演。かたくりをズームアップCanon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/160、ISO400。露出調整、縦にトリミング。”ヒダカソウ” と ”大岩うちわ” のネームプレート。大岩うちわ (大岩団扇)イワウメ科 イワウチワ属で日本固有種である。岩場に多く、葉がまるくてうちわのような形なのでこの名がある。高さ3~10センチの花茎の先に淡紅色の花を横向きに一個つける。”日本かたくり群生地” 下には多くのカメラマンが三脚をセットして撮影。皆さん一眼レフに望遠レンズを装着して座り込んで撮影。女性の方には雨合羽のズボンを着て座り込む人も。私は膝当てをしていたので膝をつけ撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO2500雨やくもりの寒い日は花は開かず、うつむいたままだと。Canon EOS 70D、87mm、f/5.6、1/160、ISO400Canon EOS 70D、87mm、f/5.6、1/125、ISO400日本かたくり群生地に咲き誇るかたくり。開花してから一週間は持つというかたくり。膝元には ”アズマイチゲ” のネームプレートがあったが、雪割草が咲いていた。雪割草場所を変えて撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO800Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400。縦にトリミング。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400三脚がないので手振れに注意しながら最大望遠の300mmで撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400白の ”いちげ?” との競演。この花は?。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO500逆光に映えるかたくり。Canon EOS 70D、110mm、f/6.3、1/160、ISO4160遊歩道から ”日本かたくり群生地” を見上げて撮影。腰に悪い姿勢で撮影するので老人にはきつい。斜面に「白花かたくり」のネームプレート。白花と紫色の競演。”白花かたくり” は突然変異で咲く大変珍しいものだと。双子の如くに咲くかたくり。雪割草との競演。おばゆりと小野小町 ・・・・・津久井郡城山・・・・・むかし、津久井郡城山町川尻の小野という村に、ある日とても上品なおばあさんがやってきて、そこがたいへん気にいったのか、やがて住みついたということです。年のころは五十歳前後で、どこから、どうやってきたのか、村の人たちはだれも知りませんでした。村人たちが、根ほり葉ほりして、おばあさんたずねましたが、おばあさんは、「わたしは西国の生まれなのです。」といって、にこにこわらうだけで、それ以上のことはなにもわかりませんでした。おばあさんは近所の家の手伝いなどし、親切な村人たちの助けを受けてくらしていました。ところがちょっとした病気がもとで、ねこむようになってしまいました。村人たちは、一人ぐらしのおばあさんに、毎日、食べ物などを運んでやってめんどうをみていました。ある日、村人の一人がいつものように食べ物を持っていくと、おばあさんのすがたが見えません。そこで近くをさがすと、おばあさんはカキの木の下で息をひきとっていました。村人たちは、この上品でやさしいおばあさんが死んだのを悲しみ、手あつくほうむってやりました。すると、その後、このあたり一帯にめずらしいカタクリ草が生えるようになり、春先になるとそれはみごとに花を咲かせました。村人たちは「この花は、きっとあのおばあさんの生まれかわりにちがいない。」といって、だれいうとなく、その花を「おばゆり」というようになりました。それからしばらくして、このおばあさんは、あの美人で有名な小野小町だったといううわさが都から伝わり、村人たちも、そうだったのかといまさらのようにおばあさんをなつかしく思いました。そしてそれ以来、この地を小野とよぶようになりました。また「おばゆり」でなく「おばいろ」とよぶのだという話もありますが、小野小町にふさわしく、今でも春になると、まるで小野小町の生まれかわりのように、カタクリの花がそれはみごとにさくということです。 採集・杢代 勝 再話・佐藤 英夫13:30約2時間半の散策を終え入口へ。今回は開花が遅かったようでほうき桃(花桃)も見れず残念であった。 ー 続く ー
2024.04.16
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 12:15雪割草を代表する種類の「オオミスミソウ (大三角草)」であろうか。かたくりの中で可憐に咲いている花である。桜玄海つつじ本州の岡山~九州の日当たりの良い岩場などに自生する樹木である。また、ゲンカイツツジが玄界灘に接する地域に自生し、サクラの花に似るということからサクラゲンカイツツジの名で呼ばれる。ゲンカイツツジと同じく、ツツジの仲間の中で最も早く花を咲かせる。八重菊咲いちげキンポウゲ科イチリンソウ属、開花期は3 ~ 4月。早春を彩る山野草キクザキイチゲには様々な変種が発見されている。こちらは佐渡で発見された、純白で非常に花弁数の多い個体である。開きかけのときは千重咲と見間違えるほどの弁数で非常に美しい個体。純白の花をズームアップ。同じような純白な花は ”菊咲いちげ” であろうか。ズームアップ。”アネモネ” であったか土佐水木 (とさみずき)トサミズキは葉が出るよりも先に、3月下旬から4月に、5~7個の丸みのある黄白色の小花が連なり花序になって下垂する。ミツバチも蜜を求めて紅みつまた城山かたくりの里の最高地に水道局の配水池がある。石碑には「小松配水池 神奈川県企業庁水道局」と。左側の機器に「自動水質測定装置」のネームプレートが付いていた。城山かたくりの里からは立ち入り禁止に。石碑には「県営上水道通水記念 城山町長小磯武二書」と。今年は暖冬であったが、この辺りの開花は遅れているようであった。木の枝に「陽光桜」のネームプレート。ヨウコウ (陽光)) は日本原産の交雑種のサクラで、愛媛県に在住していた高岡正明氏がアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)を交雑させて作出した栽培品種である。別名「陽光桜」で、1981年に種苗法により登録された。満開前の ”陽光桜” を見上げる。駐車場脇に咲いていた陽光桜は既に満開を過ぎていたが。陽光桜は鮮やかな紅紫色で一重咲き、大輪の花を下向きに咲かせます。花付きが良く、大きく成長すると大変美しく見応えがある。満開の数輪をズームアップ。高台に咲く陽光桜を見ながらベンチに座り持参したパンを食べる。こちらのサクラも満開前。根元にネームプレートが立っていた。ネームプレートには「岐阜県根尾 うすずみ桜」と。”根尾のうすずみ桜(薄墨桜)” は、日本三大桜として有名である。因みに日本三大桜は、① 山高神代桜(山梨県北杜市)、② 三春滝桜(福島県田村郡)③ 根尾谷薄墨桜(岐阜県本巣市)で、③のみに行っていないので今年行きたいと。木を見上げるとチラホラと開花。ズームアップ。枝によっては開花の進んだものも。タイワンドウダンツツジ敷地内に一本のみ咲いており木の周りには高齢の女性が一眼レフを持ち撮影。ドウダンツツジは白い花をつけるが。ピンク色の小さなシャンデリアのようだと。ズームアップ。さんしゅゆサンシュユは、ミズキ科ミズキ属の落葉小高木。中国原産で、春先に葉が出る前に黄色い花を咲かせ、秋にグミに似た赤い実をつける。別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる。季語は春。庭園樹や公園樹として多く植栽されている。果実は漢方に使われる。さんしゅゆの花をズームアップ。トンネルの先には多くの人が休憩中。黄色の花が咲くトンネル。高台から下る。以前は高台に ”ほうき桃 (ハナモモ)” があったのだが。下の段から中央に ”うすずみ桜” を見上げる。ズームアップ。斜面には枯れた木。その朽ちた木に苔が生えていた。斜面には新しい樹々が植えられていたがネームプレートはなかった。その一角に「ひとりしずか」が植えられていた。ヒトリシズカ(一人静)は、センリョウ科チャラン属に属する多年草の1種である。茎の先端付近に4枚の葉が輪生状につき、中央から白いブラシ状の花序が1本伸びる。花は花被を欠き、3本の雄しべが白く目立つ。日本を含む東アジア北部に分布する。上から撮影。カメラ目線を地面に下げる。ブラシ状の花序をズームアップ。斜面には ”ふきのとう” が芽吹いていた。春めき桜2000年3月に品種登録されたサクラの品種。南足柄市発祥であり、別名「足柄桜」と呼ばれている。 カンヒザクラとシナミザクラの交雑種とされている。花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしている。開花期は3月頃で、花の香りが強いことも特徴である。春めき桜をズームアップ。発祥の南足柄は今年3月21日(木)に訪れ楽しんだばかりだが各地へ広げているようだ。13:00サクラの下に紫色のダイコンの花。ズームアップ。 ー 続く ー
2024.04.15
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 11:40傾斜地にある ”日本かたくり群生地” を下から見上げる。イナバウアーの如く反り返るかたくり。Canon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/125、ISO640雪割草Canon EOS 70D、100mm、f/6.3、1/160、ISO100上記一部をトリミングCanon EOS 70D、100mm、f/6.3、1/160、ISO100日向オオレンキンポウゲ科:オウレン属和名:ヒュウガオウレン(日向黄連)、原産地:宮崎県・鹿児島県名前のとおり「日向の国」の山地に自生、両県とも絶滅危惧種に指定している。早春、花茎の先に一個の花をつける。草丈8cm、花の直径1.5cmである。雪割草Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO1000日本かたくり群生地の周りには多くの老若男女のカメラマンが座り込み撮影。ショウジョウバカマ所々に咲いている ”ショウジョウバカマ”。花の直径が1.0cmと可憐な花であったが。ネームプレートがなく花名が不祥ながらズームアップ。白いツツジこちらもネームプレートがなく花名が不祥ながらズームアップ。キクザキイチゲ (菊咲一華)キクザキイチゲは、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。キクザキイチリンソウ(菊咲一輪草)とも呼ばれる。花期は3~5月で、白色~紫色の花弁状の萼片を持つ花を一輪つける。花弁はない。ズームアップ。キクに似た花を一輪つけることからこの名がついた。いろんな色の雪割草が咲いていた。それぞれ花の種類があるのであろうがネームプレートがなかった。ネットで調べると総称してユキワリソウ(雪割草)と呼ばれますが、オオミスミソウ(大三角草)、ミスミソウ(三角草)、スハマソウ(州浜草)、ケスハマソウ(毛州浜草)とがあり、自生地や花色、葉など、厳密には4種類に区別されています。園芸店に入る雪割草は、オオミスミソウ(大三角草)がほとんどであると。ここの園の開花情報でも「オオミスミソウ (大三角草)」と書かれていた。自生しているものもあったが中には移植されたものも。中段の”日本かたくり群生地”を見下ろす。多くの方が座り込んで撮影。撮影者をズームアップ。ここにもショウジョウバカマが咲いていた。”白花かたくり” のネームプレートがあったのだが。まだ白花は開花前か紫色のみが咲いていた。菊咲いちげ先程は「キクザキイチゲ」とカタカナで書かれていた。キクザキイチゲは白色~紫色の花弁状の萼片を持つ花を一輪つけ、白色が咲いていた。紫色のキクザキイチゲ。”みつばつつじ”も満開に。坂道の遊歩道を上ると、工房ゆう(陶芸)の一角に ”UNI・MAR CAFE” がオープンしていた。”UNI・MAR CAFE” の隣に写真館。いろんな写真が展示されていた。左:黄花カタクリ、右:カタクリとショウジョウバカマ隣の ”UNI・MAR CAFE” からコーヒのいい香りがしていた。豆を挽く音も、オーダーごとに挽いてくれる本格的なカフェであったのだが。西洋・オキナ草キンポウゲ科に属する顕花植物の一種で、ヨーロッパの石灰質草原で地元で見られ、庭で広く栽培されている。それは密接に関連しているアネモネ属の一部と見なされている。アネモネに似た ”セイヨウオキナグサ” 。ズームアップ。ヒダカソウ (日高草)ヒダカソウはキンポウゲ科キタダケソウ属の多年草。高山植物である。分布は、北海道日高山脈南部のアポイ岳に特産する固有種で、かんらん岩・蛇紋岩等のアルカリ性土壌の草地に生育する。移植されたのであろうか。花茎の高さは10~25cmで、先端に直径約2cmの白い花をつける。萼片は5枚あり、さらに8~12枚の花弁がある。花期は5~6月。葉が展開するよりも先に開花。Canon EOS 70D、73mm、f/5、1/100、ISO125 をトリミング。斜面に咲く雪割草。可憐な雪割草である。タッタ草 (竜田草)タツタソウは日本では、古くから春の山野草として親しまれ、たいへん人気がある植物です。野生のものは中国東北部や朝鮮半島北部に見られ、主に山地の明るい林床に生える、東アジアの野草である。メギ科、タツタソウ属の落葉性多年草。草丈は20~30cmほどで開花期は3~4月ごろ。雪割草であったか。開花前の ”黄花かたくり” であろうか。いろんな色の雪割草の群生。ズームアップ。ズームアップ。12:15シュンラン (春蘭)シュンランは、単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。名称の由来は「春蘭」で、春に咲くことからついた。この仲間は古くから東洋ランと呼ばれ、名花・秀花の選別も多く行われ、古典園芸植物としても親しまれている。 ー 続く ー
2024.04.14
