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2005年02月15日
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カテゴリ: 沖縄関係
 三線の胴の側面には、「手皮(ティーガ)」が付いていますが、この中の模様に「三つともえ」があります。

 この「三つ巴」は、左周りに三つの巴で「左御紋(ひだりぐむん)」と言い、琉球王国のシンボルです。

 この「左御紋」の言い伝えを民話から紐解いていきましょう。

 那覇市に伝わる 「謝名親方(じゃな うえーかた)の最後」

 昔、大変武芸に優れた「謝名親方」と言う、琉球国の軍師がいました。

 当時、琉球は唐と親和条約を結んでおり、交易の中継地点として発展していました。

 ある時、薩摩藩から沢山の軍勢が攻め込み、琉球国は窮地に追い込まれました。
 「謝名親方」は、加勢要請の書状を唐に送りましたが、唐で研修している琉球の役人は、
「大変な事になっている。唐の王に申し上げると、騒ぎになるから渡すまい」


 その頃、首里に居る「謝名親方」は、
「私が唐に書状を出しているから、もうすぐ唐から加勢軍が来るはず」
と、のんびり構えていた。

 ところが、いっこうに唐の加勢軍は来ません。
薩摩藩の軍勢は、沖縄北部の山原(やんばる)から侵攻していました。

 山原の人達は、火縄の鉄砲を見たことが無く、
「棒の先から火(ピー)が出ると、体に穴が開く」
と言って、次々に倒れていきました。

 やがて、薩摩藩の軍勢は天川坂を上り、嘉手納から首里へ侵攻して琉球国軍は負けました。

 戦に負けて「謝名親方」は、捕虜として琉球王と共に、薩摩に連行されました。

「謝名親方」は、武芸に長けているのを知られてしまい、薩摩の殿様から

の、令により若い薩摩の家来に、縄をうつよう命じた。

「謝名親方」は、若い薩摩の家来を見て、
「こんなに年若い子供に、縄をうたせるとは・・・。」
と言い、大変残念がり、一つの謀を思いつき、
「私が、琉球の空手と言う武芸をお見せしましょう」


 すると、薩摩の殿様は、
「これはいい、沖縄の空手は始めて見る。よかろう、ぜひ見せよ。だが、もしお前が逃げた時は、王の命は無いぞ」

「謝名親方」は、
「私一人なら逃げる事もできよう。だが、王のお供で来たからには、逃げる事ができましょうか」
と言い、空手を披露している最中に、薩摩の偉い役人を両方の腕で羽交い絞めにして、煮えた油の中に飛び込んだ。

 三人は、大きな釜の中で左に回りながら息絶えた。

 釜の上から見ると、三人の頭だけが回って、髪の毛が後ろから着いて行く様な光景が、三つ巴に見えた。

琉球王「尚家」の紋章はここからきています。

これが、三線の紋章

つまり、「琉球王族のあかし」と、されています。

この王が、薩摩に連れて行かれる時に「命どぅ宝」の言葉を残しました。

 三線を大切に扱っていますか?
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最終更新日  2005年02月15日 00時16分23秒
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