全30件 (30件中 1-30件目)
1

ある街に、一人の男の子がいた。その男の子は小児ガンで入院していた。男の子は。。。”ボク、大きくなったら、おまわりさんになって悪い人を捕まえるんだ。”と、お見舞いに来る人たちに、元気な笑顔で話していた。とても病気には見えない明るい笑顔だった。ある日少年は、お母さんに。。。”ママ、ボクは病気なの? 治るよね。。。 大人になっら、ボクおまわりさんになれるよね?”と、泣きながらママを困らせて言った。その晩、男の子の容態は急変し亡くなった。ある街に、小学生の女の子がいた。突然、交通事故に巻き込まれて亡くなってしまった。女の子が、亡くなる前、書いた作文があった。”わたしは大きくなったら、お花が大好きなので、 お花屋さんになって、みんなにきれいなお花をあげます! ” と書かれていた。この女の子が、大きくなってお花屋さんになり、みんなを喜ばせることはなかった。 ” 大人になったら働く ”ということを、当たり前のことだと思っている人は多い。しかし、この子供たちのように、大人になりたくても、なる事が出来ず、亡くなってしまう子供たち、けして少なくはないんです。世界中、大人になる前に亡くなってしまう子供の方が、はるかに多い国があるんです。 ”大人になって働ける。”と言うことは、 けっして当たり前のことではないんです。”よく大人はいいます。”子供はいいなぁ。。。 働かなくてすむし。。。”こういう話を、亡くなってしまった子供たちが聞いたら、どう思うだろうか。大人になりたくてもなれなかった子供たちが聞いたら、どう思うだろうか。きっと悲しそうに ”そんなこと言わないでよ、 大人になって働けるなんてうらやましいよ。 ボクの分までがんばって楽しんでよ! ”と言うのではないだろうか。仕事を、”義務”だと、とらえている人。こなしている人。きっと仕事を楽しく感じることはないだろう。”奇跡的に大人になれたおかげで仕事ができる。”と考え、”大人になれなかった子供たちの分まで、がんばらなければならない。”と思うと、。。。テレビで選挙放送を見ている場合ではない。 むかし、 アメリカ大統領のケネディは言った。 ”あなた方がアメリカに何かを期待するのではなく、 あなた方がアメリカに何を出来るのかを考えてほしい!”
2009.08.31
コメント(5)

山形サンセット交差点 のぼる人とくだる人と。。。 文翔館の街灯 山形放送メディアタワー 選挙は踊る 街頭の灯
2009.08.30
コメント(8)

いよいよリンゴの収穫がスタートしました。トップバッターは、早生品種の”つがる””つがる”は、とにかく”食べ心地のクールなリンゴ”です。さっぱりした甘みと、さわやかな食感が特徴です。わたしは、どちらかといえば。。。濃厚なフジりんごの甘さは得意ではないので、”つがる”の方が好きかもしれません。昨日、本屋さんで、松の助のアップルパイのレシピがのった本を発見!さっそく購入。(注)松の助のアップルパイとは。。。 とんねるずのみなさんのおかげでした。に、 薬師丸ひろ子さんが出演された時に持っていったお土産です。 本場アメリカンな、おいしい雰囲気のアップルパイです。 リアル店舗は、代官山と京都にあります。 お近くの方は、どうぞ。先日、ブログで紹介した、山形県随一のリンゴ産地のリンゴを使って、うまいアップルパイに挑戦し鯛。出来たら樹上熟成の完熟紅玉をつかい鯛。。。朝日町のフォト
2009.08.30
コメント(6)

セブンイレブンに行ったら、だだちゃ豆のおにぎりが売ってました。ただし、白山だだちゃ豆ではないようです。ただの、だだちゃ豆のようです。130円はお得です。しかし。。。おにぎりの中に、だだちゃ豆は。。。ほとんど見つけることはできませんでした。豆をフレーク状にしたカケラが、ご飯にちりばめられているだけでした。。。ようやく、だだちゃ豆をひとつだけ発見することが出来ました。最後に、本物のだだちゃ豆の写真をひとつ
2009.08.29
コメント(6)

山形にきて5年。ようやく本物の、だだちゃ豆を食べることができました。パチ・パチ・パチ”白山(しらやま)だだちゃ豆。(枝豆)”なぜ、山形に住んでいるのに、5年間も山形産の枝豆を食べることができなかったのか?それは、山形県鶴岡市の白山地区で収穫された、だだちゃ豆だけが、白山だだちゃ豆と名乗ることができるからです。そして、この枝豆大豆は、収穫したら。。。ベストの賞味期限は、わずか12時間といわれております。生ケーキやお刺身よりも鮮度が短い食べ物なんです。だから、本物の白山だだちゃ豆を食べようと決断したら、片道2時間かけて、山形県鶴岡市まで行くしかないんです。ちなみに私の住んでいるところは、同じ山形県でも、仙台に行く方が随分近いので、この枝豆大豆を食べるのに。。。。5年もかかったわけです。おもにわたしの住む、山形県内陸部の枝豆は、”秘伝豆””湯上り美人””茶豆” になります。過去、私の住む山形県内陸地方でも、腕に自信のある農家が、だだちゃ豆を栽培しようと、何度も挑戦したのですが。。。白山だだちゃ豆の味は、再現出来ませんでした。そのため、山形県内陸部のほとんどの農家は、だだちゃ豆の栽培をあきらめ、代わって秘伝豆という枝豆栽培にシフトしてしまいました。秘伝豆もおいしいのですが、やはり食べ比べると、白山だだちゃ豆が一枚上手かも。。。白山だだちゃ豆は、よ~く見ると、茶色の産毛がたくさん生えております。そしてひと房に、豆は二つしか入っておりません。くびれが際立っております。なぜか理由が分からないのですが。。。山形県内陸地方で、だだちゃ豆を栽培すると。。。茶色の産毛が生えません。豆も、ひと房に、3つも入っているお得な枝豆になってしまいます。種が同じで、栽培方法が同じでも、鶴岡市白山だだちゃ豆とは、まったく別な枝豆になってしまうのです。いまだに。。。ナゾのままです。最近では、海の向こうのハリウッド女優さんも、エダマ~メが大好きなのだそうです。枝豆は、英語でも、エダマメなのだそうです。山形県が誇る、ハイテク最先端製品になります。
2009.08.29
コメント(0)

ある大物ミュージシャンが、この街を訪れて言った。 ”星のきれいな街ですね。”月山、朝日連峰のど真ん中にある町、山形県朝日町。りんごのおいしさは山形県随一といわれている。朝日町の名前の入ったダンボールに入れて、リンゴを出荷すると。。。高い値段がつくので、困ったことに、ニセモノの朝日町産りんごが数多く出回っているという。。。 空が近い上下が分からなくなる森秋一番 くり今回、お目当ては、 きはだの蜂蜜。とても貴重でおいしいはちみつです。マイナスイオンをたっぷり浴びて食べるスコーンはおいしいです。この山、夏は、長期滞在するファミリーがコテージに泊まりテニスやバーベキューをしてひと夏を過ごします。冬は、ゴキゲンなスキー場になります。ドイツから焙煎機を持って来て、自家焙煎で珈琲をつくり。。。な~んて、創造しながら青空の下で電卓を叩く、小市民が一人。。。家族連れを見ると。。。最近、負けたと思う今日この頃。字あまり。
2009.08.28
コメント(4)

ひさしぶりに映画を見た。”幸せのレシピ”主人公、シェフのキャサリン・ゼタ・ジョーンズ。。。”人生にも料理の本があって、正確なレシピがあればいいのに。。。””どうすればいいかおしえてくれる本。。。””きみが、 自分でつくったレシピがベストなんだよ。”ひとりの女性が、キッチン(厨房)より大きな世界を発見していくストーリー。オスカーからは、程遠い、らく~に観れる映画。
2009.08.25
コメント(4)

