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【2021年6月25日(金)】 6月21日の新選組ゆかりの地を巡る(こちら)以降、・22日 両足院を交替していただいて事務所用事・23日 会のお役目出頭の必要がなくなって在宅 月イチの近所の医者通院・24日 事務所とその後の集まり そして今日は、7月10日から始まる「京の夏の旅」の見学でした。去年の「夏の旅」はコロナ禍で中止になりましたが、今年は今のところ行われます。私は「六道珍皇寺」です。その事前見学があったので参加しました。ご住職のお話を拝聴した後、お堂の内外の案内をしていただきました。私の初日は7月17日です。始まった後、もう一度見学に行って備えたいと思います。六道珍皇寺(2016年8月9日の「六道まいり」のときのもの)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/25
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【2021年6月21日(月)】 会の研修で、「新選組ゆかりの地」を巡りました。 もともとは15日で計画され、その日であれば事務所出頭だったので、参加できなかったのですが、緊急事態宣言延長で、今日に延期になったので、参加することができました。 昨日、両足院に忘れ物をしたので、まずそれをピックアップしてから京都駅へ。ホテル瑞鳳閣まで歩き、そこからスタートでした。あるガイドのために決められたコースで、それを約3時間で廻るというものです。ホテル瑞鳳閣(不動堂村屯所跡)⇒本光寺⇒島原(角屋・大門・輪違屋・島原歌舞練場跡・朱雀大路発掘碑)⇒(バス)⇒壬生寺⇒八木邸⇒(バス)⇒四条~三条のゆかりの地(古高俊太郎邸跡・中岡慎太郎寓居跡・近江屋跡・池田屋跡・三条大橋)と回りました。八木邸通常なら、30分に一度の切れ目ないガイドですが、コロナ禍で1時間に一度のガイドです。色々新たに知ることもありました。・不動堂村屯所跡碑は瑞鳳閣に中村武生氏文のものがあり、リーガロイヤルホテルに霊山歴史館長木村幸比古氏文のものがある。どちらが正しいか?ここで書くのは控えます。・「角屋」は大きな建物で、太平洋戦争中、空襲で狙われ、そばを走る国鉄山陰線が打撃を受ける可能性があったため、取り壊しの予定になっていた。しかし、明治維新の元勲、西郷隆盛らも利用した遺構であると説明して、取り壊しは一時延期になり、やがて敗戦を迎えて、角屋は残った。・吉原は遊女が放火して逃げるので出入り口は1箇所しかなかったが、島原は条件がよくてその心配がなかったので、2つの門があった。・島原大門に大田垣蓮月の歌碑があるのは、桜木太夫と歌友であったから。・高台寺の茶室遺芳庵は、灰屋紹益が愛した吉野太夫が先だったあと、彼女を偲ぶために作られた茶室。10月6日の北政所茶会では太夫道中が行われ、太夫は勅使門から入る。お茶席は15,000円。・島原歌舞練場跡のエノキは樹齢200年。歌舞練場を見守ってきた。・古高俊太郎は梅田雲浜に師事。最後は六角獄舎に収容され、円町処刑場で斬首された。古高を含む37名の志士の遺骨が明治維新後掘り出され、上京区の竹林寺に葬られている。・池田屋事件では旅館・小川亭のなじみの志士が犠牲になり、女主人テイは犠牲者の身元の確認をし、葬られた三縁寺で供養した。三縁寺は岩倉に移転している。・瑞泉寺の前に「岩瀬忠震(ただなり)宿所跡」「橋本佐内訪問之地」の碑が建つ。岩瀬は幕末三俊」の一人に数えられる。老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に就任した。安政5年(1858)の5か国修好通商条約締結に携わった。安政5年2月に当時の老中主座・堀田正睦(まさよし)とともに上洛し、瑞泉寺を宿所として、堀田らとともに条約勅許を願ったが、勅許は下りなかった。堀田は本能寺を宿所とした。橋本左内(1834~59)は,越前福井藩士。瑞泉寺に滞在する岩瀬を訪ねて意見を交わし、一橋慶喜の擁立で見解が一致。この後,二人はともに一橋派として行動し,そのため岩瀬は左遷され,橋本は刑死する。 暑い中を、久しぶりに長距離歩いたので、かなり疲れましたが、町歩きによる疲れは心地よいです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/21
