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★☆ 護衛艦「ひゅうが」の姉妹艦「いせ(ISE)」を訪れました ★☆ 海上自衛隊(JMSDF) JS ISE (DDH182)~ ヘリコプターなどの垂直上昇機積載を志向した空母 ~ 先日(8月26日の日曜)、山口県下関港埠頭に停泊中の海上自衛隊(JMSDF)所属の新鋭護衛艦「いせ(ISE)」(DDH182)が一般公開中だったので、見学に訪れました。当日は日曜日で快晴、駐車場は満杯状態でしたが、正味1時間の実物観察を満喫できました。 全長が長く全体の撮影が困難、パノラマ撮影で左右2枚撮影し1枚に合成です。(この護衛艦の諸元データ)・・・・基準排水量:13,950トン、全長:197m、全幅:33m、速力:30ノット、搭載機:哨戒ヘリコプター3機、乗員数:340名、主要武器:Mk41 VLS(対空・対艦・対潜水艦ミサイル)x16セル、短魚雷発射管x2、高性能20mm機関砲(CIWS)x2、12.7mm機関銃x7 ★☆『 海上自衛隊DDH-182護衛艦「いせ」 』★☆ この動画では、最初、音響測定艦「ひびき」が登場、「いせ」は、約3分経過後にようやく登場です。白波を切って海上進行する様子は、大きさだけでなく美しい艦艇のフォルムにも魅力が感じられます。 駐車場から徒歩で向かいます。何となく子供の頃の修学旅行の様なドキドキ感を久しぶりに味わいました。男性だけが興味を持つものだと先入観がありましたが、どうしてどうして、若い女性ギャルたちも多く、子供連れの親子、アベックなども多かったのが印象的でした。 巨艦に比べ人間の小さいこと!この護衛艦の大きさが想像できると思います。すると・・・戦艦「大和」は、基準排水量がこの船の約5倍の7万2,000トンですから、「大和」がいかに大きかったことか!乗船する前に、乗船口で簡単な手荷物検査、金属探知機の検査などを受けました。 艦内は、大型格納庫の構造で、後部と中央部に航空機用大型エレベータがあります。後部エレベータに乗って、飛行甲板に移動!写真左は中央部のエレベータ付近の様子 後部エレベータで甲板に上昇!船尾側の飛行甲板に出ると、眼前に広がるグラウンドの様な広い飛行甲板、右手には、三次元レーダーなどの様々な探知機類搭載の射撃指揮装置のある艦橋部分が! 甲板上の作業用のクレーン車 船尾に設置された「旭日旗」と背景にある「関門大橋」のコラボです。関門海峡!昔、源氏と平家の「壇ノ浦の合戦」がありました。 小学生と母親が興味深げに、12.7ミリ機関銃を触っていました。左手奥の白い建物は水族館の「海響館」 羽を折りたたんだ哨戒ヘリの操縦席に乗り込もうとする人々の様子 哨戒ヘリの後部周辺の様子 写真左は、ヘリの尾翼部分でカメラ装備です、右は、船首側から見た艦橋部分 船首側から見た中央エレベータと艦橋部分の様子 艦橋のドアハッチですが、なんと頑丈な!開けるのは容易ではない! レーダー?探知機?よくわかない白い物体! 船首側から甲板を見た様子、見返り美人がニッコリ! SF「スターウォーズ」に登場する様な「高性能20mm機関砲(CIWS)」を鑑賞する人々の様子 「高性能20mm機関砲(CIWS)」、レーダー・カメラとコンピュータシステムのコラボで飛行機ばかりか飛来するミサイルまで自動追尾で射撃、撃墜可能だとか・・・多銃身で毎分4,500発も発射!・・まさに射撃ロボット! 船首側から下関港を撮影、右手に「海峡タワー」が見える。 甲板から見た駐車場、下関市内の様子 これも同様に下関市内の様子 関門海峡を走る遊覧船 「いせ」付近上空を遊覧飛行するヘリコプター 写真左は、船首側の日本国旗、暑かったけど、有意義な1時間でした。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/30
