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久しぶりにブログを更新するが、未だに我が家の家系図調査を行っている。かれこれ1年以上になるが、資料を探しに「国立公文書館」には毎週出かけ(便利な閲覧カードが作れる)金沢(加賀藩)に資料が残っていると聞けば6月と8月に現地に赴き調査を行ってきた。その結果、確定した事実は1000年以上も歴史を遡り、源義光流加賀美遠光系「甲斐清和源氏」の末裔である事が解った。金沢市に残る「加賀藩藩籍簿」に残る各家の「由緒書き」に我が家の祖先3名の名前が記載されていたからであるが、幸運にも加賀藩に当家の姓を名乗る武士が一家系しか居なかった事から簡単に探す事ができたのである。我が家に残っていた資料は「仏壇の中にあった過去帳」と「兜飾りの家紋」そして各種のお宝だけだった。その過去帳の先祖の名前が今回の決めてとなった訳だが、一番古い先祖の死亡年は西暦で言うと1603年、つまり徳川家康が征夷大将軍になった頃から現在までの400年以上書かれている。8月の金沢市における調査については「金沢市玉川近代史資料館」の学芸員の方2名に協力していただいたのだが、古文書には前述の我が家の祖先の生国出身地や由緒が細かく記載されており、甲斐清和源氏の一族である事も詳細に書かれていた。それにより鎌倉時代から江戸初期までの人名からどのような武士だったか?どんな事をした人物がいたのか?インターネットでその名前を検索すればいくらでも出てくる。鎌倉時代以降から続く家紋も一緒、祖先の名前も一緒、と何でも判る感じだったのだが、どうしても解らない事があった。なぜ、甲斐の国から金沢に移りすんだのか?いつ江戸に移りすんだのか?松江城主「松平直政」から捨扶持700石、越後松平家から500石、他の大名家から「捨扶持」として貰っていた理由は何だったのだろうか?それだけの知行を貰いながら、どこの藩にも属さない「浪人」だったのはなぜか?つまり江戸時代の我が家の祖先の役向きと言うか、何をして生きていたのか?それが全く説明できなかったのである。「浪人」と聞くと藩が御取りつぶしになり貧乏で「傘張り」なんかの内職をしながら長屋で暮らしているイメージがあるが、我が家の明治期まで残る屋敷は「四ツ谷」にあり700坪以上あったと聞く。家人・用人は36名以上仕えて居たと言う事実や写真が残っている。だから解らなかったのである。家内などは「きっと何か悪い事をして生きていたに違いない」と言っていたが、昨日その我が家の江戸時代の「仕事」が判明した。「清和源氏」とは清和天皇を始祖とする一族であり、「源頼朝」が征夷大将軍になれたのも清和源氏として武家の頭領資格を得ていたからであり、その後の「足利尊氏」も清和源氏の一族である。・・・で、我が家も清和源氏の一族だった事から、江戸時代の初期から「高家」と言う扱いを受けていたと言うのである。「高家」(こうけ)には、「奥高家」と「表高家」の二つがあり、「奥高家」は天皇に拝謁し武家との諸手続きを行う事が出来る職に務める事ができる家柄なので、官位としては徳川御三家・徳川御三卿の次に位が高かったので、大名家で言うと加賀前田家・奥州伊達家などを除くと殆どがこの「高家」の方が身分が高かったそうである。これが「職を持つ高家」である「奥高家」であり、一方で「職を持たない高家」が存在した。昔から「藤原摂関家」の一族、「公家」に関係する武士の一族、そして「清和源氏」の一族がそうである。表向きの石高は1000石程度だったが、仕事は大名やその藩士に「武家の作法」「公家・武家の接待饗応作法」などを伝えて教えるのが仕事だったと言うのだ。あの「忠臣蔵」において赤穂藩主が、奥高家である「吉良上野介」に饗応の方法を教えてもらおうとしたが、「謝礼」が「赤穂の名物塩?など?」だった為、吉良上野介から「田舎者と馬鹿にされて意地悪された」事が発端と聞くが、私が「高家」の立場から吉良上野介を見ると、「作法を教える事」を仕事にしていたので、「名物」では無く「金品」を渡すのが筋だった事が解る。