全32件 (32件中 1-32件目)
1

【2020年2月29日(土)】 三時知恩寺、宝鏡寺拝観後(こちら)、同志社大学新町校舎の学食で昼食をとった後、西本願寺方面に向かいました。3月6日の西京会案内で西寺跡・東寺・西本願寺付近を歩きますが、西本願寺やその近辺は同行ガイドやプライベートガイドでは案内したことがないためです。 西本願寺の北の西本願寺の駐車場に駐車しました。参拝者用無料駐車場です。すでに午後1時半頃になっており、車を使うので3時過ぎには帰ってきて欲しいと言われていたので、西本願寺、中井正五郎殉難の碑、伝道院、七条通レトロ建物、興正寺などを駆け足で回りました。東本願寺も行きたかったのですが、恐らく当日、東本願寺まで行く時間はないだろうし、時間もないのであきらめました。西本願寺 阿弥陀堂 御影堂阿弥陀堂の内陣と唐門が修復中であるのが分かりました。西本願寺 鐘楼西本願寺 太鼓楼西本願寺御影堂から飛雲閣を望む西本願寺 埋め木西本願寺 御影堂 沓石 中は石、外に木西本願寺伝道院中井正五郎殉難碑 旧村井銀行七条支店旧鴻池銀行七条支店富士ラビット-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/29
コメント(0)

【2020年2月29日(土)】 午前9時前に予約してあった床屋に行きました。今年初めての床屋さんです。土日は予約制で、予約すると待つ必要ないし、いつものゴルフ好きの兄ちゃんに刈ってもらえるので、土日に行くことにしています。私が刈り終わる頃、もう一人お客さんが入ってきましたが、それまでは私一人でした。やはり出控えているからでしょうか、床屋も空いていました。床屋のご主人も、息子さんも、その兄ちゃんもマスク無しなのには驚きましたが、兄ちゃんとの会話は専らコロナウィルスについてでした。次ぎ来る時は、いつものように、ゴルフやたわいもない話題でお話しできるようになっていることを願うばかりです。 その後、リカマンに行って、お酒類を買い込んで、京都市内へ向かいました。「京の冬の旅」の見学です。宝鏡寺が今日で終わりなので、見学しようとすると今日行っておかなければならないためです。それと、3月6日の西京会案内の下見です。3月1日~4日はプライベートと勤務でふさがっているし、5日はその西京会の直前準備に空けておきたいので、今日しかありません。 相国寺に車を停めました。まず、三時知恩寺へ。三時知恩寺も「京の冬の旅」で公開中です。いつものように招待券を1枚いただいていましたので、それで入りました。三時知恩寺はガイド会に入る前に特別公開で拝観したことがありますが、もうかなり前だし、そのときは客として見ただけなので、ガイドの視点で見るために拝観しました。 学生さんのガイドは、マニュアル通りで面白くはありませんが、すがすがしくていいです。私は分かりやすい簡潔なガイドを目指していますので、どちらかというと学生さんのガイドに近いですが、これでいいと思っています。 三時知恩寺は光照院同様、浄土宗の尼門跡寺院です。南北朝時代の北朝4代後光厳天皇の皇女・見子内親王が、伯父にあたる崇光(すこう)天皇(北朝3代)の旧御所・入江御殿を寺院に改めて創建され、「入江御所」と呼ばれました。室町三代将軍足利義満の息女・覚窓性仙尼(かくそうしょうせんに)が入寺し、「知恩寺」と称しましたが、宮中で行われていた六時勤行(ろくじごんぎょう・一日六回の念仏読経)のうち、昼の三時(みとき・三回)の勤行は、この寺で行うようにという後柏原天皇の勅令によって、寺名を「三時知恩寺」と改めました。明治維新まで代々皇女や摂関家の姫君が入寺され、殊に五摂家筆頭の近衛家と関わりの深い寺院です。 本堂は江戸時代の天明の大火後大徳寺山内にあった学問所を移築したものと伝わります。阿弥陀如来像、善導大師像、手紙や写経で造った張子の仏像などが安置されています。狩野永納(狩野山雪の長子)の「花鳥図屏風」、妖怪図などが本堂に展示されていました。 庭園は、仙人の住む神仙島を表した枯山水庭園で「蓬莱の庭」と呼ばれます。書院は、桃園天皇の女御・恭礼門院の御殿を賜ったもので、内部の長押などに見事な北山丸太が使われています。「一の間」は「源氏物語」図の扇面を貼り付けた襖で飾られ、「三の間」の襖には琵琶湖の魚獲りの様子が描かれた円山応挙筆の「?漁図(えりぎょず)」が描かれています。「二の間」にはやはり円山応挙筆の雉を描いた杉戸絵を見ることができます。三時知恩寺 続いて宝鏡寺へ。宝鏡寺は、ガイド会に入る前に一度か二度拝観したことがあります。他のお客様といっしょに案内を聞かせていただきました。 室町時代に創建された臨済宗の尼門跡寺院。創建は室町時代の応安年間(1368~1375)。開山の華林宮恵厳(かりんのみやえごん)禅尼は、光厳天皇の皇女で、尼五山第一位の景愛寺の6世でもあった。寛永21年(1644)には後水尾天皇の皇女・理昌尼(りしょうに)が入寺。以来、皇女が住職を務め「百々御所(どどのごしょ)」とも呼ばれます。天皇から贈られた数多くの人形を伝えるため「人形の寺」とも呼ばれて、親しまれています。 文政13年(1830)築の本堂には宝鏡を手にした、本尊・聖観世音菩薩像が安置され、これが寺名の由来となっています。この本尊は伊勢の二見ヶ浦で漁網にかかった際、手にしていた円鏡が輝き、朝廷に献上されたといわれます。狩野探幽筆と伝わる襖絵「秋草図」、現代の画家・河股幸和筆の襖絵「葡萄と鹿」「桜と小犬」「伊勢撫子と鶺鴒(せきれい)」が描かれています。 阿弥陀堂(勅作堂)には、光格天皇勅作の阿弥陀如来像、後光厳天皇妃の崇賢門院像、日野富子像などが祀られています。後円融天皇の母、崇賢門院(すうけんもんいん)を開基とする大慈院(浄土宗)が明治初期まで宝鏡寺に隣接してあり、 後に富子は出家して妙善院(みょうぜんいん)となって大慈院に入寺しました。大慈院は後に宝鏡寺に受け継がれたため、崇賢門院像、日野富子像が安置されています。 また、宝鏡寺第十五世渓山(けいざん)禅尼は、義政と富子の息女でもあります。 書院の東に広がる庭は「鶴亀の庭」と呼ばれます。皇女・和宮は幼少期の一時期を宝鏡寺で過ごしたとされ、この庭でよく遊んだといわれます。書院の「御座の間」「大広間」を飾るのは、円山応挙の孫である円山応震筆の「四季耕作図」です。円山応挙筆の愛らしい小犬の杉戸絵も見ることができました。 その他、孝明天皇遺愛の御所人形「孝明さん」や、雛祭りに宮中から贈られた雛人形など、数々の人形も展示されていました。宝鏡寺 同志社大学新町校舎の学食で昼食をとって、西本願寺方面に向かいました。→こちら よろしかったらぽちっとお願いいたします。にほんブログ村
2020/02/29
コメント(0)

