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よく、テレビで100年に一度の大不況という言葉を耳にする。では、100年前の不況とは、その時、松下幸之助は。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。2008年、秋、皮肉なことに、松下電器は、松下の名前を捨ててパナソニックへと変身を遂げた。変身を遂げた途端に。。。世界同時不況。パナソニックは海外の工場を中心に27カ所の生産施設の閉鎖、世界全体で、約1万5000人の人員削減のリストラ策を発表した。。。それは、まるで、松下の名前を消した為に、神通力を失ったかのようだった。。。もともと、松下電器という会社は、”終身雇用”のシンボルのような会社だった。松下は、モノを作る前に、まず、人をつくる。まさに、”企業は人なり”という考えの会社。。。だった。1920年(昭和4年)、アメリカ株式市場の大暴落をきっかけに世界中の経済が大混乱に陥った。松下電器も、また例外ではなく、松下製品の売れ行きもピタリと止まり、倉庫の中は在庫であふれかえった。経営幹部は、幸之助に進言する。”大将、ここは社員を半分にするしかおまへん”幸之助は言った。”賃下げも、クビ切りも結構やな。 だが、しかし、ウチはよそのようには人のクビは切らん。”社員も、世間も、松下を見ている。安易にクビを切ったら、いままでの信頼関係は全部なくなる。松下は、”言うことと、やることが違う会社”といわれるだろう。いっぺんそうなったら会社は成り立たない。わたしは、従業員のクビは一人たりとも切らない。そして幸之助は、経営幹部に”首切りはしない。明日から生産は半分にする。 勤務も半分にする。給与も今まで通り全額支払う。”経営幹部”。。。。。。。”幸之助”そのかわり休日返上で在庫を売るんや。 ここは凌ぐ(しのぐ)しかない。”この話を聞いた従業員たちは。。。松下電器より規模の大きな会社が、従業員をどんどん解雇してゆくニュースが流れており。。。いつ解雇されるのか、気が気でなかった社員たちは、この幸之助の方針を伝え聞くと、うれしさで飛び上がって喜んだそうだ。”さすがは大将や!””よっしゃ! こうなったら在庫を売って、売って売りまくるぞ!”さっそく、ひとりひとりが倉庫の商品を風呂敷に包み込み、街へ飛び出して行った。半日勤務としたものの、従業員たちは当然のように終日、一生懸命に在庫を売り歩く。人間、やる気を出すと恐ろしい。。。倉庫にあふれていた膨大な在庫は、みるみる減ってゆき、なんと二ヶ月後には、すべて売り切ってしまった。(これは実話です!)こうして、松下電器は、100年前の世界恐慌のとき、一人の首切りも出さずに、いち早くフル操業に復帰することができたのだった。幸之助のエピソードを一つ。東京の観光地、浅草。浅草寺(せんそうじ)の有名な雷門と大提灯は、修復する資金がなく、100年近く仮設状態のままになっていた。じつは現在の雷門は1960年、幸之助がポケットマネーを寄進して現在の形に再建されたものなんです。だから提灯の”雷門の下の部分には、”松下電器産業株式会社 松下幸之助”という金文字で大きく刻まれたプレートが 貼られているんです。聞くところによると。。。どうやら、この文字を、”パナソニック”と書き換える予定は。。。まったく無いそうだ。
2009.05.30
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よく豊臣秀吉は、お百姓の身分でありながら、よくぞ、天下を取ったという人がいる。しかし、もし、豊臣秀吉が、大名の家に生まれていたら。。。あれだけのセンスをもって、戦国時代の頂点に立つことが出来たのだろうか。。。若い頃、様々な職業を転々とし、様々な人とのコミュニケーションを積み重ねてきた結果、彼、豊臣秀吉は、大きな未来をつかむことが出来たのではないだろうか。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。松下幸之助の話を一つ紹介したい。”たとえば水泳の先生が、3年間講義をしたとする。 それで、その講義を受けた人がすぐに泳げるかというと、そうではない。 塩の辛さというものも、なめさせることをしないで、”辛いぞ”といっても、 分からない。それはなめてみてはじめて、これが塩の辛さやな、と分かる。””何事も、頭のなかだけで分かるというものではない。机に向かっているだけで、 仕事が分かるようになるかといえばそうではない。 人生において大切な事柄を会得(えとく)するということも、 ”モノゴト”(体験)を行なって、 そのやったことを、細かく、深く、やさしく、考えて、 検討していくことから、はじめて道は開けてくるものだ。 ずいぶんと松下電器(現・パナソニック)も最近では大学出が多くなって、 小学校するら出ていない、わたしのような学歴の無いものは、 会社にいなくなってしまった。。。 。。。大学を出た後の人生は長い。 その後を分けるものは。。。 ”実学”であり、 ”耳学問”であり、 ”体学問”なのだ。昨日、中央大学教授を殺害した犯人が捕まった。とのニュースが流れていた。 犯人は、教え子だった。犯人は、職を転々としていたそうだ。プロスポーツ界で、言われている言葉がある。。。 ”人が本当に負けるときは、 他人を責めた時だ”
2009.05.23