実際に「高家」は諸大名や他の武士達から教える事による「報酬」を受け取る事は幕府から黙認されていたと言う事実がある。つまり名門の家系である「高家」を滅亡させない為にも余裕のある大名家は「捨扶持」を与えて、作法教授として藩士の指導をさせていた経緯もあり、高家の武士自らが営業し稼ぐ事は大名家の負担も減らす意味からも重要な仕事だったと言う事が解る。だから長男曰く「400年間遊んで暮らしていた」のも事実であり、しかもかなり裕福だった事も証明された。ちなみに明治時代の曾祖父は明治新政府に登用されて働いていたようだが、祖父は生涯働いていいない。父も38歳まで働いておらず財産を食いつぶして暮らしていたらしい。戦争中は「お家が途絶えてはいけない」として、軍部に圧力がかかり?陸軍経理部で兵隊の給料計算をしていたと言う。確かに我が家は親族が誰一人生き残っていない、我が家には長男が一人いるが彼の子供が生まれなかったら当家1000年の歴史は終わる事になる。
2012.09.30
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日本の外交下手は相変わらずで情けない限りだ・・・。頭の堅い日本政府が自国で「何とかしよう」と考える前に先ず他にやる事があるはずだ。それは「第三国の世論」をうまく利用する事につきる。ネットを利用し国民を扇動する別働隊、サイバー攻撃を行う組織など裏の組織を多く抱える中国政府に対して正攻法で闘うには、他国のマスコミを煽るのが一番いいだろう。アメリカのCIAではないが、いかなる手段も用いて他国のTV番組や新聞等のマスコミのニュースソースとして歴史的史実の「真実」を適材適所にリークして、どちらが正しいのか?中国の狙いは何か?日本だけでなく東南アジア諸国にも広がる同じ問題の一つとして「報道特番」を組ませたり、マスコミ関係者のコメントを公の場で引き出して行くのが最も大切な事だと思うのだ。先ず、世界に「状態」を認知してもらう事、次に日本が戦後ODAで中国に対してどのくらいの金額を援助してきたのか?ちなみに中国ご自慢の「上海空港」だって日本のODAで造られた事を中国国民は知らされていない。日本人がネットで声高に唱えても中国人は誰も信じないだろうが、世界のマスコミが事実を報道し続ければ、やがて中国人の目にも触れて行く事になる。あの「とう小平」(中国語の「とう」の漢字は表示不能)は中国の発展に際し、当時のパナソニックに対して頭を下げて産業発展のノウハウ援助を乞うたのである。日本の企業はアメリカの企業に残るような昔の資本主義タイプの「搾取」的経営から中国が発展するような方法を取り、労働環境を整えてまさに社会主義的経営を根付かせたのである。なので中国人でも知識人や富裕層は「真実」を知る人は多いのだが、事実・真実はネットでも公にも正面から言う事はできない。実はこのような事は韓国でも同じだ。以前「日韓ワールドカップ」の仕事で毎週のように韓国に行っていた事があった。その際、毎回現地で日本語が話せる通訳兼コーディネーターの女性を頼んでいたのだが、その方から聞いた話。その方は日本語がペラペラなのに日本には一度も行った事も無く、日本語学校へ通った事もなかった。「どうやって覚えたの?」と私は尋ねたら、最初は教えてくれなかったのだが数回目の訪韓時にやっと話してくれた・・・。その方の祖父は昔日本に住んでいて、日本に渡った理由は「貧しい韓国から脱出したかった」からだったそうで、日本に行ってみても実際の現実は変わらなかったそうだ。しかし一番違った事は貧しく住んでいても、周りには同じ様に貧しい日本人も多くご近所同士で手を取りあってその苦しい時期を乗り越えたのだと言う。その際に多くの日本人の優しさに触れて、自国の荒らしい民族と根本的に違う民族だと知ったそうだ。その後、日本でお金を貯めて戦後すぐに韓国に帰ったのだそうだが、その方の話として「従軍慰安婦」は韓国人の裏社会の組織が韓国国内の貧しい農村を舞台に「人買い」をして娘を集めていたと言うのだ。つまり自国の人間が自国の娘たちを売り買いし、それを提供する場所もこさえたとの事だった。そこに日本の裏社会と軍部の下級将校が目を付けて利害が結び付き、結果ビジネスに発展していったと言う。