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城山かたくりの里を訪れるのは三度目になるか。3月27日(水) 11:05入口には「開園 9時 ~ 日没、ペットを連れてのご入園は御遠慮下さい 園内禁煙」と。看板には「かながわの花の名所100選 城山かたくりの里」。多くの高齢者の方が訪れていた。入場券には通しナンバーがなく「入場者?万人」とかの記念品はないようだ!入園料:500円(小学生以下無料)入口の看板には、3/20(祭) ~ 4/7(日)まで 直通バスが運行しています。 ・往復バス+入園券 1,500円 ・片道バス+入園券 1,000円 ・お帰りのバス (500円) のみもご利用できます。JR・京王線橋本駅南口徒歩7分「アリオ橋本店前」←→「城山かたくりの里」。3/27(水) 開花状況「かたくりの花」は6割 ~ 咲き※ 突然変異で咲く大変珍しい「白花かたくり」が咲いています。昨日までの恵みに雨と今日の好天で開花が進み見頃になりそうです。「かたくりの花は」朝、お日様を浴びて花びらが開き、夕方になると閉じます。雨やくもりの寒い日は花は開かずうつむいたままです。花の寿命は一週間です。・「黄花かたくり」の最初の一輪が陶芸工房の入口で咲きました。黄花かたくりは日本かたくり(紫色)のあとに咲き見頃は4月上旬です。 ※ 昨年(2023年)の満開は 3/22 一昨年(2022年)の満開は 3/27 でした。 毎年、見頃は異なります。今年は遅めです。下段には現在園内で咲いている、山野草や花木がリストアップされている。頂いたパンフレットかながわの花の名所100選 城山かたくりの里城山かたくりの里 花マップ反時計まわりで黄色の矢印方向から巡った。周辺のハイキングコース。入園受付の横には休憩所であろうかストーブが置かれていた。入口辺りにトイレ施設園内のトイレはこちらだけです。山の上にはありません。カタクリの生殖カタクリは多年草で、実生苗から有花個体になるまで7~8年を用し花を咲かせるまでには長い長い準備期間が必要であり花を咲かせた後も長く生き続け環境さえ良ければ数年連続して花を咲かせると言われています。カタクリの好適地は、排水の良いやや湿り気の多い適度に光のさす比較的乾燥しない土壌を好むとの事。カタクリは雪とのかかわりの深い植物であり、東北地方に自生地が多いと言われています。入口方向を見る。昨日が雨だったので多くの人が訪問。城山町総合環境保全条例により指定されている保護植物「カタクリ」原野や山地にはえる多年草。早春に細く柔らかい花茎を出し、その中央部に通常2個の葉をつける。花被片は6個、紅紫色でそりかえる。寿命は 15年 ~ 20年といわれ、そのうち 7 ~ 8年は成長段階である。保護植物の種類 科 名:ユリ科 属 名:カタクリ属 種 名:カタクリ 学術名:エリスロニウム ジャポニカム指定年月日 平成9年3月1日保護区域内の 保護区域内で指定された保護植物を、町長の許可を受けた場合を除きそれ行 為 制 限 を採取、損傷することはできません。たとえ、種子でも同様です。 ※ 違反をしますと罰則が科せられます。保護区域面積 1,934㎡ 城山町川尻字小野4275-1 面積 1,503㎡ 城山町川尻字小野4301 面積 431㎡町内で希少、貴重となったカタクリを皆さんの手で大切に保護しましょう。 城 山 町だんこうばい (壇香梅)ダンコウバイは、クスノキ科クロモジ属の落葉低木、小高木の一種。別名でウコンバナ、シロヂシャともよばれる。和名の由来は、実や葉、また材が檀香のように香り、花がウメに似ていることによる。丸みのある浅く3裂した葉が特徴である。だんこうばい 壇香梅(ウコンバナ) クスノキ科紅みつまたみつまた可憐な雪割草ユキワリソウは、サクラソウ科サクラソウ属の多年草。高山植物で日本全土の亜高山帯から高山帯に自生する。下から ”かたくり” を見上げるかたくりは背丈が15センチほどで個体が低いため膝を地面につけ撮影。前回ズボンの膝を汚したため膝当てを購入していたので今回使用。かたくりは朝お日様を浴びて花びらが開き、夕方になると閉じると。また、花の寿命は一週間と長い。かたくりの撮影はカメラ目線を下げ地上から。色違いの雪割草雪割草は春一番に雪をわって春の到来を知らせてくれる山野草。種類の多さからもファンも多い魅力的な山野草である。バイカオオレンバイカオウレンはキンポウゲ科オウレン属の多年草。別名、ゴカヨウオウレン。既に咲き終わったバイカオオレンであろうか。ショウジョウバカマショウジョウバカマは、メランチウム科ショウジョウバカマ属の多年草。北海道から九州までの、やや湿った場所に生える。垂直分布が広く、人里近くの田んぼの畦道から高山帯の高層湿原まで生えている。ズームアップ。長寿桜 (ちょうじざくら)ジンチョウゲ科 ジンチョウゲ属。開花時期は 3月 ~ 4月。落葉性の沈丁花の仲間で、ほのかに香る青紫色の花を咲かせる。株元から枝を茂らせ、満開時には花で覆われる。盆栽仕立てや切花としても重宝される。ズームアップ。園内には ”日本かたくり” の群生地が3カ所あり一番下の群生地。ズームアップ。カメラ目線を下げ撮影。廻りでは皆さん座り込んで撮影。ズームアップ。ショウジョウバカマズームアップ。更に花をズームアップ。雪割草を上から撮影。カメラ目線を下げ雪割草を撮影。かたくりも撮影。露出を下げて撮影Canon EOS 70D、63mm、f/5、1/80、ISO160Canon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/125、ISO160マムシグサマムシグサは、サトイモ科テンナンショウ属の多年草で有毒植物である。雪割草ここからは幻想的に雪割草を撮影。Canon EOS 70D、60mm、f/5.6、1/100、ISO100Canon EOS 70D、60mm、f/5、1/80、ISO16011:40Canon EOS 70D、60mm、f/5.6、1/100、ISO100 ー 続く ー
2024.04.12
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弘済寺のご住職の奥様から紹介された「広町パークゴルフ場の春めき桜」を見に行くことに。3月21日(木) 15:10県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) を戻り言われた「カードック矢野」から左方向へ。坂を下ると狩川へ。橋の名は小川口橋。橋の手前に道案内で「広町パークゴルフ場/最終処分場」と。また橋の手前右側に”道祖神”であろうか、供え物もあった。古い橋の親柱には「小川口橋」と。橋の手前に「重量制限 この先、小川口橋は、6tを超える車両は通行できません」と。広町パークゴルフ場の春めき桜所在地:神奈川県南足柄市広町 231小川口橋から狩川に沿って下り前方対岸に ”春めき桜並木” が満開になっていた。狩川の右岸に約50本植えられている。この辺りからも遠く相模湾が見える。下流側に春めき桜の「春木径・幸せ道」がある。観光客も少なく隠れたスポットになっているのでは。まだ樹齢は若いようだが。狩川の下流をズームアップ。途中案内板を見て気になっていた「最終処分場」へ行くために上流側へ戻る。左折し狩川に架かる新上河原橋を渡る。最終処分場までは500mと。南足柄市最終処分場所在地:神奈川県南足柄市雨坪 595一般廃棄物の種類:焼却残さ・焼却飛灰・破砕残さ ・・・。埋立処分の期間 :平成17年 月 ~ 令和10年 月門柱には「南足柄市最終処分場」と。外の道路脇に車を停め敷地内へ。受入れ棟であろうか。眼下には浸出水の貯留槽であろうか。15:25南足柄最終処分場から下り、広町パークゴルフ場の駐車場へ。駐車場は広く無料であった。満開になっている春めき桜。南足柄市広町パークゴルフ場パターゴルフを楽しむ高齢者グループ。下流側に同じ春めき桜の「春木径・幸せ道」があるが訪れる人も少ない。こちらは約50本だが、下流は171本植えていると。狩川沿いの遊歩道は砂利道。ペットのワンちゃんも綺麗な洋服を着せられ記念写真。飼い主に「双子ですか」と聞くと「NO」と。まだ樹齢は10年ぐらいか、10年後にはどのような光景になっているのであろうか。ぼんぼり状に花をつける春めき桜。薄いピンクの春めき桜をズームアップ。この辺りの狩川は急流であるので堰堤が設けられている。スローシャッターで撮影するが三脚が必要。15:30広町パークゴルフ場の春めき桜を最後にし帰路につく。狩川沿いにあった「道祖神」。狩川に沿って下る。県道723号線(関本小涌谷線)の大雄橋交差点。左折すると大雄山駅前、大井松田インタだが、右方向へ進み一般道を選択。交差点角に鎮座する「地神」。所在地:神奈川県南足柄市飯沢 飯沢(バス停)富士フイルム南門前から東方向へ走り、小田急小田原線の柏山(かやま)駅へ。栢山駅前で県道720号線(怒田開成小田原線)と合流して南下。県道720号線(怒田開成小田原線)を南下、尊徳記念館前を走る県道720号線の飯田岡入口交差点の南を左折して県道717号線(沼田国府津線)を東へ走る。東富水小学校入口交差点、右前方は小田原テニスガーデンの照明灯。前方は県道717号線の小田原アリーナ入口交差点。交差点を左折すると「小田原アリーナ」。小田原アリーナは、小田原市中曽根にある屋内競技施設である。Fリーグ、湘南ベルマーレが本拠地として使用している。メインアリーナは3400m²の広さがあり、バスケットボールコートなら4面同時に確保できる。富士見大橋西詰往路は東詰を右折して北上した。前方の建物は「鈴廣かまぼこ株式会社恵水工場」。直進すると西湘バイパスに入り有料になるので左折して国道1号へ。16:10ここ国道1号の親木橋交差点を左折して橘インター入口交差点へ向けて走る。この先のコンビニに立ち寄りおにぎりを購入。橘インターから西湘バイパスを走り大磯港辺りで渋滞、自宅へは17時に到着した。 この日の走行距離は、90キロ、歩行数は約11,000歩であった。 END
2024.04.10
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足柄神社から道幅1間ほどの狭い足柄古道を下り県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道)へ 。3月21日(木) 14:25左方向は県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の御殿場方面。右側が下って来た足柄古道。道路脇に、「宗教法人 足柄神社入口」「足柄古道入口」の案内板。下って来た足柄古道の道路脇に石碑が建っていたので歩いて引返す。足柄神社へはこの先を左方向へ。道幅が狭いので所々にすれ違いのスペースが設けられていた。弘西寺堰碑所在地:神奈川県南足柄市苅野 191-1弘西寺堰碑漢字カタカナで刻まれていたが判読できなかった。 昭和戊辰二月 猪瀬博愛書ネットで調べるとこの石碑は大正関東地震の被害についての石碑であるが、安政年間の地震についても記述がある。この時期に、南足柄周辺で大きな地震は知られていないが、上流の ”川入堰の碑” にも安政6年に被害を被ったとの記述があると。石碑前から足柄古道を歩いて下る。この先の道路脇に車を停め散策した。向かい側手前には ”松田警察署 苅野駐在所” があったが、駐在所は不在で、交通量も少なく。駐在署前から五百メートルほど下り、カーナビの案内で狭い道を左折して広場へ駐車。参道入口に多くの石碑が建っていたので県道へ戻る。参道入口に「大門通り」と。一段高いところに左から「浅間大神」「堅牢地神」「○○○佗佛」。右奥には「庚申塔」「双体道祖神」、一番奥には「南無大師遍照金剛 木食観正」と。その側面には「文政二己卯年二月現任實乗代造立之」と刻まれていた。因みに ”木食観正(もくじきかんしょう)” は、文政の頃(1818 ~ 1830年)、小田原宿に滞在して、酒匂平野一帯で諸人救済の生仏(いきぼとけ)として崇敬された遊行僧であると。県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の大雄山駅方向に立つ案内板。振り返れば矢倉岳。県道から弘済寺への参道。入口両側に石碑が建っている。右側の石碑。石碑には「四國八拾八箇所順○○○」と。参道を入り民家の庭先に綺麗に咲いていたツバキ。直径10センチほどの大輪であった。道幅一間ほどの狭い参道であった。右側の塀際に石碑。車はこの先の広場に停めた。石碑には「南無○○」と。スマホで目的地の弘済寺を調べるとまだ先であったので車で移動。民家の敷地に「馬頭観世音」の石碑。年月が刻まれていたが読みとれなかった。14:40弘済寺の駐車場へ到着。西方向に矢倉岳。弘済寺 (こうさいじ)所在地:神奈川県南足柄市弘西寺 131弘済寺は、東寺真言宗の寺院で山号は法雨山、院号は金剛幢院。本尊は不動明王。南足柄七福寺めぐり預かり寺である。弘済密寺とも称される。弘済寺地蔵堂山門前左側に建つ地蔵堂。毎年7月23日に子ども達の健やかな成長を願って、おじぞうさんのお祭り【弘済寺地蔵まつり】が行われますと。かつては ”木造地蔵菩薩座像” が安置されていた地蔵堂。地蔵堂前に建つ説明板。木柱には「市指定文化財 木造地蔵菩薩座像」と。木造地蔵菩薩座像 (弘済寺)本像は像高三八センチ、寄木造、玉眼、肉身は漆箔、着衣は褐色漆塗、裳裾を台座よりさらに下にたらしている法衣垂下像である。白毫・玉眼・台座・光背は後で補修されている。ひきしまった顔、バランスのとれた体躯などよくまとまった作である。胎内には次の意味の修理銘札が納められていた。「地蔵尊の再興施主雨坪村後藤太郎右衛門、鎌倉仏師後藤勘弥、元禄一三庚辰年(1700) 六月上旬相模國足柄上郡苅野荘弘済寺村法雨山弘済寺金剛憧院現住法印権大僧都大阿闍梨覚源欽修」この時、前記の白毫・玉眼等の修理がされたのであろう。法衣垂下形式の地蔵座像は大変珍しい。鎌倉時代末から南北朝時代の作である。 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会地蔵堂前に並ぶ石仏群。大きな石碑には「光明直言供養」と。一番奥(南側)には、古い石祠、庚申塔。地蔵堂の境内に聳える二本のコウヤマキ。片方は「高木になるので先端を切った」と。コウヤマキの下に並ぶ石仏。どれも苔むして歴史を感じさせる石仏である。左側には「南無大師遍照金剛」と刻まれた石碑。地蔵堂前から山門。弘済寺の山門山門の扁額「法雨山」。本堂前に満開の春めき桜が咲いていた。丁度ご住職の奥様が出て来られ談笑。春めき桜を頂き植え樹齢は5年と。本堂に修復された「木造地蔵菩薩座像」が安置されているので見て下さいと。本堂の扁額「弘濟寺」。奥様の案内で本堂に上がる。本堂内?にはユニークな ”田中太山のふすま絵” があり、言えば見せていただけると。住職の法話は「仏は私の中に・・・」と(以上、ネットから)。地蔵菩薩及び二童子像真言宗立教開宗1200年記念事業令和5年(2023)、弘法大師空海様により真言宗が立教開宗されて1200年を迎えます。 弘済寺では当山地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像の大修復を行うことといたしました。そして繋がりのある方々、参拝される方々の格別の真心でお地蔵様と深いご縁を結んでいただき、造像当初の尊容を復元するため文化財的手法による保存修理事業にご協力を賜りました。 先人たちが、その大いなる信心で私たちに残してくれた弘済寺のお地蔵様を次の世代に継承していくことは、この時代にここに生きる私たちの勝縁と捉え、この貴重な事業にご賛同賜りありがとうございました。 合掌 住職 玉野 真永 (ネットから)修復に当たって台座後背、地蔵の金泥が一部剥がれていたが住職から「30年見慣れたままでとの要望から今のままで修復した」と。修復は栃木県鹿沼市の三人の女性が営む「三乗堂」へ依頼。修復作業をネットから「700年前の仏像の中から」👈 をクリック願います。地蔵菩薩及び二童子像 木造 [地 蔵]鎌倉~南北朝時代14世紀 [二童子]南北朝時代 14世紀 南足柄市・弘済寺弘済寺地蔵堂の本尊。地蔵菩薩は左手に宝珠をのせ、右手に錫杖を持つ。二童子は、中尊よりも後に造り足されたと考えられる。掌善童子と掌悪童子は日本で撰述された儀経『仏説延命地蔵菩薩経』に説かれる。彫像の掌善・掌悪童子では最も古い作例となるかもしれない。足柄地域では鎌倉時代以降、多くの地域菩薩像が造られた。 地蔵菩薩座像地蔵像の中にはかつて修理された際の修理銘札元禄13年(1700)に鎌倉仏師 後藤勘彌による修復が行われた事が残されていたと。今回の修復後には新しい巻物に「疫病退散」等を記載し納めたと。本堂から降り立ち山門を望む。境内に立たれる弘法大師像。台座には「南無大師遍照金剛」と。15:05弘済寺の駐車場から、満開の春めき桜と矢倉岳とのコラボ。この後、ご住職の奥様から紹介された「広町パークゴルフ場脇の春めき桜」を見ることに。 ー 続く ー
2024.04.09