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【2021年6月20日(日)】 一昨日は事務所。昨日は修学旅行ガイドがコロナで中止で、替わりに会の小さな集まりがありました。 そして今日は両足院の第5日。日曜日でお天気もよかったし、新聞に記事が掲載されたこともあって、今期間の中で最も多くの方にお越しいただきました。 両足院の案内の続きです。 方丈では、道釈画家七類堂天谿氏の描いた現代仏画襖16面を特別公開することがありますが、今回は、この襖絵は展示されていません。しかし、氏の筆による、汎下生(半夏生)観音のお軸が方丈にあり、書院にも氏のお軸が1つ掛かかっています。 方丈の濡れ縁を通って書院に向かいます。方丈の東庭は、書院前の庭に続き、一体で「鶴亀の庭」となっています。方丈東庭の石組のある築山が「亀」の部分です。 方丈東庭の亀の形をした築山 方丈北川から半夏生の庭と2つのお茶室を望みます東側(右側)のお茶室は「臨池亭」です。昭和元年に白木屋店主(大村彦太郎)が寄進しました。大村彦太郎の茶人名を「梅軒」といい、「梅軒好みの六帖席」となっています。西側(左側)のお茶室は「水月亭」です。建仁寺塔頭の正伝院は、織田信長の末弟織田有楽斎(長益)によって再建され、有楽斎は「如庵(じょあん)」というお茶室も造りました。明治6年(1873年)に正伝院は永源庵跡地に移転し、正伝永源庵と称し、そのとき「如庵」は祇園町の有志に払い下げられました。明治42年(1909年)に東京の三井本邸に移築され、昭和11年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に指定されました。その後、昭和13年(1938年)に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築され、昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地、愛知県犬山市の有楽苑に移築されました。昭和26年(1951年)に文化財保護法による国宝に指定されています。如庵という名称は、一説によれば織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたといいます。明治42年に東京に移築される際に写しとして建てられたのがこの「水月亭」です。二畳半台目席で、腰張り古い暦が貼られていることから「暦の席」とも呼ばれています。余談ですが、東京の「有楽町」は有楽斎の屋敷があったため名付けられたものです。有楽町は「ゆうらくちょう」ですが、有楽斎は「うらくさいい」です。 書院に入ります。入った床の間には、「かなアーティスト」赤川薫さんの「蜘蛛の糸」の掛け軸が掛かっています。芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」の小説そのものが、丸ごと絵の中に平仮名で書き込まれ、蜘蛛が糸でぶら下がる様子も表わされています。写真撮影禁止ですので、写真掲載できないのが残念です。(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/20
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【2021年6月17日(木)】 今日は昨日に続いて両足院でした。4日目です。 両足院の案内の続きです。 お庭を回った後、方丈に上がります。両足院の歴史と方丈の今の建物の歴史はすでに述べましたが、少し書き加えます。 両足院は当初は「知足院」と称していました。「知足」とは、「老子」33章の「足るを知る者は富む」から、みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと、分相応のところで満足することという意味もありますが、「知足天」を「知足」とも呼ぶので、そちらのほうかもしれません。 知足はtuṣita (兜率)の訳の 仏語で、知足天は欲界六天の第四天で彌勒菩薩が住んでいるといいます。兜率天(とそつてん)ともいいいます。 そして、室町時代になって「両足院」と改められました。この「両足」は両足尊に因みます。両足尊は仏の尊称の一つで、すべての生類を多足,無足,両足に分け,そのなかで両足のもの (神々や人間) が最も尊いとし,さらに両足のもののなかで最も尊い人という意味です。両足院では慈悲と知恵の二徳兼備のお釈迦様のことだとしています。 方丈の中心の部屋は「室中の間」で、他の部屋が単純な格天井であるのに対し、この部屋だけさらに格式の高い小組格天井となっており、「室中の間」が方丈の部屋(通常6部屋)のなかで、最も重要な部屋であることを表しています。欄間は筬(おさ)欄間と呼ばれる形式です。「筬」とは、織物の縦糸をそろえ横糸を押し詰めて織り目を整えるための、織機の付属具のことで、金属または竹の細い板をくしの歯のように並べて、長方形のわくに入れたものです。この形に似ているので、筬欄間と呼ばれます。 天井のすぐ下の壁は「蟻壁」という造りになっています。柱や束が壁で隠されています。高くなった天井によって、間延びした感じになるのを抑えてくれます。また天井の造形が柱の位置から解放され、竿縁や格天井の割り込みが楽になるという効果もあります。この蟻壁も格式の高い建築様式です。 仏間にはご本尊の阿弥陀如来立像が祀られています。 方丈前庭は桃山時代の作庭といわれています。苔の広がりで水の流れを表しています。方丈前庭(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/17
