全26件 (26件中 1-26件目)
1

十年の長きに渡って「さっちゃんのお気楽ブログ」を愛読していただき、ありがとうございました。今日、無事に四十九日法要を終えることが出来ました。さっちゃんの存命の時は勿論のこと、その後も、懐かしく思っていただける方々のご期待もあって、少しでもさっちゃんのことを知っていただければとブログを引き継ぎ更新してまいりました。お陰様で毎日三千人もの方々にご訪問いただき、又、温かい感想や励ましのコメントにも大いに元気付けられました。ブログを続けて良かったと感謝しています。今日を機にブログの更新は終えますが、当分の間、ブログはそのままにしておきたいと思っています。これからも、時々さっちゃんのことを思いだしてこのブログに遊びに来ていただければ幸いです。尚、絵画教室や原画展やブログ等を通じて、さっちゃんとお知り合いになって頂き、度々ご訪問いただいたり、何かと気にかけ、支えていただいた方々にも心から感謝申し上げます。最後に、皆様が元気にすごされることを、心から願っております。長い間、本当にありがとうございました。
2016年06月25日
コメント(51)

「いやな感じ」冠婚葬祭互助会とか称して入会を勧めに来た。昨日も今日もと煩わしいので、「もう居りません」とすぐに断った。娘も子もなく、両親も既に送ってしまって独りなので、用事はないと思っているのに、自分の葬式代の積み立てをせよという。けしからん。まだ二十年生きる予定で生活設計をたてているのに。「私、まだ死ぬ気はないんです」腹が立って一寸強く言ったけれど、何のききめもなく、喋りつづける。お昼の銀河ドラマが終わってしまうと尻をうかしているのに、パンフレットを広げて見てくれという。有名人であるまいし、死後のことまで誰が心配するもんか。最近はお墓もない方が迷惑かけなくてよいと思うようになっている。この文章は昭和五十七年十月、六十歳の時に書いたものです。さっちゃんのいうように、この後三十四年近く元気に活動を続けました。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~大好きなくりこちゃんと一緒に旅立ったさっちゃんは明日で満中陰を迎えます。これまでの間は新しい生へと生まれ変わる準備をしているとされていますが、明日は閻魔大王の裁定を経て無事に極楽浄土に行ってくれると信じています。代々のお墓に祖父母、両親、二人の兄妹と一緒に納骨されることになります。今も尚、さっちゃんから電話がかかってくるような気がして、ふと携帯電話に目をやることがありますが、私もそろそろ寂しさや悲しい気持ちを切り替える時期になったと思っています。 syun
2016年06月24日
コメント(12)

「30年前の作品です」 2013年6月11日の記事です1981年の頃の水彩の作品が数枚出てきました一生懸命に描いたようです描きたくて自分流の未熟な作品ですがなつかしくあのころを思い出しています今はチョチョイいのチョイと筆先でかいていますがあのころは真剣に うまく描こうと力が入りすぎています夢がいっぱいでした もちろん今も夢がいっぱいです~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「藍の没落」の中に書かれているようなことについて、子供の頃、断片的に聞かされていた記憶はあります。さっちゃんの残した資料を整理していると、父親が何代も前からの家系を整理し残したものを、引き継いでまとめていました。日頃からこうした資料や記録を大切にしているからこんな作品が書けるのだなあと改めて思いました。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(3)<つづき>S家といえば、母の家に冠婚葬祭があれば本家のS氏の代理として奥様が出席される。まるで華族さまの令夫人のように、一同が並んで平伏する中を、背筋をピンと張って、音もなく白足袋が一同の目の前をツーツーと通り抜けて、一番奥の上座に、何のためらいも見せず着座される。私は母の横にかしこまって、子供心に、大した御方だと目をみはって眺めたのを思いだす。封建思想のまだ残っていた昭和初年に、女も身分が高ければ、あれだけの威厳ある態度が見に備わるものかと、並みいる叔父たちが小さく見えたことだった。そのS家も戦後は農地改革で、祖先が開拓した○○新田など広大な土地を失い、市井に埋もれてしまった。今は吉野川も氾濫することは無くなった。祖父の墓参りにいくと、辺りは銀色のハウスの波が打つ。役場の帳簿には祖父の名が残っているのは、この方五尺の墓地だけである。幼い頃両親と訪れた時は一面の桑畑であった。水車がコトコト廻って眠気を誘い、小川には目高が群れていた。戦前、何かの折に京阪神から帰ってきて、わいわい騒ぎ、懐かしがったり、会えば必ず口喧嘩する兄妹もいて、賑やかだった叔父叔母たちは、もう一人もいない。いとこ達との付き合いも次第に薄れてきた。自然も変わる、社会の流れも変わる。人の心も当然変わるものなのだ。(おしまい)
2016年06月23日
コメント(10)

私が家から車で30分程の大和郡山にも箱本館・紺屋という藍に関する施設があります。豊臣秀吉の弟「秀長」が大和統治時代の頃に箱本13町と云われる城下町の自治組織が作られました。紺屋町はその一つで、江戸時代より藍染め等の商いを行っていた町屋が立ち並んでいた地域で、箱本館・紺屋は藍染めを生業としてきた町屋を改修し公開しています。建物の前には往時の名残で、染料を洗い流すために作られた用水路が残されています。 館内には藍染に関する器具や染料等の資料や作品が展示され、藍染の色合いや良さを知ることが出来ます。 syun ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(2)<つづき>祖父より十年長生きした祖母の姿は、両親から時折聞かされて、少しは想像できる。何故、それだけが私の家にあったのか分からないが、昔、押し入れにあっおばあちゃんのと分かる和歌らしい美しい仮名の連綿に見とれて「誰が書いたの」と母に聞くと、「おばあちゃんの手習いだろう」といった。他に一族に手習いなどする心の余裕のある人物に思い当たらないから確かなことと思う。祖母のエピソードとして、座敷を箒で掃くのに、一カ所を七、八回ずつ繰り返し掃くという話。戸や障子を開け閉てするときはひとが触れていない上の方を持つという話。徳島市の内町あたりの裏通りに隠れ住んでいたが、貸し本を毎日読んで過ごしていたという話。二十歳を頭に七人の姉弟のうち、幼児三人をつれていた筈だが、どのようにて暮らしを立てていたのか、四十三歳で亡くなったから、女盛りの三十代を、炬燵に入って手習いしたり、貸し本に読みふけっていたとは、不思議なひとであると思う。さて、数年前に出版されたK町教育委員会編集の「K町の歴史と文化財」という本の藍作の項に「阿波藍商繁昌見立鏡」として、明治十九年の分と二十九年の番付表が載っていた。戦前の県下のの有名な富豪たちが名を連ねていて、母方の本家S氏の名が中くらいの大きさの文字で記されているのを見つけた。母の話では油問屋と聞いていたが、昔は藍商として名を馳せていたということだ。そうすると、私の家は父方と祖父が藍師で、母方の祖母の実家も藍商だったという、藍にかかわる家系だということが分かった。といっても、吉野川沿岸の平地では藍作にかかわった人は多かったにちがいない。(つづく)
2016年06月22日
コメント(10)

何年か前に徳島の藍住町にある「藍の館」に行ったことがあります。旧奥村家屋敷の建物が昭和62年に11代当主奥村武夫氏から寄附され、併せて13万点におよぶ奥村家文書も町所有となったのを機に、旧屋敷内に展示館を新設し平成元年に開館したものだそうです。藍の専門博物館として阿波藍の知識を普及するとともに、藍の生活文化の創造と藍の情報センターとしての役割を担っているようです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(1)私の祖父の代までは藍師といわれる藍作業農家兼藍玉製造販売を営んでいたようだ。父の幼い頃の思い出話によると、庭に大きな寝床があり、三十人ほどの男女の使用人がいて、藍作りをしていたという。阿波の藍作りの歴史は古く、村上天皇の御時(九百四十六年~九百六十七年)に阿波の藍が最も優れているという記録が残っているらしい。その後、天正十三年(千五百八十五年)蜂須賀家政が入国し、吉野川沿線の洪水による肥沃な土地に藍作りを奨励して、大いに藩の財政が潤ったという。しかし幕末の頃になると、インド藍が輸入されはじめ、更に明治に入ると、ドイツの化学染料が広まってきて、複雑な製造工程や染めに熟練の技術を要する阿波藍は次第に没落していく。それでも、明治三十年代には最盛期を迎え、県内耕地面積の四十五%に藍を作っていたという藍王国出会った。そして明治三十六年、或いは三十八年頃をピークに急速に衰える。父は明治二十三年に生まれた。同三十四年十一歳の早春、父親が四十四歳で病死すると一夜にして家屋敷田畑を奪われて、在所を追われることになる。十六歳の長兄は大阪に出て医者の書生として住み込み、三男の父は河内の商店へ丁稚奉公に出され辛酸をなめることになる。祖母は「ごりょんさん」と呼ばれて、家の財政のこと一さいかかわりを持たず、水仕事もしたことが亡かった。だから、何故倒産したのか知らず、全く晴天のへきれきの出来事であった。原因といえば、祖父の遊里に時を過ごして家業をおこたり、総てををまかせて信頼をよせていた番頭の裏切りにあったということらしい。(つづく)
2016年06月21日
コメント(8)