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人の気配がしない静寂とした足柄神社の散策を続ける。3月21日(木) 14:10足柄神社社殿は平成二十年に調査が行われ、いくつか特徴的なことが分かった。現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいるが、もとは独立して建っていたと。また、本殿は県内でも数少ない大型社殿であるとのことで、時計回りに廻ることに。拝殿から廊下でつながる本殿。本殿は三間社入母屋造で、桁行十五・五尺、梁行十一・七尺あり、県内でも数少ない大型社殿。材質は欅の素木仕上げで、堅固さと優美さを備えています。本殿の建築年代は、境内の由緒碑によれば、慶応二(1866)年三月と記されてる。本殿の懸魚 (げぎょ)。各所には、獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されている。本殿の海老虹梁 4本を見上げる。本殿左側の脇障子には、松・唐獅子・2匹の子獅子。本殿、幣殿、拝殿と繋がる立派な社殿である。スギの木を見上げる。ネームプレートには「南足柄の、古木、名木、ゆかりの木 スギ スギ科」と。本殿の裏側も唐破風の形状に。本殿の座の木組みも匠の技。本殿右側の脇障子には、松・唐獅子・子獅子。右側からの社殿。社殿を一周したが綺麗に清掃されていた。拝殿右側から境内、鳥居を望む。足柄神社から右下にある、「苅野観音堂」へ向かう。この道は足柄古道。階段を下り、「苅野観音堂 (本地堂)」 へ。所在地:神奈川県南足柄市苅野 274観音堂は足柄神社の参道左側にあり、本地堂という名前で呼ばれている。昔の神仏混淆がそのまま残っている状態です。お堂の前には、幾つかの石造物が並んでおり、その一つには高遠石工の銘が刻まれていると。観音堂 (本地堂)足柄明神の本地仏聖観世音菩薩像を祀った堂です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んだった本地垂迹(すいじゃく)説 (仏が人々を救うために神に姿を変えて現われたとする神仏同体の考え)によって建てられたお堂なので、昔は矢倉明神の別当寺弘斉寺が管理していました。現在は旧苅野岩村57軒で管理しています。縁日は、8月9日で、昔は苅野岩村地区の念仏講中が念仏を催し、若者講中が燈籠をつけるなどして賑わったそうです。境内には300年もの庶民信仰を語ってくれる庚申塔などの石仏、石祠群があります。入口右側に並ぶ庚申塔群。庚申塔群が並び中央に笠付庚申塔。後方の階段を上ると足柄古道、足柄神社へ。左から「寶暦八戌寅年 南無阿弥陀佛」、中央に「三界萬霊」、「笠付庚申塔」。入口左側に並ぶ、笠付庚申塔、石碑。一番右側が、高遠石工の銘が刻まれている「読誦塔」。石塔には「法華経四千託供養塔」。裏面に「石工 信ノ有光 文政四年十二月」と。現在も旧苅野岩村地区で管理されているので、境内は綺麗に整備されていた。観音堂の扁額「聖観世音」。外陣は板の間に。外陣の奥に内陣。扉には注連縄、折り鶴が飾られており定期的に開放されているのか。観音堂の南側。聳える樹々も枝が下ろされ管理が行き届いていた。昔は苅野岩村地区の念仏講中が念仏を催し、若者講中が燈籠をつけるなどして賑わったようだが。現在はどうなのかと気になるが・・・。この雰囲気で巫女さんが踊る姿も見てみたいものだが、又神楽も。境内は苔むして絨毯の如くにふんわりと。入口左右に、南無阿弥陀佛、念仏供養塔、三界萬霊搭、笠付庚申塔等が祀られている。観音堂入口から南側の参道を見下ろす。鳥居前の道路は県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) 。参道を少し下り鳥居をズームアップ。途中で折り返し足柄神社境内へ上る。足柄古道の京都側。由緒にも書かれていたがかつてはここが馬場であったと。(この後参拝した ”弘済寺” の住職の奥様からも)。足柄神社の拝殿、神輿庫。神輿庫の左奥に「足柄神社石祠群 十二基」が並ぶ。この後、次の目的地「弘済寺」へ向けて足柄古道を下る。14:20地元の氏子の皆さんの手で整備された足柄神社を後にする。 ー 続く ー
2024.04.08
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右上の南足柄市運動公園から怒田の丘陵地を走り、南側の県道78号線(御殿場大井線)へ。南足柄市の市域のほとんどはスギを中心とした森林が広がる山間部である。左下が現在地の狩川に架かる「一色橋」。3月21日(木) 13:40交通量が少ないスギ林の中を走り県道78号線(御殿場大井線)と合流、狩川に架かる一色橋。親柱に「一色橋」。南足柄市運動公園からの道を振り返る。農道のため交通量が少なかった。この辺りのMAP(現在地は赤丸)「農林水産省補助事業 広域営農団地農道整備事業 地 区 名 :小田原-南足柄線 延 長: 21.2Km 幅 員: 5.5 m 受益面積: 1.044ha みかん栽培が多い」。県道78号線(御殿場大井線)の足柄峠、御殿場方面。この道は箱根仙石原の帰り、足柄峠へ向かうために何度か走った道であるが交通量が少ない。この先の道路脇に石碑が建っていた。石碑は苔むして字が読み取れなかった。石碑の下に施設があり階段を下りる。施設にあった制御盤には「苅野調圧池テレメーター (子局) 盤」と。石碑から県道78号線(御殿場大井線)の大雄山駅方向を望む。一色橋の下を流れる狩川 (かりがわ) 。狩川は、足柄平野西部を流れ酒匂川に合流する二級河川。二級河川部分の延長は13.64kmである。南足柄市の金時山東斜面に源を発し北上、その後足柄街道(県道78号線)に沿って流れる。一色橋この一色橋は広域農道建設事業で架けられた橋。下の橋は役目を終えた「前田橋」。橋の手前に「重量制限 この先、前田橋は、3tを超える車両は通行できません」と。他の方のブログから昭和30年頃に造られたと。前田橋から一色橋を見上げる。一色橋から県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の坂道を大雄山駅方向へ向けて下る。目的地を「足柄神社」にセットして走り、道路脇に石碑群があり車を停める。足柄街道沿いの石碑群所在地:神奈川県南足柄市苅野 北幼稚園前バス停近く五基の石碑が建っていた。右側から「成田不動尊 百番観世音菩薩 河﨑弘法大師」二番目は、歌碑であろうか三番目は「富士〇」と。四番目の小さな石碑には「御中道十三度 登山三十三度大願成就」五番目には「登山三十三度大願成就」と。左の四番目には「御中道十三度 登山三十三度大願成就 御内八湖修行 社長○○○」と。北幼稚園前バス停、後方にはおにぎり形の矢倉岳。この後、カーナビの案内で左折し坂を登り足柄神社へ向かう。14:00足柄神社所在地:神奈川県南足柄市苅野 274県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) から狭い道を上り足柄神社境内へ。下って来たこの道は足柄古道であろうか。境内に車を停め散策開始。足柄神社からまず足柄古道を下り神社の杜を振り返る。左側には矢倉岳。いつもは遠くから見ている矢倉岳をズームアップ。この辺りの足柄古道は直線的に坂を登っている。この道はかつて、流鏑馬、鉄砲馬場として使われたようだ。右斜めに進むと足柄神社の鳥居。鳥居の手前に手水舎。鳥居を入ると正面に足柄神社社殿。護衛艦「あしがら」No.178 (イージスシステム搭載)艦名「あしがら」の由来日本では、護衛艦の名称を付与する標準として天象、気象(月、日、雨、霧、雲、四季等)、山岳、河川、地方の名から採用されていますが、本艦の名称は、神奈川県と静岡県の県境近くにある、箱根連山の足柄山に因んで命名されています。本艦「あしがら」は二代目になりますが、初代「足柄」は、日本帝国海軍において大型重巡洋艦に命名されております。また、就役にあたり天照大御神や日本武尊が祀られている、当地の「足柄神社」で安寧を祈願されており、その分霊が護衛艦「あしがら」に祀られております。護衛艦「あしがら」は、海上自衛隊が建造した六番目の「イージスシステム」搭載の護衛艦で「こんごう」型の改良型です。「あたご型」の二番艦として、平成二十年三月に就役しました。本艦は、優れた対空戦闘能力を有すると共に対水上戦、対潜水艦戦においても、最新の装備を導入し、広範な任務に対応できる護衛艦であります。海上自衛隊は、「海上からの侵略に対して、我が国土を防衛するとともに我が国周辺の海域における海上交通の安全確保」の任務を主としており「あしがら」もこの一翼を担うべく、装備の全能力発揮をめざし訓練に励んでおります。海上自衛隊 護衛艦「あしがら No.178」 (2006年)【艦 暦】 進 水 2006年8月30日 就 役 2008年3月13日【性能諸元】 揚水量 基準 7,700トン 兵員 300名 満載 10,000トン 兵装 Mk45 Mod4 5インチ60口径 全 長 165m 単装速射砲 1門 全 幅 21m SSM-BSSM 4連装発射機 2基 喫 水 6.2m 324mm3連装短魚雷発射管 2基 機 関 COGAS 2軸 GIWS MK-15BlockIB 2基 石川島播磨重工業製 Mk41 VLS 96セル LM2500ガスタービン スタンダードミサイル(SM-2MR) 4基 100,000ps アスロック対潜ロケット 最大速 30ノット以上足柄神社の由緒足柄神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の帰路に白鹿に化けて顕れた神とされ、足柄明神(足軽明神)と称し足柄峠に鎮座、「神奈川県神社誌」ではその創建を天慶3年(940)としています。足利尊氏と新田義貞とが争った建武2年(1335)頃には新田義貞が足柄明神の南にある原野に陣取ったと「梅松論」に記載されていますが、いつしか矢倉岳に遷座、矢倉明神社と呼ばれていました。最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師の頃には既に当社は矢倉澤へ遷座していたとされます。矢倉沢郷と称される当地一帯18ヶ村の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し郷社に列格していました。昭和14年(1939)足柄神社と改称、南足柄の総鎮守です。唐破風の拝殿。見事な龍の彫り物。木鼻も。拝殿の扁額「足柄神社」。右側からの海老虹梁、木鼻。足柄神社社殿足柄神社は、かつて坂の神として足柄峠に祀られたとされる足柄明神が矢倉岳、更に現在の苅野に遷座し矢倉明神社と呼ばれていました。昭和十四(1939)年に足柄神社に改称されて、今も南足柄の総鎮守として信仰を集めています。平成二十年に社殿の調査が行われ、いくつか特徴的なことが分りました。現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいますが、もとは独立して建っていました。本殿は三間社入母屋造で、桁行十五・五尺、梁行十一・七尺あり、県内でも数少ない大型社殿です。材質は欅の素木仕上げで、堅固さと優美さを備えています。本殿の各所には、獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されています。本殿の建築年代は、境内の由緒碑によれば、慶応二(1866)年三月と記されています。今回の調査から、この記述が妥当であることが分かりました。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会拝殿前左側には「足柄神社 恒例の儀」が掲示されていた。木柱には「市指定文化財 足柄神社社殿」と。拝殿前から鳥居を見る。護衛艦「あしがら」の説明板が立つ。護衛艦「あしがら」の説明板の左側に立つ石碑には、由緒碑御祭神 日本武尊御創立は天慶五年足柄峠に奉斎建武二年矢倉嶽に遷祀治承四年現場所え再遷座せらる明治六年郷社と定められ同四十年幣帛供進社に指定昭和四年巡洋艦足柄に御霊代を奉斎す 御社号は足柄大明神矢倉大明神矢倉神社昭和十四年後足柄神社と称す 御祭典は当初正月十八日なりしが地理的関係から地域を上中下の三番割となし明治十六年より三月三日四日に変更秋祭は十月九日春は神輿渡御秋は競馬を奉仕の外祈年祭新嘗祭を以て恒例としている 現社本幣拝殿は慶応二年三月権現造として総欅を以て造営される 境内地は四百八十六坪馬場は流鏑馬鉄砲馬場として徳川中期より由縁を以ている 氏子は矢倉沢平山内小市上怒田下怒田塚原日向駒形炭焼所和田ヶ原中沼狩野飯沢浦山猿山関本雨坪福泉弘西寺苅野の二十地区で氏子は千三百七十四戸である尊は足柄峠より南海に開けし海を逆波と呼称され又新羅三郎義光は大食入〇の二曲を〇神に祈〇伝授したことは記紀に明晰〇あり古より家相鬼門〇生産○○の守神として爾来郷土の信仰と崇敬の的となっている 昭和三十四年己亥歳四月十日建之 社殿の右側から。足柄神社 神輿庫境内の右側に石祠が並んでいた。足柄神社石祠群 十二基この石祠群は散乱していたものがいつの頃からかここに集まってきたようです。苅野には二百余年前の村明細帳に山神社・山王社・金山社などがあったと記されています。どの神様がどの祠か今になって○○○ませんが、よく見ると文字が刻まれている祠が三基あります。右から一番目 三番目 願主 杉田○○○ 瀬戸○○ 建之 六番目 當村講中 十五人 文化二乙丑年四月〇日このような石祠群は珍しく大切な遺跡です 平成十七年六月 足柄史談会 調査研究部足柄神社石祠群14:10こちらには「文字道祖神」。 ー 続く ー
2024.04.07
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動物霊苑としても知られている珠明寺(しゅめいじ)の参拝を始める。3月21日(木) 13:00参道を上がり山門へ。山門の石柱には左側に「山色清浄身」、右側に「○○○○〇」。山色清浄身(さんしょくしょうじょうしん)の意味は、この禅語は「山の姿そのものが 清浄な仏さまの心であること」を意味しますと。境内入口の標柱に「伝 上杉憲実一族の宝篋印塔群(南足柄市重要文化財)」と。珠明寺の歴史珠明寺は、室町時代中期の武将・上杉憲実(のりざね)が、父・上杉房方(ふさかた)の供養のために建立しました。そのため寺の紋は上杉家と同じ「竹に飛び雀」です。寺伝には上杉安房守憲基、その子安房憲実、その子右京亮憲忠の三人が開基となり、応永二(1395)年の創建とされています。上杉憲実は当寺の建立にあたり、初代開祖として蘭室妙薫和尚を招いたとされています。蘭室妙薫は京都の出自で、応永年間に円覚寺の第一一七世山主として活躍しています。その後、円覚寺を追放される形で上杉憲実の援助の下、現在の班目下河原に当寺を建立し開山となりました。応永二七(1420)年、“暴れ川”と呼ばれる酒匂川の氾濫によって寺社一帯が流されてしまいました。それ以降、当寺は水害のために移設を繰返しました。江戸中期の享保一八(1733)年、現在の場所に移設され、今に至ります。本尊は聖観世音菩薩像本堂の扁額「紫金光」。本堂前の境内に手水舎、鐘楼 (鐘は寶暦七年の鑄造)、四阿と並んで建てられていた。手水舎の南側には稲荷神社であったか。嵩上げされた鳥居、左側には石を彫り込んだ焼香台。社の前に「○○宮」と。南側の墓地から本堂を見る。裏山の西側にも墓地が広がっていた。西側の墓地の入口には ”水子地蔵尊” 。本堂裏の高台に広がる墓地。南東方面の国府津方向を望む。左奥は小田急線の開成駅辺りであろうか。酒匂川沿いに広がる足柄平野を見下ろせる絶景ポイントである。同場所からカメラを北方向に振ると、東名高速道路が走る松田町方向。河津桜が咲き終わった西平畑公園をズームアップ。手前には酒匂川の堤。墓地の一角に「月光山珠明寺歴代墓地」。歴代住職の墓地に標柱があり「市指定文化財 伝上杉憲実一族の宝篋印塔群」と。伝上杉憲実一族の宝篋印塔群(珠明寺墓地)当寺の開祖と伝えられている蘭室妙薫は、京都の出自で応永年間に円覚寺の第一一七世山主となり、活躍された。その後円覚寺を追放され、上杉憲実の援助で現在の班目下河原に当寺を建立し開山となった。寺伝には上杉安房守憲基、その子安房守憲実、その子右京亮憲忠の三人が開基となり、応永二年(1395)の創建とある。それ以後当寺は水害により移住を繰返した。石塔は向かって左側から憲基、憲実、憲忠の三代の管領の墓と言われている。向かって左の塔は相輪の一部が欠けてはいるが、その他の部分はよく整った立派な宝篋印塔である。中央と右側の塔の相輪はなくなり、五輪塔の空・風輪の部分がのせられている。全体的な形からは室町期頃の造立のものと思われる。 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会上杉憲実一族の宝篋印塔群向かって左の塔は相輪の一部が欠けてはいるが、その他の部分はよく整った立派な宝篋印塔である。中央と右側の塔の相輪はなくなり、五輪塔の空・風輪の部分がのせられている。北東方向の松田山を見る。山頂の右側には ”チェックメイトカントリークラブのクラブハウス”。麓を東名高速道路が走る。右側は ”大井松田インタ” 。墓地を振り返り下山することに。珠明寺は高台にあり絶景ポイントであるが、富士は後ろ側に。本堂の右側に寺務所。バリアフリー化された立派な寺務所である。ペットの受付もしているのであろうか。前日に予約をして火葬もしてもらったと。寺務所は ”唐破風(からはふ)” の建築。唐破風とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法である。寺務所の扁額「順徳」。境内の南側。左側には四阿があり休憩もできる。四阿から境内を見る。境内から坂を下り下の駐車場へ。上の駐車場へはここを上る。境内を振り返る。珠明寺を後にし、近くの「南足柄球場」へ。13:25南足柄市運動公園所在地:神奈川県南足柄市怒田 1734当公園は南足柄市が所有する運動公園で、株式会社アグサ (旧社名:足柄グリーンサービス) が指定管理者として管理・運営を行っている。南足柄市運動公園案内図この日は生憎休みで駐車場も閉鎖されていた。公園内には、ピクニックトリム広場・芝生広場・野球場・テニスコート・多目的広場等がある。広い園内には、春めき桜、ソメイヨシノの他、しだれ桜や寒緋桜などたくさんの桜が植樹され、梅林や秋にはリコリス(彼岸花)で赤く染まる斜面もあり1年中季節の花を楽しむことができる。この施設は指定管理者である株式会社アグサが管理・運営を行なっています。南足柄球場両翼92m、センター120m、収容人数3,000人の本格的野球場で、磁気反転式スコアボードや放送施設も整っている。かつて ”県央中高年齢者野球愛好会” で何度か試合を行った。この施設は平成18年(2006)4月1日より指定管理者である、株式会社アグサが管理・運営をしてまいります。皆様と共に、今まで以上に魅力ある施設づくりに努力してまいります。ご支援、ご協力よろしくお願い申し上げます。 株式会社 アグサ2020年よりベースボール・チャレンジ・リーグ (ルートインBCリーグ) に加入した神奈川フューチャードリームスが公式戦を開催している。13:30南足柄球場1997年7月に野球場が落成し、1999年4月に全面オープンした。2006年度から指定管理者制度を導入している。毎年10月に南足柄市少年スポーツ大会の会場に使用するなど、市民の屋外スポーツ拠点として利用されている。 ー 続く ー