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以前、京セラ、創業者の稲盛さんの若い頃の話をこのブログに書いたことがあった。それは、松下電器との取引において、徹底的にコスト意識を鍛えられ、そのおかげで、京セラを強靭な会社に育て上げることができた。という内容の話だった。その京セラを育てた松下電気。その松下電器も、また、京セラと同じように育てられたのだった。その育ててくれた相手とは。。。”乾いた雑巾(ぞうきん)をしぼって水をだす会社”との異名を持つトヨタ自動車だった。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ここは、1964年(昭和39年)松下電器、名古屋営業所。。。営業所長は。。。ある小さな金額の相違にクビをかしげた。”なんでだろう。。。おかしいなぁ~”所長が首をかしげる理由は。。。毎月、車用のラジオなどの商品を納品している得意先のトヨタ自動車からの入金額が、請求した金額よりほんのわずかだが少なかったからだ。松下電器所長は、トヨタに問い合わせた。”トヨタさん、この金額はどういうことでしょうか?”するとトヨタ自動車の担当者はこう答えたのだった。”松下さん、それは電話代ですよ。”。。。どういう意味かというと、当然、商品を最初に注文する電話代は、もちろんトヨタが負担する。しかし、商品に欠陥があったり、納期が遅れたことによる催促(さいそく)の電話代については、松下電器側の負担になるはずだ。という考え方。つまり、その分を差し引かせていただいた。ということだった。この話を営業所長から報告を受けた幸之助は感動した。”さすが、トヨタさんやな。それは当然や ”幸之助は、相手の責任というものは正当に追求して自覚を与える。というトヨタ自動車の姿勢に感動したのだった。じつは、この考え方、トヨタ自動車にかぎった話ではない。たとえば老舗の大企業、三菱重工業などにおいても同じ考え方なのだ。たとえば、納めた製品のうち5パーセントが不良品だったとする。その場合、残りの95パーセントは代金を支払ってくれるのか?というと、そうではないんです。その ”不良品比率”に応じて一定の金額を差し引いた金額が、支払われることになるのです。そして、その差し引いた金額は、集金係などには言わないのです。直接、担当部署のトップに連絡してくるのです。なぜ、そこまで徹底的にするのか?それは、支払額を差し引くことが目的ではないからです。いいものが、いつも、100パーセント確実に納品していただくことが目的だからです。このきびしさは、じつは、真のやさしさなんです。だから、こそ、現在、日本の工業製品の品質の高さは世界一となり、国土も狭く、資源もほとんどないにもかかわらず、先進国として世界から認められている所以なんです。。。。この話を、”弱い者いじめ”と受け取る人もいると思います。しかし、そのきびしい壁を乗り越えたものだけに、 世界は、ほほえみかけてくれるものなのです。
2009.05.22
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”みのるほど頭を下げる稲穂かな”1964年の暑い夏の日東京の五反田にある住友銀行に一本の電話がかかってきた。当時の住友銀行、五反田支店長は、樋口 廣太郎(ひぐち ひろたろう)38歳だった。”もしもし樋口さんですか。松下です。”樋口”。。。失礼ですが、どちらの松下さんですか?”幸之助”会長の松下です。”会長。。。樋口は絶句した。松下グループの総帥が。。。 一支店長に直接、電話を掛けてきている。樋口が失礼を詫びるまもなく、幸之助は続けた。”樋口さん、ええこと教えてくれはったな。おおきに ”なんと、トップみずから、お礼の電話を掛けてきたのだった。このお礼の電話の発端(ほったん)となった出来事とは。。。樋口 廣太郎は支店長に就任早々、取引先を一軒、一軒歩いてまわった。すると。。。あることに気づいた。それは取引先の電気問屋や小売店主人の顔色がとても悪いことだった。調べてみると。。。彼らは過剰な在庫に苦しんでいることが分かった。その過剰在庫の原因は、松下電器からの”押し込み販売”だった。樋口は、”これは放っておくと大変なことになる。”と直感し、松下電器の財務担当取締役に、その情報を伝えたのだった。財務担当から報告を受けた松下幸之助は、すぐに樋口の行動に対して、直接、感謝の気持ちを伝えたのだった。そして、このやり取りの後。。。あの、伝説の熱海会議が開催される。幸之助も、販売店側も、ともに涙を流しあいながら徹底的に話し合い活路を見出していった。熱海会議住友銀行、五反田支店長の樋口 廣太郎は。。。このとき巨大な企業のトップでありながら、自ら進んでお礼の電話をかけてきた幸之助の姿勢と、都合の悪い知らせに対して、”ええこと教えてくれておおきに”と言える度量に深い感銘を受け、以来、幸之助を師と仰ぐようになった。そして、時は流れ。。。樋口は、住友銀行副頭取から、倒産の危機に瀕していた当時のアサヒビールの経営建て直しのために、社長として送り込まれたのだった。そして、樋口の最初にとった行動とは。。。東京の中央区新川にあるキリンビール本社へ行くことだった。そこで樋口は、キリンビール社長に、深々と頭を下げ。。。”わたしは銀行からやってまいりましたもので、 この世界のことは正直なところよく分かりません。 恥を承知のうえでお伺いさせていただきますが、 いったいアサヒビールのどこがいけないのでしょうか”と、アサヒビール社長の樋口がキリンビール社長に尋ねたのだった。キリンビール社長は言う。”アサヒビールの味はよくありません ””もっと原料を吟味し、味の改善を図るべきだと思います。”と教えてくれた。さっそく樋口は、キリンビール社長のアドバイスを受け、徹底的に品質の改善、商品開発に力を注いでいった。そして、あのビールが生まれたのだった。あのビールとは、そう、”アサヒスーパードライ””キレのある辛口”という新ジャンルを構築し、見事に会社を建て直し、キリンビールを抜き去ってしまったのだった。樋口のこのときの手法。。。若き日の樋口が、まだ五反田支店長時代に感銘を受けた、松下幸之助の行動と、どこかオーバーラップするのは気のせいだろうか。。。 ”実るほど、こうべをたれる稲穂かな ”