【2020年2月28日(金)】 光照院勤務の18日目でした。京都の最高気温9.6度と10度を切り、寒い一日でした。天気予報も見ず、もっと暖かいのではと思い込んでいて、コートも足のカイロも、手袋も無しで通してしまいました。途中からでも、暖かくすればよかったと反省。コロナウィルスの影響で、たとえ普通の軽い風邪であっても、咳をすると白い目で見られる状況ですから。気をつけなければ。 光照院の江戸時代のお話しの続きです。 前回紹介した八世・大規尊杲宮(こちら)によって中興されますが、西陣、天明の大火で火災に遭い、再建を繰り返します。十世・大猷尊乗宮(だいゆうそんじょうのみや)は、桜町天皇の御殿の建材を、桃園天皇から寄進され復興します。また寛政元年(1789)に、光格天皇より多額の寄進を受け、大修理・再建がなされ、寺観が整いました。その際、光格天皇が、書院庭の五葉松に五位の称号を与え、松の葉は常に緑ですから、「常磐御所」の名前を与えました。光照院は「旧常磐御所 光照院」とも呼ばれていています。 大猷尊乗宮は114代中御門天皇の皇女で亀宮とも呼ばれました。地蔵菩薩を篤く信仰し、霊夢に感得し、仏師に地蔵菩薩像を彫らせました。その半迦地蔵菩薩像が本堂に安置されています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/28
コメント(0)

【2020年2月27日(木)】 事務所勤務でした。 東洞院通沿いの風景シリーズです。姉小路東入ル南側に「万華鏡ミュージアム」があります。 前回、高倉院趾に建てられた教育施設『京都市教育相談総合センター』を紹介しましたが(こちら)、その展示スペースを利用して、平成16年6月に開館しました。万華鏡作品を約250点所蔵しています開館日 毎週火?日曜日、祝日開館時間 10:00?18:00(最終入館 17:30)休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日閉館)、年末年始料金:入館料 大人 500円(税込) 高校生 300円(税込) 小・中学生 200円(税込) 幼児 無料 入ったことはありません。京都万華鏡ミュージアム帰ってからメールを開くと、3月10日のゴルフラウンド、3月23日~24日のゴルフ旅行のキャンセルの連絡が幹事さんから入っていました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/27
コメント(0)

【2020年2月25日(火)】 「京の冬の旅」光照院でした。京都の最低気温8.3度、最高気温11.2度と決して寒くはなかったのですが、昨日の最高気温から比べると、4度くらい低かったので、途中から足にカイロを貼り、コートも着ました。3連休が終わり、新型肺炎の影響もあり、寂しい一日でしたが、雨も天気予報通り、降らずにもってくれました。 光照院のご案内の続きです。江戸時代のなかでの、より詳しいご案内です。 江戸時代の中期、開山の自本覚公の事績を顕彰することに情熱を注いだのが、八世の大規尊杲宮(だいきそんごうのみや)です。後水尾天皇の嫡子後西天皇の第14皇女で、幼名を寿宮(ひさのみや)といいます。円照寺(山村御所・奈良)で、喝食(注1)、尊慶尼として、1686年(貞享3年)光照院の住持に。相国寺の禅師別宗のもとで修業し、四宗の中でも特に禅を深め、禅の古典や漢詩の創作も行いました。また朝鮮通信使来日の際には、加番接半僧(注2)として随行し江戸まで行きました。自本覚公の伝記を書き、彫像も造立しました。光照院の中興の祖ともいわれます。大規尊杲宮造立の自本覚公像が本堂に安置されています。 (注1)「かつじき」「かしき」ともいう。喝とは「称える」の意。禅林で食事時に修行僧へ食事などを知らせることをいう。 またそれにたずさわった稚児の別称。(注2)加番とは警備、接半とは接待。光照院 表門から常磐会館を望むよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/25
コメント(0)

【2020年2月24日(月・祝)】 「京の冬の旅」光照院16日目でした。京都の最低気温7.8度、最高気温15.1度で春のような良いお天気の一日でした。新型肺炎の影響下ではありますが、3連休の最終日で、昨日に続き、多くの拝観者でした。 光照院のご案内の続きです。前回はお休みしているので、前々回からの続きです。 前々回は、江戸時代初めに、後陽成天皇の皇女が入寺すし、以降は代々皇女(内親王)が入寺し、尼門跡となり、江戸時代後期まで続いたというお話しを申し上げました(こちら)。江戸時代の天皇の系図は下の図のようになっています。江戸時代天皇系図このうち赤字の天皇の皇女が光照院に住持しました。三世 松山尊栄宮 107代 後陽成天皇皇女四世 心月尊蓮宮 同上五世 崇山尊清宮 同上六世 瑞慶尊賀宮 108代 後水尾天皇皇女七世 雲山尊玉宮 111代 後西天皇皇女八世 大規尊杲宮 同上(寿宮)九世 大舟尊梁宮 112代 霊元天皇皇女十世 大猷尊乗宮 114代 中御門天皇皇女(亀宮)十一世 無上覚院宮 119代 光格天皇皇女十二世 明鏡心院宮 120代 仁孝天皇皇女 以降は、無住のま万里小路皎堂尼が留守を守られました。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/24
コメント(0)

【2020年2月23日(日)】 「京の冬の旅」光照院15日目でした。朝少し寒かったですが、京都の最高気温11.3度と、まあまあ暖かかったです。3連休の中日ということで、多くの拝観者でしたが、新型肺炎がなかったら、もっともっと多かったでしょう。定期観光バスも2台でした。 昨日、大学研究室の同窓会で久しぶりに会ったF君夫妻が来てくださいました。奥様といっしょに1泊で東京から来られていて、同窓会のあった昨日は、奥様一人で、「京の冬の旅」妙心寺を巡られて、今日はご主人F君といっしょに回られるということでした。それならばいうことで、今日は光照院に来ていただきました。すでに三時知恩寺を訪問され、奥様は昨日の分も含めすでにスタンプラリー3個たまっていましたが、F君がまだ2個だったので、近くの宝鏡寺を拝観して3個にして、近くの俵屋吉富さんで、お抹茶とお菓子を召し上がりくださいとお薦めしてお別れしました。 今日は、私自身ご朱印をいただきました。ご朱印帳がいっぱいになっていて、今までお願いできていなかったのですが、先日新しいご朱印帳を買い求めましたし、今日はご住職がいらっしゃるとのことで、今日お願いしました。色んな種類のご朱印があるのですが、ご本尊の釈迦如来のご朱印をお願いしました。400円ですが、毘沙門天のお書き置きのご朱印も付けてくださっていました。釈迦如来のご朱印は金字でした。本尊釈迦如来(金字) 毘沙門天 光照院は常磐会館修繕のご寄進を募っていて、返礼品として以前紹介した光照院オリジナルの本堂が飛び出すご朱印帳(飛び出す絵本の方式)が授与されています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/23
コメント(0)

【2020年2月22日(土)】 出身大学研究室の同窓会が都ホテル京都八条であり、出席するために京都駅を通ったら、たまたま「大階段駆け上がり大会」をしていました。京都の冬の風物詩の一つです。ニュースなどでその存在は知っていましたが、今まで見たことがなかったし、同窓会まで時間があったので、ちょっとだけ寄って写真に収めました。 あとでHPで調べてみました。80チーム・320人が、高低差30メートル171段の大階段を駈け上がります。1チーム4人で、第1走者 : 45歳以上、第2走者、18歳以上の女性、第3・4走者、18歳以上という条件のチーム編成が必要で、エントリー費は1チーム 4,000円とのこと。 雨が降っていたので、滑り易く、選手が走ったあと、係の人がモップで水拭きをしていました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/22
コメント(0)