2024.04.06
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荒れた ”朝日観音堂” の散策を続ける。3月21日(木) 12:15朝日観音堂の西側墓地から。右側の木は開花前のソメイヨシノ。ボケが綺麗に咲いていた。春先の花「ボケ」。朝日観音堂の本堂を背景に、本堂の頂きには箱棟。収蔵庫は自治会長さんに事前に予約すると中を拝観できると。葺替えのための募金のお願いはなかったが、次回来た時は本堂の葺替えは終了しているか。次の目的地は近くにある「若宮八幡宮」へ。カーナビの案内で丘陵地を上る。畑の中に石碑があったが字は風化して読めなかったが道祖神であろうか。カーナビの案内で狭い道路を上る。目的地を通り過ぎたので路肩に駐車。廻りはミカン畑でのどか。上って来た丘陵地にはミカン畑が広がっていた。アサヒビールの神奈川工場の敷地もこのような場所に開発されたと。丘の上にソメイヨシノの木が聳えていた。農道から階段を上ると新しい社殿が建っていた。若宮八幡宮所在地:南足柄市怒田長尾天神社・若宮八幡宮合殿の創建年代等は不詳ながら、長尾天神社が若宮八幡宮社地に遷され合殿で祀られている。社殿の扁額は「若宮八幡宮」。境内に建つ石碑には、「寄附 若宮八幡宮参道○○ 一式 永田組社長 永田〇雄殿」と。境内の左奥には新しい石祠も。境内の斜面には春の味覚 ”ふきのとう” が花びらいていた。頂こうかと思ったが遅かったようだ。境内の右奥に石碑。木の根元に新しい「文字道祖神」。道祖神には「昭和四十六年一月吉日再建 若宮講中」と。丘の上の「若宮八幡宮」を振り返る。若宮八幡宮の後、事前に調べていた「平等寺」を見落としていたので ”朝日観音堂” へ戻る。朝日観音堂の東側にある「平等寺」の山門は閉ざされていた。山門には「東寺真言宗 朝日観音 平等寺」と。東寺真言宗寺院 平等寺の概要平等寺は南谷山奥蔵院と号す。平等寺は、尊觀(延慶2年1309年寂)が嘉元2年(1304)に開山、明治維新まで朝日観音堂や長尾天神社、若宮八幡神社などを擁していたと。山門は閉ざされていたが現在はどうなっているのか。山門前から朝日観音堂を見る。12:50平等寺から次の目的地「南足柄球場」方向へ北上。昼食時を過ぎ店らしきものがありこの先で車を停め引返す。道路脇に石灯籠、石碑があり坂道を上るが何もなく折り返す。石碑には「堅牢地神尊」と彫られていた。来た道を戻り三差路に石碑が建っていた。近寄ってみるが字は確認できなかった。喜加久堂菓子舗所在地:神奈川県南足柄市怒田1458肝心な店へ戻るが店は閉まっていた。店先にはいい香りが漂っていたのだが。窓に貼られていた貼り紙には、<閉店のお知らせ>平素より ”きかく堂スウィート” をご利用いただきありがとうございました。誠に勝手ながら、当店は3月31日を持ちまして閉店することとなりました。開店以来のご愛顧、誠にありがとうございました。 店主13:00何も買えず”喜加久堂”から北上。道路脇に立派なお寺があり参拝することに。坂を上ると境内の駐車場へ行けるのだが道路脇の駐車場へ車を停める。臨済宗珠明寺 (しゅめいじ)所在地:神奈川県南足柄市怒田1528珠明寺動物霊苑としても知られているお寺である。参道下に多くの石仏が並んでいた。階段の参道右側に並ぶ石仏群。左側の石碑。左側は「萬霊寺」、右側には「臨済宗円覚寺派 月光山珠明寺」と。13:00参道から見下ろす。 ー 続く ー
2024.04.05
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旧アサヒビール神奈川工場の春めき桜を愛でた後、次の目的地「朝日観音堂」へ。3月21日(木) 11:45この後、右側の道へ入るが道が狭く戻ってくることに。11:50立派な枝垂れ桜があったがまだ硬いつぼみであった。右上は先程旧アサヒビールの入口を撮影した場所である。入口にあるメタセコイアが見えてきた。旧アサヒビールから下り、この先の交差点を左折してこの場所へ。この道は伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅からの道である。この交差点を左折すると、一ノ堰を通り県道74号線(小田原山北線)の福沢小学校北側交差点へ。南下すると大雄山駅方面へ。道路脇に石碑が建っていたので停車。この道を北上すると ”南足柄球場” があり試合で何度か走った道である。道路脇に石碑。石の上に置かれていたが「双体道祖神」。道路脇にはバス停「富士通 朝日観音入口」。ここを左折して「朝日観音堂」へ。12:00朝日観音堂手前の広場に車を停める。朝日観音堂所在地:神奈川県南足柄市怒田2179朝日観音堂は非常に古くからある観音堂で、現在の観音堂は、江戸時代中期の建築。茅葺の屋根や床下の亀腹と呼ばれる土壇に特徴がある古い形式の建築物である。左手前の収蔵庫には神奈川県の重要文化財にも指定されている平安時代作の聖観音立像と兜跋毘沙門天像が保管されています。ここには、藤原範茂の従者の墓と伝わる墓石も残っている。名前の由来は、周囲を山に囲まれたこの地区にあって、朝日がよく当たる所に建てられているところからついたとの伝承がありますと。茅葺の朝日観音堂の屋根をズームアップ。古くなり今にも崩れ落ちそうな状態になっていた。観音堂のまだ新しい収蔵庫。朝日観音堂 木造聖観音立像 木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像 小仏像朝日観音堂は、江戸時代中期の建造と推定され、一辺が四間の宝形造で、基礎は、赤土を固め表面に白い漆喰を覆った、亀腹と呼ばれる土壇です。聖観音菩薩立像(像高133cm)は、平安時代の作で内刳りのない一木造りの像で、後世の補修が多く入っており、地方仏に見られる面相と、都の影響を受けたと思われる裳(も)や天衣の表現を併せ持つ像です。三躯の兜跋毘沙門天立像のうち一部欠損している像(像高132.5cm)は、平安時代の作です。このほか、平安時代から江戸時代までの小仏像十三躯が安置されています。朝日観音堂は市指定文化財であり、聖観音立像や兜跋毘沙門天立像、小仏像は県指定文化財です。 平成二十三年三月 南足柄市教育委員会木柱には、 県指定文化財 聖観音立像 兜跋毘沙門天立像 (三躰) 小 仏 像 (十三躰)道路を挟んだ東側に社。竹林の囲まれた社であったが。正面から扁額もなく名称は?朝日観音堂の境内右側に石碑、石像が立っていた。岩肌を掘り抜いた中に石像、石碑が三体。右側の笠付き墓塔には「山王大権現」と確認できた。また「元禄・・・・・」も。中央には「木食・・・・・」とかすかに。左側には「地蔵」。朝日観音堂の本堂を右前から。本堂廻りには立入禁止のロープが張られていた。本堂の扁額は「正観世音」と。本堂右前に舟形手水鉢が置かれていた。舟形手水鉢本堂前の木柱には「市指定文化財 朝日観音堂とその土壇」。朝日観音堂とその土壇観音堂は、江戸時代中期の建造と推定され、一辺が四間の宝形造で、頂きは、箱棟でまとめられている。お堂の本身は外陣と内陣に分けられ、内陣には本尊「聖観音立像」が安置されていた。まわりには高欄の回縁をめぐらせている。このお堂の特徴は亀腹(かめばら)と呼ばれる基礎の土壇にある。赤土で固め、表面を白い漆喰で仕上げた饅頭形土壇で、本身の礎石がすえられている。 南足柄市教育委員亀腹と呼ばれる基礎の土壇が特徴であると。土壇をズームアップ。荒れた本堂を左前から。茅葺は東側が崩れそうになっていた。お堂の本身は外陣と内陣に分けられている。葺き替えてから何年経ているのかそろそろその時期に。現在は上怒田自治会の管理となっているようだが氏子の皆さんに浄財を・・・。ネットで見ると2022年ごろからこの状態に。周りが解放された外陣 (げじん)。本堂の裏側(西側)に廻り込む。枯れた紫陽花の花柄。ドライフラワーに。本堂の頂きは、箱棟 (はこむね) 。箱棟 (はこむね)一般的には寺院等の棟で芯の棟束や野棟等に板を張ったものを言い、瓦関係では箱冠瓦を使用した棟のことを指しても言う。本堂の箱棟とソメイヨシノ。ソメイヨシノをズームアップするがまだ硬いつぼみであった。本堂裏に宝篋印塔が建っていた。木柱には「市指定文化財 藤原範茂卿従者の墓」。境内裏の一段高いところに歴史を感じさせる宝篋印塔と墓石。藤原範茂卿従者の墓藤原範茂(のりもち)卿の従者の墓と昔から言い伝えられている宝篋印塔である。藤原範茂は鎌倉時代に起こった承久の変(1221年)の時、戦に敗れ、捕われの身となる。藤原範茂卿の墓は怒田切通しの丘陵上にある。相輪は石材の質から後補のような感じがするが、形態から室町時代の造立と考えられ全体的に、非常に整った宝篋印塔である。戦前には、地域の人々が相当信仰したようで、墓前に供養のための木刀がたくさん供えられてあったというが、戦後はそういった風習もだんだん廃れていき、今日では、まったく見られなくなってしまった。 総高 一五四センチ 幅 六四センチ 奥行 六四センチ 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会 字が彫られているが長い年月で風化して読みとれず。12:15本堂裏の西側には墓地があったが。 ー 続く ー
2024.04.04
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一ノ堰ハラネの春めき桜を引き続き楽しむ。3月21日(木) 10:50農業用水路上の春めき桜。春めき桜はこの日がピークであったのか花びらが散ることもなく。眼を楽しませてくれた。見上げるとどの枝も満開になっていた。綺麗な水が流れる。シャッタースピードを下げる。農業用水路はここから下流側は蓋をされている。怒田(ぬだ)丘陵の上へ登ることに。法面は急勾配であったが下草が綺麗に刈り取られていた。法面にはダイコンの花が咲いていた。丘の下の散策路を見下ろす。フェンスの左側は、JAかながわ西湘福沢総合選果場。丘の上の遊歩道で地蔵下橋から来れる。根元から枝分かれした春めき桜。ダイコンの花とのコラボ。ダイコンの花とのコラボを楽しむ。お互いに存在感を。丘の上の遊歩道にはベンチがあったのか。丘の上から下り、一ノ堰ハラネの春めき桜を後にすることに。途中、JAかながわ西湘福沢総合選果場を望む。JAかながわ西湘では、かながわブランドに登録されている ”あしがらいちじく” が、箱根のホテルなどでも使用され需要が伸びるなかで、農家の高齢化等による後継者不足が深刻化している。1990年代に50軒あった生産農家は今では半数以下の22軒になってしまったと。このため、後継者育成のため「いちじく塾」を開講、塾生を募集している。南足柄市立 福沢小学校春休みになっているのか静かであった。駐車場の福沢コミュニティセンターへの途中、右側にJAかながわ西湘福沢支店。前方の畑の中に、福沢コミュニティセンター。11:15福沢コミュニティセンターへ戻る。福沢コミュニティセンター内でトイレを借用。福沢コミュニティセンターを後にし次の目的地「怒田の春めき桜」をスマホの案内で進む。前方は”JAかながわ西湘福沢支店”。県道74号線(小田原山北線)を北上、福沢小学校北側交差点を左折して目的地へ。前方左は先程訪れた、「一ノ堰ハラネの春めき桜会場」。地蔵下橋から坂道を上り直ぐの信号を通り抜け直進するとスマホから「目的地です」と。道路脇に一台の車が止まっていたのでこちらも駐車。下り立って春めき桜が綺麗に咲いていたので撮影。道路脇の木柱に「あしがら花紀行 アサヒビール工場」と。今回、南足柄へ来るにあたって以前来たアサヒビール神奈川工場が、その後どうなっているか確認したかった。ぼんぼりのような花を見上げる。11:30旧アサヒビール 足柄工場所在地:神奈川県南足柄市怒田1223令和5年(2023)1月末 操業20年でアサヒビール神奈川工場は閉鎖したと。入口のメタセコイア並木も20年も経つと立派に。以前来た時のブログ「孫の誕生会で熱海へ」👈 をクリック願います。入り口前の高台から工場内をズームアップ。西側を望む。令和5年 (2023) 1月に撤退した神奈川工場 (敷地面積 約41万2千平方メートル) の跡地利用を巡り、アサヒビールが所有していた土地と建物を、連鎖端子の製造企業「日本端子」(平塚市)が取得したと。立ち入り禁止の入口から来た道を振り返る。旧入口から更に西側へ上り旧出荷門のフェンスに、「アサヒビール株式会社神奈川工場閉鎖に伴う 生産設備除去及び安全設備復旧工事 施工 清水建設」と。右側は「労災保険関係成立票」事業期間 自 令和5年4月 1日 至 令和6年3月31日工場内の旧出荷エリア。工場内から撤去作業の音がしていたが、いつまで工事が続くのかは不明。11:45更に西側へ進み道路は行き止まりになっていた。前方の山は矢倉岳であろう。南側の谷間に狩川に沿って県道78号線(御殿場大井線)があり計画では接続するのではと。Googleよりこの辺りのマップ。右側の黄色丸:一ノ堰ハラネの春めき桜左側の黄色丸:現在地の怒田の春めき桜みかん畑を開発されたアサヒビールの敷地面積 約41万2千平方メートルの広さが伺える。車を停め辺りの春めき桜を散策。東方向の来た道を振り返る。アサヒビールが操業しておれば頻繁に車が走っているのであろうが。街おこしでいたる所に春めき桜が植えられている。ズームアップ。つぼみが膨らんだこちらの桜は。数日で五分咲きになるのであろう。 ー 続く ー
2024.04.03