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【2021年6月16日(水)】 昨日は事務所に一日出頭。終わってから月イチの三味線レッスンへ。レッスン会場は、事務所からは、歩いて1、2分の距離ですが、運悪く事務所を出るとき、雷を伴ったバケツをひっくり返したような大雨に遭遇。雨宿りしていたら間に合わないので、三味線ケースにレインカバーをかぶせて走りました。以前、大型リュック用のレインカバーを買って備えていたので助かりました。 もう一人の小学生の女の子は欠席で、個人レッスンとなり、マンツーマンでのレッスンでした。今まで習ってきた曲を一通りおさらいしました。そして、途中まで楽譜を書いていただいていた、2つめの「津軽曲弾き」を全編完成いただき、指導いただきました。 今日は両足院3日目でした。団体さんが2グループ来られ、1つのグループは案内の要請があったので、両足院のこと、半夏生のことを案内させていただきました。コロナ禍で案内は最小限にということになっているので、常駐案内でこうやってまとまって案内するのは、去年の3月以来です。 両足院の案内の続きです。 唐門前庭園を右に見て、左に折れ、方丈前庭園の南端を進みます。庭園の南東角で、左手に方丈を見ることができます。方丈 両足院は、室町時代初期の1358年に、建仁寺の第三十五世・龍山徳見(りゅうざんとくけん)により創建されました。方丈は何度か火災に遭遇し、現在の方丈は、幕末嘉永年間に再建されました。再建に際しては、大檀那である、白木屋の創業家大村家の多大なる援助がありました。 続いてお庭の東端を進みます。東山の裾野に位置するため、境内は東に行くに従って高くなっています。お庭もそのゆるやかな傾斜の中にあるため、東端の遊歩道は庭園より高い位置にあり、庭園を見下ろすことができます。 やがて書院東庭が見え、半夏生の群生を俯瞰することができます。庭園の東端遊歩道からの書院東庭の眺め(書院の左側が方丈) 池は、羽を広げる鶴の形になっています。方丈東庭には亀の形をした築山があり、合わせて「鶴亀の庭」と呼ばれます。 池の右手には、2つのお茶室が見えます。手前が臨池亭、向こうが水月亭です。別の機会に説明します。右:臨池亭、左:水月亭 庭の東南角からは、書院と方丈、両方を眺めることができます。左:方丈、右:書院 2つのお茶室の前を通って、書院の前に出ます。半夏生を真近で眺めることができます。半夏生 小さな門をくぐって方丈東庭に戻ります。小さな門を潜って方丈東庭に戻る 方丈南側を歩いて、お庭に下りたところに戻り、方丈に上がります。 続きます。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/16
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【2021年6月14日(月)】 建仁寺塔頭両足院の2日目でした。 初日の7日(こちら)に比べ、半夏生は白くなりました。平日ですが、多くの方にお越しいただきました。とはいうものの、コロナ前に比べたらやはり来訪者は少なく、ゆったりと過ごさせていただきました。 両足院は本坊庫裡の少し南の左手(東側)に位置します。看板の案内に沿って、簡素な冠木(かぶき)門を潜って入ります。両足院には立派な勅使門もあり、この門はいわば通用門のようなものでしょう。初夏特別拝観の案内冠木門 受付を済ませ、まず方丈に進みますが、上がり口に、小さな中庭があり、手水石が置かれていて、水滴の落ちる音と、白砂の波紋が訪問者を迎えてくれます。上がり口の手水石 廊下に沿って進むと方丈の西庭に出ます。「閼伽井の庭」と呼ばれる坪庭です。両足院のご本尊が阿弥陀如来であることに因んで、阿弥陀三尊石(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)が配され、後ろの植栽は光背を表しています。中根金作氏の子、中根史郎氏作庭による、平成のお庭です。閼伽井の庭 さらに進むと、方丈の南西角に来ます。ここからお庭に下ります。少し南に進むと、右手に唐門前庭園を見ることができます。白砂と松の緑が美しい庭園です。唐門前庭園後日に続きます。帰途に予約してあった歯医者通いでした。左上親知らずの根の治療が終わりました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/14