【2020年2月21日(金)】 事務所勤務でした。新型インフルの影響が出始めています。 通勤途上の東洞院通沿い風景シリーズです。 室町姉小路を下がった東側に石碑が2つ建っています。高倉宮趾碑と明治天皇行幸所上京第廿九組小学(以下埋没)碑 一つは「高倉宮趾」と刻まれています。高倉宮は、平安京左京三条四坊四町にあった後白河天皇の皇子以仁王(1151~80)の御所です。高倉小路に面していたため高倉宮と呼ばれました。以仁王は高倉天皇の兄宮で、治承4年(1180)源頼政と謀り、諸国の源氏に平家追討の令旨を下すも露見してしまいます。頼政とともに兵を挙げましたが、戦死をします。高倉宮は、この「以仁王の変」の際、平氏追討の令旨を諸源氏に下した所です。 その後、室町時代には「曇華院(どんげいん)」となりました。「曇華院」は、明治4年(1871)に嵯峨に移り、明治26年(1893)年に「上京第二十九番組小学校」がこの地に移転します。その後、「初音尋常小学校」、「初音国民学校」と引き継がれ、戦後は「初音中学校」となりました。その「初音中学校」も少子化で平成5年(1993)に閉鎖され、現在は「京都市教育相談総合センター」となっています。「初音」は「曇華院」の境内に「初音の森」という森があったことに由来しています。現在でもこの地は「曇華院前町」という町名として残っています。 明治10年(1877)、明治天皇の関西行幸が行われましたが、この行幸は西南戦争勃発のため長期化し、京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。5月に下京十八組(修徳)小学校、6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校で授業を視察しました。「高倉宮趾」の碑の隣に、「明治天皇行幸所上京第廿九組小学(以下埋没で読めません)」の碑が建ち、それを示していますが、明治天皇の行幸は明治10年、学校が現在地に移築されてきたのは、明治26年ですから、明治天皇が行幸したのは、移築前の場所ということになりそうです。初音校の歴史を刻んだ碑碑の後ろは京都市教育相談総合センター京都市教育相談総合センター正面よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/21
コメント(0)

【2020年2月20日(木)】 午前中、3月14日のオーイ会昼の部の木屋町通沿い及び河原町界隈の幕末維新史跡案内の3回目の下見をした後(こちら)、京大近くの懐かしい「ハイライト食堂」で昼食をとり(こちら)、午後から、フィールドワーク「吉田神社~唯一神道の大元宮を探る」を受講しました。一の鳥居→今宮社→本宮(本殿)→神楽岡社→若宮社→神龍社→菓祖神社→山蔭神社→大元宮→三社社→竹中稲荷神社→親長谷寺(真如堂内)と歩きました。 再認識したこと、新たに知ったこと、印象に残ったことです。【概要】・吉田神社は、859年、平安時代前期の公卿藤原山蔭が、奈良の春日大社の四神を勧請し、平安京の守護神として、都城の東北(鬼門)比叡山とともに王城鎮護と崇められる吉田山に創建されたのが始まり。藤原山蔭の屋敷は京大吉田南キャンパスがある辺りにあった。・藤原詮子(東三条院)が一条天皇の母となるに至って、藤原氏全体の社となった。・平城京の春日社、長岡京の大原野社と並び藤原家氏神のひとつ。・神職吉田兼倶が、吉田神道を創設して、神道を統合しようとし、全国の神社を支配し、神位・神職の位階を授与するほど権威を持ち、明治までは、日本神道界の絶大なる権威を保持した。・吉田山は神楽岡(神が集いし岡)とも称され、「天照大神が岩戸にお隠れになり、諸神が神楽を奏した場所が如意ヶ嶽となり、その後、事勝神と賀茂御祖神が神代の楽を奏した場所が神楽岡となった」と吉田神社では言い伝えられている。・「鬼」がいるとされる方角、つまり「鬼門」は「北東」。「北東」は「丑(うし)」と「寅(とら)」の間。 それで、「鬼」とは「牛の角を持ち、虎の毛皮をまとっている」と考えられるようになった。【末社 今宮社】・吉田町の産土神(うぶすながみ)として崇敬された。・四神が境内に配されている。東南角にとぐろを巻く青龍石、西南角に縞模様の白虎石、西北角に玄武(亀)石、東北角にあるはずの朱雀石は内陣にあるという。【本殿】・吉田神社の神紋「さがりふじ」が見られる。・奈良の春日大社を勧請したので、その春日社を模して建てられた。春日大社と同じ藤原氏氏神の四神が祀られる。四棟が建つ。春日造、一間社、檜皮葺。春日造は一殿一神。・舞殿は2月の節分追儺式の舞台である。鬼の色には意味があり、仏教の「五蓋(ごがい)」という言葉に由来する。「五蓋」というのは、仏教の瞑想修行を邪魔する5つの煩悩の総称で、「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「掉挙(じょうこ)・悪作(おさ)」「惛沈(こんちん)・睡眠(すいみん)」「疑(ぎ)」。この5つの煩悩がそれじれ赤鬼・青鬼・黄鬼・緑鬼・黒鬼に当てはめらる。・鬼門は東北で丑寅の方向。鬼が角を生やし、虎柄のパンツを履いているのは、牛(丑)と虎(寅)に由来する。・節分祭の疫神祭(えきじんさい)は大元宮で行われるが、疫神(=災いをもたらす神)に「荒ぶる事なく山川の清き地に鎮まります」事を祈り奉るために、門外に向かって祭事が斎行される。・中門と本殿が一直線になっていないのは、帰る際に本殿にお尻を完全に本殿の方に向けないため。【末社 神龍社(かみたつしゃ)】・吉田兼倶を祀る。人を死後神として祀った初例。【末社 菓祖神社】・菓子の始祖を祀る。昭和32年に京都菓子業会により祀られた。祭神は田道間守の命(たじまもりのみこと)と林浄印命(りんじょういんのみこと) 前者は常世(とこよ)の国(海の彼方にあるとされる異世界)から「橘の実」をもってきた神。後者は饅頭の始祖。室町時代、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」を、肉食が許されない日本の僧侶のために、小豆を煮詰め、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸しあげた。これが饅頭として広まった。【末社 山蔭神社】・包丁の神、料理・飲食の神「藤原山蔭」を祀る。昭和32年創建。藤原山蔭は清和天皇の勅命により包丁式(料理作法)の新式を定めたといわれる。朝廷の料理は宮内省に属する内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたのだと考えられる。山蔭は「日本料理中興の祖」とされる。山蔭の流派は四条流。その他生間(いかま)流、進士(しんし)流、大草流などがある。【末社 斉場所大元宮】・重要文化財指定。・祭神は、天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)。全国の神々を祀る。神の数、3,132体(延喜式式内社全部)。66国。・室町時代、日野富子の莫大な寄進で建てられた。・他に伊勢二宮の東神明社(内宮)に天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、西神明社(外宮)の豊受比売神(とようけひめのかみ)を祀る。 ・ここに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があるとされた。・本殿は、平面八角形の円堂に六角の後房を付す。正面に向拝がある。入母屋造、茅葺。屋根に千木、中央に露盤宝珠、前後に堅魚木(かつおぎ)を置く。朱色の漆塗り千木は、南が千木の先端を地面に対して平行に切った内削ぎ(うちそぎ)、北が垂直に切った外削ぎ(そとそぎ)。堅魚木は、南が丸3個ずつを重ねたものが3個、北が横に角2個並列したものが2組の合計5つが置かれている。八角の殿堂とともに、これらの組み合わせは、奇数と偶数を用いており、道教、陰陽道の影響ともいう。陽(奇数)は男神、陰(偶数)は女神ともいう。神仏習合の象徴ともいう。・後房には、丸に一の神紋が掲げられている。○は心の表象、一は心棒を表すものという。吉田神道の唯一神道、宇宙一貫を表す。・かつては天皇守護の八神を祀る八神殿(はっしんでん)があったが、現在は皇居の神殿(宮中三殿の1つ)に合祀されている。・かつては楼門があったが、明治維新でなくなった。山蔭が邸宅を構えた吉田山に新長谷寺を建立。明治維新後、神仏分離でで真如堂内へ移転。右脇侍が難陀龍王、左脇侍が雨宝童子。【境外末社 竹中稲荷神社】・参道には鳥居寄進が多く、かつては隙間なく鳥居があったことから、参道は「傘いらず」とも呼ばれていた。【新長谷寺】・藤原山蔭が開祖。本尊は十一面観音。山蔭の信仰厚い奈良長谷寺十一面観音菩を模刻造像。 本殿、大元宮では、神職の方に説明いただき、特に普通は入れない「大元宮」の中に入れていただいたのは感激でした。よろしかったらぽちっとお願いします。 にほんブログ村
2020/02/20
コメント(0)