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★☆ 戦場のサバイバル!『クルスクの戦い・1943年』 ★☆ SURVIVORS,PANZER CREW (KURSK 1943)~ プラモデル題材での6回目の試み ~ 今回の動画作品は、『 SURVIVORS,PANZER CREW (KURSK 1943) 』とテーマのあるドラゴン社のフィギュアミリタリープラモデルとタミヤの『 IV号戦車H型 』による構成です。 激しい戦車戦の末に、乗車中のドイツ軍IV号戦車H型がソ連軍T34戦車の攻撃で被弾、乗員5名中1名は死亡、残る4名が戦車から必死の脱出を試みるシーンです。負傷した1名はうずくまり、カラシニコフ自動小銃を持った他の1名が負傷兵を後ろから支えています。背の高い砲手の兵士は、片手にワルサー自動けん銃、もう一方の片手に手りゅう弾を持ち、敵の追撃に備えています。戦車長は、P40シュマイザー自動小銃を構え、後方を警戒しています。 DRAGON社のBOXART 「KURSK(クルスク)」は、第二次世界大戦中の東部戦線において、1943年7月4日から1943年8月27日までの間、ドイツ軍の「ツィタデレ(独:Zitadelle、城塞)作戦」によって赤軍(ソ連軍)との間で行われた戦闘を指しています。この戦闘では、ソ連軍3500両、ドイツ軍2500両が参加した史上最大の大戦車戦でした。この戦いは、ドイツ軍中枢部にもぐりこんだソ連軍スパイからの情報で、ソ連軍は既に早くから機密事項の作戦計画を把握しており、早い段階から幾重もの対戦車砲陣地などを周到に構築し、ドイツ軍の進撃方向で待ち構えていました。 当時のドイツ陸軍戦車兵の制服は腰の位置で絞られたブルゾン型の上衣とズボンとも黒づくめでしたが、それは、ドイツ陸軍の中でも特に選び抜かれたエリートの象徴を意味するものでした。それを着用することで、自然と戦車兵たち相互に強い団結心と士気を高める効果があったようです。 左側面のエンジン部分を被弾した戦車からは黒煙と炎が噴き出しています。幸いにも砲弾は全弾打ち尽くしたために誘爆の恐れはないようです。無防備状態の戦車兵が恐れるのは、追撃する敵の歩兵部隊のようです。 ☆『 KURSK 1943 SURVIVORS, GERMAN PANZER CREW 』★ 今回は、前半の一部にクルスクに関係する動画を挿入しました。ドイツ軍とソ連軍の合わせて6000両の戦車が入り乱れ激突した史上最大の大戦車戦!まさに、鉄と鉄の激突!戦車戦の「関ヶ原の合戦」でした。しかし、この作品は、たった1両の戦車と4人の戦車兵だけに焦点を合わせて戦争の恐怖を表現してみたかったのです。 敵兵が迫りつつあるのか、後方を注視し、恐怖で顔がひきつる戦車兵・・・・戦場でのサバイバルなイメージは、戦争未経験者にとってはあくまで想像の域を出ませんが、想像をリアルに膨らませるしか方法がありません。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/23
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★☆ ソ連軍の巨体戦車『KV-II GIGANT(ギガント)』 ★☆ Russian Heavy Tank KV-II GIGANT~ プラモデル題材での5回目の挑戦 ~ 今回の動画作品のネタに使ったのは、過去に作成した第2次世界中に出現してドイツ軍を驚かせた『KV-II GIGANT(ギガント)』と呼ばれたソ連軍重戦車です。この戦車は、高さが3.5m、重量は52トンもあり、鉄の塊(かたまり)の様な分厚い装甲に、152mm榴弾砲を装備していました。