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引き続き、一ノ堰ハラネの ”春めき桜” を楽しむ。3月21日(木) 10:20咲き始めは濃いピンクだが徐々に白っぽくなると。ズームアップ。春めき桜を開発された古屋富雄氏は、南足柄市内をピンクの色で染めたいと。現在、市内で春めき桜が咲く場所は、① ふくざわ公園、② 一ノ堰・ハラネ、③ 広町パークゴルフ場、④ 春木径・幸せ道JAかながわ西湘福沢総合選果場を見上げる。ピンクの絨毯の先に、JAかながわ西湘福沢。菜の花とのコラボ。怒田(ぬだ)丘陵の丘の上から、丘の下から両方でも見ることができ、段差10mはある満開の姿は圧倒的であると。JAかながわ西湘福沢総合選果場の東側斜面に植えられている。怒田(ぬだ)丘陵では約120本の春めき桜 (旧:足柄桜) が花を咲かせている。サクラの木の根元にはプレート。ネームプレートには「Alohappy Family 2024.2.22」とあったが。このブログを作成まで植栽された人の名前と思っていたが「2024.2.22」だと「?」。よく見ると”春めき桜”は根元に近いところから枝分かれしている。植栽後20周年であろうか根元近くから枝分かれ。上流側の地蔵下橋。この橋の下にも駐車場があったが駐車台数は10数台であったか。地蔵下橋の壁面に描かれた子供たちの絵であろうか。地蔵下橋の春めき桜も満開。振り返り見上げる。地蔵下橋から下流側を望む。200メートル程に植えられている春めき桜である。地蔵下橋の上流側へ移動。左下に10台ほどの駐車場、仮設トイレ?があった。菜の花と春めき桜のコラボ。上流側の斜面には咲き終わった河津桜が芽吹いていた。菜の花と青々とした河津桜を見上げる。3月上旬ごろまでは河津桜が主役であったようだ。地蔵下橋上から望む。上って来た道を振り返る。地蔵下橋から東側を望む。下ると県道74号線(小田原山北線)の福沢小学校北側交差点へ。かつてはこの道をアサヒビールの出荷トラックが往来していたのであろう。橋の親柱には「一ノ堰」と。地蔵下橋を西方向へ上ると「旧 アサヒビール神奈川工場」へ。同神奈川工場は2002年に完成操業して以来、2023年1月末に操業20年の幕を閉じた。ここからの ”一ノ堰ハラネの春めき桜” が絶景ポイント。南側の親柱には「地蔵下橋」と。段差が10mある怒田丘陵を見下ろす。東側を見下ろす、ここにもイチジク畑。畑の周りをネットで囲われた(盗難防止?)イチジク畑。かながわブランドに登録されている「あしがらいちじく」。愛知県などの大生産地に比べると出荷量は少ないものの、樹上で熟して朝採りするため、鮮度と味が良いのが特徴であると。JAかながわ西湘福沢総合選果場は怒田丘陵の上に建っており、春めき桜との境はフェンスで囲われ遊歩道になっているようだ。地蔵下橋の目の前に春めき桜。甘い香りが漂っていたようだが。また、花はぼんぼりのようだと。先程渡ったループ式の歩道橋を望む。ピンクに染まる春めき桜。左下は福沢小学校北側交差点。福沢小学校北側交差点手前から西側の怒田丘陵を望む。ズームアップ。丘の上を歩けたようだが下を歩く。10:50幼稚園児であったか卒園者を送る「春めき桜」であると。お子さんの洋服もピンク。 ー 続く ー
2024.04.02
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福沢コミュニティセンターに車を停め、歩いて春めき桜会場の ”一ノ堰ハラネ” へ。3月21日(木) 9:50福沢コミュニティセンターから西方向へ進む。道路角に石碑群。石碑の周りはツツジ等が植栽され整備されていた。昭和八年氏子の会と刻まれた文字道祖神と双体道祖神。南足柄市のマンホール蓋金太郎伝説ゆかりの南足柄市のマンホール蓋は足柄山をバックに、マサカリを担ぎ 熊にまたがる金太郎を中心に周りを市の木・サザンカ、市の花・リンドウで囲んだ デザインになっている。南足柄市立 福沢小学校春めき桜春めき桜は、2000年(平成12年)3月に品種登録されたサクラの品種。神奈川県南足柄市発祥であり、別名「足柄桜」と呼ばれている。 カンヒザクラとシナミザクラの交雑種とされている。花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしている。開花期は3月頃である。花の香りが強いことも特徴である。ウィキペディアより。県道74号線(小田原山北線)の福沢小学校南側に架かるループ式の歩道橋上から、北西方向にサクラ会場を見下ろす。歩道橋はバリアフリー化されループ式になっていたが。ネットでよく見る写真。JAかながわ西湘福沢総合選果場の斜面「怒田(ぬだ)丘陵」では約120本の春めき桜(旧:足柄桜)が花を咲かせています。丘の上から、丘の下から両方でも見ることができ、落差10mはある満開の姿は圧倒的であると。ループ式の歩道橋だが。ネット情報では”春めき桜”は満開であると。怒田(ぬだ)丘陵の上には、JAかながわ西湘福沢総合選果場。怒田丘陵の北側。一ノ堰ハラネ所在地:神奈川県南足柄市怒田 1332「一ノ堰」の意味は、酒匂川の文命用水の一の堰から流れる水路のこと、「ハラネ」については辺りの斜面・土手のことと言われていると。満開の春めき桜の下で外国人観光客が記念写真。ツアーではなかったのでどのような情報から来ているのであろうか。大陸の方のようで4人のグループであった。忠魂碑・慰霊碑所在地:神奈川県南足柄市怒田 2819-5階段を上ったところに忠魂碑と慰霊碑が並んで建っている。忠魂碑・慰霊碑は、怒田丘陵の地蔵下橋から法面に咲く春めき桜の南側終点に建っている。一般には忠魂碑と慰霊碑は別々の場所に建てられているものである。従って、忠魂碑と慰霊碑が並んで建っているのは珍しいと。移転記念碑があり、県道改良工事のためにこの地に移転したことが記載されている。忠魂碑と慰霊碑はそれぞれの戦争戦没者を祀るもので、それぞれの戦争後にそれぞれの場所に建てられたものであろう。それを昭和60年(1985年)に一か所に纏められてこの地に移設されたと。慰霊碑神奈川県知事 内山岩太郎 書忠魂碑こちらの石碑は判読できなかった。広場の西側から。敷地の東側に建つ石碑には「移転記念」と。法面に植えられた春めき桜を見下ろす。満開の春めき桜を見上げる。薄いピンクの春めき桜。花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしており、花の香りが強いことも特徴であるとのこと。だが私の鼻にはかすかに甘い香りが。春めき桜は ”春めき財団理事長・古屋富雄氏” により2000年に品種登録された南足柄生れの桜。農業を通しての花の力に気がついた同氏は、地もと南足柄市から ”あしがら花紀行 (花による地域おこし)” を行った。3月中旬から下旬には彼が品種登録をした桜「春めき」が市内を花でいっぱいにしますと。満開の春めき桜をズームアップ。また、一般的に桜というと4月開花のソメイヨシノで「新入生を迎える桜」だが、”春めき桜”は3月に開花「卒業生を送る桜」として愛されていると。怒田丘陵の南側法面から北側の地蔵下橋まで120本の春めき桜が咲いている。下から見上げる。温かい日で多くの人が訪れていたが、他のサクラの名所と比べるとまだ少ない。石垣の上に植えらた春めき桜。植栽されてから20数年を経過しているのであろう。川が流れておればまた違った写真が撮れるのだが。側溝に花びらが。目の前の春めき桜。ズームアップ。10:15酒匂川からの農業用水路であろうか。綺麗な水が流れていた。 ー 続く ー
2024.04.01
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新聞等で南足柄市の「春めき桜」が見頃との報道、天気も良く愛車のノートで出かけた。3月21日(木) 8:40自宅を8時半に出発、カーナビを臨時駐車場の「福沢コミュニティセンター」にセット。カーナビは東名高速道路を案内したが、海岸線の西湘バイパスのルートを選択。鳥井戸橋からの ”左富士” が綺麗に見えていた。千の川に架かる ”石原橋” 越しに富士。ちなみに、国道1号の鳥井戸橋交差点から海岸線の国道134号の浜見平入口交差点を結ぶ道路を”左富士通り” と呼ばれている。いつも訪れる ”小出川の河津桜” と供に植えられている ”春めき桜” 。ここには2本植えられているが3月16日(土)の段階では花付きも悪く数輪咲いていたか。左富士通りを南下、途中右折し鉄砲道を西へ走り、”柳島スポーツ公園” 越しに富士山。鉄砲道を挟んだ海側には「道の駅 湘南ちがさき」が来年の2025年7月にオープンする。この3月3日(日)に起工式が行われたが、計画に富士を見る展望台もあるのか。平塚市内の国道134号を大磯方面へ走るが右側の松林の上に富士の頂上部が見え隠れ。この辺りは正月の箱根駅伝の往路3区の終盤である。国道の ”八間通り入口交差点” 手前から伊豆大島を望む。伊豆大島をズームアップ。ここ国道沿いにはかつて市営プールがあり老朽化で跡地利用でもめている。更に国道134号を進む。花水川を渡り ”唐ヶ原(とうがはら)交差点” 。ここは関東地方の正月の風物詩、箱根駅伝の往路3区、復路8区の中継点である。山側の国道1号への箱根駅伝のコース。直進して自動車専用道路の ”西湘バイパス” へ。西湘バイパスの ”大磯西インタ” を過ぎ ”大磯ロングビーチ、大磯プリンスホテル” 。この辺りは台風の高波で浸食され度々通行止めになる区間である。西湘二宮インタ横断幕に「対面通行規制など 4/8(月) → 8/9(金) 小田原東IC ←→ 二宮IC」と。 前方には箱根の山並み。天気が良く富士がよく見えているので予定を変更して ”西伊豆” を考えたが。時間が遅いので当初の予定どおりに。橘料金所ETCゲートへ進む。西湘バイパスの国府津インタを出て、県道717号線(沼田国府津線)を西へ走る。この辺りからも富士が綺麗に見える。高田浄水場西側交差点。高田浄水場再整備事業について高田浄水場は、小田原市水道事業が供給する水道水のうち、約86%を浄水処理している基幹施設です。昭和44年の供用開始から、高度経済成長期の人口増加に対応するなど、市民生活や地域経済の発展に寄与してきました。供用開始から52年が経過し、近年築造した一部施設を除くほぼ全ての施設において、求められる耐震基準が満たされていません。また、節水機器の普及などから水需要は減少しており、施設の1日の浄水能力80,000m3/日に対して令和2年度の浄水実績は1日最大約59,000m3/日で、今後もその差がさらに大きくなると想定されます。 本事業は、耐震化の早期実現、将来の水需要に対応した施設規模の適正化を目的として、新たな浄水処理方式(膜ろ過方式)を採用し、設計・施工・運転維持管理を一括して発注するDBO(Design Build Operate)方式により実施します(小田原市HPから)。県道717号線(沼田国府津線)の富士見大橋東側交差点を右折して北上。3月3日(日)に開成町の瀬戸屋敷へ行った時もこの道を走った。左側車窓に富士が綺麗に見えていたので農道に入り撮影。富士の右側手前には矢倉岳 (標高870m)。富士の頂上は強風で雲が舞う。県道717号線を北上。この並木は?。カーナビの案内はこの先の ”足柄大橋東交差点” を左折して県道78号線へ。足柄大橋の東側へ。正面に金時山 (標高1212m)、右側に矢倉岳 (標高870m)。足柄大橋の親柱に「金太郎像」。所在地:神奈川県足柄上郡大井町金手268-2西側の開成町側にも「金太郎像」。県道78号線を西へ走り開成町の牛島交差点。南足柄市へ入る。南足柄市神奈川県西部に位置する市。県内では最も人口の少ない市で39,604人(推計 2024年3月1日)。平成29年(2017)12月に、2020年度をめどとした小田原市への編入合併計画を撤回した。目的地は県道78号線のここ竹松交差点を右折。左折すると140mで「道の駅 足柄・金太郎のふるさと」がある。同交差点角にある「スターバックスコーヒー 南足柄店」。直進すると、大雄山駅、大雄山最乗寺へ。竹松交差点を右折して北上。建物の壁に「金太郎のふる里 足柄へようこそ!」と。道路脇に目的地の「福沢コミュニティセンター」の案内板。ここを左折して狭い道路へ。9:40南足柄市 福沢コミュニティセンター所在地:神奈川県南足柄市千津島 941春にはみかんの花が咲き、甘酸っぱい香りが一面に漂い、秋には黄金の稲穂が垂れ下がる、美しい田園風景の広がる福沢地区のほぼ中央に位置するコミュニティセンターである。また、施設内には、会議室のほかに、図書館機能を備えた福沢図書室が併設している。臨時駐車場は無料になっている。会場の ”春めき桜の一ノ堰ハラネ” までは徒歩10~15分ほどかかる。福沢コミュニティセンター傍の畑には異様な光景が。よく見るとイチジクの木を横へ伸ばし霜除け用か藁がまかれていた。南足柄市はかながわブランドに登録されている「あしがらいちじく」を生産している。一ノ堰ハラネに車でお越しの方へ 駐車場のご案内春めき桜周辺の路上駐車はご遠慮ください。福沢コミュニティセンターの駐車場または南足柄市運動公園の駐車場をご利用下さい。入口に「南足柄市 福沢コミュニティセンター」と。福沢コミュニティセンターはのどかな田園風景の中に。左後方には矢倉岳。 ー 続く ー
2024.03.31
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本郷ふれあい公園を後にし帰路につく。自宅までの所要時間は約30分。3月18日(月) 16:55スマホの案内で交通量の多い県道43号線(藤沢厚木線)を用田方面へ進む。バス停 ”西用田“ そばにあった社。道路の南側にあり北向に建っている社。社の中には新しい衣装を着せられた二体の地蔵像。説明板がなく詳細は不明だが氏子さんが管理しておられるようだ。スマホの案内はこの先の ”用田交差点” を右折と。用田交差点を右折して県道45号線(中原街道)を南下して寒川、茅ヶ崎へ。案内された県道は交通量が多いので直進し百メートルほど先を右折して南下することに。県道43号線(藤沢厚木線)を右折、藤沢市立御所見小学校前を南下。スマホの案内で遠藤宮原線を東へ進み頂上部に "宇都母知神社入口交差点” 。坂の途中の右側に ”富士見の丘” があり数名の人が三脚をセットしておられた。振り返ると富士が見えていたので立ち寄ることに。このまま直進すると慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスへ。宇都母知神社入口交差点に建っている案内板。17:05富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668管理人の方が土地を提供している丘である。既に先着の方が数名三脚をセットして待機。以前来たとき管理人の方から「ここのダイヤモンド富士は、春分・秋分の頃」であると。この日は18日で春分には二日ほど早かったが、富士が見事に見えていたので待機することに。三脚を持参していなかったので手持ち撮影で挑戦。農道には多くの車が駐車。17:23風があり少々寒かったが。この日は雲もなく絶好の撮影日。左側に ”金時山”、その右側に ”矢倉岳”。徐々に富士の頂上に。17:31撮影準備をしていなかったのでフィルターもなく。富士見の丘にはいつの間にか多くの人がカメラを持ち撮影に。手持ち撮影であるので手振れに注意。今まで何度も相模川等からこの時を待ったが、天気が悪かったり、雲があったりで。この日は機材の準備不足であったのが残念。太陽が富士の頂上に。ズームアップ。太陽の一部が頂上の裏に。 17:35フィルターを付ければ違った写真になったのだが。ズームアップ17:36太陽が沈む。この写真はスマホで撮影。富士の周りには雲一つなく。日が沈むと皆さん三々五々に帰路に。ズームアップ。17:40三脚もなかったので、日が沈み5分ほどで帰路につくことに。また、帰路の途中各所で焼ける富士を追うことに。17:45慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスの西側から富士の残影を追う。ズームアップ。17:50慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスの西側を下り小出川へ。いつも ”彼岸花の撮影で訪れる小出川” 。送電線の鉄塔との競演。廻りが暗くなり足もとが露出不足に。17:55次に立ち寄ったのが ”里山公園の北パーキング” からの富士山。電柱電線が邪魔でズームアップ。左側にはこぶのような矢倉岳(標高870m)。18:00里山公園の北パーキングの南側にある ”関東の富士見100景” の四阿からの富士。プレートには、「関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり 地点名 茅ヶ崎市からの富士 平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会」と。四阿の間から富士を望むが前の林が景観を失っているのでは。もう少し高い場所からにした方がよいのではと。ズームアップするがここでも鉄塔が。18:05神奈川県立茅ヶ崎里山公園の間を抜け里山公園の ”湘南の丘” から富士を望む。ズームアップ。18:15県立里山公園から暗くなった道を下り ”小出県道沿い” から。いつも撮影するポイントで茅ヶ崎市博物館、メタセコイアが見える場所である。照明灯はフットサル場の ”カルぺソールスポーツパーク” 。所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3260ここからのダイヤモンド富士も絶景では。18:30暗くなった道を帰り自宅へ到着。帰宅時のバッテリー残量は40%、走行可能距離は32kmであった。よって今日のリンちゃんでの走行距離は、44km。歩行数は約12,500歩であった。 END