あるテレビ番組で時代の最先端を行く、女子高生20人に千円札を一枚渡し、”これでいつもの夕食を買って来て下さい。”という企画番組があった。予想通り、圧倒的、第一位。。。マクドナルド!。。。不景気にもかかわらず過去最高の増収増益になるはずだ。第二位。。。スナック菓子。第三位。。。パン。コンビニでおにぎり(お米商品)を買ったのは、20人中2人だけだった。どおりで、お米の作付面積をどんどん減らしても、どんどんお米があまるはずだ。。。平成日本人は、昭和日本人と比較すると、お米を食べる量は、半分まで減っているそうだ。あまり知られていないが、アメリカのメジャーリーガー、シアトル・マリナーズのイチロー選手が食べているお米は、すべて山形県産のお米なんです。なんとなく、イチロー選手が山形県産のお米を食べ続けている理由が分かる気がします。わたしは、山形に来るまで。。。お米は、ふつうに食べていたが。。。美味いと持ったことはなかった。女子高生と同じように、パンやパスタのほうが比率としては多かった。当然、こだわってお米を買った記憶もない。どちらかといえば、プライスと銘柄て買っていたような気がする。つまり、比較的安いコシヒカリ。山形に来て、はじめてお米の美味しさに出合った。昨日、朝日町でつくられている棚田米(たなだまい)を買ってきました。棚田(高地栽培)で作られるお米は、おいしいんです。後味が良い。なぜか、川の水が、上流の水のほうが下流より澄(す)んでいるのと同じことです。お米も、山奥で、空気も、水も、土も、そして、人も、綺麗なところで作られたほうが、おいしくなります。
2009.08.25
コメント(4)

インフルエンザから いちばん遠い世界へ月山・朝日連峰。空気のシャワー。。。かだらが透明になってゆくような感じ。。。すごい。。。空が近い。原始地球のくうきくるまから徒歩へ空気神社へ。。。。。。。。。。。。野生の栗。。。鈴虫が鳴いていた。。。。
2009.08.24
コメント(2)

強いブランドが売っているもの。。。それは、商品ではなく”うれしさ♪” なんだそうです。今、世の中には売れないものがたくさんある。そのなかでも、特に売れないもの。。。百貨店の商品?炭酸ジュース?いやいや、もっと売れない商品があります。それはオートバイです。オートバイのマーケット規模は悲劇的です。なんと現在、最盛期の10パーセントにまでマーケット規模が縮小しているそうです。そ~いえば、最近、暴走族を見かけなくなりました。。。そんななか、日本の二輪車市場で過去20年、増収、増益を続けているオートバイ会社がひとつだけある。そう、ハーレー・ダビットソン・ジャパンだ。ハーレーは、毎年、”富士ブルースカイヘブン”というイベントを静岡県の御殿場富士スピードウェイで開催している。イベントには、全国各地からハーレー・ダビットソンのオーナーが集まり、コースを大行進する。バイクの数は じつに1000台を超える。そして、そのバイクにスタンドから手を振る観客は3万人を超えるそうだ。なぜ?オートバイが、どんどん売れなくなっているのに、ハーレーだけが売れるのか?それは、ハーレーは、オートバイではなく、ハーレーだからだそうだ。どういうことかというと。。。ハーレーダビットソンのホームページをみるとよくわかります。普通のサイトには、あまり見かけない項目がハーレーのサイトには多い。”ライフスタイル””女性による女性のためのハーレーサイト””はじめてのハーレー””新しき旅の始まり” などなどハーレー・ダビットソン・ジャパンで昨年まで社長だった奥井さんの話。”自分達の仕事は、商品をお客様に売ることではないんです。 ハーレーを買って頂いてから始まるお客様のハーレーとの生活を いかに楽しいものにして差し上げるかということなんです。” わたしたちは、 ”ハーレーと一緒に暮らす楽しみ”を、売っていたのです。” 意外に知られていないが、 ハーレー・ダビットソンという大型バイク、 男より、 小柄な女性のほうがカッコがいい。
2009.08.24
コメント(2)

朝、車のラジオから。。。夏休みを利用して、お母さんと娘さんが、山形から新幹線に乗って、渋谷と原宿にがんばって買い物に行った話だった。渋谷は、ものすごい人だった。高校生、若者、ゴスロリ、大人、外国人、あやしい人、ホームレス。。。そして、いたる所にゴミが散乱していた。なんだか生臭い匂いがした。だんだんイライラしてきて山形に帰りたくなった。。。と、高校生の娘さんが話していた。わかるような気がした。。。以前、渋谷の道玄坂のカフェをリニューアルしたとき。。。ウサギぐらいの巨大なねずみが走り去るのを見た。わたしが先に走り去りたくなった。わたしのいま住んでいる町は、大きなビルは市役所ぐらい。夜になると町は暗くなる。だから、遠くの花火がよく見える。昨日は、ふつうの昨日だった。なんだか いい夕暮れだった。山形市役所ライオンズ・マンション(山形市)文翔館(山形市)山形放送前の交差点(山形市)ブルーモーメント(天童市)どこかの町の花火?(家の駐車場)
2009.08.23
コメント(7)

風が涼しくなりました。コスモス咲く。山形、旧済生館(病院)コスモス
2009.08.22
コメント(2)

ウォーレン・バフェット(世界一の富豪)は言う。。。”委員会とは、ひとりひとりでは何もできない。 しかし、 集団としては、 『何もしてはならない。』 という決定を下せる人たちの集まりです。。。”あるとき、ウオーレン・バフェットがある企業を買収した。。。最初の一か月で、54の委員会を廃止した。そして合計、一か月、一万時間以上の労働時間を節約した。驚くことに、54の委員会を廃止して。。。仕事に支障をきたすことは、まったく無かったそうだ。バフェットはいう。”企業にどれほど官僚組織がはびこっているかは想像を絶する。 コストを、ほぼすべて顧客に転嫁できる組織(霞が関・役所・病院・電力会社などなど) では、とくに恐竜のように ぐんぐん組織は肥大化し、 『会議をすることで、給料をもらう人』が増殖してくる。 そして、そういう人たちに限って。。。 会議の時に出される、お弁当や飲み物のクオリティには厳しい。 ”弁当には、鮭を入れてくれ!” ”肉は脂身の少ないものにしてくれ!” ”飲み物は温かいものと、冷たいものを選べるようにしてくれ!” その細かく、そして深い情熱の一部分でも、 お弁当のおかずではなく、国の未来のおかず(武器)に、 情熱を費やしていただければ、 未来は明るく変わることだろう。いよいよ選挙。日本国民の選択。
2009.08.22
コメント(4)