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【2021年6月13日(日)】 昨日は、コロナワクチン2回目接種後の翌日。発熱が37度くらいあり、身体がダルくて何もやる気がせず、足も少しムズムズしていました。それでも、会の諸々はノロノロながらも進め、夕刻はオムライスに挑戦。全く卵がうまく巻けず、最低の外観だったし、野菜も切り方が雑になってしまいましたが、味は悪くはなかったです。卵をフワフワにするため牛乳を入れるんですね。今日は熱も下がり倦怠感もありません。 昨日の読売新聞夕刊から。 京都タワーの大浴場が6月末で閉鎖だそうです。大浴場の開業は京都タワー開業の年、前回東京五輪の1964年。近年はインバウンド需要が後押しして、2017年度には最多の年間18万人が利用したそうです。しかし、コロナで閉店に追い込まれたようです。 私は利用したことがありませんが、「みやび」の京都とは違う名所がまた一つ消えるのは残念なことです。町の銭湯の廃業も加速されるでしょう。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/13
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【2021年6月11日(金)】 午前中に後腹膜悪性腫瘍の経過観察の気になる所見への対応で、K病院で診察を受け(こちら)、正午に新型コロナウイルスの2回目のワクチン接種を掛かり付けのO医院で受けました。 1回目同様、注射そのものは痛くはなかったです。採血のときより痛みは軽い感じでした。副反応については、医師からも2回目のほうがきつい可能性がありますと説明がありました。今、4時間くらい経過しましたが、ちょっと熱っぽくて、ダルさを感じ、肩に痛みがあるかなという感じです。副反応が酷くならないことを祈るばかりです。明日、明後日と幸いにもフリー日になっているので、ありがたいです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/11
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【2021年6月11日(金)】 一昨日9日は、夏になって葉が繁ったシラカシを剪定したり、三味線と尺八の遠隔合奏用に「さくらさくら変奏曲」を調弦を正確にしたうえで演奏を録音したりと、会の諸々以外にプライベートのことにも時間を割きました。昨日は、終日事務所サポートでした。 今日は、2回目のワクチン接種の日でしたが、昨日届いた19回目のマイカルテへの返信(マイカルテの送付はこちら)に気になる所見があったので、K病院に行ってきました。半年前のCT画像にはなかった、4mm大の結節が肺に見られるというのです。同封されていた、CT画像の写真には、半年前の画像と今回の画像が比較されていました。確かに今回の画像には前回なかった小さな白い丸が肺の部分に写っています。主治医と相談して、1ヵ月後、2ヶ月後あるいは3ヵ月後に、CT監査をするようにと書いてありました。今まで順調に来ていて、CT画像については、ネガティブなコメントはなく、今回初めて要注意のコメントとなりました。なぜ、K病院では同じコメントがなかったのか疑問ですが。粒子線医療センターに送ったCT画像データのCD 急を要する内容ではありませんが、来週は予定でいっぱいなので、今日K病院に行ってきました。いつも診てもらっている泌尿器は今日は外来がありませんでしたが、どうせ呼吸器科での診察になるだろうからと思い、受付で相談して呼吸器科で診てもらいました。 「確かに半年前にはない結節が見られますね。良性か悪性か判断するには手術で検体をとらないといけないので、まず、CTでの経過観察をしましょう。消えることもあるあし、大きさが変わらなければいいし。」とのことで、7月9日にCT検査をして診察していただくことになりました。 心配の種が一つ増えました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/11