2024.03.29
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寿閑寺の参拝後、Googleマップに近くに「稲荷神社」があったので参拝することに。3月18日(月) 16:10スマホの案内で寿閑寺から ”自然と歴史のさんぽみち” を東へ。途中右折して先程参拝した ”寿閑寺” を見上げる。この後、”稲荷神社”の南側へ入るが道案内、神社への道がなく引き返すことに。Googleマップでは稲荷神社の位置は出ていたが ”自然と歴史のさんぽみち” 沿いには旧家が多く道がなかったので西側の農道へ。東側の林の前に朱色の鳥居を発見。稲荷神社所在地:神奈川県海老名市本郷195稲荷神社と名のつく神社は全国に多くあり、検索してもヒットせず地元の氏子の方々が祀っているのであろう。カメラを替えズームアップ。農道の南側には、”高座クリーンセンター環境プラザ” の建物。農道を南下、”高座クリーンセンター環境プラザ” の手前には新幹線が走りその手前には公園。公園には見頃を過ぎた ”葉ボタン” 。パンジーも綺麗に植えられていた。ここの西側には ”本郷老人福祉センター” があった。綺麗に植えられたパンジー。高座クリーンセンター環境プラザ所在地:神奈川県海老名市本郷 1-1東海道新幹線の南側に隣接している施設で、10階にある高さ50mの展望室からは、富士山・丹沢・ランドマークタワーなど360度の景観を一望できる。また、海老名・座間・綾瀬の三市のごみが集まる当クリーンセンターには安全に見学ができる見学ルートがある。コミュニティバスも運行。高座クリーンセンター 水処理施設。高座クリーンセンター(環境プラザ)歩行者出入口 の案内。高座クリーンセンター(環境プラザ)歩行者出入口この日は月曜日で休館日であった。営業時間:9:00 ~ 20:00(施設見学 9:00 ~ 17:00)定 休 日 :月曜日(但し、月曜日が祝日の場合はその翌平日) 年末年始(12月29日 ~ 1月3日)及び臨時休館する場合ありアクセス:海老名駅東口より神奈中バス「用田橋」下車10分駐 車 場 :65台再度営業日に訪れ、10階にある高さ50mの展望室からの展望を楽しみたい。東海道新幹線のガード下。高架橋は強固な構造物で補強されていた。高架橋に銘板。お願い自動車等が橋りょうのけたに当った場合には、下記の箇所へご連絡願います。 JR東海 施設指令 TEL 03-3210-0121 48K098M JR東海 湘南保線所高架橋には「目久尻川B(48K098M) 」。新幹線の高架下から北方向の ”寿閑寺” を望む。16:30本郷ふれあい公園所在地:神奈川県海老名市本郷3611-1令和元年(2019)オープンの新公園。海老名市と藤沢市との市境にある公園で新幹線も見える。 広い芝生と大きな複合遊具で半日たっぷり遊べ、多目的トイレ、駐車場もあって便利。夕暮の公園から南方向を望む。本郷ふれあい公園公園利用案内 1.公園の施設を損傷、又は汚損しないこと。 2.植物の採取、又はこれらを傷つけないこと。 3.指定された場所以外に、オートバイや自転車で乗入れないこと。 4.ごみ・くずは各自で持ち帰ること。 5.火気の使用及び喫煙はできません。 6.公園内で犬の放し飼いはせず、フンは飼い主が持ち帰ること。 7.公園内でゴルフの練習はできません。 8.公園でスケートボード、ローラーブレードなどを使用することはできません。 9.公園内でドローン、ラジコンなどを使用することはできません。10.公園施設利用時間 9:00 ~ 18:00(6月 ~ 9月) 9:00 ~ 17:00(10月 ~ 5月) 高座清掃施設組合 施設課 管理係本郷ふれあい公園この公園は防衛省より「厚木飛行場周辺公園設置助成事業」民生安定施設の助成 (第8条) に基づき補助金を受けて整備しています。 防衛省 南関東防衛局 高 座 清 掃 施 設 組 合左側には高座クリーンセンターからのコミュニティバス。レンタル自転車も置かれていた。本郷ふれあい公園の東方向。県道43号線(藤沢厚木線)が走り水管橋が並行している。養蠶守護塔用田橋際の本郷ふれあい公園の一画にあり、他に保食神や大山道標、馬頭観音などと一緒に集められ囲いの中にお祀りされている。右手前には ”かまどベンチ” が設置されている。かまどベンチかまどに変身するベンチで、災害時や行事の際に、煮炊きのための、かまどとしてご使用いただけます。踏んで歩いて イキイキ健康!! 歩く前にかならずお読み下さい。足の裏には大小、また深さがさまざまな36のツボがあり、東洋医学ではそれらを刺激することによって、血液循環を良好にし内臓器官の働きを高めたり、内分泌を活発にして各器官の疲れをほぐしリラックスさせるなど、さまざまな効果があると伝われています。また、ぬるいお湯を飲んで歩くといっそう効果的です。くつをぬいで、足の裏全体を刺激するようにゆっくりと踏みしめて歩いて下さい。複合遊具が並んでいる。本郷ふれあい公園の北側が小高い丘になっている。丘の上から ”県道43号線(藤沢厚木線)” を見下ろす。ズームアップ、道路標識には「横浜 26km、藤沢 13km」と。上空を厚木基地の海上自衛隊機が飛び立つ。東方向は県道22号線(横浜伊勢原線)で目久尻川に架かる ”用田大橋” 。県道22号線(横浜伊勢原線)と県道43号線(藤沢厚木線)が交差する ”用田橋際交差点” 。交通の要衝地で交通渋滞の起点になっており西側は拡張工事中であった。丘の上から南方向を見下ろす。右前方にはひときわ高い ”高座クリーンセンター” 。円形パーゴラ、トイレ施設。高座クリーンセンターをズームアップ。東海道新幹線が高速で通過。本郷ふれあい公園の西側へ廻る。後方は拡張工事中の県道22号線(横浜伊勢原線)。手前の施設は ”防災パーゴラ” 。防災パーゴラ通常は公園の休息施設のパーゴラとして使用しますが、災害時にはテントを取り付けることで、一時避難所や救護施設として使用できます。公園の北西部に設置されている ”災害用マンホールトイレ” 。マンホールトイレ災害発生時には、電気や水道が止まり、家庭や避難所で水洗トイレが使用できなくなる可能性があります。マンホールトイレは、非常用トイレ槽に直結するマンホールの上に簡易トイレを設け、迅速にトイレ機能を確保することができます。芝生の中にマンホールが設置されている。16:50時間も遅くなり公園を後にすることに、スマホの目的地を「自宅」にセット。愛車のリンちゃんでの所要時間は約30分と。ここを右折、交通量の多い県道43号線(藤沢厚木線)を用田へ。 ー 続く ー
2024.03.28
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真光寺から ”自然と歴史のさんぽみち” と呼ばれる旧道を進み次の目的地「寿閑寺」へ。なお、寿閑寺へは3月10日(日) 12:10 ~ 12:25 に参拝した。3月18日(月) 16:00”自然と歴史のさんぽみち” を東へ進む。この辺りも屋敷が広い旧家が並ぶ。道路脇にブロック塀に囲まれた石碑が建っていた。石碑には「花蓮港廳巡査勲七等出井奥次郎墓」と。花蓮港廳 (かれんこうちょう)は、かつて台湾の地方行政区分だった五州三庁の一つで、現在の花蓮県にあたる。道路脇に案内板、「自然と歴史のさんぽみち」。案内板には、←→ 大山道← 真光寺 100m→ 寿閑寺 400m 次の目的地← 本郷遺跡 800m← 本郷神社 900m← 門沢橋駅 2kmここは海老名市本郷3439番付近”自然と歴史のさんぽみち” を東へ進み寿閑寺下へ。寿閑寺の西側に広い駐車場があり駐車。駐車場から富士が見えていたのでズームアップ。日蓮宗 寿閑寺 (じゅかんじ)所在地:神奈川県海老名市本郷3453掲示板には「善悪の全ては自身の中にある 法華経日蓮研修会」と。2021年11月29日の旅友のブログも同じ掲示内容である。脇侍二菩薩像 (普賢菩薩像、文殊菩薩像) 海老名市指定重要有形文化財 昭和五十二年十月十二日 指定 日蓮宗のお寺には「南無妙法蓮華経」という題目を書いた宝塔を中心に、『法華経』の世界をあらわすたくさんの仏像を配置するのが一般的です。この脇侍(きょうじ)二菩薩像はその中の二体です。普賢菩薩は象に、文殊菩薩は獅子に乗る姿にあらわされます。ニ像とも本体はヒノキ材割矧ぎ(わりはぎ)造りで表面は金泥塗り・漆箔。眼には水晶の玉眼を嵌(は)めています。像内に墨書があり、天和四年(1684)鎌倉扇谷の仏師である三橋伝之丞(宗三)の作とわかるのが貴重です。 海老名市教育委員会 令和2年11月設置左側:普賢菩薩像 総高 一〇八・八センチ、像高 三一・ニセンチ右側:文殊菩薩像 総高 一〇九・ニセンチ、像高 三一・七センチ駐車場側からの山門山門の扁額「思親門」。西側の山門を入ると狭い境内にいろんな樹々が植えられていた。緩い坂を下り左に本堂。本 堂日蓮宗系単立寺院の壽閑寺は、念濟山と号します。壽閑寺は、弘治3年(1557)に創建、乃木助左衛門の父(圓應院壽閑日到、寛文13年1673年卒)が開基となり、妙純寺宿老成就院念濟日意上人が開山したといいます。開基となった乃木助左衛門の父は、源頼朝の重臣佐々木高綱の末裔で、子孫に乃木希典将軍を輩出しているそうですと。本堂の扁額「壽閑寺」。本堂前から南側を望む。本堂前に建つ「鐘楼」。鐘楼にはやや小さめな梵鐘がつるされている。壽閑寺梵鐘の由来念濟山と号す。創建は弘治三年(1957)五月。開山成就院念濟日意聖人。本山妙純寺宿老と伝う。梵鐘は延宝三年(1675)乃木希典将軍先祖源頼朝の重臣佐々木高綱の後裔乃木壽閑居士の寄進に依る。この幻の名鐘を「蘓生延寿(そせいえんじゅ)の鐘」と称す。 當山本堂手前の御堂の中に石仏。柄杓、タワシがあったが祈願用であろうか。鐘楼の傍には、「十三重石塔」、手前には古木。本堂前の植え込みに石塔が二基。手前は風化しており「三百五十本??」。境内の東側から。境内に建つ「日蓮聖人像」。石碑には「日蓮聖人立像 施主 柳川琢哉」と。本堂前の境内で一番高いところへ上がる。石祠があり、岩積みの間に石碑。同場所から南東方向を見下ろす。東西に横切るのは東海道新幹線の高架橋。南に面した参道沿いに建つ石碑。石碑には、「南無本化上行日蓮大菩薩第七百遠忌御報恩謝徳 念濟山壽閑寺大本堂再建記念碑 干時平成五癸酉年十二月吉日」と。東側の山門の扁額「念濟山」。こちらの石碑には、「南無妙法蓮華経 當山山門再建碑 干時平成五癸酉年十二月吉日」と。東側の山門前から見下ろす。下は”自然と歴史のさんぽみち”。左前方は ”本郷ふれあい公園” の駐車場。新幹線が高速で通過。東側から山門を見上げる。石段下に題目碑「南無妙法蓮華経」。石碑には、「石段供羪塔 施主尾上一郎 造立 当山 二十四世 日彰代 昭和四十二年二月二十六日 施工者 六代目石工近藤久男」と。西側の山門へ戻る。境内西側の塀に「念濟山壽閑寺 駐車場等拡張整備資金寄進者芳名」が掲示されていた。日蓮大聖人立教開宗七五〇年慶讃事業念濟山壽閑寺 駐車場等拡張整備資金寄進者芳名 本堂裏に建つ「釈迦牟尼佛」。背後には枝垂れ桜。石碑には、「久遠本仏 釈迦牟尼佛」と。寿閑寺の広い駐車場。 ー 続く ー
2024.03.27
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このブログは今回シリーズの一週間前に訪れた3月10日(日)の「舞めだか 春の陣IN神奈川」。野球の練習後、用事があり県道22号線(横浜伊勢原線)経由で帰宅途中立寄った。3月10日(日) 10:50本郷神社入口交差点角にある ”富士フイルムビジネスイノベーション株式会社海老名事業所” 。交差点には”めだか祭り”があるとのことで交通整理をしておられた。車は富士フィルムの駐車場へと。富士フイルムビジネスイノベーション株式会社海老名事業所所在地:神奈川県海老名市本郷2274複合機、プロダクションプリンターおよび関連商品の開発・モノ作り技術の基幹拠点である。富士フイルムの駐車場。この日のために駐車場として無料で貸し出し。看板には「たけのこ」と。パンフレットもなかったが最近めだかを飼っているので興味深く立ち寄ることに。すれ違う人は皆さん”めだか”が入ったビニール袋を手に。駐車場からも富士の頂上が見えていた。富士フイルムの工場フェンスに説明板。本郷遺跡この周辺は旧石器時代から江戸時代にかけての遺跡で、工場の建築に伴い、昭和46年から大規模な発掘調査が行われました。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、環濠集落と呼ばれる深い溝で囲まれた集落跡が発見され、小銅鐸を使った祭祀や、管玉などの玉作りが行われていたことがわかりました。奈良、平安時代の遺構としては、掘立柱建物跡、竪穴建物跡、井戸跡などが発見されています。掘立柱建物跡の中には4.4×23m以上もある長大なものや、庇がある特殊なものもあります。墨で文字が書かれた土器も多く出土しており、郡の有力者に関係する集落であった可能性があります。 貴重な発掘調査成果は、各時代の生活や政治文化を知る手がかりとなっており、神奈川県内のみならず、全国的にも著名な遺跡です。 海老名市教育委員会 令和4年3月左上 ▲ 小銅鐸 高さ約8㎝ (弥生 ~ 古墳時代) 祭祀に使用されたとみられます。右上 ▲ 製作途中の勾玉や管玉 (古墳時代) 竪穴住居跡から出土しています。左下 ▲ 「あ」と書かれた土器 (平安時代) ひらがなが書かれているものは希少です。右下 ▲ 長大な掘立柱建物跡 (奈良時代) 柱穴が連続して掘られています。県道22号線(横浜伊勢原線)の本郷神社入口交差点から西方向を望む。駐車場から歩いて「舞めだか 春の陣IN神奈川」の会場へ。係員の方から「少々遠い」と。同場所から富士をズームアップ。県道22号線(横浜伊勢原線)から北側に入り会場へ。手にはビニール袋。毎日新聞首都圏センター所在地:神奈川県海老名市本郷2700-1毎日新聞社の首都圏をカバーする印刷工場。新聞の他に商用印刷も可能な新時代の工場である。輪転機を2列に分け、その間に紙庫、発送場、機械室等のサポートゾーンを配置することにより、輪転機ゾーンの効率的なサポートを可能にしている。この特徴的な配置によって輪転場の圧倒的なボリュームを2分割し、建物構成としてそのまま外観に表わしている。また、敷地は埋蔵文化財保護エリアで、掘削範囲が限られていたため、トラックヤードの庇は吊構造を採用、前面ファサードに軽快感を与えている。また、デザインに富んだオフィス各所での撮影が好評である。滑走路のような広大な屋上からは裾野まで広がる富士山を背景にした撮影が可能であると。入口にポスター「舞めだか 春の陣IN神奈川」。工場内には ”メダカ無人販売所” もあるようだ。舞めだか 春の陣IN神奈川2024年3月10日(日) 10:00 ~ 16:00毎日新聞首都圏センター(神奈川県海老名工場)出展者舞めだか (熊本県) しいらメダカ (埼玉県)メダカワールド (埼玉県) Clover (神奈川県)めだかの館 (広島県) 花小屋 (埼玉県)彩鱗めだか (埼玉県) 星田めだか (岡山県) 筑紫めだか (福岡県) 沖縄ときわめだか (沖縄県) うなとろふぁ~む (埼玉県) めだか俱楽部クリーク (愛知県)日本改良めだか研究所 (広島県) 毎日新聞首都圏センター(神奈川県) 多くの方が訪れておられた。東日印刷株式会社のグループ会社 (株)毎日新聞首都圏センターは3月10日(日)、海老名市本郷の海老名工場でメダカ業界屈指の出店者が集う、メダカイベント「舞めだか ‐春の陣in神奈川」を開催。