【2020年2月20日(木)】 3月14日のオーイ会昼の部の木屋町通沿い・河原町界隈の幕末維新史跡案内の下見をした後(こちら)、吉田神社でのフィールドワーク講習に参加するため、歩いて移動したのですが、折角なので、なつかしいところで昼食をとろうと思い、京大中央キャンパスの北、百萬遍交差点の東、今出川通沿いの「ハイライト食堂」に行きました。 恐らく大学卒業以来になるので、40年強ぶりということになります。百萬遍交差点にあった中華料理の「百万石」は無くなったしまったようですが、この「ハイライト食堂」や「太陽軒」、喫茶店「進々堂」は健在です。 お昼前は、まず2階から埋めていくようで、2階のカウンターに座って、トンカツ定食(770円)をオーダーしました。サクサクのトンカツが懐かしかったです。 名物はジャンボチキンカツ(660円)のようで、あとから来て私の隣に座った方がオーダーしていました。ただライスは小ライスを頼んでいました。その理由が分かりました。チキンカツのボリュームが半端じゃなかったです。名物だと云われるだけあります。話しのネタに、これをオーダーすればよかったと少々後悔。 タクシー運転手さんが、男子ばかりのい修学旅行生を連れてきていました。この近くには有名な観光スポットはないので、我々のように公共の交通機関で修学旅行を案内する場合は、ここを昼食処に使うことはほとんどないでしょうが、タクシーなら移動途中で簡単に寄れるので、タクシー移動の場合はよく使うのでしょう。 我々の場合でも、昼食時間帯に百萬遍で乗り換え、かつ、がっつり食べたいという生徒さんの場合は、ここはいいでしょう。 お腹もいっぱいになったところで、久しぶりに京都大学の中をブラブラした後、フィールドワーク講習参加のため吉田神社一の鳥居に向かいました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/20
コメント(0)

【2020年2月20日(木)】 吉田神社を巡るフィールドワーク受講が午後からあるので、午前中の時間を利用して、3月14日のオーイ会昼の部、木屋町通沿い及び河原町界隈の幕末維新史跡案内の下見をしました。空き時間を利用しての下見をしてきて、今回で3回目になります。 幕末維新史跡以外も巡る予定なので、今日は、過去行けていなかった下記などを掛け足で巡りました。安養寺→誓願寺→前田又吉翁・伊藤博文公像→島津製作所創業地→善導寺→舎密局跡→木戸孝允旧邸→法雲寺→革堂→下御霊神社→横井小楠殉節地碑善導寺の釈迦三尊石仏 釈迦石仏は清涼寺の釈迦如来立像を模したもの下御霊神社の梅がキレイでした 京大方面に徒歩で向かい、なつかしいハイライト食堂で昼食をとった後(こちら)、吉田神社の講習会に参加しました(こちら)。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/20
コメント(0)

【2020年2月19日(水)】 今日は4日しかに、2月の完全OFF日のうちの一つ。年初から手間がかかるけど、やらねばならぬことが目白押しです。光照院準備、某支シニア講座フィールドワーク準備、ほろ酔いコンサート準備、本能寺・二条城同行ガイド準備、ここまでは何とかこなしてきました。 これから次ぎのような、ルーティーン外事項をこなしていかねばなりません。・上席特別客員研究員の年度研究成果報告書・次年度研究計画書(締切3月5日)・第6回西京会案内準備(本番3月6日)・櫻谷文庫準備(初日3月8日)・次回オーイ会案内準備(本番3月14日)・確定申告(最終日3月16日)・花山天文台準備(初日4月4日)・第7回西京会案内準備(本番5月11日)・京カレッジレジュメ・発表資料準備(本番5月16日) 一つ一つ地道にこなしていくしかありません。今日は、丸一日かけて、最初の年度研究成果報告書と次年度研究計画書を作成し、事務局に送付しました。私の研究テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」です。ずっとこのテーマに沿った研究を求められます。今年度の計画書では、「お滝」の研究を続けることにしていましたが、某シニア講座で、フィールドワーク「あなたの知らない伏見稲荷大社」の企画・運営を主担当し、そのなかで「お滝」以外にも、数多くの不思議スポットを研究してきました。そこで、これを成果としてとらえ研究成果報告書を作成しました。今年度は稲荷山麓エリアに限定した不思議スポットの研究でしたが、次年度の研究では、それを伏見稲荷境内全域、稲荷山エリア全域に拡げることにし、研究計画としました。今年度研究成果報告書次年度研究計画書 初年度にアドバイザーを務めていただいたM先生には、成果物であるレジュメも送付しました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/19
コメント(0)

【2020年2月18日(火)】 本能寺・二条城の案内の後(こちら)、津軽三味線のレッスンまで時間があったので、3月14日のオーイ会での木屋町通沿い、河原町界隈幕末維新史跡案内の下見をしました。2月12日の下見(こちら)の続きです。 今日は、四条通、裏寺町通、河原町通を中心に歩きました。「幕末維新史跡」というテーマですが、それ以外のところも巡ります。今日は、幕末維新関係は、「近江屋跡」くらいで、お寺中心の確認でした。途中、新京極の「井和井」で、ご朱印帳を買い求めました。四条堺町東南角の鍋島藩屋敷跡 今回も、二条通より北は回りきれなかったので、次の機会に全部回るり切ります。 津軽三味線のレッスンに向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/18
コメント(0)