「GIGANT(ギガント)」とは、「怪物」を意味するそうです。 第二次世界大戦中のソ連軍では、戦車等の塗装色については、通常はダーク系のグリーンを採用していましたが、KV-IIについては、この塗装の様なやや明るいライト系グリーンで塗装されていた場合が多かったようです。KV-IIが、初戦でデビューしたのは、1939年11月から始まった対フィンランド戦でソ連軍の大軍の攻撃にも長期にわたり持ちこたえたフィンランド軍の「マンネルハイム線」と呼ばれた強力な陣地群に対する攻略戦でした。この重戦車の攻撃で1940年2月12日、遂に「マンネルハイム線」は崩壊しました。1941年6月の独ソ開戦後は、フィンランド戦を生き残った増加試作型、量産型ともに前線に投入され、フィンランド戦同様、その巨体と重装甲はドイツ兵を驚愕(きょうがく)させました。 1941年6月23日、35(t)戦車を装備するドイツ第6戦車師団は、リトアニアのドゥビーサ川方面の戦いで、KV-IIを保有するソ連第2戦車師団と遭遇、戦車40輌と多くの火砲を撃破される大損害を受けました。また、他のたった1輌のKV-IIは、第6戦車師団に向かう増援部隊のトラック12台を撃破、街道上の分岐点に居座ってドイツ軍を食い止め続け、これを排除すべく送り込まれた5cm対戦車砲部隊やそれに続く8.8cm高射砲1門も設置中に砲撃され破壊されました。夜になって突撃工兵が爆薬攻撃を仕掛け、ようやく履帯を破壊して行動不能に追い込み、翌日、軽戦車が囮(おとり)となっている間に設置された8.8cm高射砲が水平射撃で6発を命中、2発が貫通したものの、乗員はまだ生きており砲塔が動き始めたため、工兵により被弾孔から投げ込まれた手榴弾でようやく破壊・沈黙させたることができたというもので、まさに「GIGANT(怪物)」と呼ばれドイツ軍に恐怖を与えました。 当時のドイツ軍では、重装甲の高い防御力と破壊力の高い152mm榴弾砲を装備したKV-IIを捕獲すると、戦車同士の機動戦には不向きなために、主に敵陣地や要塞攻撃用に積極的に再利用しました。KV-IIについては、何故か・・・当時のソ連軍が使用中のものよりも、ドイツ軍が捕獲後に再利用中の記録写真の方が圧倒的に多いのです。 ★☆『 KV-II GIGANT Russian Heavy Tank WWII 』★☆ 動画と言っても、静止画のみを使用した連続的な構成に過ぎないものですが、できるだけ動きがあるようにカメラワークだけの動きで誤魔化しています。それでも、これはこれで十分楽しいものです。 REALISTがお気入りのソ連軍戦車兵です。身長1m90cm余りの巨漢のソビエト軍戦車兵イワン・アントノフ少尉でもこの戦車の巨大さにはかないません。まるで、こぶしを握って、「この戦車でフィンランドもドイツも蹴散らしてやる!」と呟(つぶや)いているようです。いかにもソ連軍戦車兵らしい風貌を感じさせます。【中古】プラモデル 1/35 Russia KV-2 Tank -ソビエト軍 KV-2重戦車- [00312]楽天で購入 REALISTの作品は、TAMIYA(タミヤ模型)製ですが、楽天市場には、この1/35スケールモデルでは、「トランペッター」製(原産国:中国)のみしか現存していませんでした。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/19
