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【2021年5月31日(月)】 5月も最終日。今月はついに有償でのお仕事の日が一日もありませんでした。会に入ってすぐの月は別にして初めてです。コロナのときも、事務所に出たので、何らかの務めがあったのですが、それも4月には無くなり、他のガイドもなかったので、ついにゼロとなりました。しかし、来月は両足院がある予定なので、ゼロは今月限りとなるでしょう。 昨日、6月1日の準備を終えたので、今日は、久しぶりにプライベートの時間をとるいことができ、庭のアベリア、マンサク、グリーングローバルのトリミングをすることができました。「奇想の画家 若冲と応挙」第17回 「動植綵絵」の技巧と遊び心(続き)です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-11 「動植綵絵」の技巧と遊び心(続き) 前回は、「動植綵絵」の裏彩色などの技巧と、遊び心とも映る描画について述べました。もう少し、遊び心的な描画について触れてみたいと思います。 「動植綵絵」では、1枚の絵の中に多くの動植物が描かれているものが多いのですが、それらが皆同じような色や形をしているように見えながら、よく見るとどれか1つだけが他と違うというところを、多く見出すことができます。「仲間はずれ」がいるのです。 「秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)」(図A)では、空から舞い降りてくる雀は皆同じ方向を向き、同じように羽を広げていますが、その中に一羽だけ白い雀がいます。これは一目瞭然です。 「蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」(図B)には、10匹の魚が描かれていますが、全部アユのように見えます。しかし、よく見ると、一番下の魚だけ、ヒレの形や胴の模様が違っています。オイカワという魚のようです。蓮の花が水中で咲くというのはあり得ないので、不思議な空間に迷い込んだような錯覚に襲われる絵でもあります。 「群鶏図」(図C)には、色彩鮮やかに、多くの鶏が描かれています。どの羽がどの鶏のものなのか、よく判りません。だまし絵のような不思議な印象を受けます。そして、鶏の顔はすべて横向きのように見えますが、これもよく見ると、中央やや下の鶏だけが前を向いていることが分かります。 前回も紹介した「紅葉小禽図」(図D)をもう一度示します。非常に多くのモミジ葉のうち、中央下右の1枚だけが、枝から離れているのが分かります。 このように「仲間はずれ」が多くあるのが、単なる偶然なのか、意図的なものなのかはよく分かりません。「仲間はずれ」は若冲自身が、自らの孤高な姿を表したのだという学者もいます。 他にも遊び心的な部分を紹介します。これは「別冊太陽 若冲百図」という美術書に紹介されていた内容で、私も驚いたのですが、「若冲の絵には、多くの相似形が隠されている。」というのです。図E-1に「梅花小禽図」を示します。この中に、相似形が隠されているというのですが、分かりますか? 答えを図E-2に示します。 私も他に相似形がないか探してみました。いくつか発見しましたが、最も明瞭だったのが前回も紹介した「梅花皓月図」(図F-1)です。どこに相似形があるか探してみてください。正解は図F-2です。 図E-2は「梅花小禽図」の相似形隠し絵を示しています。右図矢印の鳥部分の拡大が左図です。この鳥の外形が、右図の黄色の枝ぶりに拡大されています。また目や枝を掴む足の位置には、木の節や、花の固まりがあります。 図F-2は図6「梅花皓月図」の相似形隠し絵を示しています。こうしてみると、一目瞭然ですね。それでは元の図F-1を見てください。不思議なもので、今度は否応なしに相似形が目に飛び込んできます。 図Gに「牡丹小禽図」を示します。2羽の鳥がいますが、右側の鳥は不自然なくらい頭を右に向けています。何を見ているのでしょう。その視線の先に虻(あぶ)が一匹飛んでいるのが発見できます。他に昆虫が描かれているか探してみると、絵の中の昆虫はこの虻一匹だけということが分かります。「ウォーリーを探せ」という絵本が一時期流行りましたが、これは若冲版「ウォーリーを探せ」のようでもあります。鳥の首の曲げ方と視線がヒントになっています。 若冲の動植綵絵は、多くの動物や植物が描かれていても、その奥行き感は、あまり意識せずに描かれているように思います。奥にあるものも、手前にあるものも、ほぼ同じ大きさで描かれており、奥のものをぼかして描くというテクニックも使われていません。絵が平面的です。だからこそインパクトがあるのですが。それが、図H「貝甲図(ばいこうず)」に限っては、奥に行くに従って、貝類が小さく描かれていて、奥行き感が感じられます。「こういう描き方もできるんだぞ。」というところを示したかったのかもしれません。ですが、奥の貝類も手抜きはなく、決して細密さを失っていません。こういったところや、回りに比べると異様に大きくかつ俯瞰的ではなく平面図的に描かれ、手前の宙に浮かんでいるようにも見える左上隅の茶色の二枚貝、左下のお化けのような大きな貝、生き物のようにくるくると巻いた波など、若冲の面目躍如というところが多く発見できる絵です。 本来は「動植綵絵」の細密な絵の描写のことも述べたいところですが、このような文書あるいはパソコンでの表示となると、どうしても絵が小さく、解像度も低くなり、十分に表現しきれません。そのあたりは多く刊行されている美術書に譲りたいと思います。あるいは実際に美術館に足を運んでいただいてご覧いただきたいと思います。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/31
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【2021年5月30日(土)】 今日は6月1日の会関係の準備のタイムリミットでした。もともとフリー日で、あわよくば昨日終わっておいて、今日は自由に時間を使いたかったのですが、結局今日までかかってしまいました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第16回目、晩年の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-11 「動植綵絵」の技巧と遊び心 若冲の生涯を、いくつかの代表作と交流のあった人物を交えながら紹介してきました。ここから先は、若冲の絵の技巧や見所を紹介していきます。まずは、一番の代表作である、「動植綵絵」に焦点を当てます。 美術書の絵の解説には、必ずといっていいほど、どんな材料に絵を描いているのかが書かれています。代表的なのが、「紙本」「絹本」です。それぞれ「しほん」「けんぽん」と読みます。読んで字の如し、材料はそれぞれ、紙(日本画の場合は和紙)と絹です。 「動植綵絵」は絹本です。絹本絵画には通常の絹織物ではなく「絵絹(えぎぬ)」と呼ばれる、織目を密にしないで、隙間を作って織りあげた絵画専用の絹織物が使われます。隙間があるので、下絵を下に敷きながら描けるし、「裏彩色(うらざいしき)」と呼ばれる裏から彩色するテクニックが使えます。裏彩色は、平安仏画や中国絵画にも用いられた伝統的な彩色方法です。絵絹裏面にも絵具を施すと、織目の隙間を通して表面にも見え、より繊細な色彩表現が可能となります。しかし、中世以降は、圧倒的に紙本作品が多くなり、近世絵画には、裏彩色が積極的に使われることが無くなったと考えられていました。ところが、近年の修復を通して、「動植綵絵」には、裏彩色が積極的に使われていることが分かりました。また、若冲が顔料系絵具と染料系絵具の違い(染料系は絹の繊維に染み込むが、顔料系は織目隙間を覆うことなど)を熟知したうえで、彩色表現をしていることも分かりました。さらに、肌裏紙(はだうらがみ)には、通常自然色(生成り色)を使うのですが、「動植綵絵」では、濃灰色に染めた紙が用いられており、この色が絵絹に透けることによって、コントラストが強調されていることも分かりました。 2、3裏彩色の絵をみてみましょう。まず、「老松白鳳図」(下図左)です。羽が白と金色に輝いているように見えます。金色の部分は金泥(きんでい・金を粉末状にして膠水[膠が入った水]で溶かした絵具)が使われていると考えられていました。ところが修復のとき、表面は羽の表情に合わせて非常に繊細に胡粉(ごふん・貝がらを焼いて作った白色の顔料)で描き分けたうえ、裏面に胡粉による白色と、黄土にとる黄色が施されていることが分かりました。さらに肌裏紙の濃灰色が作用して、人間の眼には金色に見えるのです。 もう一つ「紅葉小禽図」(下図右)をみてみましょう。表面の葉には赤色とやや黄色がかった赤色の染料が使われ、裏面には色彩変化を表わすために黄色の裏彩色が施されています。その施し方を葉によって微妙に変化させることで、一枚一枚異なった表情をもたせ、太陽に透かして紅葉を見るような透明感を与えることに成功しています。 絵のインパクトばかりに目がいって、なかなか気付きませんが、その他の古典的な技巧についても触れておきます。 「梅花皓月図(ばいかこうげつず)」(下図左)には、右上の満月に、輪郭を描かず、外側に色をつける「外隈(そとぐま)」の技法が使われています。 「桃花小禽図」(下図右)の幹と枝、葉と葉が重なる部分には、少し隙間を開ける「彫り塗り」という技法が使われています。 若冲の意図はよく分かりませんが、観覧者にとっては「遊び心」とも映る部分に触れていきましょう。「動植綵絵」における雪の描き方が独特です。常にかき氷にかかる練乳のようなネットリ感のある雪を描いています。「雪中錦鶏図」(右図)を示します。「動植綵絵」の雪の場面を描いた絵は、多かれ少なくかれ、このような質感で描かれています。独特の質感で、この雪を見れば一目で「若冲だ!」と分かります。 真丸い穴が多く登場するのも特徴です。病葉の穴の形は現実には不規則なものも多いはずですが、何故か若冲の病葉には真丸い穴が多いのです。あり得ないところに丸い穴があることもあります。何かを象徴しているのか、仏教的意味合いがあるのか、単なるインパクト狙いなのか筆者にもよく分かりません。前ページ図11に、真丸い穴が多く登場する「芙蓉双鶏図」と「棕櫚(しゅろ)雄鶏図」を示します前述の「雪中錦鶏図」の枝の雪にも真丸い穴が発見できます。 魚を描いた両「群魚図」(下図)をよく見ると、ユーモラスな表現に溢れています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/30