イベントでは改良メダカ業界では知らない人はいないほど有名な【舞めだか(熊本県)】が出店するほか、8県14店舗が一堂に会し展示即売会、メダカすくいなどを行いますと。”めだかすくい” の幟係員の方が「一回五百円でとれないと3匹、すくっても5匹がマックス」と。金魚すくいと同じように行われていた。出展者:花小屋(埼玉県)特選めだかくじ。出展者:筑紫めだか(福岡県)いろんな種類のメダカが販売されていたがどれも高価であった。ロヤルブルー/8 ~ 4万、夜桜ダルマ/3 ~ 1.5万円。こちらのコーナーの出展者は?。サタン 2P/4,000円、ユリシス光 2ペア/5,000円、夜桜 リアル オス1、ロングフィン メス2/5,000円、夜桜ゴールド 2P/6,000円、初恋 オス1、メス2/2,000円と、こちらはリーズナブルな価格であったが。出展者:めだか俱楽部クリーク(愛知県)マーク ペア/20,000円、煌 ペア/15,000円、天照エボワイド ペア/6,000円 高価なメダカでペアで販売。メダカのエサ (産卵・繁殖用) 等、メダカ関連の品物も販売していた。また一回1,000円のクジも。いろんな当たりクジの品物が並べられていた。出展者:彩鱗めだか(埼玉県)こちらのコーナーではメダカの外に多肉植物も販売。工場の西側にはキッチンカー。人気のからあげ 500円、たこ焼き・たい焼、ホットドック濱屋の出店。我が家では昨年購入したメダカが産卵、多くのメダカが繁殖しているので購入しなかった。今年も4月から5月にかけて産卵するのではと期待しているのだが。最近はいろんな所で ”メダカ無人販売所” があり高価なメダカを販売している。メダカを見た後、県道22号線(横浜伊勢原線)に戻り東へ向かう。この辺りは本郷神社入口交差点から下ってくる。右方向が旧道であろう。来た道を振り返り、道路脇に ”下谷津の庚申塔(No.74) ” を見つける。側面に ”安政・・・と刻まれた庚申塔” 。後方に廻り込み横浜方向を望む。スマホの案内で ”自然と歴史のさんぽみち” と呼ばれている旧道方向へ進む。旧道に入り下谷津交差点の角に ”地神塔(No.10)" 。正面には「地神塔」と刻まれているのであろうか。 下谷津交差点の角に建っている石塔。旧道の ”自然と歴史のさんぽみち” を上る。浄土宗 真光寺 (しんこうじ)所在地:神奈川県海老名市本郷462-1地神塔から旧道を上ると右側にあるお寺。山門の奥に本堂。山門の右側に「真光寺地蔵尊」の社が見える。門柱には「如法山 眞光寺」。真光寺地蔵尊地蔵尊の前には二つの石碑が建っている。正面から地蔵尊堂には、如法山真光寺境内地蔵尊縁起地蔵尊は三体あり 五輪塔一体前方左右に宝塔二基中央奉造立地蔵菩薩無而縁等為憲順菩提当村施主石川氏 寛延四年天朔日右錦覚寿音信士宝暦五乙亥年六月十一日菩提也 施主 出井氏敬白当村上村俗名出井佐五右ヱ門 行年 三十六歳前方五輪塔 岩船地蔵尊相州高座郡恩馬根新宿中前方右南無阿弥陀佛徳本 念佛講中文政八酉年十月大吉辰雲晴院浄誉相頓居士 杉久保村藤左ヱ門事 先祖代々後世安楽上河内村大貫光菊事香誉得入伯秀禅定門宗 石川左ヱ門事左辨誉上人安永八年九月十七日当山十四世前の右先祖代々後世安楽本宿村善右ヱ門安藤茂右ヱ門 本郷村庄右ヱ門門主祐林 〃 忠左ヱ門志世話人 下河内村弥左ヱ門上河内村大貫半兵ヱ 新宿講中門沢橋村治右ヱ門倉見村友右ヱ門此の地蔵尊は高座郡は二十四ヶ所の札所の内二十ニ番目に当りその御詠歌は たておきし 誓いをたのみめぐりきて まことの光拝むこの寺子育て子供の非行防止に霊験あらたかであり近隣の信仰を集めている。近年堂宇老朽化が激しくなり為に柤徒石川富司氏が私財を投じ自作する。平素佛心に厚く見上げた心情である。落慶式は平成十一年十一月に勤修。 平成十二年八月一日如法山主願譽謹書 霊場整備事業協力者芳名 12名の名が。堂内には三体の地蔵尊。参道を進み本堂へ。本 堂本尊は阿弥陀如来。本堂前に石灯籠、石碑。石碑には「舊本尊正座跡」と。本堂前から参道を振り返る。本堂裏から富士を望む。雪の積もった大山。真光寺境内の南側には梅の木があったようだが伐採されていた。12:00本堂をズームアップ。境内にはまだウメの木が残っている。 ー 続く ー
2024.03.26
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”本郷の大山不動と二十三夜塔” 前から大山道(柏尾道)を北上。3月18日(月) 15:50本郷の大山道標所在地:神奈川県海老名市本郷2290-1柏尾通り大山道と呼ばれる伊勢原から東海道戸塚宿へ至る街道の道標で、大山から戸田の渡しを渡り、南からこの追分を見て、右側が「此方 大山道」と。追分から来た道を振り返る。道祖伸、大山道の石塔が並んでいた。道標には「此方 大山道」「西国 秩父坂東供〇寶塔」と。この道が大山道(柏尾道)であろうか。右側の道標には、「此方 こくふんし ほしのや 江戸新道」と書かれているようだと。また「ほしのや」とは座間の星谷寺(しょうこくじ)の「星の谷観音」であると。左側の背後には「延享四丁卯歳六月吉祥日」と。道路を挟んだ向かい側には社があり中に石塔があった。犬小屋の如くに無造作に置かれていたが。更に北上、数十メートルで県道22号線(横浜伊勢原線)に。県道22号線の本郷神社入口交差点。本郷神社所在地:〒243-0417 神奈川県海老名市本郷2257明治7(1874)年3月に、神明社・八幡社(八幡宮)・山王宮・白山社・稲荷社が合祀されて五社宮と称するようになった。その他に、境内神社 天満宮がある。大正5 (1916)年10月には本郷神社と改称、村社に列せられた。昭和8 (1933)年4月に本殿・拝殿を新築し、現在に至る。昭和8年10月に白山社・稲荷社が合祀されたと。夏場は木々が生い茂り境内は鬱蒼としているのだが。社号標石「村社本郷神社」。右側の狛犬。左側の狛犬。ケヤキの樹々が聳える境内。左側に手水舎。境内の右側には”神楽殿”、左奥に”神輿殿”。本郷神社拝殿御祭神は、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)・応神天皇(おうじんてんのう)・日枝大神(ひえのおおかみ)・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。拝殿の扁額「本郷神社」。本郷神社由緒 所在地 海老名市本郷ニ六五八番地祭 神 神明社 天照皇大神 宝暦九年四月勧請 (1759年) 八幡宮 應神天皇(譽田別命) 文化六年二月勧請 (1809年) 山王宮 日枝大神(大山昨命) 宝永五年九月勧請 (1708年) 白山社 伊邪那岐命、伊邪那美命 安永二年二月勧請 (1774年) 稲荷社 倉稲魂命 安永二年二月勧請 (1774年) 明治七年三月合祀して五社宮と称す 大正五年十月本郷神社と改称 村社 昭和八年四月本殿拝殿新築現在に至る 昭和八年十月白山社、稲荷社合祀境内神社 天満宮 菅原道真 宝暦十四年勧請 昭和六十年七月吉祥日 宮司 恩馬知秋謹書 社殿の左側から。手前にはイチョウの木。境内にはケヤキも聳えておりそれぞれにネームプレート、海老名市自然緑地保存樹木 第255号 平成27年11月26日指定 樹木名 イチョウ 幹の周囲 2.8メートル 所有者又は管理者 住 所 海老名市本郷2656 氏 名 本郷神社 幣殿から本殿へ。本殿の裏から富士が見えていた。社殿前から境内を望む。社殿前から社務所を望む。神輿殿扁額の「神輿殿」。境内に聳える3本のケヤキ。右側手前のネームプレートには、海老名市自然緑地保存樹木 第168号 平成17年7月1日指定 樹木名 ケヤキ 幹の周囲 2.60メートル 所有者又は管理者 住 所 海老名市本郷2567番地 氏 名 本郷神社境内の南側に建つ社務所。こちらのネームプレートには、海老名市自然緑地保存樹木 第167号 平成17年7月1日指定 樹木名 ケヤキ 幹の周囲 2.50メートル 所有者又は管理者 住 所 海老名市本郷2567番地 氏 名 本郷神社 入口に近いケヤキネームプレートには、海老名市自然緑地保存樹木 第166号 平成17年7月1日指定 樹木名 ケヤキ 幹の周囲 3.00メートル 所有者又は管理者 住 所 海老名市本郷2567番地 氏 名 本郷神社鳥居を潜ると右側に鎮座する境内神社の「本郷天満宮」。正面から。社号標石「本郷天満宮」。絵馬かけの台絵馬は全て取り外されていた。絵馬のいわれ絵馬は本来神の馬 神の乗り物に考えられ 馬または木馬の代わりに神前に捧げられたものです祈願のとき 願いごとがかなったとき お礼として馬などの 絵を描いた板額を奉納する風習が 現在に至っておりますお祭りの際には その年の願いごとを お掛けください本郷天満宮の右側の狛犬。同左側の狛犬。本郷天満宮の社殿。本郷神社末社天満宮祭神 菅原道真公・天満大自在天神・大威徳天天神さんの呼び名で親しまれ合格祈願の受験生でにぎわう学問の神でもあります。もともと天神とは地神に対する天神のことで、天から降臨された神のことですがこれが平安時代に菅原道真公の霊を祀ったことによりだんだんと全国に広まっていきました。この度本郷神社氏子の総意にて神社合祀より百年を記念して境内社として社の祠に奉斎されていた天満宮を新たに御造営し、文化の神・学問の神として崇敬し地域人材の育成と発展を願いここに荘厳な御社殿が御造営されました。なお本郷神社御本殿に合祀されていました。天満宮もここに御遷座されました。 平成六年三月二十七日 本郷神社末社天満宮氏子中一間四方の小さな社殿であるが銅板葺きの屋根である。境内の南側には遊具も。境内の南側から富士を望む。 ー 続く ー
2024.03.25
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戸田の渡し跡(門沢橋の大山不動)を起点に大山道(柏尾道)を東方向へ進む。3月18日(月) 15:20浄土宗 浄久寺 (じょうきゅうじ)所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目11-1この建物の屋根を北側を走る県道22号線(横浜伊勢原線)から見て訪れた。道路を挟んだ南側に先程訪れた「正覺寺 (しょうかくじ)」があったのだが、Googleマップでの事前の検索で見落とした。ここ浄久寺は「鬼平犯科帳」の火つけ盗賊改頭、長谷川平蔵を含む長谷川一族本家の墓所があるお寺である。右側の門柱に「長谷川山 隆崇院」と。門柱の前にはまだ新しい観音像か。木柱には海老名郷土かるた「(は) 長谷川氏 墓石ずらりと 浄久寺」と。左側の門柱の前にも同じ観音像。石碑には「南無阿弥陀佛」と。ここで写真を撮っている時に突然の突風で帽子を飛ばされ隣の敷地内に落ちる。帽子まで手が届かないので参拝後お邪魔することに。左側の門柱には「浄土宗 浄久寺」と。山門を入ると一段高いところに本堂が建っている。火災で焼失した本堂を明治期に再建したが、1923(大正12)年9月の関東大震災で倒壊し、その古材を使用して1927(昭和2年)に本堂が再築された。その後1998(平成10)年にバリアフリーの本堂を、2005(平成17)年に庫裏と客殿を完成した。本堂の扁額「浄久寺」。ご本尊は阿弥陀如来。本堂下右側に建つ「水子地蔵尊」。右側の小さな石碑には「寄進 境内敷石工事共一式 平成二年九月吉日」と。本堂の左前から見上げる。浄久寺 木造阿弥陀如来坐像 海老名市指定重要文化財 平成十七年五月十八日 指定この木造阿弥陀如来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したものと伝わる仏像です。平成七年(1995)の海老名市史編さん仏像調査により平安時代後期(一二世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。像高は五十二・一センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く整えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。 平成十七年十二月 海老名市教育委員会本堂前の境内に宝篋印塔がずらりと。浄久寺 長谷川家石造宝篋印塔群 海老名市指定重要文化財 平成十七年五月十八日 指定寛永二年(1625)に幕府旗本の長谷川正成が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、幕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成以降、正岱(まさたけ)まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。宝篋印塔は、江戸時代に幕府旗本の墓塔としてよく用いられ、江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。 平成十七年十二月 海老名市教育委員会境内の南側に並べられている15基の宝篋印塔。一番高いものは3メートル近いのでは。中央の高い宝篋印塔。説明板にはナンバーがふられているのでそれぞれにもナンバーが欲しい。本堂の右側から入り「歴代住職」の墓地。歴代住職の墓地奥に六地蔵。この後、帽子が西側の敷地内に飛び込んだのでもらいに。隣のフェンス下に表示板。目線より低いのでわかりずらい。15:30隣へ行き呼び鈴を鳴らし、奥様に事情を話し帽子をもらい受けた。浄久寺にもこのような案内板が欲しかった。この後「居合坂」へ向かうため、大山道(柏尾道)を東へ向かう。大山道(柏尾道)を東へ向かうがこの辺りには旧家が多く屋敷の敷地も広い。敷地内の雨水を出すための排水溝。旧家「○○家」の門。永池川に架かる大橋。上流側をJR相模線が走る。大山道(柏尾道)を進み、JR相模線の踏切。この先は、門沢橋第二踏切際交差点。門沢橋第二踏切際交差点。県道46号線(産業道路)の門沢橋六丁目交差点。大山道(柏尾道)はこの交差点を横切り東へ進む。門沢橋六丁目交差点。スマホの案内で大山道(柏尾道)を更に進み ”居合坂下交差点” 。居合坂下に。急な坂になるが愛車のリンちゃんは電動アシストのためギヤーを「2」にして楽々と登れる。居合坂 (いあいざか)所在地:神奈川県海老名市本郷1260大山道(柏尾道)の坂の途中にある説明板。《柏尾通り大山道》この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、お参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を離れ、この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほぼ同じ道筋をなしています。 平成5年3月 海老名市教育委員会居合坂 (いあいざか)坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。「居合」は村共有の入会地でが転訛したものともいわれていますが、由来ははっきりとしていません。昔の ”柏尾通り大山道” の風景であろうか。本郷居合の道祖神所在地:神奈川県海老名市本郷1213-1開発で集められたのであろうかいろんな石塔がブロック塀の中に集められていた。中央の双体道祖神の前にはワンカップが一つ供えられていた。道祖神の横の地域掲示板に ”本郷神社の例大祭” ポスター。令和六年 四月六日(土) 十八時 宵宮 四月七日(日) 九時 式典 九時半 発輿祭 十八時 還幸祭本郷の大山不動と二十三夜塔所在地:神奈川県海老名市本郷2263大山道(柏尾道)を進み、富士フイルムビジネスイノベーション株式会社海老名事業所近くにある。以前は野ざらしになっていたようだが現在は社で囲われている。お堂の中には ”不動明王坐像” と ”二十三夜塔” が祀ってある。大山道(柏尾道)の曲がり角にある。大山道(柏尾道)は左側の道を北上。15:50本郷の大山道標本郷の大山不動から大山道(柏尾道)を北上、道路脇に道祖神、大山道標。白ペンキで補修されていたので字が読みやすかったが。ここまでのルート(Googleマップより)。 ー 続く ー
2024.03.24