さっちゃんは、それまで書き溜めていたエッセイの中から選んだ作品を「藍の風」として平成23年11月に自費出版しました。下記の文章は、その際に書かれたさっちゃんの「あとがき」です。発行部数も少なかったので、ご希望の方にも読んでいただくことが出来ませんでしたので、さっちゃんのことを知っていただける作品を何編かこのブログを通じて紹介させていただきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和五十年三月、二十八年間の教師勤務から解放されて、一日二十四時間、自由な時間を持つことのできる喜び、これから何をするべきかと考える楽しさに心躍るおもいでした。勿論、新制中学校が新設されて英語教師として教壇に立つことができ、職場の皆さまから頂いたご親切やご助言のおかげで無事勤めることができましたことを心から感謝致しております。さて、一番に考えたことは、二十余年住み慣れて、心ならずも、米軍機に追われる様に離れた故郷徳島市へ帰ることでした。そして戦後二十年お世話になった貞光町をでて鴨島町に引っ越してきました。鴨島町には知人もなく、ただ祖先の墓があるだけですが、何故かご先祖様に近づいた感じがします。昭和五十年四月、新居が出来たのに病気入院中の母が亡くなり、一人になってしまいました。それまで「ひまわり俳句」で高井北杜先生に俳句を三十年近く教えて頂いていましたが、平成十年、洋画を教えて頂いていた眞野孝彦のお勧めとご指導で「徳島短歌」に入会して今年で十三年目になります。十年目には徳島短歌賞を頂きました。短歌は奥が深いようで、どの道を行くべきか恥ずかしいことながら、いまだに入り口辺りでふらふら迷っている感じです。昭和五十年から六十年代にかけて、昔の思い出やその日その時に思いついたことなどを書きためていた短い文章を、この時代に生きて来て、時の流れに呑み込まれてながらも、自分の眼で見てきた時代を描き残すことが出来たらという願いから拙い一文を残すことにしました。題名の「藍の風」は祖父の代まで藍作りを営んでいた有様を幼時に見てきた父から時折聞かされていた思い出話から思いつきました。このたび出版するにあたり、藤原茂喜様に何かとお世話していただき、お力添えのお蔭と心から感謝いたします。また多田印刷株式会社の皆さまには大変お世話になりました。深くお礼申し上げます。 平成二十三年九月二十日 堀江 幸子
2016年06月21日
コメント(10)

「徳島大空襲の日」 2013年7月5日のブログ記事です7月4日は徳島大空襲の日でした多くの人の、そして 私の人生を狂わせた重大な出来事でしたそれを忘れるということは 今が平和で ブログのおかげで楽しい日々に恵まれている証ですだからといって決して戦争の悲惨さを忘れてはいけません幼い時から遊びなれた、お猿さんや小鳥たちのいる檻の並ぶ公園で焼夷弾の降り注ぐ中を逃げ惑った、あの夜の出来事近くの病院に10トンばくだんがおとされ、小さい池で幼友達が赤ちゃんをおぶったまま焼夷弾に打たれて亡くなりました頭からかぶったふとんからしょういだんが火を噴いているおとこのひとが絶叫しながら走って行きました 誰もなにもできません警防団のひとたちは山裾で並んでいて動けなかったのでしょう今の政治家の方はほとんど戦争を知らない人たちです「徳島大空襲の日に想う」 2014年7月4日のブログ記事です1945年7月4日深夜縁側から飛び込んできた焼夷弾におどろく。アメリカ空軍爆撃機のB29 が149機来襲2時間。照明弾に真昼の明るさ 天地も裂ける轟音と火焔束がはじけてザアーと,火焔を噴出しながら降り注ぐ焼夷弾地上に転がり、地面に突き刺さる人々は我家を捨てて公園に集まり身を隠すものを探して右往左往する背中に火を吹く弾をうけて狂ったようにはしる男 池の中で赤ん坊を背中に負ったまま弾をうけた幼友達防空壕の中で両親を亡くした同級生夜があけると見つけたものは城山のふもとに並んだ白い柩の数数その日は一日どんより日暮れ色だった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~もうすぐ徳島大空襲があった日(7月4日)になります。さっちゃんのブログの中にも、しばしばでてくる言葉です。何度か記事としても書かれています。私も小さな頃より、空襲を受けた日のことは聞かされていました。家の近くにあった城山の防空壕に逃げ込む時に小さかったのでタンスの引き出しに入れていたと。本当かどうか定かではありませんが・・・こんな日が二度と来ないことを願うばかりです。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「七月五日のかぼちゃ畑」七月四日は徳島大空襲の日です。真夜中、爆撃の轟音と渦巻く火焔の中、命からがら生き延びて、立ちこめる煙に太陽も顔を出さず、その夜は近くの焼け残った刑務所官舎のがらんどうの部屋で眠った。翌日、汽車が動くということを知って、親子四人で佐古駅へ向かった。道路の両側はまだ余燼が燻ぶっていて、熱かった。チラチラ赤い焔が瓦礫の間から見えた。佐古駅前には大勢集まってきていて、列車が出た後も積み残された人たちの長い行列が駅前広場に蛇行していた。突如爆音が聞こえてきた。米軍機が焼跡を偵察に来たのか、あるいは逃げまどう人びとを機銃掃射するためか分からないが、長い行列は一瞬のまにちりじりになった。どこか安全な場所はと見渡したが焼け跡には何もなかった。列に並んでいた人たちは何処へ消えたのか、私たちはどうしようもなくて近くのかぼちゃ畑へ飛び込んだ。遮蔽物にはならないが、かぼちゃの葉っぱに「隠しておくれよ」と、必死に祈り続けた。世の中がどんなに変わっても、戦争をさせない心と力を持ちたいと思っている。
2016年06月20日
コメント(10)

「かるた会の想い出(2)」 2015年3月16日の記事です「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」百人一首の中の超有名な阿倍仲麻呂さんのおうたです昨日のは「久方の光のどけき春の日にしずこころなく花ぞちるらん」お母さんのお得意の歌でした。私のお得意は蝉丸という坊さんの歌でした。子供の頃、昭和ひとけたの時代、かるた会が盛んでありました。集まった連中が紅白にわかれて札の取り合いっこをしました。元気な職場のお兄さんたちがどたんばたんと畳をたたくのでほこりもうもうのありさま夜更けまで熱戦が続きました。私も小学生の頃からいちまいのふだをとられないように守りました。そんなかるた会の想い出は今まで何度もブログでご紹介いたしました昭和一桁、あの時代がいちばんたのしかったなー大きいよく透るお父さんの声、いつも読み手を務めていました。「かるた会をしましょう」 2015年1月8日の記事です懐かしいかるた会をして見たいと思いましたが百人一首のかるた会はとてもできそうにありません。若い人は百人一首の歌を覚える機会がないようです。流行歌はおぼえても意味のわからない和歌など覚えても何の役にも立ちません。そこで「いろはかるた」をつくることにしました。 「犬も歩けば棒に当たる」でなくて昔よく歌った童謡の一節を集めて作ってみました。子供のころを思い出して歌いたくなることでしょう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ゲーム機全盛の時代、今の子供達が「かるた会」にどれほど興味を持つことが出来るか分かりませんが、「かるた会」を家庭で楽しめるような平和な時代が続くことは総ての人達にとっての願いです。さっちゃんは繰り返し戦争の悲惨さを話してくれています。今日から改正公職選挙法が施行され選挙権年齢が18歳に引き下げられます。それぞれが真剣にこれからの平和を考えたいものです。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「水谷さんの思い出(2)」<つづき>初めの内は自分の札を持った責任みたいなものを感じて、ひとに取られないように両手で囲ってみたりして守っていた。 ある時、絵入りの読み札を見て私のお気に入りの歌が盲目の琵琶法師の蝉丸の歌と知ってがっかりした。お姫様の歌だったらよかったのにと、蝉丸が疎ましく思われた。その後若者たちを招いてのかるた会は続いていたのだろうか、全く記憶にない。水谷さんはいつも朗らかであったが、新しいもの好きであった。そのころ流行しはじめていた鉱石ラジオを聴かせてくださった。レシーバーという電話の交換手が耳にあてているような道具でその頃のラジオは聞いていたようだ。私も気味悪く思いながら耳に当ててもらって聴いた。今でいえばお笑い番組みたいで、遠くの方から聞こえてくる観客らしき笑い声がどっと沸き起こっていたが、ガ―ガ―と雑音がひどくて何をしゃべっているのかわからなかった。その次に買ったのは蓄音機で、大きな箱の上に大きいラッパがのていた。ふたを開けてレコードを載せると、きれいな音楽が出て来た。サトウハチロー作詞の「赤い翼」という歌謡曲であった。彼はこの曲が大変気に入って「この曲いいねえ」「いいでしょう」と何度も念を押すように繰り返し、うっとりとして聞き惚れていた様子が目に浮かぶ。しかし、その後何故か新しいレコードを聴かせてもらった覚えはない。その後、彼は川向こうの大きい家に引っ越していった。夫人は寂しがって遊びに来てほしいと誘われて、何度か友達とふたりで尋ねて行った。学芸会のように歌を歌ったり、お遊戯をして楽しく、喜んでいただいた。そのころから中国との争いが続いていたが、上海事変の時には近所の八百屋のご主人が召集されて妻と幼児が残された。深夜の駅まで見送りに行った。隊列を組んだ武装した一隊の物々しさに大変なことになっていると実感させられた。気がついたときは世界㋨強国を相手に戦争のまっただ中に置かれて、平和な暮らしを奪われていた。アメリカ空軍の爆撃に遭い市民は生活をも奪われた。水谷夫妻の安否はわからない。(おしまい)
2016年06月19日
コメント(8)