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【2021年5月29日(土)】 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、在宅でした。6月1日の準備を今日終えたかったのですが、明日に持ち越しです。「奇想の画家 若冲と応挙」の第15回、「売茶翁との交流と若冲の名の由来」です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-10 売茶翁との交流と若冲の名の由来 若冲の生涯と主な作品について述べてきました。そのなかで、若冲と交流のあった人物のうち、最も重要な人物は大典顕常であると記しました。若冲は大典以外にも、多くの文化人や禅僧と交流をもっていました。池大雅、黄檗僧 伯珣照浩、儒学者 皆川淇園、木村蒹葭堂(けんかどう・大坂の酒造業者で文人・好事家)などですが、大典の次に忘れてはならないのが売茶翁(ばいさおう)です。 売茶翁は、肥前(佐賀県)に生まれ、11歳で肥前の黄檗宗龍津寺(りゅうしんじ)に出家し、僧名を月海元昭といいました。江戸、仙台などで修業し、黄檗山萬福寺でも修業しました。その間に長崎で煎茶の知識を得たといわれています。 享保16年(1731)、月海57歳のとき龍津寺を法弟に譲り上洛します。そして、享保20年(1735) 、月海61歳のとき東山に「通仙亭」という庵を構え、街中で茶を売りながら禅や人の生き方を説きました。人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼ぶようになりました(以下「売茶翁」と記します)。売茶翁のもとには多くの文化人も集まり、そのなかに若冲もいたのでしょう。そして、売茶翁は、延享元年(1744)70歳のときから約10年間、相国寺塔頭林光院に住まいます。大典顕常はそのとき26歳で相国寺の役僧でした。そこで、大典も売茶翁と知り合うことになったのだと思われます。 この売茶翁が所持した茶道具 注子(ちゅうす・水差し)が現存しています(右写真)。その腹には次のような漢詩が書かれています。『去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌』誰がどこで詠んだものかも刻まれています。『丁卯之夏日 東湖山人題 于糺林水涯』「丁卯」=延享4年(1747)」の夏の日、「東湖山人」=大典顕常、「糺林水涯」=下鴨神社糺ノ森(ただすのもり)の川辺。延享4年は、売茶翁が林光院に住み始めて4年目、大典と売茶翁が下鴨神社の糺ノ森に遊び、大典が詩を書き、注子に刻んで、後日売茶翁にプレゼントしたのでしょう。詩の書き下しは「濁を去(あら)い清を抱き、其の灑落(しゃらく)を縦(ほしいまま)にす。大盈(たいえい)は冲しき(むなしき)が若し、君子の酌む(くむ)所」。意味は「非常に大きな器があるとする。その中に何も入っていないときは、役に立たない無用の長物と見える。しかし、そこに水か酒でも満たし始めると、底知れぬ大きさだと気付くだろう。」 この「大盈若沖」は、大典オリジナルではなく、次の老子第四十五章からの言葉です。「大成若欠 其用不敞 大盈若沖 其用不窮 大直如屈 大巧如拙 大弁如訥」書き下しは、「大成は欠けたるが若きも、其の用は敝きず。大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず。 大直は屈するが如く、大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し。」意味は「本当に完全な物は何かが欠けている様に見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。本当に真っ直ぐな物は曲がっている様に見えて、本当に巧妙な者は下手くそに見えて、本当に能弁な者は口下手に見える。」 「若沖」という言葉が入っています。ここに「若冲」の名のルーツがあるのです。若冲が大典と知り合ったのが、宝暦元年(1751)頃、若冲36歳の頃ですから、大典がこの詩を書いた4年後です。若冲は、この注子の「若冲」を目にする機会があって、大典に雅号として使いたいと言ったのかもしれませんし、大典が老子四十五章から直接「若冲」の雅号を与えたのかもしれません。ただ、もう一度よく見てください。注子のほうの「じゃくちゅう」の「ちゅう」は「にすい(冫)」ですが、老子の原文の「じゃくちゅう」は「さんずい(氵)」です。雅号「じゃくちゅう」は「にすい(冫)」。ですので、「若冲雅号、注子から説」をとりたいところです。 若冲の制作年が分かっている一番早期の作品は「松図番鶏図」(現在所在不明)で、37歳のときの作品です。そこに「若冲」の落款があります。注子の大典の詩が作られた後で、かつ若冲が大典の知遇を得た後ですから、次期的には符合します。しかし、制作年代は分からないものの、この絵よりさらに早い作風の狩野派風の「旭日鳳凰図」(第10回で紹介)にも「若冲」の落款があり、大典と知り合う前から「若冲」を使っていた可能性はあります。そうなると「若冲」が老子四十五章に由来しているとしても、どのような経緯で「若冲」を名乗るようになったのかは謎となります。 売茶翁と若冲の関係は非常に濃密だったようです。若冲は人物画をほとんど描いていません。肖像画となると皆無といってもよいくらいですが、売茶翁だけは肖像画を描いています。しかも、複数描いています。右図はそのうちの1つで、大典顕常の賛も入っており、大典、売茶翁、若冲の3人の親密さを示すものといえるでしょう。 一方、売茶翁は若冲の絵の技量に惚れ込んでいました。次のような一行詩を若冲に与えています(右図)。「丹青活手妙通神」(丹青活手の妙、神に通ず。たんせいかっしゅのみょうかみにつうず。)「丹」は丹塗りの「に」で赤色のこと。「丹青」は赤と青で「絵」という意味です。「あなたの素晴らしい絵は神と通じ合っている」最上級の賛辞です。詩の両側に「宝暦庚辰(10年)冬極月」「八十六翁高遊外書付 若冲隠士」とあり、宝暦10年(1760)若冲46歳のときに、86歳の高遊外(売茶翁の還俗後の名)が若冲に送ったことが分かります。若冲が「動植綵絵」の制作をしていたころで、売茶翁はその細密で印象的な絵の数々に感動したのでしょう。若冲はこの一行詩を、「動植綵絵」の1つ「蓮池遊魚図」の遊印に使っています(右図)。この一行詩は明治時代「動植綵絵」と併せて皇室の御物となり、現在は「動植綵絵」同様、宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。 また若冲は「斗米庵」「米斗翁」という雅号も落款として使っています。この雅号の由来もみていきましょう。寛政6年(1794)若冲78歳のとき、浅野家陪臣の平賀白山らが、石峰寺門前に住む若冲宅を訪問しています。その白山が「蕉斎筆記」の中で、若冲と交流のあった大坂の画家・松本奉時から聞いた話として、次のように書いています。「今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立しぬ。よりて米斗庵と落款をば書きぬ。」これをもって、石像群を建てるようになってから、米一斗(約18ℓ、「一斗缶」で想像できます)相当の代金で絵を売り、米斗庵の落款を使うようになったとされることもあります。しかし、色んな場面で依拠として引用した、若冲51歳のときに大典が書いた「寿蔵碣銘」に「観る者、その妙なることに感服し、遂にこれを以て斗米に易えて給に取る。ここにおいて斗米庵の号あり。」と書かれています。また、少なくとも若冲55歳までには全部完成した「動植綵絵」のなかの「池辺群虫図」に「斗米庵」の落款があり(右図)、石像群を建立するずっと以前から「斗米庵」という落款を使っていたことが分かります。 その時期は家督を次弟に譲ったものの、金銭が特に必要な生活環境ではありませんでした。では何故、米一斗あるいはそれに値する金銭を絵と引き換えに受けとったのでしょうか。ここにも売茶翁の影響があるという見方があります。売茶翁が僧職を捨て、煎茶を売ってわずかばかりの金銭を得る生活に転じたのは、宗教家や知識人の「商いは卑しい」という考え方への痛烈な批判からではないかともいわれています。その考え方に啓蒙された若冲が同じような行動をとったという見方です。あり得るかもしれません。これに加え、家督を次弟に譲り、いわば居候だった若冲が、せめて自分が食べる分だけは稼がなければという現実的な側面もあったのかもしれません。後者のほうは筆者の勝手な推測ですが。 一方「米斗翁」のほうは、前回紹介した、天明の大火で焼け出された直後に描いた大坂・西福寺の「仙人掌群鶏図」に初めて落款として登場します。ですので、こちらの方は石峰寺石像群を建立し始めた後から使いだした雅号ということになりそうです。「白衣観音・鶴・亀図」にも「米斗翁」の落款がありますが(右上図)、「米斗翁」のあとに「行年八十歳画」とあり、かなり晩年の作品です。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/29
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【2021年5月28日(金)】 今日は在宅日でした。会の関係で、急な依頼対応があり、バタバタとした一日となり、6月1日の準備が進みませんでした。「奇想の画家 若冲と応挙」の第14回目、晩年の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-9 晩年の若冲 皆川淇園や応挙が、石峰寺を訪れた直後、京都では大変な災害が起きます。「天明の大火」です。天明8年(1788)1月31日のことです。当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰す大火災で、若冲の居宅も焼亡しました。焼け出された若冲は、大坂・西福寺、伏見・海宝寺に身を寄せた後、寛政3年(1791)、若冲73歳の頃から、石峰寺の門前に暮らすようになります。独居ではなく、若冲50歳のときに若くして亡くなった末弟・宗寂の妻、心寂とその連れ子と暮らしたといわれています。心寂を若冲の妻と思う人もいたようです。 天明の大火後、若冲は精力的に大作を手掛けています。寛政元年(1789)、西福寺障壁画「仙人掌(さぼてん)群鶏図」、同「蓮池図(れんちず)」、海宝寺「群鶏図障壁画」、「鶏頭蟷螂図(けいとうとうろうず)」、「石峯寺図」、寛政2年(1790)の「菜蟲譜(さいちゅうふ)」、「垣豆群虫図(かきまめぐんちゅうず)」などです。 石像群奉納の資金集めのために、短時間で描ける水墨略画を多作していた状況からの大きな方向転換です。このような多くの大作に取り組んだのは、天明の大火で焼け出されて経済的に困窮し、金銭目的で絵を描かざるを得なかったからだといわれています。現に相国寺には、若冲が大火類焼後の困窮のため、寛政3年(1791)に永代供養の契約を解約したとの記録が残っています。若冲は生涯初めて、金銭のために絵を描くことになったわけです。 前述で列挙した絵のいくつかについて少し触れておきます。京都・海宝寺の「群鶏図障壁画」は現在京都国立博物館蔵となっていますが、この障壁画のあった部屋は「若冲筆投げの間」と呼ばれています。この作品を最後に若冲は筆を執らなくなったという逸話に由来するとのことですが、実際にはその後も精力的に絵を描いています。 大坂・西幅寺障壁画「仙人掌群鶏図」(下図)は、今までの若冲の鶏の絵とは、様相が異なっています。極めて微笑ましい家庭的な光景になっています。老境を迎えて、若冲の世の中を見る眼差しに変化が生じたのかもしれません。「仙人掌群鶏図」 大阪・西福寺蔵(重要文化財) 「菜蟲譜」(下図)には、98種の野菜や果物と、およそ56種の昆虫などが描かれています。かつての青物問屋主人の面目躍如というところでしょうか。ただ、「動植綵絵」と同じように絹本(けんぽん)着色画でありながら、「動植綵絵」のような生気がギラギラする様は見られません。これも老境を迎えての画風の変化かもしれません。「菜蟲譜」(部分)佐野市立吉澤記念美術館蔵(重要文化財) その後も若冲は石峰寺門前で隠遁生活を送りながらも、絵画の制作意欲は衰えず、寛政12年(1800)に85歳で亡くなるまで、作品を描き続けました。亡くなる年にも、石峰寺観音堂に「花卉図天井図」(現在、京都・信行寺蔵)を残しています。若冲は石峰寺に土葬され、相国寺で四十九日の法要が行われました。石峰寺には若冲の墓があります(右写真)。墓のそばには、幕末の書家(幕末の三筆の一人)貫名海屋(ぬきなかいおく)撰文による筆塚が立っています。 石峰寺は晩年の若冲ゆかりの寺院ですし、本人の墓もありますので、若冲の命日である9月10日には、「若冲忌」と称して法要が行われます。その前後には石像寺が所蔵する若冲の水墨画掛軸が展示されます。今年(2020年)はコロナ禍で完全予約制での観覧となったようです。 遺髪は伊藤家の菩提寺宝蔵寺(下の写真)と相国寺に埋納されました。宝蔵寺は裏寺町通蛸薬師上ルにある浄土宗の小さな寺院です。堂宇内は通常非公開ですが、境内には自由に入れ、門を入ったところに若冲の親族の墓があります。もともとは境内の檀家墓地にあったようですが、若冲ブームもあって、門を入ったところに移設されたようです。 下の写真に宝蔵寺の親族の墓の写真を示します。左から、末弟・宗寂、次弟・宗厳(白歳・五代目枡屋源左衛門)、父母、早世した弟と妹の墓です。宗厳と父母の墓は、若冲が建てたことが知られています。宗厳の墓は誰が建てたのかをご住職に尋ねたところ、宗厳自身が生前に建てた寿蔵とのことでした。宝蔵寺(裏寺町通蛸薬師上ル) 若冲の親族の墓(宝蔵寺) 宝蔵寺では、毎年2月8日の若冲の誕生日に法要「若冲誕生会」が営まれます。一般の方も参列でき、宝蔵寺所蔵の若冲や若冲の弟子の絵が観覧できます。 次回から、若冲ゆかりの人物「売茶翁」と若冲の名の由来、「斗米庵」「米斗翁」の雅号について述べたうえ、若冲の絵の技法の解説に入ってゆきます。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/28