2009.05.21
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昭和39年、開通したばかりの新幹線、NHKのニュース番組で、新大阪駅ホームで大阪府知事と松下幸之助が笑顔で会話をしている映像が流れた。。。そして、それから10日ぐらいたった後、松下電器産業株式会社に一通の手紙が届けられた。。。手紙の主は。。。北海道のメガネ店、店主からのものだった。松下幸之助宛だった。その手紙には、次のようなことが書かれていた。”拝啓、テレビのニュースであなたさまのお顔を拝見いたしました。 しかし、どうにもお顔にメガネが合っていないようにお見受けいたします。 良いメガネ店で、お顔に合うメガネを取り替えられることをお勧めします。”と手紙には書かれていた。これはまたえらい熱心な人やな、と幸之助は思ったが、結局メガネはそのままだった。次の年、幸之助は札幌で講演をする機会があった。講演終了後、ひとりの人物が近づいてきて幸之助に話しかけた。”私は、以前、あなたに手紙を出したメガネ店のものですが、覚えていらっしゃいますか。 まだ、メガネを取り替えていないようですが、 ひとつ私どもにお任せいただけませんか”幸之助はメガネ店の主人の熱意に驚いた。幸之助”それは結構や。あなたのおっしゃるとおりにいたしましょう ”店主は、その場で度を測り、持参したメガネを調節してゆく、店主”度は調べましたが、最近、また度が変わっているかもしれない。 ぜひ、10分でいいからウチの店によっていただけないか ”幸之助は翌日、札幌のご主人の店を訪問した。幸之助は驚いた。堂々たる店構えで、30人ほどの店員がリスのようにきびきびと働いている。視力測定は、最新式のドイツ製マシンだった。そして、メガネスタンドは、ナショナル製(松下電器)のものだった。幸之助は、その行き届いた店内に感心し、3、4年使用したメガネから、ついに新しいメガネに買い換えることにした。幸之助”しかし、 なんであんた、そんなにするのか”と、ご主人に尋ねた。すると、ご主人はこう答えたそうだ。”あなたが、あのメガネをしたまま、アメリカへ行ったら、 日本にはメガネ屋がないと思われます。 あなたにとっては、たかがメガネかもしれないが、 あなた一人の問題ではないんですよ。 日本の問題なんです。”幸之助は、この店主の話を聞き感心した。わざわざ北海道から大阪へ手紙を送り、そこであえて、”ウチの商品を”とは言わないで、 ”あなたの顔は日本の問題”という、大きなメッセージ。この、誇り高いプロフェッショナルな姿勢に幸之助は、”今日は、非常にええ勉強をさせてもらいました。”と深々と頭を下げてメガネ店を後にしたのだった。
2009.05.20
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巨大化し、優良企業になると、あんがい失敗する。それは、なぜか?わたしは、仕事を進める上で、教訓としているエピソードがひとつある。デル・コンピュータの話。1989年、デル・コンピュータは、”オリンピック”というコードネームの製品群を発表した。オリンピックは、デスクトップ・パソコンからワークステーション・コンピュータまで網羅した製品ラインナップだった。このデル・コンピュータのオリンピックは、当時、同業他社の製品を技術面で、はるかに圧倒する性能だった。。。しかし、このデル・コンピュータの過去最大規模の新製品導入は最大の失敗に終わる。理由は、オリンピックは技術面では非常に画期的だったのだが、顧客はそのような”複雑”で”過剰”な製品を必要としていなかったからだ。デル・コンピュータの創業者、マイケル・デルは後に、こう話をしている。”わたし達は勇み足をやらかしてしまった。 製作意図や目的がどんなにりっぱであっても、 この時、我々は顧客のためのテクノロジーではなくて、 テクノロジーのためのテクノロジーでしかない製品をつくってしまったのだった。 最初に。。。 顧客が”何を必要としているのか”を相談しておけば、 このような深刻な事態を避けられたはずだった。。。”。。。つい先ごろまで行なわれていた、 消費者不在の家電業界の薄型テレビの薄さ競争の失敗の原因も本質は同じ。。。どんな業界の企業であっても、製品開発プロセスにおいては、なるべく早い段階で顧客に協力を仰ぐべきだ。だいたい新製品が失敗に終わる原因は、得てして顧客に関し、十分な知識がないままに開発が進められた結果発生する。企業は情報漏れを恐れずに、サプライヤーや顧客にとって有益な情報を、進んで提供するよう図るべきなのだ。だいたい、こういう話をすると、こういう心配をする方がいるだろう。”漏れた情報を競合他社が入手し、自社より先に新製品を市場に投入される危険性がある。”もっともな話である。しかし、もっともな話に対して、マイケル・デルはこう答えている。”漏れた情報によって。。。 その程度のことで。。。事業が立ち行かなくなるような企業は、 そもそもその企業自体に問題があるのだ。 つまり、そこまでの企業ということだ。”たしかに、マイケル・デルの話は正しい。小売業、日本一になったセブン・イレブンのシステムは、後続のローソンやファミリーマートに漏れ続けている。しかし、いまだに後続に抜かれることはないし、まったく差がちぢむこともない。
2009.05.20