【2020年2月18日(火)】 累計で20回目、今年最初の同行ガイドでした。 本能寺と二条城を2時間でご案内するというコースです。社員旅行のご案内でした。二条城は定番なので、何の準備も要りません。しかし、本能寺は修学旅行で、たまに訪れる程度です。さらに、今まで一度も入ったことのない宝物館も入られるとのことで、事前に下見に行きました(こちら)。それから、「がんこ二条苑」で昼食をされた後、お迎えをして本能寺に徒歩で移動されるとのことなので、そのルート上の幕末維新史跡や本能寺の「紙芝居」を、今日の午前中に補強しました。色々と多忙で、その日暮らしの感がありますが、何とか間に合わせることができました。 お客様は17人ですので、ガイドは私ひとりだけ。今朝バスで出発されて、途中バスガイドさんから連絡をいただき、10分遅れで、「がんこ二条苑」前で待ち合わせ。徒歩で本能寺へ。境内・信長廟所は、お連れしてご案内しましたが、宝物館は外で概要を説明し、皆さんに自由にご覧いただきました。本能寺宝物館 本能寺拝観後、バスに迎えに来てもらって二条城へ。バスの中でお客様から、「前に行った班は、火曜日で二条城に入れなかったんですよね。」と言われて一瞬ドキリとしましたが、開いていてホッとしました。帰宅後調べたら、火曜日休みなのは、1月、7月、8月、12月でした。 新型肺炎の影響で、二条城はガラガラ。こんな二条城は初めてです。時間の関係で二の丸御殿と二の丸庭園のみのご案内となりました。最後バス内で挨拶させていただいた後は、大きな拍手をいただきました。お天気も崩れることなく、寒さも思ったほどではなくて、皆さんされなりに楽しんでいただいたと思います。ガラガラの二条城 夕刻、津軽三味線のレッスンがあるので、教室に三味線を預けた後、このガイドをしたのですが、ガイド終了後、レッスンまで時間があったので、3月14日のオーイ会・幕末維新史跡の案内箇所のうち下見ができていなかった処の一部を下見したうえ、レッスンに向かいました。→こちらよろしかったらぽちっとお願いします。 にほんブログ村
2020/02/18
コメント(0)

【2020年2月17日(月)】 今日は私の65回目の誕生日。フルの年金がいただける年齢になりました。事務所勤務でした。 通勤途上の東洞院通沿い風景シリーズです。 前回、悪王子社について記載しました(こちら)。そのとき、ネットで色々調べたのですが、現在悪王子社の社がある場所は、跡地からかなり南に行ったところで、跡地はもっと北の四条東洞院下ルにあって、そこに石碑が建っているということが分かりました。今日の通勤途上確認しましたが、確かに四条東洞院下ル西側に石碑が建っていました。電柱の陰に隠れて今まで気が付かなかったようです。悪王子神社跡地の石碑よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/17
コメント(0)

【2020年2月16日(日)】 光照院(こちら)の後、普通は真っすぐ帰宅するのですが、今日は、特別な事情で寄り道をしました。 私の「がん」闘病記をご覧になった「がん」闘病中の方が、私に会って色々話しを聞きたいということで、コンタクトしてきてくださって、今日お会いすることになっていたからです。隣県からご夫妻で車でお越しくださいました。Sさんとしておきます。京都マラソンが行われていて、渋滞が懸念されたので。早目に出てこられたそうで、私の到着まで1時間以上待ってくださいました。 その方も私と同じがん種「軟部肉腫」で、粒子線治療を経験されました。まだ治療が終わったばかりですが、治療の副作用と思われる痛みと闘っておられるところです。私は医者ではないので、私の経験談を1時間強お話し申し上げただけですが、何らかの形でお役に立てたとしたら、嬉しいかぎりです。 思えば、闘病中だけでなく経過観察に入ってからも、私自身の闘病記、新聞などに掲載された「がん」闘病記をこのブログにたくさん掲載してきました。これは自分自身のための記録であると同時に、「がん」と向き合っている方々に何か少しでも役に立つ情報をという気持ちで投稿してきたものです。ただ正直役に立っているかどうか分かりませんでした。でもこうやって私のブログを読んで励みになったという方が現実にいらっしゃるということが分かりました。ほとんどは一方通行ですが、きっと他にも役に立っているのだろうなと思い、苦労が報われた気持ちがしています。 「脂肪肉腫」が希少癌であること、同じ医療機関で粒子線治療を受けたこと、その医療機関で診ていただいた先生も同じであること、私が入院したとき同室だった方が、再治療を受けられ、そのときSさんも知り合われたことなどなど、偶然に偶然が重なって、何か運命的なものも感じます。私も元気をいただきました。そして何ができるわけではありませんが、これからもお力になれればと思う次第です。兵庫県粒子線医療センターよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2020/02/16
コメント(0)

【2020年2月16日(日)】 「京の冬の旅」光照院でした。雨の一日でしたが、京都の最低気温9.5度、最高気温14.2度と暖かい一日になりました。 光照院の中門を入ったところに立派な桜の古木があり、本堂、書院への参道に覆い被さるように枝が張り出しています。雨の日は傘が枝に当たってしまうので、結界のチェーンが置かれました。 私が作った資料に間違いがあるのが分かりました。「常磐御所」と書くべきところを「常盤御所」と書いていました。両方とも「ときわ」と読むし、両方とも永久不変という意味があるのですが、光照院の別称は「常磐御所」が正しいのです。 さて、前回、応仁の乱で、持明院殿も光照院も焼け、乱が終わる頃、後土御門天皇によって自本覚公が誕生した持明院殿の土地が光照院に下賜され、そこに光照院が再建されたことをお話ししました(こちら)。 開山の自本覚公、二世の月山円公(後花園天皇皇女)の後は、足利将軍家や近衛家の息女が入寺し住持しましたが、江戸時代初めに、後陽成天皇の皇女が入寺すると、以降は代々皇女(内親王)が入寺し、尼門跡となり、江戸時代後期まで続きます。後土御門天皇から後陽成天皇に至る系図 続きます。 光照院勤務後、ある方にお会いするため堀川五条のロイヤルホストに立ち寄りました。→こちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/16
コメント(0)

【2020年2月14日(金)】 事務所勤務でした。あまり良い日ではありませんでした。 通勤途上の東洞院通沿い風景シリーズです。 東洞院綾小路上ル西側に小さなお社「悪王子社」があります。小さなお社ですが、駒札にあるように祇園祭とも関わりのある由緒ある神社です。この辺りを元悪王子町と呼びますが、烏丸万寿寺には悪王子町があります。その経緯も駒札には書かれています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/14
コメント(0)

【2020年2月13日(木)】 「京の冬の旅」光照院でした。京都の最低気温9.2度、最高気温21.3度と、天気もよく、非常に暖かい一日でした。このまま暖かくなってくれるとありがたいです。 前回は自本覚公が延文元年(1356)、光照院を室町一条の北に創建したところまでお話しました。 光照院の二世は102代後花園天皇の皇女、月山円公宮でしたが、以降は、足利将軍家、近衛家の息女が住持し、比丘尼御所となりました。14世紀後半から上流階層とつながりを持つ尼寺は比丘尼御所と呼ばれました。住持となるのは、皇族ないし将軍家(足利家)に限られていました。娘が格式のある尼寺の住持となることは、その家にとっても名誉なことでした。足利家の息女たちは、尼寺で目立った存在で、足利義満の10人のうち、7人が尼寺に入っています。 やがて光照院は、応仁、文明の乱(1467-1478)で焼けてしまいます。持明院殿も焼けてしまいます。そして、乱が終わる頃、後土御門天皇により、自本覚公誕生の地、持明院殿跡が下賜され、そこに1475年光照院が再建されました。 続きます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/13
コメント(0)