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★☆ 山頂に鎌倉期の神像が眠る花尾山 ★☆ ~ 山口県美祢市大字別府字花尾山 ~ 花尾(はなお)山は、山口県長門市と美祢市の境界にある標高670mの山だ。広い山頂にたどり着くと、近隣の秋吉台、県内の山々、さらに北は日本海も望める。視界の良い時なら南に瀬戸内海から九州の国東半島、由布岳等まで確認できる。 REALISTは、6月13日(水)に花尾山登山に挑戦した。比較的低い山(標高670m)で割と登りやすいが、前々日は長雨があり、当日も曇り空で下山中に一時雨も降りかけたが、すぐに晴れ間になりラッキーだった。 ただ、登山中に終始、ヤブ蚊たちの来襲を受け露出した顔周辺を付きまとわれた。夏の登山は、虫除けスプレーは必需品だ。 長門市渋木にある長門市立「大畑小学校」付近から「花尾山」方面に進行、最初の登山口に至るのがここだ。背広姿のひょうきんでマンガチックなカガシの人形が目印だ。登山コースの「本谷(ほんたに)コース」と「炉(たたら)コース」の矢印板が掲示されている。また、ここには、駐車場が整備されている。 「花尾山」は、長門市と美祢市の境界にある山で、正確には美祢市の領域にある山だ。なぜなら、正確な所在地が、「山口県美祢市大字別府字花尾山」とされているからだ。 登山口にある「花尾山登山案内図」、これは地元の方が作成されたようだ。わかりやすい表示で作成されている。REALISTは、この山は初心者であるので、単純そうな「炉(たたら)コース」を進むことにした。このコースだと、もうしばらく進行すると別に4,5台分のスペースのある駐車場があるので、そのまま車で先を進んだ。 当日は、平日で曇り空であったこともあり、「炉(たたら)コース」の駐車場には駐車車両は皆無でフリーの状態だった。駐車場からいよいよ登山口を進むと丸木橋がある。ここを渡り山の森林道を進み始めると、間もなくヤブ蚊が襲ってきた。これに備えて事前に用意していた虫除けスプレーを全身に吹き付けた。やはり、効果はあるようだ。そして、高い杉林の山道を進む。気温はそれほど高くはないが湿度は高かった。 間もなく、「大畑小学校児童会」作成の標示板があった。ここの小学生も校内行事で登るのだろう。この様な標示板が山頂迄には数か所あるが、何となく心を和ませてくれるような気持ちになる。 大きな杉の大木が林立している。杉の木を避けながらクネクネとした上り坂を進んでいく。 山道では、岩の塊(かたまり)を砕(くだ)いた様な割れた岩石がゴロゴロと転がった道が延々と続く道もある。 ホッとさせる様な山頂まで800mの標示板、枯れ葉の降り積もったクッションの様な山道も心地よいものだ。 この山には、鎌倉時代から既に人々が山に登り往来していた。なぜなら、山頂には鎌倉期に創建された寺社跡が存在するからだ。 苔むした丸みのある岩が川の様に流れた様な道もある。ようやく残り500mの標示板が嬉しい。 少し平坦で広い部分にこの様な人工的な石垣があった。この周囲には同様な石垣があり、鎌倉期に創建した寺社の管理をしていた僧などの居住施設でもあったのではないかと想像させる。 上の石垣のある付近には、この「おとづれ杉」と呼ばれる杉の大木がある。神木なのかな? 蛇行する山林の道を歩き進む。「もう間もなく山頂だ、未知の山頂はどんな景色だろう?」と思いをめぐらすと次第に心が躍る。 歩き進んでいくと、間もなく目の先には、曇り空の白い光線が視界に入った。「おお!いよいよ山頂が近い!」と、山頂への傾斜のきつい草原の様な上り坂を進む。 山頂まで100m!ラストスパート!思わずニンマリさせる嬉しい標示板だ。 山頂に到着!!これがまず目の前に飛び込んだ。大きな石製の鳥居の痕跡と最上部には祠(ほこら)がある。「花尾山権現社」とある建物の遺構で文応元年(1260年)の創建であることが刻まれている。階段等の石は大きく1個が数百kgはあるだろうが、どうやってここまで運んだのだろうか? 祠の中の神像が見える。この神像は、一度盗難に遭いその後「祟(たた)り」があってこの地に戻されたという経緯があるそうだ。 もう一つある祠だ。積まれた岩が崩壊している。ここが神聖の地であることを感じた。 山頂を示す標示板、左隣には登山者が自由に記載できるノートが保管されている。 山頂は広く草原の様な状態で、周囲360度を見渡すことができる。当日は曇り空で視界が悪かったが、ほど良い風があり涼しさを感じた。 周囲の山の方向を指す標示板だ。下山は登りよりも時間はかからず、往復3時間余りだった。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/17