わたしはベーグル好きです。特に、もちもち、みっちり系のベーグルが大好きです。今まで立ち上げたカフェのいくつかでもベーグルを販売させていただきました。マコーズ・ベーグル。。。ふじもとベーグルなどなど。。。私の中でベスト(個人的主観)ベーグルは、白金のマルイチベーグルでした。しかし、今回、存在感のあるワンダーなベーグルに出会うことが出来ました。そのベーグルのお店は、仙台の mama`s hands(ママズ・ハンズ)というお店のベーグルです。食べると。。。‘+<>◎_‘*}*☆。。。ことばにできない感動が。。。原材料もすごい。イーストではなく、天然酵母仕様。岩手県産の無漂白の南部小麦100%。れんげの花のはちみつ。パンに使われている塩は、石巻の海水を汲み上げて、手作りで作り上げられた伊達塩などなど。日本のパンも、とうとう世界と肩を並べた。関係のない写真
2009.08.20
コメント(6)
風姿花伝 (ふうしかでん)とう本をご存じだろうか?世阿弥(ぜあみ)の書いた能(のう)の奥義書(おうぎしょ)になります。世阿弥とは、現代の能(のう)を確立した人です。彼の書いた風姿花伝、いまから1400年前に書かれている。うちの田舎の本屋ではなかなか手に入らない本だ。しかし、アマゾンドッドコムなら、たとえ日本の室町時代に書かれた本であってもすぐに買う事が出来る。そして明日には手元に届く。送料は無料だ。これでは、町の本屋が、消えてゆくはずである。驚いたことに、風姿花伝 (ふうしかでん)、の本を、アマゾンで買った方の感想を見てみるとかなり評価が高い。活字離れの進んだ日本で、風姿花伝を買う人がいるということに感動する。以前、ブログに、経済の勉強をするには経済書より、花の育て方の本の方が、より深く経済を知ることができるとブログに書いたことがある。まさに、この世阿弥の風姿花伝 (ふうしかでん)も、そのひとつだ。風姿花伝の一文を紹介したい。 ” 体(てい)は花、 用(ゆう)は匂い(にほひ)のごとし または月と影のごとし ”自然界における、花と、その香り、また、月と月影のように、体(目に見えるもの)と用(目に見えないもの)は、一体なのだが、花があって はじめて香りがある、その逆はあり得ないということ。そして、”そもそも能をみること、知るものは心にて観(み)、 知らざるものは、目に見るなり。 心にて観るところは体(てい)なり。 目にて見るところは用(ゆう)なり。”分かりやすく言うと。。。そもそも本質的に能を理解しているものは、能を心で観る。しかし初心者は、能を目で見る。だから、初心者は目に見えているところだけを真似ようとするので根っこがないからうわべだけのモノマネになってしまう。目に見えている姿や動作を真似ても、その元にある心を理解していなかったら何にもならない。だから、本当に、本物の真似をするのなら、真似する対象の心に入り込んで理解しなければならない。。。。というような話が書かれている本になります。、風姿花伝という本は。むかし、剣豪、宮本武蔵が一度だけ、戦わずに負けた男がいる。柳生新陰流の開祖で、徳川幕府の剣術指南役の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)だ。若き宮本武蔵が、柳生石舟斎に挑戦したときの会話宮本武蔵”柳生殿、一手ご教授!”柳生石舟斎”あなたの目指す剣とは なにか? ”宮本武蔵”電光石火(でんこうせっか)”宮本武蔵”柳生殿の目指す剣とは?” 柳生石舟斎 ”春風のごとし”宮本武蔵”。。。。。。。”
2009.08.20
コメント(2)

昨日、”大きな役割を果たした方も普通の人となんら変わりない。。。”というコメントを頂きました。ありがとうございます。以前、警察官になった、わたしの友人が話してくれた言葉を思い出しました。警察官になるまでは、殺人犯とは、一種特殊な人種だと思っていたそうです。ところが、いざ犯人と接してみると、いたって普通の人だったそうです。彼は言ってました。”殺人犯と、普通の人との垣根は、思っているほど高くない。。。”と。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。わたしの尊敬する経営者のひとりに、小林一三(こばやし・いちぞう)さんがおります。今の阪急・東宝グループを創業された方です。小林さんは、社会人スタート時、就職活動に失敗し、しかたなくコネで銀行に入行します。やる気のない、落ちこぼれ行員として、毎日、出社もせずにぶらぶらしていたそうです。その後、小林さんは失業も経験します。。。ところが、あるときスイッチが入ります。やること、なすことうまく行き、晩年は天才経営者と呼ばれる存在になります。彼の作った宝塚歌劇団は今でも根強い人気を誇っております。ちょっとした、わずかな、スイッチの差が、良くも、悪くも すごいことになるのだと思います。基本は。。。普通の人なんだと思います。みんな。だから、予備校の先生で、生徒を東大にポンポン合格させる技術を持っている先生は、教え方がうまいのではなく、スイッチを入れるのがうまいそうです。以前、”なぜ東大生のノートはきれいなのか”という本が発売されたそうですが、ノートがきれいなのは、スイッチが入っているからだとわたしは思います。遊んでいると思って仕事をしている人間は、つよい。
2009.08.19
コメント(2)
住友の男(前回の話)http://plaza.rakuten.co.jp/RiceballCafe/diary/200908160000/後編住友の男。。。伊庭貞剛(いば・ていごう)西欧諸国に追いつくため、工業化を急いだ明治の日本、いたるところで工業化のひずみが起こっていた。。。明治時代、日本には、大きな銅山が二つあった。東の足尾銅山(群馬県)。。。そして西の別子銅山(べっしどうざん/愛媛県)。その別子銅山を所有している企業が。。。住友だった。住友の別子銅山も、伊庭貞剛が着任する前までは、足尾銅山と同様。。。住友所有の新居浜(愛媛県)精錬所(せいれんじょ)から排出される有害なけむりによって、地元住民たちは健康を害され、怨嗟(えんさ)の声が沸き起こっていた。また、この時、新居浜の住友社内では派閥争いが激化していた。派閥争いの一方のトップは、住友分家で別子銅山支配人の大島供清、もう一方の派閥トップは、住友の総理代人(住友実質トップ)の広瀬宰平だった。ちなみに、広瀬宰平の甥(おい)が、伊庭貞剛だった。。。煙害問題、派閥争いにゆれる別子銅山へ伊庭は大阪本店から派遣される。伊庭の歓迎会の席上は殺気だった。”伊庭支配人様! 鉱山の宴会は大阪とは違うぜ。 ちと手荒いぜ。 ケガをしないで帰れたら幸運だ。テーブルがとぶぜ!(笑) ”広瀬と敵対する派閥の男たちから、伊庭は乱暴な言葉をあびせられた。伊庭が着任し、だれもが粛清(しゅくせい)人事が行われると思ったからだった。ところが、予想された更迭も、人員整理もなかった。伊庭は、新居浜の質素な家で寝起きし、訪れる人たちに、わけへだてなく話をしていった。伊庭が一度だけ大阪に戻った時がある。誰もが、いよいよ粛清か!と。。。思った。。ら。。伊庭が帰ってきたら。。。なんと、歌謡曲の師匠をともなって戻ってきたのだった。そして、またある時、伊庭の妻の梅子が大阪からやってきた。梅子は、”あなた 何をしているの”と聞くので伊庭は、”拙者(せっしゃ)は、月に三回わらじを履いて鉱山に登り、 鉱石を掘り取るのを見てはよろこび、 また数千人の稼ぎ人が、汗あぶらを流して働くすがたを見ては気の毒に思い、 そして、 また鉱山を降りて精錬所をみては、うれしくなり、 また職人たちの汗を見ては気の毒に思い、 時として、職人と代わってやりたい。と思うくらいだよ。”と妻にこたえた。妻の梅子は、話を聞き終わると。。。。。。。。大口を開けたまま。。。絶句。。。そして、ひとこと ”じつに馬鹿げた仕事ですね”と言った。すると、伊庭は妻に、”自分も馬鹿な仕事だと思っている。(笑)””でも、拙者は馬鹿な仕事が好きなんだよ”と笑いながら答えた。不思議なことに、伊庭が鉱山に着任してから。。。鉱山の空気が やわらいでいった。やがて、住友本家から派閥争いの処分通知が鉱山へもたらされた。派閥争いの首謀者、住友分家の大島は、分家から除名。そして、もう一方の派閥トップの広瀬宰平は辞任となった。ケンカ両成敗だった。伊庭は、じつにフェアな決断を下したのだった。そして、住友最大の煙害問題に対しては、解決のため、新居浜の精錬所を無人島の四阪島へ移転した。当時、島を買い取る際に、住友が動いていると悟られないよう、伊庭は、腹心の社員に命じて伊庭個人名義で島を買い取り精錬所を移転した。そして、銅山の開発で荒れるがままになっていた西赤石山系の山々に伊庭は、”あいすまぬ””別子全山を旧のあおあおとした姿にして、 これを大自然にかえさねばならない”といって、植林を施すなど、環境復元に心血を注いだ。そして、それらの山林は、後に管理会社として住友林業が設立された。晩年、伊庭は周囲の者たちに、”わたしの本当の事業といってよいのは、これだ!(植林事業)。”と語っている。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。田中正造の、第15回帝国議会での演説をご紹介したい。足尾銅山の鉱毒問題を取り上げたものだ。。。”関西地方の方々が多く鉱山の模範としてご覧になるは、 伊予の別子銅山で(中略) 足尾銅山とは、天と地ほどに差があるので、 実に何とも、たとえ比べ合いの ならぬほどの事情であります。(中略) 別子銅山の第一鉱業主は、住友 であります。 住友であるがゆえに、 社会の事理、人情を知っておる者で、 己(おの)が、金さえ儲けさえすれば、それでよろしい。という、 ものだというような、そういう間違いの考えを持たない。”。。。。あの、義の政治家、田中正造が手放しで称賛するほど、住友の別子銅山への姿勢(環境への配慮)は見事なものだった。伊庭貞剛は、のちに別子銅山の改革が認められ、54歳の若さで住友総理事(トップ)となる。そして、わずか4年で早々と身を引く。周囲のものたちが、引退は早い!、と伊庭を止めようとすると、伊庭は、 ”事業の進歩と発展に もっとも害をなすものは、 青年の過失ではない。 老人の跋扈(ばっこ/はびこる)だ。”と話したそうだ。伊庭を知る部下の話を紹介したい。”伊庭さんの仕事ぶりは緻密でありましたが、部下に対する態度は、 やわらかく、じつに長者の風格がありました。”重役が命がけの判を押すのは在職中に一度か二度あるくらいのものだ。”といって、ほとんど書類を見ずに判を押しておりました。。。伊庭の孫の菅沼綾子さんの話もおもしろい。”おじいちゃんは、春、新居浜からサワラが届くと、待ちかねたように”なれ寿司”を自分で作って、うれしそうにお客様にふるまうんです。そして三時のおやつを、いつも楽しみにしておりました。あんがいダジャレもよく言っておりました。80歳で亡くなる二日前にも、好物の水蜜桃の缶詰がきれて、やむなくリンゴにすると、ニコニコ食べた後、”これがリンゴ(臨機)応変というものじゃなぁ(笑)”とほほえんでおりました。 完
2009.08.18
コメント(4)