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真言宗橋澤山 正覺寺 (しょうかくじ) を後にし、次の目的地「戸田の渡し跡」へ。3月18日(月) 14:55スマホの案内で北上、県道22号線(横浜伊勢原線)の門沢橋西側へ。道路角に ”北町の道祖神” が建っていた。前方はJR相模線を越える跨線橋「門沢橋」で横浜方面へ。朝夕は渋滞するエリアである。跨線橋下には相模線の「門沢橋駅」がある。北町の道祖神前にはお供え物。県道22号線(横浜伊勢原線)を伊勢原方面へ進み、戸沢橋東交差点。朝夕は、この先の戸沢橋がネックでいつも渋滞している。海湘丸 海老名店所在地:神奈川県海老名市門沢橋2丁目23-5和とアジアの風情が融合したモダンな店内で、地魚の刺身盛り、金目鯛や伊勢海老、マグロの一品料理を提供。ランチあり。個室と駐車場完備も完備している。目的地はここ戸沢橋東交差点を左折。15:00戸田の渡し跡 (門沢橋の大山不動)所在地:神奈川県海老名市門沢橋3丁目8-6戸沢橋東交差点から南下すると、赤い柵で囲まれた ”門沢橋の大山不動” がある。傍に地上数メートルで切られたイチョウの木。後方は圏央道の高架橋。戸田の渡し跡市南部の本郷から門沢橋にぬける大山道は、「柏尾道(かしおみち)」ともいわれ、往時門沢橋付近で「戸田の渡し」では船二隻を常備していた。門沢橋は、かつて旅籠、茶屋などがあり賑わいのある宿場であった。また、安藤広重もこの地を訪れ、「相州大山道中戸田の渡し」の浮世絵を製作している。 平成4年3月13日 海老名市教育委員会門沢橋の大山不動台座には「大山」、塔婆には「寶塔者為大山柏尾道不動尊安穏三昧也 願主 門澤橋不動構」と。大山不動をズームアップ。”門沢橋の大山不動” から西側へ進み相模川の河川敷へ。かつての相模川は水量も多かったのであろうが。対岸の厚木市側にも「戸田の渡し跡」があるので、後日 ”戸沢橋” を渡り訪れたい。小枝の先に富士山が薄く見えていた。東側を振り返る。圏央道の高架橋が南北に走る。河川敷の林の中には、今はやりの ”グランピング ?” 。”門沢橋の大山不動” は県道22号線(横浜伊勢原線)が渋滞時の裏道沿いに建っている。大山不動前から大山道(柏尾道)を東方向へ進む。大山道の北側に ”日枝社鳥居” 。説明板はなかったがネット情報から。境内の奥に日枝社祠、右に道祖神。道祖神をズームアップ。15:10更に大山道を進むと十字路に石鳥居。渋谷神社所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目11-14渋谷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期の創建ではないかと推定され、神寿稲荷と称し、門沢橋村の鎮守社だったといいます。明治6年村社に列格、明治7年渋谷神社と改称しています。社号の渋谷は、庄名(寒川町から海老名市にかけて)より付けたものであると。石鳥居の扁額「澁谷神社」。社号標石には「村社澁谷神社」と。狛犬の阿形像(右側)。狛犬の吽形像(左側)。渋谷神社の敷地は南北に長く、奥に社殿。右側は社務所であろうか。注連縄で飾られた手水舎と手水鉢。鐘楼、鳥居を振り返る。渋谷神社 本殿 海老名市指定重要文化財 平成十五年四月三十日指定 渋谷神社は、江戸時代に神寿稲荷(稲荷社)と称し、旧門沢橋村の鎮守であった。現在の渋谷神社に名称を改めたのは、明治七年である。江戸時代の延宝七年(1679)鋳造の鐘を鐘楼にかけていたので、その成立は同時代初期に遡ると思われる。勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。本殿は、間口四尺の一間社流造りの建物で、覆殿内部に安置されている。建築年代は、本殿内にある棟札から、寛保元年(1741)と推定される。また同じ棟札から、作者が地元の工匠であることが判明している。母屋は、正面両脇の小壁に上り龍や下り龍の彫物をはめ、頭貫の木鼻は、正面を獅子と獏の彫物、背面は象鼻と絵様木鼻である。また中備には、草花を彫った蟇股を置くなど、小規模な建物ながら、彫物装飾を効果的に用いた造りとなっている。当本殿は、斗栱の形式、虹梁の絵様や、木部と彫物すべてに当初から彩色が施されている点など、十八世紀の中ごろの特長をよく示しているうえ、保存状態も良い。また、当時としては彫刻を多く用いるのは珍しい。以上のように、本物件は、十八世紀前期の標準的な遺構として貴重であり、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。 平成十六年九月 海老名市教育委員会拝 殿ご祭神は「寒川名神ノ御支枝」の加牟之田之命(かむのいわれのみこと)とも、倉荷魂命(うかのみたまのみこと)ともいわれますと。また、毎年7月には神輿の担ぎ手が相模川の水で清めた後、大山道沿いに置かれた燃え盛る麦わらの束を踏んで通るという神事が行われている。拝殿の木鼻。拝殿の龍の彫り物。拝殿には三個の鈴。拝殿の右側に背の高い建物。建物の扁額は「宝物殿」と。神輿が納められているのであろうか。境内から西側の路地へ出て社殿を望む。同場所から南側を。15:20大山道(柏尾道)をスマホの案内で東へ進むと足もとに目的地の「浄土宗 浄久寺」の名。 ー 続く ー
2024.03.23
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今日の目的地の一つである海老名市の西側にある「戸田の渡し跡(門沢橋の大山不動)」へ。3月18日(月) 14:30門沢橋南の地蔵所在地:神奈川県海老名市門沢橋5丁目辺りスマホの案内で道に迷ったがどうにか到着した。かつては門沢橋への主要道路が渋滞する朝夕は交通量が多かったが。海老名市のマンホール蓋市の木ツゲ、市の花サツキ、相模国分寺の七重の塔、中央に海老名市の市章をデザイン。「おすい」の文字。市章はカタカナの「エビナ」を図案化し平和と飛躍を表していると。敷地の一角に設けられている ”門沢橋南の地蔵” 。赤い頭巾等を被せてもらい、綺麗な花も供えられていた。説明板はなかったが信仰心の篤い方がおられるのであろう。寒川町から海老名市に入り、今日の海老名市の散策の起点は右側の「戸田の渡し跡(門沢橋の大山不動)」である。これから訪れるルートをGoogleマップで検索。住宅街を進むと住宅街の前後に橋。手前の橋の欄干には「はらかわ」「門澤橋」のネームプレート。プレートの「門澤橋」はあったが「はらかわ」は座のみで漢字表示はなかった。二つ目の橋を渡り振り返る。橋には「世継橋」と。世継橋が架かる「永池川」の下流側。この先の左から ”はらかわ” が合流している。この辺りも開発され新興住宅地に。上流側の欄干には「世継橋」と。永池川の上流の橋はこの後渡る大山道(柏尾道)の「大橋」。世継橋の前方に赤い鳥居。下原橋天満宮所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目3ご祭神は菅原道真。他には説明板もなく詳細は不詳。社号標石には「下原橋天満宮」と。下原橋天満宮は道路に面した一角に鎮座している。石塔群の先(西側)には次に訪れる「正覚寺」の墓地、本堂。世継橋方向を振り返る。石塔の中には「文字道祖神」。石碑には「記念碑」と。大正十二癸亥年九月一日午・・・・・(風化して判読できず)。関東大震災における被害等が刻まれているのであろう。正覚寺の墓地の一角に無縁仏の墓石であろうか。正覚寺の駐車場脇にひっそりと、「明和六寅〇 〇月○○○」と彫られた単身道祖神。墓地の中に墓石があり、「忠魂○○ 陸軍歩兵一等卒 勲八等功七級 冨塚米吉碑」と。 その手前にも ”単身道祖神” があり花が供えられていた。墓地横の駐車場から進み、道路の角に壊れた石塔が並んでいた。ただの石か?。左折すると直ぐに「真言宗高野山 正覚寺」の看板が目に入る。真言宗高野山 正覚寺 (しょうかくじ)所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目13-13高野山真言宗寺院の正覚寺は、橋澤山延命院と号します。正覚寺の創建年代等は不詳ながら、江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていました。本尊の十一面観音菩薩坐像は江戸時代前期の作とされ、海老名市重要文化財に指定されていますと。寺号標石には「真言宗橋澤山 正覺寺」。門柱には「真言宗 正覺寺」と。右側の門柱には「橋澤山 延命院」と。門柱の手前に石仏。木柱には海老名郷土かるた「(ひ) 左手に 蓮の花もつ 観世音」と。門柱を入ると正面に本堂。銅板葺きの本堂前には、石燈籠、常香炉。本堂の扁額「正覺寺」。本堂に掛けられた「橋澤山延命院 正覚寺」の表札。本堂前の左手東方向には宝篋印塔、石碑、弘法大師像が建っていた。高さ2メートル以上の宝篋印塔。築造年代を見るが?。石碑には、「弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念 生かせいのち 昭和五十四年本堂 同五十八年庫裡新築」と。一番本堂側に建つ「弘法大師像」。台座には「南無大師遍照金剛」と。境内の隅に石柱があり「門澤橋」と刻まれていたが。本堂前から見下ろす。反対側から見下ろす。十一面観世音菩薩像 正覚寺 海老名市指定重要文化財 昭和四十九年四月二十三日指定正覚寺本尊の木造十一面観世音菩薩坐像は像高四十八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが、昭和五十四年の修理の際に補われたものです。江戸時代の終わりに編纂された『新編相模国風土記稿』の正覚寺の項には、本尊を運慶作と記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。本尊は江戸時代に造られたものでしょう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その溶け物になった本体を鞘仏(さやぼとけ)といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を示しています。 海老名市教育委員会 令和3年3月設置写真左:胎内仏、中央:胎内仏納入状況。十一面観世音菩薩像本堂前左には「南無大師遍照金剛」と刻まれた石碑。東側の墓地入口に六地蔵。墓地側から振り返る。それぞれに花が供えられていた。多くの石仏が並んでいたが移設されたのか。14:50境内にサクラの木があったがまだ蕾は硬かった。 ー 続く ー
2024.03.22
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この日は朝から気候が温暖であったため、昼食後愛車のリンちゃんで寒川町と海老名市との境にある寺社史蹟巡りに向かった。スマホの目的地を「宮山駅」にセットして出発、距離は8.5kmで所要時間は35分と。3月18日(月) 13:30寒川神社の前を抜け、目久尻川に架かる”寒川大橋”から上流側を望む。河川敷には菜の花が満開になっていた。種子が流れいたる所で咲いている春の風物詩である。JR相模線 宮山駅予定通り約35分で到着した。駅前には戸塚米店があり寒川土産の”八福餅”を販売していた。宮山駅は無人駅で自動改札。寒川神社参拝者が最寄り駅として利用。さむかわの観光 二至二分の地 寒川町のほぼ中央に鎮座する相模國一之宮寒川神社。 寒川神社と二至(夏至・冬至)二分(春分・秋分)の日の出、日の入り地点を結ぶ線上には、 多くのパワースポットが並んでいます。今年訪れたいと思っている寒川神社の北エリア。宮山駅は単式ホーム1面1線の地上駅で、昨年(令和5年)12月17日に駅舎が新しくなった。倉見駅側から見る。駅のホームは嵩上げ。宮山駅の北側に ”首都圏中央連絡自動車道(以降 圏央道)の寒川北インタ” がある。宮山駅から倉見駅へ向かうが、県道46号線(産業道路)を走らず、相模線に沿って北上。金網越しに富士山が薄く見えていた。右上は東海道新幹線の高架橋。上を圏央道、左右に東海道新幹線、地上をJR相模線が交差する交通の要衝地である。ここへ来たのは”新駅予定地”になっているので現状を確認に訪れた。東京駅から「50K870M」地点。相模川に架かる橋梁を新幹線が高速で通過。宮山駅方向を振り返る。右側を相模線が走る。新幹線下に通路が無かったので倉見駅前への旧道へ戻る。新幹線の南側敷地は新地になっている。この辺りの案内板。Googleマップより。黄色の丸の上が倉見駅で新駅予定地になっているのであろう。1997年(平成9年)に新幹線新駅の誘致地区を「寒川町倉見地区」に決定している。新幹線の高架桁に「第五倉見Bℓ」(50K819M)。北側からの圏央道と東海道新幹線の立体交差。こちら側は南側に比べ広いスペースが新地になっている。敷地内には工場の建屋があるが廃屋に。現在は、県央・湘南地域に位置する寒川町倉見地区に「東海道新幹線新駅」の誘致が実現すると、全国の都市との交流・連携が飛躍的に高まり、交通の結節地域となります。県では、県中央部10市町及び経済団体などと「神奈川県東海道新幹線新駅設置促進期成同盟会」を設置し、寒川町倉見地区への新駅誘致に取り組んでいる。東海道新幹線から北側約百メートル程の所にある倉見駅。倉見駅 (くらみえき)相模線は、大正10(1921)年9月、茅ヶ崎 ー 寒川間で開業したのを皮切りに、大正15(1926)年4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6(1931)年4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、補修費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。 平成17年3月 寒川町教育委員会この写真は撮影年月が記載されていないので不詳だが。倉見まで開通した大正15(1926)年4月、同年7月に厚木まで延ばし、昭和6(1931)年4月に橋本まで全線開通したときのものであろうか。大正15(1926)年に開業した当時の建物。倉見駅も無人駅になっている。2014年の乗車人数は1,947人/日(降車客含まず)だが。現在は?。ホームは島式ホームで1面2線を有する地上駅のため、駅舎とは跨線橋で連絡している。このため、エレベーターを2021年3月に新設、バリアフリー化された。 エレベーターの横には ”タヌキの陶器”。昭和を感じる改札口。駅前から北側を望む。寒川町のコミュニティバス「もくせい号」が運行されている。倉見駅の北側数百メートルに位置する「水神宮」。鳥居右側に ”コミュニティバス「もくせい号」” のバス停。倉見水神宮前から南側を振り返る。倉見水神宮水神宮(すいじんぐう)水神宮は水渦難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和四年四月に建立したものです。この地はかつて観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。 平成三十年三月 寒川町教育委員会 一段高いところに社殿が建っている。右側の石碑には「名騎手 相模五郎」と。左側の石碑には「水神宮新築記念」と。かつては木が聳えていたようだが枯れている。社殿前から見下ろす。次の目的地は海老名市にある「正覚寺」。JX金属(株) 倉見工場前の踏切。倉見桜緑道、倉見観音堂緑地倉見水神宮の向かい側に倉見郵便局があり、その角を曲がると踏み切りの先にJX金属 倉見工場があり、その門の手前、右手から倉見桜緑道がはじまる。倉見桜緑道は元々、相模川の旧堤防を利用した緑道で延長約460mの道は、海老名市境まで続いており、南側を中心に約50本の桜が植えられており、春にはお花見客で賑わうと。正覚寺への途中にある「門沢橋南の地蔵」をスマホの案内で進むが道に迷う。塀は JX金属倉見工場の北側で、この道を境に右側(北)が海老名市になる。塀の角に新しい ”道祖神” が建っていた。海老名市境まで続いている ”倉見桜緑道” を振り返る。倉見桜緑道に沿って、JX金属倉見工場の東側の塀が続いている。高い塀沿いに水路があったが。14:25井戸、ポンプがあったが何用であろうか。 ー 続く ー
2024.03.21
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