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★☆ 韓国が何と言おうと「竹島」は日本国の領土である!! ★☆ THE REAL HISTORY ~ 韓国が国際司法裁判所の判断に委ねることを拒否する真相 ~ 報道によれば、昨日(2012年8月10日)、韓国の李明博(イミョンバク)大統領が日本政府の中止要請を無視して、不法占拠中の日本国島根県「竹島」に強行上陸した。しかも勝手に竹島上空を「軍事戦闘訓練空域」にも指定したそうだ。どうも、韓国は北朝鮮よりも日本を仮想敵国にしているとしか思えない。 竹島(たけしま)は、日本海の南西部、北緯37度15分、東経131度52分に位置する島。「竹島」は日本における呼称で、韓国・北朝鮮では「独島(獨島、トクト、독도、Dokdo)」、第三国では「リアンクール岩礁(Liancourt Rocks)」と呼ばれている。~ 終戦後のどさくさに紛れて竹島を不法占拠した韓国の歴史 ~ 日本国島根県「竹島」が韓国軍による不法占拠とその占拠直後の「竹島」近海における韓国軍による日本漁民虐殺は、韓国の歴史的事実だ。 1905年(明治38年)1月28日、日本政府は島根県隠岐島司の所管の「竹島」と閣議決定し、以降、竹島は行政区画では島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地であり、正式に日本の領土となった。 この「竹島」の韓国による不法占拠の歴史を紐解(ひもと)くと・・・第2次世界大戦後、日本が放棄する地域に「竹島」を入れるようにとの連合国への韓国の要求が拒否され、日本領として残されることを決定した「サンフランシスコ講和条約」発効直前の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領「李承晩(りしょうばん)」は日米政府の反対にもかかわらず、自国の領海を勝手に線引きして日本の「竹島」付近も含んだ海域を「李承晩ライン」と一方的に宣言して竹島を占領した。1965年(昭和40年)の「日韓基本条約」締結までに韓国により、このラインを越えたことを理由に・・・それを知らずに島根県の島だった「竹島」付近でこれまでどおり漁業を操業中の日本漁民に対し、突然、韓国軍の軍艦が機関銃などで銃撃により、日本人漁師44人を殺害、韓国軍に捕えられた日本人漁民の抑留者は3,929人にものぼり、拿捕(だほ)された船舶数も329隻に上った。また、韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。 その後、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還は拒絶し、日本国内に解放するよう要求した。・・・ところで、何故?自国民の強制送還を認めなかったのか?謎だ!そして、・・・そのまま、韓国による「竹島」実効支配が続いたままだ。・・・(出典)ウィキペディア百科事典「李承晩ライン」から 「竹島」を構成する「女島」(左)と「男島」(右)だ。韓国は、ここを要塞化、ヘリポートや500トン級の船舶が接岸可能な埠頭を建設し、軍隊を常駐させるとともに、韓国客用の宿泊施設まで完成させている。