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【2021年6月8日(火)】 今日は、もともとからフリー日で、会の諸々を少しずつ片付けていこうと思ったのですが、臨時の作業が入りました。 使っているキャノンのプリンターの表示部に2、3ヵ月前から、「インク吸収体が満杯に近づきました」と表示されるようになりました。引き続き印刷はできるのですが、やがて満杯になると、インク吸収体の交換が必要となるようです。自分では交換できないので、サービスに出さなければなりません。緊急での印刷が必要でないタイミングを見計らって、1ヵ月くらい前だったか、サービスに電話してみました。 ところがもぅ機種が古い(恐らく10年くらい前に買ったもの)なので、交換の部品がなく、買い替えが必要とのこと。それなら、買い置きのインクをできるだけ使ってからにしようと思い、しばらく使い続けました。 ところが先週、ついに「満杯」ですと表示されて使えなくなってしまいました。サービスから聞いていたキャノンの「買い替えサービスサイト」で、推奨の機種を先週金曜日に申し込みました。それが今日届いたのです。 持っていた機種は「MG8230」、いくらで買ったかは憶えていません。今回買ったのは「TS8330」、26,400円です。キャノンの「買い替えサービス」を使ったので、古い機種を、自宅引きとり、着払いで送れるサービス付きです。ネットでの価格を見ても、これくらいの価格なので、引き取りサービスが付いている分、これで正解かなと思いました。左「MG8230」、右[TS8330」 引き取り分の送付は「新機種が入っていた箱をお使いいただいても結構です。」とありましたが、旧機種の図体は、写真のように、新機種に比べて格段に大きく、入りきりませんでした。他に大きな箱もないので、スーパーに行って、段ボール箱をいくつかもらってきて、写真のようにはみ出す部分を覆いました。明日、クロネコに集荷をお願いしました。梱包したMG8230 印刷できずに置いてあったデータがあるので、早速設定を試みました。困った点が1つ。メインで使っているPCがVistaで、この新しいプリンターがVistaには対応していないので使えないことです(Vistaはサービスが終わっているので、当然と言へば当然です)。もう一台のタブレットPCはWindows8なので、こちらでは使えます。印刷するときは、こちらのタブレットPCを使わざるを得ません。止むを得ません。 「MG8230」君、長い間ありがとう。「TS8330」君、これからよしく。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/08
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【2021年6月7日(月)】 両足院の「半夏生の庭」特別公開は、6月1日から始まっていますが、今日は、私の初日でした。一昨日見学に来ましたが(こちら)、そのときよりも半夏生の白い部分が増えたように思います。 コロナ禍の中の平日ですから、拝観者は多くはなく、ゆっくりお庭を観賞することができます。天気の良い一日で、湿気が高いのに閉口しましたが、一日、心静かに過ごすことができました。 両足院は建仁寺の塔頭です。 建仁寺は鎌倉時代の初期、建仁2年(1202年)に将軍源頼家が寺域を寄進し、栄西(ようさい、えいさい)禅師を開山として建立されました。元号を寺号とする寺院で、こういう寺院を元号寺といいます。平安時代以降の元号寺は他に延暦寺、仁和寺、東京の寛永寺などがあります。元号を寺号にするためには、天皇から公認されることが必要だと思うので、それだけで格式の高いお寺といえるのかもしれません。 創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃しましたが、正嘉元年(1258年)東福寺開山の円爾弁円(えんにべんえん)が入寺して境内を復興し、禅も盛んとなりました。 正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。 その後、室町幕府によって京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えました。詩文芸術に秀でた禅僧を輩出し、「五山文学」の中心となり、「建仁寺の学問面」とも呼ばれました。しかし、応仁の乱などの戦乱と幕府の衰退により再び荒廃してしまいます。 天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築して、復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。 明治に入り、廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納し、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。花見小路付近も建仁寺の寺域だったのです。34あった塔頭が現在は14になっています。 私は阪急河原町駅から両足院にアクセスするので、建仁寺境内にはこの西門から入ります。建仁寺西門 その西門近くに公衆トイレがあって、車の一時駐車がしやすいため、よくタクシーの運転手が使っています。以前、改修中だったのですが、完了して、キレイになって、和式だったトイレも洋式替わっています。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/07