経営は韓国人と日本人が共同で行い、韓国人は地方の貧しい村々から「娘の調達」を役目とし、日本人は部隊の軍人や商社マンを誘い「客寄せ」をしていたらしい。実はその「娘」を調達する係の韓国人のやり方が問題だった。無法な手段を用い「人攫い」のようなやり方で村の娘を買い取って行ったらしい。もっと問題だった事は「人と減らし」と称して「親が自分の娘を売りに来る事が多かったので驚いた」とも言っていたそうだ。そして手先の韓国人が娘を連れ去る時の捨て台詞は必ず「日本軍を恨め」だったらしい。何も知らない韓国人はすべて日本軍の命令だと思ったに違いないと・・・。その方の祖父の方は死ぬまで「その時の事を悔やんでいた」と言うので、ある意味日本にいた頃から裏社会に通じた方だったのかもしれない。さらにその方の祖父は韓国政府が日本の嫌がるような教育や誤った内容の洗脳施設の開設について「韓国政府は日本が困るような事をして何が目的なんだろう」と感じ、政府の事が信じられなくなったと言っていたそうだ。そして、祖父は孫であるそのコーディネーターの方に「日本語をしっかり勉強していれば必ず人生の役に立つ」と言い、学校や世間からは隠れるようにして、さらには両親からも隠れながら祖父から日本語を勉強したとの事だ。ちなみに祖母は日本人だったそうで、「国籍の関係で祖父と一緒に韓国に渡れない事になった祖母は神戸を出る船の岸壁から祖父が見守る目の前で海に身を投げた」のだそうだ。金もあり大学に進学して勉強する学生と違い、その学業の過程に進めない貧しい家庭の子が韓国国内で仕事を得るために、最短のコースが日本語の勉強だと思って彼女は日本語を学んだのだそうだ。「事実を知る人」は次々と亡くなり、日本が正当性を証明できる真実は消えていく。だからこそ、「第三国が調べた形」で正しく歴史を調査してもらい、「真実・事実」を後世に残す地道な作業の積み重ねをすることで今後の日本を守れるのだと思う・・・。中国・韓国の無茶ぶりは「勝てば官軍」という言葉の通りでもあるが、日本は戦後の「負け戦」を後何年引きずらなければならないのか?とにかく韓国や中国がコツコツと国民を洗脳したように、日本人も根気よく世界に「真実・事実」を発信し続けなければならないのだ。
2012.09.20
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今、8月に滞在した金沢での記録をまとめている。まとめると言っても我が家の先祖の話なのだが、事の発端は以前書いた通り引っ越しをする為古い家を転居する際に屋根裏から「お宝?」がザクザクでてきた事ことにある。「お宝」と言っても我が家家族にとってははっきり言って邪魔だった。「掛け軸」に「書」だけで50点以上、「壺」に「印籠」「刀」に「短刀」・・・で、中には「清和源氏」「徳川家達」の落款がある書に「三条実美」真筆の書などなど・・・。なんでこんな物が家にあったのだろうか?・・・という疑問が発端なのである。86歳の母に確認すると亡くなった父も祖父母も「心当たりが無いし聞いた事も無かった」と言う。但し、口伝として代々伝わった話は残っている。1、大昔は甲斐国(山梨県)の出身だった。2、江戸初期は金沢にいた。3、家系から徳川家康の側室に上がった娘がいる(生まれた子は家康の五男「松平信吉」)4、江戸時代に当家の分家は旗本だった。5、昭和初期父の学生名簿には「士族」と書かれていた。以上から、江戸時代は「武士」だった事は何となく家族全員が知っていた。しかしながら昔の事なので「眉唾もの」で誰も真実を知らなかったのである。・・・で、ある時仏壇の整理をしていて古い過去帳を見たのだが、そこには当然ながらご先祖関係者が記載されている。そこでそれを見ても何も気付かなかった。なぜならば、過去帳とは死んだ人間を「亡くなった月別」に記載されているので、系統が見えてこなかったのである。6月にも金沢に行った折「玉川(金沢)近代歴史資料館」の学芸員の方から「死んだ方々のお名前を年代別に並べ替えてみた方が良い」との事で、並べ直してみたのである。