【2020年2月12日(水)】 運転免許更新後、一旦自宅に戻り、ガイドの下見と、月例会出席のため、再び京都の町なかに外出しました。 2月18日に、本能寺・二条城の同行ガイドをすることになりました。また、3月14日には、オーイ会メンバーのプライベートガイドで、木屋町・河原町界隈の幕末・明治維新史跡を案内します。二条城は過去同行ガイドやボランティアガイド養成講座で案内したことがあるので、下見は不要です。本能寺は修学旅行で何度か案内したことがありますが、一般の同行ガイドは初めてです。木屋町・河原町界隈の幕末・明治維新史跡のガイドも初めてです。2月18日までで、下見できるのは今日くらいしかありませんので、今日、下見することにしました。 まず、阪急河原町駅から木屋町沿いに北上し、御池通まで、幕末・明治維新史跡を中心に、場所の確認をしながら、駒札を撮影しました。次いで本能寺へ。2月18日のガイドでは本能寺の宝物館にも入ることになっています。宝物館は恐らく過去入ったことがなかったと思います。ダメ元で、窓口でガイド申込書を見せて、「この下見に来ました。入れていただけますか?」と尋ねたところ、受付の方が「いいですよ。」と無料で入れてくださいました。本能寺表門 本能寺を見終わった後、予定どおり、修学旅行ガイドの関係で旅行社の担当者に電話して、離別方法打合せし、その結果に基づき、戻り道になりますが、京阪三条駅、四条駅を視察しました。その後、木屋町通沿いの幕末・明治維新史跡は、二条通まで確認し、月例会に向かいました。幕末・明治維新史跡関係は、今日、全体の3分の2は下見できました。よろしかったらぽちっとお願いいたします。にほんブログ村
2020/02/12
コメント(0)

【2020年2月11日(火・祝日)】 「京の冬の旅」光照院でした。京都の最高気温は10.4度と10度は超えて、風も強くなく、よく晴れて日向にいると気持ちよかったです。室内もコートは不要なくらいでしたが、足元はカイロを入れていたものの冷えたようで、帰宅後、指先の血行が悪くて霜焼けの前兆のような症状がありました。レッグウォーマを忘れたせいかもしれません。昨日は事務所勤務でしたが、帰宅途中、街の写真を撮るのにカメラの操作がよく分からなくて、結構長い時間路上に立ち止まっていたためか、同じような症状になりました。暖冬だからと油断していると、2016年~2017年のシーズンのように霜焼けに苦しめられることになるかもしれません。万全の注意を払わねばなりません。 土日に拝観される方が、新型肺炎の影響で減っているのではないかと以前書きましたが、今日は飛び石連休の最終日ということのためか、いつもの土日のように多くの方が拝観されたように思います。楽しく過ごさせていただきました。 過去2回、南北朝の兆しから、その終わりまでの歴史について書いてきました。今日は再び本題の光照院の歴史に戻ります。以前、投稿した内容と重複する部分が多いですが。 持明院統の初代である第89代・後深草天皇の孫が第93代・後伏見天皇です。その皇女として、進子内親王(「しんし」「ますこ」・1335~1412)が、持明院殿で誕生します。内親王誕生の翌年の延元元年(建武3年)に後伏見上皇が亡くなり、その後、兄君は光厳天皇、光明天皇(それぞれ北朝初代、北朝2代)として擁立されます。南北朝の争乱の世を憂えた内親王は幼少の頃から仏門に帰依することを決意し、10歳になるまでの数年を播磨路の各地の仏刹で修行されます。そして、延文元年(1356)泉涌寺の無人如同和尚のもとで、22歳のときに得度し自本覚公と称し、室町一条の北に、光照院を創建します。33歳のときには、四宗の奥義を極め、律を基本に天台・真言・禅・浄土四宗兼学の寺院としました。 続きます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/11
コメント(0)

【2020年2月10日(月)】 事務所勤務でした。 通勤途上の東洞院通沿いの風景シリーズです。 東洞院仏光寺上ルに「くみひも芳厳」という「京くみひも」のお店があります。ぱっと見、廃業されたような雰囲気もあります。ネットで調べてみました。 正式には「大林岩次郎商店」で、店主は大林芳雄さん。昭和5年生まれ(ですから89歳)、昭和23年から、「くみひも」の仕事に就いておられますが、体調を崩され今は制作をされておらず、京都の伝統を感じとってもらえるよう、これまで作った「くみひも」の一部を店先に展示しておられます。 「くみひも芳厳」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/10
コメント(0)

【2020年2月9日(日)】 祇園にある漢字ミュージアムに午後から二人で行ってきました。漢字ミュージアムは財団法人日本漢字能力検定協会により2016年に京都市立弥栄小学校の跡地に開設されました。修学旅行ガイドで、祇園祭の鉾の原寸大モデルや土産屋のある無料エリアに入ったことは何度かありますが、ミュージアムの有料エリアには入ったことはありませんでした。文化財でもなんでもない「漢字」を観るのに、大人入場料800円を払う気にはなれなかったらからですが、今回、招待券をいただいたので、行ってみようという気になったという次第です。いくら招待券をいただいても、それだけのために京都市中に出る気にはならないのですが、2月は家内の誕生日、私の誕生日、バレンタインデー、結婚記念日と、記念日が集中しているので、そのお祝いを兼ねての夕食をセットにして出掛けました。雪がちらほら降っていました。 漢字ミュージアムでは、「今年の漢字特別展」を開催中でした。毎年清水寺で森清範貫主が書く大きな漢字が展示されていました。毎年この季節にあるのでしょう。1995年 震 1996年 食 1997年 倒 1998年 毒 1999年 末 2000年 金2001年 戦 2002年 帰 2003年 虎 2004年 災 2005年 愛 2006年 命2007年 偽 2008年 変 2009年 新 2010年 暑 2011年 絆 2012年 金2013年 輪 2014年 税 2015年 安 2016年 金 2017年 北 2018年 災2019年 令 ちょうど去年の漢字「令」を観ていたとき、それに使われている黒谷和紙を漉いたという男性(大学生か高校生)とそのお母様が観に来ておられ、「この子がこの紙漉きました。」と話しかけてこられました。毎年黒谷和紙ではなく、越前和紙とかと交替だそうです。 漢字の歴史、漢字を書く道具の展示を観たり、自分の名前のひらがなやカタカナの元になった漢字をスタンプで押したりとか、なかなか面白くはありました。ただ自分で800円払って入ったとすると、「うーん」という感じです。 午後4時半頃、漢字ミュージアムをあとにして、予約してあった室町高辻下ルの「希味」というお店へ向かいました。⇒こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/09
コメント(0)