道の駅、白鷹(しらたか)お盆で家族連れがいっぱい!遡上してくるアユをヤナでつかまえて、塩焼きにして食べます!んまい。鮎を捕まえているところ鮎の塩焼き 子供はあゆより、ソフトクリームが好きです。帰りの風景、まるでプリンスエドワード島のような風景。
2009.08.17
コメント(14)
わたしは、いままでブログに様々な人物の話を書いてきた。マザーテレサ。。。松下幸之助。。。ベートヴェン。。。徳川家康。。。みんな、すごい人たちです。昨日のブログのコメントに、ぜひ住友さんのお話を。。。とありましたので、あらためて、今回、ご紹介させて頂きます。住友の男。住友の男は、もしかすると冒頭で紹介した、ワンダーな人たちの長所をあわせ持った人かもしれない。住友の男とは、伊庭貞剛(いば・ていごう)さんのことだ。どんな人か?あの、田中正造(たなか・しょうぞう)が絶賛した企業人です。伊庭さんを説明する前に、田中正造の人物像から説明させて頂きます。田中は、江戸時代後期、栃木県の裕福な名主なぬし/村のトップ)の家に長男として生まれた。彼は大きくなると、父の跡を継いで、村の名主となった。田中の村の領主は六角氏といって、村人たちを搾取(さくしゅ)し続け、私服を肥やしている悪い領主だった。田中は。。。見て見ぬふりのできない男だった。さっそく名主となった田中は、領主に、改善要求を行った。しかし。。。六角氏は、これにおおいに怒り、田中は、明治維新直前に投獄されてしまう。(この時の田中が投獄された牢屋は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、 立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。)翌年、田中は村人たちの努力もあり無事に釈放される。明治23年、第1回衆議院議員総選挙に田中正造は立候補し初当選する。この年、渡良瀬川(わたらせがわ)で大洪水が発生する。川の上流にある足尾銅山から流れ出た鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、大騒ぎとなる。翌年、田中は鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で足尾銅山の鉱毒問題の質問を行った。しかし、当時、日本政府は、西欧諸国へ追いつけ追い越せ!の空気の中にあり環境悪化による多少の犠牲などより、工業立国として西欧諸国と肩を並べることの方に重点が置かれていた。田中は、あきらめずに、その後、何度も政府に強く改善要求をし続けた。明治30年になると、ようやく世論も動きだし、農民の鉱毒反対運動が激化してゆく。田中は、足尾銅山鉱毒問題を、東京や地方各地で演説を行うことによって、問題の存在をクローズアップさせて行った。ようやく農商務省と足尾銅山側は当面の予防工事を確約し、実際に着工するが、元々やる気のない工事だった為、効果は薄かった。明治33年2月、農民の怒りは頂点に達し、東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県川俣村で警官隊と衝突。流血の大惨事となり、農民多数が逮捕された。この事件の後、田中は国会で事件に関する質問を行った。田中正造これが”亡国に至るを知らざれば、之れ即ち亡国の儀につき。。。”日本の憲政史上に残る大演説となった。田中正造は。。。2日後、今後も国と対峙し続けるということは、所属している党へ迷惑をかけるということになる。との判断から憲政本党を離党する。田中の離党覚悟の真剣な質問に対して。。。当時の内閣総理大臣、山縣有朋(やまがた・ありとも)は ”質問の意味が よくわからない。” と答弁を拒否した。明治34年10月、田中は議員でいることの無力さを痛感し議員を辞職する。そして下野(げや)し鉱毒被害を広く世論へ訴える続ける。そして、とうとう田中は、12月10日、足尾銅山鉱毒事件について、 明治天皇に直訴(じきそ)する。しかし、田中は、天皇の馬車にたどり着く前に。。。途中で警備の警官に取り押さえられ直訴そのものは失敗に終わる。しかし、田中の行動に東京は大騒ぎとなり、号外も配られ、田中の直訴状の内容は広く知れ渡ることとなった。田中は、そっこく捕えられたが。。。日本国政府はこれ以上騒ぎが大きくなるのを恐れ、”単に狂人が馬車の前によろめいただけ” としてこの問題を不問にすることにした。田中は即日釈放された。田中は直訴直前、死を覚悟し、妻に迷惑がかからないようにと、妻カツに離縁状を送っている。しかし、妻カツはその離縁状を破り捨てた。。。夫婦で正義を貫く(つらぬく)覚悟だった。その後も田中の粘り強い活動によって、とうとう足尾銅山は閉山となり、鉱毒の流出は止まったのだった。*ちなみに、2009年現在に至るも、 足尾の山々は、当時の傷から完全には回復していない。田中は終生、様々な社会問題や巨悪と戦い続け。。。遊説の途中、力尽きて亡くなる。財産のすべてを鉱毒反対運動に使い果たした田中、子供のころ名主(なぬし)の子として 裕福であったにもかかわらず、死んだときは、無一文になっていた。全財産は。。。きんちゃく袋1つだけだった。中身は。。。書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙(ティッシュ)、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。田中正造。。。政治家になった為に、無一文になってしまった男。あとにも、さきにも、日本に、こんな純粋な政治家は、現れることはないだろう。現在、彼、田中正造のお墓は六つもある。なぜか、彼を慕った人々が、彼の亡骸の分骨を切に願ったためだ。田中は人々から深く愛された政治家だった。そんな田中から、唯一、称賛された企業人がいた。それが、今回の主役、住友の男、伊庭貞剛だった。 つづく
2009.08.16
コメント(4)
住友と三菱。。。ともに日本を代表する企業。ずいぶん古い話ではあるが。。。住友本社の常務までのぼりつめた、川田さんの話が面白いので紹介したい。明治40年川田さんは東大法学部を卒業し住友に入社した。入社して驚いたのは。。。給料の安さだった。職場を見渡しても。。。お金持ちは。。。誰もいなかった。一方、同じ東大法学部を卒業し、官僚となった同級生たちは、高給官僚と。。。もとい、高級官僚となっていた。川田さんは、住友に入社すると、先輩から、こう言われたそうだ。 ”いいか 社会を先にして、私欲を後にするんだ。”住友グループの社是をご紹介したい。営業の要旨 (今から100年以上前につくられた住友の社是です。1891年制定)第一条 我(われ)住友の営業は信用を重んじ確実を旨とし、 もって其(そ)の鞏固隆盛(きょうこりゅうせい)を期すべし。 第二条 我(われ)住友の営業は時勢(じせい)の変遷(へんせん) 理財(りざい)の得失(とくしつ)を計(はか)り 弛張興廃(しちょうこうはい)することあるべしと雖(いえど)も 苟(いやしく)も浮利(ふり)に趨(はし)り軽進(けいしん)すべからず。 分かりやすく言うと。。。 ”住友と言う会社は、未来を切り開いてゆく会社であって、 そこいらに転がっている、 つまらない儲けには手を出さない。”という意味になる。川田さんは、終戦後、お金をコツコツと貯め 昭和30年にようやく鎌倉の辻堂に中古の家を買った!売主は、三菱を定年退職された方だったそうだ。売買の条件は二人で話し合った。なんの駆け引きもなく話し合いは行われた。家の購入という大事な契約の話なのに、ほんの1時間で交渉は済んだ。そして、引っ越し当日、川田さんは、契約になかったことを発見して驚く!畳(たたみ)が全部、新しくなっていた。台所には、当時としては、たいへん貴重なステンレス製の調理台が、きれいに磨きあげられ、その上には いちりんの可憐な花が飾られていた。床の間にも、みごとな盆栽が飾ってあった。そして。。。川田さんは、お風呂場に行って感激する。なんと、浴槽(よくそう)には、水が、なみなみと満たされていた。(補足説明)昭和30年当時は、まだ井戸からバケツで、人が水を運ぶ時代だった。そして、風呂をわかす焚口(たきぐち)の横には、薪(まき)が束ねて置かれていた。”お疲れでしょう。引っ越し作業がひと段落ついたら、お風呂で汗をお流しください。”川田さんは、”三菱の人”の心遣いに感激した。 ”さすがは三菱の人だ”現代の日本社会では、アメリカから持ち込まれた権利主義、マニュアル社会が浸透している。。。 ほんの少し前の日本、 じつにカッコのよい人々がいた。
2009.08.15
コメント(6)
ある町に。。。保険のセールスをしている女性がいました。彼女の勤める保険会社では、売上ノルマの達成が厳しく命じられておりました。彼女も仕事だから!と、なんとか割り切って、がんばっておりました。しかし。。。お客様のところへ行くと。。。”保険はもう入っているからいらない。””何度も 何度も、しつこいわね。”と冷たく叱られた。。。つらい思いで、かなり凹んだ。なのに、支店長からは、一件でも多く回って、アポを取らないとだめだ!とにかく数をこなすんだ!とおこられた。彼女は、だんだん仕事が嫌いになった。嫌いで、イヤイヤやっている仕事だから当然、営業成績も落ちていった。そんな、ある日彼女が生命保険を契約している家の男性が、急に交通事故で亡くなってしまった。彼女は、悲しんでいるであろう 残された家族に会いに行くのはつらいと思ったのですが、お葬式がすんで落ち着いた頃、残された家族に保険金のことについて説明するために、彼女は、男性の家を訪ねました。彼女が予想したとおり、残された家族は、とても落ち込んでおりました。まだ。。。気落ちしている奥さんと娘さんを前にして、彼女は保険の受け取り方法などを説明していった。一通りの説明が終わり、彼女は、”ほかに、なにかご質問はございませんか?”と家族に尋ねてみた。すると、中学生の娘さんが、”最近、父とは あまり話をしていませんでした。 父は なにか 私のことを話していませんでしたか? ”と、彼女に聞いてきた。彼女は、父親が保険契約をする際に、父親のはなしていたことばを思い出し、娘に伝えた。”あなたのお父さんは。。。 ”もし わたしに万が一のことがあっても、 娘に みじめな思いはさせたくない。 大学にも行ってほしいし、 だから十分な補償が出る保険にしてほしい。”と話しておられました。彼女が、父親のことばを中学生の娘さん伝えると。。。。娘さんは。。。泣き崩れてしまいました。この時、彼女は、父親が生きているあいだに、娘さんにこの話を伝えてあげればよかったとひどく後悔した。そして、”この想い”を次に誰かと、保険契約するときには必ず、家族に伝わるようにしようと決心した。その後、彼女は、生命保険を契約する際には、父親とだけ話すのではなく、家族全員に集まってもらって話をすることにしました。家族が遠くにいて、どうしても集まれないときには、父親に、家族に対する思いを手紙に書いてもらって送ってもらうことにしました。彼女は、このように仕事の仕方を変えた。彼女はいう。保険を契約してもらったお客様から、”ありがとうございました。”とお礼を言われることが多くなりました。 仕事も、やりがいを感じております。”。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。最初に、 彼女が売っていたものは、”ただの保険”でした。 しかし、いま、彼女が売っているものは、”家族の想い”なんです。 その後、 彼女の飛び込みセールス件数は、極端に減った、 しかし、彼女の営業成績は、するすると伸びていった。ビジネスの世界では、古くから言われ続けることばがある。”自分の仕事によって、 取引相手の人生が豊かになると、 さらに自分の生活は、より豊かなものになる ”
2009.08.13
コメント(6)