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【2021年5月27日(木)】 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり在宅でした。会の月イチの集まりに向けての準備に時間を費やしました。 「奇想の画家 若冲と応挙」の13回目です。今日は老年期の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-8 老年期の若冲 前々回、若冲の一番の代表作群「動植綵絵」について述べました。若冲55歳のとき、明和7年(1770)に父親の三十三回忌が営まれ、それまでに相国寺への「動植綵絵」全30幅の寄進が完了しました。若冲はその後も、ずっと作画三昧の生活を送ったであろうと信じられてきました。 ところが、比較的最近、それを覆す発見がもたらされ、若冲研究者を驚かせました。滋賀大学の経済学者・宇佐美英樹氏が1989年に「京都錦高倉青物市場の公認を巡って」という論文を書きました。「京都錦小路青物市場記録」(京都大学蔵)(右図)に記された、明和6年(1771)から安永3年(1774)にかけての錦高倉青物市場の動向について研究したものです。若冲がこの論文に登場するのですが、長らくこの論文は美術史研究者に知られることはなく、ようやく2008年になって大阪大学・奥平俊六氏が紹介して、世間の注目を集めることになりました。宇佐美氏の論文は、次のような内容です。『若冲は枡源の主人は隠退していたが、高倉四条上ル町(帯屋町)の町年寄に就任していた。ライバルの五条問屋町市場が多額の冥加金を奉行所に納めるなどして働きかけ、錦高倉市場の営業停止を企んだ。ついに奉行所は錦高倉市場の市を停止させた。錦高倉市場は、若冲の住む帯屋町を含め4つの町の商人が商売をしていた。五条問屋町市場の使いが若冲のところに来て、もし帯屋町だけが五条から市の権利を借り受けるようにするなら世話をするという。若冲はこの取り崩し工作を拒絶し、4つの町全体での市場再開を模索する。錦高倉市場も冥加金を納めて一旦市場は再開するが、再び差し止めになる。若冲は精力的に活動をし、取引きする壬生村などの百姓に市場の必要性を訴えさせたり、自ら江戸表に訴える決意までしたりした。こういった努力が実を結び、錦高倉市場の再開が許された。五条問屋町市場との闘争が始まった後、解決までに足掛け4年の歳月を要した。』 このように、若冲は枡源主人引退後も、社会に背を向けて絵を描くことだけに没頭したわけではなく、いざとなれば命もかえりみず、社会的な行動をしていたことが分かります。若冲56歳から59歳までの出来事でした。 この騒動のさなか、若冲は安永3年(1773)の夏、58歳のとき、萬福寺住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会いにいっています。萬福寺は黄檗宗の大本山です。若冲と交流のあった重要人物の一人として後述する売茶翁も元黄檗宗の僧で、臨済宗の僧、大典顕常と交流がありました。黄檗宗も臨済宗も禅宗です。その禅宗繋がりがあって、若冲は伯珣照浩にまみえることができたのかもしれません。そのときの様子が. 伯珣照浩の「革叟偈頌(かくそうげじゅ)」(右図)の中に書かれています。次のような意味の文です。「若冲が今年の夏、萬福寺に来て私は初めて若冲に会った。若冲は言う『絵画の仕事は既に達成した。自分はいつまでも世俗に混じって生きるべきではない』と。新しい名前と僧衣を与えて欲しいという。それゆえ革叟(かくそう)という僧号を与え、自分の衣を脱いで与えた。」ここで「革叟」とは「革命的な老人」というような意味です。若冲は、僧号と僧衣を与えられ、事実上の出家をしたわけです。 若冲が伯珣に出会った後に描いた「猿猴摘桃図(えんこうできとうず)」(下図)には伯珣の賛が入っています。 さて、ますます禅の道に傾倒した若冲は、安永5年(1776)、還暦を迎え、この頃から伏見深草の石峰寺(せきほうじ)に五百羅漢石像群の奉納を始めます。石峰寺は黄檗宗の寺院ですので、前述の伯珣が間に入って実現したのでしょう。 若冲自身が石像を彫ったわけではありません。若冲が下絵を描き、石工が彫るという分業です。石工に彫ってもらうためには、多額の費用が必要です。そこで若冲は、略筆の墨絵を多く描き、それで代金を得て、費用を捻出をしたのです。若冲の絵といえば「動植綵絵」のような細密な彩色画が有名ですが、軽妙な水墨略画もたくさん残っています。ただ若冲の落款がありながら、弟子の絵と思しき作品も混在しています。石像群を完成させるために、水墨画を量産する必要があったからでしょう。 なぜ、この石像群が造られ始めたのが、安永5年(1776)頃と分かるのでしょうか。大典が若冲のことを記した、「藤景和画記」は若冲45歳のとき、「寿蔵碣銘」は若冲51歳のときに書かれています。もはやこれら2つの史料に頼ることはできません。 実は、江戸時代にはすでに観光ガイドブック的な本が発刊されていました。その一つ「拾遺都名所図圖會(しゅういみやこめいしょずえ)」(天明7年[1787]・秋里籬島{あきさとりとう]著)にこうあります。「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、・・・ (中略)・・・近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」安永は10年までですから、安永5年頃に、石像群が造られ始めたと特定できるわけです。 その前年にやはり秋里籬島によって刊行された「都名所圖會」天明6年再版(下図)には、挿絵の中に五百羅漢が登場しています。 明治時代の廃仏毀釈の影響などもあって、石像の数は少なくなっていますが、今も多くの石像群を拝観することが可能です。石峰寺は京阪電車龍谷大前深草駅の東方約400メートルにあります。五百羅漢像は、釈迦の一生を表わしています。以前は、写真撮影可能でしたが、今は禁止になっています。下の写真は、撮影可能だったときに撮ったものです。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/27
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【2021年5月26日(水)】 昨日は、午前、午後、別々の会の用事で事務所に出向きました。サプライズの件もあり、今日で会の勤務最後の方にご挨拶をさせていただくなど、濃厚な一日でした。 歯の痛みは続き、昨日も昼間と寝る前に鎮痛剤を服用したのですが、今日は、昨晩服用してから12時間経った今も痛くはないので、治まりつつあるのかなと思います。痛みが続くようであれば、歯医者に駆け込もうかと思ったのですが、見合わせました。 昨日は雨は降りませんでしたが、曇り空で、残念ながら皆既月食を見ることはできませんでした。今日はまた雨です。本当に梅雨らしい天気が続きます。6月1日の月イチ打ち合わせに向け、準備を進めました。「奇想の画家 若冲と応挙」の12回目。当時そして現代の若冲人気について探ります。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-8 若冲人気 若冲は、第1回で述べた辻惟雄氏の「奇想の系譜」で紹介されましたが、その後も一般の人々にとっては、まだまだ無名の存在でした。一般の人々が名前を知るようになり、いわゆる「若冲ブーム」が起こったきっかけが、平成12年(2000年)に京都国立博物館で開催された「特別展覧会 没後200年若冲」だったといわれています。「こんな絵描きが日本にいた」というキャッチコピーでした。この言葉のように、皆さんの中にも、「生前から最近までずっと埋もれていた画家」という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。決してはそうではなかったということも含めて、以降の若冲の生涯を紹介していきたいと思います。なお、第10回で紹介したプライス・コレクションの作品群も、このときに多く展示され、一般の方もジョー・プライス氏の名を知るようになり、海外に多くの若冲作品が流出したことが認知されることになりました。 若冲によって相国寺に寄進された「動植綵絵」や「釈迦三尊像」は、その後どのように扱われたのでしょうか。 明和3年(1766)若冲51歳のとき、真如堂本尊開帳の際に、相国寺方丈室中正面に「釈迦三尊像」、左右に「動植綵絵」12幅が飾られ、同年、相国寺例年の虫干しで「釈迦三尊像」と「動植綵絵」24幅(まだ24幅しかなかった頃)が、中の間に掛けられました。 続いて、明和6年(1769)若冲54歳のときには、相国寺閣懴法に「釈迦三尊」と「動植綵絵」が掛けられました。閣懴法とは、観音菩薩に帰命信従して、自己の罪業を懺悔する儀式です。相国寺のそれは京の年中行事になっていました。以降、毎年掛けられ、その折には、門前に出店が軒を連ね、多くの参拝者が列を作りました。これらは相国寺の記録に残っています。 真如堂開帳の際や、虫干しの際は、どこまで一般の人々に公開されたかは、私自身は詳しく研究できていませんが、少なくとも閣懴法の際は、一般にも公開され人気を博したようです。真如堂開帳の際や虫干しの際に、若冲作品を目にした一部の人々から口コミで伝わって、閣懴法での人気に繋がったのかもしれません。「釈迦三尊像」は仏画ですが、仏教には「草木国土悉皆成仏」(草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏する)という考え方がありますので、「動植綵絵」も一種の宗教画といえるでしょう。若冲も「釈迦三尊像」の脇幅という意味を込めて「動植綵絵」を寄進したのでしょう。相国寺もそういう意味を込めて、「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を並べて公開したとのだ思いますが、お寺の宣伝にもなったのではないかと思います。そんなことは解説本には書いてありませんが。 明治時代になると、この脇幅の「動植綵絵」が、廃仏毀釈で困窮する相国寺を助けることになります。明治5年(1872)に「京都博覧会」が開かれました。その後毎年開かれ、昭和3年まで続きました。明治5年の第1回では、西本願寺も会場となり、そこに「動植綵絵」30幅が展示されました。その後の「京都博覧会」でも、何度か展示されました。幾ばくかの出展料が相国寺を助けたはずです。 しかし、廃仏毀釈による相国寺の疲弊はさらに続き、ついに明治22年(1889)、京都府知事の斡旋で、「動植綵絵」は、皇室に献上されることになり、見返りとして1万円(詳しくは分かりませんが、当時の1万円は相当の価値です)の下賜金が相国寺に納められました。これによって、相国寺は失われようとしていた寺地を確保することができました。今の相国寺の姿があるのは、「動植綵絵」のお陰だと言っても過言ではありません。 このように、若冲は江戸時代の生前から、明治前半に至るまで、一般の人々にも人気があった画家なのです。決して平成になって、初めて発掘された画家ではないのです。では、何故最近まで注目されなかったのでしょうか。「動植綵絵」は明治中期に皇室への献上によって、御物(ごもつ、ぎょぶつ)になりました。これによって若冲の代名詞でもあり、一番の飛び抜けた代表作群である「動植綵絵」が一般に人々の目に触れる機会が無くなってしまいました。こういったことも一つの要因となって、最近まであまり注目されることがなかったのかもしれません。 昭和天皇崩御後、平成元年(1989)に「動植綵絵」は国に寄贈され、宮内庁三の丸尚蔵館蔵となりました。それが2000年の特別展が企画・開催に繋がり、若冲ブームに火が点くことになりました。 さて、江戸時代若冲の生前時代には、若冲の人気がいかに高かったかを示す、動かぬ証拠があります。「平安人物志」という書物です。江戸時代中期から後期にかけて刊行された書物で、京都の市井の各方面の文化人を紹介し、人気番付のかたちで掲載しています。