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先日、岩手の盛岡まで遊びに行った。途中、秋田県を通過した。すると。。。あることに気づいた。山形を出発すると沿道の風景が次々と変化してゆくのだが、まったく変わらない風景がそこにはあった。セブンイレブン、ローソン、ニトリ、コメリを何度も、何度も、通過していることに気づいた。たま~に、イレギュラーで、ローソンがナチュラルローソンだったり、コメリがスーパーコメリだったりと違いはあったが。。。だんだん日本中の風景が同じになってきていると感じた。そういえば、わたしが山形の大自然にひかれ、はじめて住み始めた時、ずいぶん遠くまで来たなあ~という雰囲気だったのだが、ここ最近、周囲の人々は、ご年配の方以外、標準語。。。エキゾチックさがまるでなくなった。だから、わたしはがんばって、”んだなっす!(たぶん。。。”そうです。”という相づちの意味)”を、使うようにしている。だが、どうも地元の人に言わせると、イントネーションがまるで違うらしく、一度も山形人に間違われたことがない。。。相変わらず、ニセ山形人だ。。。古き良き日本の日常風景をパチリ明日の山形の最高気温は30度の予報。。。夏。山形の夏は、沖縄より暑い。スイカがうまい。家を出ると玄関前をクワガタがゆっくりと歩いています。野生で元気なヤツです。
2009.05.19
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日本自動車販売協会連合会(自販連)が5月11日にまとめた4月の新車販売ランキング(軽自動車を除く)は、ホンダの新型ハイブリッド車”インサイト”が1位だった。ハイブリッド車の首位は初の出来事だった。。。本田宗一郎。。。かれは生前、”銅像は作るな!” ”俺達のものづくりは、現場とお客から目を離したら終わりだ”と口癖のように話をしていた。1981年、国際障害者年のことだった。熊本県の市役所に勤めるサリドマイド障害で両手が使えない白井典子さんから、一通の手紙が、本田技研工業あてに届けられた。”わたしは生まれて以来、母の助けに支えられて生きてきました。 両手は使うことが出来ませんが、車を運転できる方法はないものでしょうか。 いつもわたしをおぶってくれた母を今度はわたしが後ろに乗せて、 一度でいいからドライブ旅行に連れて行ってあげたいのです。”さっそく本田技研工業内で、この手紙の内容が検討された。取締役の一人が話し始めた。”日本において、両上肢障害者の自動車運転は法律で認められておりません。 また、コスト面からも、技術的な面から見ても開発には大きな問題があります。 プロジェクトを立ち上げるには時期尚早(じきしょうそう)だと思われます。”すると、本田宗一郎が大激怒。”やってみもせんで何を言っとるか!””そんな悪い法律なんてかえればいいんだ。””そういう仕事が大切なんだよ。うまくやってくれよ。”こうして本田の一喝で、障害者向け自動車開発がスタートしたのだった。ドイツ人、技術者のフランツ氏は、そうした本田の考え方に心を打たれ、自身の持つ特許(足の前後運動だけでハンドルを操作するシステム)を、”日本で普及させるならホンダに任せたい。”といって特許料を一切取らなかった。その後、本田技研は法改正に奔走し、日本の法律を変えてしまう。さらに独自の改良を重ね、ついに障害者向け自動車の開発に成功したのだった。そして、ついに典子さんは、ホンダのシビックに乗った。そして、17年後。。。典子さんは結婚し、中学生と三歳の子の母親となっていた。熊本市役所では、母子保健担当のベテランとしてバリバリ仕事をこなし、保育園への送り迎えや人形劇の趣味に二代目のホンダのドマー二に乗って活躍している。本田宗一郎は、もういない。。。しかし、本田のやった仕事は、今も人々を幸せにしているのだった。これが”仕事”だ。
2009.05.18
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大昔、戦争の天才と呼ばれた男がいた。男の名前を、孫子(そんし)という。孫子と弟子の会話を一つ紹介したい。弟子が、孫子に尋ねます。”絶対、敵に負けないためには、どのようにしたら良いのでしょうか?”孫子”絶対、敵に負けないためには、敵のいないところへ行けばいいんだよ。”弟子”。。。。。。” ”最高の戦い方とは、戦わずして勝つこと” という名言を残した男のセリフはカッコがいい。さて本題ローマ人の知恵。。。フェニキア人と海上で戦って、まったく歯が立たなかったローマ軍。。。そこでローマ軍の戦略家は考えた。”いったい、俺たちの長所はなんだ。””たしかに俺達は海では弱い。 しかし、それは船の技術の差であって、俺達の能力の差ではない。 じっさい陸上の戦いでは俺達の方がはるかに強いじゃないか。 陸上では俺達のほうが強い。。。陸では強い。”そして、ローマ軍の採用した戦略とは、まず、ローマ軍の操船能力のうち、”とにかく船を小回りさせる技術”を集中的に鍛えた。 劣っている戦力であっても、なにかに集中し徹底的に鍛えることで、 少なくとも、その部分に限定すれば、 短期間で、なんとか戦えるレベルにまで上げることが出来るのだ。 そして、時は流れ。。。 ふたたび両者は地中海で激突する。 ローマ軍は、 いつものように勢いよくぶつかってくるフェニキアの船を 訓練で鍛えた操船技術で、なんとか避けることが出来た。 そして船の側面に回り込み、 フェニキア船にローマ船を横付けすることに成功したのだった。 横付けしたとたん、 ローマ船からフェニキア船に向かって一斉にはしごが掛けられた。 そのはしごを渡って、武装した屈強なローマ兵たちがフェニキア船に乗り移ってきた。 陸上では無敵のローマ兵が、フェニキア船に殺到したのだった。 そうなんです。この時、 ローマ兵は、”海の上”という苦手なフィールドを、 ”陸の上”という得意なフィールドに変えてしまったのだった。 そして、 フェニキア人の船は。。。すべてローマ兵に占領されてしまった。 その後も。。。歴史は繰り返されて来た。 IBMは、マイクロソフトに追い抜かれてしまった。 そして三越百貨店は、コンビニのセブンイレブンに追い抜かれてしまった。いつの時代も、”強い存在”を追い抜くものは、”弱い存在”なのだ。だいたいが下からくるのだ。突然に。。。