日本マクドナルドのCEO(最高経営責任者)原田泳幸(はらだえいこう)さん。原田社長が会社(日本マクドナルド)まで通勤してくるとき、他社のファーストフード店の前を通ってくるそうだ。原田さんの出勤時間は早く、まだ、そのファーストフード店は開いていない。そのファーストフード店の前を通ると。。。窓のブラインドが。。。何か所か、折れ曲り。。。見苦しい状態だった。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。原田社長は言う。”人が見ていないと思うようなところにも、人の目はあります。”わたしは、この 原田社長の考え方の源流は、原田社長の父親の”人となり”からきているような気がしてならない。では、その父親の ”人となり”とは、 どんなものか。。。原田社長の実家は、養鶏場を営んで(いとなんで)いる。ピヨピヨとヒヨコが入荷してくると、一羽、また一羽と、手作業で予防接種をしてゆくそうだ。そして、それから50日後、ブロイラーとして出荷をする。その出荷の際に、また、一羽、一羽と手作業でカゴに詰めてゆくそうだ。出荷をする際には、一度に5000羽~1万羽以上も出荷をする。原田社長も少年の頃、よく手伝わされた。”ブロイラーというのは、明るくなると騒ぎだすので、 つかまえようとすると。。。 養鶏場のなかを逃げ回り、 端(はじ)の方へ集まってしまうんです。 そのため重なり合って圧死してしまう危険性があります。 だから出荷の作業は、深夜の2時頃から始まるんです。” まず最初に、 ブロイラーを入れるかごを20段ずつ積み重ねてカゴの重量をはかります。 一つのカゴには20羽ずつブロイラーを詰め込み、 そして、ふたたび総重量をはかってから出荷をします。 この作業を朝が来る前までに、行わなければなりません。” たとえて言うと。。。 お風呂の水を満たすのに、 スプーンで水を運ぶような気の遠くなる作業です。 ブロイラーが一万羽とも。。なると。。。さすがに。”原田少年は、冬の寒い時、コートを着て作業をしようとした。。。すると、父親に おもいきり怒鳴られた。また、父親に、なにか道具をとってくるようにと、指示された原田少年は、寒さと 眠い目をこすりながら。。。歩いて取りに行こうとした。。。すると父親は、 ”走れ!”と原田少年を一喝(いっかつ)した。原田少年の父親は、カゴにブロイラーを詰めこんだ後、カゴの外についたニワトリの羽根を丁寧(ていねい)に取り払ってから計量し出荷していたそうだ。それを見ていた原田少年は、父親に言ったそうです!”お父さん、僕はさっき、”走れ”と お父さんに怒鳴られて 急(せ)かされましたよ。 なのに、お父さんはニワトリの入ったかごを計量するのに、 いちいち時間をかけ、 カゴの外側についた羽根を取り払ってから計量するもんだから、 えらく時間がかかってしまう。 寒いんだから、早く仕事しようよ。 羽根ぐらいじゃ、ニワトリの重さはかわんないよ。”すると父親は、原田少年にいったそうです。”うちの家は、三度も火災にあっているんだ。 家も、何かも燃えてしまったことがある。 でもな、 ひとつだけ燃えなかった財産があるんだよ。 それはな、 人さまからの信用だ。 火災にあい、 どうしようもないときでも、人さまからの信用があったから、 みんな、うちの養鶏場の経営を応援してくれたんだよ。 いいか、 信用ってのはな、 人の見てる前で つくるもんじゃないんだ。 人には見えないところで、つくるもんなんだよ。”原田社長の父親は酒もタバコもしない。仕事一筋の男だ。つい最近まで事業を拡張しようとしていたそうだ。あるとき、原田社長が、父親に聞いた。”なぜ、89歳にもなって、まだ事業を拡張しようとするのか?”すると原田社長の父親は、”自分の老後のためだ。”と答えた。原田社長が、”もうすでに りっぱな老後だよ(笑)”と言うと。。。父親は、みじかく。。。”老後は95歳からだ。”と答えたそうだ。
2009.08.10
コメント(6)