明和5年(1768)から慶應3年(1867)にかけて、計9回刊行されました。平均すると約12年に一度の刊行で、都度アップデートされました。「画家」の項もあり、京都の市井の画家の人気番付を知ることができます。死亡すると名簿から抹消されますので、若冲の名が記載されているのは、明和5年(1768)版、安永4年(1775)版、天明2年(1782)版ということになります。 まず、明和5年版(1768)(下図)を見てみましょう。右から左へ1番人気、2番人気と続きます。「平安人物志」明和5年(1768)版 画家の項(赤の四角は、筆者追加。現在もよく知られた画家。他の版も同様) 番付1位は「大西酔月」。いきなり名前も聞いたことのない画家です。このように我々のあまり知らない画家も多く記載されているので、よく知られた画家だけピックアップしていきましょう。2位:円山主水(応挙)、3位:若冲、4位:池野秋平(池大雅)、5位:与謝蕪村、9位:嶋田内蔵助(島田元直・応挙の弟子)、16位:玉蘭(池大雅の妻)。後に詳しく紹介する応挙が堂々2位に入っています。若冲は3位。応挙だけでなく、弟子の島田元直もランキングに入っていることが注目されます。 次に、明和5年版の7年後に刊行された、安永4年版(1775)(下図)を見てみましょう。「平安人物志」安永4(1775)版 画家の項 明和5年版で1位だった大西酔月は亡くなったため、もはやランキングには登場しません。替わって1位になったのが、円山応挙、そして2位が若冲、3位:池大雅、4位:与謝蕪村、5位:島田元直、6位:玉蘭と続きます。このあたりまでは、明和5年版と同じような顔ぶれですが、以降、新しい顔ぶれが加わります。11位:原在中、12位:松村文蔵(呉春、円山派から派生した四条派の祖)、14位:駒井幸之助(源琦、応挙の弟子)、15位:曾我蕭白。「奇想の画家」の一人、曾我蕭白が加わり、円山派関係の画家がさらに加わっています。 その7年後の天明2年版(1782)(下図)を見てみましょう。「平安人物志」 天明2年版(1782) 画家の項 1位:応挙、2位:若冲、3位:蕪村、4位:島田元直(名が変わって嶋田主計頭)、9位:原在中、11位:源琦です。大雅が亡くなったので登場しませんが、1位、2位の応挙、若冲は動かず、蕪村も3位と相変わらず強いです。15位:山本主水(山本守礼、応挙の弟子)、19位:岸健亮(岸駒、岸派の祖)、20位:長沢蘆雪(応挙の弟子、奇想の画家の一人)が新たに登場します。25位に玉蘭です。 このように、応挙、若冲は常に大人気でした。若冲は決して埋もれていた画家ではなく、生前から非常に人気の高い画家だったということが、この「平安人物志」からも知ることができます。それから、多くの応挙の弟子も人気があったことが分かります。このことは、応挙の紹介のところで触れたいと思います。また、このような「人物志」が何度も刊行されたのは、経済力をつけた町人たちが、価値のある絵画とか書を手に入るための参考にするという需要があったからだと考えられます。町人文化の発展の一端を示す事実といえるでしょう。絵描きを目指す人が、誰に弟子入りしたらいいのかを考える指針になったのかもしれません。 次回から、若冲の老年期、晩年に入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/26
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【2021年5月25日(火)】 梅雨の晴れ間でした。月イチの会のお役の私担当の打ち合わせで、5日ぶりの京都市内でした。本来ならば修学旅行生で賑やかなはずなのですが。昨日の歯の治療でしたが、今日、痛みが出てきてました。ガマンできるレベルですが、つらいです。「奇想の画家 若冲と応挙」の11回目です。いよいよ代表作「動植綵絵」を若冲は描きます。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-7 「動植綵絵」を描く 10代半ばから絵を描き始めた若冲は、今まで述べてきたように、描くべき絵のスタイルを模索しながら、絵の技量を伸ばしていきます。さらに鶏の写生を経て、技量を一段と高めた若冲は、画家として独り立ちすることを決意します。宝暦5年(1755)40歳のとき、家督を次弟・宗厳に譲ります。このことは第7回で紹介した「町中沽券状」で知ることができます。宗厳が五代目枡屋源左衛門として、枡屋を継ぎ、若冲は絵を描くことだけに専念します。そして、宝暦8年(1758)、若冲43歳のとき、一番の代表作、いや代名詞といってもよい作品群「動植綵絵」の連作に着手します。 若冲筆「動植綵絵」(一部)宮内庁三の丸尚蔵館 「動植綵絵」は全30幅の彩色画ですが、「藤景和画記」では、「花鳥三十幅」と表現されており、当初は水墨画が三幅あった(「墨画三」)と書かれています。しかし、やはりインパクト狙いなのか、最終的には全30幅とも彩色画となりました。「動植綵絵」についての記述@「藤景和画記」 「動植綵絵」は大典顕常が住持を務めていた慈雲庵の本山・相国寺に寄進されたものですが、若冲は「釈迦三尊像」も合わせて相国寺に寄進しています。この釈迦三尊像は、東福寺にあった伝・張思恭筆「釈迦三尊像」を模写したものです。東福寺も相国寺同様、臨済宗の本山であり、やはり大典顕常繋がりで模写が実現したのでしょう。その東福寺の原本の中幅・釈迦像は、現在米国・クリ―ブランド美術館に所蔵され、模写の方の若冲筆「釈迦三尊像」が相国寺に残っていているというのも歴史の綾なのでしょうか。 若冲筆「釈迦三尊像」 宝暦11(1761)~明和2(1765)相国寺蔵 若冲が相国寺に寄進したのは、「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」3幅、合計33幅になるわけですが、何故33幅なのでしょうか。観音菩薩が衆生を救うため相手に応じて33の姿に変化すると、法華経のなかの観音経に書かれています。このいわゆる「観音三十三応現身」と呼ばれる信仰に基づいたのではないかといわれています。因みに「西国三十三所巡礼」も、この「観音三十三応現身」の信仰に由来するといわれています。 しかし、最初から33幅全部同時に寄進されたわけではありません。明和2年(1765)若冲50歳のとき、末弟の宗寂が亡くなります。同じ年に、父・宗清の27回忌が営まれます。これに間に合うように、まず「釈迦三尊像」3幅と、既に完成していた「動植綵絵」24幅、合計27幅が寄進されました。このとき寄進状に「動植綵絵」という画名が使われています。若冲は43歳から「動植綵絵」を描き始めましたが、非常に細密な絵のため、制作に時間がかかったのでしょう。そのうえこの時期、いくつかの他の大作も手掛けています。ですから、「ようやく27幅だけが間に合った」という考え方もできます。一方で、父親の27回忌なので、「27という数字に拘った」という説もあります。 そして、明和7年(1780)若冲55歳のとき、父親の33回忌が営まれ、それまでに「動植綵絵」残り6幅を完成させ、ようやく全30幅の寄進が完了しました。 前述したように、この40歳代は、「動植綵絵」だけでなく、他にも大作をいくつか残しています。代表的な作品だけでも、宝暦4年(1759)44歳のときの、鹿苑寺(金閣寺)大書院の50面に及ぶ水墨画の障壁画、明和元年(1764)49歳のときの、金刀比羅宮奥書院の「花卉図」、「山水図」、「杜若図」、「垂柳図」などがあります。鹿苑寺大書院の水墨画は、現在は相国寺承天閣(じょうてんかく)美術館で、常時公開されています。若冲筆「葡萄小禽図(ぶどうしょうきんず)」鹿苑寺大書院障壁画 相国寺承天閣美術館蔵 また、大典の「小雲棲稿」によると、宝暦10年(1760)若冲45歳の頃、大典は若冲、池大雅らと京郊外で観梅を楽しんだとあり、若冲と文人画家・池大雅との間に交流があったことも分かります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/25
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【2021年5月24日(月)】 午前中は歯医者でした。この頃1週間に一度のペースで治療が続いています。今日から、左上奥歯(親知らず)の治療が始まりました。もともとは弱ってきているので、抜いてしまいましょうということだったのですが、再考の結果、何とか残しましょうということになりました。根の治療したうえ、土台を作って被せをします。帰ってきてから、月イチの高血圧薬、抗尿酸薬の投薬で、近所の医者通いでした。いつものアムロジピンとフェブリクをいただきました。あとの半日は、会のこと色々でした。 「奇想の画家 若冲と応挙」の10回目です。有名な若冲の鶏を飼って写生をした時代のことです。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-5 自分で見る「物」を描く さて、そうやって中国画から学ぼうとした若冲ですが、またまた行き詰まりを感じます。いくら模写をしたり、絵から学んだりしても、絵を手本とする限りは、「宋元画の画人と肩を並べることはできない。模写では、自分と物が隔たるばかり。」 そんななか、37歳で描いた「松樹番鶏図」に初めて「若冲居士(こじ)」という落款を使います。「居士」とは男子の戒名の下につける称号の一つですが、ここでは、在家の仏道帰依者という意味です。「若冲」の名の由来については、後ほど触れます。 さて再び行き詰った若冲はどうしたのでしょう。引き続き「寿蔵碣銘」からです。「自分が見ることのできる『物』を描くべきだ。」と結論付けます。そして皆さんよくご存知の「鶏」を写生する時代が来るわけですが、何故「鶏」なのかということも「寿蔵碣銘」には書かれています。「では何を描くか。雲の上を飛ぶ麒麟や中国故事人物は実存しない。月代頭(さかやきあたま=前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃った髪型)の日本人を描くのは嫌である。日本の山水も描くほどのものはない。では動植物だ。孔雀やカワセミ、鸚鵡(おうむ)や錦鶏鳥などは美しいが、いつも目にすることはできない。鶏であればいつでも見られるし、羽は五色の美しさをもっている。そうだ鶏を描くことから始めよう。」 鶏というのは、現在では、食用や産卵用の鶏だけを想像しがちなので、鶏を描くというのは、奇異にも思いますが、江戸時代には観賞用の鶏が流行したという文化的背景があったことを書き添えておきます。 「数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、その姿かたちを観察しきったうえで、初めてそれを写し取った。それが数年に及んだ。」「その姿かたちを観察しきったうえで、それを写し取った。」というところが、若冲の写生術の真骨頂のように思います。後述する応挙も写生を重要視した画家です。想像の域を出ませんが、応挙はまずは見たままをすぐ写生したと思います。若冲は「観察しきったうえで・・・」とあります。印象に強く残ったところが絵に現われることになり、若冲独特のインパクトのある絵になったのだと思います。その頃描いた鶏の絵の一つが下の図1「旭日雄鶏図」です。 若冲は絵の対象を拡げます。「草木や他の鳥、虫や獣、魚といった動植物の姿を知り尽くすことによって、それらに潜む『神』に出会うことが可能になり、手が動いて描けるようになった。」 こうやって、鶏以外の動植物や架空の鳥などを描く力をつけていきました。下に昆虫が描かれた図2「糸瓜(へちま)群虫図」、架空の鳥、鳳凰を描いた図3「旭日鳳凰図」を示します。 図4に「旭日鳳凰図」と「旭日雄鶏図」の落款を拡大してみます。字が少し斜めになったり、字がヨタヨタとしていたりするのが分かります。若冲の生い立ちのところで、「藤景和画記」に「字が下手」と書かれていることを述べましたが、これら落款はその事実を示すものではないかと思われます。若冲の初期の作品群のなかには、このような落款が見られます。図1 旭日雄鶏図 図2 糸瓜群虫図 宝暦3(1754)頃 プライス・コレクション 細見美術館蔵(右は部分拡大) 図3 旭日鳳凰図 宝暦5年(1755) 図4 字が斜めになった落款 宮内庁三の丸尚蔵館 旭日鳳凰図(図3) 旭日雄鶏図(図1) 2-6 プライス・コレクション ここでちょっと寄り道します。前述の「旭日雄鶏図」は「プライス・コレクション」からの作品です。若冲の展覧会には、この「プライス・コレクション」の作品群が出展されることがよくあります。 「プライス・コレクション」のフルネームは「エツコ&ジョー・プライス・コレクション」です。ジョー・D・プライス氏(1929年10月20日生まれ。今もご存命です。)の所蔵する日本絵画コレクションです。コレクションのフルネームから分かるように、奥様は日本人です。しかし、日本絵画を蒐集するようになったのは、奥様と知り合う前です。 1953年(昭和28年)にニューヨークの古美術店で伊藤若冲『葡萄図』に出会います。当時、伊藤若冲は日本でも無名に近く、プライス氏もただただ絵に惚れて買った訳です。その後もプライス氏は自らの審美眼を頼りに蒐集を続け、世界でも有数の日本絵画コレクションを築きました。蒐集した作品は伊藤若冲を中心に当時日本であまり人気のない作者のものが多くありましたが、次第に日本で逆輸入的に評価されていきました。ロサンゼルス郊外に鑑賞室などを併設した豪邸を構え、全コレクションは約600点に及びました。ただ、近年は高齢などを理由に、一部を「日本の専門美術館に引き継いでほしい」と受け入れ先を探していたようで、2019年に190点が出光美術館に売却され話題になりました。 若冲はいよいよ代表作「動植綵絵」の制作にとりかかります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/24