★☆~ 日本自身の問題点と実行すべきことは何か ~★☆ REALISTが思うに、この様な歴史的事実があるにもかかわらず、他国(日本)の歴史教科書に「竹島は韓国に不法占拠されている」という歴史的事実が記載されただけで、韓国政府ばかりか、韓国のメディアまでが一斉に過剰反応し、猛反発しているのには理解できないというか、頭がおかしいとしか言いようがない。それにも増して疑問なのが、日本のメディアやマスコミ、政治家、歴史教育者のだらしなさだ。この様な歴史的事実があったことを広く国民に正確に伝えることがこれら関係者の使命であるはずなのに、一部を除いて極めて消極的だ。教科書にも、日本人が不当に殺害された事実なども追加して正確に子供たちに伝える内容が必要だ。場合によっては、これら不当に殺害された漁民関係者などの調査や慰霊祭、鎮魂碑などの忘れてはならない記憶としての韓国軍の不当な日本人殺害の慰霊モニュメントなどの建設、韓国政府への謝罪と賠償をも要求すべきだろう。 この「竹島紛争」の問題点や責任は、そもそも、竹島を不法占拠されたにもかかわらず、それを解決する措置を怠り、放置状態のまま何もしなかった当時の自民党政府や外務省などの官僚にある。独立国なら領土を不法に外国軍に占拠されて何もしない国などどこにもないだろう。不法占拠されれば、軍事的手段を行使しても占拠中の外国軍を強制排除して国土を守らなければならなかったはずだ。・・・こんな調子なら、尖閣諸島も簡単に不法占拠されるだろうし、占拠されても何もせずに竹島同様に占領されそのまま実効支配され、要塞化されるのが簡単にイメージできる。一旦実効支配されれば、戦争でもしないと簡単には取り戻せないことになるだろう。 日本政府も日本のメディアやマスコミも韓国や中国を「刺激したくない」などと、相手の目の色をうかがい忖度(そんたく)するばかりで、「いつも及び腰の弱腰外交、軟弱メディア・マスコミで情けない」などと感じている国民も多いはずだ。真の独立国なら、韓国や中国がある一線を越えてしまえば、当然に強い姿勢を示すことが必要だ。 ★☆ 韓国の映画館で流れる反日CM ★☆ 韓国の国を挙げての巧みな反日教育戦術 韓国が実効支配中の「竹島」を強く意識したマンガのCMです。子供たちにも強いインパクトを与えるように、「竹島」奪還を狙う弱い日本をコケにした様な韓国政府の反日国家戦略の一環で作成されたものです。こうしたメディア戦術で幼い子供たちにも「独島(ドクト・竹島)は韓国の領土!」と言うものが洗脳され、深い潜在意識に自然と強く残るようになります。まさに、国を挙げての巧みな教育戦術です。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/13
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★☆ 大内時代終焉の地「大寧(たいねい)寺」 ★☆ ~ OLD TEMPLE ~ 「大寧寺」は、戦国の武将大内氏の一族が1410年に創建した曹洞宗の寺院で、山口県長門市南南西の山合いの風光明媚な「長門湯本温泉」に近い県道34号線沿いに位置する。 戦国武将「大内氏」は、1353年に大内弘世が現山口県の周防国を平定、以降、九州から京都方面まで勢力を拡大、大内政弘は、西軍の武将の大軍を率いて「応仁の乱(1467~1477年)」で京都を中心に華々しく活躍した。その後も福岡の博多を治め室町期における「日明貿易」を独占し、最後の大内氏となった第31代「大内義隆」では、多数の公家や宣教師を保護、日本に上陸した「フランシスコ・ザビエル」に謁見しキリスト教布教や教会を許可、京都風の街づくりを導入し、「雪舟」などの多くの文人や芸術家を招き、独特な「大内文化」の最盛期を築いた。 「大寧寺」の前を流れる「大寧寺川」に寺の境内から架かる朱色の「虎渓橋」から川を観る。木々の緑が目に優しい。 