山形では、写真を写したとき、 写真の中に人の写る確率は、 日本で北海道の次に低い。。。 鮎で有名な白鷹町付近 さくらんぼ生産量日本一の東根市付近
2009.08.09
コメント(7)

東北も祭りが終わると秋がやってきます。昨日、夏の写真と秋の写真が撮れました。立秋です。 夏の写真 ひまわり畑 去年も、ブログで紹介した、村山市にある ひまわり畑の巨大迷路です。 あさ、庭に落ちていた 緑のクリ
2009.08.09
コメント(2)

初夏の太陽、乾いた大地、武田勝頼は、しばらくのあいだ、いっぽんの旗を じっとながめていた。。。 其疾如風、 早きこと 風のごとし 其徐如林、 静かなること 林のごとし 侵掠如火、 侵略すること 火のごとし 不動如山、 動かざること 山のごとし ”風林火山 ”勝頼は、得体のしれない暗い胸騒ぎをおぼえていた。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。織田信長軍3万。徳川家康軍8000。長篠城の手前の設楽が原に着陣した。長篠、設楽が原は、山と山の間に開けた、小さな原っぱだった。この原っぱを大きな川が横切っており、川の周辺には大湿地帯が広がっていた。原っぱといっても、小さな丘が幾つも連なる場所であって、相手の陣地までは、見渡せるほど視界がよい場所ではなかった。織田信長は、ずいぶん前から、この地を武田勝頼との最終決戦場と考えていた。武田勝頼を、この地、長篠、設楽が原に引きずり出すために、ずいぶんと信長は手の込んだ裏工作を繰り広げてきた。信長の仕掛けた情報戦もいよいよ最終局面となってきた。信長は、川(連吾川)を堀に見立てて防御陣の構築をする。川をはさむ台地の両方の斜面をおおきく削って人工的な急斜面をつくり、さらに三重の土塁に頑丈な馬防柵をすきまなく敷いた。当時の日本としては空前絶後の野戦築城だった。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。武田勝頼のもとに、織田信長の重臣の一人から再び密書が届く。”武田殿、信長公は、貴殿と戦をすることを望んでおりません。 なぜなら、武田は日本一の軍隊だという事を信長公はだれよりも存じているからです。 だから、この度の戦は引き分けで十分だと考えておいでです。 武田殿と引き分けることができれば、信長公は勝ちだと考えております。 信長公は、武田殿との引き分けた事実を全国へ流布(るふ)する考えです。 ”武田勝頼くんと闘ってみたが、あんがい ずいぶん弱かった。 父親の武田信玄とは比べ物にならないくらい才能のない武将だった。 ” ネガティブキャンペーンをはり、信長軍の影響力を高めようとしております。 そのため、信長公は出来るだけ戦をさけるため、 大きな堀や、 馬防柵、 多数の鉄砲を用意し守りに徹する考えです。 柵を設けて、信長公は その柵からは一歩も出ることはないでしょう。 武田勝頼殿、これはチャンスだとは思いませんか? 信長公は、武田殿は戦上手(いくさじょうず)、 守りの堅さ(かたさ)を見て、 武田殿は無謀な戦争は仕掛けてこないだろう。と思っております。 そこに油断が生じます。 武田殿が攻撃をはじめ、 わたし(信長の重臣)が内部から信長公を攻撃すれば、 いかに信長公でも、 いきなり前と後ろから攻撃を受けたのでは、 今までのようには戦えないでしょう。 勝利は我々の側にあります。 ” 勝頼は、密書を読み終わると。。。”これより長篠、設楽が原へむかう!” 長篠城は戦略的に意味がない。 包囲して落としたところで、なんの手柄にもならない。” 救援に駆けつけてきた信長を 先に撃つ。 さすれば枝葉の、長篠城など自然と枯れてしまう。 長篠城には、抑えの兵3000を残し、 本体1万は、長篠、設楽が原へ向かい、信長を殲滅(せんめつ)する。” この話を聞き、武田信玄時代からの重臣(武田四天王)、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは、こぞって、撤退を進言する。しかし、怒りに燃える勝頼の耳には届かなかった。勝頼は、信長の仕掛けた情報戦によって判断力を狂わされてしまっていた。もはや客観的な判断は出来なくなっていた。。。戦が始まる。何度、信長軍に突撃しても、織田軍からは。。。 ” 一人の裏切り者もでなかった。 ”武田の名将たちは、織田の名もない足軽の放つ鉄砲に ひとり、またひとりと ぬかるんだ暗い大地に倒れていった。信長”サル(豊臣秀吉)、なぜ勝頼は負けたと思う”豊臣秀吉”上様(信長)の知略が、武田殿を上回ったためかと。。。”織田信長”たわけ!””勝頼は、わしに負けたのではない。 あやつは、自分に負けたのだ。 自分の中にある、”長所”に負けたのだ。””サル、きさまもサル知恵がはたらくやつじゃ。””明日は我が身ぞ ”豊臣秀吉 ”ははぁ。。。。。。” これより すこし後、 織田信長も、自分より力の弱い相手(部下)によって、 天下取りの夢を断たれてしまう。 才能とは、人生の中では、 所詮、たいしたものではない。
2009.08.07
コメント(4)