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【2021年5月23日(日)】 久しぶりのお日様でした。梅雨の晴れ間ですね。そしてジメジメしたおらず、さわやかな一日でした。一昨日打ったワクチンの腕の痛みは、今日は腕を上げても痛くはありませんでした。幸い私は副反応は軽かったようです。 昨晩はZoom飲み会でしたが、今日は別のグループのZoom飲み会でした。昨日もそうですが、高齢者の会ですので、ワクチン接種がメインの話題の一つでした。自治体によって仕組みが大きく違うことを再認識しました。 昨日、ちょっとのんびりしたので、今日は、在宅で少し会のこともしました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第9回目です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-3 生活環境と人となり 若冲は錦市場の青物問屋「枡源」の長男として生まれたことは述べましたが、実際にどんな環境で生活していたのか、どんな人となりだったのか、前述の「寿蔵碣銘」や「藤景和画記」で見ていきましょう。これら文書の原文は漢文ですので、それらを引用する場合は、現代文に変えて示します。場合によっては、省略したり、意訳を加えたりします。 「寿蔵碣銘」にこのように書かれています。「錦街は魚や野菜を扱う店が並ぶ。毎日、荷をかつぐ人が大勢集まる。」ここまでは、想像できる市場の風景ですね。実は、次の一文が重要なのです。「若冲の家は、日々彼らからその場所代をとれば十分な利益を上げることができた。」 問屋というと、百姓から野菜などを買って、それを小売りに売って、その利ザヤで商売するというイメージですが、他の問屋もそうだったかまでは分かりませんが、少なくとも「枡屋」は、商人たちに売り場を貸していて、その場所代で十分な利益を得られたというわけです。家が裕福であると同時に、時間に追われてあくせく働く必要がなかったということです。ですので、若冲は若い頃から、好きな絵を思う存分描くことができたでしょう。そして、若冲23歳のときに、父親が亡くなって、四代目枡屋源左衛門を継いだ後も、絵を描き続けることができたし、高価な画材も手に入れることができました。後述しますが、中国画の模写も数多くしています。大典顕常などを通じて、志納金を納めて、寺社の所蔵する中国画を模写することができたのでしょう。この家が裕福だったという点が、若冲の画風を形作る大きな一要因だと思われますし、ここが、後に述べる応挙と大きく異なるところです。 では、若冲の人となりはどうだったのでしょうか。「藤景和画記」に書かれています。「幼少から学問嫌い。字も下手。芸事も何もできない。音楽や女性にも興味がない。酒も飲まない。金持ちで贅沢な生活をしている人の話は知っているが、そうなりたいと一度も望むことはなかった。」大店(おおだな)の若旦那としては失格なのでしょうが、ただただ絵を描くことが好きだったようです。2-4 絵のスタイルを模索する では、絵画にどのように向き合っていったのでしょうか。15歳頃から絵を学び、30代半ばまでは、絵のスタイルを模索する日々が続きます。 再び「寿蔵碣銘」を見てみましょう。「絵を描くことだけは好きだった。まず、狩野派の技をなすものに学んだ。」 若冲の若い頃の作品には、狩野派画家の絵を模写したものと思われる絵があります。下に30代半ばの作品とされる「日出鳳凰図」と狩野探幽筆「桐鳳凰図屏風」を示します。鳳凰の姿が酷似しています。また、狩野派の画家に学んだといわれる大岡朴(しゅんぼく)の編集した絵手本集「画本手艦」(えほんてかがみ)に所蔵された「野馬」に類似した「馬図」という作品も残っています。下に示します。左:若冲「日出鳳凰図」ボストン美術館 左:若冲「馬図」個人蔵右:狩野探幽「桐鳳凰図屏風」(部分) 右:大岡春卜編「画本手艦」所蔵 サントリー美術館蔵 秋月等観「野馬」部分 龍谷大学図書館蔵 前述したのは、春卜の手本集にある絵から学んだのではないかというだけのことですが、若冲は直接春卜から学んだのではないかという説もあります。江戸後期に編纂された「扶桑名画伝」に「(若冲の)初メノ名は春教」とあります。春卜の弟子には「春×」という名の弟子が多かったことが分かっていますので、初め「春教」と名乗ったという若冲も、春卜の弟子だったのではないかということです(ただし、「春教」の落款がある絵は残っていません)。やはり江戸時代後期の「続諸家人物誌」の「若冲」の項には「初名春教、幼ヨリ画ヲ好ミ、大岡春卜二学ブ」とあるのも、春卜の弟子説の根拠になっています。家が裕福だったので、師をつけるのも経済的には難しいことではなかったはずです。 こうやって狩野派の絵を学んだ若冲ですが、やがて「獲得した技法は、狩野家の法に過ぎない」と行き詰まりを感じるようになります。そして次にとった行動は、「宋元画を学ぶ。千点を模写した。」 中国画に学ぼうとしました。前にも述べましたが、こんなにたくさんの中国画を模写できたのは、それらを所蔵する社寺に志納金を払う経済力があったからです。明確に中国画を模写したと分かる作品があります。下に若冲筆の「白鶴図」と中国・明代の画家・文正筆の「鳴鶴図」を示します。2羽の鶴の姿が非常に類似しています。若冲筆「白鶴図」若冲38歳頃 文正筆「鳴鶴図」(重文)中国・明代個人蔵 相国寺蔵 ですが鶴以外は大きく異なっています。土坡(どは)(地面に当たる部分)の松の木の表現や、青海波(せいがいは)に波しぶきを加えた表現が若冲独特のものになっています。文正の絵は相国寺所蔵です。一方、若冲の「白鶴図」は若冲38歳の頃の作品といわれており、大典顕常と知り合った後ですから、大典と知遇を得たことで、この絵を模写できたと想像できます。 直接中国の絵に学んだ訳ではないですが、中国画を学んだ日本人画家に学んだと思われる作品もあります。下に若冲筆「牡丹・百合図」と鶴亭(かくてい)筆「牡丹綬帯鳥図」を示します。 若冲30代前半「牡丹・百合図」 鶴亭「牡丹綬帯鳥図」慈照寺(銀閣寺) 神戸市美術館 江戸絵画史で紹介しましたが、江戸時代中期、日本に招聘されて三都の画家に大きな影響を与えたのが、中国(清)の画家・沈南蘋でした。長崎に滞在した沈南蘋に学んだ画家の一人が熊斐(ゆうひ)です。長崎黄檗宗の僧であり、画家であった鶴亭は、この熊斐に絵を学びました。下の若冲の絵を見ると、特に木の幹の描き方が、鶴亭のそれに酷似しており、若冲は熊斐の絵に学んだのではないかと考えられます。間接的にではありますが、若冲が中国画に学んだ例といえるでしょう。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/23
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【2021年5月22日(土)】 今日も時より雨が降るど鬱陶しい一日でした。両足院の予定でしたが、緊急事態宣言でキャンセルとなり在宅でした。昨日までの約束の会の作業は、12時を回ってしまいましたが、何とか終えることができたので、今日は少しのんびりとしました。 夜にはオーイ会の今年2回目のZoom飲み会がありました。今年の飲み会は今のところ、この2回だけです。寂しい限りです。私の三味線演奏をYさんが動画編集してくださって、皆さんに披露してくださいました。なかなか好評でした。皆さんコロナ禍下で元気にされており、近況報告や卒業した会社の状況について語り合い楽しいひと時でした。 昨日、町医者でコロナワクチン1回目の接種を受けました。昨日、少し頭痛がしましたが、今日は大丈夫です。腕を上げたりすると少し痛いですが、じっとしていたら大丈夫です、6月11日が2回目です。これから元気な老人が町に溢れることになるのでしょうか。 5月19日にK病院で、後腹膜悪性腫瘍の粒子線治療終了後19回目のCT検査・血液検査を受けました(こちら)。少し気になるところはありますが、経過順調です。今日、照射部の皮膚写真の撮影をし、そのデータを粒子線医療センターに送り、併せて、連絡簿、問診票を記入して、CT検査のCDや血液検査結果を同封して、粒子線医療センターに郵送しました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/22
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【2021年5月21日(金)】 今日はもともとは年イチの会の全体会でしたが、緊急事態宣言で集まっての開催はなくなり在宅になっていました。その後、ワクチン接種1回目がちょうど今日に入り行ってきました。 打ったときの痛みは、ほとんどなかったです。昔に比べると針も細くなったりしているのでしょうね。ちょっと頭痛がしましたが、それ以外の副反応は今日はなかったです。「奇想の画家 若冲と応挙」の第8回です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-2 大典顕常との交流 若冲の生涯を語るうえで忘れてはならない人物が大典顕常(だいてんけんじょう)です。梅荘顕常とも呼ばれます。若冲が画家として成功するのに大きな役割を果たしました。禅の高僧であり、漢詩人、文化人としても、当時著名だった人物です。若冲の庇護者ということで、若冲の父親的な存在というふうに誤解しがちですが、実は若冲より3歳年下です。ですので、よき理解者、支援者であると同時に親友のような存在だったといってもいいかもしれません。大典顕常 世継希僊筆 11歳で相国寺(しょうこくじ)塔頭(たっちゅう)の慈雲庵で得度し、27歳で慈雲庵の住持に就いています。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、同志社大学今出川キャンパスの北側に位置します。金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭です。 大典は33歳の頃、若冲と知り合います。若冲36歳の頃で、後述しますが、若冲が絵のスタイルについて色々模索していた時期です。そして大典は41歳のとき、慈雲庵住持を隠退し、詩作や書に身を投じ、42歳のとき(若冲45歳)、12巻に及ぶ「小雲棲稿」という漢詩文集を著します。その第8巻に「藤景和画記」(とうけいわががのき)と題し、若冲の人となりや若冲の絵のことを書きました。 大典顕常筆 「小雲棲稿」巻之八 「藤景和画記」の部分 「藤」は「伊藤」の「藤」で、「景和」は若冲の字(あざな)です。「景和」の落款は若冲の初期の絵にも使われています。 さらに48歳のとき(若冲51歳)、相国寺塔頭の松鷗庵に若冲の寿蔵(生前に建てる墓)を建てます。そして、そこに若冲のそれまでの生涯についての記述を漢文で刻みました。同じ文章が、さきほどの小雲棲稿の第9巻に「若冲居士寿蔵碣銘(けつめい)」として収められています。この寿蔵は、現在は相国寺の墓地に移され、足利義政や藤原定家の墓と並んで建っています。若冲の寿蔵(相国寺墓地内)と寿蔵碣銘 他にも種々若冲のことを知る手掛かりは残されていますが、この「藤景和画記」と「寿蔵碣銘」が、若冲の生涯を知るうえで、最も重要な情報源となっています。 大典は54歳で、慈雲庵住持に復帰し、61歳で相国寺第113代住持に就き、禅の高僧としても名を残しました。 大典は、若冲が画家として成長する支援をしたのみならず、若冲についてこのような重要な記録を残しました。そういった2つの意味で、大典顕常は、若冲を語るうえで、忘れてはならない存在なのです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/21