2009.05.17
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ローマは一日にして成らず。。。すべての道はローマに通ず。。。偉大な国家、ローマ帝国には多くのたとえ話が存在する。なぜ、ローマは偉大なのか。。。それは。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。”戦略”という言葉がある。この言葉、現代社会においては経営の世界で広く用いられている言葉である。しかし、もともとは戦争の世界で使用されてきた言葉であり、考え方である。キリストの生まれる前、西暦のはじまる前、地中海において、ローマ帝国は、まだ、それほど大きな存在ではなかった。地中海の覇者として君臨していたのは、フェニキア人だった。彼ら、海洋都市国家フェニキアの技術力はすばらしく、造船技術および操船能力において、当時のローマ帝国を、はるかに凌駕(りょうが)していた。紀元前、海上の戦艦同士の戦い方はとてもシンプルなものだった。戦艦といっても武器は、大砲でも、弓矢でもなく、ただ船同士が直接ぶつかり合うだけのものだった。当時、ローマ軍の船の作りはとても貧弱だった。フェニキア軍の船とぶつかり合うと。。。必ずといっていいほど沈没するほうの船は、ローマ軍の船だった。そんな弱いローマ軍が、どうして、最後は世界帝国を作り上げてしまうのか。。。それは、なぜ?それは、サークル・チェンジという考え方があったからだ。 つづく
2009.05.16
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以前、セブン-イレブン・ジャパン会長の鈴木さんは、雑誌のインタビューにこう答えている。雑誌記者”後継者の問題はどうお考えですか?”鈴木会長”後継者は育てるものではなくて、現れるものだ。”。。。わたしは、 この会話を聞き。。。鈴木会長も普通の人だと思った。 しかし、それほど ”人”の問題は難しいということでもある。。。話を戻すと、いま、新しい店舗の店長が見つからない。先日、ある店舗にコーヒーを飲みに言った。とても優れた接客をする女性に出会った。みごとにチームを掌握し、スタッフの動きも見ていてすがすがしい。まさに、孫子(そんし)の、”善く戦う者は、人に致して、人に致されず。”を実践されている方だと感じた。その後、コーヒー好きの私は。。。コーヒー豆の売り場をなんとなく眺めていた。すると、その女性店長がコーヒー豆の説明をするためにわたしのところへ。せっかくだったので、店長さんに、いくつかコーヒー豆の質問をさせていただいた。どうやら、やはり、”本物”だった。”みつけた!”さっそく、その女性店長さんのお店を経営している会社の社長さんにお会いした。”あの女性の店長さんを新店舗にぜひともほしい。”と切り出してみた。すると、社長さん”いいところに目をつけましたね。 あの店長は、以前、福島で5店舗を統括していた マネージャーだったんですよ。今回、ちょうど実家(山形)に帰ってくることになり、 いまの店舗を見てもらっているんですよ。””うちのあの店は、基幹店舗ですので、あの店長をはずすことは出来ません。”わたし”やはり、そうでしたか。。。(笑)”社長”あなたが直接やったらいいじゃないですか?”わたし”今回は、本気でがんばろうと思っております。””今回は、ちゃんと店舗を作ろうとおもっております。””ニューヨークぐらいまで、伸ばしたいと考えております。生意気ですが。””だから今回の店舗は無能な人間に店長は任せられません。””だから、わたしではダメなんです。”ということで振り出し。。。帰りに、気分転換に大北海道物産展へ平日だというのに、すごい行列。ざっと130名くらいはいるだろうか。日本人は生キャラメル好きだ。。。わたしは、その列とは無縁のお菓子売り場へ、音更町(おとふけちょう)の柳月という会社のつくるお菓子、”三方六”と北見の世界一のハッカアメを買い求めた!わたしが両手に三方六をもってレジに並んでいると、おばあちゃんが話しかけてきた。おばあちゃん”あんた、キャラメルはかわないんかい。”わたし”わたしはチャラチャラしたお菓子は、好きじゃないんですよ。”おばあちゃん”あんたのもっているお菓子はどこの売り場にあるんだい。”わたし”あそこのかどを曲がった一番奥のところにありましたよ。”おばあちゃんは、わたしの説明した方角へ、”ありがとう”という言葉を残し、人ごみの中に消えていった。余談だが、三方六というお菓子は1965年、北海道の開拓100年目を記念して作られたお菓子であり、日本で、最初にバウムクーヘンブームを起こしたお菓子でもある。ちなみに以前、この日記(ブログ)で、三方六をつくっている会社の社長さんのプロフを紹介したことがあったので参考までにはっておきます。すばらしい方です!こちら↓北海道は、じつに不思議なところがある。日本の有名なパティシエ達は、だいたい東京周辺でお店を開いている。そして、その世界的に有名な日本のパティシエたちの店の売り上げは、じつは北海道のお菓子屋の売り上げに遠く及ばない。六花亭、ロイズ、ルタオ、など北海道には超一流のお菓子屋がたくさんある。今日紹介するお菓子屋は、帯広市にある柳月。このお菓子屋の名前を知っている日本人は少ないと思う。北海道、帯広市の人口は17万人。柳月の従業員数は600名。売り上げは、75億円。さらに驚くことに、この会社、毎年大卒者を40名ほど採用しているのだが、応募してくる学生数は、ざっと4000名を超える。つまり倍率は100倍以上になる。柳月の創業者は、田村英也という。農家の四男に生まれ、日本が戦争中は中国へ渡っていた。やがて敗戦となり、大陸から戻ってくる途中、ある出来事に遭遇した。