武田勝頼。。。戦の天才は苛立ちの中にいた。。。たった500の兵が守る小さな城を、攻めあぐねていた。。。奥平貞昌の守る、長篠城は小さな城であったが、信長は、事前に おびただしい数の鉄砲や大砲を運び込み、城はハリネズミのように 完全武装されていた。さすがの武田勝頼も、城に近づくことが出来なかった。。。そんななか、武田勝頼のもとに一通の密書が届く。織田信長の重臣の一人からの ものだった。”信長公は、ただいま武田殿との戦(いくさ)の準備をしております。 我が主君は、大きな野望を持っております。 そして、その野望を実現させるため、四方八方に求めて敵を作っております。 結果、領民は搾取(さくしゅ)され、苦しい状況に悲しんでおります。 今回、さらに武田殿と戦争を始めようとしております。 わたしは、 自分の領地や領民を守るための戦争は やむを得ないものと存じておりますが、 私利私欲の為の戦争には反対です。 今回も、主君、信長公に、その旨をお伝えしたのですが。。。 聞き入れてもらうことは できませんでした。 かくなるうえは、 わが領地、領民を守るため、 また、悪意にみちた侵略戦争を終わらせるため、 こたび、わたくしは武田殿に お味方する用意がございます。 ” 信長公は、こたびの戦争で武田殿の3倍の兵を集めておいでです。 武田殿の兵の強さを、十分 存じているからです。 また、直接、戦うと武田殿には勝てない。ということも信長公はよく存じており、 そのため多くの鉄砲を用意し、 武田殿の攻撃に耐えうる頑丈な柵を用意しております。 ただいま、 武田殿との戦争に、なかなか兵士が集まりません。 それは武田殿の強さを、領民もよく知っているからです。 そのため、 信長公は、 長篠城の救援にも駆けつけることが出来ない状況にあります。 今回、信長公は武田殿と真正面から戦う気持ちはございません。 引き分けで十分。と申しておりました。 戦国最強といわれる武田軍と引き分けにすることが出来れば、 信長公は、それで満足のようです。 そのために巨大な馬防柵をつくるようです。 巨大な馬防柵は、敵を防ぐことは出来ますが、 味方もまったく敵へ攻撃することが出来ません。 こんな おかしな戦争はございません。 それだけ信長公は武田殿を恐れているのです。 今回、武田殿との決戦場は、長篠城の前方に広がる設楽ヶ原になると思われます。 武田殿と戦争が始まりましたら、 わたくしも、微力ではございますが、武田殿に お味方つかまつります。”武田勝頼は、手紙を読み終わると不機嫌な顔になった。勝頼は、密告や謀反(むほん)が大嫌いだった。直球勝負の男だった。武田勝頼”信長ごとき、 密告者の力など 借りなくとも、完勝してみせる。”。。。密書を破り捨てた。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。豊臣秀吉”上様(織田信長)、出発(戦争)の準備が整いました。 長篠へは、ゆっくり進んでも1日で到着できます。”織田信長”たわけ! ゆっくりと進んだのでは、早く着きすぎる! もっと ゆっくりと進むのだ。(笑) 長篠への到着は。。。3日後でよい。” 1日で到着できる距離を、3日もかかって到着すれば、 武田勝頼は、純粋な男だから、 ”信長軍は、ウワサ通りの 腰抜け軍だと うれしく思うだろうよ。”秀吉は、信長の前で 平伏しながら。。。”世の中には、 上には、上がおる。”と。。。思った。 つづく
2009.08.05
コメント(2)
長篠、設楽が原の戦い(ながしのしだらがはら)の前哨戦(プロローグ)武田勝頼は、織田方に寝返った奥平貞昌を撃つべく、1万2千の大軍勢を整え長篠城へ向かった。奥平貞昌の城兵はわずか500名。その、500名と戦うのに、武田勝頼は1万2千名を動員した。勝頼が怒りにまかせた無謀な数の動因だったのかと言うと。。。まったく違います。武田勝頼は確信していた。奥平貞昌がいきなり一人で謀反(むほん)をくわだてるはずがない。後ろには、必ず、 織田と徳川がいる。そして、織田と徳川は、謀反をおこし織田・徳川に協力しようとしている奥平を、見捨てるようなことはしない。もし見捨てれば、今後、だれひとり織田、徳川に協力しようとする者は、いなくなってしまうからだ。 必ず、やつら(織田・徳川)は、長篠へくる。今度こそ、やつらを徹底的にたたく。そのためには。。。なんとしても織田信長自身を長篠へ引きずり出さなければならない。そのためには。。。武田全軍をもって長篠を攻撃する必要がある。もし。。。武田勝頼が単純で無能な武将だったら。。。500の兵が守る城を撃つのに、せいぜい動員した数は3000程度だっただろう。しかし、武田勝頼は若い頃からの戦上手(いくさじょうず)。ほとんど負けたことがなかった。そのため、今回も、織田、徳川へ複雑な戦争を仕掛けようとしていたのだった。それは、まるで、このあいだまで、六本木ヒルズでおどっていた。。。ITベンチャーたちとオーバーラップする。。。武田勝頼は。。。”この際、せっかく遠くまで出張(戦争)し、 お金もかかることだから、 出張(長篠城の原状回復)ついでに、 目障りな織田・徳川も、やっつけてしまおう!” と考えてしまったのだった。武田勝頼の住む山梨県から、長篠城のある愛知県までは、ずいぶんと遠かった。また、不幸なことに、武田勝頼は、過去、織田・徳川に簡単に勝っており、このように考えるのは自然な流れだった。織田信長は、武田勝頼が、こう考えることを読みきっていた。第4話で、信長が話していた言葉。”武田勝頼の長所を利用して勝つ。”と言ったことばはココから来ている。豊臣秀吉”上様(織田信長)、武田勝頼は、まもなく奥平殿の守る長篠城を包囲してしまいます。 急ぎ、救援の兵を送らなければ、全滅してしまいます。”織田信長”たわけ! いま、我々は、内部分裂の最中じゃ しかも、 重臣の何人かは、おれを裏切って、武田勝頼に内通しておるのだぞ(笑) そんな状況の中、我々がすぐに奥平の救援に駆けつけたのでは、 信長がアホだという話や、内部分裂の話がウソだと言うことになってしまうだろう。 それに。。。 すぐに奥平を助けたのでは。。。 ヤツは、さして、おれに感謝しない。 もうすこし、ヤツが危なくなってから助けたほうが、 深く感謝するものぞ(笑)。 哲学者、ニーチェのことば ”才能がひとつ多い方が、 才能がひとつ少ないよりも 危険なことなんです。” 戦国最強、武田軍、滅亡の時は近づいていた。 つづく
2009.08.04
コメント(4)
第4話。織田信長が天下統一レースで頭一つ抜け出すきっかけとなった戦(いくさ)長篠の戦い(ながしののたたかい)織田信長豊臣秀吉 対 武田勝頼 の戦い。徳川家康織田信長は戦いをデザインする。まともに正面から戦ったら、戦国最強の武田軍には 到底、歯が立たない。織田信長の兵士は金で雇われており、とても弱かった。その弱さを克服するため、信長はいち早く鉄砲に目をつけた。信長は、冷静に自分の短所を認知し、工夫し、短所を長所に変えて行った。信長は、武田勝頼に唯一勝つ方法は、鉄砲しかないと早い段階で確信していたようだ。その鉄砲の威力を十分発揮出来る場所として。。。信長は、長篠の設楽が原(しだらがはら)をセレクトした。長篠の設楽が原は、武田軍が京へ登る際の重要な窓口のひとつだった。それを、武田の武将、奥平貞昌(さだまさ)の守る、長篠城が設楽が原の後方で守備していた。信長は、武田勝頼を長篠の設楽が原へ おびき寄せる方法として、長篠城を守る奥平貞昌に目をつける。織田信長が取った方法とは。。。まず盟友の徳川家康に、奥平貞昌に向けて手紙を書かせる。手紙の内容は。。。”わたし(徳川家康)と信長公は、 戦国の世を終わらせ、平和な世の中をつくろうと考えております。 そのためには貴殿のような、知略に優れた武将の力が絶対に必要となってまいります。 失礼ですが、あなたの主君(武田勝頼)には、ビジョンがありません。 山奥で一生を終える武将の部下のままでいいのでしょうか。 ぜひ、わたしと共に天下のための仕事をしましょう! つきましては、わたしの姫(家康の長女)を奥平殿へ嫁がせる用意があります。 また信長公も、あなたとは兄弟のような付き合いがしたいと申しております。。。 *奥平貞昌は、長篠の戦いの後、信長より名前の一文字、”信”の字をもらいうけ、 奥平信昌と名乗るのだった。 信長と家康は、奥平貞昌に再三、このようなゴマすり手紙を送り続け、とうとう奥平貞昌を武田勝頼から離反させてしまう。奥平貞昌、謀反(むほん)武田勝頼は、激怒する。奥平貞昌の守る、長篠城は、徳川と対峙する最前線、また京への玄関口。全力で取り返す必要があった。わずか500名しかいない奥平貞昌の守る長篠城へ、武田勝頼は、1万2千の大軍勢で出撃する。これだけの大軍勢、武田勝頼の怒りは頂点に達していた。。。いっぽう、待ち受ける奥平貞昌の目は自信に満ちていた。兵の数は500だが、食糧は十分。そして最新兵器の鉄砲が、この時代、なんと、こんな辺境の城に、200丁も持ち込まれていたのだった。織田信長は、今度は武田勝頼に伝わるように別な情報を意図的に流し始める。”織田の殿様は、うつけもので部下がバラバラになっているようだ。””織田の有力な武将が、いよいよ謀反(むほん)をたくらんでいるようだ。” 信長の情報戦が始まった。 戦国最強、武田軍団の、終わりの始まりが。。。始まった。 つづく
2009.08.03
コメント(2)
先日、ブログでニーチェのことばを書いた。”才能がひとつ多い方が、 才能がひとつ少ないよりも 危険なことなんです。” という言葉だ。この言葉に対し、ご意見をいただきました。”そうは言っても、才能は多い方が 生きてゆくうえで良いと思います。”というものでした。じつは、わたしも、社会人になった当初、まったく同じ考え方をしておりました。当時、わたしは人から”バイパー”と呼ばれ、パワービジネス一辺倒でした。真っ赤で太いサスペンダーを巻き、高価な時計を買っては喜んでおりました。。。その後、様々な、すばらしい人との出会いを経て、今の考えに落ち着きました。ニーチェのことばの意味とは。。。先日、アメリカの国際ピアノ・コンクールで日本人ではじめて優勝を果たした、全盲のピアニスト、辻井伸行さんがまさにニーチェのことばを体現された方だと思います。今まで、数多くの、目の見える元気な日本人が、バン・クライバーン国際ピアノコンクールへ挑戦してきました。しかし、だれひとり優勝することは出来ませんでした。辻井さんの演奏を聞いた審査員の一人は、 ”まるで天から音がふってくるよだった!”と話しておられました。テレビでは、彼の演奏シーンばかり映し出されておりましたが。。。演奏終了後の彼の映像にこそ、かれの素晴らしさがあると思います。ふつう、演奏者は、演奏が終わると、立ち上がり かるく会釈して、笑顔で手を振って舞台のそでに消えてゆきます。しかし彼は、演奏が終わると、立ち上がり、体を深々と90度近くまで折り曲げ、しばらくお辞儀をしたままの姿勢でいます。拍手がようやく鳴りやみかけたころ、彼は頭をあげるんです。以前、彼の演奏終了後、おじぎの仕方を不思議に思った記者のひとりが、彼に尋ねたことがあります。記者”どうして あんなに深々と長い時間おじぎをするのですか? ”辻井さん”わたしに出来ることは、唯一、ピアノを弾くことです。 だから、演奏を聴きに来てくださった皆さんには、 こころからお礼がしたいんです。 だから、 拍手をいただいているあいだは、 申しわけなくて顔をあげることができないんですよ。(笑)” 視力が、5 人間性が、5 の人と、 視力が、0 人間性が、10の人ニーチェのことばの意味は、 こういう意味だとわたしは理解しております。
2009.08.02
コメント(2)