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【2021年5月20日(木)】 今日も梅雨空が続きます。今日は修学旅行ガイドが、コロナでキャンセルとなり、在宅の予定でしたが、午後から臨時に事務所に出向きました。コロナでガイドはなくても、バタバタとしています。 昨日の読売夕刊1面で「米17年ゼミ『狂騒曲』」の記事が目にとまりました。「17年ゼミ」、久しぶりにこの言葉を聞きました。私が米国に赴任したのが2004年。その時にゴルフを始めました。ゴルフ場で、セミの鳴き声が五月蠅くて、「日本の夏と同じだなぁ」と思ったところ、昔からの日本人駐在者が、「17年周期で大量発生する、『17年ゼミ』ですよ。」と教えてくれました。普通の年は、セミの鳴き声はあまりしないとのことでした。 なぜ周期的に大量発生するかというと、ある年に一斉に地上に姿を現すことで、鳥などの天敵に食い尽されるのを防いで生き残りを図っているというのが、一番有力な説のようです。では何故17年なのか? 実は13年ゼミというのもあって、13も17も素数で、この2つの大量発生が重なるのは221年に一度になります。ほかの年数の周期で発生するセミの出現とも重なる確率が低く、別の種類との交雑を避けやすくなるので、種として長く生き残りやすくなるということのようです。 地図を見ると、米国東部に限られているようです。私がいたのはオハイオ州でした。そこも確かに入っています。関連商品やイベントも盛んで、記事には菓子店での「セミ形チョコ」の販売も紹介されていました。 不思議な現象を改めて認識すると同時に、アメリカに赴任したときから、もう17年も経ったんだと、しみじみと思った次第です。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/20
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【2021年519日(水)】 今年の梅雨入りは早かったですが、梅雨らしい天気が続きます。太陽が顔を見せず、一日を通して、雨がしとしと降っているか、今にも雨が降りそうな天気です。 そんななか午前中K病院に行ってきました。後腹膜悪性腫瘍の粒子線治療を2015年5月に終えて、19回目のCT撮影です。同時に血液検査です。今回は尿検査は無しでした。 腫瘍の大きさは変化なしで安定です。2年くらいで縮小は飽和し、ここ4年間は小さくなったまま、大きさは変化していません。特定位置の腫瘍径推移 粒子線照射の副作用としては、腎機能悪化が最も心配な点です。その指標であるクレアチニン値は上限値は越えていますが、これも腎臓が1個しかない数値としては問題なしです。こちらももう4年間安定しています。尿酸値もフェブリク復調後からは上限値を超えたことはありません。ただ、ここ2年くらい高めで推移しているので。要注意です。クレアチニン値、尿酸値などの推移 半年前の前回検査でアミラーゼが高いことが医師から指摘がありました。膵臓がんなどで高くなる数値です。しかし、アミラーゼは腎機能が弱くなっても高くなり、よく調べてみると、検査がK病院に替わる前のM病院の時代から高めでした。K病院の医師はM病院時代の数値は知らず、K病院に替わって、しばらくしてから高くなったのので、要注意としたのだと思います。今回の検査では、正常値でした。心配するこはなさそうです。アミラーゼ値推移 赤血球関係の数値も腎機能悪化で下限値を少し下回る数値が続いています。異常な数値ではなく、安定もしているので、医師からは何の指摘もありません。ただ、ここ2回連続下がっているので、こちらも要注意です。赤血球関係数値の推移 今回のCTデータ、血液検査値や主治医のコメント、問診票などを粒子線医療センターに送らねばならないので、K病院から帰ってからの時間は、ほとんどそれに費やし、会のことはほとんどできませんでした。明日ですね。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/19
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【2021年5月19日(火)】 午後から外出でした。出るときに雨が降り出しました。まず歯医者。前回で右上奥歯の治療が終わり、今日はメンテだけでした。今後、左上奥歯(親知らず)の治療が始まりますが、以前、劣化が進んでいるので、抜歯と言われたのですが、今日は「何とか残しましょう。」ということになりました。その後、月イチの三味線レッスンでしたが、事務所が近くなので、少しだけ寄って用事もしました。三味線をかついで傘差しての、歯医者、レッスンは少々堪えました。 「奇想の画家 若冲と応挙」#7です。前回で近世日本画の概略史を終え、今回から、いよいよ若冲のお話です。◆第2章 伊藤若冲2-1 若冲生誕 若冲は、正徳6年(1716)京都の中心部、錦高倉青物市場の問屋「桝屋」の長男として生まれました。今でこそ、京都中央卸売市場ができ、錦市場は寺町通から高倉通まで、すべて小売店ですが、当時は問屋もあり、柳馬場通から高倉通までは問屋が並んでいました。若冲の生家「桝屋」は、その西端、錦小路高倉にありました。今の錦市場から想像して若冲は「町の八百屋に生まれた。」と思っておられる方も多いのではないでしょうか。そうではなく問屋に生まれたのです。このことが若冲の絵を理解するうえで重要なポイントの一つです。あとで詳しく述べます。 若冲生家と伊藤家菩提寺「宝蔵寺」の位置 若冲肖像画 久保田米僊筆 佐藤康宏著「もっと知りたい伊藤若冲」から 上図に若冲の肖像画を示していますが、これは明治時代の京都画壇の日本画家 久保田米僊が「若冲ハ十回忌」の際に、古老達に若冲の容貌を聞き取って描いたものです。若冲の自画像や生きている時代に描かれた肖像画は残っていません。 さて、若冲の生家は「錦小路高倉」にあったと断定的に書きました。実際にその場所に行ってみると、「伊藤若冲生家跡」という看板が立っています。京都大丸の東側を北上して、錦商店街の西側の入り口の南東角です。若冲生家跡(錦小路高倉南東角) 何故、断定できるかというと、若冲の生家が所在した京都錦小路高倉の中魚屋町では,江戸時代から町の共有文書「町中沽券状之写(ちょうちゅうこけんじょうのうつし)」が保存されていて、そこに枡屋源左衛門(代々の主人をこう呼んだ)の家屋敷の記録も残されているからです。 「錦街通中魚屋町南側」とあり、東には伊勢屋何某の店、西に高倉通とあるので、この場所が特定されたということでしょう。今この場所は、「錦そや」というお豆腐屋さんになっています。「町中沽券状之写」寛政19年(1793) 京都市歴史資料館蔵 下図に伊藤家の家系図を示します。若冲は三代目枡屋源左衛門である父・伊藤宗清(そうせい)、母・清寿(せいじゅ)の間に長男として生まれました。若冲の次弟が宗厳(そうごん)、その下の弟が宗寂(そうじゃく)です。さらに梅會(ばいえ)という妹と亀之助という弟がいましたが、この二人は早く亡くなっています。ですので、宗寂が実質的な末弟ということになります。宗清、清寿、宗厳、宗寂とも伊藤家の菩提寺宝蔵寺(場所は上に掲載済みの地図参照)の過去帳に書かれている法名であり、俗名は不詳です。 あとで述べますが、父・宗清が42歳で亡くなり、若冲は23歳で四代目として枡屋源左衛門を継いでいます。さらに若冲40歳のときに、家督を次弟・宗厳に譲り、宗厳が五代目として枡屋源左衛門を継いでいます。 宗厳のところに「白歳(はくさい)」と書いてあるのは、絵を描くうえでの雅号です。宗厳は兄・若冲から絵の手ほどきを受け、絵も嗜みました。宝蔵寺には、墨絵ですが、宗厳(白歳)筆の絵も残っています。家が青物問屋なので、野菜の白菜から「白歳」という雅号にしたという説もあります。 末弟・宗寂は若冲50歳のときに亡くなっています。宗寂には妻がおり、宗寂が亡くなった後、仏門に入り、心寂と名乗りました。若冲が晩年深草の石峰寺近くに住まいしたとき、この心寂とその連れ子といっしょに暮らしたと云われています。 伊藤家 家系図●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/18
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【2021年5月17日(月)】 昨日、近畿地方も梅雨に入ったようです。平年より21日、去年より25日早く、昭和26年に統計を取り始めてから、最も早い梅雨入りとなりました。コロナの影響かと思いたくもなります。 16日連続在宅の後、今日、久しぶりの長時間外出となりました。雨がひどくなくて助かりました。事務所で諸事しました。「奇想の画家 若冲と応挙」#6 です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-5 江戸時代後期 江戸時代後期の特徴は、江戸での展開です。 下に#2で示した年表「近世日本絵画の代表的な画家」の、該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 前項に書きましたが、18世紀後半に、南蘋派、秋田蘭画の画家らが江戸で活躍し、江戸にようやく本格的な民間画壇が成立しました。そこへ文人画や琳派が上方から伝わり、谷文晁や酒井抱一が、それらの画風を受け入れながらも、独自の展開をしていきます。さらに、文人画は、江戸の地にとどまらず、関東各地に広まりました。たとえば、水戸の林十江、立原杏所です。 また洋風表現は浮世絵師の間にさらに入り込み、葛飾北斎や歌川国芳によって新生面が開かれていきます。下の国芳の風景画は、洋風画の陰影法を取り込んでいますが、その付け方は極端で、空の諧調表現も独特です。歌川国芳 「忠臣蔵十一段目夜討之図」 天保2~3年(1831-32) 国芳の人物画には、江戸っ子の粋から乖離したグロテスクな絵を描いたものも多くあります。図7は水滸伝のヒーローたちをエキゾチックな筆致で描いたもの。「武者絵の国芳」と有名になりました。図8は、「寄せ絵(だまし絵)」と呼ばれるもの。いずれも印象的です。国芳はこのように風景画も人物画も独特の画風を持っていましたので、辻惟雄氏は、「奇想の画家」の一人としてあげています。 歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個金毛段景住」 同「みかけハこハゐがとんんだいゝ人だ」 一方上方では浦上玉堂や岡田米山人といった個性的な文人画家や円山応挙、呉春の流れをひく四条派が活躍します。また、幕末になると勤王派による王朝復古の風潮が盛り上がり、田中訥言(とつげん)に始まり、冷泉為恭(れいぜいためちか)へ受け継がれた復古やまと絵派が活躍しました。江戸でも江戸狩野の狩野養信(おさのぶ)が、やまと絵を極め、極彩色の王朝絵巻の作品を多く残し、面白いことに、そこに遠近法を取り入れたりしています。和と洋、新と旧の出会いといっていいでしょう。 洋風画は亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)、安田雷州(やすだらいしゅう)によって深められました。下に亜欧堂田善の「両国図」を示します。#5で示した勝川春章のぎこちない遠近法は払拭されて、より正確になり、陰影法も非常に繊細です。 亜欧堂田善「両国図」(部分) 19世紀初め 秋田市立千秋美術館 そして江戸時代は終焉を迎え、明治維新という大きな時代変化を経て、絵画は近代画壇へと繋がっていきます。 江戸時代の絵画史を駆け足で紹介しましたが、今回、とりあげる伊藤若冲、円山応挙はいずれも江戸時代中期の画家です。しかも、#5で示した画家年表を見ていただいたら分かりますが、応挙の生存時期は若冲の生存時期に完全に含まれています。全く同時代に生きたといっても過言ではないでしょう。若冲の方が先に生まれ、応挙が亡くなった後も、若冲はしばらく存命だったということです。それでは、次回から先にこの世に生を受けた若冲のほうから紹介していきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/17