「かるた会の想い出(1)」 2015年12月9日の記事です 嵐吹く三室の山のもみじ葉は 龍田の川の錦なりけり (能因法師)百人一首の読み札にお坊さんの絵があったのを覚えています。もうひとつ ちはやふる神代も聞かず龍田川 からくれないにみずくぐるとは(在原業平)業平さんはお公家さんでしたか?男前で女性にもてたとか?お隣に国鉄にお勤めの水谷さんがお正月が来ないうちから若者を誘ってどたんばたんのかるたとり、たびたび仲間入りさせてもらいました。平和な時代の楽しい思い出です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんのブログには「かるた会」の話がしばしば出てきます。今日の「水谷さんの思い出」も「藍の風」には掲載されていない作品です。まだ、父も母も元気だった小学生低学年の頃、正月には必ず百人一首をやっていました。勿論、読み手は父で、その名調子は大好きでした。その頃、百人一首のかなりの歌は暗記していたように思います。何故か一番先に覚えて私の得意札になったのは「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む 」でしたが、その後「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」等も大好きな歌になりました。百人一首で「ぼうずめくり」等、家族皆で賑やかに遊んだ日のことは今も記憶に残っています。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「水谷さんの思い出(1)」 下駄屋が五百円で建てたという新築だが、二階建て二軒続きの長屋で、間口の広い方が私の家で、狭い方に水谷さんご夫婦が住んでいた。私が二歳か三歳ぐらいの時、裏庭で水谷夫人に抱いてもらって、母と三人で写っている写真があった。多分ご主人が写したものだろう。 水谷さんはたしか静岡の出身で、夫人も言葉遣いから徳島の人でないと思われた。当時彼は鉄道にお勤めで、明るく朗らかな、ひと付き合いの柔らかい紳士であった。 ご夫婦とも賑やかなことが好きらしく、毎年お正月が来ると職場の若い人たちを招いて、かるた会を楽しんでおられた。それも世間では猫の手も借りたい歳末の大忙しの時、お昼からドタンパタンと賑やかなお正月気分の歓声が続くのだった。なにぶん壁一重の向こう側で数人の元気のいい若者が思いっきりドタンパタンとかるたの取り合いっこの騒ぎは安普請の土台から響いてくる。こちらは洋服商でお正月用の晴れ着の注文を何着も抱えて、年末には夜なべ仕事が続き最後は徹夜となる忙しさである。子ども心にも月給取りはのんきでいいなあと羨ましく思っていた。待ちかねた年が明けて家族三人ゆったりとお正月気分を味わっていると、お隣からかるた会のお誘いが来る。若者の手が揃わない時など誘われてメンバーに加わる。そんな時は読み役はたいてい声のよく通る父の役割である。若者たちの仲間に入れてもらって私は緊張する。色々とかるた取りのテクニックなど教えてもらって楽しい一夜を過ごす。お正月三が日が過ぎると、、静かな家族だけのかるた取りを楽しみ、百人一首のあれこれや読み方など教えてもらったりしていた。父のお気に入りの札は寂連法師の「村雨の露のまだひぬまきのはに霧立ちのぼるあきのゆうぐれ」 母のお気に入りは紀友則の 「久堅のひかりのどけき春の日にしづ心なくはなのちるらん」 水谷夫人のは紀貫之の 「人はいさこころもしらず故郷ははなぞむかしのかに匂ひける」 そして私が母から最初に与えられた札は「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも相坂の関」 蝉丸 「しるもしらぬも」と、この札は他の札と比べて見つけやすい気がする。
2016年06月18日
コメント(7)

「第二の故郷の山に向かって」 2016年3月13日の記事より朝は晴れていたのに雲が隙間なく詰まってきた。遠くの山なみはしっとりかすんできた。毎日こうしてべらんだからやまなみの姿を見る。何故か日増しに気持ちが深くなってくるようだ。情感という言葉が浮かぶがまだ使いたくない。ありきたりの感じがするから、もっと心のこもった言葉を見つけたい。日増しに深まるこの思いをあの山たちにどう伝えたらいいのだろう。とつぜん、離れてきて遠くから見て思いがけず深まる想い。戦後70年の時代の波に流されて暮らしの中でいかに深くあの山たちと付き合ってきたか思い知らされている。ああ、あの山、この山、ありがとう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんの亡くなる二ヶ月ほど前、京都から彼女の姪(私の娘)一家が顔を見たいと立ち寄りました。二人の又姪はもう小学5年生と中学一年生になりますが、さっちゃんのブログの絵にも何度か登場しています。さっちゃんはいつも気にかけて、童話等を送ってくれていました。三年前にはさっちゃんの住む鴨島で阿波踊りもしました。さっちゃんが大切にしていた写真の中に、私の子供達と一緒に写った写真が出てきました。もう40年以上前の写真ですが、この小さな子供の子供がさっちゃんの童話を読むようになるとは何だか感慨深いものがあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さっちゃんは「藍の風」に掲載された作品以外にも多くのエッセイを書いています。ここに紹介する「土佐の旅」もそのひとつです。「土佐の旅」 風さわやかな五月、昭和十年、女学校の二年生になったばかりの時、高知への一泊旅行に参加しました。なにぶん七十八年も昔のことなので、ほとんど忘れていますが、今まで記憶に残っていることを思い出しながら綴ってみたいと思います。さて徳島駅から列車に乗って阿波池田で土讃線に乗り換え高知市へ向かったことと思いますが、車中のことなど全く記憶にありません。でも、まず一番に高知城へ行って、次に桂浜とか坂本竜馬の銅像は見たにちがいありませんが,そのほかどんなところへいったのでしょうか、思い出すのは宿舎についてからのことです。食事の時、みんなに遅れて一人食べたり、 何故か落ちこぼれの待遇を受けて、みんなと離れて別の大広間で寝ることになりました。落ちこぼれの相棒が二人、四月にクラス替えがあったばかりでまだお互いに馴染になっていないこととて仲良くなれるかちょっと心配でしたが、そんなこと考える必要もなくてすぐに打ち解けた話し合いに入りました。相棒の一人のSさんはバレー部員で生まれつきあまり物事にこだわらないスポーツウーマンだから、二言三言話したあとすぐ横のなると寝つきが早く、パターンキュウと寝入ってしまいました。もう一方のTさんは、小柄でおしとやかタイプ、話しているうちに気が合いそうな感じがしてきました。八十年近く昔のことだから、どんな話をして意気投合したのか思い出せないが一口でいえば「少女の友」タイプで純情ムードというかおセンチな雰囲気をまとっている人で、彼女に比べてSさんは明朗快活な「少女倶楽部」のタイプといえるでしょう。そうして夜が更けるのも気にかけず、熱に浮かされたような気分になって話し続けていました。二間ぶちぬきの五十畳ぐらいの広間のまん中に布団を敷いて、窓ガラスに透ける夜中の川べりの街灯が明るい中、時折、旧制高校の学生たちが三々五々、大声をあげて通り過ぎるグループも見かけられました。旅の一夜のロマンチックな雰囲気に浸っているうちに、いつしか疲れて眠りに落ちていました。その後も毎日教室でTさんとは親密の度をふかめて、やがてお互いに自作の詩などを交換して見せあうようになっていました。そうして幼い文学少女を続けて二年ほど経ったころ突然、Tさんは家庭の事情で大阪へ引っ越して行きました。以前、一度訪れた事のある漁師町の裏通りで病身そうな母上に会ったことがありました。そうしてその後も転校先の市岡高女での様子など綴った楽しそうな分厚い手紙が届けられていました。四年生になって彼女からの手紙がとだえました。心配しながら半年ほど経ちました。久しぶりに彼女からの手紙が届きました。喜んで封を切ると一目で彼女の書体でないことが分かりました。不安で胸をどきどきさせながら読み進むと、母上からの手紙には病気で彼女が亡くなった知らせでした。
2016年06月17日
コメント(10)