昨日、ようやく ”うわさのカフェ”にたどり着くことが出来た。そのお店は、山形県の飯豊町(いいでまち)にあります。人口は8千人程度。空気とお米のおいしい小さな町。わたしも山形に住んでいるが、飯豊町は、仙台や秋田へ行くより遠い。まるまる一日かかる。新潟の県境にある町だ。飯豊町に入ると、”空気”が、”くうき”に変わる。”みどり”が、”緑 ”に変わる。そして、”ヒト”が”人”にかわる。。。飯豊の昨日の最高気温は21度。車のエアコンのスイッチを切る。窓を開ける。空気があまくておいしい。向かった、うわさのカフェは、”ポタジェ”農家の方が、農機具小屋を手直しして、田んぼの真ん中で始めたカフェ。農業が本業のため、月曜から木曜はお店は休み、農業に全力投球。カフェは、一週間のうち、金曜 土曜 日曜の三日間だけオープン。お母さんと娘さんが元気に切り盛りしている。今年の五月ごろより、このお店に行きたくて3度挑戦したが、迷子になり、広大な田んぼの周りをぐるぐる周り挫折、むなしく帰る日々が続いた。迷子になり、カーナビも役に立たない場所。。。しかたなく、車から降りて、地元の方に店の名前を聞くのだが。。。だれひとり店の名前を知らない。昨日、ようやく飯豊出身の友人を強引に誘い、人間カーナビを駆使して、お店にたどり着いた。オープンと同時 一番乗りした。きもちのよいカフェだった。生みたて卵でつくったシュークリーム、自家製ルバーブジャムが添えられた、自家製ベーグル、シフォンケーキには、アイスが添えられており、そのアイスの上にはかわいらしく ちょこんと のったミントの葉っぱ、あさ、畑から取ったものらしく、かおりが強く爽快感があった。ケーキとアイスをより つよくアシストしていた。カフェは、オープンして、30分もたつと満席になった。12時近くに来た、あきらかに地元の人ではなさそうな、きれいな服装の女の子二人連れのお客さんが、がっかりして帰っていった。わたしらも、次のお客さんのことを考えて、もう少しお店に居たかったのですが、店を出ることにした。帰りに、おいしい手づくりベーグルと焼き菓子を買った。のっぱらにある駐車スペースの車を見ると、横浜ナンバー袖ヶ浦ナンバー宮城ナンバーここは、山形県のはずなのだが。。。残念ながら、山形ナンバーのくるまは1台しかなかった。その一台しかない山形ナンバーの車に乗ってカフェを後にした。カフェは、どんどん小さくなっていった。いま、未曾有の不景気だとヒトは言う。駅前で 人通りの多い店も、ガラガラ。しかし、人口8千人の町で、店前通行量ほとんどゼロという立地にあるこのカフェは、お昼前に満席だった。
2009.08.01
コメント(8)
全30件 (30件中 1-30件目)
1