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【2021年6月6日(日)】 昨日は、建仁寺塔頭「両足院」に寄らせていただきました。5月~7月が「両足院」担当となり、5月は「サツキ」の庭園での特別公開だったのですが、緊急事態宣言が出て中止になりました。6月、7月は半夏生(ハンゲショウ)がキレイな時期で、近年毎年特別公開をされています。こちらのほうは、緊急事態宣言延長下ですが、公開となり、私も担当させていただくことになりました。両足院は何度も訪問したことがありますが、案内者としては初めてですので、昨日、午前中と夕刻に見学させていただきました。半夏生は葉先がようやく白くなり始めたところでした。明日、6月7日が私の初日です。書院から庭園を望む 昼間は事務所で一仕事でした。両足院と事務所間は往復とも歩いたので、久しぶりに多くの歩数になりました。 今日はフリー日でしたが、いつものように会のことに時間を費やしました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/06
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【2021年6月4日(金)】 今日はもともとフリー日。ですが、いつものように、会のこと色々でした。でも、時間の余裕があり、久しぶりに料理をしました。「肉じゃが」初体験でした。じゃがいもを小さく切り過ぎたりで、不具合もありましたが、味はそこそこでした。 「奇想の画家 若冲と応挙」の第20回目、「その他の若冲の絵(続き)と若冲の住まい異説」です。いよいよ若冲パートの最終回です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵(続き) 動植綵絵にも、他の画家の絵を意識したかもしれないと思われる絵があります。図Aの若冲「菊花流水図」は、図Bの尾形光琳「紅白梅図屏風」(国宝)を意識して描いたものではないでしょうか。 若冲の活躍した18世紀後半は、版画が隆盛した時期でもあります。浮世絵で錦絵と呼ばれる多色刷り版画が生まれ、司馬江漢が銅版画を手掛けました。そのなかで、若冲は「拓版画」と呼ばれる異色の技法を取り入れた木版画の逸品をいくつか残しました。 浮世絵も含む通常の木版印刷は、左右逆に描いた版下(はんした)と呼ばれる下絵を、版木に貼り付けて陽刻(絵や字の部分を残し、それ以外の部分を彫る)します。これに紙を貼り付けて、「ばれん」でこすると、刷り上がりで絵や文字がポジで正しい方向で再現されます。 拓版画は、左右逆にすることなく、そのままの方向で描いた版下を版木に貼り付け、それを陰刻(絵や文字の部分を彫る)します。そして、彫った版木の上に紙を置き、水分を含ませて密着させ、彫った部分にも紙が入り込むように押しつけます。紙が乾いたら、刷毛や「たんぽ」で紙の上から墨を乗せていきます。すると絵や文字の部分(彫った部分)には墨が乗らず、そこがネガのように白抜きになります(図C参照)。「正面摺り」とも呼ばれています。 図Dに拓版画の代表作である「乗興舟(じょうきょうしゅう)」を示します。大典顕常が賛文を寄せており、それによると、明和4年の春、大典が当時52歳の若冲といっしょに、伏見から舟に乗って淀川を下り、その体験をもとにこの作品が描かれたことが分かります。漢詩の賛もあるためか、中国風の装いになっています。版画はその技法から、オンかオフかの明暗のはっきりした絵になりますが、この「乗興舟」では、暈し(ぼかし)の高度な技術が見てとれます。版下の描画だけではなく、彫りや摺りにも若冲が関わったのではないかと見る向きもあります。なお、淀川下りは多くの画家が描いており、円山応挙も描いています。応挙のところで、後に紹介する予定です。 また、若冲は「合羽摺り(かっぱずり)」と呼ばれる多色摺りの版画も、数少ないですが手掛けています。「合羽摺り」は、最初に輪郭線を版木を用いて墨塗りし、色部分は防水加工した型紙を置いて、顔料をつけた刷毛を使って彩色する方法です。色数と同じだけの型紙を必要とします。