「先生になれた嬉しさ」 2012年7月2日の記事です私の20歳の終わりのころのことです山道4キロの通勤の途中英語の会話のお勉強しながらT先生の自転車の後ろにのせてもらっていた覚えたてのどんな片言英語を話していたか覚えていないがトラックなどまだなかったのか荷馬車の轍に掘れた砂利道は危険がいっぱいで油断すると横滑りして峪にとびこむ川つつじのピンクが美しい季節鶯が近くまで降りてきて「ホーホケキョ」と歓迎してくれる渓谷子供の時からの憧れの先生になれた嬉しさ終戦後の民主主義の新しい時代への希望にわくわくしていた~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「回り踊りが」行われている八坂神社は「ぎおんさん」と呼ばれて、いつもは子供達の遊び場所でした。小学生の時は我が家から近かったので、狭い境内で野球や鬼ごっこ等をよくやっていた思い出があります。この頃、私も油絵を習っていて、時々、色んな場所へ出かけては絵を描いていました。「ぎおんさん」でも描いた記憶があります。油絵はさっちゃんの行っていた学校の同僚の絵の先生が、しばしば我が家に訪れて、一緒に描きに行っていたのです。今、思えば絵の先生はさっちゃんに好意を持っていたのかもしれませんが、母を支え私の成長を見守っていくために、応えることは出来なかったのかもしれません。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「八朔踊りの夜は更けて」(2)<つづき>町の通りから少し坂を上がった所の、西山の裾に広がる祇園さん(八坂神社)の猫の額ほどの境内に、ぞろぞろと集まってくる人の群れに交じっていると、そのうちに辺りが薄暗くなりはじめて、踊りははじまった。渋いというより、もっさりとしためくら縞の浴衣に黒い兵児帯を巻きつけ、頭からすっぽり手拭いでほうかむりし、その奥に眼だけギョロギョロさせた男たちが、のろのろと腕を振り始め、やがてなんとなく輪ができていった。輪の中央に一段高く台を据えて、古びて油が浸みた番傘を立て、声自慢の老人が喉の皮をせいいっぱいに引き延ばして音頭を唱えている。その節に合わせて群衆はぷらりんぷらりんと、いかにも曖昧に右腕左腕と交互に振り、足を踏み出し、前に進むかと思うと退き、ぐるりと回ってョーイヨイと間延びした調子で腕を振る。どこが始めか終わりか分からない。 単純な繰り返しなので、見ていてすぐ覚えられそうだが、それにしてもヨーイヨイとリズムにあわすのは難しそうである。初めは慣れぬせいかばらばらで揃わなかったが、そのうちに昔踊った身体が思い出したのか、手足の動きが揃ってきた。一節ごとに「ヨーイヨイ」という踊り手の大合唱が入る。ゾロッゾロッと数十人の藁草履を引きずる音がして一足ごとに土煙を巻きたてる。取り巻く見物人は鼻も口も明けてはおられない。裸電球の下で、お互いの顔もおぼろに霞み踊りの群れはシルエットとなって揺れ、聞こえるものは、一段と声を張り上げ時折悲壮にかすれ始めた音頭の声と、草履を引きずる音ばかりの中に不意に近づいた見知らぬ男の白い歯と汗まみれの日焼けした腕や脛がにょきっと現れてどきりとする。 音頭の文句は聞きなれない節回しのせいかよく分からないが、昔の悲恋の物語とか、仇討ちや親孝行者の物語などがあるらしい。男ばかりかと思っていると、時刻がうつるにつれて調子づいてきて、大きな乳房もこぼれんばかりの女たちが、汗に濡れた袖を肩にたくしあげ、枯れちじこまった老婆や、柔らかそうな十代の娘たちも輪の中に溶け込んでいた。 夜が更けるにつれて踊りの輪は大きく膨らみ、なにかに憑かれたように呆けて、ただ、黙々と手足を動かし、土煙の中に異様な熱気の渦をかき立てていた。だが、それもあまり長続きせず、いつとはなしに全体に目に見えぬゆるみがただよいはじめ、倦怠感が感じられるようになると、一人抜け二人抜け乱れが見え始めた。だがそれもしばしの間で、少し輪を小さめに整えて、交代した音頭の新手の声が響き渡ってきた。見物人もあらかた帰ってしまった境内では、薄暗い隅々で、様々な人と人の秘めやかな触れ合いのひとときに陶酔していた者もいたことであろう。「生きていてよかった」という思いをしみじみ噛み締める命拾いをして故郷に復員してきた男たちも多かったにちがいない。 その夜、床に入ってからも闇夜を響かせて音頭の声が耳につく。いつしか寝入って明け方目覚めると、声はすっかりかすれはてていたが、まだ音頭は続いていた。踊り手の囃す「ヨーイヨーイ、ヨーイヨイ」の合唱も風のぱったり途絶えた山峡の薄明かりのそらに延々とひびいていた。 (おしまい)
2016年06月16日
コメント(7)

「八朔回り踊り」は音頭出しを中心に、まるく輪を描いて独特の身振り手振りで踊り歩く盆踊りで、今も9月頃に八坂神社で行われていて、阿波踊りとともに夏の夜の風物詩となっているようです。子供の頃、「八朔回り踊り」に何度か行った記憶はあります。さっっちゃんに連れて行ってもらったのは私が2~3歳のことなのでしょう、全く記憶にはありません。さっちゃんがこんな行事に行ったことに、とても興味を覚えます。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「八朔踊りの夜は更けて」(1)あれは終戦の翌年ぐらいのことであったのだろうか。人々は長い戦争の間、途切れていた行事を、一つ一つ思い出しはじめていた。この小さい山峡の町でも、半月ほど前には戦後はじめての盆踊りとて、衣装のそろわぬまま、浴衣のない若者は、戦禍の届かなかった山里ゆえ着ずにしまっていた暑苦しい色模様の女の長襦袢や着物を着て、どさどさと、真黒い脛を出して、ただめちゃくちゃに手足を振るだけの野暮ったい踊りに酔い狂った。私たちは、徳島市に住んでいて、戦前の粋な色街の芸者衆の鳥追い姿や、いなせな法被姿や、涼しそうな白地の浴衣の軽やかな踊りを見て来た眼で、「あんな踊りはあわおどりではない」などと、はじめのうちは軽蔑し、あきれ顔で見物していたが、その異様な踊りが、みるみる町の人々の顔に、笑いを蘇らせてゆくのを見て、これこそ民衆の踊りの本来の姿なのだと納得した。このようにして、すべてに乏しい中にも、ささやかな盆の仏まつりを済ませて、朝夕の涼しさに、ホッとし始めた頃、八朔というから旧暦の八月一日、新暦では九月も半ばごろになっていたのだろう。私たちは戦災に遭って以来厄介になっていた叔母の勧めで、弟を連れて八朔踊りを見に出かけた。阿波おどりしか知らなかった私にとって、山里の情緒豊かな周り踊りは物珍しく、今もなお、あの夜の酔いしれた群舞の熱気のなかに立ちつくした感動を忘れることはできない。(つづく)
2016年06月15日
コメント(10)

「祖谷のかずら橋」 2013年02月14日の記事です祖谷のかずら橋へは2,3度俳句の友達と吟行にいきましたでこまわし(お芋の田楽)を食べるのが楽しかったようですおじいも(サトイモ)の味噌田楽を”でこまわし”といいます串に刺して炭火の周りに突き立てて焼きますでこというのは人形のことをいうのだと思います子供の頃人形を持って物語を唱えながら女性が家ごとにおとづれていましたでこ回しのこともっと調べてとけばよかったと思います油絵をはじめてからは写生に何度かつれていっていただだきました何を食べたか忘れました~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんのブログには「祖谷のかずら橋」の絵が度々掲載されています。20年前の1996年11月にさっちゃんと「祖谷のかずら橋」へ出かけました。お墓参りに帰った時、突然、行ってみたいと・・・勝浦町の「ビッグひな祭り」、神山森林公園の「さくら祭り」等々さっちゃんと一緒に出かけた思い出は尽きません。 syun2013年12月06日の記事から祖谷の粉ひき節で有名なかずら橋のある山里平家の落人部落でもあった徳島県のつるぎ山のふもとは、今頃は干し柿のすだれで部落は朱色に染まっているだろう毎夜家族みんなで柿むきに精を出すやがてお正月が来る都会で働いているとうちゃん、ねえちゃん、にいちゃんたちがお土産をいっぱいもってかえる山里の一年で一番楽しい季節である
2016年06月14日
コメント(6)