汽車は、貨物列車といったほうがいいようなひどい状況。通路やデッキは人であふれかえり、引揚者でごった返していた。異臭が漂い、殺伐とした空気が流れていた。その中に、一人の若いお母さんが、小さな子どもを抱きかかえて席に座っていたそうです。ご主人は戦死してしまったのかもしれません。”この子だけは”という感じで、強く抱きしめていたそうです。田村さんが汽車に乗った時から、その子どもは、ずっと泣いていたそうです。命からがら、中国から逃げてきたので食うや食わず。しかも貨物列車のような車内は蒸し風呂状態。子どもは少し寝ると、また大声でなく、その繰り返しだった。夜になってもそれは変わりません。それどころか、子どもの泣き声はますます大きくなります。そういう状況が続くと、みんないらいらしてきます。汽車に乗っているのは、兵隊だった人も多く、ささくれだった雰囲気が漂います。田村さんはそんななか、この親子がどやしつけられなければいいが、という思いで、かばうようにその親子の近く、斜め後ろに立っていたそうです。しかし、そうは思っていても、立ちっぱなしで眠ることも出来ないし、蒸し暑いし、子どもの泣き声は大きいしで、自分自身も限界に近い感じだったという。すると、その時、田村さんの隣にいた、ボロボロの服を着た痩せ細った男性がポケットから包み紙を出し、”お母さん、これっぽっちしかないけど、食べさせてあげなさい。”と言ってキャンディを差し出してくれたそうだ。どこで手に入れたか分からないような小さな小さなキャンディでしたが、その最後のひと粒をお母さんに渡すのです。お母さんは深々と何度もお礼をして、子どもに食べさせてあげたところ、子どもが泣き止み、それどころかニコッと笑ったそうです。”あの子どもが、いちばん好きであろうお母さんが朝から晩まであやしても 泣きやまなかった子どもが、たったあれっぽっちのお菓子を食べた瞬間、 泣きやんで笑った。いったいこれはどうしたことだろう””お菓子はお母さんの愛と同じではないか。 お菓子には、そんなに人の気持ちを安らげる、人の心を魅了するような力があるんだ”田村はその時、そう思った。そして、”お菓子屋になろう!”と決めた。田村の口癖は二つある。一つは、”会社の目的は地域の人々を幸せにすること。”一つは、”自分の会社がなかったら、お客様が困るような会社をめざしたい。”北海道に行くと、柳月のお菓子が取り持つ縁で結婚された方の話などうそのようなほんとの話を聞くことがある。柳月がなぜ北海道から出ようとしないのか、聞いたことがある。田村は言う。”わが社はお菓子だけを売っているわけではありません。 お菓子といっしょに、”北海道”も包んで売っているのです。 本州では北海道を包めませんから。 わが社は、この北海道を離れる気はありません。”テレビに出演しコンテスト狙いのケーキ職人と、田村の目指す、お菓子の”意味”は違う。
2009.05.15
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不況になると、逆にシェアを伸ばす会社。デル・コンピュータ。ハイテク・バブル崩壊の2001年、デルは、コンピュータの販売価格を引き下げた。すると、”価格破壊をした。”と競合会社から非難が巻き起こった。すると、デルは、すずしい顔で言った。”価格競争を愚かな行為だと非難するのは、差別化する力のない負け犬の遠吠えだ。”デル・コンピュータは、ダイレクトモデルという非常識な常識で勝負をしたのだった。流通を効率化するという”単純”な手法だった。販売業者を通すことをやめた。中間卸業者を通すことをやめた。在庫を持たなくなった。そして、インターネットを活用し徹底してエンドユーザーに肉薄した。デル・コンピュータはコンピュータの製造メーカーでありながら、エンドユーザー(顧客)と直接、商品売買する会社なんです。顧客の細かな注文に耳を傾け、顧客の要望に沿ったコンピュータの見積もりを出す。そして顧客から注文が入ると、すぐに製造し、顧客のもとへコンピュータを発送したのだった。この手法。。。流通コスト削減のほかにも、デル・コンピュータにとても大切な副産物をもたらした。それは、顧客が、コンピュータにどういった能力を求めているか?予算はどれくらいが相場なのか?といったエンドユーザーの消費トレンドをリアルタイムに把握できることだった。デル・コンピュータ創業者、マイケル・デルのことば”わが社は創業当時より、顧客の声に耳を傾け、顧客のニーズに応え、 顧客が求める製品を提供してゆくことを、設計から製造、販売に至る全事業活動の 基本方針としてきた。 顧客ニーズに敏感であることは、つねに大切だが、ニーズ自体が変化しているときには 特にそうだ。顧客ニーズというものは。。。 景気が悪い時に劇的に変化する場合が多く、 その変化を、ほかの企業より、早く、正確に、把握して行動を起こすことが肝要だ。”話の内容は、いたって普通。。。。ただこの普通がなかなか出来ない会社は多い。”イノベーションは普通(常識)から”
2009.05.14
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世界一の小売業、ウォルマートを一代で築き上げた男、サム・ウォルトンは自伝の中で、自分自身を、こう表現している。”学生時代、フットボールをやっていました。。。””不思議なことに、ボールが飛んでくる方向によく勘が働きました。”マイクロ・ソフトを創業したビル・ゲイツは、1975年、史上初のインテル社製”8080マイクロプロセッサー”を内臓したパーソナル・コンピュータ、”アルテア8800”の雑誌記事を読み、未来を直感した。”これだ! これからはコンピュータだ。””急がないと、””俺たち抜きに始まっている!””みんな、このパーソナルコンピュータのために本物のソフトウエアを書き始めるぞ!”できるなら、その最初の仕事は自分がやる!”こうして、学生だったビル・ゲイツは、あわててバスに乗り遅れまいとして、マイクロ・ソフトを創業する。マイクロ・ソフト。。。マイクロと言う意味は。。。小さな数字を表す言葉。。。そして、ビル・ゲイツは生涯一度も履歴書を書いたことがない。この時、IBM社員も、インテル社員も、技術も、そして資金も豊富にあったが、ビル・ゲイツのひらめき、”未来フィーリング”はなかった。 ”イノベーションは突然に”