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれます。 図Eに合羽摺りを使った「花鳥版画」全6図のうちの1つを示します。若冲は強烈なコントラストを意識して、背景全体を版木を使って摺り出しています。2-13 若冲の住まい異説 筆者が若冲研究の途中、京田辺市でガイドをしている知人から、「若冲は京田辺にも一時期住んだことがあり、その跡に立て札がある。」との情報を得ました。「京田辺に一時期住んだ」ということは、私が読んだ美術書には一切書かれておらず初耳でした。早速現地に行ってみました。京田辺市普賢寺公家谷(こげだに)という場所です。立て札は京田辺市教育委員会と京田辺市文化財保護委員会によるものですので、「京田辺居住説」は公式に認められた一説といえそうです。(図F参照) その知人によると、昭和50年発行の「田辺の昔はなし」という本に「若冲の画は、普賢寺の二家に保存されていたが、一つは、古物にまぎれてなくなり、もう一つは、座敷に4枚の花鳥が描かれてあったが、改築の時に親類の人が焼いてしまった。(普賢寺宮崎宗太郎談)」と書かれているとのこと。知人は、若冲は天明の大火後、1788~1790年の1~2年間が行方不明で、その時期この場所に住んだのではないかと推定していますが、その時期は第14回で書いたように、大坂西福寺や伏見海宝寺に身を寄せたという説が有力です。弟子が若冲名で絵を描いたことも多いとのことなので、私は焼け出された弟子の一人が故郷のこの地に戻ってしばらく住み、若冲名で絵を描いたのではないかと推測しています。 次回からいよいよ円山応挙です。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/04
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【2021年6月3日(木)】 今日は、6月1日の会の終了後の記録を完成させて、ほっと一息というところです。「奇想の画家 若冲と応挙」第19回目、「その他の若冲の絵」の続きです。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵(続き) 図Aの「雨龍図」は、「ニャロメ」を彷彿とさせます。赤塚不二夫氏は、この絵から「ニャロメ」のデザインの着想を得たのかもしれません。また、この絵は同時代に生きた曾我蕭白の「柳下鬼女図」(図B)のパロディではないかという説があります。この「雨龍図」はユーモラスな作品ですが、龍の鱗(うろこ)には「筋目描き」が使われています。 図Cに「雷神図」、図Dに「月に叭々鳥図(ははちょうず)」を示します。いずれも絵の主人公が真っ逆さまに降下する可愛らしさのなかにも緊張感あふれる絵です。縦長の掛け軸を活かした構図といえそうですが、垂直落下の絵は彩色画にもあり、「動植綵絵」の図E「芦雁図(ろがんず)」にも垂直に落下する鳥が描かれています。 若冲は人物画をほとんど描きませんでしたが、水墨画では相応の作品を残し、少ないタッチで愛嬌のある顔を描くことが多かったようです。そんな顔の描かれた図F「白衣観音図」、図G「托鉢図」、図H「三十六歌仙図屏風」を示します。「三十六歌仙図」は、誰一人まじめに和歌を詠んでいる人物はおらず、「琴を弾く」ならず「琴を引く(ひっぱる)」姿、ヨーヨーのようなものに興じる姿など、自由奔放な姿が笑いを誘う作品になっています。ところでこの「三十六歌仙図」ですが、黒鉄ヒロシ氏の漫画を思い起こさせませんか。 前回、風景画「石灯籠図屏風」の明確に分けて描かれた近景・遠景や遠景の暈し(ぼかし)は、円山応挙を意識して描いたものかもしれないと書きました。また、今回の図A「雨龍図」は曾我蕭白の「柳下鬼女図」のパロディーではないかと書きました。その他にも、他の画家を意識して描いたように見える絵があります。 図Iに若冲「象図」、図Jに琳派・俵屋宗達「白象図」を示します。想像の域を出ませんが、若冲は宗達の絵を意識して描いたのかもしれません。 象の絵では、もう1つ他の画家の描いた絵とよく似た絵があります。図Jに若冲の「象と鯨図屏風」の右隻部分、図Kに長沢蘆雪(後述する円山応挙の弟子)の「白象黒牛図屏風」の右隻部分を示します。両方とも白象を左横向きに置き、ここでは絵は省略しますが、それぞれ鯨という海の大きな動物、牛という陸の大きな動物を左隻に右横向きで置いたところが似ています。ただ、若冲の作品の方は1795(寛政7)年と制作年が特定されているのに対し、蘆雪の作品の方は、寛政後期(1794〜1799)頃というだけで制作年が特定されていません。ですから、若冲が蘆雪から影響を受けたのか、蘆雪が若冲から影響を受けたのかはよく判りませんし、筆者が読んだ美術書のなかには、この2つの絵の類似性について触れた本はありませんでしたので、たまたま似ているだけということなのかもしれません。しかし、若冲の象の背中には花が描かれ、蘆雪の象の背中には、同じような位置にカラスが乗っています。蘆雪の象は画枠をはみ出すように描かれ、鼻もしわくちゃに描かれています。蘆雪が若冲の象の絵を観て、その象をパロディー化し、「向かい合わせるなら陸の動物だろ。」と牛を向かい合わせたのではないかと筆者は勝手に想像しています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/03