「藍の風」ミニエッセイより「夢」夢は同じ場所、同じ情景をくり返し見るものらしい。職員旅行にいって疲れると、きまって空襲の夢を見てうなされ、まわりに眠る人を驚かしたようだ。もう空襲の夢は殆ど見なくなったが、こんどは貴社に乗りおくれそうになる夢はまだ続いている。汽車で通勤したのは、昭和二十五年から五年間である。いつも同じようなパターンで、ホームには貨車ばかりで、ようやく見つけた客車はオンボロの板張りの腰かけで、満員だったり、必死にホームを駆け廻るのである。川岸の町営住宅に住んでいた頃は洪水の夢をよく見た。案外気持ちよく流れに浮かんでいて何故か大きな頭だけの魚が泳いでいたりする。母が亡くなってからは、何か失敗をしては母に叱られている夢が多い。目覚めても今しがたまでそばに母が居たような実在感がのこっているのである。 昭和五十八年三月自作の「精霊舟」をつくって、我が家の前を流れる川に沿って河口まで下り石ころの続く河原を吉野川まで姉と歩いた日。もう、60年も前のことになります。この「灯篭流し」を読みながら遠い記憶に思いを馳せていました。あの日の「精霊舟」は姉の願いに応えてきっと海まで流れ着いてくれたことでしょう。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「灯篭流し」(2) <つつき>三年目の盆を迎えた。ご近所の家では、大工さんに頼んで豪華な精霊舟をつくってもらっているという。舟を作らないと灯篭が流せないと知って、舟を作るためベニヤ板やありあわせの板切れを集めて弟と二人で何とか舟らしきものを作り上げた。粗末な、形もいびつで水に浮かぶかどうか心配だったがお供え物と灯篭をのせて盆の十六日の夕方前に、三人で家を出た。家の前の貞光川に流すのはたやすいが、町はずれの鉄橋の下あたりで止まってしまう恐れがあるので、どうしても吉野川へ持って行きたかった。町の周辺や川の流れがどうなっているのか全く知らなかったので、どこに道があるのか、道のりはどのくらいあるか分からないまま出かけた。対岸が見えているのだから、いつかは川へ行きつくと単純に考えていたところが、行けども行けども石ころばかり大きなメロンぐらいの大きさのゴロゴロ石でひどく歩きにくい。ひと足ひと足足がねじれてすいすいと進めない。遠かった。河原へ一歩踏み出してから、歩いても歩いても大きな石ころばかりで、流れにたどりつけない。空から見ればわかるのだろうが、流れが大きく対岸へ湾曲しているようだ。支流の貞光川が合流するあたりに石ころを大量に堆積していったのだろう。辺りが薄暗く暮れて来たころ、ようやく流れが見えてきた。川は通称大川といわれているのに、予想外に細かったが水量豊かで、急流になっている。手作りの小舟は大きく揺られながら、踊るように波に乗っていってしまった。どこまでも無事に流れてゆくことを念じながら三人は見送った。そのあと三人はホッとして、ゴロゴロ石の上に座り込んだ。もう歩けないと思ったけれど、ゴロゴロ石は痛くて座ることもできなかった。翌日、汽車の窓から見た吉野川に、ひょっとして父の灯篭が流れ着いているかもしれないと捜したが見つからなかった。多分無事に海まで流れて行ったと思うことにして忘れることにした。(おしまい)
2016年06月13日
コメント(10)

「藍の風」ミニエッセイより「無言の教え」母は手先が器用で、よく手製の服や帽子を私に着せたり、ビーズで刺繍をした手提げを持たせてくれた。それは買う余裕のない家計のせいに違いないが、昭和も初期の頃のこととて珍しくて、皆にうらやましがられたり、ほめられたりして誇らしく思った。引込思案で運動神経も鈍く歌も下手な私があまり劣等感を持たずに育ってきたのは貧乏暮らしにめげぬ父母の愛情や励ましや心配りがあったからであろう。今還暦を迎え一人暮らしの私にも、何かをするとき、あれこれと乏しい知識を動員し考えをめぐらせ、自分流の方法を産み出すという楽しみがあるが、これは母の手作りの服や服飾品の無言の教えのたまものだと思っている。 昭和五十七年七月父が亡くなって新しく移った町営住宅のすぐ前は川でした。七夕が終わると、皆、願いを描いた短冊などを飾っていた笹を抱えて川に流しに来ていました。翌日、川は流したたくさんの笹があちこちに引っかかって流れをせき止めるほどでした。さっちゃんはお盆の「灯篭流し」でも同じようにならないよう、我が家からは遠い吉野川まで灯篭流しに行くことにしたのでしょう。必ず、灯篭が海まで無事流れていくようにと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「灯篭流し」(1) 盆が来ると、その年新しく亡くなった人のため、灯篭をともしてお祭し、三年目の盆の十六日に、川へ流すしきたりがあった。近年になって、河川を汚してはいけないということで、各地域で川辺に場所を決めて近在の寺から僧を招き、人を集め灯篭流しのイベントが行われるようになった。 私の住んでいた貞光町でも、お世話人が板切れに赤緑黄の三色の紙をはって作った灯篭に、蝋燭をともして、読経の流れる中川に流した。流れに沿って三色の灯篭が帯になって川を下ってゆく光景は幻想的で美しく今も目を閉じると思い出す。一九四五年の夏徳島大空襲に遭って、貞光町に住みついて十年が経っていた。予想もしなかった不自由で厳しい暮らしが続いていた。物のない時代田舎町では、父の洋服商の仕事は成り立たない。不遇のうちに体調を崩して倒れてしまった。 その頃私は新しい中学校の教師をしていたが、上級の免許の資格を取るため、徳島大学の英語の研究室で研修に励んでいた。念願の免許証が届いたとき、父の臨終が迫っていた父にとっては、病気がちの母と十歳の弟を私に託して逝くのは心残りであっただろうと思われた。その後貞光川沿いに新しくできた町営住宅に引き越すことが出来た。川辺の家は明るくて、東山の緑も清流も川風も、すべて新鮮で快かった。盆が来ると優しい彩の岐阜提灯を窓辺につるして、父が生きていればの想いに浸っていた。(つづく)
2016年06月12日
コメント(8)

(1953年母と姉と三人でお墓参りの帰りです)この写真の後、半年足らずで父が他界し、洋服店をやっていた町中から、川沿いにある新しい町営住宅に居を移すことになりました。母とさっちゃんと私の三人の生活は私が高校を卒業し、大阪の大学に進学するまで続きました。思い出は尽きませんが、私が大阪に出てからは、盆、暮れ・正月に帰郷くらいで長期間、顔を合わすことは少なくなってしまいました。ただ、母が他界した1975年(昭和五十年)には、何とか孫たちも出来て、顔を見せることだけは出来ました。そして、その時、さっちゃんも念願の祖先の地である吉野川市に母とともに住める新しい家を建てることが出来たのでしたが、残念ながら、そこに二人で住むことは叶いませんでした。(母とさっちゃん、母と4歳で亡くなった兄です)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「さっちゃんのお気楽ブログ」から選んだ記事で構成された作品「また、あした。」の「思い出」の章に載せられたものです。「母の笑顔」その日、家に帰ると母が嬉しそうな表情をしていた。部屋の真ん中にドデッと座っていたのは黄色の犬の親子かわいいぬいぐるみだ駅前の露天市で見つけたという遠くにいて会えない孫を思って買ったのだろう孫の赤ん坊のときの写真に並んで写っている母が亡くなって三十年埃まみれになっても元気な草色のワンちゃんを見るとあの日の母の笑顔を思いだして捨てられない
2016年06月11日
コメント(8)

2015年10月2日のブログ記事です「予期せぬトラブルに慌てました」世の中いつなにが起きるかわからない。夕食をはさんでいつものようにパソコンに向かったが四角い拡大鏡みたいなものが動き回って画面を駆け巡っていて消えない。今夜はもうできないかなと思ったが、幸い助っ人が現れてうまくいきそうです。一日も休まず続けてきたので今日はあわてました。時々、かんぺきにいれたとゆだんして一瞬消えてしまうこともありました。パソコン君は非情ですよ。そのくせ随分長いお付き合いの仲ですが~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんは生来の好奇心旺盛な女性で、NHKのラジオとテレビの講座に没頭し、俳句をつくり、エッセイを綴り、児童文学では賞も受賞しました。本格的に絵を始めたのは70歳から、スケッチブックやハガキに毎日描く水彩画だけでなく時には50号のキャンバスに油絵も描きました。その腕前は県展でも何度も入選するほどでした。そして80歳の時にパソコンを購入して、84歳の時に、ついにブログに挑戦したのでした。パソコンというツールを手にしたさっちゃんは今までやってきたことの集大成としてブログを描くことによって、さっちゃんのことを広く皆さんに知っていただくことが出来ました。長い道のりだったようにも思えますが、一歩一歩、粘り強く着実に挑戦していった結果なのでしょう。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「パソコン一年生」(2)<つづき>メールにメロディをつけることを知った彼女は、「ビートルズ」を入れておいたよという。メールを開けても一向音は出てこない。ボリュームの所を探して動かしてみたが、いつまでたってもだんまりである。彼女は、パソを開けた時ババーンと鳴るというが、うちのは音も声もだしたことがない。マニュアルを引っ張り出してきて調べてみた。三本残っているコードにそれらしいものがあるので、説明図を見ながら繋いでみたら、ババーンと大きな音が出た。まるで産声みたいな感じだ。電気屋がつなぎ忘れたという。ほんとかしら。とにかく彼女が送ってきたビートルズを聞くことができて、それからしばらくは音楽を入れてみたり、CDを作るのに挑戦した。普段から困ったことがあると彼女に相談する。彼女はアイデア・ウーマンである。人が思いつかない奇抜な方法を考え出してくれる。本当に貴重な友人である。とにかくパソコンの教科書はむつかし過ぎる。読んで解れば読むのだが、用語がちんぷんかんぷんで、英語辞書を繰っても解決しない。何をどうしろというのか、全く理解できない。要するに読んでも無駄なのだ。しかし分からぬままに動かしているうち、少しずつ覚えていくもので、頭で考えるより実験が大切だと思う。おかげで今では説明書も所々、理解できるようになった。何分基本の勉強をしないでパソコンを運転しているので、出来ないことは全くできない。特に文書には悩まされる。入れた文字がとびまわって制御できない。入れたい位置に入らない。勉強不足だ。最近はデジカメを買って写真をプリントして楽しんでいる。とにかく、色々な楽しみ方があって、自分の好きなものを見つけて遊んだらよいので、気の合った友人とメールの交換するのもよいし、一人が好きな人には、黙っていて楽しく遊べる有難い道具である。(おしまい)
2016年06月10日
コメント(10)