2009.05.13
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きのう、公認会計士の先生と話をしていた。どうも住む世界の違う方とは。。。視点がずいぶん違うものだとおもしろかった。わたしは、つい先ごろまで、お米屋さんでお米を販売していた。ですので、このブログの最初の頃の話は、お米とカフェとウエブのエピソードが多かった。。。。。。。。。。。。。。じつは、明日、うちの街の唯一の百貨店で大北海道フェアがある。百貨店の方の話では、毎年、北海道フェアの収益、集客は他のフェアをまったく寄せ付けないダントツ一位だという。そして、明日のフェアの目玉は!”花畑牧場の生キャラメル”百貨店の広告には、生キャラメルの写真が大きく掲載されておりました。平日にもかかわらず、オープン前に大行列が出来るらしく行列の並び方まで丁寧に書かれていた。。。そして!お客様はオープン前から並んでも、生キャラメルを買うことが出来るのは。。。たった一個(お一人様、一点限り)です。それでも駐車場代を払って、一個1000円近いキャラメルを買いに来る。。。公認会計士さんの話によると、この販売力は、自己完結型の商品だからで出来ることであって、”お米”や”つけもの”のようなものでは、どんなに努力をしても同じ現象は演出することはできない。と話されておりました。自己完結型商品とは、もらった! ⇒ 開けた! ⇒ 食べた!では、自己完結していない商品とは。。。たとえば”お米”です。お米をもらっても。。。炊飯器がない人は、食べられない。料理をしない人は、食べられない。パン食の人は、食べない。運よく、炊飯器があって、料理をする人であっても、おかずがないと食べられない。また、おかずがまずいとごはんも美味しく感じられない。という具合に、お米は自分自身で完結できない為、様々な制約を受ける。そのため、どうしても販売には限界がありそれほどは伸びない。たとえば、ジャムをつくる会社(アヲハタ)より、ジャムパンをつくっている会社(山崎パン)の方がはるかに巨大になることができたのは、社員の努力もあるが、この”自己完結力”の影響が大きいということだ。しかし、わたしはこういう考え方は好まない。たしかに、生キャラメルの異常な行列の説明には当てはまるのかもしれないが。。。わたしは、商売とは。。。完結かどうかの問題ではなくプライドの問題だと思う。
2009.05.12
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”すごくいいですね~”きのう、ほめられた!大人になっても、褒められるとうれしいものです。誰から褒められたかというと、うちのサイトをデザインしていただいているデザイナーさんからほめられました。なにを褒められたかというと、新しいサイトのコンセプトシートがすべて手書きで書かれていたからでした。以前、このブログでも紹介した、株式会社クボタの天才開発者、三木さんの仕事の仕方を、今回、真似してみたんです。三木さんが、”最近の技術者は3DのCADを使うようになって”小さく”なってしまった。”と話していたので、わたしは今回、プランニングのすべてを手書きでやることに決めました。だからPL/BSやCFの枠の線がフリーハンドのため。。。まっすぐ書けません。。。とても建築を専攻していた人間として情けない限りです。退化しておりました。驚くことに、10日間で消しゴムが半分に減りました。帰るときには消しゴムのカスが机の上に積もります。でも、たしかに、手書きは、いいかも。おかげさまで、最近、漢字が書けるようになりました。しかし、今回、わたしは悲しいいコトに裏方になりそうです。それは、おそろしく優秀な原石たちがいっぱいいるからです。この原石たちが能力を発揮したら、わたしの能力などでは到底太刀打ちできません。だから、戦う前に、負けることに致しました。だから今回は、濃紺スーツで営業したり、HTMLでページをつくったり、コック服を着て新メニューを開発したり、バンダナを締めて接客をすることはなさそうです。。。。お客さんが大好きな、わたしとしてはちょっと残念。。。。もうすこしポテンシャルをあげるために、あさ、走るか。天気もいいし。今年は、”退化の改新”だ。
2009.05.11
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昨日の日記の”正しい努力”についての補足。通説として、よく”会社の寿命は30年”といわれています。それは、30年前、どんなに世の中から必要とされている会社(事業)でも、30年の間に、技術が進歩し、社会の環境が変わり、人々の消費動向が変わるからです。そのため、30年前に人々から必要とされた会社(仕事)の多くは、30年たってみると、”昔のような意味”で必要な仕事ではなくなっている場合が多いからです。だから、ふつう単一事業は30年ぐらいで寿命を迎えます。以前、日記でビック・ブルー(IBM)の話を書きましたが、IBMも、いまも会社は残っておりますが、社会の変化、お客様ニーズの変化に合わせ、会社の看板はそのままに、仕事(事業)は、まったく昔とは別な仕事をしています。だから生き残ることが出来ました。しかし大半の会社は、過去、滅んでいった恐竜のように、周囲の環境の変化に対応できません。