「織田信長」が自らの家臣「明智光秀」の謀反(むほん)で滅亡した「本能寺の変(1582年)」と同様に、「大寧寺」は、「大内義隆」がその武断派重臣として重用した「陶晴賢(隆房)」の謀反により襲撃を受け、立てこもった側近武将や公家・息子・姫君ともども奮戦むなしく自刃、寺は炎上し、200年間余りの栄華を誇った大内氏時代の事実上の終焉・滅亡となった「大寧寺の変(1551年)」の歴史的な地で、その時に亡くなった「大内義隆主従の墓」が建立されている。 左は、「虎渓橋」を寺の境内側から観た状況、橋の下を流れる「大寧寺川」や付近の「木屋川」、「音信川」周辺は、天然記念物「源氏ボタル」の発生地で、夜はホタルの舞い飛ぶ情景がある。 大寧寺川には、「盤石橋(ばんじゃくきょう)」と呼ばれる自然の大小の石だけを組んで掛けた橋もある。これは、寛文8年(1668年)に建架された文化的価値の高い橋で、歴史的な重みと風格を感じた。 旧山門跡に向かう一角に「大寧護国禅寺」とある石柱。「護国」とは、「国を守る」ということだが、二度の「元寇の役」で元の中国・朝鮮連合軍の大軍に九州博多周辺を侵略された脅威から、鎌倉期以降、特に日本全国に「護国」の名称を付けた寺が増加した。 左には、「大内義隆公終焉の地」とある石柱、正面の石段の前には、かつて豪華絢爛たる大きな山門が存在した。今は、建物の柱部分を支えた丸い石の基盤だけが整然と並んで残る。 旧山門跡から入った正面に「大寧寺本堂」がある。本堂は、1551年の大内義隆自刃の際に炎上、その後も二度にわたり火災に遭った。 「釈迦三尊及び十六羅漢像」の石像群だ。神様が集合している様だ。 境内には、おそろいの赤い毛糸の帽子と前掛け姿の地蔵尊があり、他にも数十体が散在していた。右は古めかしい「準堤観音」のお参り所だ。 本堂の正面からの撮影は避け、南側から撮影。写真の鐘楼は、銘文では1396年に鋳造されたものだ。 右は、本堂に隣接する「開山堂」、左は、本堂の前の敷地に置かれた屋根瓦であるが、大内家の家紋の「大内菱(びし)」が装飾されている。これは、焼け落ちた昔の建物の遺物なのか? 大内義隆にまつわる「姿見の池」と「兜(かぶと)掛けの岩」に関する説明文 大内義隆が死ぬ前に兜を脱いで掛けたと伝えられる岩(右)と乱れた髪を治そうと自分の顔を見ようとした池(左) 「経蔵跡」とは、寺の経典などが保管されていた蔵(くら)のことだが、今は存在しない。草に覆われた石垣があるだけだ。義隆の重臣「冷泉隆豊」の戦いの最後の場となった説明文「大内義隆主従の墓所」を示しているが、墓所はこの位置から、まだ約300m先だ。 本堂裏山に入ると、間もなく墓石群の入り口となる。その奥は、遠く過ぎ去った時の流れと静寂がある。 石柱には、「史跡 大内義隆主従の墓所」とある。これは、室町期の古い墓を後の「毛利元徳」が明治21(1888)年に寄せ集めて墓所として建立したものだ。元徳は、「三本の矢」の逸話で有名な「毛利元就」の末裔で長州藩の第14代(最後の)藩主だった。大内氏を滅ぼした「陶晴賢」は4年後の1555年に宮島の「厳島の戦い」で毛利元就に負け敗死している。 「大寧寺の変」で犠牲となった大内家の20歳前後の姫君や女官、公家などの墓である。室町期様式の古い墓石とともに明治時代に再建された新しい墓もある。 広い境内にある庭園には、蛇行した水路があり、山からの清らかな湧き水が勢いよく流れる。 境内の南側に「長門豊川稲荷神社」が隣接している。白キツネ像が印象的だ。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/06