2010年2月20日のブログ記事です「新しいパソコンはだめ」今日ケーブルてれびがきて地デジをひいてくれたパソコンもインターネットにつないでくれたところがブログを入れようとしたが駄目でしたプリンターがつながっていない苦労してつなげたが、絵をスキャンしたが薄い色がでないその他具合のわるいことばかり結局この古い機械でないと当分の間駄目だろう~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんがパソコンに挑戦したのは14年前の2002年、80歳になった時です。「藍の風」の中で「パソコン一年生」として、悪戦苦闘しながらも親切な友人の方に助けられて、少しづつマスターしていった様子が語られています。最初は日立製の大きなデスクトップでしたが、家の二階のデスクの上にデンと置かれていました。その後、しばしばトラブルがあったり、操作が分からない時に連絡がありその度に二階まで行くのも大変だし、私のものと機種が違うので、電話で説明するのも要領をえないので、私と同じ機種のノートブックを買うように薦めました。2010年になって、使い慣れた今までの機種から新しい機種に買換えることになりました。なかなか新しい機種になじめない期間がありましたが、四苦八苦しながらも、徐々に新しいWindows7にも慣れて行きました。今ではさっちゃんと同じパソコンの画面を開いて携帯であれやこれやと長話していたのを懐かしく思いだします。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「パソコン一年生」(1)今年の春セレブでパソコン講座が始った時、Tさんがいっしょに受講しようと誘って下さったが、私は「あんたが習ってきて、私に教えてくれたらいいやん」と、虫のいい提案をして、彼女の好意に甘えることにした。Tさんはとびぬけ優しい人で、毎週習ってきたことを親切に教えて下さった。はじめはペイントで絵を描いていたが、いろいろなお絵描きのソフトを入れて、書き方を工夫し、しばらく熱中して、きれいな花や少女の絵をメールにつけて送って下さった。そのうちに彼女の好奇心がどんどんふくらんできた。「おもしろいもん見つけたよ」いるかちゃんをつついたらアニメがでてきたとか、動画を試してみたといって、猫の顔をくしゃくしゃと伸ばしたり縮めたりさせ、写真にぬいぐるみを大きく入れたり、忙しいといいながら、結構パソコンで遊んでいるのだった。八十歳に近い私は、彼女についていくのが大変。それでも彼女のやり方に刺激されて、私も負けまいと、手当次第にパソコンをつついて発見を楽しんでいる。クリック、クリック、こうでもない、ああでも駄目、こないにしてみようか、う~ん、うままくでけへんわ、とおもうようには動いてくれないパソコンが憎らしくなる。しまいには画面をマウスでひっかきまわす。おどろいたのはパソコン君、目を廻してダウン、反応しなくなる。「今朝はパソコン君怠けて働かへんかった」とメールに入れる。時にはパソ君もいじわるをする。働かない、まちがえる。「エラーでした」とすまして、命令をきかない。ひつこく繰り返すと、仕方なしに動く。不意に「このメールは送れません」という。横文字がズラズラと並んで出てきて警告。「わけ分からへんわ。何がいいたいねん」無理やりに送信をおすと、メール友はびっくり。メッセージは?ばかりに化けていた。パソコンの向こうで誰かがメールを読んでいるのかもしれないと疑いたくなる。(つづく)
2016年06月09日
コメント(24)

2013年7月30日のブログ記事です「昭和の良寛さん」終戦後疎開していた田舎の町で、一年に何度か夏祭りや秋まつりなどに露店市が出ていた町の表通りにあった私の店の前にも、いろいろな露店が並んでいた子供たちがいくらかお金を払ってくじを引く何があたるのかよく知らないが、こどもの一人が当たりくじを広げて見せると「お前、そこらで拾ったんだろ」と親父にすごまれて、不満そうに立ち去る場面を何度か見た一度もあたった賞品あげるところをみたことがない父はそれを見て子供がかわいそうだと、ポケットマネーで菓子などを買いそろえて5月5日の子供の日に近くの川原で子供を集めて空くじなしのくじ引きをするようになった現場を見ていないが、楽しそうに準備をしている父を思い出す。地方の新聞にも「昭和の良寛さん」といって何度か載せて戴いた~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~父は50歳を越えて私が生まれた時には、男の子が誕生したというので、随分喜んだようです。小さな私を肩車して、友人の集まる立ち飲み屋さんに連れて行ったり、端午の節句や誕生日には、多くの子供たちを集めてくじ引き大会をしたり、私の通う学校に、顕微鏡や文具を寄贈したりもしていました。そして、何度か「昭和の良寛さん」として新聞にも紹介されました。父が亡くなったのは私が小学4年生になった時で、今は父の記憶も断片的なものになってしまいました。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「父の願い」(3)<つづき>戦災後、父は被災者のみじめな姿を自虐的にうたい、当時の世相を皮肉り、”敗戦数え唄”を自作し、仕事をしながら、持ち前の大声で歌って、自分の心をまぎらわすだけでなく、他人にも聞かせた。私は父の唄に耳をふさぎ、食べ物を得るのに、全力を傾けねばならぬ現実を見つめ、屈辱の暮らしから、一日も早く脱出したいと願いながら、「私は何をやりたいのか」と夢のような事を自問し続けていた。その頃は、私も母も、父の哀しみがどんなに深いか分かっていなかったようだ。父は戦後十年間の心労から胃がんになり、六十三歳で亡くなった。私はその数年前、校長に進められて教員になり、生意気にも、でもしか先生と自嘲しながら、漸く資格を得た。その免許状が送られてくるのを待ちかねていた父は、一目見て、僅かに安心したような眼ざしを見せた。そして、その眼尻に一すじ涙を走らせただけで何も言い残さなかった。その時私は三十歳を過ぎて独身、唯一の弟は十歳、母は病気がちでだった。時々、父も夢に出てくるが、いつも淋しそうにして、何も語らない。いつまでも独りでいる私のことを、まだ心配しているのだろうか。それよりも「これからは、自分の好きなことを見つけて、力一ぱいやりなさい」と励ましてもらいたい。(おしまい)
2016年06月08日
コメント(10)

2013年8月9日の記事です 「軍歌を歌う父」「♪きのう落としたトーチカで 今日は仮寝の高いびき 馬よぐっすり眠れたか 明日の戦は手ごわいぞ♪」(愛馬進軍歌)父は毎日ミシンをかけながら歌っていました国民服というのが制定されてふつうの背広など着られなくなりました。男は兵隊さんと同じ国防色[カーキ色]を着ています父は昔はおじさんとお酒を飲むと歌っていたおうりょっこう節に代わってききっかじりの軍歌を自分流に歌っていました学校帰りの子供たちが店をのぞいてはおっちゃんの歌ちょっとおかしいよ」といいます父はわからないところは自分流に歌っていましたどこがおかしいのかちっとも気にしませんラジオのなかった時代、流行歌をおぼえるのにおじさんと誘いあって芸者さんに教えてもらいに行ってたようですおおりょっこうぶしはむつかしいといいながらおじさんとふたりでのんでいました~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~私が小学校に入って間もなくの頃、父母姉弟の4人でお膳を囲んで夕食事をした後、父はよく母にお酌をしてもらって、一人ご機嫌で歌を歌っていました。「愛馬進軍歌」や「戦友」、青葉茂れる桜井の~♪で始まる「桜井の決別」等思えば戦火でいっさいを失って県西部の町に疎開し六十歳を前に、その後の展望を描けなかった当時の父の心境はいかばかりだったのだろう・・・・父の頼みで、時々、家の前にあった造り酒屋へ、二合瓶をもってお酒を買いに行っていました。少し離れた部屋の片隅で父の歌を聴いていたのを、今も夢の中か、映画のワンシーンのように思いだします。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「父の願い」(2)<つづき>長男を四歳の時、疫痢に奪われ、相ついで私の妹も一歳で失くした。両親は、失敗を繰り返さぬよう、残った私を、毀れ物を扱うように慎重に育てた。といっても、母が病身になったので、どこに行くのも、何をするにも私はおばあさんべったりであった。そのせいばかりではないが、意気地なしで、根気のない、臆病な私の生末を案じて、両親はいつも心を痛めていたことだろう。私が肺炎に二度つづけて罹った時、父は台所中を血だらけにして鯉の生き血を採るのに苦心し、母は鬼になって、いやがる私の口をこじあけ、生臭いどろどろの液体をうつしこんだ。小学校五年位になった頃から、父は私に、手紙に代筆をさせるようになった。年賀状など、筆で書くと、ただでさへ宛名が葉書から、はみ出すのに、いつも「大きく書け、小さい字を書くようでは、駄目に人間になる」と、口ぐせのように言った。その頃、新築の餅投げを見に行った。私は、争って泥んこの餅を拾うのは、気が進まず、数人の男たちが裃、袴をつけて棟木の上にあがり、群れる人々の頭上に、餅を投げるのを物珍しく見物していたが、家に帰って、「餅を拾うより、投げる方が面白そうだ。高い所に上って、餅を投げてみたいなぁ」といって、父母をよろこばせた。何故、父がよろこんだのか、後日、母はこれを語り草にした。また、女学校の入試の日のことだった。父は、よほど口頭試験のことが心配だったのか、朝食をとりながら、「試験管の先生かて人間じゃ。怖がることはない。どんなえらい人でも便所に入ったら、お尻をまくらなできへんのだから。そう思うたら平気だ。」といって、元気づけてくれた。(つづく)
2016年06月07日
コメント(8)