だから、お客さんが必要だと思っていないにもかかわらず、何とか生き残ろうと必死に”涙ぐましい努力”をします。言葉は悪いですが、お客様にストーカーのようにすり寄ります。すり寄り方としては、”テレビコマーシャルによるイメージ作戦””値下げお買い得作戦””会員募集リピーター化作戦””従業員の笑顔の接客向上作戦””クリンリネスさわやか店舗作戦””お客様へのお声ががけしてプラス一品作戦”などなど多彩です。泥船に乗っている会社にとって、一番いい方法は、”いったん陸に上がることです。”海に浮かんでいるからどんどん溶けて沈んでゆくのです。ぶくぶくぶく~(努力)一生懸命、船底を補強しても。。。泥船では結局沈みます。(努力)溶けて、沈むわずかな時間にたくさん魚を釣ろうとしたりしても。。。結局は沈みます。こういった努力を”無駄な努力”といい、”正しい努力”とは言いません。もっと分かりやすく言うと、わたしの町には、天皇陛下へお菓子を献上しているおいしいお菓子屋さんと、大手コンビニチェーン店とが並んで商売をされております。失礼な話ですが、大手コンビニは、いつなくなってもおかしくないくらいお客さんが入っておりません。しかし、お菓子屋さんの方は、駐車場もまったくない店でありながら、近所迷惑スレスレで大型バスなども無理やり横付けして、ぞくぞくお客さんが入ってゆきます。そして売り切れると昼には閉店してしまいます。また、いきなり臨時休業する日も度々です。クリスマスの時期になっても、クリスマスツリーひとつ飾りません。逆に隣のコンビには、クリスマスの夜には、店の外にテーブルを出して、店員さんがサンタのカッコをして”クリスマスケーキはいかがですか~”とやっております。しかも、24時間、店は開いていてとても便利です。しかし、お客さんが入っているのをほとんど見たことがありませんし、また、しょっちゅう従業員の顔も変わり、しょっちゅう求人募集をしています。つまり外にテーブルを出して一所懸命、ケーキを売っているのが”無駄な努力”です。そして、駐車場もないのに、気まぐれで臨時休業するのに、お客さんは買い物に来る。そういうお菓子を作るために技術の向上に勤めることが正しい努力なんです。そして、最もキケンな事は、無駄な努力であっても多少の効果はあるので、泥船であってもすぐには沈まない。ということです。本来、すぐに陸に上がって、再スタートした方がよい場合なのに、かえって再スタートを遅らせることになってしまいます。もう一つ例を出せば、たとえばNTTは、現在、利益の大半を子会社のNTTドコモが稼いでおります。家庭用固定電話機は儲かりません。しかし、NTTのエースの技術者は、親会社のNTTにまだたくさん在職しております。もったいないと思いませんか?昨日も話しましたが、努力は”諸刃の剣”なんです。特に、むかし大きかった会社、強かった会社には。。。今日も一日がんばりましょう!
2009.05.09
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どうも最近、見えない道を歩いているような気がする。それは悪い意味ではなくて。。。あらかじめ誰かによってつくられた”おもしろい道”があり、鈍感な私は、その道の存在にまったく気づかず、まるで自分自身の判断で選択したような気になって、用意された道を歩いている。ような気がする。今年は、のんびり昨年の延長線の人生を過ごすものだと思っていた。一本の電話がかかって来るまでは。おかげさまで、会社が変わり、仕事が変わり、色々なものがすべて変わってしまった。おもしろすぎる。まるでテレビドラマだ。このブログの、”うちの社長””インターネット販売に挑む”という項目も、最終回を書く前に、最終回になってしまった。。。。。。。。。。。。。。最近、ほんとうに”努力”という言葉をよく使う。。。しかし、わたしの使う努力という言葉は、世間一般の”努力”とは違う。”努力してください。”ではなく”努力してはいけない。”と話しているからだ。先日、テレビで、池袋三越百貨店と鹿児島三越百貨店の閉店のニュースが流れていた。不謹慎ではあるが、”無力の努力”をよく表現しているケースだと思う。どういうことかというと、先日、過去最大の売り上げ、利益を計上した、ユニクロという会社と三越百貨店とを比較すると、三越百貨店の店員の方がはるかにユニクロ社員よりも努力をしていると私は思う。”笑顔の作り方” ”言葉遣い” ”身だしなみ”などなど、社員トレーニングに”膨大な時間”を割いている。そして、お店も、トイレも、うれしくなるほど”三越は立派だ。最近では、なんでも三越に行くと中国からのお客様が増えているらしく、中国語を話せる店員もいるそうだ。。。。業界用語的には、こういう努力のことを、”泥沼のダンディ”と呼ぶ。以前、将棋の名人だった米長さんがこんな話をしていた。”わたしが将棋を始めた頃、わたしより上手な棋士は沢山おりました。””でも、 わたしより上手な棋士たちは、 あんがい5段ぐらいで止まってしまう場合が多いんですよ。 それはですね、最初のうち彼らは頭がいいので、 負けそうな勝負もひっくり返して勝ってしまうんです。 ”無理な手法、無理な状況、でも勝ってしまうんです。” 頭がいいから。 わたしは頭が悪かったので、そんなサーカスのような将棋は出来ませんでした。 わたしより、頭のよかった彼らが、5段で止まってしまった理由はそこにあります。 ”無理な手法”は、”無理じゃない手法”より劣るんです。 わたしは能力がなかったおかげで、 ”無理じゃない手法”を取りつづけた結果、名人になることができました。” そうなんです。 努力というものは、”諸刃の剣”なんです。 だから正しい努力をしなければならない。
2009.05.08
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