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★☆ 大寧(たいねい)寺の池で泳ぐ鯉(こい)で納涼気分 ★☆ Carps in pond~ 山口県長門市湯本温泉付近の大寧寺 ~ オリンピック中継の日本人選手の活躍を祈って観戦している今日この頃ですが・・・・・ 先日、長門市「湯本温泉」付近にある由緒ある「大寧(たいねい)寺」を訪れた。ここは、戦国の武将大内氏の一族が1410年に創建した曹洞宗の寺院である。その敷地内には、体長40センチもある大きな鯉(こい)のいる池がある。その悠々と泳ぐ色とりどりの池の鯉たちを眺めているだけでもとても涼しく感じることができた。寺の詳細は次回として、まずは鯉のいる風景をご紹介する。「長門市」は、維新発祥の地「萩市」の西隣に位置する。女流詩人「金子みすず」の育った地で、「楊貴妃」の墓まである歴史的な土地だ。大寧寺は、長門市の南側に位置する湯本温泉付近に位置する。 REALISTが、この地を訪れたのは、何も鯉を観たいためではなかった。ここが、室町時代の「日明貿易」を独占、多数の公家(くげ)や宣教師を保護し、フランシスコ・ザビエルにキリスト教布教を許可して、独特な「大内文化」の最盛期を築いた周防・長門の戦国武将「大内義隆」の終焉の地だからである。「織田信長」が自らの家臣「明智光秀」の謀反(むほん)で殺害され滅亡した「本能寺の変(1582年)」と同様に、この寺が、「大内義隆」がその武断派重臣として重用した「陶晴賢(隆房)」の謀反により襲撃を受け、立てこもった大寧寺で側近武将や長男・姫君ともども奮戦むなしく殺害され、事実上の大内氏滅亡となった「大寧寺の変(1551年)」の歴史的な地であり、その時に亡くなった大内義隆主従の墓も建立されているからだ。 この寺には、自然石で形作られた比較的こじんまりとした池がある。静寂の中に裏山からの湧水が池の水面に流れ落ちる音が響き、ゆっくりとした時間が流れる。水は清らかで、水面が光を反射してキラめいている。 黄金や白、色とりどりの体長40センチもある大きな錦鯉(にしきごい)がゆったりと水の中で仲良く泳いで遊んでいる様に見えた. 鯉の模様や色彩は美しく自然の芸術品の様だ。なんてこんなに美しいのだろうと思い、いくら見ていても飽きない。 白い大きな鯉が、REALISTの方に向かって浮かんできた。まるで「餌(えさ)をちょうだい!」と求めているようだった。好奇心が強いのだろうか? REALISTが、池の周囲を歩くと鯉もそれを追うように移動してくる。ここの住職かこの池の世話をする人が餌(えさ)を与えているからだろう。餌をもらえると思っての移動だろう。写真右奥の鯉が、こちらを見ながら顔を出していた。 鯉たちには人間の様な争いはないようだ。とても仲良く平和的な動きをしている。鑑賞用に交配して色とりどりの錦鯉を完成させたのは日本人のようだが、報道では、最近、この様な錦鯉の魅力に夢中になる海外のアメリカやヨーロッパ人のファンが増えたそうだ。大邸宅に錦鯉の泳ぐ庭があるのが海外のお金持ちの理想的な趣向になりつつある。 鯉にも人間同様に、仲の良いもの、ペアで遊んでいるもの、親子や夫婦、一匹狼など、いろいろある。 池の水は山から湧き出る水で満たされ、暑い夏でも冷たそうで池の周囲も涼しく感じる。 白い大きな鯉は、REALISTが移動するたびにしばらく私の後を追うように移動しながら目立つ動きをしていた。鯉さんありがとう! 寺の本堂がある場所から下を観ると、別の池がある。こちらは、自然石の池ではなく、一般的な土掘りの様な池である。 その池の中を覗くと、ここにも鯉が泳いでいた。こちらの池は、水草などが生い茂り、水質が濁っているように見えた。それでも、鯉たちは元気そのもので生き生きと泳ぎ回っていた。・・・・次回は、大寧寺の詳細を紹介する。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/02
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