さっちゃんは兄と妹を幼少の時に亡くして一人娘として育ちました。両親に大切に育てられたせいで、思い出も多く、戦前、徳島に住んでいた頃の両親の話をよくしてくれました。特に父のことが大好きだったのか、ブログにもしばしば父のことが出てきます。2013年2月28日のブログ記事 「父の想い出」父がお茶を淹れてくれた思い出昭和の初めごろまだ平和だった ある日、ご機嫌の父が自転車でお茶をかってきました普段は使わない高い玉露?だったと思います父の大切な可愛い真っ白い深めの小さい茶器で母と私をお客にして丁寧に入れてくれましたもったいぶって? お茶の入れ方を教えてくれましたしずかな、そして和やかな午後のひとときでしたあれは、ひょっとして夢だったのでしょうかでも、決して忘れられない親子三人きりの懐かしい思い出ですさっちゃん(14歳の頃)と父・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「父の願い」(1)ろうそくの温かみが、私に左手に伝わってきた。いっしょうけんめい持ち上げていても、引きずるように大きい回ろ燈籠は、中心がとれているようで、とれていないのか、ゆらゆらと揺れ動き、地面に当たりそうに傾くのだった。ぐるぐる廻る。とめどなく廻る。上下左右に踊り出しそうになる。何の絵が廻っていたのか見る余裕もなく、ただ、たまらなく不安で未知のものの怖さに、歩くのがおるすになる。母は父に遅れまいと、私の右手をぐいぐいと引っぱる。祇園祭の混雑も絶頂であったのか、アセチレンの匂いが立ちのぼり鼻を刺す中を、浴衣の肩をぶっつけ合い、人波を、すり抜けていくせっかちな人々が、よけいに雑踏をひどくする。「母さん、これ持って」泣き出しそうになって、母の手をひっぱったが、母は聞こえないように、怪物を持て余している私にかまわず、先を急がせた。私は二、三軒先に行ったところで、ついにたまらなくなって、店先へ投げ捨てた。私の回りを歩いていた男女が、驚き顔で、ふり返った。めらめらと黄色い焔が、紙の筒を包み込んで、一瞬、派手にフィナーレに狂っていた。その中をお伽噺の主人公らしき影が幻のように両手をさしあげて何か叫ぶような姿勢で焼かれて消えた。予想もしなかった、その一こまの悲劇に、呆然とし、同時に、手を放した責任みたいなものを感じていた。父は「もう買ってやらない」と一言いって、憮然とした顔つきで、先に立って行く。あとを追いながら、私の胸は、幼心にも、父の愛情を無にした悔と、臆病な自分への劣等意識が一杯に拡がって、その夜の祭りの情景は、何も目に写らなかった。こんな幼い頃の思い出は甘く楽しい。父の心、母の心が、一つ一つの思い出の中で、かき氷が赤い密に溶けていくように、じわりじわりと、私の心の中で融けてくる。(つづく)
2016年06月06日
コメント(11)

さっちゃんは書き溜めた童話が本になることの喜びをブログで次のように綴っています。2014年9月29日の記事です。[青蛙のペキ」の本ができました飯塚書店さんから「青蛙のペキ」の見本が届きました。きょうは記念の日になりました。さっちゃんの三番目の赤ちゃんが生まれました。ブルーの爽やかなカバーの色、青蛙のペキの色です。155ページのお話11篇です。お料理にも材料により、また、調理法によりいろいろのお味ができるように、お話の材料は人間ばかりでなくカエルや蟻やカマキリや燕うさぎやたぬきなど。お味付けは読んだ人の自由ですおいしいお料理にするかしないかは読む人の自由です。楽しく読んでおいしいおはなしにしてくださいね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「青蛙のペキ」(2)<つづき>それから3ヶ月ほどたちました。仲間の蛙たちは、みんな、どこかに隠れているようです。植木鉢の下、庭石のかげ、ブロックの穴の中などに、ブヨブヨした見ちがえるように汚い色になって、泥の中や落葉にくるまってトロトロと眠っているのでしょう。 その朝は南国には珍しく雪が5センチほど積もりました。3センチほどに伸びたチューリップの芽は雪にかくれて見えません。朝日が出てくると雪に反射して、軒の奥の方まで明るくなったので、気を失っていたペキは気がついたようです。あの時もずにさらわれて、軒の物干竿を吊るした針金の先に突き刺されたままのペキが、何かつぶやいています。「手も足もつっぱらかって動かないよぉーグリーニカ、助けてよ。ねえ、背中がかゆいんだよぉ。でも手が伸びたままで曲がらないんだ」ペキの指先は細く細くとんがって水かきはかわいてやぶけそうに、カリカリになっています。いつからか頭の片方から黒ずんできました。「さむいなぁ、凍えてしまいそう」ペキはつぶやきつづけています。「あんまりおしゃべりするなよ。ますますひからびて、からだが裂けちゃうぞ」どこかで、やさしい声がしますが、グリーニカではないようです。「だれかぼくをここから下ろしておくれよ。ここは寒くてたまらないんだ」ペキは哀しくなって、ワァーと泣きたいのをこらえていますが、だれも助けてくれそうにありません。 その時、おねえさんが洗たく物を干しに出てきました。竿を下ろすときペキを見つけましたが、哀しそうな顔をして、洗たく物を干しおわると、両手をこすりながら急いで部屋に入ってしまいました。「あーあ、おねえさんにたのんで下ろしてもらえばよかったなあ」ペキにそう言われなくても、おねえさんは地面に下ろしてやりたいと思いましたが、手先が凍ってしまってできなかったのです。 アイリスが細い葉先を雪の上に出しています。「あのあたりにカマキリ君がいたんだがなぁ かわいそうに、雪に埋まって、あいつ寒いだろうなぁ。おーい、カマキリ!いるかい?きこえるかい?」雪に埋もれて耳も凍ってしまったのでしょう。もしきこえても、からだが凍りついて声を出すことは出来ないのかもしれません。「あいつも、あそこでもう何十日も、うつぶせになったままだ。羽の色もあせて灰色になっていたっけ。おーい、だいじょうぶかー」 アイリス畑のとなりにパンジー畑があって紫の花が一つ咲いていました。陽が当たると、みるみる屋根の雪がとけてきました。といから雪のしずくが垂れて、タータラタンタンと歌をうたうようにひびきます。パンジーの上に盛り上がっていた雪の中から、緑の葉が見えはじめました。「目がさめるような緑だ。チューリップも、アイリスもパンジーも強いんだなぁ。雪の中で平気な顔してるよ」ペキは感心してしまいました。「でもぼくらはだめなんだ。寒がり屋だからね。仲間といっしょに落葉にくるまって春まで庭の隅でねむりたいなあ」 ペキはつっぱった脚を少しでも曲げてみようとしましたが、ポキッと折れそうなのでやめました。 雪は地面の足跡からもくろぐろと、とけて水に変わり、チョロチョロと流れはじめました。疲れてしばらく、うつらうつらとしていたペキは気がつくと、くちなしの木の下に埋められていました。ここなら雪もつもらなくて暖かそうです。おねえさんが針金から抜いて土の中に埋めてくれたのでした。「土の中はあったかくていいなあ。それにしてもグリーニカはどうしたのかなあ」と呟いているうちにペキはまたトロトロと眠ってしまいました。安心したペキは暖かい春になっても、もう目を覚ますことはないでしょう。(おしまい)
2016年06月05日
コメント(12)