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【2021年5月16日(日)】 コロナ緊急事態宣言下で色んな外出がなくなり、短時間の外出を除き、5月1日から16日連続の在宅です。今日がその最終日です。在宅といっても、会の雑事があってのんびりはできないのですが、それでも少しプライベートの時間がとれるようになりました。今年は早くも西の方が梅雨入りだそうです。京都も今、雨が降っており、すぐに梅雨入りでしょう。梅雨が明けた頃には、コロナ禍も明けていて欲しいものです。「奇想の画家 若冲と応挙」の#5です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-4 江戸時代中期 江戸中期は、江戸初期に力をつけてきた町人層がさらに発展した時期です。学問・文化・芸術が一握りの特権階級だけのものではなくなり隆盛を極めました。#2で示した年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 江戸時代は鎖国の時代ですが、中国とオランダは長崎での貿易が許されていました。中国からは、画家も招聘されました。沈南蘋(しんなんぴん)が清から招かれ3年間滞在しました。沈南蘋の写実的な絵は江戸、大坂、京都、三都の画家に大きな衝撃と影響を与えました。上方では円山応挙、与謝蕪村、伊藤若冲らが、その影響を受けましたが、刺激されながらも、それぞれが独自の画風を築きました。左:沈南蘋「枇杷寿帯」1750年 三井記念美術館右:沈南蘋「「老圃秋容図」1731年 静嘉堂文庫美術館 また、文化的なバックボーンがなくてもわかる、理解しやすい絵、訴求力のある絵が求められ、上方では多くの個性的な画家輩出しました。若冲もその一人ですが、辻惟雄氏の「奇想の画家」の一人曾我蕭白もこの時代の画家です。 曾我蕭白「雪山童子図」継松寺 曾我蕭白「美人図」奈良県立博物館 8代将軍吉宗は洋書を解禁しました。オランダから銅版画、油彩画が流入し、遠近法、陰影法など新しい写実技法がもたらされました。そして応挙のような新しい写生画を開拓しつつあった画家のみならず、文人画の池大雅にまで影響を与えました。 南蘋の絵は江戸ではそのまま受け入れられ、宋紫石のような南蘋派画家が育ち、西洋の銅版画などに刺激され、秋田蘭画と呼ばれる洋風画が生まれ、そして浮世絵師が浮絵を描くなど、江戸に本格的な民間画壇が成立しました。 下に勝川春章(かつかわしゅんしょう)の浮世絵「美人観賞図」を示します。ぎこちないですが、透視図法が使われています。#4で紹介した菱川師宣の立体表現とは大きく違います。このように西洋の写実技法は浮世絵にも影響を与えました。勝川春章「美人観賞図」1789~92年 出光美術館●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/16
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【2021年5月14日(土)】 今日は本来なら「京カレッジ」で、京都駅前のキャンパスプラザで「伏見稲荷大社とその周辺のお滝について」と題して講演の予定でしたが、緊急事態宣言で中止となりました。延期を検討中で現在10月実施を目指しているそうです。レジュメもパワーポイントも準備済みなので、是非、延期が成立して欲しいものです。 というわけで今日も在宅。午後から会のZoom会議があり、それ以外は会の雑用と、散歩の日でした。昨日から、急に暑くなりました。「奇想の画家 若冲と応挙」の#4です。近世日本絵画史の江戸時代前期です。第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-3 江戸時代前期 やがて時代は江戸時代へと移ります。徳川家の時代です。江戸前期は平和と高度成長の始まりの時代でした。幕府が新興地の江戸に開かれたため、都(京都)の文化の江戸への移植が始まりました。 #2であげた年表の該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的なな画家」の該当部分拡大狩野派の宗家は江戸に移り、その先遣隊となった狩野探幽は、余白の美など瀟洒淡麗な新しい時代様式の画風を創り上げました。安定した時代となり、安土桃山時代の気宇壮大で威信を誇示するような絵画がもはや幕府から求められなくなったということでしょう。下にに狩野探幽「四季松図屏風」を示します。 狩野探幽「四季松図屏風」左隻 大徳寺(重要文化財) 京都に残った狩野派は、京狩野と呼ばれました。京狩野初代狩野山楽の跡を継いだ狩野山雪は、探幽様式とは別の個性的な様式を生み出し、辻惟雄氏の「奇想の画家」の一人に数えられています。下に狩野山雪「老梅図襖」を示します。もと妙心寺天祥院蔵でしたが、現在はメトロポリタン美術館蔵です。明治期の廃仏毀釈の影響を受けて散逸してしまった逸品の一つです。京狩野派は、狩野山雪の後、衰退してしまいます。 狩野山雪 「老梅図襖」 米/メトロポリタン美術館 「大和絵」は平安時代に発達した日本独自の絵画スタイルですが、安土桃山時代になると、既に書いたように、天下人と結びついた狩野派が隆盛になります。それに対し、大和絵の名門であった土佐派は押され気味になり、京都を去って堺に移り、宮廷絵所職の地位を失ってしまいます。徳川の世になっても、宮廷の力は弱いままでしたが、禁中並公家諸法度が公布され、宮廷、公家は政治には参画できないものの、文化・芸術活動は公然と認められるようになりました。そのような動きの中、土佐光則が子の光起と共に京に戻り、宮廷絵所預として復帰しました。また、土佐光則の門人の住吉如慶は、江戸幕府御用絵師となって、住吉派の祖と呼ばれ、その子住吉具慶が地位を確立しました。 今まで述べてきたのは、宮廷、幕府など所謂特権階級の絵画ですが、町人層への絵画の浸透が始まった時代でもありました。琳派と呼ばれる俵屋宗達、尾形光琳の絵がそうです。琳派は尾形光琳の「琳」から名付けられたものですが、狩野派とか円山派とかの血縁とか子弟関係で繋がった流派ではありません。同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派で、後の時代に名付けられたものです。 下に示すのは尾形光琳筆の「燕子花(カキツバタ)屏風」ですが、この絵は「伊勢物語」第9段「東下り」八橋を題材とした絵であり、この絵を楽しむためには、そういった知識も必要でした。ですので、町人層への絵画の浸透が始まったとはいえ、まだごく限られた範囲でした。尾形光琳「燕子花図屏風」(国宝)左隻 根津美術館 摂津国伊丹生まれで、後に福井・江戸で活躍した岩佐又兵衛もこの時代の特筆すべき画家の一人で、その個性的な画風から、辻惟雄氏は「奇想の画家」の一人としてあげています。岩佐又兵衛は、実は織田信長に反逆を企て、失敗して惨殺された戦国武将荒木村重の生き残った子供なのです。極彩色の絵で日本の古典のパロディーなどの絵を描きました。美人画像の典型を生み、時様の風俗画にも新風を開いて、浮世絵の先駆者といわれます。 岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(部分) MOA美術館 「浮世絵の先駆者」と呼ばれるのが、さきほどの岩佐又兵衛ですが、「浮世絵の祖」と呼ばれるのが江戸で活躍した菱川師宣(もろのぶ)です。それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、一枚摺りの本格的観賞用の絵画作品にまで高めると同時に、後の浮世絵師が着手する様々なジャンルを開拓し、工房制作という量産体制の先鞭までつけました。ただ、さきほどの岩佐又兵衛にしても菱川師宣にしても、立体表現は稚拙です。後に江戸中期の浮世絵と立体表現を比較しますので、下の「歌舞伎図屏風」をよく見ておいてください。 菱川師宣「歌舞伎図屏風」(部分)東京国立博物館●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/15
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【2021年5月14日(金)】 昨日から暖かさが戻ったようです。今日は良いお天気です。今日はもともとは両足院の予定でしたが、コロナでキャンセルになり在宅でした。明日と、25日の会関係を進めました。コロナで在宅が続くので、時間がとれるよになった5月8日から、雨天以外は8000歩(昼間の室内ありきも含む)の散歩をしています。「奇想の画家 若冲と応挙」第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-2 安土桃山時代 では、まず安土桃山時代(16世紀後半~17世紀初頭)から見ていきましょう。この時代は、織田信長、豊臣秀吉の時代です。下剋上の戦国時代から抜け出したこの二人が、天下の支配権を握った時代です。またこの時代は、欧州に使節を派遣したり、朝鮮へ出兵したりということで、海外に目が向けられた時代でもありました。そんな時代背景だったので、気宇壮大な絵、威信を誇示する絵が求められました。 前回示した年表のうち、安土桃山時代部分を中心に拡大します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 この要求に応えたのが、狩野派です。狩野永徳の巨樹表現、大画面方式がもてはやされました。下図は狩野永徳筆、「檜図屏風」です。樹木の幹や枝が画枠からはみ出すダイナミックな構図になっています。狩野永徳「檜図屏風」(国宝)部分 東京国立博物館 このような絵が流行するようになり、同時期に活躍した、長谷川等伯、海北友松(かいほうゆうしょう)、雲谷等顔(うんこくとうがん)、曾我直庵(ちょくあん)も追随せざるを得ませんでした。下図に曾我直庵の鶏図屏風」を示します。堺で活躍した絵師で、水墨画や漢画の手法を取り入れ、中世的な絵を描く絵師ですが、この絵では巨樹表現を取り込んでいます。 曾我直庵「鶏図屏風」右隻 高野山宝亀院(重要文化財) またイエズス会の宣教師によって、油彩画の教育がされ、下のような西洋画法の絵が日本人によって描かれました。本格的な陰影法が取り入れられています。しかし、やがて禁教とともに歴史の闇に埋もれ、日本の絵画界にほとんど影響を与えることはありませんでした。もし、キリスト教の禁教がなかったら、江戸時代の絵画の様相もだいぶ変わっていたかもしれません。「泰西王候騎馬図」(部分) 神戸市立博物館 重要文化財●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/14