すると一番古い先祖は「元和3年7月」に亡くなっている。つまり西暦で言うと1617年、つまり395年前から過去帳に記載があった事になる。ちなみに徳川家康が征夷大将軍となったのが西暦で言うと1603年、まさに徳川秀忠の頃から記載が有ったのだ。今回はそのご先祖の死亡年代別一覧表を前述の資料館に持参し、加賀藩の「藩士記録名簿」と士族の「由緒書き」を見せてもらう事が目的だったのだが、祖先が一度金沢にいた事が幸いした。金沢は太平洋戦争中に米軍の爆撃を逃れており、多くの古文書や資料が大量に保存されている。その為、加賀藩に立ち寄った武士はすべて出身地からどこで?何をしていたか?その後どこへ行ったか?まできちんと名簿に残っているのである。しかも6月の調査では金沢(加賀藩)に当家と同じ名前の士族は一家系しか存在しないので、我が家の口伝が本当ならば江戸時代の祖先の名前が記載されているはずなのだ。結果は見事ビンゴ!初代395年前に亡くなったの祖先の名前と、その妻の出身家名まで完全に一致した。その次の代の祖先名も妻の名前も全く当家の過去帳と同じであり、学芸員の方に言わせれば「大変珍しい事であり江戸時代はおろか鎌倉時代まで遡って繋がる甲斐源氏一族の家系だ」と言われたのである。しかもその古文書(由緒書き)には現代訳をすると「甲斐より1605年に金沢に来た。清和源氏甲斐○○家子孫、加賀美遠光の直系御葉門一族。松江城主松平出羽守直政より1.000石の捨扶持知行を賜る。加賀藩より150石の捨扶持を賜る。豊後松平家より200石の知行を賜る。越前松平家より知行を賜る。云々・・・と数ページの記載。」そして名前の前には我が家の姓○○が入り「○○左喜佐衛門 源近英」(○○サキザエモンミナモトノチカヒデ)そして、「○○右近之允 源近恭」(○○ウコンノジョウミナモトノチカヨリ)と記載されていた。この代以降は江戸に上り300年以上明治時代まで四ツ谷の大御殿に居住している。次にここで大事なのは「御葉門」の意味。これは「源 頼朝」が清和源氏(清和天皇の子孫)な中で鎌倉幕府設立までの貢献度から、「源氏」の姓つまり「源」を名乗って良い一族として認める一族の事を指すのである。ちなみに「御葉門」一族にあの「源義経」は取り消されているし、頼朝の家族兄弟でも「源」姓を名乗る事は許されなかったのだと言う。「「山名・大内・加賀美・足利・武田・安田・平賀」が御葉門の一族となる。なので、巷に聞く「うちは由緒ある源氏の子孫だ」と名乗れるのは、本当はこの家系の末裔しか許されなかったのである。だから加賀藩の士族由緒書きには「源」の姓が追加されていたと言う事になる。さらに驚いたのだが、我が家の祖先はどこの藩にも属していない。普通であれば「○○藩藩士」「○○藩浪人」などと名前が付くのだ。しかしながら日本中の松平家や大名家から数百石の「捨扶持」を貰っており、かなり裕福な生活だった事が解っているし、明治期には明治政府に官僚として務めている。学芸員の方の話では、この我が家が代々貰っていた「捨扶持」(すてぶち)とは、幕府や大名家が「名家」の存続などの為に与えた扶持(給料)だと言う事なのだそうだ。宮本武蔵が剣術指南役として小笠原藩から受けていた給料もこの「捨扶持」になると言う。ようするに「働きもせず、役も無く、金は使いきれないほどありただブラブラ暮らしていた」みたいである。この状態は昭和の初期まで続き、明治大正時代に生きた祖父は生涯仕事をしておらず一昨年亡くなった父も38歳まで仕事をしていなかった・・・。戦争すら行っていない。理由は父が戦争で死ぬと「家の跡取りがいなくなると大変だから」との勝手な理由で親族の当時大本営にいた陸軍参謀が手配してくれたからだそうだ。いつの時代も権力を持つ役人が役得をするのだろう?おかげで我が家は何とか続いているが。・・・で都内の土地五ヶ所を売り払い、祖父と父二人で全ての財産を食いつぶして現在に至ると言う訳である。都内の土地でも一つ残しておいてくれれば今頃は私も働かないで済んだかもしれないのに・・・。
2012.09.14
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