【2020年2月8日(土)】 光照院の後(こちら)、夕刻、M社事業部時代の軟式テニス部(今は「ソフトテニス」という)の仲間の飲み会がありました。 場所は京都駅前「鮮や一夜」。四条烏丸の「鮮や一夜」は、使ったことがありますが、ここは初めてです。駅に近い、個室ありの和風居酒屋さんです。 多くの方は1年ぶりの再開ですが、本当に久しぶりに会った方もあって、楽しく過ごさせていただきました。「鮮や一夜」京都駅前店 ホットペッパーグルメからよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/08
コメント(0)

【2020年2月8日(土)】 「京の冬の旅」光照院の11日目でした。京都の最低気温1.8度、最高気温9.2度と、そこそこ寒い一日でしたが。手袋にもカイロを入れましたが、コートは着ずで、スタートしました。でも、午後遅くから多少風も強くなってコートを着ることになりました。ゆったりと楽しくご案内させていただきました。土曜日のわりには、拝観の方は少なかったです。やはり新型肺炎の影響があるように思います。 前回、南北朝の始まりの部分まで書きました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。 後醍醐天皇が京都から吉野に去ると足利尊氏は持明院統の光明(こうみょう)天皇(北朝第2代)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。光明天皇の即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになりますが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされています。 一方、吉野へと逃れた後醍醐天皇は「朝廷に返した三種の神器は偽物である。そのため光明天皇の皇位は正統ではない。」と主張し、延元元年(1336)、吉野で南朝を開きました。こうして北と南、2つの朝廷が誕生することとなりました。 その後、北朝、南朝の間で軍事衝突がたびたび繰り返され、名和長年・新田義貞を始め多くの南朝方の武士が次々と戦死し、また延元4年(1339)に後醍醐天皇が崩御したことにより、北朝が軍事的に優位に立つこととなります。 しかし、室町幕府内では観応の擾乱といった内乱が勃発してしまいます。将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立で、正平6年(1351)に足利尊氏は弟・足利直義の勢力に対抗するため一時的に南朝と和議を結び、後村上天皇から直義追討の綸旨(りんじ)を得て直義を討ち勝利しました。しかし南北朝の内乱はさらに激化していきます。 そして、ついに元中9年(1392)室町幕府3代将軍・足利義満の斡旋により大覚寺統と持明院統の両統迭立、国衙領を大覚寺統の領地とする、といった明徳の和約が定められ、これによって南北朝の合体がなされ、56年間にも及ぶ南北朝時代は終わりを迎えました。 ちょっと横道にそれてしまいました。次回から光照院中心のお話しに戻ります。 夕刻、M社事業部門時代の軟式テニス部の仲間との飲み会があり、京都駅方面に向かいました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/08
コメント(0)

【2020年2月6日(木)】 「京の冬の旅」光照院勤務の10日目でした。朝起きたら、道路の向こうの屋根が真っ白、1センチ以下でしょうが、今シーズン初めて雪を見ました。今年は暖冬で、雪を見ないかもと思っていたので、ついに降ったかという感じです。私の自宅は標高の高いところなので、雪が積もりましたが、京都市内は積もっていませんでした。でも、ほぼ終日雪がチラホラして、ようやく冬という感じの中での光照院でした。この「冬旅」で初めてカイロが必要と感じた日でもありました。本堂前に梅の古木がありますが、薄紅の小さな花を咲かせてキレイです。 新型肺炎でマスクをできるだけ着用するようにとの指示が出て2回目の光照院。今日は拝観者は少なかったです。少し前までは、平日でももっと多かったのですが。もともと中国人の方は全くというほど来ないところなので、中国人旅行客の減少は影響ないのですが、日本人も人混みを避けるでしょうから、日本人旅行客も減少しているのではないかと思います。 また、今日マスクが配布されました。備蓄があったようです。我が家の在庫は底をつきかけ、店も品切れでどうしたものかと困っていたのですが、少なくとも「冬の旅」が終わるまでの枚数は対応できるようです。 前回、南北朝に至る、「両党迭立」について記しました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。 前回記したように、2つの家系から交互に天皇が即位する両統迭立が行われることとなりましたが、持明院統の花園天皇から譲位され徳治3年(1308)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は両統迭立に対し、不満を持っていました。後醍醐天皇は両統迭立を承認する鎌倉幕府を打倒する計画を企てます。しかしこの討幕計画は正中元年(1324)に発覚し、後醍醐天皇の側近・日野資朝らが処分される事態となりました。 後醍醐天皇はその後も討幕計画を企てますが、再び側近の密告によって発覚することなり、元弘元年(1331)後醍醐天皇は天皇即位の際に必要となる三種の神器とともに京都を脱出します。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させます。そして後醍醐天皇は、幕府方に捕らえられ翌年、隠岐島へと流されることなりました。その後、名和長年ら名和一族の助けもあり元弘3年(1333)隠岐島を脱出します。 この頃、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)らが各地で討幕運動を行います。後醍醐天皇は再び、討幕に向け挙兵します。足利尊氏や新田義貞といった武士も後醍醐天皇の討幕に協力することとなり、鎌倉幕府は滅びる結果となりました。 こうして鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら新政を開始します。これを「建武の新政」といいます。しかしその新政は革新的な政策ばかりであったため、公家や武士たちは新政に失望し、後醍醐天皇に代わる次の天皇を求めるようになりました。これと併行して、鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏も後醍醐天皇から離反することとなり、多くの武士たちが後醍醐天皇から離れていくこととなります。 これに対し、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏の討伐を命じ、建武3年(1886)多々良浜の戦い、湊川の戦いが勃発しました。しかし、後醍醐天皇は足利尊氏方に押されることになり、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、京都を脱出し現在の奈良県である吉野へと逃れました。和睦の際、後醍醐天皇は持っていた三種の神器を朝廷に返したとされています。 こうして京都から後醍醐天皇が去ると足利尊氏は建武3年(1336)持明院統の光明天皇(北朝)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。 続きます。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/06
コメント(0)

【2020年2月5日(水)】 事務所勤務でした。通勤途上、東洞院通沿い風景シリーズです。 東洞院竹屋町の東南角の公園に面して「こども未来館」が建ちます。ここは、竹間(ちっかん)小学校、竹間幼稚園が廃校になった跡を利用したもので、公園の西南端には、小学校・幼稚園についての記念碑が置かれています。こども未来館竹間小学校・竹間幼稚園記念碑石碑記載の情報も含め、要点をピックアップします。・竹間小学校は明治2年、上京第二十一番組小学校として創設・昭和22年 京都市立竹間小学校に・平成5年 京都市立富有(ふゆう)小学校と統合し、京都市立竹間富有小学校に・平成7年に梅屋・龍池・春日小学校と共に統合し、富有小学校の地に御所南小学校ができた。 ・竹間幼稚園は 明治18年竹間小学校に幼児保育科として創設された。・明治42年に廃止となったが、昭和30年に再開園した。・平成8年京都市立中京もえぎ幼稚園に統合された。 公園は恐らく小学校のグラウンドだったのでしょう。 この石碑は東洞院通からよく見えるので知っていたのですが、そのそばに昔からの石碑があるのに、今日気が付きました。「名醫 吉益東」までは読めますが、その下が草に隠れて読めませんでした。帰宅してから調べました。「名醫 吉益東洞宅蹟」と彫られているようです。吉益東洞宅蹟碑 以下は、京都市の「いしぶみデータベース」からです。 『吉益東洞(とうどう)((1702~73)は,安芸出身で元文3(1738)年京都に移り,古医方をもって医者となった。不遇であったが,解剖をして有名になった山脇東洋(1705~62)に見出された。その学説は,万病一毒説と親試実験にあって,実験医学の道を切り開いた。この石標は,吉益東洞宅の跡地を示すものである。なお,東洞の号は東洞院通に面して住していたことに因む。』よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/05
コメント(0)