文章を書くのが大好きだったさっちゃんは、随筆だけでなく、しばしば童話も書いていていました。そして、さっちゃんのブログにも、いつの日からか童話が登場するようになりました。ブログには色んな話が連載されていましたが、それらを整理して童話の本にしてみないかと、飯塚書店さからお話しをいただき、出来上がったのが「青蛙のペキ」でした。この中には「青蛙のペキ」や先日、紹介した「浩太さんの風船」以外にも「まつぼっくり」「白いドレスの記念写真」「青蛙とカマキリのおはなし」「五百円玉の災難」「空飛ぶカエル」「咲子の夏休み」「ポンポコ農園をつくりなさい」「アリさんの大事件」「悲しいカエル君のおはなし」等11篇がおさめられています。今日は「青蛙のペキ」を紹介します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「青蛙のペキ」(1)もずが青空を切りさくように、キーイ、キーイと高声で鳴いています。 さつきの植木鉢の上では青蛙のペキが友だちのグリーニカに話しかけています。「どこから、あんな声がでるのかなあ。いやな声だねえ」「もずはねえ、あの声が自慢なのさ」「もすこし、やさしい声出せないのかなあ。たとえばキーチッチとかケロケロチョンとか」「あっはっは。まるでキリギリスみたい」 ペキの鳴き方がおもしろいのでグリーニカは笑い出しましたが、急に笑いを止めて、きんちょうした顔付きになり「そーら、下りてきたぞ」グリーニカとペキは首をちぢめてちいさくなっています。もずはお向かいのテレビのアンテナから庭のさざんかにとんできました。 「あいつら、やばんだからな。それに大食いなんだ」とグリーニカが顔をしかめます。 さるすべりの枝の先につき刺したミカンの輪切りを、さっきから仲よくつついていた雀たちがあわてて、いっせいに、とびたって、テラスの手すりや屋根に並んで、じっと下を見ています。 2羽のもずはさるすべりの枝にきて、ミカンをつつきはじめました。頭を振り、乱暴にミカンを食いちぎるので、どれもこれも皮がやぶれ落ちてしまいました。もずはつまらなさそうに、ぷいと、どこかへとんでいってしまいました。「あーあ、せっかくおねえさんが刺してくれたミカンを、もずのやつに食べられてしまった」と雀たちはがっかりしました。「らんぼうなやつだなあ」とペキがいいます。「だから、きらわれ者なんだ」とグリーニカがいいます。その時、おねえさんがガラス戸をあけて、新しいミカンを枝に刺してくれました。「また、もずの仕業ね。さあ、もずの来ないうちに早くおあがりよ」おねえさんは、屋根の上の雀たちを見上げて言いました。雀たちはよろこんで下りてきて、ミカンをつつきはじめました。その時、「あっ!かくれろ、ペキ」ペキはグリーニカの叫び声を聞いた時、からだが浮き上がるのを感じました。ペキは手足をバタバタさせましたが、手ごたえがありません。やがて「ブスッ」と鈍い音がして、ペキは気を失ってしまいました。一方グリーニカも何が起きたのか分かりません。、はげしい羽音がおそってきて吹きとばされたと思った時、もう、そばにいたペキの姿は見えなかったのです。(つづく)
2016年06月04日
コメント(13)

「また、あした。」の出版2006年から始めたブログでしたが、「90歳のおばあちゃんブロガーとしてマスメディアに頻繁に取り上げられるようになって、多くの方々に知っていただくことになりました。2012年10月、毎日のブログ記事のなかから選んだ40編をまとめて「また、あした。」を扶桑社から出版できることになりました。書籍の内容紹介では次のように記述されています。『70歳から油彩画を始め、80歳でパソコンを購入、84歳でブログを開設! アクセス1日2000件。徳島に、すごいおばあちゃんがいた! 「さっちゃんのお気楽ブログ」待望の書籍化! 第1章「思い出」、第2章「日常」、第3章「孤独」、第4章「楽観」日々の発見、小さな感動、前向きに生きる喜び。6年間のブログの中から、珠玉の40作品を掲載。「さっちゃん」の水彩画とエッセイに、心癒され、明日への希望と生きる勇気が湧いてくる――。「さっちゃん」こと、堀江幸子さんの軌跡も紹介します。』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さっちゃんは「また、あした。」のあとがきで次のように述べています。幸せだと思うことは人それぞれに色々ありますが、自作の絵と文章を毎日多くの方々に見て頂けるという幸せを、ブログを始めて知らされました。毎日描いていると絵も上手になり、文章も書き慣れて楽しくなってきました。こんな幸せがあるとは思ってもみませんでした。日本中はもちろん外国におられる方がた毎日二千人もの方が見てくださると思うと嬉しくなります。「お気楽に」と思いつつも力が入ってしまいます。昨年末ごろから新聞社やテレビ関係の方が「九十歳のおばあさんブロガー」として報道していただくようになり、今回は扶桑社の小川様のお骨折りで本をつくってくださることになりました。毎日楽しく描いてきた水彩画などが、広くブログを見ない皆様にも見て頂けることはほんとうに嬉しいことだと思います戦争で奪われた貴重な青春時代をこうして与えてもらって良かったと思っています。同級生の中には、戦後の厳しい時代に生きてきてようやく豊かになったとき病に倒れて逝った人も多いのです。私は幸い長寿に恵まれて本当にありがたいことだと感謝いたしております。
2016年06月03日
コメント(13)

さっちゃんがブログを始めたのが2006年2月9日でした。最初は絵手紙や水彩画や油彩画などを入れて簡単なコメントを書き込む程度でしたが、それ以来亡くなる2016年5月初旬まで10年余り殆ど毎日欠かさずブログをアップし続けました。その記入率は驚異の98.7%で、総アクセス数は400万を大きく超えています。みなさんに見て頂くのがさっちゃんの大きな楽しみでした。さっちゃんは毎日、ブログができると私に携帯電話で「アップしたよ~~」と連絡してきて、毎日あったことを30分~1時間も話していました。施設にお世話になるまで、一人で暮らしていたのでブログがアップされると今日も無事終わったのだとほっとしたものでした。施設に入ってからも、これは続きましたが、やはり周りにお世話頂く方がいてくれるというので随分、気持ちは楽になったものです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さっちゃんはかつてブログについて次のように述べています。私は食べること、しゃべること、歌ったり、踊ったり、などみなさんが楽しんでおられることが不得手で、自信がないので、ついつい消極的になりがちでしたが、その代わりに、ものを作ることが好きになりました。友達からすすめられて、ブログを始めて6年あまりになりますが、先日3000回になりました。毎日文章を作る楽しさに月日がたつのも忘れております。思えば小学校の時は夏休みの作文の宿題に悩み、雑誌に掲載されている作文を真似して書いて母に叱られたことも覚えています。女学校の時は「修養日誌」を毎日書いて担任の先生に提出するよう決められた時、はじめは書くことがなくて困っていましたが、出来事だけでなくて、感じたことや考えたことを書くことを覚えました。友人との交換日記なども、文章を書く練習になったと思います。ブログを始めてからはいつでも、自由に書けるようになり目に付いたことや、ふと、思いついたことなどなにからでもテーマにとりあげています。それに70歳から始めた油絵の勉強のお陰で、描写に必要な観察力も、いつのまにか身についてきたように思います。ブログに書き込む文章を考えるのは面白くて楽しく書いているうちに、お話ができてくることがあります。
2016年06月02日
コメント(13)

退職後、さっちゃんは次々と新しいことに挑戦してきました。短歌、油絵、パソコン、水彩画、ブログ、エッセイ、童話彼女の才能もさることながら、どれも持ち前の好奇心と粘り強さを発揮して素晴らしい成果を残してきました。そして興味は更に広がって漫画にも挑戦することになりました。面白そうとブログの中で連載してきた漫画をまとめて自作の漫画本「ペキとポコ&メー子」を自費出版することになったのです。ただ、この「ペキとポコ&メー子」がさっちゃんの遺作となりました。漫画本を作ると決めた日のことやその半年余り後、完成した喜びを綴った日のブログ記事です。2015年10月12日の記事より「ぺキ、ポコ、メ―コの漫画の本を作るよ」さっちゃんが描きためたマンガが50編あまりになりました。ブロ友さんが半年ほど前にコピーして作ってくださったのを時々出して見ています。この際こんな本を作って、も一度読んでみたい方に見ていただこうかしらと考えています。そのうちにうまくできるかもしれません。期待して待っていてください。ぺきちゃん、ポコちゃん、メ―コたちも喜ぶでしょう。2016年04月30日の記事より「ペキとポコ&メーコ」の漫画の本ができました<お知らせ>今日さっちゃんの漫画の本ができあがりました。「ペキとポコ&メーコ」 32ページです。おととしのクリスマスのプレゼントにいただいたかわいいぬいぐるみのわんちゃんとあおかえると干支の羊が登場するおはなしです。みなさん、僕たちと仲良くしてちょうだい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さっちゃんは本の冒頭、次のように述べています。この本に登場するのはペキ(青蛙)とポコ(犬)と、メー子(羊)です。一昨年のクリスマスにお友達からプレゼントとしておくってくださいました。犬のポコちゃんは、まるまる肥えていていつも無邪気な表情で見つめてくれます。蛙のペキは、細い手足を広げて、口元を一文字にしていばっています。ちょっといたずらっぽい表情です。毎日見ていると、ぬいぐるみなのに心が通っているような気持ちになってきて自然にお話が出来上がってきます。そして青蛙のペキの童話の本が出来ました。そのうちにマンガにすれば、二人の表情や動作が面白いだろうと思いつきましてブログに載せてみました。描いてみると面白くなって、アイデアが浮かんだら楽しんで描きました。羊のメー子は、お正月の干支の羊の置物を頂いて仲間入りしました。こうして三者三様、個性豊かで、これからも楽しみにしております。 堀江 幸子
2016年06月01日
コメント(13)
全26件 (26件中 1-26件目)
1