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【2021年6月2日(水)】 昨日は朝歯医者に行きました。左上奥歯の治療継続の予定でしたが、前回治療開始の後、鎮痛剤を服用するほどの痛みが3日間続き、その後も、振動が伝わりると痛みが少しあるので、薬を詰め替えるに留まりました。その帰りにホームセンターに寄って、買い物してきて、庭の散水ホースに手を加えました。午後から在宅で会の重要な用事でしたが、準備は完了していたので、そんな時間もとれました。 今日は、そのフォローで終日費やしましたが、何とか約束した時間に約束のものを間に合わせることができました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第18回目「その他の若冲の絵」です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵 前々回と前回は、「動植綵絵」だけに焦点を当てて述べてきました。若冲は「動植綵絵」以外にも、同じような細密彩色画を多く描いていますが、これから先は、細密彩色画以外の絵を紹介していきたいと思います。 若冲は、斬新的な技巧を多く試した画家でもあります。その一つが「枡目描き」という技巧で、無数の小さな枡目1つ1つに絵具を塗っていくという一種のモザイク画です。デジタル画の原点といってもいいかもしれません。若冲は西陣織から着想を得たのではないかといわれています。 図Aに「白象群獣図」とその部分拡大を示します。枡目1つをベタっと同じ色で塗るのではなく、枡目の中で暗色と明色を塗り分け諧調表現をしています。また、輪郭線は枡目の中を通っているので、デジタル的でありながら、輪郭はスムーズに描かれています。この絵はモノクロ調ですが、「樹下鳥獣図屏風」(静岡県立美術館蔵)や「鳥獣花木図屏風」(プライス・コレクション)と題する極彩色の枡目描きの絵も残っています。ただし、前者は枡目内の描き方の稚拙さから、若冲の下絵に基づいて弟子たちが描いたものではないかという説があり、後者は動物の描き方の凡庸さから、前者の完全な模倣作品ではないかとの説があります。 若冲は墨画も多く残しており、その画風は多種多様です。 図Bの「菊花図」には「筋目描き」という技法が使われています。「筋目描き」は、墨の滲み(にじみ)と滲みがぶつかると、境目が白くなる性質を利用した技法で、邪道とも言われたりしますが、若冲は積極的に利用して、この作品では菊の花びらの質感を見事に表現しています。 下図の図Cは当然ながら若冲の絵ではありません。点描画の創始者といわれるフランスの画家、ジョルジュ・スーラによる「サーカス・サイドショー」という作品です。スーラは日本でいえば明治時代の画家です。 ところが、若冲はスーラが生まれるずっと前に、墨画ではありますが、点描画を描いているのです。図Dの「石灯籠図屏風」がそうです。スーラと違って、点の密集具合で濃淡を表わす方法です。若冲は風景画をほとんど描きませんでしたので、その点でも特異な作品です。またこの絵では、近景(灯籠など)と遠景(山)が明確に分けて描かれ、遠景は暈されています。応挙を意識したのかもしれません。複雑に屈曲した松の枝ぶりや、お化けのようなユーモラスな燈籠を配するなど若冲らしさも健在です。 若冲ならではのユニークな墨画も残しています。右図の「果蔬涅槃図」です。いわゆる釈迦涅槃図ですが、釈迦は大根で表され、嘆き悲しんでその回りに集まる弟子や、鳥獣も果物や野菜で表され、沙羅双樹が玉ねぎの葉で表されています。青物問屋の主人だった若冲ならではの作品です。これ以外に、野菜や果物が多く登場する絵としては、彩色画では「菜虫譜(さいちゅうふ)」(佐野市立吉澤記念美術館蔵)、墨絵では「蔬菜図押絵貼屏風」(個人蔵)がよく知られています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/02
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