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【2021年5月13日(木)】 今日もお天気はよくなく、ちょっと寒い一日でした。こいうときに風邪をひきやすいので気を付けねばなりません。ワクチン接種の1日目がこの21日です。体調を万全に整えて臨まなければなりません。短時間の外出も在宅とカウントすると、5月1日から16日まで、16連続在宅です。今日はというか今日も15日と25日の集まりの準備に時間を費やしました。「奇想の画家 若冲と応挙」の#2です。◆第1章 近世日本絵画史概略1-1 俯瞰 下図に安土桃山時代から江戸時代、いわゆる近世に活躍した代表的な画家の年表を示します。この図は、安村敏信氏著「すぐわかる画家別近世日本絵画の見かた」(株式会社東京美術2005年)を参考に作成しました。字が小さくて申し訳ありません。それぞれの時代の解説では、読んでいただけるよう大きく拡大したいと思います。狩野派、琳派など絵の流派や、やまと絵、浮世絵など絵のカテゴリーで色分けして示しています。若冲や応挙に関係する画家は、あまり知られていない画家であっても極力入れるようにしました。 一見して分かるのは、特に江戸中期以降、絵のカテゴリーや画家の数が増えていることです。ちなみにWikipediaに登場する画家の数を数えてみると、安土桃山時代の画家が26人に対し、江戸時代の画家は473人です。文化的な側面で考えると、安土桃山時代は約50年、江戸時代は約250年ですから、安土桃山時代を基準にして、単純比例計算すると江戸時代の画家は、約130人ということになります。ところが現実には473人です。単純比例計算の3倍から4倍の人数になっています。これは江戸時代中期以降、より多くの人々が絵画を楽しむようになったということの現われと考えていいでしょう。年表「近世日本画の代表的な画家」(右から室町時代、安土桃山時代、江戸時代前期、江戸時代中期、江戸時代後期)●前回はこちら ●次回はこちら よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/13
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【2021年5月12日(水)】 昨日、暖房器具を片づけました。昨晩から少し気温が下がったようで、床暖だけに助けを借りました。次の次の土曜日、オーイ会のZoom飲み会があり、Yさんが私の津軽三味線の演奏の動画を編集して皆さんに披露してくださるとのことなので、演奏を録画して送りました。楽しみです。 さて世の中では、緊急事態宣言が続きます。この機会に、「奇想の画家 若冲と応挙」と題して、少しずつ投稿していきたいと思います。2018年から2019年にかけて、若冲や応挙についての本を買って読んだり、遠方まで足を運んで彼らの絵を見に行ったりしたことがありました。折角なので、そのとき学んだことを、まとめておこうというものです。退職したM社のOB会にもすでに投稿しており、その内容を見直しながらの投稿です。 今日は、その「序章」です。【奇想の画家 若冲と応挙】◆序章 伊藤若冲と円山応挙。いずれも京都で生まれ京都で活躍した江戸時代中期の絵師(画家)です。しかも、その生きた時期は重複しており、目と鼻の先に住んでいた時期もあります。しかし、この二人の絵の画風は著しく違いますし、生い立ちも大きく違います。そして、その生い立ちの違いが異なった画風を形作る大きな要因になっています。本投稿では、この二人の画家について、種々の比較を交えながら述べていきたいと思います。奇想の画家 タイトルを「奇想の画家 若冲と応挙」としています。これに違和感を覚える方も多いのではないかと思います。「若冲は奇想の画家だが、応挙はそうではないでしょ」と。 「奇想の画家」という言葉は、今から約50年前の1970年(昭和45年)、日本美術史家の辻惟雄(つじのぶお)氏が著した「奇想の系譜」という本に由来しています。非常に個性的な画風を持つ、6人の江戸時代の絵師、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳について書かれた本です。ここに伊藤若冲は含まれていますが、円山応挙は含まれていません。そして、応挙の画風を思い浮かべると、とても「奇想の画家」とは呼べそうにありません。本稿では何故私が応挙を「奇想の画家」と呼ぼうとしたかについても言及していきます。辻惟雄先生 「奇想の系譜」 本稿のコンセプトと構成 絵画鑑賞では、「キレイ」だとか「すごい迫力」とか、見たままを楽しむのも一つの方法です。しかし、画家の生涯や時代背景を知ることによって、より奥深く楽しむことができます。本稿は、皆さんが若冲や応挙、あるいは近世日本の画家の絵をご覧になるとき、より楽しく観賞していただく手助けになるようにという思いで書きました。「より楽しい絵画鑑賞のために」というのが、本稿のコンセプトです。 その構成ですが、最初に若冲や応挙の時代だけでなく、その前後も含め、日本絵画の歴史やその時代背景について俯瞰し、次に若冲、応挙の順で、その生涯、ゆかりの地、交流のあった人々、代表的な作品、絵画の技巧について述べていきます。●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/12
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【2021年5月11日(火)】 今日は両足院の予定でしたが、コロナでフリー日となりました。暖房器具を片づけた後は、会の在宅お仕事です。 2020年振り返り最終回です。「先立つものは何とやら」といいます。お金のお話しです。さすがに絶対額は憚れますので、目盛りはなしです。 収入の臨時は定額給付金、支出の臨時は車の購入です。株や投信の評価損益はわずかですが、プラスになりました。臨時収入、臨時支出を除く定常的な収支はプラスになりました。評価損益も含めた総合収支は、臨時出費が高額だったので、わずかにマイナスになりました。 収入はガイド関係がコロナで減りましたが、私の厚生年金が65歳でフルになったので、全体では前年に比べて約10%増えました。支出はコロナで、飲み会やゴルフやその他外出が減って、前年に比べ約17%減りました。 この結果、定常収支がプラスになりました。会社を辞めた2015年から見てみると,2015年は闘病生活中とその後の傷病手当があり、また2016年は傷病手当は無くなったものの、失業給付があって、プラスでした。しかし、年金生活になって、その後はマイナスが続いていました。それが去年プラスに転じたということになります。コロナ禍のポジティブな面ではありますが、元気なうちに、使いたいところに、お金は使いたいものです。 評価損益の経過を見ると年ごとの変化が大きいです。累計では少しマイナスです。今年はコロナが収まって、累計でプラスに転じることを祈ります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/11
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【2021年5月10日(月)】 今日は修学旅行の予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、フリー日となりました。午前中、予約してあった歯医者へ。右上奥歯の被せが完了です。これで終わりではなく、本来治療予定だった、左上奥歯(親知らず)の治療が続きます。 続いてこちらは予約ではないA眼科へ。コロナで空いているかと思ったら、結構混んでいました。GWで休診が長かったからでしょうか。緑内症予備群で3カ月か4ヵ月に一度診てもらっていますが、バラツキが大きいので、断定はできないそうですが、悪くなっていることはなそうです。 帰宅したら、ワクチンの申込案内と予診票が、二人分届いていました。近所の掛かりつけ医に電話での予約を試みました。繋がりにくかったですが、家内が2時間の間、根気よく電話してくれて何とか予約できました。6月には2回目打ち終えることができます。 昨日の読売朝刊から。英国がEUから離脱して、構成国の独立への動きが出ているとのこと。そのニュースの解説として、英国の国旗ユニオンジャックの成り立ちが書かれていました。イングランド、スコットランド、アイルランド3国の国旗の合成だったんですね。よく知れられていることかもしれませんが、私は知りませんでした。「ユニオン」=「連合」ですものね。「ジャック」は船首につける「船首旗」だそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/10
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【2021年5月9日(日)】 緊急事態宣言が延長され、年一度の集まりもなくなり、5月24日のTさん主催のコンサートも中止になって出演がなくなり、5月14日の「京カレッジ」での講演も秋に延期になりました。すでに両足院の5月は中止になっているし、修学旅行もすべてキャンセルになっています。5月の必要な外出は、10日の歯医者、17日の会関係、18日の三味線レッスン、19日のK病院、25日の会関係だけになりました。歩く機会が減ったので、自宅周りの散歩を復活せねばなりません。1年前と同じ状況になってきましたが、違うのが会のお役目があること。とはいえ、「京カレッジ」のレジュメを出して、厳しかった半年を脱した今、出来ていなかったことをやるチャンスではあります。 2020年の振り返り。今日は「コロナ禍下でできたこと」です。在宅が増えて、時間があったので、普通ならできていなであろうことが色々できたのは、コロナ禍のポジティブな面でした。・研究とその配信 *歴史教科書の中の京都を研究し、会仲間に配信 *若冲応挙講演動画を会仲間に配信 *若冲応挙研究をOB会に投稿・料理 6月末から18回にわたって料理に挑戦。中華料理中心。 11月大腸ポリープ入院、その後忙しくなってスローダウン。・Zoom飲み会 5月初体験。全部で3回。・パソコン・インターネットハード関連 *リンクケーブル購入・設置 *2台PC 机上に併置・台設置でキーボード収納可能に *Webカメラ購入・設置 *USBオーディオアダプタ購入・設置 *4ポートセルフパワーUSBハブ 2台購入・設置 *無線LAN 1Gにアップグレード(Zoom接続を色々テスト) *2台PC データ共有設定 *キーボード切り替えUSBポート購入・設置・音楽演奏データ編集と配信 *YouTube動画ダウンロード可能に *演奏をYouTube限定公開でバンド仲間と共有 *動画の音声分離テクニック修得 *音声の転調・速度変更テクニック修得 *全般的に動画編集力向上・資産管理エクセルフォーム便利化 ・庭手入れ 皐月一部伐採 竜の髭一部植え替え ヒメツルソバ・アオキ植え付け2台PCの併置と置き台設置 今年もコロナ禍が続いて在宅多いですが、去年に比べて在宅でも忙しいので、去年のようにはいかないでしょう。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/09
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【2021年5月8日(土)】 久しぶりの投稿です。前回は4月19日の千本通沿いを歩く研修でした(こちら)。以降は会の色んな用事が毎日あって忙しく、5月に入ってからは、5月14日の「京カレッジ」の講演のレジュメやパワーポイント資料作成にほとんどの時間を費やしました。それを昨日締め切りギリギリで出し終えました(結局、コロナで本番は秋に延期になりましたが)。12月中旬ごろから半年間、色んなことで常に何かに追い立てられる毎日でしたが、昨日のレジュメ提出でようやく一段落しました。ちょっときつい半年間でした。 昨日は月イチの会の集まりでしたが、コロナで中止となり、今日は両足院の予定でしたが、やはりコロナでなくなりました。 というわけで、中断していた「2020年出来事」の続きです。今回はブログです。毎日が日曜日のときは、非常にたくさんの投稿数だったのですが、ガイド会に入り忙しくなった2017年1月からは1日1投稿に絞り込んでやってきました。しかし、それもちょっときつくなってきたので、昨年8月から、投稿する内容を絞り込んだうえ、終日在宅のときのみに投稿というふうにしました。ですので、投稿記事数が大幅に減っています。しかし、アクセス数は過去最高で、12月末には500万アクセスを超えました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/08
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