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みなさん、楽しんでますか?私は昨日・今日、一人で家にいます。あしたも一人です。古いスーパーファミコンを引っ張り出して、ドラクエやってます。家人は義妹の家に行きました。クリスマスイルミネーション(通称・イエナリエ)ぎんぎらぎんの家でクリスマスパーティーだそうです。一人でいることは、わたくし全く苦ではありません。むしろこういう機会にやってみたいことの方が多くて困るくらいです。しかしこの二日間、大半をドラクエに費やしてしまいました。ゆっくりハネをのばして、ウマイもん食ってしこたま飲んでやろうとたくらみましたが、家内からもらったお小遣いは3000円。しかも体調がすぐれません。先ほど、うたた寝中に吐きそうになりました。あわてて止めましたが、胃液が少し鼻の方に回ってしまいタイヘンなことになりました。先日の月面撮影の成功に味をしめ、惑星や昴の撮影にチャレンジしました。手持ちの機材の問題よりもまず、大阪の空では無理でした。昴なんて、普通の人なら見つけることすら出来ないほど暗いのです。シリウスやオリオンを起点にしておうし座を探し、やっと「あれかな?」とぼんやり見える程度なのです。風邪をひかないようにしっかり着込んで損しました。外にいる時間よりも、着替えてる時間の方が長かったくらいです。昨日は天皇誕生日でした。ここ二年近く、神社巡りをよくするせいか「日本人のアイデンティティー」について考えたりします。で、お世話になっているサイトで「本居宣長についての研究」を読んでみました。すごく興味深く、ただならぬ「ご縁」も感じるのでありますが、なにせムズカシィ~。ドラクエ 続きやります。みなさま、よいクリスマスを。
2005.12.24
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素盞嗚さんの日記「邪馬壹国シリーズ」関連の投稿です。水行十日陸行一月。素盞嗚さんによれば、魏の使者は韓国内を陸行したとのこと。その可能性について、パソコンの周りに資料と焼酎とアテを並べて書きます。政治に興味がない人でさえ、しばしばうんざりするほど日本という国は外交が下手です。日本人に古くから根付いている「和」の精神。「和」の中に入って来た外国人は戸惑いますが、外国に「和」を持って行くと“いいように”やられてしまうようです。DNAにしっかりと組み込まれていることなので、いつまでたっても日本の外交は変わらないでしょう。最近は「まあ、それでもいいか」なんて思ってます。我々日本人は日本人らしく、アイデンティティーを失わず日本人であり続けていけばよいと思うのです。アジア・欧米の歴史を考えると、彼らが日本人よりも外交術に長けているのも当然かと思います。思想や宗教、言葉や肌の色が違う国々が国境を接し、にらみ合い鎬を削り、時に争い時に協力し合う歴史を繰り返してきたからです。日本にも戦国時代はありましたが、応仁の乱に端を発する内乱です。王朝が変わり国名が変わるということではありませんでした。さて掲題の「遠交近攻」です。意味はだいたい字を見ても想像出来るように、遠くの国と結び近くの国と対決するという外交戦略のことです。秦はこの外交戦略を採用し、天下統一を果たしました。秦の中国統一と言えば、紀元前3世紀のことです。邪馬台国の時代より500年も前のことです。以来中国では現在に至るまで、しばしばこの「遠交近攻」戦略を用いてきました。「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・・」聖徳太子が書いたと言われるこの「国書」を見た、隋の煬帝は「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者有り。復た以て聞する勿れ・・・」と、カンカンに怒ったそうです。「日出る」と「日没する」との優劣の問題ではなく、倭国の王が中国の皇帝(天子)と同等の地位であることを表明していたからでしょう。それまでの倭国や朝鮮半島の国々は、中国と冊封(さくほう)関係にあったのです。つまり、形式的には(倭など)国王は中国皇帝からその地位を授かるという関係だったのです。しかし遣隋使の小野妹子らは、結局追い返されることなく手厚い待遇を受けたのです。「遠交近攻」の戦略通り、倭国と結ぶことは対朝鮮半島政策に有利と判断されたからだと言われています。特に国境を接する高句麗には、隋も手をやいていたのだそうですから。唐の時代になっても「遠交近攻」は常套手段として効果を発揮します。半島の情勢に乗じて新羅と結んで百済を滅ぼし、高句麗を牽制します。(百済救援のために派遣された倭国軍は白村江の戦いで大敗を喫してしまいます)そして数年後、唐は高句麗を滅ぼしてしまいます。このように紀元前3世紀、秦の時代からの戦略「遠交近攻」を、魏も用いたことでしょう。魏としては、倭国と結べば対朝鮮半島政策上有利になります。その分、南の呉・蜀に目を向けることが出来たわけです。豪華で膨大な下賜品を持って南朝鮮を「陸行」して倭国に向かうことは、魏の国力を見せつけるだけでなく、「魏と倭国の挟み撃ち」という脅威を半島諸国に植え付ける効果があったことでしょうね。蛮夷の小国は、こんな古い時代から利用されていたのかも知れません。追伸:で、その下賜品にあった「銅鏡100枚」とは、前王朝の代物「後漢鏡」であったかも。「余り物のアレ、100枚ほどやっとけ。あいつらアホやから、めっちゃ喜びよんでぇ~」などと言ったかも。蛮夷の属国に、わざわざ下賜専用の鏡を準備したとは考えられません。「三角縁神獣鏡おみやげ説」には同意出来ません。※邪馬台国畿内説で、しばしば「卑弥呼の鏡」と言われる三角縁神獣鏡は、中国本土では1枚も見つかっていません。むむ・・・酔いが回ってつい口がスベリました。
2005.12.22