【2020年2月4日(火)】 今日は公私OFFでした。この記事を書くために、過去分も含めガイド件数の統計をするのに思った以上の時間がかかりました。 2019年の振り返りの続きです。今までもガイド関係の件数の統計はとっていましたが、項目を少し変えてとり直してみました。 2017年から年間通してガイドの仕事をするようになりましたが、その3年間の合計件数は、'17:198⇒'18:201⇒'19:211 となっており、合計は大きく変わっていませんが、2018年度から2019年度で、10件増えています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=12
2020/02/04
コメント(0)

【2020年2月3日(月)】 事務所通勤途上の東洞院通沿い風景シリーズです。 三条東洞院北西角に「教諭所跡」という駒札と、「京都・電信・電話発祥の地」という石碑があります。前回は、「教諭所跡」を紹介しました(こちら)。今回は「京都 電信・電話発祥の地」です。 明治5年(1872)明治政府は、郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手しました。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置しました。電話は明治10年(1877)に輸入され、同21年(1888)官営の方針を決定し、同23年公衆電話事業が始まりました。同29年(1896)京都電話交換局が設置され、翌30年5月に交換業務を開始しました。(「フィールドミュージアム京都」http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/index.htmlから)東洞院三条北西角 NTT西日本京都支店「京都・電信・電話発祥の地」の碑(交差点北西角) その向こう側に写っているのは、「京都電話百年記念」のモニュメントです。1997年に造られてタイムカプセルが埋められ、20年後の2017年5月27日(土)に記念式典を行い開封したそうですが、中に何が入っているかは情報がありません。(「ガイドブックに載らない京都」https://www.kyoto-inf.com/から)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/03
コメント(0)

【2020年2月2日(日)】 「京の冬の旅」光照院の9日目でした。今朝は晴れていたので、京都の最低気温1.8度と、そこそこ冷え込みましたが、最高気温は11.7度と10度を超え、暖かかったです。日曜日なので、拝観者は多かったですが、もっと多くてもおかしくなく、新型肺炎の影響で、日本人も旅行を控えているのかもしれません。 蛇足ですが、今日の日付は数字の配置が面白い。令和でいくと、020202、西暦でも 20200202です。 何故、持明院仙洞御所の場所に、光照院が現在建っているかについての説明に入っていきますが、その時代は南北朝です。光照院のお話しはあとでするとして、ここしばらくは、ちょっと横道にそれて、何故天皇が並立する、南北朝に至ったかということについて説明します。といっても、ここは私が勉強不足の領域ですので、他のサイトの情報をお借りしながら、私の勉強を兼ねて説明します。主に「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/ の情報をもとにしています。 後高倉院を父に、藤原陳子(ちんし・のぶこ)を母に持つ後堀河天皇が母方の持明院殿を里御所として使い、持明院殿という場所が天皇家と直接関わることになったと書きました。その後堀河天皇の2代後の天皇が後嵯峨天皇です。 後嵯峨天皇は鎌倉時代中期仁治3年(1242)に即位しました。翌寛元元年(1243)、後嵯峨天皇に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生します。後嵯峨天皇は、わずが在位4年で2歳である久仁親王に譲位し、自らは上皇となり院政を開始しました。天皇が物心が付いてしまわないうちに、上皇として実権を握っておきたいとの策略でしょう。 その後、正元元年(1259)、後深草天皇に譲位をさせ、建長元年(1249)に誕生した次男・恒人親王を天皇の座に就かせます(亀山天皇。当時10歳かそこら)。後深草天皇が16歳かそこらの頃です。そろそろ意見を色々言うようになってきたか、そのことを恐れたのでしょうね。また同じ方法で実権を握り続けたかったのでしょう。そして、後嵯峨法皇は、文永9年(1272)53歳で崩御しました。 しかし、後嵯峨法皇は、次の天皇をどうするかということを決めずに崩御してしまったため、残された後嵯峨法皇の息子で兄である後深草上皇と弟の亀山天皇の間でどちらが実権を握るのか、どちらが政治を主導していくのかということで対立が生じました。後深草上皇の血筋を持明院統というのは、後深草上皇が譲位後に住まい(仙洞御所)としていたのが持明院殿であったからだというのは前回お話しした通りです。亀山天皇の血筋を大覚寺統というのは、子の後宇多天皇が大覚寺の再興に尽力し、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったからです。 後深草上皇(持明院統)と弟の亀山天皇(大覚寺統)の対立に対し鎌倉幕府は、持明院統、大覚寺統が交互に皇位につくことを提案し、以降、それぞれの家系から交互に天皇が誕生することとなりました。この仕組みは「両統迭立(てつりつ)」と呼ばれています。 次回に続きます。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/02
コメント(0)

【2020年2月1日(土)】 今日は公私OFFでしたが、前回の公私OFF日の1月28日の後、光照院、研修+シニア講座、ほろよいコンサートと、ビッグイベントが続いたこともあって、ブログ投稿が途絶えていたので、それを追いつくので精一杯でした。 2月は光照院10日間、事務所7日間、公式懇親会が2件(1件は半日)、他には会議半日、三味線レッスン半日、フル公私OFF日が6日間です。免許の更新に一日割かねばなりません。 2019年の総ざらえは、公私OFF日に書くことにしていますが、OFF日が少ないため、今日でまで6つめです。ブログについてです。 まず投稿記事数です。2017年から一日1記事を基本にし、テーマが複数になる日は複数記事を書いています。一昨年534記事(一日平均1.5記事)に対して今年は447記事(一日平均1.2記事)でした。重複する場合は、ブログ作成ための時間を極力短くするために、メイン記事以外は、以降の近日中のテーマ無関係の日の記事として書くことにしたためだと思います。 次にアクセス数ですが、一昨年の年間約117.6万アクセスから、去年は101.2万アクセスに減少しました。記事数が減ったことも一要因でしょう。その下のグラフで分かるように、昨年は一昨年のようなアクセス数の極端に大きい月がなかったのも一要因でしょう。 2017年は修学旅行ガイドの繁忙感がピークになった6月に、3週間くらい投稿ができないこともありましたが、一昨年、去年は慣れもあってあまり遅れずに投稿ができました。 2017年から草花についての記事の索引をフリーページに掲載し、それが去年完了しましたが、以降は索引作成はできていません。また2017年から、過去の記事を検索しやすいように、毎日少しずつ、タイトルとカテゴリーを見直し、更新してきましたが、去年完了することができました(不完全な部分はありますが)。 記事を書くことが、頭の中の整理や新しい発見の場にもなっています。ボケ防止にもなっているでしょう。他の方に読んでいただくのも喜びでです。忙しい中ですが、今年も1一日1記事を死守したいと思います。 Facebookへの投稿は、2016年1件、2017年42件、2018年8件、2019年55件。今年は、途中から目標に置いた1週1件以上を達成。今年も1週1件以上を目指します。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=12
2020/02/01
コメント(0)
全32件 (32件中 1-32件目)
1