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安物デジカメ+天体望遠鏡で撮りました。写真(特に天体写真)を趣味にしている方からは「写真をナメルなよぉ~!」と、しかられそうな方法で撮影したのです。次は土星やプレアデスにチャレンジしますが、ピント、露出、カメラの固定方法など課題満載です。邪馬台国どころではなくなりましたばい。
2005.12.18
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素盞嗚さんの記事を読んで、また書きたくなりましたが少々酔いが回って来てます・笑。先日「邪馬台国は九州東岸にあった」と書きました。九州東岸と言っても、いささか広ぉ~ござんす。古事記に書かれている「神武の東征」が「根も葉もある神話」であると考えると、大和の発祥は「筑紫の日向」ということになるのでしょうか。普通に推察すると、宮崎ということになります。大和発祥の地が邪馬台国であるかどうかは別として、初代天皇が九州にいたという「神話」と、邪馬台国の関係は無視するわけには行きません。私が邪馬台国推定地として有力視している大分の宇佐は、「神武の東征」では通過点のひとつとなっています。このことを推察すれば、夜が明けてしまいそうです。高木彬光という推理作家は、「邪馬台国の秘密」という小説で、ベッド・ディテクティブという手法を使い、名探偵神津恭介の推理で「邪馬台国は宇佐にあった」ことを証明しています。ところでこの大分・宇佐ですが、ローマ字(または英語)表記すると「USA」です。「邪馬台国USA説」なんだか、オバカな話です。さて、素盞嗚さんはどんな「説」をお持ちやら。ちなみにわたくし、宇佐に固執はしておりません。邪馬台国は九州のいたる所を「移動した」(中心地=首都が変遷した)という説もあります。おやすみなさい。
2005.12.15
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素盞嗚さんの邪馬台国シリーズ「1500里の矛盾」にトラックバックしています(しているつもりです)。「1里が何メートルだったか」も問題ですが、邪馬台国(邪馬壹国)に至る行程のそれぞれの距離をどうやって測ったのでしょう?見晴らしのいいとこでは「見た感じ」、陸地では「歩いた時間」だったかも知れません。従って魏志倭人伝に書かれてある距離を、地図上に当てはめるのは強引かも知れません。んが、そこを敢えてやってみると・・・狗邪韓国→(渡海1000余里)→対馬国対馬国→(渡海1000余里)→一支国(壱岐)一支国(壱岐)→(渡海1000余里)→末盧国(松浦)末盧国(松浦)→(東南陸行500余里)→伊都国通説のように末盧国が佐賀県・東松浦半島付近、伊都国が福岡・糸島半島付近だとして、魏志倭人伝の記載をざくっと地図上に当てはめてみます。こうして見ると、末盧国から伊都国に至る500余里は1~2日で歩いて行けそうです(実際、私は30kmほど1日で歩いたことがあります。次の日、大変なことになりましたが)。帯方郡から狗邪韓国が7000余里。上記のように帯方郡から伊都国までが10500余里。「帯方郡より女王国に至るには12000余里」という記述があるので、伊都国から女王国までは、素盞嗚さんが今問題にしている「1500(余)里」となるわけです。そこで「対馬→壱岐」が1000余里などの記述から考えると、1500里という距離では、仮に南ではなく東に進んだとしても大和(近畿)にたどり着くことは不可能です。しかも誰かさんのように飲み歩いても、夜ごと酔いつぶれてたとしても「水行十日陸行一月」かかる距離ではないと思います。ここから先の詳細は、素盞嗚さんの記事を待つとして、私が考える「邪馬台国の場所」に関して都合のいいとこだけ(笑)抜き出しておきます。1.女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国畏(おそ)れこれを憚(はばか)る。(大率は)常に伊都国に治し、国中に於いて刺史(しし=監察官)の如く有り。2.女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種なり。3.倭の地を参問(考える)するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋すること五千余里なり上記抜粋「1」は、伊都国に「大率」という役人を置いて、邪馬台国以北の諸国の監視をさせたことが書いてあります。邪馬台国が大和にあったとすると、「北」は「西」のことであるとしても、ちょっと不自然な感じがします。今の時代なら、奈良にいる女王様が「北(西)のことは、あんたにまかしたでぇ~!」と、福岡の大率(役人)に命じてもおかしくはないでしょう。しかし、3世紀当時としては離れ過ぎだと考えます。そんなに離れていたのでは、瀬戸内地方(吉備とかの強大な国など)の国々は、大率が睨みを利かそうと思っても「畏れる」に足らないのではないでしょうか。「2」では、大和に邪馬台国を持って来ると説明がつきません。地図を見て「伊勢とか三重県の海がある」などと言ってはいけません。大和から伊勢に出るには車でもたいへんなんですから。上記「1500里」のことから考えても、女王国は九州東岸のどこかにあったと考えるのが自然だと思いますが・・・。「3」では「倭国は一周五千余里」みたいなことを言ってます。これも九州島に充てて考えるとほぼ納得が行きます。
2005.12.10
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わん つー すりー ふぉー すちゃらかぱぁ~!! 前代未聞の親子ロックバンド誕生。 ファーストシングルはDaddyのオリジナル 「北海道・花札blues」 の、予定でしたが・・・。 Daughterから却下されてしまったので、現在レパートリーなし。 とにかく WE ARE・・・The Daddy&Daughter!!
2005.12.04
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